ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年11月29日
 男性教師と女子生徒という、旧くからフィクションのロマンスに定型的なシチュエーションを、少女マンガに描いた水瀬藍の『センセイと私。』が、この4巻で完結した。大団円であった。途中、記憶喪失のアイディアを盛り込むなど、ストーリーは、そりゃあ見え透いてはいたけれど、どこかで弛緩することもなく、最初から最後まで一気に読まされる内容になっていたと思う。立場の違いからやってくるさまざまな困難を乗り越え、次第に絆を深めていく高校生の遙香と教師の国広だったが、もちろんその関係は、周囲に伏せたまま、秘密にしておかなければならない。せめて親友の亜子にだけは、と思う遙香は、国広の許可を得、ついに本当のことを打ち明けようとするのだけれど、もしも自分たちの恋愛が〈大切な人に祝福してもらえない恋〉であったならば、と考え、おそろしくなってしまう。そしてそれは、ちょうど同じ頃、国広の高校時代の友人である安藤が、遙香たちの学校に赴任してき、二人の付き合いを〈教師と生徒やろ!? 間違おとる 俺は反対や!!〉と、強く否定したためでもあった。そうした困難が持ち上がったところから、エンディングに向かい、物語は収束していくわけで、つまり、全編の佳境において重要視されてくるのは、同じ気持ちを共有し、信じられるようになれたカップルが、どうしたらその、一般の判断でいうなら度し難いはずの恋愛を、周囲の人びとに認めさせるのか、になる。結局のところ、最初から許されていた、という着地点のうえに、結婚という制度的なエクスキューズを引っぱってくるのは、いささか楽観すぎやしないか、と感じないでもない。しかし、番外編というかエピローグにあたる「卒業旅行」のエピソードが教えるとおり、『センセイと私。』の本編で、ドラマの根っこを担っていたのは、相思相愛であるような二者が、あまたの障害を抱えているにもかかわらず、どれだけピュアラブルな状態で、要するに性交(セックス)による具体的な意志の確認作業を経ずに、厚く信頼を寄せ合えるか、といった点にほかならない。まあ、そのこと自体が、フィクションのロマンスにとってのありふれたテーマではあるだろう。もっとも、そうした様式美の世界を過不足なく再現していることが、本作の(もしかしたら退屈だと受け取る層もいるには違いない)価値だといえるのである。

 3巻について→こちら
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 BANDAGE【期間限定盤】 BANDAGE【初回限定盤】

 たしか事前のインフォメーションでは、80年代頃のブリティッシュ・ロックを意識したサウンド、というような話だったが、いやまあ、しいていえばそういうふうに聴こえなくもないのだけれど、抑揚に乏しいメロディとリズムとをリフレインさせることで、良くも悪くも平熱的なエモーションを練り上げてゆく構成は、My Little Loverの一部にも通じるところがあり、要するに、小林武史の手癖、でしかないと思う。日本人としてのアイデンティティをJの語で括られるような音楽のフォーマットに喩えたかのような歌詞の内容はともかく、パターンの狭い語彙を淡泊に反復させるあたりも、だよね。いずれにせよ、そういったソング・ライティングの粋と、我が愛すべきシンガーである赤西仁のあいだに、いかなるマジックが生まれるのかこそが、同名映画の劇中バンドにあたるLANDSの名義でリリースされた「BANDAGE」にかかる最大の関心であったろう。しかし結論を述べるのであれば、あまり大きなワンダーは得られなかったかな、という気がする。両者のマッチングが悪かったとは言わない。単純に1足す1が2になる以上の魔法を見つけられなかったのである。裏を返すなら、期待値を派手に上回ることはなかったものの、双方の相応の雰囲気のよく出た仕上がりとなっている。

 正直、クリスタル・ケイとのコラボレーションを果たした「WONDER」や「Helpless Night」の、あの衝撃を越えるものではなかったが、それはつまり、赤西くんの歌声が、ロック調のナンバーよりもR&Bの路線のほうに合っているということなのか。いや、必ずしもそうではないだろう。これまでのKAT-TUNの活動のなかでも、赤西くんがソロをとったりメインを張ったりするロック調のナンバーはいくつかあった。そこではたとえば、「care」の透き通るほどにナイーヴなラインよりも、「BUTTERFLY」の奔放なほどにパワフルなラインのほうが、強烈であったように、あるいは「Real Face」における〈アスファルトを蹴り飛ばして〉から〈すべって空振り〉までの彼のパートに迸る熱情や、さらには「Will Be All Right」の出だしで〈頑張ってる・君の目が・世界中に輝いて〉と力強く告げてくるヴァイタリティが、何よりも魅力的であるように、ロック調のナンバーにはロック調のナンバーに適したモードがある。それがむしろ、「BANDAGE」では、クールに抑えられている印象がある。もちろん、このことを低く見ているのではない。おそらくは、小林武史の意図した点であるに違いないし、どこか冷めた視点を持った歌詞のイメージには合っている。ただ、赤西くんのポテンシャルを圧倒的に引き出す、もしくは引き上げるだけのインパクトが有されていないことを、惜しい、と思うだけだ。

 でもね、やっぱり赤西くんのことが大好きな人間であるから、繰り返し繰り返し耳にするうち、うれいやせつなさの屈託を含みながら高く飛翔していくふうな声の伸び、ヴォーカルの立ち方には、いかんせん惹かれてしまう。

・その他KAT-TUNに関する文章
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2009年11月28日
 広瀬なつめの『LOVE DRUG』は、そのタイトルこそ毒々しいし、一昔前だったらポップにも見えたろう絵柄が今の時代ではキッチュでしかないように感じられたりもするが、中身のほうは、あんがい少女マンガにオーセンティックな筋書きを持っていて、要するに、最初はいがみ合っていた男女がじょじょに接近してゆく模様を描いている。自分の通う高校へ転校してきた上級生のイケメンさん、秋吉央太郎に、友人のあいさを傷つけられたミツカは、彼の不真面目な態度に食ってかかるのだったが、どうやら藪をつついて蛇を出してしまったらしく、恋人であるジュンとの関係を含め、学園生活におけるさまざまな急所を狙われることになるのだった。こうして、いちばんのライヴァルがいちばんの理解者であるかのごとき関係性が生じ、それがいつしか恋愛のモードとなるような変動を、コメディのパッチをあてながら、物語化しているのである。しかしながら、やはり、このマンガを特徴づけているのは、作中人物たちのデザインや言動の、ちゃらさ、であり、軽さ、だろう。一般的なフィクションの理念からすれば、本作における作中人物たちの内面は、仮にそれが若さを表象するものだとしても、ひじょうに薄っぺらい。だがその薄っぺらさによって、あるいはその薄っぺらさにおいて、ロマンスだけが最大の価値を持ちうることが、あらためて確認されるかたちになっているのだ。もしかすれば、タイトルの意味もそこに符合する。たしかに、ロマンスにのみ生きるのは、ちっぽけであるかもしれないし、阿呆らしいかもしれない。けれども、たとえば嫉妬の感情一つとっても、たかだか、といった程度のことが、なぜか深刻な事態を招いてしまうときが、しばしば、ある。『LOVE DRUG』の、ちゃらさ、や、軽さ、に見られかねない点が代弁しているのは、おそらく、そのような、リアリティ、であり、エモーション、なのだと思う。
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2009年11月27日
 筋金入りの恋愛主義だから、とかくロマンティックなラヴ・ストーリーが好きである。たとえありふれたアイディアであろうが、ロマンティックなラヴ・ストーリーでありさえすれば、はらはら胸がときめいてしまうので、弱るよ。ただし、できるなら質というものにはこだわりたい、という我が儘もある。南塔子の『さがしもの』は、学園が舞台のガール・ミーツ・ボーイを描いた読み切り作品集となっている。表題作の「さがしもの」、それから「悩みのタネ」、「疾走beat」の三篇はどれも、作品の内容は決して独創的とは言い難いものの、いくつか、ポイント的に秀でたところがあり、とても好感をもって読むことができた。まず、ポップスに喩えるならイントロといおうか、物語の立ち上がりに、だいたいのあらましが集約され、その後の印象を左右するほどの、きらめき、をあらわしている点で、もちろん、それは少女マンガの短篇における常套にすぎないのだけれど、ことさら奇をてらうわけではなく、素直な道順を示そうとしているため、すうっと気持ちが入っていける。要は、うまくいっている。また、一方通行からはじまる恋愛が、両想いのハッピー・エンドになりうる可能性を有しているとき、片想いの対象を振り向かせるだけの魅力が、はたして片想いをする主体のどこにあったのか、すなわちこの場合、いっけん平凡に思われるヒロインの真の値打ちがいかなるものか、たしかに与えられていなければ、説得力はがくんと落ちるのだが、そうした部分もこぼさず、適切にフォローできており、併せて、恋愛感情を持った人間の、心理の細かいところを見よう、心理の細かいところを汲もう、心理の細かいところを描こうとする手つきが、せつなくやわらかな心地好さを寄越している。標準的といえば標準的ではあるが、じつにチャーミングな読み切りが揃っていると思う。ただし、それらが少女マンガならではのロマンティックなラヴ・ストーリーを踏襲している一方で、「消せない棘」と「青い神ヒコーキ」の二篇には、いささか色合いの違う面が出ているだろう。とくに「消せない棘」である。これは、フィクション上のリアリティではなく、現実的であろうとするリアリティをベースにした作品で、友情よりも恋愛を選んだヒロインの、都合のよい感傷を、断罪するのでも寛容するのでもなしに、ただあるがままにあるものとして切り出す。きれいごとを除けてしまえば、こういうことは十分にありえる。その、身も蓋もなさに、ぎょっ、とさせられる。反対に、「青い神ヒコーキ」は、発表(初出)の順ではいちばん古い作品になるのだけれども、女性ではなくて男性を主人公に、わりとストレートな、照れ隠しのボーイ・ミーツ・ガールをやっている。正しく、青春の一コマと評するのが相応しいような、さわやかさがある。
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2009年11月25日
 もうちょい、文章、精進します。
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 虫と歌 市川春子作品集 (アフタヌーンKC)

 市川春子の作品集『虫と歌』を、1ページずつ読み進めながら、マンガ表現にあって詩情はどこに宿るのか、を考えさせられる。それはたぶん、余白というか空白というか、作画のレベルでも物語のレベルでも、コマや言葉の内外にすっぽりとひらき、埋まる必要がないほど自然に存在している隙のなかに、だろうと思う。言い換えるならば、作者は、ある種のブランクをめぐる語り口が、残酷でいて、たわやかなリリシズムを想起させる、そのような技術を最大限の魅力に変えているのである。決して雰囲気の問題じゃないんだ。ぜんぶで四つの短篇(プラス2ページの掌篇)が入っている。どれもが我々の生きている現在をベースにしつつ、SF的というかファンタジーふうというか、ちょっとしたひねりの盛り込まれた世界を見せている。虫や植物、機械や器具等々の、ほんらい人ならざるものが、あたかも人として生きられるような、すこし不思議なありようを描き出している。もっと言うなら、その、人と人ならざるものとの、異種間の交流とでもすべきの、ささやかな入れ違いが、感情の流線を、あちらからこちらへ、引っぱってくるのだ。おそらく、基本的なイディオムは、高野文子あたりの作風に学んでいるのではないだろうか。簡素なタッチは、どこか淡々としていて、飄々としていて、ところどころに硬いエッジが立っている。きびしく抑制の凝らされた印象がある。しかし、この作品集を見るうえで注意したいのは、ある部分においては、異様なまでの過剰さが意図して突出させられている、と感じうる点だ。そこまでは律動的であった描写や構図が、突然の過剰さを孕み、ぱん、と場面を切り替える。驚きがしばらく、余波として残ったまま、しん、と横たわる沈黙のなかに、心のひだをかすってゆくような詩情が、呼び込まれているのである。そしてそれが最大限の魅力になっていることはすでに述べた。
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2009年11月24日
 ゆうやみ特攻隊 5 (シリウスコミックス)

 自伝的な要素を持った『ピコピコ少年』を読むと、先般最終巻の出た『プピポー!』であったり、この『ゆうやみ特攻隊』などで活躍する少年や少女の姿には、押切蓮介の憧れが託されているのかな、という気がしてくるし、はたまたそれは、『ピコピコ少年』の、あの、すこし根の暗い主人公に思わず共感してしまう読み手にとっての、理想像にさえ見られるかもしれない。いや、すくなくとも、これを書いている自分の場合はそうだよ。あらかじめ手渡された困難のせいで、仕方なく、くじけそうになりながらも、ほんのわずかなガッツを頼りとし、友情のありがたみに支えられ、とりあえずは前へ前へ、歩みを止めず、進み続けることが、精いっぱいの希望となって、孤独な運命を変えてゆく様子に、たいへん励まされるものがある。

 絶望、絶望、絶望、いっさいの救いを奪われ、地獄の釜の中に突き落とされた姫山高校心霊探偵部の面々、辻翔平と越島かえでであったが、まさか、すさまじい拷問に息も絶え絶えであったはずの隊長こと花岡弥依の、どんなピンチにさえ決して揺らぐことのないポテンシャルが、一気に形勢を逆転させる。他方、心霊探偵部の到来によって、黒首島に持ち上がった騒動は、祭りの日に備えていた村人のあいだにも、大きな波乱を呼び起こすこととなる。禍々しい呪力を用い、村人を狂気で支配する鉄一族のカリズマにも、ついに綻びが見えはじめているのだった。以上が、5巻のだいたいのあらましであり、さあここから反撃だぞ、という段において、ことあるごとに翔平の成長を認める隊長の言葉は、やさしい。だが、〈ふふ‥こんな目に遭っても「逃げよう」の一言も言わないなんて‥‥辻‥強くなったね〉と褒められたことに、〈‥‥隊長‥隊長と比べたら 俺の強さなんてかすんで見える‥自分の無力さがもどかしい‥‥〉と感じ入る翔平の態度からは、いまだ不甲斐ない自分自身への悔いがうかがえる。少年の成長譚としての物語的な側面は、こうした関係上の機微にあらわれているだろう。おそらく、隊長の存在は、作品の内部で働いているロジックにおいて、翔平の、今は亡き姉のかわりであるような役割を果たしている。だからこそ翔平は、彼女(たち)に庇護されている事実を知るかぎり、いくら強くなったと指摘されても、かつてと同じく、守られる立場に置かれた弱みのほうを意識してしまうのである。はたして彼がそれをどう克服していくのかは、長篇化しつつある『ゆうやみ特攻隊』の重要な意義だと思う。

 ところで作品はここで、もう一人の少年、鉄萌(くろがねはじめ)にスポットを当てている。鉄一族に育ちながらも、恋人である紗由のため、家族を裏切り、心霊探偵部を島に呼び寄せた、ある意味ではエピソードの幕開けを担った人物である。彼は、〈鉄家としての自覚を持て 萌!! お前の描こうとしている人生は 所詮 絵空事だ!!〉と口撃してくる父親に対し、〈子が悩みに悩んで人生の選択をしたんだ‥‥それを気持ちよく認めてくれるのが親ってもんだろう〉と言う。生来の関係性を邪険にしてまで彼が憎んでいるのは、閉塞感や抑圧、それらによってもたらされる虚無や憂鬱と喩えられるものにほかならない。半径の小さな世界で、当人の願いと無関係に突きつけられる運命の不幸は、他のマンガでいうなら『ミスミソウ』のなかでとくに突出していたモチーフに違いないが、よくよく読めばわかるとおり、たとえば『プピポー!』や、さらには『ピコピコ少年』にまでも、共鳴音のごとく介在している。もちろん『ゆうやみ特攻隊』も等しく、それを端的に示しているのが、鉄一族と萌とのあいだにあるアンビバレンツだといえよう。

 付け加えるなら、そこに表象されている心理の囲いは、必ずしも特殊な環境にのみ起因するわけではない。時や場合、程度の差こそあれ、多くの人生が、一度は味わい、深く傷を負わせられる類のものだ。もしかすれば、本作で翔平が、懸命に抗い、脱しようとするコンプレックスも、そうしたことのヴァリエーションなのであって、派生的な問題を孕んでいるのかもしれない。しかるに、あらかじめ手渡された困難を理由にし、憐憫をねだってみせたところで、運命を変えられるだけの強さは得られまい。『ゆうやみ特攻隊』の、派手なコマ割り、ダイナミックな展開が、スペクタクルの面以外に、大きく支援しているものがあるとしたら、それはたぶん、果敢なる少年や少女が、徒手空拳の想いで、未来を切り拓いてゆこうとする勢いだろう。不可能を断定された場所からすべてを薙ぎ倒して立つ隊長の勇姿を見よ。あの不敵さはしかし、いつだったか膝を折り、倒れそうになったとき、踏み越えられなかったな、と憧れた一線の向こうに有るので、しばしばおそろしいものとして映る。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他押切蓮介に関する文章
 『でろでろ』
  15巻について→こちら
 『ミスミソウ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『プピポー!』
  1巻について→こちら
 『おばけのおやつ』について→こちら
 『ドヒー! おばけが僕をペンペン殴る!』について→こちら
 『マサシ!! うしろだ!!』について→こちら
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2009年11月23日
 仁義S 11 (ヤングチャンピオンコミックス)

 前作の『JINGI〈仁義〉』で、十分な成功を果たし、安全な立場に回ったと思われていた甲田や名手ですら、いっときの油断に足下をすくわれる。いとも容易く失墜させられる。これが極道の世界のおそろしさ、真理なのだと『仁義S〜じんぎたち〜』はいっているかのようである。〈おい やくざ せっかくの順番ゆずったら すぐに一生終わるぜ〉と、これは仁のセリフだが、いずれにせよ、立原あゆみのマンガにおいて、ヤクザは、死ぬ、か、勝ち続けないかぎり、平和を得ることはできない。関東一円会に内乱が起きたせいで、旧い世代が次々リタイアするなか、主人公のアキラ、そして守や大介らの、新しい世代はじょじょに力をつけ、組織の中枢で台頭しはじめる。しかしながら当然、彼らもまた、苛酷なルールをかろうじて生きながらえているにすぎない。所詮は、盤上に置かれた無数の駒の一つでしかないのだ。そうしてこの11巻では、当人たちの思惑をよそに、来るべき大状況の決定に備え、各人の配役が改まってゆく。

 それにしてもまあ、盟友であるはずのアキラに対してせこい敵愾心を抱く守みたいな小悪党を描かせたら、さすが。とんだゲス野郎がいたもんだぜ、という気分にさせられる。だが、その守でさえ、アキラの初期のライヴァルであった加瀬に比べたら、よほど秀でた立ち回りを繰り広げている。守と加瀬、行動をともにする両者には等しくチャンスがめぐってきているにもかかわらず、活躍を分かっているのは、おそらく、野心の大きさであると同時に、捨て身になれる覚悟もしくは血気の差だろう。いざという段に、躊躇い、ひるんでしまうことは、たとえ一瞬であったとしても、まちがいなく遅れとなってしまう。文字どおり、遅れをとった者から尻に火がついていくのは、『JINGI』の頃より、作中の世界に徹底されている法則である。前作で、仁と義郎が無敵の快進撃を続けられたのは、彼らだけがつねに遅れをとることはなく、いやむしろ、その法則自体をも先んじていたためであった。過去にも述べた気がするけれど、『JINGI』とはある意味で、仁と義郎こそが、そこで展開されているゲームのマスターにほかならないことを証明していく物語だったといえる。もちろん、こうした構造上のランクは、続編の『仁義S』にも引き継がれており、他の人物の行動を予見するような二人の超越性は、下につく人間の数が増えたことで、さらに絶対的なものとなっている。と、考えられるとき、『仁義S』の物語とは、その、神格に試される側の人間を題材化し、成り立っていると解釈してもよい。

 すくなくとも、アキラたちの運命は、一般的な道義のうえで親分の命令には従わざるをえないというのもあるにはあるのだが、たしかに仁と義郎の掌中に握られていて、彼らのプランや要求に添うよう課題をクリアーすることが、すなわち正解のルートを辿ったとの意味を持つ。そしてそれを経なければ、次のフェイズに進むことは許されない。利根組に肩入れしていたアキラが、その若頭である長峰から、舎弟頭を引き受けてはくれないか、と持ちかけられた旨を、仁と義郎に相談するくだりを読まれたい。〈舎弟頭受けるにしても 表向きは親子盃にしておいた方がよくないかい〉と義郎が提案し、〈そうだな 兄弟盃だと跡を取りにくい〉と仁が頷いてみせるのに対し、意図を理解できず〈あの何を言われているのやら〉と困惑するアキラが、〈わからんか? それなら“はい”でいい〉と言われたとおり、決定権を委ねてしまうのは、正しく構造下の条件を教えている。

 ただし、注意しておくべきなのは、だからといってアキラが必ずしも主体的に生きていないわけではない、ということだ。仁や義郎には例外に特権が与えられているにしても、フィクションの内部では、プレイヤーの一員であることに変わりない。命を狙われれば、落とすことも十分にありえる。じっさい、彼らは自分たちの想像を越えるプレイヤーが登場するのを待ち望んでいるふしがある。すべてが入れ替え可能のゲームであることのスリルを楽しんでいるふしがある。たぶん、アキラなどの新しい世代を指して、若きJINGIS(仁義たち)と呼び、期待しているのもそれだ。言い換えるなら、若きJINGISは、神格の予見を逸脱するような主体を積極的に生きることでしか、その存在を認められない。これをよく示している場面が、11巻にはある。仁と義郎をまとめて爆死させるべく、投げ込まれた手榴弾を、とっさにアキラが掴み、間一髪のタイミングで絶体絶命の危機を回避してみせるという、ひじょうに興奮させられるシーンである。作者には珍しい見開きのカットを含め、ハイライトとするに相応しいだろう。仁を逃そうとする義郎がスローモーションになっているそばから飛び出してき、状況を一変させてしまうアキラの判断と行動は、一介の駒の働きをはるかに上回るものだ。

 以上の成り行きを踏まえるのであれば、アキラがその前段で、『JINGI』の重要なワキ役であった多古たちに、仁と義郎のボディガードを単独で任されているのも、じつに象徴的な意味合いを持ってくる。それは暗に、世代交代よろしく組織内のポジションが変動していることを含んでいるのだけれど、同時に、たとえ暫定的だとしても主人公が神格にもっとも近しい位置に収まったことを示しているのである。

 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『本気』文庫版
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『恋愛』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
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2009年11月21日
 現在、ヤング誌を中心に引く手あまたの活躍を続けながらも、熱心に語られているところをあまり見たことのないマンガ家が、葉月京である。そうした作者の、豊富な履歴に反比例する評価は、90年代頃の柳沢きみおや村生ミオのそれを思わせなくもない。いや、個人的には、ポスト村生ミオの代表格として、もっとも名を挙げておきたいし、じっさい現在の村生がそうであるように、まさしく他に類を見ない領域に入りつつあるな、と感じられるのが葉月なのだけれど、もちろん本人がこう見られて嬉しいかどうか、まったく知らない。しかしながら、たとえばこの『CROSS and CRIME(クロスアンドクライム)』で遺憾なく発揮されている、性交(セックス)と疑い(サスペンス)をふんだんに盛り込み、ぞくぞくするほどの愛憎を人と人のあいだに引いてゆく手つきは、村生が同じく『ヤングチャンピオン』で成し遂げた衝撃の一つ『サークルゲーム』に匹敵するものだろう。

 ついさっきまで幸福にあふれていた景色が、一瞬のうち、真っ黒な闇に反転する。すべての絶望はあらかじめ仕組まれ、用意されていたにもかかわらず、渦中にいる人間だけがそのことに気づけない。女子大生の戸叶優香は、恋人で新聞記者の矢崎典一に愛され、とても恵まれた日々を送っていた。しかし矢崎の後輩で、今や人気バンド「ゼロサム(ZERO SUM GAME)」のヴォーカルであるケイト(佐伯敬人)と出会ってしまったことから、破滅のゲームに無理やり参加させられることとなるのだった。いちおうはネタを割るのが許されないストーリーになっているので、これ以上の要約は省くが、優香と矢崎、そしてケイトの歪な三角関係をベースに、人間模様とはここまで残酷な見栄えを持つのか、と胸引き裂かれるドラマが、いっさいの赦免もなしに描かれてゆく。肝要なのは、悲劇でしかありえない、悲劇にしかなりえないゲームが、個人の、小さな感情の耐え難さを引き金にしていることである。

 誰もが嫉妬という劇薬の入った小瓶を脳内に隠しながら生きている。だが、それは運を一つ違えてしまっただけで容易に割れる、あるいは蓋が外れて中身をこぼれさせる。漏れ出した劇薬は、神経をまわり、当人を苦しめるばかりか、彼の発作に付き合う周囲をも不幸にするだろう。その、被害のすみやかにひろまる過程が、複線の描写と急な展開を通じ、戯画状に再現されているのだ。もともとは作者(百済内創名義)の過去作『SEX CRIME』のリメイクであるらしく、残念ながらオリジナルのほうは読んだときがないのだけれど、おそらくこれほどの筆致は、現在の力量だからこそ可能になったものだと思う。あまりにも過酷で目を覆いたくなる場面もすくなくはないが、足を踏み入れたとたん、ついついずるずる引き込まれてしまう心理の奥行きが同時にある。

・その他葉月京に関する文章
 『Wネーム』5巻について→こちら
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2009年11月20日
 ドリームキングR 5 (ヤングキングコミックス)

 アパレル業界で立身出世するためにはなぜかギャングやヤクザと事を構えなければならない、という『ドリームキングR』の展開には、少々首を傾げたくなるときもあるのだったが、よくよく考えるのであれば、それって要するに水商売系のマンガと同じ構造を持っているわけね。現実との照応をべつとするなら、おそらくはそうした職種を、アンダーグラウンドっぽいものにしたい、アンダーグラウンドっぽいものに見たい、式の欲望によって設定の水準は定められているのである。もちろん、アンダーグラウンドっぽいなる思いなしは、良い意味にも悪い意味にもなりうる。水商売系のマンガにおいては、陰惨なモチーフがほとんど不可分でついて回るのに対し、ファッション産業を題材とした場合、そのイメージからか、アンダーグラウンドっぽいことへの憧れのみが、甚だしく強調されてしまうのだと、『ドリームキングR』の、いかにも若者の夢にあふれたストーリー(!)は教えている。うん。宿敵であったオズマックス(a.k.a.オザキック)と和解し、コンビを組んだジョニーは、あらたなブランド「ゼロリズム」とその高位ブランドである「ゼロル」の構想に着手する。だが、そこでも対立し合うのが良きライヴァル関係というものか。ワンオフの洋服をなるたけ高額に吊り上げようとするオズマックスのプランに、ジョニーは〈そんなボッタクリみてえな値段つけられっかよ! 生地代はタダなんだぞ!!〉と憤るのだけれども、〈生地代はタダじゃねえ! おまえの労力の対価分だけ金を払ってるのと同じだ!!〉というオズマックの言い分も正しい。こうして、資本制の社会で自分たちの理想を叶えるため、ときには衝突しながら、成功への糸口を掴んでゆく主人公と仲間の奮闘が描かれるのかと思いきや、いや、やはり、なぜかギャングとの血みどろな抗争劇に足を突っ込むことでブランドの行く末を占うことになる、というのが、この5巻のハイライトだろう。たしかに、ジョニーらが地下に潜伏していたジャンキー集団「ブラックマンバ」と対決しなければならない理由と、作品のプロットにあからさまな無理はない。しかしそもそも、ストリート仕様のファッション業界ってそんなにもギャングと昵懇でなければやっていけない世界なのか。リアリティのレベルではなく、純粋に現実にそくしているのであれば、まったく難儀な話であるし、せいぜい水商売系のマンガと同じ程度には、救いがたい部分を突出させるべきなんじゃないかと思う。救いがたい部分を隠蔽してしまうのは、決して(柳内大樹がよく尊重している)想像力とは呼ばれまい。また、『ドリームキングR』のなかに働いているのは、これまでの物語を見るかぎり、労働をモラトリアムの一部に置き換えようとする力学であった。労働に従事することは必ずしもモラトリアムを脱したのとは同義になりえない。かわりにギャングを卒業することがモラトリアムを脱したのと同義に扱われる。そうして、いちおうは社会人として大成しようとする人物を描き出そうとしながらも、労働の内容、資本制の社会に深く関わることは、建て前だけを残し、巧妙に省かれている。

 4巻について→こちら 
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

 小説『ドリームキング外伝―シブヤ大戦争』について→こちら

・柳内大樹に関する文章
 『スマイル』(永田晃一との合作)について→こちら
 『ギャングキング』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
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2009年11月19日
 解剖医ハンター 1 (リュウコミックス)

 まず最初にいっておくと、吉川良太郎の小説が好きである。とくに、青臭いながらもスタイリッシュを装い、わざわざ衒学的に持って回った物語が、血塗れのどんぱちを経、最終的にはホットなエモーションを発するあたり。その吉川によって提供された原作を、新人の黒釜ナオがマンガ化したのが、すなわち『解剖医ハンター』という作品で、吉川といえば、代表作であるパレ・フラノ・シリーズがそうであるように、近未来を舞台にしたSFといったイメージを持っているけれども、ここでは十八世紀のイギリス、実在したらしい人物の活躍を題材に選んでいて、それを黒釜が、硬質なタッチとすこしのユーモアがよく似合うエンターテイメントに仕立て上げている。ジョン・ハンター、後に〈児童書『ドリトル先生』ならびに怪奇小説『ジキル博士とハイド氏』のモデル〉とされるその男は、いっさいのタブーを畏れず、盗んだ屍体を解剖し、たとえ非合法であろうが、次々に新しい知識と技術とを手に入れようとする異端の医師であった。1770年当時、科学的な治療が決して科学的な治療だとは信じられていない世間に対し、自分は〈すでに二〇〇年先にいる〉のだと言い切るハンターに出会った、医学生のエドワード・ジェンナーは、最初、反発を覚えていたものの、その独創的な思想を目の当たりにするうち、彼に肩入れすることとなる。こうした筋書きにおいては、当然、医療のテーマが大きくなってくるのだが、当の主人公が、〈信仰や倫理以前の問題だ あんたには人の魂がないのか!〉と問われ、〈それは専門外だな これまで一〇〇〇体の死体を解剖したが ぼうや 魂なんて臓器は無いんだぜ…〉と堂々宣言するとおり、安易なヒューマニズムも含め、既存の価値観そのもののを足蹴にし、ひっくり返してまで果たそうとする好奇心(あるいは欲望や信念と言い換えてもよいのかもしれないそれ)の強度こそが、作品を支えるもっとも大きな柱にほかならない。たとえば吉川の小説では、アイデンティティを制度に預けることを非難したり、無自覚なままイデオロギーに従うことを嫌ったり、孤立を厭わぬどころか、あえて好むアウトロー型の人物にメインを張らせることがしばしばであったけれども、『解剖医ハンター』のジョン・ハンターもまた、虚構の存在かどうかの違いはともあれ、そのデンに漏れないといえる。もしかしたら、彼にとっての医療とは、世界を認識するための手段にすぎないのかもしれない。いや、はたしてほんとうにそうなのか。読み手は、若きエドワードの純粋さとともに、ハンターの生き様が意味するところを見せられてゆく。
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 ハレルヤオーバードライブ! 1 (ゲッサン少年サンデーコミックス)

 近年、バンド・マンガとでも呼ぶべきがにわかに盛り上がっているのは、要するに、文系のサークルをいかにして描くか、というアプローチが、サブ・カルチャーの、とくに男性向けのフィクションにおいて急速に発展し、より豊富なヴァリエーションを、需要と供給とが要請し出していることの反映にすぎないのではないか。すくなくとも、かつての野球マンガやサッカー・マンガの盛況が、現実の流行を参照していたのとは、勝手が異なっているだろう。たしかに90年代にバンド・ブームがあった頃、ロック・バンドを題材にしたマンガは、一時的に数を増やした。が、それらのほとんどは、学生の主人公がコンテスト形式の勝敗にのぞみながら自己実現を果たす、式の、つまりは旧来のスポーツ・マンガが有していたマナーを応用するものであった。しかし、今日になって見かけられる作品の多くは、それとはべつの文脈を生きている。たとえば、ハロルド作石の『BECK』以降というよりは木尾士目の『げんしけん』以降というタームのほうが近いような。ある特定の期間もしくは空間の最適化を第一義にしているという印象さえ感じられるのである。以前であれば、少年誌が新創刊されるとなると、スポーツ・マンガの一個ぐらいは用意されるのが常だったのだけれども、『ゲッサン』はそうせず、おそらくは、その枠にバンド・マンガを入れてきたのは、雑誌のカラーを見るうえで、注意したい点だと思う。そう、ここでいっているのは、ずばり高田康太郎の『ハレルヤオーバードライブ』のことだ(正確には、『ゲッサン』の2号目からの連載になるのだけれど、創刊号の時点でプレ・ストーリーが付録に載り、大々的に予告が打たれていた)。いちおう、この1巻を読むかぎり、高校入学を機にした少年の成長物語であるふうにはじまっており、その才能が開花してゆく予感を大きく孕んではいるが、あくまでも作風は、課外活動のコミュニケーションを軸足に、文系のサークルをいかにして描くか、のスタンスによっている。ところどころ、たぶん作者の野心が顔を出しているのだろう、音楽マンガ的な矜持というかカタルシスを盛り込もうとしているふしがあるのだけれど、全体のバランスを考えるに、そういった面での大成は厳しそう。
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2009年11月17日
 ウメニウグイス (講談社コミックスフレンド B)

 〈好きな人に彼女がいても 恋は恋〉。同じ高校のクラスメイト、伊勢崎に片想いする梅原は、密かな楽しみとして自分のノートに「ISZK観察記」なるものをつけていた。だがあるとき、それがばれ、伊勢崎本人はもとより、教室中に知れ渡ってしまう。てっきり引かれ、嫌われるとばかり思っていた梅原であったが、彼は以前と変わらず、親しく話しかけてきてくれるのだった。まさか禍転じて福となすことがあるのか。「好きバレ」の状態からその恋を成就させようとするヒロインの奮闘を、日暮キノコの『ウメニウグイス』は描く。必ずしも容姿が抜群ではない人物の思い込み、純情とコンプレックスを、テンションの高さに変換し、構成されたロマンティックなコメディは、おそらく時流にそったものだといえるだろう。混在した妄想と理想とが、一種のアクチュアリティとなっているところに、作品のエモーションはよっているのである。したがって、告白をするかしないか、二人の仲はうまくいくのかいかないのか、そうしたぜんぶが、まるで夢のなかの出来事を追っているかのよう、すこしばかり宙に足を浮かせている。梅原の友人が〈たしかに 告白の結果は0か100…対して うめの現状がどっちつかずの50だとしても……夏休みに入れば その50も0になる〉とけしかける場面があるけれど、ちょうどその、50から100までに入る範囲のみをリプレゼントしている感じ、物語自体は大きく振れていないのだが、ヒロインの心情をオーヴァーにリアクション化することで、内容を補っている。単行本にもう一つ収められている「七色クロゼット」は、作中の年齢が表題作よりも上に設定されているためか、同じく一途であることの困難を基本線にしながらも、やや暗い面が前に出ている。遠距離恋愛という現実的なしがらみを、まずプレゼンテーションしたうえで、そこから一気に飛翔してゆくクライマックスは、なかなかに鮮やか。
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2009年11月16日
 L・DK 2 (講談社コミックスフレンド B)

 この『L・DK』2巻の、あとがきにあたる部分で、作者の渡辺あゆは「今後も王道まっしぐら目指して頑張ります。普遍的なものを面白く見せるって、ほんと難しいですね」といっている。なるほど、それが真に王道であり普遍的であるかはともかく、たしかに作中で繰り広げられていることの数々は、少女マンガの、とくにロマンティックなコメディにおけるクリシェを、いくらか過剰になぞらえてはいるだろう。突発的な同居生活、瓢箪から駒の恋愛、共有された秘密、ワキから絡んでくる噛ませ犬たち、等々。しかしながら、そうした表層の色づけをするにあたって、ほんらい押さえるべき本質をしっかり押さえているからこそ、作品には、目新しいポイントやサプライズはないにもかかわらず、行く末の気になる動線が生じているのである。父親の転勤にともない一人暮らしをはじめたばかりの西森葵は、諸般の事情により、同じ高校に通うイケメンさん、久我山終聖のルームメイトにされてしまう。不敵な態度の終聖にからかわれ、最初は反発を抱く葵であったが、それまで知れなかった彼の素顔を見、次第に惹かれてゆく。こうした筋書きにとって、やはり本質となるのは、特定の異性に対し、戸惑い、さながら不公平なまでに動揺させられるヒロインの心情だろう。ときおり、少女マンガのなかで描かれるペアに、サドとマゾに喩えられるような主従の関係が発生するのも、そうしたことのヴァリエーションだと仮定される。『L・DK』の場合、葵がしている片想いの障害は、そのほとんどが、彼女の言動が終聖に遅れをとってしまうことから、やってきている。終聖の気遣いでさえも、葵は後からしか気づけない、そして後から気づくことで、より関心を深めてしまう。すなわち、きわめて身近に暮らしているはずの二人なのに、両者のあいだには耐えずロスが発生し、それを葵が意識しながら、さらには乗り越えようとするプロセスが、いかにもロマンティックなコメディのクリシェをさまざま使い、あらわされているのだ。この、ヒロインの心情を再現する段取りの、様式的な方法論で徹底されていることが、『L・DK』という作品の軸足になっているといえる。もちろんそのとき、読み手であるこちらは、一つの疑問を感じないではない。たとえ葵が終聖に追いつこうとも、彼の側の気持ちがそこに合致しなければ、決して両想いの幸福とはならないのではないか。要するに、終聖が葵に惹かれている可能性があるとするなら、はたして彼女のいったいどこに代えがたいまでの魅力を見ているのか(見ることになるのか)、すくなくとも現段階でこれは、保留に近しい状態に止められたまま、やり過ごされている。

 1巻について→こちら 

・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キミがスキ』
  2巻について→こちら
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2009年11月15日
 ベインズ (講談社コミックスフレンド B)

 現在は少女マンガのカテゴリで主な活動をしている霜月さよ子であるが、福井晴敏と組んだ『C-blossom-case729-』に顕著であったように、そのタッチは田島昭宇からの影響を強く思わせる。さてしかし、この、全編オリジナルの読み切り作品集『ベインズ』では、そうした作風を、まんま少女マンガに特有のプロットに落とし込んでおり、なかなかに大胆なアプローチを見せている。が、等しい意味で、過去作にあたる『真夜中のアリアドネ』や『シーラカンス』のような、サスペンスの際立った路線を期待すると、すこし、肩すかしを食らうかもしれない。収められている三篇のすべてが、ほんとうにまっすぐ、てらいのないロマンチシズムによって支えられているのである。表題作の「ベインズ」は、絶対的な記憶力を持っているばかりに人知れぬ孤独を抱える音楽家と、彼にヴァイオリンを教えられる女子高生の恋愛を描く。絵柄や構図は不穏さをよくあらわし、作中人物の表情に色濃い影を与えている。けれどもストーリーのみを取り出してしまえば、気丈な少女の純真が、青年の隠された屈託を撃つ、という、ジャンル側の要請に丁重な応答を示したものにほかならない。もちろん、それが悪いというのではない。ヒロインである女子高生の、図々しさと一途さが裏表の、だからこそほんのちょっとのことで明るくも暗くも変わる表情が、作品あるいは恋愛そのものの説得力にまで高められているのは、あくまでも作者の細やかな筆致によるだろう。一度覚えてしまったことは二度と忘れられない青年の胸に、もっとも深く刻み込まれていたのは、いったい何だったか。画のセンスと物語の内容とが上手に一致している。不覚にも各作品の初出が単行本のどこに掲載されているのか(今これを書いている時点では)見つけられなかったのだが、続く「ライオン」のユーモアやダイナミズムは、前述の田島に加え、ジョージ朝倉や山崎さやかに学んだところがありそう。とはいえ、これも基本的な筋書きはシンプルにまとまっている。そのシンプルさに、個性と厚みを与えているのは、まちがいなく、演出の部分であって、ラストの「ROOM1/4-金欠-シンデレラ-」も同様、リッチなイケメンさんに惚れた女子大生が、貧乏を隠し、自分も金持ちを装い、猛烈にアタックする、こうしたストーリーは、決して類型を免れてはいないものの、ヒロインの心理描写にはっとする部分はすくなくない。ただし、男性サイドの気持ちがあまりよく出ていないため、都合の良さのほうが前にき、ややアンバランスな印象を受ける。
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2009年11月14日
 ac4.jpg

 理屈じゃねえんだ。いや、結局は方法論にすぎないのかもしれないけれど、何よりも直感ではじけ、盛り上がっているかのような気分を、音楽といっしょに、味わえたら、うれしい。90年代半ばに活動し、本国スウェーデンのみならず、世界中に多くのシンパを得たREFUSEDの元ヴォーカルであり、現在はTHE (INTERNATIONAL)NOISE CONSPIRACYやTHE LOST PATROL BAND等々の活動で知られるデニス・リクスゼンのあたらしいプロジェクト、AC4が、そのグループ名ままのファースト・アルバムで聴かせるのは、ひじょうにまっすぐな激情であった。シンプルなビートが、あ、という間に、跳ね、勢い任せ、名残なんて惜しんでたまるか、と言わんばかりのスピードを、はたはた、ひるがえらせてゆく。それはたとえば、REFUSEDのポスト・ハードコアとは違っているし、THE (INTERNATIONAL)NOISE CONSPIRACYやTHE LOST PATROL BANDのロックン・ロールともまた違っている。もっとずっとクラシックなパンクのかたまりを炸裂させているのである。あくまでもワン・アイディアを基本とした構成、足し算の展開を盛り込むのではなく、ハイでフルなエネルギーを出力、見事な掛け算を成立させる。簡潔なフレーズを繰り返し繰り返し、ひたすら熱気を込めながら、ゆるめず、繰り返すことで、余計な口をいっさい挟ませないほどの激しさを実現しているのだった。すべての楽曲が2分に満たないというのも、迷いをうかがわせない。そうしたあらゆるは、たしかに、選び採られたサウンドのスタイルにそった方法論、マナーでしかないのだろうが、兎にも角にも先走ったガッツに一撃を食らわされるのであって、ぬおお、だれるのはもうやめよう、しゃきっと奮い立っては、うずうずしてくるな。アイキャンドゥイッアイキャンドゥイッアイキャンドゥイッアイキャンドゥイッゴー。いっしょになって、叫んでやった。

 バンドのMySpace→こちら
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2009年11月12日
 季刊 真夜中 No.7 2009 Early Winter

 『真夜中』NO.7掲載。『三十六号線』は、新しくはじまった長嶋有の連載小説で、第一話目には「殺人事件」という題が付けられている。そうした物騒なニュアンスは、もしかしたら作者のイメージには似つかわしくないもののように思えてしまうのだったが、いやじっさい読んでしまえば、ディテールや人物の立ち方に、従来の、らしさ、がありありとしているのだし、反面、たしかにこれまでの作品ではあまり気にならなかったような、不穏さ、が立ちこめてもいる。二〇〇三年、北海道はA市、三十六号線沿いのスーパーマーケットで夕暮れどき、一人の中年女性が二人組の刑事に聞き込み調査を受けていた。四日前の同じ頃、その駐車場で、一人の老人が何者かに後頭部を殴られ、亡くなったらしい。まさしく「殺人事件」である。刑事たちの話に耳を傾けながら、彼女は、いつだったかに見かけた不良少年の集団を頭に浮かべるのだった。出だし、話が進むうちで重要なのは、おそらくは主人公なのだろう奈実子という中年女性の意識が、殺人を知った衝撃から、少しずつ、自分の半径をぐるりめぐる生活へと移っていくことが、小説自体の結構をつくり出していることだろう。たとえば、学童保育の仕事をしている彼女は、刑事とのやりとりにおいて不良少年を想起してしまったがために、ふと自分が受け持っている子供たちの〈背が伸びていなくなった後の彼ら彼女らの「分からなさ」に、不安か寂しさのようなものを感じ〉てしまう。こうした動き方をする奈実子の心理を、一種の語り口とし、作品は、その生活や家族、すなわち日常のあれこれを描写してゆくのだ。必ずしも中心的な出来事ではなく、むしろ背景の一部でしかないとはいえ、郊外の殺人を内容に盛り込んでいるからか、どこか角田光代の『三面記事小説』や吉田修一の『悪人』にも通じる暗がりを見つけられるけれど、何かしらの憂鬱を抱えながら、あくまでも平凡のこちら側にとどまり、ぶらんとした情緒のよくあらわれているところに、この作家ならではの逆説的な力強さがある。第二話目以降、どう展開するのか、もちろん、ぜんぜん、わからないが、楽しみ。

・その他長嶋有に関する文章
 『エロマンガ島の三人』について→こちら
 『夕子ちゃんの近道』について→こちら
 『泣かない女はいない』について→こちら
 『いろんな気持ちが本当の気持ち』(エッセイ)について→こちら

・ブルボン小林名義
 『ぐっとくる題名』について→こちら
 『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』について→こちら
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2009年11月11日
 湾岸MIDNIGHT C1ランナー 1 (ヤングマガジンコミックス)

 ループ構造のリアリズム下で生をいかに描くか。こうした問題は、『ヤングマガジン』誌の長期連載作品において、とくに顕著化されている。きうちかずひろの『ビー・バップ・ハイスクール』が、連載中断というかたちでしかピリオドを打てなかったことは、深く考えられるべきであった。近年、その先の段階へとシフトしていったのは、村田ひろゆきの『バレーボーイズ』だが、しげの秀一の『頭文字D』や楠みちはるの『湾岸MIDNIGHT(ミッドナイト)』は、今もなおループ構造のリアリズムを引き受けつつ、物語を発展させているのである。

 楠みちはるの『湾岸MIDNIGHT』が、現在の『C1ランナー』にタイトルを変更したばかりの頃、掲載誌の近況コメントで作者はたしか、あまり気にしないでくれ、というようなことを述べていたけれど、いやもちろん、両者がワン・セットを為している以上、それは真であるだろうが、しかし、こうして1巻の表記を付せながら、つまりは前者の41巻分とは別個の枠をとったうえで、後者がリリースされてしまったからには、いくらかの意味づけを行うことも可能だと思う。

 きわめて簡略するのであれば、『湾岸MIDNIGHT』というマンガは、首都高をぐるぐる回る、回り続ける、文字どおり、ループする内容を持った作品であった。長いストーリーのなかに、作中人物たちの入れ替えはあるものの、主人公のアキオとライヴァルのブラックバードだけは、その円環の外に脱することはできない。円環の内に止まることを自らの宿命に課してさえいる。また、カメラマンやライターといった職業が、姿を変え、繰り返し、アキオたちの前にあらわれる点に、(ネタの使い回しといってもよいが)ある種の反復性をうかがうこともできる。『C1ランナー』をべつに、『湾岸MIDNIGHT』を単体としてとった場合、現時点における最終のエピソードでは、主人公を長いあいだ見守ってきたヒロインのレイナまでもが、円環からよそに出て行ってしまう。反対に、アキオとブラックバードは、たとえ他の誰がいなくなろうとも、円環のなかを生きてゆこうとする意志を、さらに強めるのだった。そしていったんの幕が閉じられる。当然、ループ化した世界の外部が描かれることはない。

 その、アキオとブラックバードが、(すくなくとも今の段階では)まったく登場してこないところに、『湾岸MIDNIGHT』と『C1ランナー』の大きな違いはあるだろう。『C1ランナー』もまた、C1(環状線)がキーワードとなっているとおり、首都高をぐるぐると回る、回り続ける人々の物語であることが示唆されている。舞台装置を等しくしているかぎり、表面上は、たんに主人公の存在をリセットしただけ、いくらかのリニューアルを行ったにすぎない、そう考えるのがふつうである。

 ここで注意しなければならないのは、『C1ランナー』の、主人公と定めてしまうのは難しいけれども、間違いなく中核を担っている萩島という青年の役だ。萩島は、『湾岸MIDNIGHT』における暫定的な終盤でも、重要な扱いを受けていた人物だった。自動車雑誌の編集者として活躍する夢を諦め、異業種で営業の仕事をしていた彼が、たまさかアキオと出会い、ふたたび情熱を得、フリーランスのライターにカムバックするというのが、『湾岸MIDNIGHT』に描かれていたパートだが、『C1ランナー』では、かつての有名自動車誌「GTカーズ」を復刊させるため、まずはWEB上に「GTカーズ」の名を借りたページを開いたところ、やり手の自動車評論家である荒井に引っぱられ、さまざまな人物と渡り合うことになる。

 この国のサブ・カルチャー史を紐解くまでもなく、ループ構造のリアリズムが、とくに機能を発揮するのは、それがモラトリアムを代替しているときだろう。『湾岸MIDNIGHT』の円環はおそらく、主人公であるアキオはもとより、作中人物たちのモラトリアムと相似であるに違いない。だからこそ彼らは、公道バトルという、一般の通念には還元されない情熱に身を費やし、あたかもそれが通過儀礼であったかのごとく、次第に社会化されるべきを意識しはじめ、首都高を去っていくと、二度とは戻ってこれない。アキオとブラックバードだけが、そうしたことの例外を生きていることはすでに述べたが、例外を生きているがゆえに、他の人々から憧憬の眼差しを向けられる、いわばモラトリアムの象徴としていつまでも輝いていられる。

 『C1ランナー』に先立って『湾岸MIDNIGHT』に登場した萩島も、やはり、アキオたちとの接触を通じ、モラトリアムを再体験していた。会社を辞め、自分がほんとうにしたいことは何なのか、首都高をぐるぐる回り、走り、問い、答えようとする。要するに、一般の通念から一時的な離脱を果たしていたのである。繰り返しになるけれども、『湾岸MIDNIGHT』にとって、首都高とは、そのような、モラトリアムを代替する空間、場所としてあらわれている。たとえばレイナが、プロのモデルとして大成するため、言い換えるなら、社会化された自分を獲得するのに海外への旅立ちを必要としなければならなかったのは、本質的に、首都高というモラトリアムの磁場より遠く逸れていくことを意味していた。

 同じく萩島が、紆余曲折を経、フリーランスのライターを志すことで、社会化された自分を進んでいくのであれば、『湾岸MIDNIGHT』が有している作品の構造上、首都高の円環を出て行かなければならない。だが、結局のところ、彼の選びとった自立は、それが自動車のチューニングと深く関わっているかぎり、表象のレベルではなく、まさしく現実のレベルで、首都高に立ち返らざるをえない。たぶん『C1ランナー』が、必ずしも『湾岸MIDNIGHT』ではないことの最大の理由は、そこにある。

 さしあたり荻島を中心に考えるなら、『C1ランナー』のプロットは、雑誌「GTカーズ」の復刊という、じつに社会的な課題を指標とし、立てられている。これは、いわく言い難い欲望に魅入られた人々が、眼差しを交わしながら、すれ違い、各々自己の立ち位置を確認する姿を描いた『湾岸MIDNIGHT』にはなかったものだろう。たしかに「悪魔のZ」を媒介とすることで、すれ違う人々のあいだにも、ある種のコミュニティが出来上がってはいたが、それは決して一般の通念では認められないものであった。アウトローの密約にも似た淫靡さを孕み、あくまでも反社会的な行為の共犯者だとされている。

 そうした『湾岸MIDNIGHT』におけるコミュニティのありように対し、『C1ランナー』のそれは、萩島が取り組んでいる「GTカーズ」の復刊も含め、社会の規範をベースにすることで成り立っている。このことは、『湾岸MIDNIGHT』でアキオをフォローしていたチューナー北見と『C1ランナー』で萩島をサポートする「スピードファクトリー RGO」の、双方のスタンスの違いにも十分見て取れる。

 さて。『C1ランナー』のストーリーは、もう一人の主人公とでもすべき青年ノブの登場によって、直接の幕を開いている。自車であるFD型RX-7に「RGO」のニセのステッカーを貼り、その速さからC1で注目を集めはじめた彼に、「RGO」本来の面子をかけて、萩島が挑んでゆくのだけれども、そこに示されているのは、すなわちブランド(看板)をめぐる闘争にほかならない。いうまでもなくブランドは、合法的であるとき、衆目に許された価値を持つ。首都高のルールを無視し、あっけらかんと最速を気どるノブを、萩島がくだそうとするのは、それがブランドの傷に深く関わっているためだ。

 結果、ノブは、萩島や「RGO」のスタッフであるリカコと行動をともにすることになるのだが、今度は彼の存在を中心にして『C1ランナー』という作品を考えてみるなら、やはりこれも『湾岸MIDNIGHT』がそうであったように、モラトリアムの内側を描いているのだという気がしてくる。首都高の円環をぐるぐる回るノブの前に、さまざまな人物が、入れ替わり立ち替わり、姿をあらわしては去ってゆく。そうして彼はたしかに、少しずつ成長を遂げるだろう。しかし、物語上の仕組みにより、円環の外側へ足を踏み出す必要は、ひとまず保留されてしまっている。この意味において、ループ構造のリアリズムは、『C1ランナー』にも生きているといえる。が、テーマの位相に大きな変移がある以上、これから先のストーリーで確認されるべきなのは、その質になってくるのである。

 『湾岸MIDNIGHT』40巻について→こちら
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2009年11月09日
 文学界 2009年 12月号 [雑誌]

 『文學界』12月号掲載。村上龍の『心はあなたのもとに “I'll always be with you, always”』は、作者がこれまで手がけてきたヤザキケンあるいはケンジ・ワークスの総集編とでもすべきアイディアの流用を、今ふうの難病恋愛ものというかケータイ小説的というか、あらかじめ恋人の死が定められているような物語に落とし込んだ内容であって、正直なところ、持って回った筋書きに怠さの誘われる部分はすくなくない、というのは以前にも述べたけれど、連載も三十回を越えて、ようやく佳境に入ってきた感がある。主人公である中年男性によって手厚く養われている愛人の病状が悪化し、両者のあいだに色濃く横たわっていた死の気配が、具体的なモーメントへと変わりはじめている。ひさびさの逢瀬、しかし約束の時間に現れない香奈子に連絡をとろうとするが繋がらず、ケンジは〈これまでも直前のキャンセルがなかったわけではない。しかし、そういうときは必ず連絡があった。こんなことは、はじめてだった〉と悪い予感を抱き、心配の言葉をメールにして送るというのが、この第三十一回の引きである。が、クライマックスの生じる前段階において、かねてより香奈子が喪失されるかもしれないことに持っていたケンジの不安が、少年時代の記憶と家族との関わりのなかで、強烈さと曖昧さを増しながら先延ばしにされている、それが今回の要所だろう。てっきり、主人公の妻子は背景に引っ込んだまま、ずっと話は進んでいくのかと思っていたのだけれども、ここにきて、断片的に、彼女たちの存在が浮かび上がる。そしてそのイメージは、スノッブな印象も含め、村上龍の過去の小説にしばしば見られていたものと共通する。たとえば一つ例を挙げるなら、家族間の無関心と奇妙に戯れる短編「ウォーク・オン・ザ・ワイルドサイド」を思い出させる。必ずしもシリアスに向き合う必要のない関係性は、しばしば主体をリラックスさせる。こうした認識のありようが『心はあなたのもとに』の第三十一回では、あたかも〈家族との時間は、わたしを受身にする(略)わたしには基本的に居場所がない。まるで透明人間になったかのようで(略)それが心地よかった〉と再確認されている。他方、幼い日の出来事が、ふと主人公の頭をよぎるくだり、ヨシムラという少年の存在もまた、『はじめての夜 二度目の夜 最後の夜』など、作者の過去作に見つけることができるし、虚弱体質の同級生のエピソードは、他の作品にも拡散している。ヨシムラは〈でも、ぼくは、映画を観ているときだけ、少し痛みを忘れるんだよ〉と言う。もちろんこの、映画、という響きが持っている意味合いもやはり、村上龍にお馴染みのものだといえる。

 第二十七回について→こちら
 第十九回について→こちら
 第十七回について→こちら
 第十一回について→こちら
 第七回について→こちら

・その他村上龍に関する文章
 『半島を出よ』について→こちら
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2009年11月08日
 ランチキ 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 たとえば、バツとテリー(大島やすいち『バツ&テリー』の)や、トオルとヒロシ(きうちかずひろ『ビー・バップ・ハイスクール』のね)、三橋と伊藤(西森博之『今日から俺は!!』のさ)、亜輝と直巳(米原秀幸の『ウダウダやってるヒマはねェ!』のだ)等々、例を挙げればきりがないくらい、主人公をダブルにし、男同士のフィフティ・フィフティな関係性を描いた作品は、不良少年を題材化したマンガ史において一つの系譜を為してさえいるだろう。もちろん、それはそのジャンルに必ずしも特殊な形式ではないし、旧いフィクションにいくらでもルーツは遡ってゆける。二人一組の物語、いわゆるバディもの、のレパートリーにほかならない。が、さしあたり押さえておくべきなのは、個々の作品が持っている特徴をべつとすれば、すべて、ヤンキーというこの国の現代に固有な心性を前提条件にしたさい、ホモ・ソーシャルな連帯はいかなる価値を持つのか、をダイレクトに問うかっこうになっていることである。

 不良少年である主人公たちの関係性は、正しく野郎ならではの不器用な友情を描いているのだ、と素朴に美化することができる。しかし、その判断はあくまでもヤンキイッシュなライフ・スタイルのなかでくだされる。こうしたテーマのニュー・ヴァージョンとして見るべきなのが、奥嶋ひろまさの『ランチキ』だろう。鹿野乱吉と金田哲雄の二人は、周辺から「勉強の翠山」と呼ばれている中学校の生徒で、卒業まであと三ヶ月、とくに成し遂げたこともなく、悔いを残し、退屈を持て余していたはずの彼らが、ある光景を前に衝撃を受け、影響され、ケンカの勝利に自分たちの青春をかけるべく、チーム「しかばね(鹿金)」を結成、不良校である示現中学と事を構えながら、じょじょに名をあげてゆく。1巻に示されたあらましを述べるとこうなる。

 時代がくだっているがゆえに、ヤンキー・マンガ的なテーマのニュー・ヴァージョンと見なせるが、ストーリーの段取り自体は、ひじょうに古めかしいといえる。小さな世界の成り上がりを夢想することによって、主人公たちのモチベーションは担保されているのである。学園生活にかぎられた小さな世界は、もっと大きな社会の枠を考慮したとき、たちまち空虚なものになりかねない。そのような認識からの必死な逃亡、モラトリアム下の抵抗こそが、作中で、衝動と呼ばれ、自己表現と指され、青春と意図されているものの正体だと思う。ただし、やはり着目せざるをえないのは、それが二人一組のペアになって成立させられている点だ。小賢しく、卑怯な手も辞さない乱吉と、根はまっすぐで、高潔な哲雄のコンビネーションは、お互いがお互いの分身であると批評されるものとは、おそらく異なっている。

 それこそ、『今日から俺は!!』の三橋にとって、分身的な存在がいるとすれば、それは相棒の伊藤よりもむしろ、中野であったり、あるいは相良であったりするように、たとえば『ウダウダやってるヒマはねェ!』の亜輝に、もしも分身的な存在がいるとすれば、それは相棒の直巳よりもむしろ、アマギンのほうが相応しかったりするように、性質を等しくするが、相似性を別個とするほどに非対称な関係性が、この手の作品を根っこから支えているのである。『ランチキ』の場合もやはり、主人公たちは、環境をともにするなかで、認識を共有し、意見と行動を一致させてはいるが、きわめて非対称な関係性を保っている。要するに、決して同一化されえないポジションをキープしている。たぶん、彼らのあいだの明確な差異が、コミュニケーションという文脈を物語に発生させているのだ。そして、そのコミュニケーションは、すでにいったとおり、ヤンキイッシュでホモ・ソーシャルな価値観に拠っている。問題は、それが基礎である以上、今後の展開を経て、どこまで話を拡げていけるか、突っ込んだ提起が為されるか、になってくる。

 絵柄は、ときおり(じっさい作者と交流があるらしい)柳内大樹を思い出させたりするけれども、猿渡哲也のアシスタント出身だけあって、アクションのシーンには、なかなかの迫力がある。同じ『月刊少年チャンピオン』に連載されている『ドロップ』(品川ヒロシ・鈴木大)は、それが実話をベースにしているという以外、高校生ではなく、あえて中学生にした設定をぜんぜんうまく生かせていないが、さて後発であるぶん、そのへんをどう扱っていくのかも興味のわくところ。
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