ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年10月31日
 スワンソング【完全初回限定盤】 スワンソング

 KinKi Kidsのニュー・シングルとなる「スワンソング」は、「硝子の少年」をはじめ初期の代表曲にいくつも関わってきた松本隆が詞を提供しており、絢爛なストリングスと打ち込みのリズムがバックのトラックを盛り上げていくのに反して、歌われるメロディはせつなく、綱引きが幻想的に響くなか、今にも壊れそうな関係性をイメージさせる。じつにこのユニットらしいナイーヴさのよく出たナンバーとなっている。が、それにしても「スワンソング」のみならず、今回のリリースのために揃えられた楽曲の数々からは、まるで少年時代に別れを告げているかのような儚さを感じてしまう。あるいは、三十歳代に入り、かつての幼さとは異なるベクトルを持ちはじめた堂本光一と堂本剛の表現力が、そのように受け取らせるのかもしれない。初回盤と通常盤の双方に収められた2曲目の「サマルェカダス 〜another oasis〜」は、しっとり、落ち着いた抑揚とアレンジが、クラシックな歌謡曲を彷彿させる。二人のヴォーカルが何よりも前にき、光一くんの力み、剛くんの伸び、いま現在におけるKinki Kidsというコントラストが、コーラスの箇所に〈幼い僕なら裸足で行けた・憧れと喜びがあふれだす世界〉とあるとおり、過去からはセパレートされた場所と心情を描く。正直、自分の好みでいえば「スワンソング」よりもぐっとくる。作曲も手がけているマシコタツロウの詞は、ひじょうにまっすぐな悲哀を孕んでいて、〈僕が生まれたその日から季節は巡り・地図も持たずにここまで歩いた・絵具が足りなくなるほど描いた夢なら・額に飾ってばかりじゃ意味がない〉と書きつけられた出だし、そこをソロでとっている剛くんの、さすがに上手い、艶っぽさもあり、とたんに引き込まれる。初回盤、3曲目の「深紅の花」も、アップ・テンポでダンサブルなナンバーだが、基調はやはり、物悲しい。ところで初回盤に並んでいる3曲はどれも、詞に盛り込まれたフレーズはもとより、林部直樹のギターがそうさせるのか、どこか異国めいた情緒を共通して持っている。まあ、アイドルのポップスによくあらわれる抽象性にすぎないのだけれども、それがある種の距離感をつよく表象するふうになっていることが、じつは重要だ。むろん、一つにはラヴ・ソングのニュアンスで主体と相手のあいだの隔たりを意味しているわけだが、もう一つ、自分自身をかえりみた主体の過去と現在とに区切られてしまった感傷を肩代わりしているのだろう。すこしずつ遠ざかる景色がうつくしく見えるのは、もしかすれば二度とは戻れない予感を含んでいるためであって、おそらくは「スワンソング」の収録曲に聴こえる印象、少年時代に別れを告げているかのような儚さも、そうしたあたりに起因している。通常盤の3曲目である「面影」は、タイトルからしてもう、パセティックなバラードで、「サマルェカダス」と同じく、アレンジはクラシックな歌謡曲を思わせる。光一くんと剛くんとが、前半と後半のハーモニーで主旋律を入れ替わる、はっきりとわかれてゆく両者の個性が、しみじみ、余韻に繋がる。

 『Secret Code』について→こちら

・その他堂本剛に関する文章
 『RAIN』について→こちら
 コンサート『ENDLICHERI☆ENDLICHERI CHERI 4 U』(09年8月19日・国立代々木競技場第一体育館)について→こちら
 『空 〜 美しい我の空』『美 我 空 - ビ ガ ク 〜 my beautiful sky』について→こちら
 『I AND 愛』について→こちら
 『Coward』について→こちら
 「ソメイヨシノ」について→こちら
 [si:]について→こちら
 『僕の靴音』について→こちら
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2009年10月30日
 蒼太の包丁 22 (マンサンコミックス)

 ああ、〈…「頑張ってる」ことで自分を許してたら未来はないで!〉という花ノ井の言葉には、どこかこう、考えさせられるものがあるな。主人公である蒼太が父親を亡くしてからの『蒼太の包丁』は、ストーリー上、彼の自立を描くような色合いを濃くしている。もちろんそれは初期の頃よりすでに顕在していたテーマではあったが、ここ数巻、さらにつよまってきていると感じられる。そして、いつまでも半人前のままで止まっているわけにはいかず、決意と躊躇いのなかを奔走する蒼太の姿は、必ずしも料理マンガというジャンルにのみ、あらわれるものではないだろう。いや、和食の世界を一つの手がかりとし、もっとずっと普遍的な営みが描かれているので、気づけば彼の、思い悩み、戸惑う表情を応援したくなるのだ。22巻も今までどおり、エピソードの単位では盛りだくさんの内容となっているけれども、基本的には、いかに蒼太が成長を遂げ、しかしそれでもいまだ自らの志には届けないでいるか、丁寧に汲み取ってゆく。頭に引いたのは、先に自分の店を持つことになった元同僚の花ノ井が、彼の立場からすれば、才能はあるのにぐずぐずして見える蒼太に向かい、告げた言葉である。これに対し、蒼太は〈でも僕には頑張って行くことが自分の支えなんだけれど〉と心に思う。おそらく、花ノ井の考えも、蒼太の意識にしても、どちらか一方が間違っているということはない。そもそも両者は出会ったときより、弁証し合う関係にある。だが、結果を求める段階にあっては、蒼太のスタンスでは足踏みに感じられてしまうことが、いわば物語の引きをつくっている。ところでまあ、今や立派になった須貝も登場したばかりの頃は、とんだ坊ちゃんだったけれど、この巻で「富み久」に新しく入ってくる垣内もまた、なかなか手強い。社会を知らない彼とのやりとりを通じて、蒼太は目上としての自覚を得なければならないというのが、あくまでも本筋に関わっている点で、結局のところ垣内はその役割を終えたらいなくなってしまうのだが、可愛らしいような憎たらしいような顔つきに、いやいやこいつは怒ってやらなきゃだめだろう。わざとそういうふうに表現してあるのはわかっているものの、ついつい。度量がせめえのかな。

 20巻について→こちら
 18巻について→こちら
 17巻について→こちら
 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
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2009年10月29日
 Axe to Fall

 とにかく、アタマの4曲が強烈だ。最高潮に燃える。血気が盛んとはまさしくこのことかよ。初期の頃のイメージからすると、ぐしゃぐしゃに歪んだカオスのごとき想念は鳴りを潜め、かわりにヘヴィ・メタリックな構築性が増し、ひじょうに聴きやすくなった、ともとれるので、おや、と思わされるところもあるにはあるが、そこを含め、結局はその、音塊をぶんぶんと振り回すような勢い、アグレッシヴなアプローチに圧倒されてしまうのである。ねえおまえさん、おまえさんがねえ、しょげたり、愚図ったり、うんざり、膝を折りそうになって、いっそのこと粉砕の衝撃に何もかもを忘れてしまいたくなるとき、まあこれを耳にしたまえよ。と、CONVERGE(コンヴァージ)の通算8作目となるニュー・アルバム『AXE TO FALL(アックス・トゥ・フォール)』は、そうしたオーダーにちょうど答えているみたいだった。すでに述べたとおり、アタマの4曲によって、ほとんど作品のインパクトは決定されている。ハイ・スピード、高速で繰り出される重低音、矢継ぎ早な展開、のっけから扇情性をフル出力する「DARK HORSE」、ぎりぎりの緊張でスリルをつよめる「REAP WHAT YOU SOU」、激しいモッシュ・ピットを想像させる「AXE TO FALL」、瞬くギターのノイズが鮮明な「EFFIGY」、テンションというか、集中力を一点に張ったナンバーが連続するのだけれど、どれも同じパターンには陥っておらず、細やかなヴァリエーションのなかで、個々の存在感をアップさせながら、途切れることもなしに急襲をかけてくるのだから、たまらない。息つく間も与えてはくれないほど。アドレナリンの値をがんがんあげる。そして特筆すべきは、ベン・コラーのドラムだろう。たとえばそれは、SLAYERの傑作においてデイヴ・ロンバードの叩きっぷりが象徴的な印象を持っているのに似て、各曲のヴァリューを高めている。すばらしくパワフルな打撃が、躊躇いもなく、修羅の道に立ち塞がるぜんぶを薙ぎ倒してゆくのである。しかし過剰なクライマックスの連続は、ドゥームを装ったスローで摺り足の「WORMS WILL FEAD / RATS WILL FEAST」を5曲目に迎え、いったん食い止められる。これ以降、スピードとエネルギーをたんなる加算式に積み重ねるばかりではなく、度々、意識の暗がりを深く掘り下げるかのようなセクションを設けながら、アルバムは構成される。そうした局面が一種のバランスとなって、作品の全体像には、今までになかったぐらいのまとまりがある。まとまりがあるというのが、CONVERGEにとって褒め言葉になるかどうかはわからない。が、アタマの4曲は、やはり刺激的、舌を巻かざるをえない。もちろん、6曲目の「WISHING WELL」を筆頭とし、後半にもハイパー・アグレッシヴなナンバーが揃えられている。しかし、このバンドならではのすさまじさが、まぎれもなく実感されるのは、冒頭だ。幕を開けたとたん、いっさいを灰燼に帰してしまうつもりか、轟々と灼熱があふれ出す。あたかも絶望に達しそうなフラストレーションが凝縮され、翻り、うなっているんだ。と思いながら、身を乗り出す。

 『NO HEROES』について→こちら
 『YOU FAIL ME』について→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2009年10月28日
 姫剣 1巻 (ヤングキングコミックス)

 (かつて『0リー打越くん!!』や『TO-mA』のファンだった人たちに向かって)おーいおまえら、おまえらの好きだった桑原真也がちょびっとだけ帰ってきたぞ。いや、学園をベースにした活劇性を求めるならば『ラセンバナ』のほうがそれに近しかったかもしれないが、いかにもオタク・センスなエロティック・ファンタジーとしてはこちらの『姫剣(ヒメハバキ)』のほうに分がある。そう、つまり桑原という作家は必ずしもヤンキー・マンガの人ではなかったことを思い出させる。古代の日本、奴隷の立場を脱しようとしていた竹流は、巨大な剣を携えた謎の少女、サラと出会い、成り行きから旅路を共にすることとなる。はたしてサラの望みとは、特別な目印を持った7人の仲間を探し出し、巨大な奴隷都市を築き上げた温琉の国を打倒することであった。次々とあらわれる強敵を前に、彼女の剣さばきが鮮烈に光る。正直、1巻の段階ではどうということのないストーリーが繰り広げられているけれども、コメディの描写を入れながら、やたら女性の裸や下着が出てくる一方、作中人物たちの運命がかなり過酷に設定されているあたり、『R-16』以前のカラーを彷彿とさせる。とすれば、もしかしたら『0リー打越くん!!』や『TO-mA』のように後々押し寄せてくる怒濤もありうるのかな。さあどうだい。

・その他桑原真也に関する文章
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
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2009年10月27日
 りぼんファンタジー増刊号 2009年 11月号 [雑誌]

 編集者は違うのだろうが、同じ集英社から出てきたアイディアなのだから、もうすこしひねりを加えて欲しかった。あるいはこういう作品が少女マンガの文脈に置かれることに意味があるのか。『りぼんファンタジー増刊号』に掲載された牧野あおいの『HAL-ハル-』は、端的にいって、かの『デスノート』を簡略化したヴァリエーション以外の何ものでもない。主人公は、他人を見くだしているだけの凡庸な女子中学生に置き換えられ、何かしらのアイテムを媒介するのではなく、死神が直接に願い事を叶えてしまう。こうしたプロットにおいては、ミステリの要素や頭脳戦のスリルは省かれ、子供じみた他愛のない欲望だけが、教訓めいた結末を与えられることで、処置されてしまう。決して悪いお話ではないのだが、扉絵のデザインや作中の構図からうかがえるとおり、『デスノート』を下敷きにしていることはあきらか、大勢の目に止まったら叩かれそうなリスクを冒してまで発表するほどの内容になっているのかは、疑わしい。最初に述べたことの繰り返しになるが、せめてもうすこしのプラスαがあればと思う。
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 りぼんファンタジー増刊号 2009年 11月号 [雑誌]

 酒井まゆの『クレマチカ靴店』は、このたび創刊された『りぼんファンタジー増刊号』に発表された新作読み切りで、続編が『ジャンプスクエア』10年1月号に掲載されるらしいから、さらなる展開があるのかもしれないし、たしかにファンタジーの色合いが濃厚であったりもするが、すくなくとも今回のエピソードにかぎっていうなら、本質的に少女マンガのイディオムをおおきく逸脱するものではない。舞台は〈科学とささやかな魔法が混在する世界〉である。そこでは、感情を持たないせいで皮肉にも「エンプティ」と呼ばれるロボットが、人間に仕え、さまざまな業務をこなしている。大富豪のアイゼンシュタイン家でメイドとして働く少女もまた、9号という名しか与えられていない「エンプティ」であった。その彼女がたった一つの願いを叶えるため、注文を受ければどんな靴でもつくってくれるという「クレマチカ靴店」の扉を開いたところから、物語ははじまる。ストーリー自体は、ひじょうにシンプルなので、くわしい内容の説明は省くけれど、アイゼンシュタイン家の御曹司であるリヒトと9号の、不釣り合いな関係が、ある種の運命を通じ、つよまっていく様子が描かれている。おそらくは根っこの部分に童話『シンデレラ』型のラヴ・ロマンスを見ることもできる。しかしながらこのとき注意しなければならないのは、両者の結びつきが必ずしも恋愛だとは明言されていない点だろう。いやもちろん、ふつうに考えるなら、恋愛以外にはありえず、わざわざ示したりするほうが無粋であるのかもしれないが、あえて確定を避けることで、ほんらい二人のあいだに横たわらなければならない階級的な葛藤は、すんなり棚上げされている。かたや人間、かたやロボット、という障害のはらわれることが、幸福な余韻をもたらしているのは間違いない。一方で、人間同士の身分差をどう超克するのかはうまくぼかされている。たとえばおしまいに近いあたり、リヒトの〈父様なら私が説得する〉という言葉は、恋愛や結婚を前提としていない以上、なぜ9号がとある秘密を隠していたのかを踏まえたさい、今後もメイドとして傍に置いておくという約束でしかないふうにも読める。だとしたら、状況は一変もしていない。にもかかわらず、すべてが前途洋々に見えてしまう錯覚が、ハッピー・エンドの形式を担う。はたして作者がどこまで意図しているのかは知れないが、結果的にそうなっている。

・その他酒井まゆに関する文章
 『MOMO』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ロッキン★ヘブン』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら 
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年10月25日
 ときおり、少女マンガって男同士の友情が好きだよね、と思わされるのだが、それはもしかしたら、ジャンルの性質上、三角関係がベースになりやすい物語において、トライアングルの頂点にヒロインが位置しているとき、彼女をめぐる二者間の緊張を高める措置であると同時に、女性の立場から見てその不器用なやりとりが、異性への憧憬を代替するような仕組みを孕んでいるからなのかもしれない。こうした仮定は、いや、あんがい的を外していないのではないか、と積極的に感じられるのが、美森青の『シーイズマイン』なのだけれども、前作の『B.O.D.Y.』とはまた、絵柄も雰囲気もがらりと変えてきたなあ。そしてそれは、この1巻を読むかぎり、うまくはまっている。性格も趣味もてんで違っているのに、子供の頃からいつもつるみ、〈くされ縁10年目の春〉、村上晴(ハル)と佐野遼太郎は同じ高校へと進学した。期待と不安を抱き、あらたな学園生活にのぞもうとする二人はそこで、うつくしい顔立ちの少女、中川美礼と出会うのだった。かくしてクラスメイトとなった彼らの、不思議な三角関係を軸にし、どうやらストーリーは進んでいくよう。ひじょうに特徴的なのは、ヒロインにあたる美礼が、計算ならば計算でタチが悪いしナチュラルならばナチュラルで輝きを増すほど小悪魔的な魅力にあふれ、ハルと遼太郎の男子二人を身勝手に振り回す様子が、作品のテンポをユーモラスにしていることだろう。最初は決して好意的ではなく、迷惑がってすらいた彼らだったが、次第にそのペースに引き込まれて、付かず離れずのスリー・ピースをつくってことになる。もちろん、恋愛感情をあいだに挟んでの三角関係を予感させながら、である。無粋にもとれる美礼の造形は、必ずしもチャーミングとはかぎらず、ふつうの少女マンガであったら、ライヴァルの役に回されかねない。だが作者は、どうして美礼がヒロインなのか、正当化のエクスキューズをストーリーにあてることで、クセのつよさをある種のイノセンスへと反転させる。それに従い、ハルと遼太郎とが彼女に対する認識を改めていくうち、読み手の側も自然と美礼の振る舞いを受け入れられるようになっている。この意味では、最初に述べたことと一部矛盾してしまうけれど、男性の視線が作品の輪郭を象っているといえる。あるいはだからこそ『シーイズマイン』というタイトルがぴったりとくる。

・その他美森青に関する文章
 『B.O.D.Y.』5巻について→こちら
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2009年10月23日
 率直にいって、この2巻で完結した『クローズ外伝 リンダリンダ』は、ひじょうに残念な作品であった。おそらく、高橋ヒロシはブランドを貸しているだけだろうから、ゆうはじめがよくなかったのか。まあ担当の編集者というセンも考えられなくはない、が。絵柄や構図のセンスはけっこう好きだったんだけどな、と思う。結局のところ、不良少年にも内面はある、というテーマを、生まれや育ちの問題に原因を求める、といった以上のところへ帰結できなかったことが、最大の瑕疵になってしまっている。そうした部分にかかずらってしまったため、ストーリーとしては絶対に押さえておきたい点、つまりリンダマンこと林田恵と吉留圭一の友情に、十分な説得力を持たすことができなかった。あるいは、個人個人の内面に焦点をあてすぎたせいで、岡倉智英や女王アリこと樫野雄大などの、せっかく出してきた魅力的な人物を、展開に都合のよいコマとしてしか生かせなかったのは、惜しい。一方、原作の『クローズ』にしても、リンダマンの内面は直接に描かれなかったわけだけれど、やはりここでもそれをあらわすのはタブーだったのか、ほとんど伏せられているのであって、かわりに内面を与えられてしまった作中人物たちが(そして読み手が)何かしらの象徴として見るべき存在へと変質させられている。ある意味、神格化されている(これはたぶん、映画『クローズZEROII』のリンダマンもそうであるし、鈴木大がやっているマンガ『春道』の坊屋春道も同様である)のは指摘しておきたい。
 
 1巻について→こちら
 4話目について→こちら
 2話目について→こちら
 1話目について→こちら
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2009年10月22日
 足利アナーキー 1 (ヤングチャンピオンコミックス)

 さあ、くず人間どもによる最高潮に浮ついたエンターテイメントの幕開けだよ。はっきりいって、それ以上のことは何も繰り広げられないであろう。だが、そこがいいんじゃないか、と思う。ついに新進気鋭、吉沢潤一、『足利アナーキー』の1巻が出た。ふたたび述べるが、ここには教訓もメッセージもタメになる旨はいっさい描かれていない。衝き動かされる欲求にわかりやすくアプローチしているだけだ。

 近年、ヤンキー・マンガのジャンルに属するいくらかの作品がやたらに退屈なのは、不良少年にも内面があるという、ちょっと考えれば当然のようなモチーフを引っ張ってくるのはいいが、それを確認しておしまい、物語のレベルにはっとさせられるところがなく、遺伝や環境に原因を転嫁し、生き様を問うこともない、せいぜいが独創性のないポエムをのたまうのみ、ほらこんなにもシリアスなお話なんですよ、といった身振り手振りを示しているにすぎない、と感じられるためである。もちろん、こうした陥穽を逃れている作品は何個もあるし、作家は何人もいる。けれども、それらがかえって孤高に見えてしまうあたりに、一種の難儀さを覚える。

 言い換えるなら、他のフィクションがそうであるのと同様、ヤンキー・マンガのイディオムも、90年代後半よりこちら、個人の内面、いわばメンタルの問題に従事してきたのであったが、00年代の終わりになって、そこから一気に、アクションの肉感、フィジカルな能動へと振り切れていく方向で、『足利アナーキー』はブレイクスルーを描いている。せっかくの青春なのに退屈だからギャングになっちゃおう、とりあえずギャングになったのだったらキングを目指しちゃおう、作品の全体を貫いているのは、1+1が2となるのに等しく、明解な論理である。

 栃木県、足利市、〈中途半端に栄えている中途半端な田舎であり…(略)中途半端な不良や阿婆擦れや田んぼの天国…つまりどこにでもある田舎…〉で、中学3年の頃より高校3年の17歳になった現在までずっと、県内最大のヤクザ、刈屋会にスカウトされ続け、「栃木の鬼神」と呼ばれるハルキ、そして彼の中学時代のツレで、各々が名うての喧嘩屋であるカザマサ、タカシ、ヒカルらの首を狙い、地元の不良少年たちが次々と挑みかかってくるのは、もはや日常茶飯事だが、しかしどうせ相手をしなければならないなら、いっそのこと先回りしてぜんぶ潰してしまおう、と、たった4人でギャングの根城に乗り込んでゆくのだった。

 繰り返しになるけれども、こうした筋書き以上のことは何も描かれていないことが、『足利アナーキー』の内容に、ハイな爽快さをもたらしている。作中人物たちにどのような内面が備わっているのかが重要なのではない。そうではなくて、作中人物たちがいかなる行動を起こしたかに焦点は向けられており、その顛末は、殴る蹴るのヴァイオレンスにまったく置き換えられているのである。一般的には、ほとんど褒められないアトラクションばかり展開されるが、しばしば貴ばれる若さゆえのフル・スロットルとは、要するに、これだけ傍迷惑なうえ、頭の悪いものなのであって、そこまで理解しておけば、文句のつけようはない。

 会話一つとってもすばらしくローIQなのは、ギャグとして可笑しいというより、作品のテンションをキープするための作法だろう。そういったセリフのほか、格闘技に関する蘊蓄込みのナレーションが多用されており、おそらくは森恒二の『ホーリーランド』を参照し、経由しているではないか、と思われるのだけれど、その饒舌さは必ずしも作中人物の内面をフォローしていない。状況解説に、文字どおり、因果を含めながら、多少の無理やりをねじ伏せるのに、一役買っている。ここで説かれているハウ・トゥの真偽、実用性は問題ではない。読み手の意識が、アウトローに屈託を見てしまわないための方便にほかならないからだ。

 すくなくともこの1巻の段階では、どこからどこまでがまじなのか冗談なのか、判断しかねるが、初期衝動とでもいうべきアグレッシヴさの、ダイレクトに照射されているところが、最大の魅力となっている。抜群のはったり。

 1話目について→こちら

・その他吉沢潤一に関する文章
 「ボーイミーツガール」について→こちら
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2009年10月21日
 こうして2話目が『ビジネスジャンプ』NO.22に掲載され、来年2月に再登場が予告されているように、どうやら弓月光の『瞬きのソーニャ』は、不定期なシリーズながらも、物語が続いていきそうだ。80年代末、ベルリンの壁は崩壊し、ソビエトを脱したザイツェフとソーニャは、中国へと渡る。しかしながら当然、彼らに無事が訪れるはずがない。殺戮機械としての運命を与えられた少女が、巨大な陰謀を背に、死屍累々のサヴァイバルを強いられる、という内容は、以前にも述べたとおり、時代や舞台こそ違えど、弓月版『あずみ』といってもよいと思う。まさか、『ガンスリンガー・ガール』への返答ではあるまいよ。小山ゆうと弓月とでは、ジャンルも作風もぜんぜん異なっているが年齢は近しく、ひょっとして彼らの世代が社会の変容を描こうとすると、こういうアプローチになるのかもしれない可能性を考えさせられるけれど、それはともかく、作者が得意とするエロティックなセンのコメディはまったく封印され、シリアスに時代の不自由と個人があらわされている。まあ、弓月からすけべな描写を取ってしまうと、オールドスクールな少女マンガのタッチがつよくなり、そのため古びて感じられるところがあるものの、たとえば今回のエピソードで繰り広げられる軍用ヘリとの対決は、画の迫力で圧倒されるのとはべつのレベル、コマの運び一つが軽やかな動きのテンポをつくっていくあたり、さすがにうまい。強権的な人為によって、破壊兵器のごときすさまじさを持たせられた少女、ソーニャの逃避行に託されているのは、やはり、イデオロギーに感情を操作された人間のテーマだろう。もちろん、無感動で無感情な子供がエモーションを獲得してゆく過程、と言い換えられるわけだが、父親代わりの老兵であるザイツェフがソーニャに〈あの研究所にいたら 何も知らずに安楽にすごせたかもしれない しかしそれでも 自分の意志で自由に生きる事の方が何よりも優るのだよ〉と諭しているのは、環境を別個とした人格が存在するという信頼にほかならない。だがはたして自由意志はありうるか、の哲学的な議論はさておき、すくなくともイデオロギーの束縛を拒否するだけの権利が人間にはあって欲しい、そのような願いをヒロインは生き、生き延びていかなければならないことが、冷戦構造の終わりを向こうにした作品の主眼となっているのである。

 1話目について→こちら
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 まあ、読み手の側からはうかがい知れぬ商売上の理由があったんだろうね。終盤、『週刊少年サンデー』本誌からインターネット上の『クラブサンデー』に連載の場を移し、おそらくは一般的な認知度をさげてしまったが、しかし内容のほうは十分に魅力的なまま、寒川一之の『GOLDEN★AGE』がこの15巻で完結した。クライマックス、サエグサ杯における対横浜ドルフィンズとの試合、かもめ中の面々が全力を尽くし、パスをつなぎ、唯と近江に希望を託してゆく場面、そして彼ら二人が抜群のコンビネーションを繰り広げ、ゴールを奪う瞬間、およそスポーツ・マンガにとって最良のカタルシスを宿しながら、作品のテーマがボールの軌道へと託されてゆく。所属していたジュニア・ユースが解散してしまったため、落ちこぼれであったかもめ中のサッカー部に身を寄せることになった白河唯、浦田(トラ)、ナリアちゃんの三人が、〈あのせまい石コロだらけのグラウンドに…何もあるわけねえと思ってた…〉〈でもかもめ中は、最強のプロJr.ユースに勝っただの!〉〈闘う気持ちと…あきらめない心……ボク達に必要なものは、ちゃんとかもめ中にあったんだ〉と言っているとおりのことを、彼らを含めたイレブンが見事、強敵を相手に証明してみせたのである。とにかく、かもめ中で唯たちを迎えた面々が、最初はこいつらどうしようもねえなあ、と思っていた連中が、まさか、ここまでやるとは、な。いや、あるいは彼らだからこそできたのだろう、という信頼が、物語のなかでたしかに描かれていた。唯と並んで、もう一人の主人公をつとめた近江の役割もおおきい。『GOLDEN★AGE』のタイトルに意味されていることは、当初、彼に課せられた手遅れとして示されていたけれども、それをじょじょに乗り越え、べつの含みが持たせられていった。可能性は決して限定されるものではなく、また、一人ではたじろいでしまうような困難ですら周囲の助けや働きかけがあれば。もしかしたら優等生的な主旨をつよく感じられる展開ではあったものの、少年マンガがそれを伝えて何が悪い。かもめ中のメンバーのみならず、彼ら以外のワキたちにしたって、みな、とてもよく生きていただろう。フィナーレを飾る勝利への執念は、まちがいなくライヴァルとのせめぎ合いを通じることにより、高い価値を得ている。唯にアプローチをかけるも、近江とばかり接近してしまうヒロインの存在も、にやにやさせられるほど楽しかった。良い作品である。

 3巻について→こちら
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2009年10月19日
 ジ・ウィンドアップデッズ

 洗練されたメロディはあまりにもたくさんあって、たとえば「美メロ」なるキャッチ・コピーを目にしただけで白けてしまう時代を生きられることが、はたして幸か不幸かは知れない。が、触れたとたん自然と心が開かれてしまう旋律というのは、たしかに、ある。それこそ自分にとっては、スウェーデン出身の4人組、THE WINDUPDEADS(ジ・ウィンドアップデッズ)のファースト・アルバム『THE WINDUPDEADS』によって聴かれるサウンドなどが、まさしくそう。パセティックにしなり、ドラマティックにうねり、適度なハードさをもって響くバンドの演奏、展開はストレートだけれども、音色は暗がりをつくりながら、ひずみ、センシティヴであると同時に端整なヴォーカルが、キャッチーともとれるラインを起伏させる。おそらくはTRAVISやCOLDPLY、初期MUSE等のブリティッシュ・メランコリーに通じるところのあるエモ系のアプローチと解釈してしまっても構わないだろう。だがやはり、先達にはKENTがいて、さらにはLAST DAYS OF APRILがいて、というスウェディッシュ・メランコリーの新しい系譜であるような感慨がつよい。とはいえ、それらに比べると大味にも受け取れるからか、個人的には、バラード・タイプのナンバーよりも(いやいや決して悪くないのだが)、ポップな印象のなか、躍動する調子を前へ後ろへ、胸騒ぎのせつなさを高鳴らせたナンバーのほうに抗えないものがある。4曲目の「THE END」が、最高潮に好き。2曲目の「OPTION」や6曲目の「NO DENIAL(MURDERER)」、9曲目の「REVERSE SHADE」もよい。それから11曲目の「NO ACTION NO REGRET」、タイトルどおり、素朴にひねられたクリシェが屈折した心境をあらわしているにすぎないのだが、しかし、コーラスがそれを繰り返すたび、不思議と昂揚してくるし、奏でられる叙情は、瑞々しく、クライマックスへさしかかって、哀切を振り切るほど勢いをよくしてゆくアンサンブルに、思わず共鳴する。

 バンドのMySpace→こちら
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2009年10月17日
 現代的な『りぼん』系の美幼女は、槙ようこが『愛してるぜベイベ★★』のゆずゆによって、かなり極まった感があったけれども、いやいや、モモのかわいさも侮れないね、と、いっけんどうでもよいような話から入るが、しかしやはり、そのキュートな表情にもかかわらず、地球を滅ぼそうとする大魔王の沈着さを兼ね揃えていることが、かくいうアンバランスな存在感が、酒井まゆの『MOMO』に描かれている魅力の一つだろう。じっさい彼女の容姿がもうちょい違ったならば、作品の印象もべつのものになっていたかもしれない可能性が、この3巻には示されている。モモの従者ではあるが、なぜか彼女に対し、悪意を向けるナナギの過去が、とうとう明かされるくだりである。

 早々にネタを割っていくが、ナナギはかつて、現在の地球がそうであるように、モモを7度喜ばさなければ破滅させられる、という条件を突きつけられた他の惑星の代表者であった。結果的にその惑星は救われたものの、ナナギ本人は多くのものを引き替えにしてしまう。そこまで自分を犠牲にしなければならなかった運命を恨み、憎しみ、絶望し、復讐の機会をうかがっていたのである。ナナギがいた惑星のエピソードは、本編の世界観とは異なり、うつくしく悲しいハイ・ファンタジーになっているけれども、そこにあらわされている排他性、疎外感、裏切りは、どのような集団にあっても起こりうるし、現実の戯画化であるふうにも受け取れる。

 作中に説明されているとおり、ナナギの故郷は、いったんは危機を回避しながら、その方法がイレギュラーであったため、〈ゆっくりと何代もかけて〉破滅の道を辿ったというのは、ひじょうに暗示的だと思う。要するに、存続に足る理由を十分に持っていなかったことが、大魔王の裁量ではなく、自滅のかたちをとって、のちのち証明されてしまったわけだ。モモのライヴァルであるピコが、〈まともにポイントを集めて救われた星なんてこれまで一つもない〉と述べているのを真であるとしたとき、つまり、事実としてはモモが降臨した段階で、その惑星の終末は、逃れがたく、決定づけられていることになる。当然、地球でさえ例外ではない。もちろん、それを唯一裏返す可能性が、モモを7度喜ばす、という代表者に与えられた条件であって、いまだ全宇宙で誰もなしとげたことのないトライアルを、ヒロインの小田切夢が成功させられるかどうかが、『MOMO』という物語の、イマジネーションと勇気をつくり出していることは言うまでもない。

 翻って、破壊を司る大魔王であるはずのモモが、地球上で幼い少女の姿をしているのは、ナナギの惑星では(本質的な言動は変わらずとも)べつの外見であったことがじつはある種の分岐を果たしていたのと同様、試練のありように何かしら関与していると解釈しても構わない。もしかしたら、この社会が無垢であるような子供にいかなる影響を有しているか、働きかけられる側から見られているのかもしれない。おそらくは、夢の、モモに対するアプローチも、そこに含まれる。

 ほんらい物心つかない幼児期がイノセントであることと、平等な破壊者であり審判であるがゆえにモモがイノセントであることに、別種の意義を見るべきかどうかの判断は微妙だが、すくなくとも彼女が保護される立場に回っているかぎり、同一視に問題はない。今回の巻には、ナナギにまつわる展開のほか、外を出歩くモモがリンゴを落とした老女に声をかける場面に、はっとしたドラマがあるけれど、二人のやりとりはひじょうに印象的であるし、象徴的である。そしてまた、そのエピソードのモモが、たいへんたいへん、とてもとても愛くるしい。

 1巻について→こちら

・その他酒井まゆに関する文章
 『ロッキン★ヘブン』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら 
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年10月16日
 端的にいって、前後編のスタイルでまとめられた「黄泉の真実」はすばらしいんじゃないか、と思う。いしかわえみの『絶叫学級』は、学校怪談的なエピソードをオムニバスの形式で送るマンガであるが、この3巻に入っている「黄泉の真実」に関しては、ホラーの要素はきわめて薄く、かなりダイレクトに、いじめ、の問題を扱っている。

 その篇の主人公はとある場面でこう思う、〈…そっか どこにいっても変わらないんだ そっち側の人間か こっち側の人間か いじめのない世界なんて…どこにもないんだ だったら だったら〉どうすべきか、作者なりに考え、一個の答えを物語にあてている。突然、クラスメイトたちからいじめの対象にされてしまった渚は、両親や教師にも頼れず、理不尽な仕打ちに一人苦しみ、〈お願いだから神様…!! こんな地獄から私を逃がしてよ…〉と嘆くしかない。はたして、逃げ込んだ資料室で昔の卒業アルバムを見つけたことは、偶然だったのか。知らずのうち、彼女は、その卒業アルバムの時代を「まこと」という別人として過ごすこととなる。最初は、自分がいじめに遭っていないことに感激するまこと(渚)であったが、しかし決していじめそのもののない世界があらわれたわけではなかった。彼女のかわりに友人の優美が、クラスメイトたちから理不尽な暴力のマトにされていたのだ。それを見、実感されるのが、先に引いた〈…そっか どこにいっても変わらないんだ そっち側の人間か こっち側の人間か いじめのない世界なんて…どこにもないんだ〉という事実である。

 おそらく、一定の文化を持った社会においては、どれだけ時代がくだり、生活の様式が変わろうが、子供だけのコミュニティ、ネットワークは存在し続ける。こうした観点から、どうしていじめはなくならないのか、と通り一遍なだけで無限に解消されない疑問を再生産するのではなく、必然的に発生するいじめに対してどう向き合うべきか、あくまでも実現可能な態度のかたちで問うているのが、「黄泉の真実」のすぐれている点にほかならない。

 繰り返しになるけれども、平然といじめを行うクラスメイトたちが、残酷にも笑う印象に、まこと(渚)は〈…そっか どこにいっても変わらないんだ そっち側の人間か こっち側の人間か いじめのない世界なんて…どこにもないんだ〉と察する。〈だったら だったら〉どうすればいいのか。〈あんたたちの仲間になんか死んでもならない…!!〉こう言い、いじめに参加することへ、絶対の拒否を告げる。この場面はとてもつよい意思表示として読み手の心を打つだろう。さらにそれをとりあえずの一歩とし、「黄泉の真実」の論旨は展開、可能性を求めようとする心に、ちいさな灯りをともしながら、閉じられてゆく。いじめ、という病理の存在を認めないのではない。認めつつ、まだ拾うに値する希望のあることが信じられているところに、感動させられてしまう。

 ところで「黄泉の真実」のタイトルにある「黄泉」とは、『絶叫学級』全体のナビゲーター役をつとめる少女の名前である。そして「黄泉の真実」の優美こそが、黄泉その人であるとあかされている。いじめに遭いながらも、毅然とした態度を貫いた優美が、まこと(渚)と同じく〈この世界に本当に…「いじめる」か「いじめられる」か 2つしか道がないんだったら…〉という問いを前にして〈私は迷わずこの道を選ぶ〉と、最終的にとった行動は、たいへんショッキングなものだ。自殺よりも壮絶な復讐だといえる。

 そしてそのことを踏まえるならば、黄泉がなぜ、『絶叫学級』の各話で、グロテスクな顛末を眺め、不敵な微笑みを浮かべているのか、一つの推測が立てられる気がしてくる。『絶叫学級』に描かれている惨劇の多くは、利己的な人間が他をかえりみなかったばかりに恨みや憎しみの連鎖反応にはまってしまう、残念な結果によって成立している。「黄泉の真実」のなかで、優美の選んだ答えが、自分自身を犠牲にした殲滅戦であったとおり、利己的な人間の一切排除が、たぶん、黄泉の願いなのだろう。その願いが叶えつつあることに、彼女が微笑んでいるのだとしたら。あるいはそれを必ずしも肯定しないがために、「黄泉の真実」のような、オルタナティヴな力学の示された内容を、ここでいったん持ってくる必要があったのかもしれない。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『自殺ヘルパー』(原作・吉成郁子)について→こちら
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2009年10月15日
 恋色天気 (講談社コミックスフレンド B)

 木村文子の作風はひじょうに不器用だと思う。絵柄に関しても物語についても、とくに独創性があるわけではなく、また洗練されているふうでもない。かろうじて、受ける印象のやわらかさを、美点に受け取れるぐらいで、それですら他との差別化になっているほどではない。しかし個人的には、どこか根の真面目そうな手つきを、好いている。この『恋色天気』は、読み切りを四つ収めた作品集で、はっきりといってしまえば、どれもが少女マンガのシーンによく見られるストーリーのヴァリーションにとどまる、だろう。気にかかる点が、一つある。それは、ほとんどの篇で、ヒロインの片想いを何かしらの小道具に託しながら、お話がつくられていることである。たとえば、表題作にあたる「恋色天気〜木の芽風のエール〜」では、クラリネットのリードが、続く「カーテンごしの彼」では、弓道のゆがけが、「ラン・アウェイ」では、彼氏のベルトが、といった具合に、介在するアイテムを、重要なきっかけとし、恋の運気は、転回する。はたしてどこまでが作者の狙いなのかは知れないが、これはもうある種のパターンになってしまっており、作中人物の造形を派手にしようが地味にしようが、全体の結構は型どおり、一定のまま、幅をひろげていかない。もちろんそのことが、前述の、真面目そうな根を意識させるゆえんなのかもしれないけれど、もうすこし、野心的なアプローチをとってくれてもいい。木村自身が巻末に〈初めて男の子が主人公ということもあり、いつもと違うので〉とコメントしている「夏を翔る」は、そのせいか、やや異なった趣を持っていて、決してラヴ・ストーリーにまとめられるものではないが、巣立とうとしているスズメのヒナを媒介にすることで、少年と少女の感情が通じ合う、という成り行きは、他の作品と構造をおおきく違えてはいない。

 『青春パンダ!』について→こちら
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 学校の妖 (講談社コミックスフレンド B)

 この『学校の妖(あやかし)』は、複数の若手少女マンガ家がホラー形式の作品を寄せたオムニバスである。トップを飾るヒナチなおの「天地神鳴!」は、来春から『別冊フレンド』ではじまる連載のプレ・ストーリーになっており、例外としておくが、基本的にはどれも、少女の嫉妬や孤独の象徴として怪奇現象を描いている、という点では共通しているといっていいだろう。正直、お話のレベルでは類型的なものが多い。絵柄に関してもまだ先行する作家の影響を過分に感じさせる。そのなかでは、小山鹿梨子の「金魚の痣」が、決して独創的とはいわないまでも、よくまとまっている。幼馴染みの男子に想いを告げられずにいるヒロインが、彼女の邪気を吸って育った不思議な金魚の力を借り、恋愛を成就させようとする内容は、要約してしまえばありがちであるし、じっさいそれ以上ではないものの、現実と空想の対比において、あくまでも前者の色合いをつよく打ち出していることが、細かい感情をたしかにうかがわせる作風へと繋がっているように思う。裏を返すなら、こうした並びのうちで、もっとも恐怖が薄い。たんに失恋ものとして見るべきか。ぞんざいであることと紙一重なインパクト重視で、とにかく押し切った丸飴ぐみこの「無人アパート202」にも、好感を持ったが、デビューしたばかりの新人さんだから、というエクスキューズ抜きでは、きびしい点のほうがおおきい。でもまあ、そのパワフルさは高く買いたい。
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2009年10月14日
 銀座タンポポ保育園 (Be・Loveコミックス)

 たとえば、キャバクラ嬢などの繁華街で深夜に働く人びとを題材化したコミックはもちろん、繁華街で深夜に働く人びとの子供を預かる施設を舞台にしたコミックも、いまや決して珍しいものではない。そこで(かどうかは本当のところ知らないが)、くりた陸の『銀座タンポポ保育園』は、いくつかのパターンをミックスした。〈ここは 銀座のビルの一室を借りて営業している 24時間の保育園 昼はOLさんやデパートの店員さん 夜はクラブで働く女性たち(男性も)が子供を預けていく〉という「銀座タンポポ保育園」を中心に、保育士、子供たち、親たちが、それぞれの問題を抱えながら、さまざまなドラマを織り成してゆくのである。基本的には、一話完結型のエピソードでつくられたマンガなので、まず何かしらのトラブルが起き、やがて解決への道のりを辿るという手順を踏み、だいたいのストーリーは構成されている。そのとき、保育園の内部と外部の世界とを仲介し、なおかつすべてを丸く収める役割を与えられているのが、現在はその素性を隠して「銀座タンポポ保育園」の経営者となっているが、かつては伝説のキャバクラ嬢とまで呼ばれた蘭子の機智であって、彼女の活躍により、本来ならいくらでも悲愴になりそうな局面が、ハッピー・エンドに従うかたちへと、洗い直されている。そのため、現実的な措置としては多少甘いんじゃないかと思わせられる決着もすくなくはない。4話目の、元プロ野球選手の父親が再出発を誓うくだりなどは、むしろ、夢を諦めなければならない人間を肯定的に描いてくれたほうが、いっけんシビアに見えるかもしれないけれど、うつくしかったし、感動的であっただろう。とはいえ、これまでにも児童の視線を大切にしたマンガを何個も手がけてきた作者だけに、家族間のコミュニケーションをずぼらにしない配慮はよく行き届いていて、読み、しばしば考えさせられる。

・その他くりた陸に関する文章
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『オレの子ですか?』5巻について→こちら
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 隣のあたし 2 (講談社コミックスフレンド B)

 いつも好きな人の隣にいたい。でも選ばれたのは自分ではなかった。そんな悲しい話ってあるだろうか。しかしすべての恋が平等に叶えられるわけではないので、必ずや誰かがハズレを掴まされてしまう。そのような切ない地平からラヴ・ストーリーを折ってゆく、というのは、基本のシチュエーションはおおきく異なれど、前作の『スプラウト』に通じるところだと思う。すくなくとも、南波あつこの『隣のあたし』の、2巻に描かれているのは、その題名とは裏腹に、好きな人の隣に選ばれなかったヒロインの、まぎれもない失恋の模様である。ああ、鳶に油揚げをさらわれるとは、このことかよ。先に高校へ進学した一歳上の幼馴染み、京介に恋心を抱きながらも、淡い期待以上のリスクを負えずにいた仁菜の躊躇いが、取り返しのつかない後悔に変わる。自分が在籍する野球部のマネージャー、結衣子が、恋人との関係に傷つくのを見、手を差し伸べたことから京介は、彼女と付き合うことになり、それを知って仁菜は泣くことになるのだった。こうしたくだりにおいて、物語の分岐はほぼ京介に委ねられているわけだが、その心の動きに関し、におわされる程度の描写しかされず、あえて不透明にされていることは、技法上、とても肝心な点だといえよう。当の仁菜はもちろん、読み手であるこちらも、どうして彼女が選ばれなかったのか、明確に知ることはできない。したがって仁菜とともに、可能性が消えてなくなってゆく瞬間を、ただ受け入れるよりほか術がないのである。まあ、このまま話が終わることはないに違いないから、次巻以降、筋書きは二転三転するに決まっているのだけれども、いつもと変わらぬ日常が続いていくなかで、喪失だけを手渡されてしまった仁菜のやるせなさによく焦点が合っており、共感の磁場であるような、深い溜まりをつくり出している。仁菜のほうに感情移入しつつ、彼女のポジションからはうかがい知れない部分にまで目を通せる読み手の立場からすると、結衣子のアプローチからは、なんていうか、ちょっとこう、女のずるさみたいなものを、受け取ってしまうかもしれない。いや、作中でもそれは、以下のとおり、指摘されている。だが〈……ずるい です / 彼氏…いるんじゃないですか………〉と述べる仁菜に、結衣子が〈……ずるいのは知ってる〉と答えているのは、すなわち、彼女には彼女なりの正当性が与えられていることを意味しているのであって、たんなる悪役と完全には合致しない余地になっている。むしろ、少女向けのフィクションだからこそ、結衣子の振る舞いは、小賢しく、批判めいて感じられるが、現実の観点に即すなら、一種のリアリズムにすらとれる。かくして明確に線引きされているのは、仁菜との差異化にほかならない。これは当然、高校生である結衣子の聡さに対し、中学生である仁菜の幼さを、つよく印象づけるものだろう。おそらく、今後の展開は、ヒロインがいかに子供の時代と訣別するかによって、担われてゆく。

・その他南波あつこに関する文章
 『スプラウト』
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年10月13日
 近キョリ恋愛 5 (KCデラックス)

 いいな、いいな、恋愛っていいな、である。たとえどれだけつらくきびしい目に遭い、泥沼につっこんだ片足を引っ張り上げてはもう一方の片足を泥沼につっこむような面倒を引き受けることになったとしても、恋がそうさせるのであったら仕方がない。

 ところで、どうして自分がこう、少女マンガを好きなのかといえば、しごく明快に、ラヴ・ストーリーを読みたい、という欲望を持っているからであって、いやそれ以外の理由もあるにはあるが、やっぱりロマンスの魅力がおおきい。もちろん、ラヴ・ストーリーにも、すぐれたものとそうではないものがあるけれど、みきもと凜の『近キョリ恋愛』は、もれなく前者に入るだろう。たしかに、ヒロインのゆにを筆頭に、作中人物たちの素っ頓狂な言動が、他との差別化を告げるほどのクセとなっており、次々に繰り広げられるユーモラスな展開が、まったく飽きさせない起伏へとつながっている。むしろ、男性教師と女子生徒の秘密めいた関係を軸とし、そこに過去の因縁や横恋慕が絡んでくる物語自体は、紋切り型だとすらいえる。が、しかし、すべてを総合的に見たとき、ロマンス以外の何ものでもないまばゆい輝きに、作品は、間違いなく、包まれている。

 感情を表に出すのが苦手な天才少女ゆに、そしてイケメン教師で彼女の担任をつとめる櫻井ハルカ、二人のラヴ・ストーリーも、5巻に入り、スタートの頃とはだいぶ様子が変わってきている。両想いとなって付き合いはじめたはいいが、教師と生徒の違いから、それを伏せておかねばならない、といったところに、かつてハルカの恋人であった滝沢美麗が登場し、ただ秘密を守っていればよかった関係に、動揺を与える。そうした困難もようやく乗り越えたばかりだというのに、またあらたな騒動が、二人の気持ちを試すかのように持ち上がってくるのである。

 引き金は、ハルカの幼馴染みで、現在は人気モデルとして活躍中、しばらく海外に渡っていた小南あずさの、突然の帰国であった。ゆにの高校に転校してきた彼は、今でも初恋の相手である彼女のことを、忘れられないでいる。当然、ゆにに対しても自分と同じ気持ちであって欲しい。だが、じっさいに再会してみると、どうやら彼女にはほかに好きな人間がいるみたいだぞ、と勘づき、そこからハルカの存在に突き当たり、さらには彼からゆにを奪還しようと目論む。すなわち、前巻までの、ゆに、ハルカ、美麗の三角関係が、ハルカ、ゆに、あずさの三角関係に入れ替わり、必然、男女の比率に、逆転が起こっているわけだ。

 男女の恋愛における三角関係は、基本的に性差の割合が二対一の不均等にならざるをえない。このとき、少数に回された人間は必然的に選ぶ側の主体へと繰り上がる。それが、ゆに、ハルカ、美麗の構図では、ハルカに与えられていた立場であったのだけれども、ハルカ、ゆに、あずさの構図においては、翻り、ゆににその立場が回されている。読み手の判断からすれば、ゆにはすでにハルカを選んでいるのだし、だいいちその選択がかえってあずさを嫉妬させているのだから、迷う必要はないでしょう、と口を出したくなるが、重要なのは、そうした関係の不安定が、ゆにやハルカの気持ちを掘り下げ、どうして彼は(ほかの誰かではなく)彼女を選んだのか、どうして彼女は(ほかの誰かではなく)彼を選んだのか、いま一度作中人物たちに問うかたちとなり、もしも恋愛に真があるならいったい何によって規定されるのか、ロマンスとしての強度を高めていることである。

 関係性の揺らぎはまた、ゆにやハルカの表情に、あたらしい色合いを加えてもいる。要するに、恋愛感情を通じ、当人がそれまで知らなかった自分や相手の姿を知ってゆく過程になっているのだが、ここで注意されたいのは、当初の設定からすれば、彼女たちの性格に微妙な変化が訪れてはいるものの、個性がぶれていることを決して意味してはいないという点だ。フィクションではしばしば、何らかの都合上、作中人物を以前とは別人に違えてしまうような不自然が起こりうるが、『近キョリ恋愛』で、ゆにやハルカの身にあらわれているのは、あくまでも心境の問題であって、恋愛感情の不自由さを教えるものにほかならない。もしも主体の言動が、時や場合に応じるのだとしたら、それは必ずしも一貫しないことになる。ましてや色恋沙汰に左右されているときはなおさら。

 だが、選びとられた恋愛が、一時の熱に浮かされた結果ではなく、かぎりなく本物であると信じられるためには、相応の根拠が示されなければならない。すくなくとも主体の意識において、自らの意志をたしかにあらためたという根拠が、である。その表現化とでもすべき措置が、作中人物の個性をはっきり、際立ったものにし、こんなにも楽しいコメディと真っ当なロマンスの入り交じったストーリーを育んでいる。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他みきもと凜に関する文章
 『17歳』について→こちら 
 『水曜日のライオン』について→こちら
 『タイヨウのうた』(原案・板東賢治)について→こちら
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2009年10月12日
 文藝 2009年 11月号 [雑誌]

 『文藝』冬号掲載。大森兄弟の『犬はいつも足元にいて』は、ここ数年の文藝賞受賞作を丁寧に総合したかのような、そういわれればとてもしっくりとくる小説で、なるほど、これが第46回文藝賞に選ばれたのはよくわかるものの、正直、それ以上の感想は出てこなかった。と、いきなり話はそれていくが、『新潮』11月号に掲載されてい同誌新人賞の選評で、町田康が、赤木和雄の『神キチ』を指し、〈今回の候補作で唯一、家族モノではない小説だった〉といっている。そういう家族ものへの傾斜は、必ずしも『新潮』の新人賞にかぎったことではないだろうことは、同時期に発表された『すばる』や『文藝』の新人賞受賞作からもうかがえる。そして、どうしてそうなっているのかに対し、一つの仮説を立てるのは可能であるように思う。たとえば、近代的な内面にとってのリアリティは、半径の狭い世界がいかに難儀であるかを描写することにより、保証されているとしたとき、90年代以降は、それをあくまでも自意識のほうへ極端化、奇形化したものが主流となり、うけていたわけだが、おそらくは最近、反動的に物語のほうへ引っ張ろうとする気分が高まりはじめている。しかし、半径が狭い世界をベースとした内面の説得力を捨てるほどの思い切りはなく、そのため、せいぜいが小さな共同体を巻き込み、イベントを成立させるぐらいのアプローチにとどまった結果、家族ものが台頭してきたのではないか。共同体の中身は家族ではなくとも構わない。学校という単位であってもよい。別段、共同体をダシにしたからといって、そこに血の繋がりを見たり、友情や愛情の古典的なモチーフをこしらえたり、あるいはそれを破棄するつもりはなく、基本的には、内面描写の延長線にほかならないからである。この『犬はいつも足元にいて』も、そうしたヴァージョンの一つだといえるだろう。一人の少年ともう一人の少年が、もしくは二人の少年と周囲の人びととが、悪意をキャッチボールしながら、作品はつくられているが、その悪意は、彼らの世界の半径の狭さに拠っている。小説は、語り手である小学生の〈僕〉を中心に、両親の離婚を説明しつつ、はじまる。そこらから父親の残していった犬を継ぎ目にし、物語を続け、やがて中学校のクラスメイト、サダを登場させる。〈僕とサダのやりとりは、いつもどこか噛み合わなかった。お互いにパズルの間違ったピースを無理やりはめ込んだような、気持ちの悪さを感じていたように思う。にもかかわらず、二人でいなくてはいけないという状況が、より僕たちの仲を陰険にさせていた〉といわれる関係が、非感動的な手ざわりのなかで、かすかなエモーションの確かめられた展開をもたらしてゆく。
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