ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年12月29日
 コミケ3日目(12月31日)に第二次惑星開発委員会が頒布予定の同人誌『PLANETS SPECIAL 2010 ゼロ年代のすべて』(宇野常寛責任編集)で「ゼロ年代カルチャー総括座談会」という企画の「漫画編」と「小説編」に参加しております。そのほか、ドラマ『つばさ』からアニメ『らき☆すた』からマンガ『元バレーボーイズ』までまで、00年代に埼玉を舞台にして発表されたサブ・カルチャー作品の短い総論(郊外論)みたいなものを書きました。詳しくはこちら http://www.geocities.jp/wakusei2nd/p0 を御覧ください。
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2009年12月27日
 ARISA 3 (講談社コミックスなかよし)

 願い事をエサにしながら2-Bの生徒たちを影から支配する「王様」の正体は誰なのか。そして時季外れにやってきた転校生、玖堂レイの知ったふうな行動が意味するものは何か。自殺を試み、意識不明の重体に陥った双子の妹ありさになりすまし、彼女をそこまで追い詰めた原因を、真相を探るべく、姫椿中に潜入したつばさの前に立ち現れてくるのは、新たな謎、謎、謎、謎ばかりであった。3巻に入ってもなお、先の見えないサスペンスを深めているのが、安藤なつみの『ARISA』であるが、このマンガの本質はやはり、学校や教室という狭い世界に構築された同調圧力のパニックだろう。あるいはそのパニック下において利己的にならざるをえない人びとに対し、孤立無援にも抗うヒロインの姿が、『なかよし』という掲載誌の本来の読み手である年齢層に適切な印象と、勇敢なドラマを織り成しているのである。「王様タイム」と呼ばれる儀式に新しく書き加えられたルールのせいで、クラスメイトたちがみな足を引っぱり、出し抜こうとするサヴァイヴァルの要素がつよまった。こうした設定は、今様のバトルロイヤル的なシミュレーションを採用しているといえる。脱落者や犠牲者の数が増えれば増えるだけ、主人公に課せられる使命は重たくなってゆくのだ。が、しかし、本作が興味深いのは、そうした主人公が本質的には外部の(あるいは外部からやって来た)人間にほかならないことであって、彼女の介入によって閉塞した状況が改変されるという仕組みを持っている点だと思う。これはもちろん、事件の内輪にいなかった人物に探偵役を要請することで未知の条件が次々リサーチされる、式の、ミステリのジャンルのオーソドックスなパターンに倣っていると見てよいし、じっさいそれがサスペンスをつくっているのだけれども、同時に価値観の固定された共同体のなかに別個の価値観が持ち込まれる、というような構造上の、大きな特徴を兼ねる。ここで注意しておかなければならないのは、『ARISA』における教室が、社会の縮図や何かの比喩ではなく、ひじょうに直接的な舞台装置として使われていることであり、それが作品自体の共感度を高めていることである。いやたしかに、親や教師の類、要するに大人がほとんど物語にタッチしてこないのを、批判するのは可能だし妥当だ。中学生の一存で生活のあらかたが語られてしまうのは不自然ですらある。だが、社会や家庭をまるっきり括弧にくくってしまってまで、学校や教室という狭い世界が再現されているのだと考えたい。すでに述べたとおり、その、狭く狭い、閉じられた世界ならではの同調圧力が、「王様」なる象徴的な存在を、生徒たちの上位に機能させているのは、疑いようがない。ヒロインのつばさは、そうした世界の外部から別個の価値観を持ち込み、動揺を誘う者であった。そしておそらく、転校生の玖堂レイもまた、つばさとは異なるベクトルの価値観を外部から引き入れる者なのだろう。はたして両者の邂逅は、自分たちのアイデンティティを他に委ねてしまったかのような2-Bの生徒たちに、悲劇以上の影響をもたらせるのか。依然、スリルは増すばかり。

 2巻について→こちら
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2009年12月25日
 かつて父親の愛人が述べた。「彼がね」「締まりのない顔をして眠るの」「あたしの腕の中で こうすっぽり収まって」「子供みたいで愛しくて たまらなく幸せで」「それはもう」「中毒みたいな幸福で」と。まだ幼かった日の水帆は、まさか自分がその言葉の意味を理解するときがくると思ってはいなかった。〈ずっと自分には無縁だと思ってたけど なんとなく深みにハマる人間の気持ちがわかる〉そして〈何かが崩壊する〉のだと感じる。亡くなった高校の同窓生、折口はるかが抱えていた秘密をめぐり、当時、彼女と接する機会のあった人びとの群像を、サスペンスのタッチで描き、追う、芦原妃名子の『Piece』、その3巻では、主人公であり探偵役である女子大生の水帆と、謎めいた屈託を持ったまま青年となった成海とのあいだに、はたしていったいどのような関わりがあったのか、これまで仄めかされながらもぼかされていた過去の一幕が、回想のシーンをおもにして繰り広げられることとなる。作品の性質上、あまりにもネタを割るのは避けたいので抽象的な言いになってしまうが、そこにあらわされているのはたぶん、あらかじめ庇護者としてあるような存在からはからずも欠損を与えらてしまった人間の孤独、だろう。そうした孤独を通じ、高校時代の水帆と成海は、まるでタイプは異なっているにもかかわらず、惹かれ、親密になってゆくのである。しかしながら欠損は同時に、コミュニケーションの線上で、距離が縮まるなか、翻って最大の障壁になりうる。障壁にぶつかった途端の混乱は激しく、二人の持った傷は、閉じられることなく、いやむしろひろがり、せいぜい隠すよりほかなくなるのだった。それもやむなしとしていた彼女たちが、やがて再会し、いかにして自分の、あるいは互いの欠損を回復させるのかが、おそらくは本筋に被りつつ展開されているテーマなのであって、これはもちろん、作家論的に考えるのであれば、以前の『砂時計』に相通ずるものだといえる。『砂時計』がそうであったように、『Piece』のいくらかメロドラマふうな波瀾万丈は、たしかに見え透いてはいる(ベタだとかのじつは何も語ってはいない評価でさもえらそうに見てもよいよ)。だが、主体において内面なる項がもしもあるのだとしたら、こんなにも容易く肥大するのだし、大きさのぶんマトもでかく、逃れられずにダメージを受けたところがひどく痛むのだ、という苦悩を、なるたけ実直に表現しようとしている所作が、コマ割りのダイナミクスにまで及び、ぐっとエモーショナルな運びを成立させていることは、決して否定できない。水帆の自意識に顕著なとおり、このマンガに登場する人物たちにとって過去は、べつの結果には取り替えられない苦悩として、あらわれている。繰り返しになるけれども、閉じることのない傷のようなそれを、何とかして隠そうとする自己の弁護が、暗くひずんだ欠損を、反対に強調し、認識させるかっこうとなってしまっているのである。当然、どれだけ悔いても過去をやり直すことはできない。取り繕うことはできるかもしれないが、本質的な解決にはならないのだと、大学にあがってもなお、欠損を埋められずにいた水帆の、失恋は教えている。だからこそ彼女は別れた相手を早々に諦める自分に対し、さらにはふたたび成海を目の前にした自分に対し〈目を閉じて 感情を閉じ込めて その先は? ただ ぽっかりと空白が広がってるだけじゃないのかな?〉と、問いかけたのではなかったか。ここで確認しておかなければならないのは、あくまでも『Piece』は、もはや選び直すことのかなわない過去ではなく、これからを選び取ろうとする現在を、直接の舞台にした物語だということだ。すべての回想シーンは欠損の在処を指すものでしかないだろう。そして必ずやそれは埋められる。そう信じられるだけの説得力が、幸福な未来を望む視線の先に、示されようとしている。ただし、そこへと行き着けるかどうか、少なからぬ困難が残されたまま。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他芦原妃名子に関する文章
 『月と湖』について→こちら
 『砂時計』
  10巻について→こちら
  8巻について→こちら
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2009年12月24日
 今やこの国のマンガ界でほとんど唯一といっていいほど、バイオ・パニックあるいはサヴァイヴァル・ホラーを専門としている作家が藤澤勇希になるのだけれども、その新作である『ワルタハンガ〜夜刀神島蛇神伝〜』もやはり、人災であれ天災であれ、厄難にも苛酷な状況に閉じ込められた人びとが、出し抜き、助け合い、何とか生き残ろうとする必死さにドラマを担わせた内容であることが、1巻の段階からしてうかがえる。不況にあえぐ日本、勤務していた会社に倒産された三十路男性の八尋は、ケーブル・テレビのUMA情報番組の最後に賞金5千万円のツチノコ捕獲ツアーが募集されているのを見、なけなしの金をはたいて参加することにしたのだったが、目的地である夜刀島にはいくつもの不吉な伝説が残されていた。たまさか出発時に再会した会社の同僚で、UMAマニアの笠原という女性が言うには、その島には何度も何度も調査隊が送られたにもかかわらず〈上陸した隊員の中で――――島の奥まで調査に踏み込んだ者は――――生きて還ってことなかったんだって――――誰一人――――〉。しかしそれも〈所詮はただの――――伝説だし――ね――――〉と侮る笠原だったけれど、上陸してしばらくしたのち、ツアー参加者の一人が何かに襲われ喰い殺されているのを目の当たりにしてしまう。まさか、ほんとうに実在したツチノコの仕業なのか。次々と犠牲者が出るなか、迎えの船がふたたび島にやって来るまでの10日間、正体不明の恐怖におびえながらのキャンプがはじまる。作者のこれまでからすると、舞台のスケールが狭く、被害の規模が小さいためか、正直、序盤のインパクトはやや弱いかな、といったところ。また、いやな奴らだねえ、と思わせるずっこけ悪人が、ある種の閉鎖空間における秩序を乱す役割を負っているのは、過去作にもよく見られたものであるし、それ以前にこうしたフィクションのパターンであって、スリルの発動も若干鈍い。しかしながら『BMネクタール』の頃から一貫するような、経済や環境レベルの危機感を叩き台にして、大人と子供の対照のうちに、現在と未来とを繋ぐ倫理を探ろうとする手つきに、ひじょうに真摯な問題意識が浮かんで見える点は、決して変わらぬことが逆に頼もしく。

・その他藤澤勇希に関する文章
 『レギオン』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『メトロ・サヴァイブ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『エレル』全2巻について→こちら
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2009年12月23日
 サムライソルジャー 7 (ヤングジャンプコミックス)

 つい先日に出た『THE BEST MANGA 2010 このマンガを読め!』の「マンガ時事放談2010」という座談会のなかで、呉智英の「最近、ヤンキーマンガが売れているね。でもヤンキーマンガが好きな人って基本的にマンガ好きじゃないんだよ。感情移入しているだけでしょ」という発言を受け、いしかわじゅんが「一部のものを除いて、ヤンキーエピソード集、ヤンキー出世物語だよ」と言い「ヤンキーマンガが堕ちたっていったらなんだけど、作品ではなくなっているような感じが俺はしてるんだよ。日本人は(略)みんなマンガというインターフェイスを使って読むことが出来るから、それを通して猫とかヤンキーとかという素材を見ているだけ。だからあれはマンガじゃないんだろうな」と言っている。これはたしかにそのとおりなのであって、『漫画ノート』で高橋ヒロシや田中宏の存在をしっかり評価していた、いしかわの言葉だけに相応の説得力がある。が、たとえばそのジャンルをいちおう熱心に追っている者にしたら、そこで批判されているのは、具体的な作品名は挙げられていないものの、あれやあれらのことだろうな、たちまち推測できるからよいのだけれども、そうではない人たちからしたら、問われている質の違いをよくわかれないのではないか、と思う。これはもちろん、ヤンキー・マンガをめぐる言説が貧しいことの弊害にほかならない。

 さしあたり、そうしたジャンルの現在における質の高さを見るのであれば、メインストリームを張っている高橋ヒロシのフォロワー群をあたるよりも、そう、この山本隆一郎の『サムライソルジャー』を読まれたい、というのが個人的な意見である(ほんとうは前作の『GOLD』から読んだほうがいい)。絵柄や構図、ストーリー展開には、高橋の影響を思わせるところが少なくはないのだが、それを安易な模倣ではなく、クリティカルな技法の域にまで押し上げ、磨き、さらにはテーマのレベルで、先行する作家たちによる漏れを拾い集めながら、もっとずっとより深いものを模索し、描き出そうとしているためである。いしかわがいう「一部のものを除いて」の一部に、はたして『サムライソルジャー』が入っているかどうかは知らないが、今日のヤンキー・マンガを語るさい、まったく無視してよいような作品では、決して、ないだろう。そのことは最新の7巻に入り、なおもつよく実感される。

 すべての引き金であった桐生達也が不在のまま、激しく対立し合う『ZERO』と『渋谷連合』の抗争劇は、次々、凄惨な場面を招きつつあった。両者の諍いによって最悪の事態が訪れるのを何としても止めたい藤村新太郎であったが、しかしその奔走も空しく、かつての仲間である柿沢丈太郎(ジョー)が、『渋谷連合』のトップである鮫島正平との対決に敗れたばかりか、ひどい仕打ちを受け、重傷を負わされたのを見、激昂する。鮫島の旧友でありながらも現在は『ZERO』の幹部に籍を置く神波多ナオトは、ジョーを欠いてしまったことに責任を感じ、単身、過去の因縁に決着をつけようとするのだけれども、『渋谷連合』で下部の指揮を任されている市川佑介の狡猾さが、ついには彼にも危機をもたらしてしまう。というのが、この巻のあらましである。こうしたプロットを動かすにあたっては、不良の世界でのし上がり成り上がろうとする若者たちの野心や、血なまぐさい武力行使を経なければそれを達成できない状況の成立が、最大の推進力となっていることは疑いようがない。前者はもちろん、ヤンキーやギャングを題材にした立身出世譚のヴァリエーションとして見られ、後者に関しては、国盗り合戦、軍記物のヴァリエーションとして見られる。現在、ヤンキー・マンガのジャンルにある作品の多くは、おそらくほとんどこの段階に止まっているといえる。そしてそこには表現として高く買うべき点はあまりないだろう。所詮はイディオムのトレースにすぎないのだから、だ。が『サムライソルジャー』において重要なのは、あくまでもその先に行ってこそ示されなければならない、かのような手応えをちゃんと掴んでいることなのであって、フィクションにおけるリアリティがたんなる現実の反映に終わってはいけない、新しい共感や倫理の可能性を作中に抱こうとしていることなのである。

 過去にも述べたとおり、そうした可能性の大枠は、主人公であり、いったんは渋谷の不良(ガキ)を卒業したにもかかわらず、状況に要請され、致し方なくストリートに舞い戻った藤村と、彼のライヴァルであり、渋谷の不良(ガキ)をまとめ、いつまでも大人にならないことの許されたパラダイスを、モラトリアム下に構築しようとする桐生の、二人の対照に委ねられているといってよい。現時点における桐生の失踪はしかし、藤村の側に多くの役割を持たせることになるだろう。ジョーに対する『渋谷連合』の度の過ぎたやり口に怒った藤村は、はからずも市川の罠にはめられたナオトが立たされているその窮地へと介入してゆく。ここでの彼のセリフ、言葉、存在感はどれも大きい。はたして彼が、大勢を向こうに回し、ひるまず〈忘れてた 忘れてたわ 不良(ガキ)の世界を 解散しろだの んな言葉ひとつも意味がねえ 殴るか殴られるか それしかねーのが 俺ら不良(ガキ)だもんなぁ?〉と述べているのは、不良(ガキ)の世界の、暴力の肯定であろうか。いやそうではないことが、まざまざうかがえるほどの憤りを藤村に蓄えさせているのだ。それを眼のあたりにした市川が〈なんだこれはッ!! なんで俺は こんなにビビってんだ!?〉と尻込みしながら〈…だめだ こいつはだめだ! こいつに何やっても 俺は 勝てる気がしねえッ!!!〉とスケールの違いを認める描写は、ひじょうに重要だ。

 ヤンキー・マンガの表現ではしばしば、主人公にぶん殴られた敵役がなぜかその途端に改心するという不思議な現象が起こりがちである。これは高橋ヒロシの『クローズ』における坊屋春道(つまり90年代)ぐらいまでは、己の信念を曲げぬ硬派の概念が一般的に信じられていたため、主人公がそれを実践しているのだという喩えとなり機能し、相応の説得力を有していたのに、今やどうしてなのかも問われないぐらいに汎用化されたイディオムでしかなくなってしまい、あたかもエスパーのごとき神通力とさほど扱いが変わらなくなってしまっている。高橋のフォロワーであるような多くがたいへんだめだめなのは、にもかかわらず自分たちはリアリティを押さえ、真摯に男の生き方を描いていると勘違いしている点であった。すでにいったが、山本隆一郎のルーツも、たぶん他の作家とそうは変わらない。藤村のすさまじさを目撃した『渋谷連合』の一人が〈…もし喧嘩に 不可欠な要素があるとすれば 次の5つ “殺気” “腕力(パワー)” “反射神経(スピード)” “打たれ強さ” “喧嘩センス” 喧嘩で名前の売れてる奴は たいていこのうち どれかがズバぬけている〉と解説者よろしく、主要な人物のプレゼンテーションをはじめてしまうくだりは、良くも悪くも、この手のジャンルが発達させてきた作法にほかならない。しかし話を戻すなら、市川が藤村をおそれるのは、そうした喧嘩の強さのみを正確視するのとはべつの、何か、によっているのはあきらかだ。その、何か、すなわち過剰なヴァイオレンスのなかにあってさえ、間違いなく正しいと認識される共感や倫理はあるのだと証明し、たっぷりの技術を注ぎ込みながら、精確な理由付けを果たそうとしていることが、物語の魅力を為しているのであって、テーマの深みもそこに生まれている。

 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 外伝「吉田薫」について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
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2009年12月21日
 爆麗音-バクレオン 6 (ヤングジャンプコミックス)

〈また…泣いているね? フロイライン… / ……苦しいのかい? その為…じゃない… / …その為じゃないんだ…フロイライン / 人は決して苦しむ為に生まれてくる訳じゃないんだよ? ヴィオレッタ…〉

〈あぁ…これは… / ……この歌は… / …自由だ…とても… / まるで風のように…〉

 いやはや『爆麗音』、まさか佐木飛朗斗(原作)と山田秋太郎(漫画)の相性がここまで良くなるとは思っていなかったし、正直、なめてはいけないものになりつつあるな、という気がする。作中に主要な人物が出揃い、それらの運命が密接に絡まり、物語のデザインに確固たる輪郭が見え出したこの6巻から、もしかしたら本編というに相応しい段階に入っているのかもしれない。じっさい、主人公である音無歩夢や、印南烈、麻生道夫、ヴィオレッタが、ようやく一つのバンドとなり、音楽で武装、巨大な世界の価値観を眼前にしながら、各々の試練や使命と相対するような展開を見せはじめている。

 しかしまあ、歩夢たちの組んだバンドの名前こそが、ずばりタイトルの爆麗音となるのだけれど、それを決定するエピソードには、佐木の諸作品にしばしば顕在する次のようなテーマ、すなわち中途半端にアメリカナイズされた日本人はそのアイデンティティをいかにして扱うべきか、をうかがうことができる。たとえば烈が、バンド名を〈漢字で行こーぜ ぜってーッ!!〉と言い〈っつーかよ“オレらのバンド”の名前をよ――……世界基準にしちまおうぜ〉と主張するのに対し、他のメンバーが意見を一致させているのは、おそらくいかなるアイデンティティも今や、グローバル化されることでしか、価値の認められないことを暗示している。ただし、それが正しく間違えていないかどうかの判断は、後々の展開によって弁証されることになるのだろう。そもそも、四人で決めたはずのバンド名は爆烈麗音なるものであったにもかかわらず、ちょっとした手違いで爆麗音の三文字に誤り改めてしまわれたように、である。

 他方で、現代において血縁や家庭がアイデンティティの助けになりうるか、という問題もそこかしこに浮上している。歩夢も烈も道夫もヴィオレッタも、あるいは彼ら以外の大勢が、寄る辺となるべき家族のすでに壊れた場所を生きている。たいがい佐木の原作しているマンガでは、登場する人物たちはみな、父母の有無は関係なしに、大人であること子供であることの垣根もなく、孤児に近しい寂しさを抱えさせられているのだが、それは『爆麗音』も同じ。ヴォーカルの面で歩夢をサポートする弥勒織顕が、自らの出自を呪って〈ボク自身“醜い一族”の中で 自分を道化の様に感じていたしネ! でも“崇高な愛”とされる自己犠牲ですら自己愛の一つにすぎないのかも知れないなら…地上の“蛋白質と塩基配列”を汚濁と判定しないのなら…“汚い人間”など決して存在しないと思うんだ!〉と述べているとおり、すべてがゼロさもなくばマイナスのなかからいかにして在るべき評価を構築するか、そのプロセスにおいて、音楽は必要とされ、生まれているのだ。そしてそれは過去にもいったように、『特攻の拓』の、あの天羽時貞が鳴らした悲劇の残響を引きずっている。

 連載時期を並行しながらも先に打ち切りを思わせるかたちで終了した『外天の夏』のアイディアが、ぼちぼちこちらへと流れ込んできているかな、と推測させるところもいくらか出てきている。若くしてパンク・ロックの権威となったジョン=ハイマンのぶっている演説などが、そう。彼は〈世界を見てみろよ?〉と言う。〈もはや人類は 旧世界の尊く偉大だが「感じられぬ者には意味を成さない」“人間の限界”に見切りをつけて 莫大な価値を無に帰そうとしているのさ…地上に残されるのは「低コスト・量産性・エコロジー」を謳い “尊く偉大なもの”に似せながらも“真逆”の収益性と「簡単便利」を誇るだろうよ…〉と。はたして〈いったいこの現実をどう取り繕えるのだろう…〉と。そうした資本制そのものに対する懐疑は、ふつう音楽マンガとジャンル視される作品には、あまりあらわれないものだろう。

 真逆であること、この世界を駆動させている価値観がじつは本質の裏をいっているのであればひっくり返して元に正すこと、このような思想の立て方は『外天の夏』で、ヤンキーや暴走族のアウトロー、アウトサイダーに託されていたものであった。が、それが『爆麗音』では、ロック・ミュージックに取り組む若者たちの姿を借り、変奏されているのであって、歩夢がバンドでつくったオリジナルの新曲を「真逆の世界」と名付けるにあたり〈この曲は題名が先に在って…ずっと前から決まってるんだ…〉といっているのは、じつに象徴的だ。

 さりとて、佐木の、ときには物語をも破綻させてしまうまでの抽象性(ポエジー)を、作画という具体のレベルでフォローする山田のすぐれた筆致を見過ごしてはなるまい。音楽マンガとしての質、ほんらい目には映らない音の出力を、どうやって紙の、平面の表現に張り付け、説得力を持たせるのかも、当然その、技術の高さによっている。すくなくとも演奏シーンのかっこうよさ、とくにレスポールのギターをぶんと振り回しながら弾きながら歩夢が発するダイナミズムはすばらしく圧倒的、ここ最近の音楽マンガの内では随一だといえる。どのようなサウンドであるかまでは必ずしも確定できないにしても、パワフルでいてヘヴィであることは間違いなく伝わってくる。またメロディアスなナンバーにあっては、それがとてもやさしく澄んだ曲調を持っていることが、実感されるほどに再現されているのである。

 バンドのプレイを前に、歩夢の妹である樹里絵は言う。〈お兄ちゃんは“弱い生き物”なんかじゃない…!! この人達は…… / この人達はそうなんだ… / 音楽で命を炸裂させる“生き物”…!!〉と。これは歩夢たちバンドの方向性のみならず、作品が辿り着こうとしている彼方をも教えているに違いない。もう少々踏み込んだ話をするのであれば、『爆麗音』のほとんどの人物が、何かしらの救済を得るための手段として、音楽を選んでいる。ただしたぶん、歩夢だけは違う。彼にとっての音楽は、手段ではなく、あくまでも目的なのであって、それを奏でること自体が魂を解放させているかのような幸福を、興奮を、その表情は有している。主人公にのみ与えられた特権性は、なるほど、ストーリーの域とはべつに、そうして描写されているのだった。同時に、山田が作画の面で果たしている貢献の大きさを思わせる。

 だいたい、と、すこし冗談めかしていうのだけれども、いや半ば真剣に、作中で重要なアクセントとなっている樹里絵のひねくれた可愛さにしたって、山田の絵にかかっている点が、かなり、だよね。大人びた彼女の幼い恋心が、そりゃあもうたいへんキュートに描かれているのはもとより、音楽への憎しみがいつしか氷解しつつあるのを微妙なタッチの変化で示しているのも、ひじょうにうまい。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら  
 1巻・2巻について→こちら

 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『外天の夏』(漫画・東直輝)
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他山田秋太郎に関する文章
 『解錠ジャンキー・ロック』1巻について→こちら
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2009年12月20日
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 はたして『Kis-My-Ftに 逢える de Show』か、といえば、もちろん逢える、逢えたよ。というわけで、昨日(19日)の夜は、ジャニーズの新鋭である7人組、Kis-My-Ft.2(以後、キスマイ)の初となる単独ツアーに参加するため、横浜アリーナへと行ってきたのだが、そのコンサートの内容は、なるほど、未デビューのグループでありながらもジャニーズJr.として場数を踏んでいる経験が、フレッシュであることとソツのないこととを適度なバランスでキープし、今できるかぎりのアトラクションを今できるかぎりのポテンシャルでアピールするのに相応しいものとなっていた。

 光GENJIよろしく、ローラースケートの滑走を一つのトレード・マークとしているのがキスマイなのだけれども、アリーナ席をぐるりと取り囲むかたちでロード状に組まれたセットに、バンクありSの字あり、かなりユニークなデザインが施されていたのは、必然それを生かすための工夫であって、じっさいパフォーマンスのほうも、中央に設置されたメインのステージにこだわることがないほど、縦横無尽なものであった。いやつねにローラースケートを履いているのではないのだが、ステージの特殊な構造は随所で演出上の変幻自在さを高めていたように思う。

 さて、勢いよくキスマイが飛び出し、オープニングを飾ったナンバーは、アップ・テンポなミクスチャー・ポップといえる「Kis My Me Mine」で、その爽快な出だしがたちまち気分を盛り上げる。基本的に、バックのサウンドはすでにレコーディングされているトラックでしかなく、要するにそこにヴォーカルが載るだけのカラオケに近い仕様なのだが、なぜかドラムのパートのみQuestion?の淀川くんが生で演奏していて、リズムにアタックの強さが加わっていたのは、ライヴのシーンに即し、跳ねるような勢いを効果的に加速させていた。続いて「千年のLOVE SONG」に「Kis-My-Calling」と、ファンにはお馴染みの楽曲が次々繰り出される。コミカルな自己紹介を歌詞に盛り込み、テーマ・ソング的な意味合いを持つ「Kis-My-Calling」の一節は、のちほどのゲーム・コーナー(大喜利)で何度も繰り返されることになる。

 中盤、ソロ・コーナーで宮田くんがNEWSの「恋のABO」を、そして先ほど触れたゲーム・コーナーを挟み、先輩グループのナンバーを借りたメドレーに入ってゆく。滝沢くんの「ヒカリひとつ」、KAT-TUNの「喜びの歌」、嵐の「WISH」、このへんはキスマイ自身がそれらのバックで踊った過去があることを踏まえるなら、キャリアを振り返るような意味合いを持っていただろう。そうした流れを受け、もっと旧いところへと、今度はジャニーズの歴史がプレイバックされはじめる。SMAPの「らいおんハート」、V6の「太陽のあたる場所」、光GENJIの「太陽がいっぱい」ときて、光GENJIの「パラダイス銀河」と自分たちのオリジナル・ソングである「Endless Road」を、マッシュ・アップというか、ミックスし、ルーツから現在までの連続性をあきらかにしながらさらには光GENJIのナンバーである「STAR LIGHT」を繋げ、先般「ミュージックステーション」でも披露された最新の楽曲「テンション」を持ってくる趣向は、じつにおもしろい。ひじょうにコンセプチュアルなものを感じさせる。

 また、MCの後ほどにはメロウな「雨」や「祈り」などをクッションとし、少年隊の「仮面舞踏会」をカヴァー、その少年隊の役割を継ぎ、今年に主演したミュージカル「PLAYZONE'09 〜太陽からの手紙〜」の内容を一部分引っぱってくるのも、まだ曲数が十分とはいえないグループにとって、同じナンバーを何度も繰り返すより、有意義な構成になっていたと思う。ミュージカルで共演した屋良くんや内くんがVTRでキスマイとコメントのやりとりをする演出にしたって悪くない。個人的には、「PLAYZONE'09 〜太陽からの手紙〜」の楽曲はともかく、せつなさを潤わせるぐらいにメロディのやさしい「雨」に、そうそうこれを聴きたかった、と肩を震わせられてしまった。

 たしかMCで、後半はクールなキスマイを見せる、みたいなことをいっていたが、このグループにおいてクールとはすなわち、ハードでありヘヴィでありセクシーな方向性であることが、「Hair」や「FIRE BEAT」、「街角DEEP BLUE」の、KAT-TUNの後継ともとれるアグレッシヴな、今ふうの言葉でいうならオラオラ系のアプローチにより示される。しかしすでに「FIRE BEAT」は完全なアンセムではないか。フロントを兼ねる2人、北山くんがラップ調のヴォーカルで煽れば、藤ヶ谷くんがやはりラップ調のアジテーションで応える出だし、そこにはキスマイの若さと躍動、今ここを逃してはなるまいとする負けん気が、はちきれんばかりに漲っているだろう。うんうん、大好きだよ。

 本編を締めくくったのは、ラヴ・ソングのなかに感謝と別れの気持ちを織り込んだ「Good bye, Thank You」であった。その、甘く、たしかに黄昏れてはいるが、しかし伸びやかなバラードは、ラストのワン・シーンにはぴったりとくる。メンバー一人一人が最後の挨拶をし、ステージを去っていったあとには、たっぷりの余韻が残る。アンコールでは「千年のLove Song」などが披露されたおよそ2時間半は、他のジャニーズのグループが行う公演に比べ、決して長いとはいえないものの、とかく盛りだくさん、満足のいくアトラクションがぎっしりと詰まっていて、ああ、ほんとうに楽しかった。
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2009年12月19日
 あの頃、という過去回想形式の、ポエジーを含んだモノローグに引っぱられるラヴ・ストーリーとして、持田あきの『君は坂道の途中で』は、ひじょうに満足のいく完結を迎えられたように思う。物語の時制を握っている主体が、はたして作中のどの段階からそれを述べているのか、この3巻に描かれているエンディングがすべてを明かし、そしてさらには幸福で感動的な印象をもたらしている、そのため、たいへん晴れやかな気分で閉じられた幕の向こうを想像することができるのだった。亜由と千治の、幼くとも純粋であった恋の行方を〈千治、この街で 私達は数え切れない程のキスをしたね 思い出していたよ 坂道の途中で 苦しいくらいの恋をしたね ふり返るとまぶしい この陽の照る坂道で〉と締めくくるラストには、そこまでの道筋はぜんぶ無駄じゃなかった、必ずや意味のあるものだった、と信じさせるだけのカタルシスが備わっている。たしかに、少女や少年が、恋愛を通じ、いかにして成熟してゆくか、の観点からしたら、もっと掘り下げるべき点はあったかもしれないし、全般的に甘く、少女マンガに定型的なエピソードの積み重ねを逃れてはいないかもしれない。だが、なるたけショッキングな展開を避け、それでいて日常のなかにいくつもの困難を感じる主体が、逃げず、引き受けていくことで、いや間違いなく正しい選択をとったのだと主張する内容は、決して否定されるものではない。むしろ、他愛なくささやかな出来事の数々を、ドラマティックに盛り上げて賑わす作法は、2巻強のサイズでまとまっている物語に、十分な手応えを与えてさえいる。クライマックスにさしかかったあたり、とある事情により周囲の人びとといったんの別れを経なければならなくなったヒロインの亜由は、次のように言う。〈本当は不安 皆のいない世界に行くの でも皆が照らしてくれる未来なら きっと大丈夫な気がする〉と、そうして目の前の悲しみを許諾しながら、前向き、進んでいった未来に、見返り、報われるだけのミメントが用意されているのは、すでに述べたとおり。このとき、作中の事象を一通り経験してきたのちに発せられる過去回想形式のモノローグは、その利点を、最大限に生かされているのである。『君は坂道の途中で』において、過去回想形式のモノローグが、安易なアイディアを採用した結果ではなく、かなり意図的に凝らされたものであることは、サイド・ストーリーにあたる「番外編ベツサカ」や、本編と舞台を同じくするアナザー・ストーリーの「特別編アコースティック」の、二篇の読み切り作品が、表面上は近しいテーマを抱いているにもかかわらず、まったく違った語り口を持っていることから、明らかだろう。いずれにせよ、だ。作者の持田は、調和的な構成のとても魅力にあふれた少女マンガを、立派に描き上げた。

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2009年12月18日
 よしよし、このやわらかな緊張感を崩さずに維持しているのはえらいし、じっさいにおもしろい。遊知やよみの『これは恋です』の3巻である。が、表面的には、男性教師と女子生徒の恋愛というラヴ・ロマンスに利便性の高いシチュエーションを採用していながらも、本質的には、それにかかわらず男と女のお互いの内面が見えないがゆえにもどかしい葛藤の奥深いところを描いている点が、とても優秀だと思う。教え子である伽良に惹かれているのを悩む教師の綾井、そして綾井に寄せる想いが報われないかもしれないのをおそれる伽良、二人のそれぞれ自分の気持ちを相手に隠そうとしていることが、そうそう、男女の恋愛って、立場の違いが障害となってくる以前に、向こうがこちらをどう見ているのかわからないため、どうしてもこういうふうに胸騒ぎを押さえきれなくなってしまうんだよな、と頷かせるので、ちょっとしたやりとりからも目を離せなくなるのである。話自体はさほど大きく動いているわけではないだろう。なのに、綾井と伽良の関係に挟まった距離は絶えずたゆたい、いくつもの波乱をまたぐ。繰り返しになるけれども、自分が相手にどう感じられているか知れない、その、不可視な領域がどれだけの戸惑いを生じさせるのかを、必ずや身近にありうるものとして適切に描写していることが、『これは恋です』の最たる魅力にほかならない。この巻の、熱を出して臥せっている伽良を成り行き看病しなければならなくなった綾井の姿など、それの真骨頂とでもいうべきだ。情緒不安定で挙動不審な伽良の態度に一喜一憂させられる彼の災難は、教師だから生徒だから、歳の差があるから、という問題の以前に、男だから女だから、そして彼女に恋をしてしまっているから、という根本の条件をよくあらわしている。さらにこれはべつの場面では、伽良の側にとってもいえることなのであって、そうした二人の、揺らぎ躊躇うコミュニケーションが、たいへんにすぐれた感情の模様を編むのだった。

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・その他遊知やよみに関する文章
 『素敵ギルド』
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2009年12月17日
 村田真優の読み切り作品集『妄想シンデレラ』には、とてもチャーミングなラヴ・ロマンスが詰まっている。はっきりいって、技術的に拙い部分も少なくはないし、いかにも若年層向けの少女マンガ的な甘い展開に終始しているのだが、おそらくはその様式に対する作者の信頼が、まあね、と斜に構えながらも、思わずはっとさせられてしまうシーンをたくさんつくり出しているのである。ほとんどすべての作品が、まだ社会的に幼い少女が同じ年頃の少年に出会い、運命的な予感に誘われて片想いし、どうにかそれを実らせようとする、型のフォーマットを採用しているのだけれども、とりあえず表題作がよい。シンデレラの昔話に憧れるヨッピー(由那)は、いつか素敵な王子様が自分の目の前に現れてくれることを心から信じている。そしてそのときは早々に訪れたのだった。歩道橋から転げそうになったところを別の高校に通う男子に助けられたヨッピーは、その彼、レンに一目惚れ。猛烈なアタックを開始するが、大勢にもてるレンからしてみれば毎度のことで、軽くそれをかわされてしまう。しかし諦めずに、彼のことをよく見、笑顔で接し続け、ついには二人きり、デートの機会を得ることとなる。というのが、だいたいのあらましで、そうしたストーリー自体がどうというより、そうしたストーリーのなかに恋の魔法がたしかに存在するという瞬間のはっきりとあらわされていることが、ひじょうに鮮やかな印象を導く。言い換えるなら、あくまでも魔法が魔法であることのダイナミズムをしっかり掴まえることで、ヒロインのときめきに眩く眩いほどの輝きが与えられているのだ。もちろんそれを、コマ割りからモノローグから何から何までひっくるめ、様式の強さといってしまっても構わない。だが、その様式をまっとうすることに技術の面を補って余りある精力が傾けられている以上、作品には読まれるべき価値が含まれることを、「妄想シンデレラ」は証明していると思う。いや、それは他の作品も等しくいえるのだが、なかでも「シュガー中毒Part.1 Sugar.1素直になれないマシュマロ」、「シュガー中毒Part.2 Sugar.2蝶と蜜」、「こんな夜空に、月」の三つが、たまらなく、好き。うんうん、こんなにも素敵な場面がありえるとすれば恋の魔法を信じてもいいよ、という気分になれる。

 『ドクロ×ハート』について→こちら
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2009年12月15日
 シンカン (あさひコミックス)

 朝日新聞出版から『シンカン』というオール読み切りのアンソロジーが出てしばらく経つのだけれども、自分の目がつく範囲ではあまり話にのぼっていないような気がする。川原由美子や伊藤潤二、岩岡ヒサエなど、一般的には良質といわれがちなマンガ家を揃えているにもかかわらず、であるが、結局のところ、そうした作家たちというのは、大勢に読まれたり、売れたりするのとは違うところで、支持されているのだろう。まあ、わりと地味目な少女マンガ誌である『ネムキ』の増刊みたいに考えるのであれば、さほど目立たなくとも仕方あるまい。さておき。イシデ電の『世界の終わりの、そのあとで』はその『シンカン』に発表された作品で、当然、読み切りの内容となっている。ある種のサスペンスを下敷きにしたストーリーのため、くわしくネタを割れないが、題にある世界とは、たぶん、生活の言い換え、喩えであると思う。現在、高校の教師である耕平は、八年間付き合っている婚約者の絵子に対し、メロメロな毎日を送る。当時、まだ高校生だった彼女のほうからバレンタインデーに告白されたときは、あまり乗り気ではなかったものの、歳月を経るにつれ、耕平のほうが夢中になっているようだった。しかし、それまで知れなかった絵子の秘密に気づき、二人の、いや耕平の日常は急展開する。『世界の終わりの、そのあとで』において、生活の描写に意味されているのは、要するに、耕平と絵子の、男女の、カップルの関係性にほかならない。じっさい、耕平の教え子である女子生徒を狂言回しに置いてはいるものの、作中の緊張は、耕平が問い、絵子が答える、やりとりによっており、二人のコミュニケーションこそが、すべての脈絡を担っているのである。そうして描かれているのは、犯人と人質が長い時間を共有するうち親密な間柄になるという、あの有名なストックホルム・シンドロームの挿話に近しい事象だろう。とあるギミックの効用はそこに盛り込まれたもうワン・アクセントにすぎない。本質的には錯覚でしかない関係性を、客観は偽だと指摘しうる。だが、客観と主観はそもそも完全には折り重ならないがため、しばしば真向かう。衝突し合う。何もかもが偽だと断定された場所に立たされた主観の、残酷として、孤独として、葛藤として、決断として『世界の終わりの、そのあとで』は読める。
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2009年12月13日
 ずっとずっと好きな人。 (講談社コミックスフレンド B)

 『別冊フレンド』系の読み切りマンガを集めたアンソロジー『ずっとずっと好きな人。』に入っている「HOLE ―君とつながる手―」(初出は『別フレ2009』11月号)に思わず感動させられてしまう。いやまあ、高橋利枝のこのシリーズ自体がけっこう好きなのもあるのだけれど、二度とはやり直しのきかない過去と、何度でも立て直しのはかれる未来の、対照のなかに、せつない希望を描いたストーリーは、ずるいよ、と言いたくなるほど、泣きどころを押さえているのだった。ファンタジックなギミックを用いて故人にあてた感傷をドラマティックにするのが、『HOLE』というシリーズそのものの特徴だが、ここでは、孤独な少女の内面に、なおも悲劇を与え、一段階落とした場所から這い上がらせ、前向き、生きてゆくための希望をふたたび掴ませるような筋書きに、ぐっとくるものがある。幼い頃、両親の離婚にダメージを受け、人前では無理やり明るく振る舞わなければならないと自らに強要するようになってしまった、あすか。そんな彼女のつらさを理解し、やさしく手を伸ばしてくれたのは、高校に入り、出会った圭という男子であった。圭のおかげであすかは〈もう1人じゃない 毎日が信じられないくらい幸せで〉と実感するの〈だけど その幸せな日々は あの日で終わった〉。交通事故に遭った圭がその命を落としてしまうのである。以来、塞ぎ込むあすかを、圭の親友である翔太は励まそうとするが、功を奏さない。しかし、後追い自殺しようとするあすかの携帯電話に死んだはずの圭からメールが届いたことで、事態は変わりはじめる。次々と圭の送ってくるミッションをクリアーするうち、あすかと翔太の二人は、不思議な力で時を行き来できるという祠の存在に行き着く。かねてよりその祠を知っていた圭が、メールを通じて、あすかに伝えようとするメッセージは何なのか。そして過去に飛んだあすかは、圭が事故に遭うのを未然に防ごうとする。というのが、大まかな内容であって、もちろん本格的なタイムスリップのSFなどを求めてはならないし、あくまでもそれは物語に都合の良いエッセンスとして見なければならない。じっさい目新しいアイディアでもないだろう。ほとんど類型的ですらある。だが、本作にとって重要なのは、やはり、そうしたきっかけを得て、主人公がポジティヴな実感を取り戻す結末なのだ。ほんとうは、あすかと翔太の関係性にそのプロセスが預けられていてもよかった。あるいはそっちのほうがずっとよかったかもしれない。もしもそうであれば、生者と生者の結びつきこそが救済になりえたのだけれども、「HOLE―君とつながる手―」はしかし、あすかと圭の、すなわち生者と死者の関係性において、救済のサインを導き出そうとしている。これは、クライマックスの前段で圭が〈じーちゃんが言ってたんだ 運命は変えられないって なんでかオレも そんな気がするんだ〉と述べているのに象徴的なとおり、運命はつねに一つしかない、そのような残酷さを、枠組みのレベルにまで広げ、強調するかっこうになっている。運命は一つしかない。とはいえ、運命はそれが過去形になった場合のみ、間違いなくそうだったと確定することができる。よくよく読めばわかるように、あすかは死者との関係をやり直し、後悔を回収しているわけではない。死者が生者であった頃の結びつきを再確認し、ようやく未来に向けての姿勢を立て直しているのである。人は過去を正せない。ただ引き受けていくよりほかない。問題は、取り替えのかなわない過去の重みに引きずられるあまり、すべての可能性をハナから投げてしまうことなのであって、それはいけないよ、どれだけの傷を持っても可能性を信じないないところに希望は生じないのだと、ストーリーの成り行きは教えているよう。
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 17(じゅうなな) 4 (講談社コミックスフレンド)

 桜井まちこの『17[じゅうなな]』もいよいよクライマックスが迫っているからか、この4巻でどっとエモーショナルな展開を見せている。いつだってやさしかった恵に惹かれる詩歌、過去の傷を引きずるあまりそれを拒む恵、二人の心がようやくずっと近く寄り添うのである。告白のシーンで、大きなコマのカットを用いて恵の表情を繋ぎながら、詩歌が〈今の 自分に傷ついているからこそ 人に優しくなろうとしていた恵に 全部 全部 飛び越えるぐらいの相手が 見つかるといい 早く 全部 飛び越えるぐらいの相手が その相手になりたかった けど もう十分 がんばって がんばって 恵〉と願う場面、そうしたところによくあらわれている鮮やかなインパクトは、この作者ならではのものだろう。たしかに、ミニマムな関係のなかでの惚れた腫れたを誇張せずに引き延ばしたかのようなストーリーは、ややざっくばらんでありすぎるけれども、作中人物たちの顔つき、とくに眼と唇の、大胆であると同時に繊細なタッチが、彼らの内面をたっぷり表現していることで、作品の説得力がぐんと高まっているのは、やはり、特筆すべき点だと思う。多少作家論的に考えるのであれば、初期の、テレビ・ドラマのコミカライズであった『to Heart 恋して死にたい』や、あるいは『ハニィ』のような、ピュアなヒロインの情熱が、坊っちゃんの抱えた屈託を照射し、ふたたび笑顔の持てることを確認させる、といった(じつに少女マンガらしい)図式を『17』は採用しているが、以前に比べ、絵柄や描写はずいぶんと大人びており、そこにある種の技法的な詮索が示されている。ただし、現在の作風ならもっと年齢層の高い物語のほうが合うのでは、というのは、過去にも述べたとおり。他方、近作の『H-エイチ-』では、河川と青空の風景が心象をフォローしていたのに対し、『17』の今巻のくだりでは、海面と夜空の風景がドラマの見栄えを深めていて、作品自体が持つカラーの違いを顕著にしている。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他桜井まちこに関する文章
 『minima!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『H-ラブトーク-』について→こちら
 『H-エイチ-』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
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2009年12月12日
 彼はトモダチ 6 (講談社コミックスフレンド B)

 どうしても手に入れたい人がいるし、何をしても手放したくない人がいる。そりゃあ本性を剥き出しにするほど真剣に特定の誰かを欲するのであれば、どろどろの恋愛劇にもなろうよ。吉岡李々子『彼はトモダチ』の話である。5巻から、そしてこの6巻にかけ、主要な作中人物たち四人は、醜いまでの葛藤に振り回され、ずぶずぶ泥沼の関係に足を踏み入れてゆく。まあ、当初より爽やかさとはすこし距離を置いたマンガではあったが、ヒロインの身に突然降りかかる自業自得(自業自得という言い方は少々厳しいかな、しかし客観的にみるならやはりそうなるだろう)を一つの転回とし、過剰にメロドラマティックなストーリーへと振り切れるのだった。佐々本に対する想いを断ち切ろうとするヒヨリ、ヒヨリを諦めきれない佐々本、佐々本を独占しようとする琴音、ヒヨリに対する想いに固執する水野、それらの点と点とが、もつれて絡み合った線と線とで、結ばれる。とりあえず水野、水野よお、おまえ、ヒヨリに向けた初期のアプローチからして、もしかしたら駄目な子なんじゃねえか、と思っていたのだったが、ここにきてまた男を下げたな。その、度量の試される場面で〈…それって オレの子供なの…?〉ってもう、やりとり自体がすでに紋切り型であるけれども、いちばんだらしないリアクションを返しやがった。ほんとうに残念な野郎だ。たしかに、不用意な性交渉を含め、それが若年層のリアリティなのだといえば、そうなのかもしれない。が、おかげで佐々本の、ピュアラブルな献身性の際立つかっこうになっていることが、彼を選ばなかった(選べなかった)ヒヨリの気分を真っ逆さまに落下させる。〈…もう いいんじゃないかな……後悔も反省もたくさんしたんだろ? それならきっと藤咲はダメ じゃないし ダメならダメで それでもいいよ なにがあっても オレは藤咲の味方だから〉と、佐々本はやさしい言葉をかける。けれど、もはやそれすら受け入れることができないぐらいにヒヨリ(藤咲)は傷ついてしまっている。〈今さら なんなのよ…っ 佐々本が別れようって言ったんじゃん(略)あたしは…っ 別れたくなかったのに 公園にも来なかったクセに 会えばハンパにやさしくして! 佐々本は満足かもしれないけど 残酷なのよ!〉。これはおそらく、今までのなかでもっともヒヨリが、自分の心情を、他人に激しくあらわした箇所だろう。すべては壊れてしまった。いっさい取り返しのつかないことが、ずぶずぶ泥沼の関係にはまった足を引っ張りあげられないことだけが、彼女の本性を剥き出しにさせているのである。はたして、誤りの道順を滑りながら前のめるヒヨリたちの恋愛は、どのような答えに行き着くのか。完結編となる次巻が待たれる。

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 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『99%カカオ』について→こちら
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2009年12月11日
 新潮 2010年 01月号 [雑誌]

 『新潮』1月号掲載。青山七恵の短篇小説『うちの娘』のなかに出てきて、一つのアクセントをなしている〈ヨイじゃない〉という言い回しは、埼玉弁でいいのかな、標準語であったり他の地方でも使われているのかどうかは知らないが、すくなくとも作者の出身地では慣れ親しまれているものだろう。たぶん、よいじゃあねえ、と書いたほうがニュアンスとしては近しい気がするのだけれども、作中で〈ヨイじゃないというのは、「容易じゃない」という意味〉と説明されているとおり、基本的には、面倒くさいことやかったるいことへの感想を指している。青山の小説には、たとえば『ひとり日和』における老女の名前の由来など、ときおりこういった埼玉ネタが用いられるが、それはともかく、『うちの娘』の〈ヨイじゃない〉は、主人公が有しているベクトルを、ゆるやかに現実へとスイッチさせる効果を持っているように思う。主人公の堀田雪子は、五十歳代の女性、現在は大学の学食につとめている。その彼女が、毎日わかめうどんを頼んでくる女学生の微笑みに感情移入し、あたかも〈自分の娘として眺めてみる気になった〉のを楽しみにしていることから、現実と夢想あるいは加齢と若さが並列されながら生きる日常を、小説はすくい取ってゆく。〈雪子はもともと、想像好きな少女であ〉り、〈一日が終わり、眠りにつく前〉には〈目を閉じて、頭の中にある想像のための部屋の前に立〉ち、〈そして暗闇の中でぼんやり発光するドアを静かにノックする〉と、さまざまな夢想にふけていたのであったが、それも今は昔、やがて〈少女時代を脱し、成人し、恋愛し(略)結婚し、男の子どもを二人産〉み、〈その過程で徐々に、四隅が見渡せないほど無限に広がっていたあの想像の部屋に出入りをしなくなってい〉き、〈夜、目を閉じても、光るドアは見えなくなっ〉てしまったのだったけれど、例のわかめうどんを頼む娘が〈やってくるのを待っていると(略)自分が再びあのドアの前に立たされているのを感じた〉のであって、こうした主人公の心理状況と周辺情報とが、作品の内容をつくり出しているのである。〈ヨイじゃない〉というのは、主人公の同僚である玉巻さんが、彼女にかける言葉だ。ふとしたときに「ヨイじゃないわね」と玉巻さんは言う。それはおそらく、生活と呼ぶべきものの、重すぎず軽すぎない実感を、代替している。結局のところ、誰の暮らしぶりも、程度の差や世代ごとで倫理の違いはあれ、〈ヨイじゃない〉。〈ヨイじゃない〉ことの内にはもちろん、他人には知れず、当人にしか確認されないはずの孤独がある。そして孤独は、現実と夢想とのあいだを、ゆるやかに行ったり来たりし、輪郭の曖昧な像を描くのみで。小説の最後、〈彼女の前には再び、発光するドアがあった〉が、しかし〈自分がその部屋の中にいるのか外にいるのか、わからないでいた〉のだった。

 『山猫』について→こちら
 『ニカウさんの近況』について→こちら
 『出発』について→こちら
 『欅の部屋』について→こちら
 『お上手』について→こちら
 『かけら』について→こちら
 『新しいビルディング』について→こちら
 『松かさ拾い』について→こちら
 『やさしいため息』について→こちら
 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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2009年12月09日
 なにわ友あれ 10 (ヤングマガジンコミックス)

 いっときは欲望のために道を踏み外しそうになり、たんなるゲス野郎に成り下がったパンダであったが、しかし、ここで描かれているエピソードに関しては、おまえに心から同情しよう、あるいはひどく共感さえしよう。圧倒的な絶望のなか、酒の力を借りられずには越えられない夜もあったな。あった。たしかにあった。南勝久の『なにわ友あれ』10巻である。前作『ナニワトモアレ』でも、主人公であるグっさんの、走り屋としての大成とはべつに、恋愛の敗北が強烈なインパクトをつくり出していたが、まあパンダの場合、それに比べて傷は浅く、ありふれてはいるものの、いやだからこそ、必ずしも常勝の道を辿れるわけではない青春のリアリティが、よく出ている。親友であるテツの恋人、ナッちゃんに想いを寄せるパンダは、二人がとうとうスケベなことをするのだと知った晩、居ても立ってもいられなくなり、友人のタカを呼び出し、ひたすらアルコールをかっ食らい、つらい気分を忘れようとするのだけれども、それで何かが変わることは、もちろん、ないのだった。とにかく、パンダの血走った眼が、笑える。さらには、彼の傷口に塩を塗りたくるタカの所業も、笑える。笑えるのに、どうしてこんなにもパンダの気持ちが理解できてしまうのだろう。それはね、パンダがタカに〈おまえがつまらん男やから テツに持っていかれるねん――ッ!!〉と言われてしまうのに等しく、読み手の自分も詰まらんし、冴えないし、もてない男だからなんだよ。やがて、アパートに帰ってきたテツを前に〈こいつ‥‥ナッちゃんとヤッたのかッ…!!? ヤリやがったのか〜〜!!? 知りたい‥‥真実を知りたい‥‥!! ナッちゃんとヤッたのか‥‥ヤッてないのか‥‥!!?〉と勘繰りながら、探りを入れるパンダの卑屈さがもう、まったくの他人事とは思われまい。〈ちょっと堅い女でな――…ヤれんかった‥‥‥‥〉というテツの言葉に、〈そらそうや! ナッちゃんがおまえなんかと!! おまえなんかとォ〜〜〜〜!!!〉と内心喜ぶパンダの表情を見よ。そして〈ま――でも‥‥口でしてもらった――2回――!!〉と続けるテツに、〈あの天使の唇が――‥‥こんなテツクズのチンコを〜〜〜〜!? しかも2回〜〜〜〜!!?〉と衝撃を受けるパンダの表情を見よ。うんうん、おまえはいま泣いていい。以上、本筋とは基本的に関わりのない話であった。

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2009年12月08日
 女神の鬼 14 (ヤングマガジンコミックス)

 息がしたい息がしたい息がしたい。どのようなトライブに属しているのであれ、どのようなイデオロギーに従っているのであれ、どのようなルールを信じているのであれ、何らかの抑圧を感じ、苦しめられるとき、こうした念仏を唱えることは誰にとっても不思議な行為ではないだろう。そこにはすでに社会性の芽があらわれているといってよい。だってそうだ。もしもまったく自由な個人を生きられ、対他関係下で苛烈に自己を相対化されてしまうような運命から逃れられているのであれば、ハナから息詰まる必要なぞ持たないはずではないか。対他関係のストレスを前にしたさい、ふと実感される社会性の芽を、はたして抜くのか育てるのか、これはアウトサイダーとそうではない者とを隔てる大きな分岐となってくるに違いない。田中宏というマンガ家が、『女神の鬼』の、巨大な、そして壮絶な物語のなかに描き出しているのは、おそらくその、社会性の芽をめぐる一個の仮想戦線なのであって、もちろんそれは、必ずしも不良少年にのみ限定されたテーマを負ってはいない。

 とうとう、ギッチョが狂おしいほどに憧れ、夢にまで見た、鎖国島での本格的な暮らしが、幕を開ける。最大の目的は当然、そこに巣くう鬼どもの王様になることであった。懐かしい面々、仇敵との再会、じょじょに鎖国島の全容が明かされていくうち、いま現在、王様として君臨しているのが、かつて親しんだサクラこと花山であることを知り、直接対決に向かうギッチョとアキラだったが、あまりにかけ離れた実力、緊張感の差によって一笑に付せられてしまう。そうした主人公の動向をよそに、新しい王様を決めるための鬼祭りの日が近づき、花山、そして真清率いる東側と雛石顕治率いる西側の小競り合いは激しくなりつつあった。西側は毒の粉をまき、東側の戦力を大幅に低下させようとする。じっさいその効果は著しく、東側が窮地に立たされたちょうど同じ頃、海を渡り、同士であるハンニャとマンバが、鎖国島にやって来たおかげで、ふたたび真清は活路を得る。さて、かつて懇意であった花山につくのか真清につくのか、問い質されるギッチョは、しかし〈ワシは誰の下にもつかんで‥‥!! ワシが王様になるんじゃ!!〉と、無謀にも独立を宣誓するのだった。

 以上が、14巻のだいたいのあらましである。すでに繰り広げられている鎖国島での攻防を考えるにあたって、まず前提にしておきたいのは、それが、たとえば閉鎖空間におけるサヴァイヴァルを題材にしたフィクションの類を評するとき、よく社会の縮図なる喩えが用いられるのに相応しい構造を有しているのに対し、じつは一線を引いている点である。そもそも鎖国島とは、この社会では生きていけない人間の集められた場であったことを忘れてはならない。この社会の理念に苦しめられる彼らにとっては、それがまったく機能していない世界こそが、希望になりうるのであって、だからこそ自ら進んで鎖国島に足を踏み入れたのではなかったか。たぶん、不良少年にも二種類ある。これは12巻の時点で、ギッチョと別れなければならない友人たちの姿を通じ、さんざん検証された問題であると思う。端的に述べるなら、この社会で生きていくがために不良少年になるべき種と、この社会では生きられないがために不良少年にならざるをえない種とに、分類される。前者の場合、たとえ悪に見られようとも、社会自体にその存在を許されている。だが、後者は、あくまでも悪である以上に、その存在が許されていない。治療不可能で有害な病気そのものとして扱われているのに近しい。たんに根絶されなければならない。しばしば、残酷で凶悪な犯罪者の社会復帰が問題になるのは、極端をいえば、彼らがこの社会で生きられるための条件を十分に満たしていないと見なされるせいだろう。また、そうした犯罪者の群がさまざまな出自によっているとおり、症例は、なにも不良少年という現象にかぎってあらわれるものではないだろう。

 鎖国島に渡ったギッチョが、再会を果たした人びとのなかには、意外にも不良少年のライフスタイルとは無縁そうなドングリマナコくん(通称であるにしてもすげえ名前だな)がいた。なぜ、彼みたいな真面目にしか見えないタイプが、荒々しい鬼どもの巣窟に混じっているのか、さしあたり理由は明確にされていないけれども、この14巻で、寄生族と呼ばれ、今ふうの定義で囲うならばオタクやニートの層にあてられるだろう若者たちが、鎖国島の一角を占めているのは、ひじょうに暗示的だ。おそらくそれは、不良少年とは違う作法で、常識を踏み外してしまった立場のある由を意図している。病気の顕在は、どのようなトライブに属しているのであれ、どのようなイデオロギーに従っているのであれ、どのようなルールを信じているのであれ、この社会で生きられる者とそうではない者とを分別する。そこが、後者の、すなわちこの社会では生きられないと断じられた輩の、とうとう行き着く果てが鎖国島であるならば、本質的には、大勢を包括することで多彩な精神のグラデーションを帯びながら成り立つ社会の縮図とは、違ってくる。現実を見本にしたミニチュア上のシミュレーションとはなってこない。

 しかしながら、さらに注意深くありたいのは、たとえば鎖国島を運営する松尾老人が、血気盛んな少年たちに向けて述べる〈とにかくお前らが今‥‥えー暮らしがしたけりゃ〜〜花山みとーに王様んなって好きなよーにやるか 雛石みとーに保護者にしっかり金を入れてもろォて悠々自適な生活をするかじゃ……ココは‥‥鎖国島なんじゃ〉という言葉が仄めかしているように、社会の意義を前提にした秩序からは切り離された場として用意されているにもかかわらず、そこには一つの確定的な体系が出来上がっていることである。あるいはそれを指して、この社会とは異なったロジックに支えられている社会の存在を認めるのは容易いし、鎖国島はこの社会とは決して無縁なところから出てきたわけではないと解釈することも可能になるのだが、いずれにせよ、その、新しい体系に置かれたロジックだけが、海を渡った少年たちにとって、唯一の居場所であり、よすがとなるのだった。こう考えるとき、この社会で生きられる資格を持っていないがゆえに鬼と忌まれた彼らのなかにも、社会性の芽を見つけることができるかもしれない。しかるに対他関係下の苛烈な相対化は、誰が王様に相応しいかの、激しい争奪戦をもたらす。

 そしてついに、どうすれば王様になれるのか、鬼祭りと名付けられた絶対のルールが明るみになるわけだが、それは、真清が〈そんなモン わざわざ説明するほどのコトもないわい‥‥単純明快‥‥〉というとおり、たいへんシンプルなものであった。かくして、鬼祭りの概要を聞かされたギッチョが〈ぜっ…‥全員倒したりとか‥‥戦争みとーなんとかせんで えーん!? そんだけで……………たった そんだけで王様に………なれるんッ‥‥!!?〉と驚くのに対して、真清が〈まァ‥‥そーゆーのもなくはないんじゃが……それだと結局 全員が死んでしまうけぇのォ‥‥数年かけてでき上がったルールなんじゃ……〉というふうに答えているのは、ある意味で、鎖国島の少年たちが持った社会性の芽を、あらためて教えているといえる。定められた目的を達成し、頂点に立つことは、潜在的にルールの遵守と同義にならざるをえない。けれども、鬼祭りのシンプルな鉄則を知り、火がつき、いきおい独立を宣誓したギッチョに、東側に属する北丸薫が〈たとえお前が……鬼祭りで女神岩の札を取って王になれたとしても‥‥一年もの間 王の座を守れるか!? 王は法で守られとるぅ言ぅーたって 西側の連中やら‥‥もちろんワシらだって 一年中 お前の首を狙うんど!! 王っちゅーのはのォ‥‥それを撥ね除けるほどの力と………器を持ったヤツがなるんじゃッ!!〉と忠告しているあたりに、きっと、鎖国島の、鬼祭りの、王様の、物語のはじまりの時点であらかじめアナウンスされていたギッチョの絶望の、真相は含まされているのだと思う。

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2009年12月04日
 Lost Ground

 BRIDGE NINEというハードコアを主とするレーベルには、ベテランから若手までやたらガッツの盛んなバンドが揃っており、かなり頼もしいと感じられるわけであったが、なかでもボストン出身の5人組であるDEFEATERが、けっこうお気に入り、ファースト・アルバムにあたる08年の『TRAVELS』も、最高潮にヒートがアップする作品だったのだけれども、この6曲入りの新作ミニ・アルバム『LOST GROUND』は、その、勇ましく、逞しく、はち切れんばかりの熱気をまとった印象に、さらなる箔をつけるかのような内容になっている。いや、たしかに音の出方は太いし、すっごく硬い。ストロング・スタイルの取り組みでフラストレーションをねじ伏せる。しかし、豪快に放射される音、音、音の単純な圧のみが、興奮の切っ先を鋭くしているのではないだろう。たとえば、リズムはどかどか鳴り、ヴォーカルは叫び、ダイナミックなうねり、波長はささくれ立ち、とかくアグレッシヴなオーラを全編に漂わせてはいるが、展開のある部分で、ギターが、それまでと太さや硬さの質を違えることなく、凪ぐ。メタリックな憂いを孕む。そうして、怒りと悲しみとが、まったく位相の異なった根を持っているのではなく、入れ替わるのが不自然ではないほどに近しく育ったエモーションであることを、表現している。サウンドの、すばらしく強烈なカタルシスの、濃い説得力も、そこに宿っているのである。果敢に攻めてゆく印象のナンバーはもちろんのこと、スローなテンポの荒涼と激情とが満ち欠けし、やがて〈no hope. no hope〉というコーラスを繰り返しながら、沈黙する3曲目の「A WOUND AND A SCAR」とか、たいへん、かっこういい。

 『TRAVELS』について→こちら

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2009年12月03日
 Signs of Infinite Power

 しかしFU MANCHUは裏切らねえな。うんうん、裏切られたためしがない。より正確を期すなら、FU MANCHUというバンドに求めるものが、つねにそこに、つまりどの作品にも備わっているのであって、不十分であったり残念に感じられた記憶がない。もちろんそれはこの、前作の『WE MUST OBEY』からおよそ2年ぶりとなるニュー・アルバム『SIGNS OF INFINITE POWER』にもいえるわけで、ぶるぶる震えるほどに低音をひずませたギター、そしてずっしりと構えたリズムが波打ち、太くヘヴィなグルーヴがとぐろ巻くなかから、最高にハイなロックン・ロールが噴き上がってくることのかっこうよさは、もう、絶対に間違いないだろうね。スコット・ヒルの、独特な節回し、少々ぶっきらぼうにアクセントを区切るヴォーカルもあいかわらず、雰囲気たっぷり、男らしさとはこうあってもよい、といったところを聴かせる。たしかに、ある種マンネリズムの境地には入っているのだけれど、むしろスタイルの一貫性を保ったまま、ソング・ライティングの質をまったく低めていない点が、そらおそろしいわ。リフのパターンにしたって、きわめてオーソドックスであるぶん、アイディアは限られているだろうに、どれもが目覚ましく決まっているんだからな。1曲目の「BIONIC ASTRONAUTICS」をはじめ、2曲目の「STEEL.BEAST.DEFEATED」や5曲目の「EL BUSTA」等々、アップ・テンポなナンバーは、当然のごとく、燃えるし燃えるし燃える。他方、スローなブルーズがドゥームのクラウドをふんだんに孕む4曲目の「WEBFOOT WITCH HAT」や6曲目の「SIGNS OF INFINITE POWER」あたりも、たいへん魅力的なハイライトなりえているだろう。さらには、ミドル・テンポの馬力に任せ、直感的なフレーズをプッシュ、いっけん単調ではあるものの、いつの間やらパワフルなうねりに巻き込まれてしまう8曲目の「GARGANTUAN MARCH」も、じつにナイスで。いやいや、このバンドはほんとうに裏切らねえな、と思わされる。

 『WE MUST OBEY』について→こちら

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2009年12月02日
 劉備玄徳という頂、曹操孟徳という頂、はたしてどちらのほうが天に近しくそびえ立っているのか、こうした対照は、『三国志演義』を元ネタにするフィクションにおいて、よく見られるものであって、もちろんのこと、武論尊(作)と池上遼一(画)のタッグによる『覇 -LORD-』もまた、それを採用しているといえるだろう。曹操のスケールを意識する劉備、劉備のスケールを意識する曹操、両者のライヴァル関係が、あたかも中国史を揺らがすほどの動力であったかのように描かれているのである。この17巻では、共同戦線を組んだ張ばくと呂布とが、それぞれ、別個に、劉備や曹操らと相対し、曹操(劉備)にとって劉備(曹操)の存在がいかにでかくはだかっているのか、直に引き出すことで、上記の構図が強調的になっている。劉備と一騎打ちを果たす張ばくが、自らのモチベーションを〈曹操の眼に映るのは、この張ばく(オレ)一人でいい! 断じて劉備(おまえ)ではない!!〉と述べているとおり、それはまさしく、曹操への情念であり、劉備への嫉妬を含んでいるのであった。そして、何人たりとも劉備と曹操のライヴァル関係に割って入ることはできない、という運命(あるいは作中のロジック)が、張ばくを敗北させる。そこには、たとえば武論尊(史村翔)の原作でいうなら、『北斗の拳』に登場する人物たちの多くが、ケンシロウとラオウの対立軸に二分され、彼らの周囲をめぐる衛星以上にはなれないのにも似た、悲劇性を見つけられる。要するに、『三国志演義』を下敷きにしたストーリーのなかに注入された独自のエッセンスは、そうしたところに効果をあらわしているわけだが、しかしながら『覇 -LORD-』を読み進めるうえで注意されたいのは、劉備と曹操の、『三国志演義』自体に由来するライヴァル関係のほかにもう一つ、劉備と常元という、このマンガならではの、つまりはほとんどオリジナルな対照が、中国史を、べつの方向からはげしく、震わせている点だ。劉備と常元の二者は、倭の国(古代日本)から大陸に渡ってきたのであって、本質的には異邦人であると設定されている。彼らのうち、とくに常元のほうに託されているのは、やや過激に捉まえるのであれば、侵略者のイメージだと思う。じっさい、一般的には曹操が行ったとされる徐州での大量虐殺は、その一部は常元の仕業であったと置き換えられている。このような、侵略者としての常元のイメージには、もしかしたら今日における日中戦争の残響さえも重ね合わされている、と解釈するのは、早計であろうか。いずれにせよ、同じく倭人でありながらも、中国史に尽くそうとする劉備のカリズマは、間違いなく、常元の所業に対するアンチテーゼになっているのであって、それはここで、かつて彼が祭輝と祭勝という親子から受けた恩に端を発していることが、あかされている。さらに付け加えるなら、劉備が、命かけ、実現しようとしているのは、その、個人的な動機からはじまっているものをどれだけ社会に敷衍することができるか、という試算にほかならない。私情にとどまる張ばくが、決して劉備に及ばない理由も、じつはそこによっているのである。

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 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

その他武論尊に関する文章
 『DOG LAW』(画・上條淳士)について→こちら
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