ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年09月30日
 いや、決して悪くない、というか、ぜんぜん悪くないんだけど。画は上手だと思うし、ストーリーのほうもよくまとまっていて、これで人気が出たらそりゃそうでしょうよ、と納得するのだが、どうもいまいち評価しづらい感じが、やまもり三香の描くオムニバス『シュガーズ』には、してしまう。1巻の時点で述べたとおり、やはり、個性として見るべき面があまりうがえないためだろう。また2巻に入って、ふつうこういった連作の形式であれば、エピソードが多くなるのにつれ、作中人物の魅力が増してくるものなのに、そのへんもいまいち弱いまま、ただマンガの輪郭だけがつるつるに磨かれているふうに受け取られる。換言するなら、作中人物の魅力に定まったものがなく、類型的なパターンに合わせ、その行動を整理しているため、表面上の印象に難が生まれることを逃れているにすぎないのではないか。もしもそうだとすれば、完成度はべつにしても、消極的なアプローチだといえる。さらにもう一点、タイトルに示され、全編に重要なガジェットとして盛り込まれているはずの、スイーツ、デザートの役割、効果に関しても、1巻に比べて、かなりネガティヴだ。たとえばここでは、「フルーツケーキ シンドローム」にのみ、テーマとの不可分さがあらわれているぐらいで、あとはそれなしでも十分に物語は成り立つ。「フルーツケーキ シンドローム」にしたって、似たような筋立ての先行例はすくなくなく、それらを想起してしまうとき、うん、悪くはない、悪くはないんだけど、もうすこし、といった感想にとどまる。ほんとうにもうすこし、作者ならではのポイントがあれば、そこがひじょうに残念なのであった。課題は意外と多い。

 1巻について→こちら
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2009年09月29日
 佐藤ざくりの『おバカちゃん、恋語りき』だけはもう絶対にまちがいねえな。何もかもずっこけているくせに、ひたすらキュート、この案配で作品が成り立っていることにびっくりすらあ。結局のところ、楽しい、の一言に尽きるのだった。もちろん、3巻に入ってもそれは変わらない。わいわいがやがや、まあいろいろあり、トキオと付き合いはじめた音色であるが、心のなかではまだ、深のことを忘れられないでいる。そして深のほうもじつは、平静な表情の奥に、音色に惹かれる想いを隠していた。二人を見、しばしば嫉妬に駆られるトキオ、こうなってくれば、ふつう、ひゃあ三角関係の泥沼って嫌ねえ、となりそうなものだけれど、『おバカちゃん、恋語りき』の場合、ぜんぜんそんなことはないんだ。音色の馬鹿さ加減もたいがいだが、シリアスな場面の訪れるたびに予定調和をぶち壊してゆく、トキオの頭の悪さがじつにすばらしい。おまえ、ほんとうにすげえ男だぜ。この段階で、通常の少女マンガにおけるラヴ・ロマンスにしたら、いささかユニークな変調が加えられているのに、もう一人、度の過ぎた人物が物語に参画してくるのだから、たまらない。生徒会長の美羅川日記である。優等生のうえ、美人さんでありながらも、やっぱり奇人さんの類かい。彼女の存在は、直接、前述のトライアングルに絡んでくるわけではないが、音色と深とがいまだに好き合っていることを見抜き、二人をくっつけようと、当人たちにしてみたら、余計なお世話というにはあまりにも傍迷惑な親切を働かせてくるのだった。半ば好奇心で、だ。いや、でもたぶん、それが必ずや悪になるとはかぎらないだろう。音色を案じる友人の虹花が、〈何よけーな事してくれてんだ このキツネ目女!!(略)音色はトキオとつき合ってんだよ!!(略)〉と食ってかかってくるのに対し、日記が述べるこういうセリフは、意外と、トキオや深に抱える音色の躊躇いを、言い当てているのではないか。〈つらくない恋なんて恋じゃないね〉。あいかわらずの初心さとはべつの意味で、たしかに音色は臆病になった。傷つかなくて済むことは正しいのかもしれない。だが、それが決して良いとは思われない可能性を、いちおう日記の思惑はよそにしても、彼女の言葉自体は指摘しているのであって、このへん、恋愛感情へのアプローチを、ギャグではぐらかすばかりではなく、まじだと受け取られるのもやぶさかではない、じつに少女マンガらしいポテンシャルが、よく出ている。いやはや、にしても、である。音色が西日本最強の女であったというアバウトな設定を、修学旅行のくだりで、こう生かすかい。あんがい日記が関西弁みたいな喋り方だったりするのも伏線だったりするのかしらね(是が非でも抽選でプレゼントされるらしいキャラクター・ブックを当てねばなるまい)。やたら高いテンションで飛ばす作者がいったい何を考えているかわからないぶん、話がどう転がってゆくんだか見えないのが、いいよ。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『otona・pink』2巻について→こちら
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2009年09月28日
 カノジョは嘘を愛しすぎてる 1 (フラワーコミックス) カノジョは嘘を愛しすぎてる 2 (フラワーコミックス)

 青木琴美の、たとえば『僕の妹に恋をする』にしたって『僕の初恋をキミに捧ぐ』にしても、筋立てはいささか荒唐無稽で、もしかすれば地に足をつけていないふうに受け取られるところがあったかもしれないが、一途な恋愛を試しながら見届けるかのような展開はまぎれもなくシリアスであったし、いくつかの演出は十分に劇的であった。そのことはまた、新作である『カノジョは嘘を愛しすぎてる』にも、おそらくは同時発売となった1巻と2巻を読むかぎり、いえるだろう。その青年、小笠原秋は、じつは大がつくほどの人気を誇るロック・アーティスト、クリュードプレイ(CRUED PLAY)のオリジナル・メンバーなのだけれども、目立つことを嫌い、表には出ず、ソング・ライターとしてバンドに参加、作品にクレジットされている。名前は知られているが、顔は知られていないというやつだ。彼にしてみれば、売れて有名になるよりも〈這いつくばるような小さな歌をまだ作っていたかった〉。その少女、小枝理子は、初心ではあるが平凡な、どこにでもいそうな女子高生であった。音楽が好きで、歌うことが好きで、クリュードプレイの熱狂的なファンではあるけれども、むろん秋との接点は一個もない。ほんらい二人は出会わない。しかし恋人に傷つけられた秋が、ほとんど腹いせで、たまたま通りすがった理子に声をかけ、そして彼女が、彼の嘘を嘘と気づかぬまま惹かれてゆくことから、二人の運命はおおきく変わりはじめる。そう、だからこそ秋はきっと、のちになってこう言うのに違いない。〈付き合い始めたあの頃 僕はこれっぽっちもキミのこと好きじゃなかった 全部嘘だった〉。少女マンガ特有の、派手派手しく毒々しくデコレイトされたショー・ビジネスの世界には、さすがにそれでも今どきちょっとねえ、と思わずにいられないが、しかし本質は、純粋であるほどに一途な少女の想いと、それに撃たれる青年のナイーヴな苦悩であって、二人の交わりが「あの頃」と告げられるラヴ・ストーリーならではの緊張を張り詰めさせている。自らのアイデンティティを秘密にして理子に接する秋の存在は、つまり、財産や経歴、才能をべつにしてしまえば、恋愛はいったい何によって選ばれるのか、という問いにほかならない。そのことも踏まえ、今後、波瀾万丈を予感させる出だしは、じつに魅力的だといってよい。ただし、理子までもがショー・ビジネスの世界に足を踏み入れていきそうな気配をにおわせているのが、すこし、気にかかる。なぜならば、現時点における秋と理子の明確な立場の違い、性別の差、年齢の差も込みで、両者の、対照のはっきりとしていることが、やはり、全体の構図を決めているふうに見えるからである。必然、そのへんが異なってきたときにこうして得ているイメージも変わってくる可能性は高い。だが、まあ、いずれにせよ、さまざまに翻弄されながら彼らの行き着く場所、要するに、すべての出来事を「あの頃」と述べる主体がいるはずの現在があらわれてくるのは、まだまだずっと先のことだろう。
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2009年09月27日
 作者さん、ごくろうさま、そしてありがとう、こんなにも素敵なラヴ・ストーリーを描いてくれてありがとう。おしまいのページを閉じて、思わず感謝しながら、うんうん泣けてきてしまう。藤原よしこの『恋したがりのブルー』は、まさしくそんなマンガであった。最後までいってみれば、ありえないぐらいに大げさでドラマティックな出来事は何一つ起こらずじまい。いや、違う。正確には、ありふれていてささやかな出来事のすべてが、これ以上ないほど鮮明に輝き、だからこそドラマティックに跳ね、ほんのりあたたかく、ちくりと痛むようなエモーションを連れてきてくれることが、とてもよかった。結局のところ、作中にはごく普通の少年少女四人が恋愛と友情にためらう姿しかあらわされていない。だがそれだけでも十分、すぐれた作品は成り立つのだということを教えられる。好き合っているにもかかわらず、陸と別れなければならなかった蒼は、自分を大切にしてくれる海にもっと傾きたいのだけれども、胸の内で張り詰める苦しさを消せない。陸のほうも、ほんらいは初恋の人であった清乃にやさしく接しようとすればするたび、蒼への気持ちが募る。陸と清乃は、それに気づいてもなお、自分の想いを諦められない。こうして縺れた糸が、はたして四人のあいだに、ハッピー・エンドをもたらすことはあるのだろうか。というのが、この最終6巻に展開されているぜんぶ、である。はっきり、それよりもおおきな事件はおよそ起こらないにもかかわらず、蒼が、陸が、海が、清乃が、喜びや悲しみと引き換えに、絡んだ糸を一本一本ほどき、収まるべき位置に結び直してゆく様子の、そのちいさな切実さに、たいへん引き込まれるものがある。決して長いお話ではない。〈オレの 本物の彼女になってくれないか チューもHもする 本物の彼女になってくれないか〉という、たったそれっぽっちの願い。繰り広げられるのは、わずか四人ばかりの関係にすぎない。しかし、そういうミニマムな、あるいは等身大の情緒が、あますことなく再現されているので、心動かされるのだ。感動するようにつくられた青春のワン・シーンというより、どこかで誰かが経験している(していた)青春のワン・シーンを丁寧に切り取ってきているみたい。結末に至るくだり、ああ、こんな恋をしたいな、憧れるのではなく、ああ、恋とはたしかにこういうものだったね、と、つよく実感される。じつは『恋したがりのブルー』の題名とは裏腹に、誰もがヒロインである蒼に恋をしていたマンガであったと思う。望んだり、求める側であったはずの蒼が、いつしか、望まれ、求められる側に回っていた。そのような反転が、平々凡々としている蒼の何がいったい魅力的なのか、述べるかわりになっている。あるいは恋の不思議さが、彼女たちの位置場所を動かしてしまっているのかもしれない。そこにドラマの波風が立っている。他愛もない日常が輝き出し、めくるめくドラマの。せつなく、甘い。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら 
 1巻について→こちら
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2009年09月26日
 音楽誌が書かないJポップ批評61 DREAMS COME TRUE 恋愛歌マジック! (別冊宝島 1653 カルチャー&スポーツ)

 別冊宝島『音楽誌が書かないJポップ批評61 DREAMS COME TRUE 恋愛歌マジック!』に『THE LOVE ROCKS』のアルバム評を書いています。
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 サムライソルジャー 6 (ヤングジャンプコミックス)

 この国に義務教育が確立されている以上、ほとんど誰もが、学校や教室という単位の共同体をいかに生きるか、を経験することになっている。すなわちそれは制度に還元可能な問題にほかならない。ましてや義務教育より先への進学が、こうも一般化している現在にあっては、その仕組みはおよそ徹底されているといってよい。高校デビューを経て、校内でのポジションやクラスメイトとの関係性をやり直そうとするストーリーは、もはや古典的であるほどにスタンダードだ。だがしかしなぜか、そこからそれてしまう人間というのがいる。いつの時代にも一定数存在する。不良であれ、引きこもりであれ、多くの場合、彼らは落伍したと見なされる。もちろん、そうした視線は共同体の内部から外へ向けて発せられているものである。さりとて、落伍者にされてしまった彼らにも孤独はおそろしいものであるに違いなく、一人ぼっちの奈落から逃れるためのネットワークがあるのなら、それを傍受し、どこかで折り合いをつけ、加えてもらわなければならない。はたして、そこで組み立てられた共同体もまた、何かしらかの制度を後ろ楯にしているのだとすれば、本質上、彼らをアウトサイダーと呼ぶことはできないのではないか。このような懐疑を、モラトリアムを終えて、社会に出、社会と直接取り引きしなければならなくなった元不良少年たちを用い、表現しようとしたのが、田中宏の『莫逆家族』(99年〜04年)であり、高橋ヒロシの『QP』(99年〜01年)であって、そして両者によって暗示された題材を、ふたたび学園という普遍性を持ち合わせた区域に復帰させ、青春の像にあらたな突破口を導き出そうとしたのが、山本隆一郎の『GOLD』(01年〜06年)だといえる。

 ところで先般、高橋ヒロシの『WORST』(01年〜)の、第一部を総集編で読み返していたら、いろいろと考えさせられる点があった。もちろん『WORST』には、『QP』で見かけられたテーマを受け継いでいるふしがある。さらには作中人物が『GOLD』の単行本を読んでいるシーンがあるように、かの作品と共有する問題意識もおそらくはあっただろう。しかしながら、学園というモチーフにかぎっていうのであれば、第一部の段階ですでに破綻しかけている。かわりにバックボーンを支えているのは、梅星一家であったり、武装戦線であったり、天地の軍団であったり、要するに、ファミリー、チーム、マフィアと横文字に言い換えられる結束である。これはたぶん、作者が欧米のギャング映画に多くの着想を得ているためなのだが、つまり、そういう(ある意味で大幅にアメリカナイズされた)制度を引っ張ってくることで、学校や教室という単位とはべつの共同体を、作中人物たちにあてがっているのである。だがそのことが、国盗り合戦のヴァリエーションであるようなスペクタクルを適宜補強する以上の効果をあげているかどうか、評価は分かれると思う。

 いささか遠回りしてしまったけれども、本題は山本隆一郎の『サムライソルジャー』である。主人公である藤村新太郎と『ZERO』を率い渋谷統一をはかる桐生達也の対立、そして桐生が言ったとされる「喧嘩天国」の実現、〈“さむらいそるじゃー”“雫は生きている”〉なる発言、これらのキー・ポイントをいったんワキによけ、鮫島正平を頂点にいだくことで正式に結束を固めた『渋谷連合』が、桐生不在の『ZERO』に対し、猛追をかけるというのが、5巻から6巻にまたがる流れであり、4巻までの展開に比べると、やや定型的な抗争劇の血みどろに落ち着いてしまった感があるものの、いや、『ZERO』のメンバーの過去回想を通じ、描かれているのは、間違いなく、あらかじめ居場所の失われている人間がいかにして共同体と関わるか、の物語であるし、反面、鮫島やその腹心に収まった市川佑介の狂気ともとれる姿からうかがえるのは、共同体に裏切られた人間の不信であり復讐、だろう。しかして、ここで重要となってくるのは、かねてより藤村の言動が教えているとおり、ほんらい彼らは、モラトリアムを完結させて、不良(ガキ)の世界の外側へと出ていき、いち個人を生きなければならない、自立しなければならない立場にある、ということだ。週刊連載のペースであるせいか、もったいぶったところの多くなっている印象は否めないが、おそらく、すべてのパートはそこに向かい、輪転している。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 外伝「吉田薫」について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
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2009年09月24日
 密室から黒猫を取り出す方法 名探偵音野順の事件簿

 副題に「名探偵音野順の事件簿」とあるように、この、北山猛邦の『密室から黒猫を取り出す方法』は、『踊るジョーカー』の続篇というか、推理作家である白瀬白夜と引きこもりがちな名探偵である音野順のコンビを主人公にするシリーズの第二弾で、もちろん前作と同じく、あかるめな雰囲気のミステリ小説になっている。まあ、扱われている事件のほとんどが殺人である以上、あかるい、というのもどうかと口を挟めたりするけれど、暗い恩讐ですらもさらりと軽く流れていくところが、やはり最大の魅力に感じれてしまうのだから仕方がない。裏を返すなら、自己中心的な悲劇にかかずらっているような甘ちゃんに完全犯罪は成し遂げられないことを作品は喝破しているといってしまってよい、かもしれない。あるいはだからこそ、唯一完全犯罪を成し遂げてしまった「音楽は凶器じゃない」の犯人だけが最後まで、いったいどんなタイプであったのか、具体的な像を結んでこちらには見えてこないのだろう。かの人物はある意味で「名探偵音野順の事件簿」のパターンを逸しているのである。全部で五つの、基本的にはハウダニット式にトリックを展開した小品が並んでいるが、それらの欺きはどれも、仕組もうとする側がたとえ疑り深い性格の持ち主であったとしても、最終的にはこの世界を支える方程式を信頼していなければ成り立たない。しかしそういった前提が、言い換えるならば、この世界のありよう自体が決して完璧ではないため、どこかで破綻をきたしてしまう。そのことはもしかしたら、表題作にあたる「密室から黒猫を取り出す方法」において、犯人の目の前で生じるイレギュラーが教えている。正直な点、この世界が完璧であろうがなかろうが、たいていの人間は平々凡々に日常を過ごすことはできる。主人公のコンビが、場合によっては不謹慎なほどひょうきんに見えるのは、彼らがその不完全さの上に載って回る世界を、自然と受け入れているからなのだと思う。

 『踊るジョーカー』について→こちら

・その他北山猛邦に関する文章
 『恋煩い』について→こちら
 『妖精の学校』について→こちら
 『少年検閲官』について→こちら
 『「ギロチン城」殺人事件』について→こちら
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2009年09月23日
 yataga.jpg

 大西実生子の『八咫烏夢淡雪〜やたがらすゆめのあわゆき〜』は、『ヤングチャンピオン』NO.17からNO.20まで全四回にわたって集中連載された時代劇ふうのマンガである。掲載誌というか出版社の性格上、単行本化される見込みは低そうであるが(同じ作者が『月刊少年チャンピオン』に連載していた『イゾラバ』の2巻はどうなったといいたい)、あまりにも残酷でせつない物語、そしてそれを極力、うつくしさがせめてもの救いのなるようあらわそうとする筆致には、なかなか、引きつけられるものがあった。ヒナはまだ15歳のくの一でありながら、すでに74人の暗殺を達成し、八咫烏という異名を轟かせている。あと一人殺し、任務を成し遂げれば、その地獄からも放免される約束のはずだった。だがそれは彼女が、兄と慕い、唯一頼りにしている忍、才蔵のついた嘘にすぎない。才蔵は思いもしなかったのだ。はじめて彼女が人を殺した日、遊女のあいだで信じられている一枚の護符を与え、〈おまえはまだまだ赦されるんだ 残る七四人まで――――そして七十六人目に愛を誓う男とは一生添い遂げて生きて行け そのときおまえは おまえは普通の女に生まれ変わることが出来るんだ〉と言ったのは、そう、〈ただ慰めてやりたかった 生きる縁を与えたかった ひとりのくの一が一生のうちに果たせる数ではないと思った〉からなのだけれども、この約束がまさか、自由を欲してやまない彼女を修羅に変えてしまうとは思わなかった。やがてヒナの存在を厄介に見はじめた里の者は、才蔵に彼女の暗殺を命じることとなる。基本的には、ヒナと才蔵、二人の葛藤と決して叶わぬ恋をベースに作品はつくられているが、たとえば遊郭のクローズ・アップや、ヒナに殺されかけ、復讐の執念を燃やす男が、彼女をさらい、乱暴にかつぐ(強姦する)場面が、一つの転調となっているとおり、男女もしくは権力の構造において支配される側に回されてしまう性のありようが、悲劇の色合いを濃くしている。ヒナとはおそらく、そうした構造自体への逆らいである。マンガの結末を述べるなら、彼女はとてもとても大切なものを失い、自分を支配していた力学の外に出てゆくが、しかし世界の体系は何も変わらず、同じ不幸が延々と繰り返し、続くことを予感させて『八咫烏夢淡雪』は幕を閉じる。

・その他大西実生子に関する文章
 『イゾラバ』1巻について→こちら
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2009年09月22日
 フール オン ザ ロック 4巻 (ヤングキングコミックス)

 たまきちひろの『フールオンザロック』は、残念ながら最後の最後までいまいち物足りないの一線を踏み越えることはなかった。完結編にあたるこの4巻の最後のほうで、主人公の高校生が〈俺はバンドを続けていきます ミュージシャンでもなく ギターマンでもなく バンドマンでありたい〉と決心を述べているように、音楽マンガというより、ロック・マンガというより、バンド・マンガとして読まれたい内容であるのに違いないのだけれども、そういうある種の共同体にかかったテーマは、物語のあとからやってきた印象がつよく、であるがゆえにか、作品の上にうまく乗りきれていないと思われてしまう。終われないモラトリアムを青春と呼ぶのであれば、それに向かう群像のありようと共同体のモチーフとが、かろうじて辻褄を合わせたという感じにまではいっているが、あまりよくまとまっていないのである。主人公の星野は、その凡庸さが物語の語り口に合っていた反面、対となる中年のヴォーカリスト、イマイの個性を、やはり十分に生かすことができなかったので、そうなってしまったのかもしれない。最近になって、ロック・バンドを題材にしたマンガはだいぶ増えてきたけれども、成功している作品は、率直にいってしまうが、かなりすくなく、そうしたなかに『フールオンザロック』も含まれてしまう。ところで、ここには『フールオンザロック』のほかに、06年に『コミックバンチ』の「My Best Love Song」という企画の一環で発表された「私たちは春の中で」が併せて収録されている。中島みゆきの同名曲をインスピレーションにつくられたマンガで、社会に出た若い男女のラヴ・ストーリーになっており、初出で読んだときから印象に残っていたのだけれども、あらためてなかなかの短篇であることが確認される。こういうふうなあわさで『フールオンザロック』を描いてくれてもよかった。が、しかしたぶん、結果はどうであれ、作者はもっとずっとパワフルなものを『フールオンザロック』に託したかったのだろう。

 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他たまきちひろに関する文章
 『WALKIN' BUTTERLY』
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら 
  2巻について→こちら
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 あくまでも自説ではあるが、すぐれた少年マンガや少女マンガというのはその主人公がすぐれた答えになっていなければならない、と思っている。いや、あるいはだからこそ、彼や彼女ら主人公は、ときおり疑問や難問に悩んだり迷ったり傷ついたりしながらも、奇跡を起こすほどに純粋であり続けられるのではなかったか。たとえば、『フルーツバスケット』の本田透などは、まさしくその条件を満たしていたのであって、あどけなさとは裏腹にとても頼れる存在であったのだし、作品の印象もそれにならっている。だがそうしたデンでいうなら、同じく高屋奈月を作者とする『星は歌う』には、ヒロインの椎名サクヤには、いささかあやういところがあるように感じられる。極端な話をしてしまうけれど、純粋というレッテルがただ貼られているだけで、器の中身は心許ない。もちろんそうした空虚さをイノセントであると解釈すべきなのだろうが、どうしてそれが魅力的で周囲の人物たちに影響を及ぼしているのか、あまり説得されないのである。この6巻のクライマックス、140ページのあたり、千広に対するサクヤの恋慕を危惧し、厳しくあたる聖に、サクヤが自分の決意を述べるくだりは、たぶん重要であるというふうに見てよいのだけれども、ここ、サクヤの表情にはっとさせられるものがまったくないのは、作者が彼女の資質をつくり損ねてしまっているためだとしか、考えられない。にもかかわらず、無理やり答え合わせをするものだから、言葉と物語とが上滑りしてしまう。また個人的には、これも作者のよくない面ではないかと訝しんでいるのだが、あたかも恋愛が主体の自立か何かに都合のいい装置である以上の素敵さを持ちえていないことで、たしかに恋愛よりもおおきなテーマを描こうとしているという視点は成り立つものの、それが主人公に特典として付せられている程度のあざといイノセンスによって保証されているのでは、すこし、弱い。人は必ずしも暗い過去やトラウマ、不幸な境遇を克服するためにのみ、ラヴ・ストーリーを生きるのではない。

 1巻について→こちら

・その他高屋奈月に関する文章
 『フルーツバスケット』
  21巻について→こちら
  20巻について→こちら
  19巻について→こちら
  18巻について→こちら
  17巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
 『フルーツバスケット ファンブック〔猫〕』について→こちら
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2009年09月20日
 立原あゆみが描くヤクザ・マンガのほとんどは復讐譚として物語の幕を開けるのだが、そのほとんどが復讐譚として物語の幕を閉じることがないのは、もちろん連載が長期化するにつれ、筋立てが分岐していってしまい、当初のスタンスが変わってしまうからなのかもしれないけれど、いや、おそらくはそれ以上に、すべてのヤクザの夢はヤクザをやめることでなければならない、という潜在的なテーマが、ストーリーの前に障害となって立ち塞がってくるためなのではないか。どちらが先か、悪いかは関係なく、意趣返しは意趣返しを誘う。このような連鎖をおりるには、誰も逆らえないほどの大親分になるまで出世し続けるか、あるいは、死ぬ、しかないのが立原の諸作における鉄則であって、いったん意趣返しに関わってしまったなら、たとえ堅気になれたとしても命を落とす人物はすくなくない。ある場合には、意趣返しに向かわざるをえないほどの怒りに耐えながら生き残ることが、彼らのドラマをエモーショナルにしているのである。さて。『恋愛(いたずら)』もまた復讐譚としての体裁を持った作品であった。兄貴分を殺された主人公のジミーが、その意趣返しのため、さまざまな危険をおかしてゆく。と、こういうふうなプロットは、以前にも述べたとおり、作者の過去作である『東京』や『弱虫』等々の焼き直しにもとれるわけで、まあジミーのパートをよそに並行して展開される一話完結型の色恋沙汰を、本作ならではの特徴に挙げてもよい、というのも過去にいった。が、しかし、やはり本質的な筆致は、裏切りをベースに、復讐をモチーフとし、決められていたことは、この最終5巻によって、あきらかだろう。そして、立原のものとしては驚くべきほど、すみやかに意趣返しをやり遂げたジミーの結末が、ヤクザになるよりほかなかった人間の不幸せを、如実に浮かび上がらせる。そう、すべてのヤクザの夢はヤクザをやめることでなければならない、のだとすれば、その夢の潰えてしまう様子があたかも悲劇であるよう、示されているのである。ラストの間近、雪の夜にジミーが〈オレたちは愚かな世界の住人です アダ討った先に何があるのか? すべてなかったこんな白い世界に変わるのでしょうか 恥を雪(すす)ぐ すすぐを雪と印した人はわかっていたのでしょうか〉と述べるモノローグは、どうしたって取り返しのつかない印象を孕んでしまう。正直な話、立原のキャリアのなかでは決して上位に入るマンガではないと思うが、作家性で見るなら、多く考えさせられるところを含んでいる。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『本気』文庫版
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
 打撃王凛 16 (月刊マガジンコミックス)

 作画、ストーリーのレベルともに、現在進行形で描かれている野球マンガのなかでは断トツだろう、という個人的な信頼を、佐野隆の『打撃王(リトルスラッガー)凜』は、この16巻になっても裏切っていないのが、うれしい。いやさすがにちょっと、と思われる展開にも、少年マンガ的なカタルシス、熱量、はったりが効いていて、不可能が可能になる瞬間にメーターの振り切れる興奮をとてもよく伝えてくれる。要するに、奮っているし、燃えるのだ。

 シニア・リーグでの活躍を高く買われ、新設されたばかりであるものの野球部に力を入れる常磐崎高校にスカウト、入学した主人公の中村凜は、しかしそこで全国から集められた選り抜きの同世代プレイヤーたちと、数少ないレギュラーの枠をめぐり、苛烈なポジション争いを繰り広げなければならない。いったんはテストに落ち、雑用係に回されてしまった凜であったけれど、持ち前の不屈さでふたたびチャンスを掴み、部員同士が4チームにわかれて行われる対抗戦に、メンバーの数が他よりもすくないというハンデキャップを条件としながらも、参加するのだった。

 凜を含めて、表向きは落ちこぼれ集団であるはずのDチームが、まさか、一回戦を勝ち抜き、レギュラーの座にリーチをかける、というのがここまでの流れであり、チーム・メイトにキャッチャー失格を告げられている凜が、二回戦目の試合を通じ、いかなる名誉挽回を遂げるのか、というのがここからの流れである。Cチームとの一回戦で、やっちん(安長)から託された大切なバットと引き換えに、あらたなモチベーションを得た凜は仲間との連帯を高め、シニア時代に最大の敵であった寺嶋が率いるAチームに挑む。

 まず、AチームとBチームの試合を事前に置き、凜と同じく、スラッガーであり、キャッチャーであり、さらには全国区の実力者である寺嶋の、現時点におけるポテンシャルをきっちりプレゼンテーションしたうえで、つまり主人公との比較を明確化し、圧倒的な不利を示したのち、いよいよ対決を迎える、このような構成が、まあ、セオリーどおりの手順であるかもしれないとはいえ、ひじょうに、にくい。越えてゆかなければならぬ壁がこんなにもはっきりとしている以上、あとはその、越えんとするプロセスを入念に展開していけば、おのずとドラマは燃えさかるだろう。もちろん、この作者の筆力にはそれを期待させるだけの勢いがある。

 じっさい、寺嶋のモンスターぶりを目の当たりにした凜が、〈及ばない 捕手として 打者としても 何もかも どちらが日本一の打者に近いか――‥‥?比べるまでもないじゃないか――――明白だ〉と打ちのめされてもなお、後ずさりせず、果敢な表情を見せていることが、その後に『打撃王 凜』の醍醐味ともいえる大胆なスリルを呼び込んでいる。

 ここで付け加えておきたいのは、試合の最中においてキャッチャー・マスク越しにひらけている光景がおどろくべき頻度で多用され、守備のシーンに対してダイナミズムをつくり出すのに見事な効果をあげていることだ。キャッチャー・マスクをあいだに挟んだ視点というのは、たぶん、野球マンガのジャンルではすでに存在していた発明だと思う。だがそれが、ここまで主体の意識とシンクロし、また一方で読み手の意識をもシンクロさせ、臨場感を高めているような表現は、他に例を持たないのではないか。マスクの向こう、グラウンドを守る仲間、バッターボックスに立つライヴァル、放たれたボール、そして振られるバット、迫力のある場面に目を奪われる。心が動き、腰を浮かす。

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2009年09月18日
 American Rock 'N' Roll

 いやはや、『AMERICAN ROCK 'N' ROLL』だなんて、ずいぶん威勢のよいタイトルではあるけれども、じつにそれが相応しい内容となっているのだから、辻褄は合っている。米カリフォルニア州、サンディエゴ出身のトリオ、THIEVES & LIARSのセカンド・アルバムは、08年のファースト・アルバムと同様、レトロスペクティヴともとれる、どっか古くさい、つまりモダンな要素を極力排したロックン・ロールのクリシェを鳴らしているが、違いを述べられるのは、長尺でゆったりとした部分は控えめに、ほとんどの楽曲が3分程度にまとめられ、そのコンパクトさのなか、キャッチーな響きがおおきくなっていることだろう。じゃかじゃか刻まれるギターのリフと熱のこもったヴォーカルがそのまま、むろんある程度のキャッチーさを兼ね揃えているからこそ、フックの役割を果たしている。まずタイトル・トラックを1曲目に、2曲目の「LET'S ROCK」、3曲目の「WALKING BY MY SIDE」、4曲目の「FIGHT SONG」と、前半の曲名を並べていっただけでも、だいたいの感じがわかっちゃう、じっさいイメージを裏切ることのないサウンドであって、AC/DCとLED ZEPPELINを参照していた80年代のアメリカン・ハード・ロックを思わせるところもある。現在のバンドでいうなら、オーストラリアのAIRBOURNあたりが持っているフィーリングに近しいかな、ただしこちらのほうがLED ZEPPELIN的なエッセンスがつよい。ラストのナンバーである「CHARLIE」は、AC/DCふうのブギーであると同時にLED ZEPPELINふうのブルーズでもあるような出だしから、アップ・テンポな展開に入っていき、THE DOORSふうのアシッドで締め括られる。たしかに既存のマテリアルをミックスしているにすぎないのかもしれないし、今日において目新しいパフォーマンスとは言い難いかもしれないが、なかなかかっこういい。こういうの好きなんでしょ、と訊かれれば、けっこう好き。

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2009年09月17日
 ドリームバスター 5 (リュウコミックス)

 義父の虐待を受け、あとすこしで命を落とすところであったタカシ少年のエピソードは衝撃的で、とても悲しかった。そもそもの人格は散々に壊され、完璧に失われてしまい、復元されたレプリカの人格を持つことでしか助からなかったという結末も、悲しいが、しかし、残酷な現実の前にはこうした解決ですらもないよりはましであったろう、と思うほかない。宮部みゆきの同名小説を、中平正彦がアレンジ、コミカライズした『ドリームバスター』の5巻では、そうしてタカシ少年との融和を果たした殺し屋、モズミの口から、主人公であるシェンは、血塗れのローズと呼ばれる彼の母親が、惑星テーラを襲った「大災厄」に深く関与していたことを、聞かされる。はたして、地球に逃亡した現在もなお、さまざまな混乱の背後で暗躍するローズの目的はいったい。というのが、本筋にあたるわけだけれども、そのようなストーリー上の展開によって、読み手であるこちらは次のような、一つの印象を得る。つまり、世界が終わりに瀕したあとも続いているとき、そこでは具体的に何が損傷されているのか。おそらくは、歴史の縦線だろう。そしてそれは個人の規模から公的な規模までを包括している。ではその、千切れかけた縦線を補うものがあるとすれば、それは何か。きっと「いま、ここ」とでもすべき現在の地点を、平面上に、あちこちと無数に伸びてゆく繋がりの横線であろう。こう考えるのであれば、母親の真実にまた一歩近づき、悩みながら憤るシェンが、地球にいるリエコをはからずも心配させてしまう、それを「大災厄」で過去の記憶をなくしてしまったリップの助言に救われているというくだりは、幕間のワン・ポイントにすぎないにもかかわらず、じつに象徴的な意味合いを持ってくる。タカシ少年のエピソードにしたって、結局は、ほんらい親と子で結ばれている縦線の断絶を、平行する宇宙の住人をも動員し、あらたな横線で応急しようとする試みであった。もちろん、母親の存在を含め、シェンと周囲の人びとの関係も、それと決して遠からぬ構図のなかに描かれている。

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2009年09月16日
 君に届け 9 (マーガレットコミックス)

 たとえば『君に届け』のストーリーについて、ピュアであるというような修辞を用いるとき、それはヒロイン、黒沼爽子の純粋が周囲の人物たちにいかなる影響を与えたか、を指すべきだと思う。当然、その周囲の人物たちのなかに風早も含まれているにはいるわけだが、爽子と風早の、つまり一対一の関係性においては、むしろ、自己評価の低い人間にとっての恋愛をどう描くか、ということに作品の重心がおおきいことを、この9巻はうかがわせる。にもかかわらず、ここにきてピュアであるピュアであるばかりしか述べないような感想は、たんなる思考停止にすぎない。たしかに、それまで恋愛を知らなかった人間の恋愛があらわされている、こうした観点に立つのであれば、爽子と風早の関わりをピュアであるというふうに見ることはできるだろう。しかし、必ずしも初心であること(だけ)が二人をすれ違わせているのではないというのも、おりおりのモノローグを含めた言動によってあきらかになっているのだし、あるいは恋の魔法とすべきものがあるなら、それはやはり、自己評価の低い人間にかつては信じられなかった勇気を与えるかたちでかかっているのである。この点に関しては、さまざまな出来事を経て、自分と風早の間柄を問わねばならなくなり、ついにはいじけてしまう爽子を(まるで叱りつけるように厳しく)励ます人びとのなかでも、とくに吉田と矢野の言葉が適確だろう。おまえら、さすが親友だぜ。吉田が爽子に向けた〈あんた いつまで自分のこと下げて生きていくつもり〉という主張を、矢野があとから〈結局ちづが言った事が全てだと思ったのよ そこがねじれてるから きっと何かいろいろねじれんでしょ〉と認めているのは、つまり、そういうことだ。かくして重要なのは、彼女たちがその「ねじれ」を爽子ならば解消できると信じていることにほかならない。そして作品は、純粋な想いがそれを可能にさせると受け取れるふうにつくられているのだけれども、爽子に固有の純粋(これは周囲の人物たちから鈍感と指摘されている部分でもある)と恋愛感情に忠実な態度(イコール純粋な想い)は、基本的に別個のものであることに注意されたい。それにしてもなぜ、人気者であるはずの風早がタイプの違いそうな爽子を選んだのか。風早は、事態をこじらせてしまったことを謝罪するクラスメイトの健人に〈黒沼 俺のこと誤解していると思う でも――黒沼はいつもきっと もっとずっと誤解されてきたんだ それでもあきらめずにずっと頑張ってきたんだ(略)…いつも1人で頑張ってなんとかしてしまう黒沼に 憧れていたのは きっと俺だ〉と言っているが、これはもちろん、爽子が自分にないものを彼に感じ、憧れていたことの同義的な反転になっている。最初に述べたとおり、周囲の人物たちがそうであるのと等しく、風早もまた爽子が持っている純粋の影響下にある以上、そこに惹かれることはまったく理に適っている。だが、一対一の関係になってくると、今度はその、爽子の純粋が、彼女自身の自己評価とわかちがたく結託することで、風早の、そして二人の恋愛の障害になってしまう。この巻のクライマックスで、まさしく『君に届け』といわんばかりに描かれているのは、そうした自己評価の壁をとうとう乗り越えようとする爽子の姿ではなかったか。たぶん『君に届け』の本質的な魅力は、純粋であることをいわば叩き台にしながら、決してピュアの一言には単純化できない心理を作中の構造に滑り込ませたうえで、誰にでも起こりうるような、すなわち普遍ともとれる恋愛の可能性を、まざまざ問うていることにあるのである。

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 2巻について→こちら
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・その他椎名軽穂に関する文章
 『CRAZY FOR YOU』
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2009年09月15日
 フツパー

 90年代の『EARTH VS THE WILDHEARTS』や『P.H.U.Q』と比べてどうというのはさておき、この『CHUTZPAH!(フツパー)』は、間違いなく、00年代におけるTHE WILDHEARTS(ワイルドハーツ)のキャリアにとって最良の、そして最高の一作といってしまっていいだろうね。いやはや、まだこれだけのポテンシャルを残しているとは思わなかったな、というやつである。それこそ、『ロッキング・オン』10月号のレビューで中込智子が「いわば彼らの集大成的な作品と言える」と述べていて、『BURRN!』10月号のレビューで小澤明久が「初心回帰的でもあり集大成的でもある」と評してるとおり、ほとんど意見が一致しているのもじつに納得がいくのであった。うんうん、たしかにそのようなタッチのアルバムだといえる。かつてイギリスでブリット・ポップが盛んであった頃、その裏でメロディアスにアップ・テンポかつハードなサウンドを極めたアーティストであったが、同時代のアメリカにおけるポップ・パンクとも異なっていたのは、基本的にスリージーなロックン・ロールでありながら、たとえばTHE BEATLESからSEPULTURAまでといった具合に幅広い参照項を、旧いも新しいも関係なくミックスし、ほんらいなら散漫になってしまいそうなところを、すぐれたソング・ライティングのセンスとフレキシブルなプレイをこなす演奏力でまとめ上げ、一種独特なサウンドを具体化することに成功していたためであるが、そのような特徴を十分思い出させる内容に『CHUTZPAH!』はなっており、すくなくともここ数作、アルバムの単位ではもうちょっとと感じられた部分を、余裕で上回っている。メンバーのラインナップは、07年の前作『THE WILDHEARTS』(もしくは08年のカヴァー・アルバム『STOP US IF YOU'VE HEARD THIS ONE BEFORE, VOL 1.』)から変わりないので、おそらくはバンド自体のモチベーションとコンディションがぐっと高まり、充実していることが、よくあらわれているのかもしれない。じっさい、中心人物でありフロントをつとめるジンジャーではなく、ベースのスコット・ソーリーがメインで曲を書き、ヴォーカルをつとめた4曲目の「THE ONLY ONE」は、つまり従来のフォーマットに則ってつくられているわけではないにもかかわらず、アーティストのカラーに見事フィットしているし、そう、そしてそう、ちょうど97年の『ENDLESS NAMELESS』に収められていた「ANTHEM」がそうであったのと同じように、パワフルな響きを持ち、重要なトピックとなりえていることで、いかに現在の体制が万全であるかを教えている。スコットの歌いっぷりは無骨だが、そのぶんガッツが入って聴こえ、シンプルなメロディをいっそう伸びやかに、ドラムの痛烈なアタック、ギターのリフがタフなグルーヴを描くなか、コーラスで重なるハーモニーはやたら輝かしい。たいへん誇らしげな響きを持っているけれど、もちろん「THE ONLY ONE」のほかにも、じつにTHE WILDHEARTSらしいと感じられる手応えの備わったナンバーが揃っているからこそ、そういう見方ができるのだ。先に小澤明久の「初心回帰的でもあり集大成的でもある」というレビューの一節を引いたが、自分なりに言い換えるならむしろ、ソロ・ワークスも含めてジンジャーがこれまでに関わってきたプロジェクトや、ギターのCJが過去に参加していたHONEY CRACKやTHE JELLYSのエッセンスをも汲み取っている形跡が節々にうかがえるのであって、それをあくまでもTHE WILDHEARTSのイメージになるたけ忠実なフォーマットに合併させていることが、たぶん『CHUTZPAH!』という実績をもたらしているのである。日本盤のみのボーナス・トラックにしたって、そりゃあこれぐらいのクオリティに仕上がっちゃったものを落としたら、もったいない。バチが当たらあ。ある意味、わがままでごった煮の作風を貫いているが、そこかしこで待ち構える大胆なフックに、いつの間にか、はまってしまう。盛り上がる。とてもいい調子だ。

 『THE WILDHEARTS』について→こちら
 ライヴ盤『STRIKE BACK』について→こちら

 ライヴ評(08年11月23日・赤坂ブリッツ)→こちら

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2009年09月13日
 RAIN【初回盤】 RAIN【通常盤】

 さしあたり名義の違いはともあれ、堂本剛のディスコグラフィとは要するに、Mr.Childrenや椎名林檎という同時代のソング・ライティングに影響を受けたアイドルが、ジミ・ヘンドリックスやスライ&ザ・ファミリー・ストーンなど洋楽の古典に傾倒する一個のミュージシャンへと変質してゆく過程であった。そのことはまずリズムのタイプとなってあらわれた。ファンク・ミュージックのアプローチが、音楽性のなかで主体化していったのである。本格的といわれれば、たしかにそうだろうと説得されるような。しかし同時に、日本語ポップスならではのとっつきやすさは、ずいぶん後退されたように思う。今回リリースされた『RAIN』という音源は、ENDLICHERI☆ENDLICHERI、244 ENDLI-x、剛紫ときて、ふたたび堂本剛にクレジットを戻しての制作となるが、サウンド自体は、決して『ROSSO E AZZURRO』(02年)や『WAVER』EP(04年)の頃には帰っていない。むしろ、剛紫の、ギミックを取り払い、ロー・ファイともとれるスタンスのまま、バンド・サウンドの志向を高めている、という意味で、やはり、今までのディスコグラフィの延長線上に置かれるべき作品にほかならない。また、複数人でプレイするバンド・サウンドに比例してか、詞のレベルにおいても、剛紫の内向性とは異なり、外へひらけるふうな印象がつよまってもいる。基本的にはシングルの扱いではあるけれど、タイトル・トラックは初回盤のみに収録のインストゥルメンタルであって、もしかすれば初回盤と通常盤ともにトップを飾っている「Sunday Morning」がメインにあたるのかもしれないが、たぶんもっとも注目すべきなのは、初回盤、通常盤、双方の2曲目に入っている「音楽を終わらせよう」である。「音楽を終わらせよう」は、すでにコンサートではジャム・セッションのなかに組み込まれていたナンバーで、いや、より正確を期すなら、おそらくはそのジャム・セッションのなかから派生したナンバーで、つまりは、おおきな流れの一部を切り取っているにすぎないといえる。12分以上もある演奏の時間は、ポップ・ミュージックの構成からすれば、もうすこし練られる必要があったのではないかと感じられる一方、だが違う、この長尺なフィーリングこそが「音楽を終わらせよう」の本質なのだとも受け取れる。先(9月11日)の『ミュージックステーション』では、3分程度にまとめられたヴァージョンが披露されたけれども、メロディよりもグルーヴを聴かせる、という点では、当然、インパクトは弱まっていた。通常盤の3曲目であり、13分以上ある「FUNK-SE○SSION」も、「音楽を終わらせよう」と同じく、コンサートのジャム・セッションでうかがえたものの一部だと思う。〈Funkyな・Spaceyな・Lovelyな・Funk Music〉というフレーズには、〈奏でろ〉というフレーズには、〈愛を犯しに行こうか〉というフレーズには、たしかに聞き覚えがある。ところで「音楽を終わらせよう」というのは、否定的な、ネガティヴなニュアンスを含んでいるだろうか。そうではない。いつまでも音楽が続き、それに身を浸しているかぎり、現実からは遊離した時間が流れる。尊く貴重な夢の最中にいるのにも似た。だからこそ〈ずっと終わりたくない…終わりたくない〉、そうヴォーカルはうたうのだし、楽曲はいつまでも引き延ばされる。しかし、現実を忘れてはならない。この決意が〈音楽があるけど・終わらせよう・未来の為に〉というリフレインを呼び、転調、解放のダイナミズムによって、エンド・マークを導いている。

 コンサート『ENDLICHERI☆ENDLICHERI CHERI 4 U』(09年8月19日・国立代々木競技場第一体育館)について→こちら

・その他堂本剛に関する文章
 『空 〜 美しい我の空』『美 我 空 - ビ ガ ク 〜 my beautiful sky』について→こちら
 『I AND 愛』について→こちら
 『Coward』について→こちら
 「ソメイヨシノ」について→こちら
 [si:]について→こちら

 『僕の靴音』について→こちら
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2009年09月12日
 ARISA 2 (講談社コミックスなかよし)

 若年層向けのマンガ(『なかよし』の連載)とはいえ、いやあるいは若年層向けであるため、じつにハイブリッドで現代的なツボを押さえた物語づくりのされている印象が、安藤なつみの『ARISA』にはある。学園という狭い世界における同調圧力を、サスペンスに仕立て、悪意が連鎖してゆくなか、正体不明の犯人を捜し当てるという展開は、こう書いてしまうと、少女マンガのジャンルに旧くから存在するイディオムのようであるが、一定のルールが遵守されている空間に、作中の人物たちが閉じ込められ、サヴァイバルにも似たゲームを繰り広げるというのは、むしろ今日的なフィクションの傾向をダイレクトに反映していると見てよいだろう。両親が離婚したため、離れて暮らす双子の姉妹、つばさとありさは、性格はまったくの正反対だが、今でも頻繁に手紙のやりとりをするほど、仲睦まじい。しかしありさには、つばさの知らない秘密があった。3年ぶりに再会したとき、誰にでもやさしく、屈託のないあかるさで皆から好かれているはずのありさは、つばさの目の前で飛び降り自殺をはかるのだった。さいわい一命は取り留めたものの、意識不明の重体に陥ったありさが、なぜ死のうとしたのか、つばさはその原因が学校での生活にあると感じた。そしてそれを知るべく、ありさを装い、彼女の通う姫椿中学校へ、潜入、金曜日の四時限目に2-Bの教室で、王様タイムと呼ばれる儀式が行われているのを、目の当たりにする。携帯電話でインターネットを通じ、「王様」と呼ばれる存在に、ふだんは温厚なクラスメイトたちが、一心不乱、自らの願いを書き込んでいる姿の異様さは、つばさをおののかせるが、それ以上に驚かされたのは、「王様」によって選ばれた生徒の願いが、じっさいに叶えられたことであった。ありさが死のうとしたのも、おそらくこれと関係している、そう信じたつばさは、単身、「王様」の正体を探ろうとするのだけれど、周囲の誰もが疑わしく、次々と危機的な状況に陥ってしまう。このようなストーリーにおいて、ほんらいはヤンキイッシュなつばさの造形が頼もしい。鉄腕のヒロインが、学校レベルの悪を退治してゆくのは、まさしく少女マンガにお馴染みのダイナミズムだが、それが先述したとおり、今日的なフィクションの狡猾さと真っ向からぶつかり合っているのである。そうした力強さというのは、なぜか、男性をおもな読者に抱く同型のマンガや男性が主人公の作品では発現しにくい。ともすれば、いじけた坊ちゃんのために多くの犠牲が払われることが現代ふうのリアリティだからなのかもしれないけれど、つばさの場合は反対に、躊躇いもせずに一人でばんばん引き受けていってしまう。まあ、そのせいでピンチになったりもするのだし、物語全体のロジックを弱めてしまってもいるのだが、そこで自然とテンションのあがってくるのがいいね、と思う。もう一点触れておきたいのは、すくなくとも現時点では、2-Bのクラスを満たす不吉さが、誰かの生まれや育ちに端を発しているわけでもなければ、巨大な陰謀をベースにしているわけではなく、純粋に子供じみた欲望と同調圧力により成立している点で、つまりは程度の差こそあれ、どこの教室にも起こりうる可能性におおきく足場をとっていることである。あるいはそれが『ARISA』にとってのリアリティだといえるだろう。この2巻の終盤、「王様」に支配されたゲームの法則は一変する。いちおうは穏健な共同体をなしていたクラスメイトたちが、与えられたパスワードをめぐり、凶暴な顔を見せはじめる。いつか学校に復帰するありさのためにも、利己ばかりが優先される価値基準を、つばさは立て直さなければならない。これに乗してスリルは高まってゆく。
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2009年09月11日
 新潮 2009年 10月号 [雑誌]

 『新潮』10月号。恥ずかしながらというべきか、正直にというべきか、朝吹真理子の『流跡』は、読んで、よくわからなかった。このことが作品の問題ではなく、読み手であるこちらの資質のせいであるなら、むしろ誰かに、どういう意を汲めばいいのか、教わりたいと思わされる作品であった。もしも次の月の文芸誌に評が載るのであれば、はやくともそれを待たなければならないわけだ。しばらくかかる。いやもちろん、よくわからなかったのは、散文の形式のなかで話の筋が明確となっていないからではない。たとえば、視線の動きが一つ一つの場面を象っており、そこに特徴的な瞬間があらわれていることにそそられる、というのではなくて、ほとんど心象でしかないものが連続し、いわくありげなモニュメントを次々と打ち立ててゆく様子の、いったいどこにピントを合わせたらいいのか、うまく掴めなかったためである。そのため、他人の実感以上のたしかさを得られなかった。あるいはじっさいに綴られているのも、他人の実感にすぎないのだろう。結局のところ、死や加齢という、誰にとっても切実な箇所だけが、光って見えた。
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2009年09月10日
 文学界 2009年 10月号 [雑誌]

 『文學界』10月号掲載。北野道夫の文學賞新人賞受賞第一作である『虹と虹鱒』は、読みはじめ、あまり良い印象を持てなかったのだけれど、小説が進んでいくうち、何か頭に引っかかるものがあり、最後までいき、ああ、そうか、と感じられたのは、とても悪くなかった。引っかかりをつくっているのは、もちろん、偶数の節において、「きみ」という二人称で語られている存在のことであるし、いくつかの記述が整合性を欠いていることであったが、要するにこれは、他でもありえた可能性を主体が見てしまうという今日的な題材を、自閉以外のどこにも辿り着かせないための方便なのだと思う。地方もしくは郊外をあちこち回ってみせる描写も、おそらくは、そのあたりに通じている。嫌がる女性を男性が無理やり制し、セックス(性交)する場面が冒頭にあり、両者の(視点とは決して言い切れないような)立場が、奇数と偶数で二つの節にわかれ、表明されてゆくのだけれども、それらは決して対他関係やコミュニケーションの物語と重なってはいない。いっけん重なっているふうに取れる箇所もじつは違っていることが、最終的にあかされているのである。まあ仕掛けというほど凝っているかどうかはべつとしても、構成の段差に共感を潜ませた作品の性質上、筋立てはやや錯綜しているものの、大まかに取り出すのであれば、非野という男が、高校の頃に失恋させられた相手を探し出し、性的なファンタジーを満足させようとする一方、その対象であるユウの、性的な欲望にだらしのないイメージが、彼女の経歴をなぞらえるかたちで示される。非野のパートとユウのパートが、ちぐはぐな線しか結べないのは、結局のところ、主観と客観とが対立し損ない、現実そのものの遠近に無理が生じているためだろう。そしてその、奇妙に歪んだ目線こそが、小説のなかで、いちばん生々しく、寂しい、もっともうつくしい光景を掴まえている点に、自閉の思想とでもいうべきリアリティを有している。
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