ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年08月30日
 king18.jpg

 作者当人の欲求なのか、編集者の要請なのかは知らないが、これまでの作品を読んできたかぎり、門尾勇治というマンガ家の資質は、正直、ミステリやサスペンスには向いていないと思われてしまう。はったりは利いているものの、ロジカルな展開がほとんど見られないので、つくられたどんでん返しに、驚かされるというより、拍子抜けしてしまうためであって、それはこの、『ヤングキング』NO.18に50ページの読み切りとして掲載された『Don't give up』においても、確認されるであろう。衝撃のパンデミック・ミステリーと紹介されているけれど、そのような題材は、必ずしもストーリーをおもしろくはしていない。近未来、「LIFE」と呼ばれる老化を抑制する新種のバクテリアが開発され、さまざまな食料品に配合、全世界で一般化していた。〈つまり…誰もが それを体内に潜めていた〉のであったが、〈その結果………〉同時多発的に、全人類が固まり、動かなくなってしまうという奇病が発生する。まるで時間が静止したかのような世界、なぜか異変から逃れられた青年、勇樹は、恋人である加奈に必死な呼びかけを行うが、彼女は蝋人形みたいに笑顔をたたえたまま、何も答えてはくれない。耳を胸に押し当てると心臓が働いている以上、死んではいないにもかかわらず、まったく反応をしてくれないのである。それは他の人びとも同じであった。戸惑いながらも勇樹は、沙希という、やはり「LIFE」の影響から助かった女性と合流する。彼女の恋人が「LIFE」の研究者であり、その実用化に疑問を持っていたことから、もしかすればワクチンが存在する可能性を信じ、彼のもとへ向かう二人であったが、都市機能は完全に停止、動くことのできる人間がいたとしても、すっかり暴徒化しているのを見、絶望を抱かざるをえない。この絶望に対する解答が、すなわち題名の『Don't give up』に通じているわけだけれども、そうした精神論の組み立てが、うまく物語に落とし込まれていない。まあ、設定の細かさ自体、高度なSFのファンからしたら難のあるところかもしれない、が、それ以前の段階、必ずや希望は信じられるという内容にどう説得力を与えるかのレベルで、あまり整合性を感じられないのだ。マンガの背景と作中人物による決断の合間、もうすこし、齟齬が埋まって欲しい。

・その他門尾勇治に関する文章
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 『欺瞞遊戯』について→こちら
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2009年08月29日
 ヒロインと幼馴染みのイケメンさんが二人、こうした三角関係のパターンはやっぱりつよいよね。ほとんど外さない。すくなくとも物語の立ち上がり当初においては、と思う。一夜とヒロ、そして茜は、同い歳、同じマンションの同じ階、隣同士で幼少の頃からいっしょに育ってきた。〈大好きで大切な2人とこの先もずっとずっと一緒…そう思ってた〉茜であったが、しかし高校にあがり、すっかり魅力的になった一夜とヒロは、彼女を子供のときと同じ目線ではもう、見ることができない。一夜が、茜に対し〈誰かと同等の好きなんていらない(略)オレだけを好きになって〉と告白したことから、ヒロも黙ってはいられず、それまでの均衡は崩れるのであった。白石ユキの『となりの恋がたき』に描かれているのは、つまりそのような、半径のちいさい世界を舞台にした三角関係式のラヴ・ストーリーにほかならない。すでに述べたとおり、典型的ではあるものの、いや典型的だからこそ、物語の離陸はスムーズに行われており、いきおい任せな面がありながらも、作中人物の感情はすっとはまっている。現状のままでいたい茜を傷つけたくはないが、現状を壊さなければ望みを叶えられない一夜とヒロ、三すくみの緊張が、日常の場面を盛り上げているのである。もちろん、それは『となりの恋がたき』に固有の特徴ではないだろう。たしかに1巻を読むかぎり、うまい流れはつくられているが、それは規定のルールを作者と読者が共有したうえで確認し合っているためにすぎないのであって、問題はここから先に違いない。じつは、細かい設定をべつにするのであれば、三角関係の当事者全員が主人公であるようなラブコメは、出だしこそ良いが、その後、どうしてかぐだぐだになってしまうものが多い。おそらく、三すくみの緊張に、悲劇以外の落としどころを見出そうとしているうち、そうなってしまうのだろう。だいいち、たんなる三角関係の場合であったとしても、少女マンガのジャンルでなかったとしても、どれほど名作と呼ばれるものであったとしても、たとえば、夏目漱石の『こころ』であったり、あだち充の『タッチ』であったり、死者を出さなければ収まりがつかないケースはすくなくない。それをできうるかぎり、ハッピー・エンドに持っていこうとするのだ。そりゃあ悩むよね。まあ、現在の段階では『となりの恋がたき』がどういう結末を目指しているのか、定かではないけれど、すくなくとも悲劇が望まれるタイプの作風ではない。そのことを踏まえ、もう一点、注目しておかなければならないのは、茜がすでに一夜とヒロのどちらかを選んでいる、という予断が描写されていることで、これはなかなかにスリリングな展開をもたらしてはいるが、同時に、かなりきつい決断を作中人物たちに突きつけることになりかねない。アイディア自体はすぐれているだけに、そのへんを作者はどう乗り切るのか。力量が試される。
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2009年08月28日
 サドっ気抜群のイケメン教師とマゾっ気十分な女子高校生の恋愛というのは、少女マンガのジャンルにおける一つのスタンダードであって、作者である椎葉ナナもコメントの部分で〈黄金ネタを長年スルーしてた〉と述べているとおり、『先生はエゴイスト』は、そのパターンを採用し、描かれた読み切り作品を、三篇収めている。そもそもの設定が、たしょう紋切り型ではあるため、人によっては、まあね、となってしまうだろうが、「先生の恋人」という篇は、古典の教師と彼に片想いする女子高生の関係を『源氏物語』の挿話になぞらえるアイディアが、あんがい悪くなくて、印象に残る。高校入学式の日、教師である高嶺との出会い方がよかったため、〈もしかしてこれは恋?〉と、ときめく一馨であったが、じっさいに彼の授業を受けるようになると、あまりにもちゃらい性格が当初のイメージとは違い、幻滅しはじめている。だがそれでも気になってしまうから弱る、といったところ、一馨とは正反対でいけいけの姉に相談してみても参考にはならず、高嶺の思わせぶりな態度に翻弄されてしまう。ネタを割ってしまっても問題はないと思うが、いちおうは控えて、ようやく心が通ったかに感じられた高嶺との関係を、『源氏物語』を好んで読む一馨が、光源氏と若紫のそれに喩えるあたりがキーである。〈光源氏が若紫に藤壺の面影を見たように〉高嶺が、ほかの誰かと自分とを重ねていると勘繰った一馨の不安は、すなわち、自分がほかの誰かの代わりに見られているとき、たとえ恋人に選ばれたとしても、それは真実の愛にはならないのではないか、という疑いを孕む。大げさにいうなら、対他関係の公式において主体が必ずしも絶対とはならない可能性を抱かせるのである。このため一馨は、高嶺と親しくなりながらも、〈私は一途に愛された藤壺にはなれない〉と悲しまなければならない。ただし、もったいないのは、そうした対他関係における本質的な困難を掴んでいるにもかかわらず、ラヴ・ストーリーに描かれているのはあくまでも、外見と内面の問題でしかなく、たしかにほかの誰かに似たルックスではなく、ほかの誰とも似ていない気持ちのありようこそを好きになったのだという結論は、うつくしい。だが、そのうつくしさは、結局、一馨の内面のいったいどこが高嶺には魅力的であったのか、答えていない。たんに素直だったから、だけでは、あまりにも表面的すぎするし、寂しい。
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 八寿子の『チェリーなぼくら』は、その題名から察せられるように、経験に乏しい高校生同士の恋愛を、わりとこうユーモラスにマンガ化したオムニバスのストーリーである。オムニバスとはいっても、この1巻の段階では、読み切りの作品集に性格は近しい。まあ、童貞や処女といったトピックが、コンプレックスを代替するとともにピュアであることの象徴となっている内容は、ありふれたアイディアにほかならないし、それが思春期における戸惑いと結びついているのも、さもありなん、ではあるだろう。いやいやしかし、とても楽しめてしまったのは、結局、外見と内面のギャップに苦しむ作中人物たちの姿が、もちろん当人にしてみたら深刻には違いないものの、おかしみにあふれながら、きわめてキュートに描かれているためだと思う。男女関係に未熟であることの悩みは、これぐらいばからしく、テンションの高いほうが、そうそう、そこはそうなっちゃうよなあ、と、よく伝わってくる。たとえば最初のエピソード、高校デビューし、周囲からはすれたように見られているが、じっさいには男子と交際したことのないヒロイン、佐藤千夏が、ふとしたことをきっかけに、後輩である福永信平を意識しはじめる、もしかしたら向こうも自分のことが気になっているのではないか、と考えてしまうのだけれど、ほかの女子にも愛想振りまく彼を見、〈――そーだよね あんな子…モテるに決まってる 私なんかを特別好きになるわけがない――…… / つーか ちょっと男としゃべっただけですぐ色恋に結びつけたがる この幼稚な脳をどーにかしてくれッ〉というあたり、これ、いったん少女マンガ的なイディオムを使い、シリアスさを出しておきながら、すぐさまそれを自主回収することで、要するにギャグのテンポをつくり出しているわけだが、むしろその、滑稽にあたふたする様子が、初心な人間にとってのリアリティになりえているのである。他のエピソードに関しても、もてない、というより、自己評価の低いせいで、異性へのアプローチがねじれてしまったヒロインの葛藤を、適切に戯画化している。他方、彼女らと接する男子にも同等の負荷をかけていることが、のちのちロマンティックな展開に結びついているのも良い。気持ちいい。

 『真夜中エクスプレス』について→こちら
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2009年08月26日
 高野苺の『夢みる太陽』が、ますますおもしろくなっているのは、単純に嬉しい。作中人物たちが夢や恋に、わいわい騒ぎ、ひた走ることが、もっとおおきなエクストラを都合よくもたらす、まるで絵空事のようなストーリーであるが、これを否定してしまったら生きていくのはとても寂しいという、現実に向かって期待を込めるのにも似た、ささやかなエモーションを同時に連れてくる。しま奈が、虎(たいが)や善、朝陽、気のよい男性たちと繰り広げる一つ屋根の下の暮らしは、さまざまな出来事を通じ、以前にも増して親密さを高めていたが、善の兄である拳の登場を期に、彼の高校時代の同級生である善の知られざる屈託が仄めかされ、他の三人はそれを無視することができず、せっかくの関係性にも緊張を感じざるをえなくなってしまうのが、この4巻に描かれているくだりである。基本的には、しま奈の片想いをベースに物語は動いているのだけれども、彼女の無知ともとれる言動はいわば、ミニマムな共同体がどれだけ純粋に保たれているかをはかるテスターの役割であって、その表情が四者のあいだに成立する幸福そのものを教えるかっこうになっている。一方で、夢や希望などといったものは、本質的に、未来の時間と水準を同じくする。拳がふたたびボクサーとして再起するエピソードにあきらかなとおり、イベント状に発生するすべては、現在が未来に追いつく過程にほかならない。それをしま奈が目の当たり、体験することを指して、もちろん、成長と呼んでもよい。が、このとき、虎と朝陽、同い歳である善はどうかな違うかな、すくなくとも二人の存在は、彼らが年上であることも含め、しま奈よりほんのすこし先を行っており、彼女のいささか幼い言動を、大人の側に近い目線から逆照射するかっこうになっている。こうして見るなら、共同体と思春期の現実にそくした問題の提起が、ラヴ・ストーリー以上の予断を作品に与えていると示唆的なのだけれど、あくまでもコメディであろうとする志向が、身動きのとれない重たさよりも、息苦しさをよそにするだけの晴れやかさを、読み手が持つだろう感想のなかに送り込んでいる。そこに『夢みる太陽』の魅力があり、最良の特徴がある。しかしまあ、虎にはべつの本名があって、それがああだとすると、タイトルが持っている意味も、ちょっと違ったふうに受け取れてくる、か。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『バンビの手紙』について→こちら
 『Shooting Star』について→こちら
 『愛し金魚』について→こちら
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2009年08月25日
 酒は辛口肴は下ネタ 1 (ヤングチャンピオンコミックス)

 みさき速というマンガ家を、高橋留美子のすぐれたフォロワーとして見るとき、その手腕は『酒は辛口 肴は下ネタ』において遺憾なく発揮されていると思う。もちろん、ここでいうフォロワーとは決して悪い意味ではない。個性の際立った登場人物たちが、気持ちのよいテンポでコメディをつくっていく様子は、あきらかに高橋をルーツとするものであるけれど、それを現在、このレベルで巧みに表現できるのは、当の高橋を含め、ひじょうにすくない。『特攻天女』のロング・エピソードや『殺戮姫』に展開されていたシリアスさは、ほとんど見る影もなく、後ろに引っ込まされている。かわりに、日常をすこしばかり横へとスライドさせた設定のなか、ユーモラスなまでのコミュニケーション・ギャップを盛り込む手法が前面化し、どたばた、和気あいあいとするひとときが繰り広げられているのである。東京の下町、居酒屋「男道」で腕をふるう料理人、野々宮太郎は、若いながらも今どき硬派を気取る堅物であった。客からは女嫌いと見られている。彼がそうなってしまったのは、実家、京都の老舗すっぽん料理屋「華屋」が、女系の血筋だから以上に、まだ小学生である妹の花七が、性的好奇心のひじょうに高い人格に生まれ、育ったため、彼女が幼い頃より振り回され、男子としてはつらく、痛い目にあってきたせいだった。6年前、ひとり東京にやってくることで、ようやく築いた自分の城が、すなわち「男道」なのだが、小学校最後の夏休みを利用し、ちいさな災厄ともいえる花七が、太郎のもとを訪れるばかりか、しばらく居座ると言い出したことから、甚だしく賑やかな昼夜がスタートする。まあ、タイトルに堂々「下ネタ」と冠されているとおり、ギャグの材料は、グロテスクなぐらい下品なものばかり、エロティックな描写も多いし、そのへんは好みのおおきく分かれる点に違いない。しかしながら、そうした部位はあくまでも表向きの装飾にすぎないのであって、作品の醍醐味はやはり、間、のとり方にある。人物と人物、セリフとセリフ、コマとコマ、これらの技法的にナチュラルな結びつき、わざとらしさも込みの滑らかさが、はきはきとした触感を連れてくる。たしょうまじに考えるなら、男性の主人公が持っている未熟なアイデンティティや、これが(今のところ花七の夏休みという)期限を設けられたうえでの喜劇であることなど、深層的にも作風の由来がうかがえるだろう。一方で、いびつな家族のモチーフは、このマンガ家の、おそらくは本質を貫く一本の柱であって、『酒は辛口 肴は下ネタ』では、兄妹の、他には決して代えがたい関係性を守っていることが、ドラマの底を担う。

・その他みさき速に関する文章
 『特攻天女』描き下ろし新作について→こちら
 『殺戮姫』について→こちら
 「日曜の夜は出たくない」 (原作:倉知淳)について→こちら
 『曲芸家族』第4巻について→こちら
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2009年08月24日
 パンドラ Vol.4 (講談社BOX)

 ここ最近にかぎらず、よしもとよしともの活動を追っていると、カットは描けるし、文章は書ける、けれども、なかなかマンガをやってくれないのは、きっと難しく考えすぎているからなんじゃないか、という印象を持つし、そこに作者の、マンガ家としての矜持があって、最大の資質が見え隠れしている、といえば、おそらくそうなのだろう。『見張り塔からずっと』は、『パンドラ』Vol.4に掲載された。2ページのマンガを、小説でサンドイッチするかたちの、作品である。よしもとにはすでに『西荻タワー』(04年、『文藝別冊 やまだないと』掲載)という小説があるが、ああ、ふたたび塔(タワー)だ、と思う。『西荻タワー』には、文字どおりのタワーがそびえ立っていたが、ここでは巨大な観覧車がそれを果たしている。〈観覧車の頂上から見た遊園地の外の景色は、やはり濃い霧で覆われていた〉のだった。そうして作中に浮き沈みするモチーフ、高い場所から空、あるいは死者、もしくはこの世界に居場所を感じられないにもかかわらずこの世界でしか生きられない人びと、揺るぎなく過ぎ去る時間、といったさまざまは、もちろん、よしもとの過去作においても重要なトピックになりえていた。この意味において、従来のイメージを裏切っていない。小説とマンガをミックスした手法は、必ずしも「4分33秒」などの実験的なアプローチと趣を同じくしない。むしろ、作者が自分のモチベーションを判断するための材料、確認作業のようにさえ、受け取れる。以前のインタビューを紐解くまでもなく、暗い目をした子供、不自由さを得た中年、こうしたテーマに対し、どうすれば希望のイメージを与えられるかは、あるとき以降、よしもとの創作にとっておおきな課題となっている。それを現在の筆力で、できるだけマンガに近づけようとしたのが、ここまでなら何とかやれるよと意思表明してみせたのが、『見張り塔からずっと』だという気がする。たぶん重要なのは、そこから眺められる先であって、よしもとが苦心しているのもそれ、『魔法の国のルル』の、あの空の向こう、虹の向こうにひらけている世界はまだあらわれていない。

 『ブロンちゃんの人生相談室』について→こちら
 『4分33秒』について→こちら(01年に「NEWSWAVE ON LINE」内のコンテンツに書いたもの)
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2009年08月23日
 CasaBRUTUS特別編集 浦沢直樹読本 (マガジンハウスムック CASA BRUTUS)

 現在出ている『CasaBRUTUS特別編集 浦沢直樹読本』で、麻草郁さん泉信行さんと鼎談を行っております。それから『MONSTER』『20世紀少年』『PLUTO』の作品紹介と登場人物評を書きました。
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2009年08月22日
 外天の夏 5 (ヤングジャンプコミックス)

 そして夜が明けることなく、物語は終わる。朝が来てしまえば、すべては消え去ってしまう、それをおそれた祈りのように、である。暴走する少年たちに委ねられた佐木飛朗斗のロマンを、東直輝がマンガ化した『外天の夏』は、この5巻で完結した。突然の連載終了によって、まったく先行きの見えないまま、いったんは幕を引いてしまった作品であったけれど、前巻の予告どおり、単行本化にさいして大幅な描き下ろしが加えられ、主人公である天外夏の使命と青春に、束の間の希望が与えられている。いや、たしかにこれでもまだ中途半端に見られてしまうかもしれない。が、結末のあまりにも儚く、ささやかで、しかし逞しく、輝いて残るありようは、断固支持したい。油断したら感動してしまいそうですらある。

 この宇宙は果てしなく、どれだけ懐のひろさを持っていたとしても、一個一個の人間が幸福になれる筋書きを、わざわざ考えてくれたりしないだろう。各々がただ、自分の理を、手探り、掴んでいくしかないのである。すくなくともその決意がラストのシーンに刻み込まれている。

 たとえば架空のガールズ・ロック・バンド、ガソリン・バニーの奏でる楽曲が暗示的であるように、作中において、あるいはすでに現在の社会において、あらゆる価値基準は相対化されており、ヒロインの一人である巻島亜里沙の両親、宗親と玲子の夫婦が、互いを利用し合うことでしか愛を実現できないのも、そのことを忠実に教えているにすぎない。悪意を望んでいるのではない。存在価値を認め、必要としながらも、今の世のなかには、あらかじめ完璧なものなぞないと悟ってしまっているため、〈“愚かな男”…真髄が感じられないのだ…そしてそれを恥じるなど…〉と、〈“愚かな女”…己の利益しか感じられぬのだ…そしてそれを妄信するなど…〉と、一方の不完全さを呪ってしまう。

 娘の亜里沙は、そうした両親の関係を、ちょうど反照射し、だからこそ完璧な愛を求める者である。かくして、親と子のあいだにもある種の相対性が生じているのはともかく、欲望が、父母を、さらには家族を狂わせた、ということにしておきたい。だが、宗教や哲学に似て、膨大なシンパサイザーを召喚するほど、二人の欲望がきわめて純粋であるとき、それは結果の一部にすぎず、必ずしも正義となりえない。自分以外の誰かを動かさないかぎり、無根拠で独りよがりな批判にとどまる。たしょう象徴的にとるなら、そのことを無意識だとしても察知しているので、亜里沙は、巻島家で行われている饗宴を、途中で抜け、べつの世界に逃げ出すよりほかないのだった。じっさいのストーリーを見るのであれば、そこから逃げ出した彼女は、やがて運命的にも夏との再会を果たす、すなわち家族を原因に欠損を抱えた人間同士が行動をともにする流れとなっている。このような物語上の必然を経、亜里沙の手をとった夏は、春の空が桜と雪を降らす晩に〈…海と空の境は夜に溶けて…まっ白い雪が埋め尽くしてゆく…オレに“真逆の世界”を変える事なんて出来るだろうか…? でも…今 目の前にいるこの娘(コ)がかけがえの無い存在だと…春の雪が教えてくれていた…〉と思うのである。

 決して夜は明けず、夏が〈オレに“真逆の世界”を変える事なんて出来るだろうか…?〉と逡巡していることにあきらかだが、登場する人物の全員が十分なエンディングを迎えてはいない。物語には未解決の余地が残されている。しかしそれでも作品が、できるだけうつくしい印象をもって閉じられていると感じられるのは、夏という主人公に与えられた可能性が、間違いなく、陽性の反応を、たとえ彼の手が届く範囲内にかぎられているとしても、導いている、と信じられるためだ。

 夏の兄である冬が、かつて伊織に向かって言った〈別に世界を変えなくても オマエは無力なんかじゃねーさ…〉という励ましと、「族の王様」を目指す龍人と対面した夏の〈オレは無力で…でも…手が届くものは 何もかも守りたかった…(略)たとえメチャクチャな結果でも…後悔はしていない 何もしない自分は赦せないから…〉という決意は、作品のなかで、まさしく一連なりであるようなテーマになっている。

 たぶん「真逆の世界」とは、いっさいが相対化され、善悪の判断もなくなり、大勢が対立し合うしかない状況の喩えだとすることができる。冬は、その構造自体を変えようと願う者であった。そして、彼のアプローチは、さまざまな人びととの出会いを通じ、弟である夏へ、たしかに託されていることが、ちょうど冬と夏とに極端化された季節のあいだ、にぎやかな春の争乱に描き出されているのである。

 繰り返していうが、結末に至ってもなお、登場する人物たちを迎えるエンディングは十分じゃない。いや、それどころか、どの願いも虚しく、悲しく、残酷でしかありえないことだけが、いっぺんに強調されている。だがしかし、所詮それが、誰しもが幸福になれるわけではない筋書きこそが、この宇宙のありようだとするなら、せめてもの希望を必死になって掲げることもまた、無意味にされてしまうのだろうか。さすがに寂しすぎるよ。冬と夏の、点と点を、線と線とで結び、繋げることで、抽象性の内にあらわれはじめたテーマは、希望を飲み込みながらひろがる空漠に対し、精一杯の抵抗を試みる。宇宙の側から見て、どれだけ誤ったかっこうをしていても、捧げられた祈りの一つ一つは、不思議と人の姿をしていた。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』(漫画・山田秋太郎)について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
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2009年08月21日
 ヤンキー・マンガは生き方を教えられるか。たしかにこれは、フィクションは教えられるか、というふうに敷衍できる問題なのだけれど、ヤンキー・マンガにおいて生き方の云々は、直接的かつ具体的なテーマとなりうるため、ことさら提議したくもなる。が、しかし幸か不幸か、たいていの人間はそれを修身の書として読んでいるわけではないので、作者は表現のレベルに深みをつくる必要もないし、あるいは自分の倫理を素直に述べることが表現の深みだと思ってしまっている、と受け取れる。この問題に対するおそらく懐疑となっているのが、過去にもさんざん書いてきたけれど、高橋ヒロシの我妻涼(『QP』の登場人物ね)に向けた反省である。だがそれは『WORST』に持ち越されながら、『WORST』が長篇化するにつれ、じょじょに霧散していったように感じられる。後発の作家にしてみても、そうした問題の表層ばかりを引き継いでしまっており、むしろだからこそ、自分はシリアスなんだぞ、というスタンスが、必ずしもすぐれた表現をもたらさず、所詮はったりにしか見えない場合が多い。同時に、コメディ(という批評性)をおもしろく(正確に)描けなくなっている。

 たとえば『漫'sプレイボーイ』VOL.2掲載のインタビューで、柳内大樹は、自作の『ギャングキング』について〈絵柄はヤンキー漫画だし、それを求められるけど、自分では今、メッセージ性の漫画だなと。だから上っ面だけだとバレる気がするし〉と言っているが、それすらも結局は、登場人物がさかんに「想像力」と口走るばかり、いかにもなポエムで辻褄を合わせているにすぎず、たかだかその程度のことが〈俺の漫画が変わってるのは「深く悩んだもん勝ち」というか、人として一生懸命、真面目に考えた奴がケンカも強くなるって漫画にしてるからですかね〉と作者に思わせているにほかならない。

 この、『コミックブレイク』NO.5に発表された読み切りマンガ『スマイル』は、柳内大樹と、『Hey!リキ』の永田晃一による合作である。柳内と永田の親密な付き合いは、『フィギュア王』NO.131の「なかてま連合Meeting」という座談会を参考にすると、すでに10年以上のものとなっていて、たぶん、両作者の意識のうえでは、これもまた〈絵柄はヤンキー漫画だし、それを求められるけど、自分では今、メッセージ性の漫画だなと〉という点で、合致が得られているのではないかと思われる。ただし、まあ企画自体がプレゼンスであるような作品にどうこういっても仕方のないことではあるが、しかしやはり、内容のほうは、あまりはっとしない。8ページのうち6ページを上下に区切り、ケンカ(タイマン)する少年たちの内面をそれぞれが担当するという形式で、マンガは描かれている。そしてそれは、今日のフィクションにお馴染みの、生まれや育ちによって主体は形成される、というテーマに集約されてゆく。いや、もちろん、悪い影響や抑圧からいかに脱するかが本質の部分であって、二人の少年が出会いを通じ、本音をひらき、解り合える他人になることが、あかるいハッピー・エンドをもたらしている。

 いい話じゃないか、といえば、まさしくそのとおりだろう。だが、物語の整合性をとっているのは、基本的にポエムと説明なのだ。とくに永田のあらわしているパートが、その役割を果たし、これだけ詳しく説明してもらえれば、印象づけのポエムにも、ああそうね、と頷くしかない。だってそうなんでしょ、と口を挟んでも仕方があるまい。合作の方法を良いふうに解釈するなら、お互いの作風が対照になっている点であって、それは間違いなく意図的に行われているのだが、すべてを単純化する以上の功績は見られず、登場人物が持っている深刻さを必ずしも濃くはしていない、もしかすれば薄っぺらくさえしてしまっている。結果、じつはメッセージがどうであれ、拳を交わしたら友情が生まれる、と短絡するヤンキー・マンガの思いなしを越えてはいない。

・柳内大樹に関する文章
 『ギャングキング』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・永田晃一に関する文章
 『Hey!リキ』(原案・高橋ヒロシ)
  14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
 『ランディーズ 完全版』について→こちら
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2009年08月20日
 endli.jpg

 いやはや、侮ってたわ。まったく。ぜんぜんアイドルのそれじゃねえんだ。いや、アイドルのコンサートを観に行ったつもりが、まさか延々とジャム・セッションが繰り広げられるという、異様な光景を目の当たりにするとはな。ぶっとんだし、感動したし、あらためて惚れ直した。惚れ直した。惚れ直したよ。完全に。

 かねてより堂本剛というありようにはすごく関心があって、一度はそのライヴ・シーンを目撃したいと思っていたのだが、いよいよ、ようやく、とうとう、昨日(19日)、国立代々木競技場第一体育館で行われた「ENDLICHERI☆ENDLICHERI CHERI 4 U」で、じっさいに体験することができたわけだれど、これがまた、予想をはるかに上回っていたね。

 つい先日まで活動していた剛紫ではなく、ENDLICHERI☆ENDLICHERIに名義を戻しての公演、ここでの主役、つまり堂本剛は、ケリーというペルソナを頂く一人の、マルチなミュージシャンである(したがって以後、基本的にケリーと表記する)。ENDLICHERI☆ENDLICHERIは、とくにファンク色のつよいプロジェクトであったが、そのスタイルを間違いなく誇示するパフォーマンスは、エレクトロニックなアプローチを高めた244 ENDLI-xや、スタティックな情緒とスケールの大きさを同居させた剛紫などの取り組みを経たこともあるのだろう、ちょっとびびるほどのインパクトを持ち合わせていた。

 あらかじめ全体像を述べてしまえば、3時間強のショーにおいて、本編の半分ほどがバンド演奏によるインストゥルメンタル、うちアンコールの1時間はさらにフレキシブルさを増したジャム・セッションとなっており、披露された曲数自体は、たぶん、10に足りるか足りないかぐらいではなかったか。要するに、ほとんどが楽器の演奏で占められているのだ。

 もちろん、その中心点はあくまでもケリーにほかならない。ギターをプレイしつつ、アドリブのヴォーカルを入れながら、バックのバンドと連携をはかる。そこにマッシヴでファンキッシュなグルーヴが生じている。こうしたステージ上の形態は、おそらく、彼が敬愛するスライ&ザ・ファミリー・ストーンにヒントを得ているに違いない。

 オープニング、ENDLICHERI☆ENDLICHERIのマスコットであるSankakuの、電子的に加工された声のアナウンスを受け、重低音の強烈なダンス・ビートが響き渡る。06年のアルバム『Coward』の、まさしくトップを飾った「ENDLICHERI☆ENDLICHERI」で幕を開けた。いやはや、大音量で耳にする打ち込み、リズムの、何ともテンションのあがることよ。プログラミングされたサウンドに合わせ、バンドが登場するとそのまま、演奏を引き継ぎ、よりはげしく、高揚の衝動を引き出す。このときのメンバー紹介によれば、パーカッションやホーン・セクション、女性のバック・コーラスを含め、メンバーのだいたいは、堂本剛のソロ・プロジェクトに所縁のあるミュージシャンたちであり、ドラムの屋敷豪太やギターの竹内朋康等々、銘々が相応に名を知られている。それが一個の巨大な出力をつくりだしているんだから、自然、こちらの体も動くし、当然、盛り上がらあ。レーザー光線のようなライティングもじつに効果的で決まっていた。

 そして続くのは、うおお、244 ENDLI-xのアルバム『I AND 愛』において、柔軟にハイパーなリズムを轟かせていた「Let's get FUNKASY!!!」である。「ENDLICHERI☆ENDLICHERI」のアップ・グレードなヴァージョンともいえるナンバーだが、初っぱなからこの2連発は、やばい、であろう。すくなくともその瞬間は、これが現在最高のダンス・ロック・アクトですよ、と言わてもまじで信じてしまいそうだった。

 演奏の最中、あるいはMCの場面で、ケリーが何度も「ファンク」と声を出し、強調するとおり、躍動感あふれるダイナミズムが、またすでに述べたように、インストゥルメンタルにおおきく置かれた比重が、ショーの輪郭を象ってゆく。しばしばケリーが弾いてみせるのは、ジミ・ヘンドリックスふうの、ひずんだギター・ソロである。それが後ろのスクリーンに映し出された自作であるというサイケデリックなCGともマッチしている。

 しかし、やはり圧倒されるのは、その、声量のすばらしいヴォーカルであった。どこまでも伸びやかに通るそれは、ワン・フレーズ、ワン・センテンスの発音がもう、奇跡みたいなきらめき、アップ・テンポな局面では、扇情の意志をすみやかに波及させるし、本人のピアノで弾き語りされたバラード「ソメイヨシノ」におけるエモーショナルさ加減ときたら、〈ソメイヨシノきみは・この季節抱くたび・どんな想いを僕らに・ピンクのはなびら・美しく・身に纏って・風にもたれて・叫ぶ声がまた・墜落した〉という抽象性に、あざやかなメロディの、祈りにも似た印象を与える。

 たとえば「ソメイヨシノ」直前の転換におけるMCのコーナーで聞かれたような、さすがの話術を生かしたおもしろトーク以外の、ともすれば大げさに過去と現在や生と死について述べるメッセージは、人によって興味が分かれるだろうし、必ずしも胸揺さぶられるとは言い難いかもしれないが、それが音楽化されたさい、なるほど、こうも力を持つのか、もしも歌や声に力があるとしたら、そうか、このようにあらわれるのか、と信じるよりほかないと思う。個人的な話をすれば、感激屋さんなのもあって、じつはすこし、泣いちゃいそうだった。

 むろん、全編がシリアスなのではなく、先ほど述べたけれども、MCにはおもしろトークもあり、曲間ではパーカッション用のドラム缶に頭を突っ込んだまま叩かれるコント的なやりとりもあり、たしか『I AND 愛』からの「Love is the key」の間奏だったかな、ジェスチャーと火薬の演出を使って手の込んだジョークをやったりしていた。07年のアルバム『Neo Africa Rainbow Ax』に収録されていた「Blue Berry -NARA Fun9 Style-」のリズム・パートで、観客に指示を出し、何度も何度もジャンプさせていたのは、まあ大勢の女性がぴょんぴょん跳ねる姿はとても可愛らしく、楽しかったな。

 本編の最後は、『Coward』のラストでもある「これだけの日を跨いできたのだから」だった。ゆるやかだがはずむ速度を、旺盛なアンサンブルが織り成すなか、ずっとずうっと力強いヴォーカルが〈悲惨な出来事なんて・あるのが当たり前じゃない・これだけの日を跨いで来たのだから・あたしたちはね・歩んでいるの・一歩一歩と人生って道を・あたしたちはね・歩んでいるの・一歩一歩と人生って輝きを〉と、泣き笑い、ポジティヴなフィーリングを高らかに宣誓する。気持ちの暗く重たく堅い部分が、ふわり、さわやかになれたエンディングを、おおきな拍手で送る。

 いったんステージを去り、ふたたび姿を現したケリーが「あと1時間」と言う。これが、1時間のジャム・セッションをやるよ、という意味だとは、正直、思わなかったよね。とにかく、ファンクをベースにしながら、うねり、またたき、浮き沈みするグルーヴの、きわめて活発な演奏が展開されたのだった。

 各プレイヤーのソロ・セクションを組み込みつつ、中心点であるケリーは、ギターやアドリブのヴォーカルばかりではなく、ドラム・セットに腰をおろしたりしながら、部分部分にあたらしく変調を付け加えてゆく。周囲の客席を眺めるに、置いていかれている向きもすくなくはなかったみたいだけれども、アーティストのマスターベーションとは決して見なせないだけの手応えが、たしかに生じていた。一方で、リズムに合わせた観客のハンド・クラップは鳴り止まない。あれだけの規模のハンド・クラップであれば、もはや演奏の一部といっても差し支えがないだろう。エネルギーは失われずに膨らみ続ける。ぐんぐん熱が高まる。

 やがて、即興のヴォーカルが、メロディに詞を入れはじめる。それはつまり、「きみとぼくと愛と幸福」についてのテーマを、具体化したものである。繰り返すが、声量がたっぷりで、果てなく通る歌声は、聴く側の心を動かす。生きている、そのことの温度が、わずかの虚偽すら持たず、まっすぐ伝わってくるかのよう。ここはとても感動的であった。

 そうして、あらかじめ1時間とアナウンスされたアンコールは、予定をすこし回ってしまてから、ようやくおしまいを迎える。どこがいちばんの絶頂であったか、といえば、すべて、と答えても惜しくはないほど、よどみなく。まさか、こんなにもの興奮を得られるだなんて。ENDLICHERI☆ENDLICHERI かあ。いやはや、侮ってはいけなかった。

 ステージを去るときの大げさなスピーチと感謝でさえ、全部を見届けたあとでは、やたら清々しく、すっかり気持ちを持って行かれてしまったので弱るよ。たとえどれだけ悲しい日に遭っても自分に懸命であろう。

 『空 〜 美しい我の空』『美 我 空 - ビ ガ ク 〜 my beautiful sky』について→こちら
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2009年08月19日
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 特定の地方名を冠し、不良少年の姿を描くスタイルのマンガは、80年代は吉田聡の『湘南爆走族』の頃からあった、といえば正しくそのとおりであるが、すくなくともそこで「湘南」という固有名が持っていたイメージと、現在の、たとえば吉沢潤一の『足利アナーキー』における「足利」が持っているイメージは、おそらく違う。たぶん、ではあるが、ださい、ということの比重がおおきくなっている。しかし当然、ださい、というのは都会的な観点において生じるものにほかならない。そうした見え方を逆手にとり、都会にあっては描けないストーリーをあらわしているのが、すなわち『足利アナーキー』にあたるわけだが、この、『漫'sプレイボーイ』VOl.2に掲載された『くまがヤン』もやはり同じ系譜に入ってくるだろう。舞台は、埼玉県の熊谷市である。地理的な条件を述べるなら、『足利アナーキー』の栃木県、足利市とまったくかけ離れているわけではないのは、何やら示唆的ではあるし、『湘爆』はもちろん、90年代の藤沢とおるは『湘南純愛組!』がそうであったのに反して、少年が海の向こうにアメリカを望みやすい場所とかけ離れているのは、いささか象徴的だと思う。今回の一話目(でいいんだよね、いちおう。まあ雑誌自体の存在がやや不明瞭なので、読み切りで終わる可能性もあるかもしれないが)を読むかぎり、デザインはこなれており、エピソードはよくまとまっている、が、この手のジャンルでいうなら、かつて古沢優が『Rock'n爆音』で、熊谷市の隣である東松山市を舞台にしていたけれど、登場人物たちの言動一つとっても、あそこまでのだささを追求しきれていないのは、むしろこの時代だからこそ、すこし、もったいない。良くも悪くも、作者サイドの洗練が勝ってしまっている。原作者の猪原賽とマンガ家の横島一は、同じくコンビを組んでいた『悪徒』であきらかなとおり、きわめてオールドスクールなスペクタクルを現代のセンスで換骨奪胎するのに長けている。それが、身の丈に合ったスケールの小さい世界で、まだうまく、フルな本領の発しどころを持てていない感じを受ける。
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2009年08月18日
 この『立原あゆみ 雑誌掲載作品データ1970〜1979』は、今夏コミックマーケット76で頒布された同人誌で、内容のほうはその誌名からうかがえるとおりなのだが、あとがきに〈今回の調査はあくまでも筆者が個人的に可能な範囲で行ったもの。立原先生にも出版社にも全く無関係です〉とあるように、とにかく、これだけのデーターを個人でまとめた労力には恐れ入るし、じっさい、立原あゆみというマンガ家の、初期の活動を一望できるふうにしてくれたのは、ファンにしてみたら、とてもうれしい。自分の話をすれば、立原の作品を熱心に読むようになったのは、ヤング誌『アニマルハウス』(のちの『ヤングアニマル』)で『あばよ白書』の連載がはじまったあたりからであって(89年)、じつは現在でも70年代頃の活動、要するに少女マンガ家であった時代(あるいは、のなかのばらの別名義)をよくはフォローしてはいないのだけれど、しかしだからこそ手元に置いておきたかった。それにしても、これ、どれぐらい買われたんだろうか。今日における立原への注目を考えるに、たいへん気になるのは、資料性の高さとはべつにというべきか、表裏一体でというべきか、同人誌のつくり自体、コアな層以外に対する訴求力がいささか弱いと感じられるためで、たとえば、P75の備考欄の向こうに透けて見えるような、筆者であるsoorce(そーす)の、おそらくは思い入れであるのだろうささやかな指摘が、もうすこし、他の箇所に記されていてもよかった。もちろんそれは、立原が少女マンガと少年マンガのジャンルに分岐してゆく80年代編がつくられることになれば、もしかしたら必然的にあらわれる部分なのかもしれないし、こうしたデーターを、読むもの、というよりむしろ、見るもの、知るもの、として徹底しているところに、この同人誌のスタンスがあるのはあきらかであり、したがって先に述べた、これ、どれぐらい買われたんだろうか、という疑問が浮かぶのである。反面、入り口を立原あゆみとしているだけで、70年代における少女マンガのシーンの、その一脈を、歴史的に切り取ってみせた価値もおおきく、掲載誌や抜粋されたコメント、インタビューに当時の空気が如実となっていて、このへん、少女マンガの旧いファンや研究者にも、けっこうありがたいのではないかと思う。
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2009年08月17日
 小川とゆかいな斎藤たち 7 (講談社コミックスなかよし)

 茶匡の『小川とゆかいな斎藤たち』は、支持されて当然、と素直に思えるぐらい、とてもキュートな佳作だと思っている。すくなくとも今の7巻までその評価はおおきく変わらない。ギャグという素材を、ラブコメに経由させ、そこからラヴを抜き、コメディに徹したような概要の作品だが、一方で、学園ドラマとしてもじつはよく出来ているな、と感じられるものがあるのは、ヒロインの小川も、(彼女を中心に結束を固める)ただ斎藤姓というだけの共通項を持つ三人の男子も、中学校の生活においては、各々が各々の理由で鼻つまみにされているのに近しく、それが周囲の評価をよそに小さく可愛らしい共同体を育んでいくところに、ストーリーの骨子がうかがえるからなのだけれども、この7巻では、そうしたパラダイムが、もしかすれば内輪だけの閉じた温床になりかねない点に、いくらかのシフトが与えられている。6巻のラストで、斎藤男子の内の一人が欠ける(かもしれない)という危機を、マンガは迎えていたが、おそらくそれも一つの節目だったのだろう。作者は単行本の余白に付せられたコメントで〈じつはわたし、この7巻が最終巻になるんだろうなぁ…と思っていたんですが…まだつづくみたいです!!!〉といっている。これを信じるなら、当初予定したいた構想を経たのちに続きを描くべく、物語のレベルに何かしらかの変化があってもおかしくはないし、たとえば、小川のライヴァル的な位置に配せられ、すでにレギュラーではあった成田むつみが、しかしここにきて以前にも増してクローズ・アップされていることを、一つの例に挙げられる。ひじょうに簡単に述べるなら、成田という回路を通じ、小川と斎藤男子たちの小さく可愛らしい共同体による、その外部に対する貢献度が高まっているのである。貢献度というのはさすがに大げさか、だが、とりあえずは、成田が小川たちのペースに巻き込まれ、小川たちもまた成田のペースに巻き込まれるかたちで、エピソードのつくられているのが多くなっているのは、如実な変化にほかならない。もちろん、次巻以降では、また展開が違っちゃうかもしれないけれど、現時点での見え方は先に述べたとおり、サークルの可能性が外へ外へひらけてゆくものになっている。

 6巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2009年08月15日
 ああ、ちくしょう、こういうところが最高潮に燃えんだよね。〈先生 「大人」の言うことは 「偉い人」の言うことは 本当にいつも正しいことですか? 先生の言うことは理屈では分かっても 私は従えません このままだとみんな「目障りな人間は排除していいんだ」そう思ったまま卒業する それは生徒会長として許せることじゃないんです〉これはヒロインの芽留が、抑圧の理論で学生を矯正しようとする教師に向かい、発する言葉である。

 小桜池なつみの『フライハイ!』は、たとえ学園生活が小さく限られた世界のことを指すのであったとしても閉塞以外に求められるものは必ずやある、こうしたテーマを、チャーミングであかるいヒロインの活躍と生徒による生徒のための自治の可能性を通じ、描いているふうに感じられるのであって、前1巻ではそれを、上級生と下級生(もしくはエリートと一般)の衝突的な構図のなかで明瞭化していたのに対し、この2巻ではさらに、教師の権力が両者のつっぱりをちょうど頭ごなしに押さえつけるかっこうで介入してくる、というくだりを設けている。

 幼い頃より格闘家の父親に山奥で鍛えられた芽留は、その鉄腕ぶりを隠しながら中学校に通うことを母親と約束するのであったが、鮎沢率いる2年生のグループの横暴に友人の千夜が傷つけられたのを見、ついに抜群の身体能力を発揮してしまい、徹底抗戦の構えをとるばかりか、自らが生徒会長になって、学校に平和的な空気を取り戻してみせると誓う。千代に、頭脳明晰なクラスメイトのルカ、味方といえるのはわずかながらも、毅然とした態度で振る舞う芽留の姿は、鮎沢たちの支配に屈していた他の生徒をも刺激し、じょじょにではあるけれども、風向きが変わりつつあるなか、しかし学校側も現状を黙認しているわけにはいかなく、教育委員会から派遣されてきた学校問題のプロ、市播に学生の処分を一任してしまう。何よりも秩序を重んじる市播は、強権を発動するのも厭わず、鮎沢に厳しい処置をくだすのだった。

 鮎沢とは敵対しながら、市播の一方的な締めつけにもまた納得のいかない芽留が、腹に据えかねて口にするのが、先の〈先生 「大人」の言うことは 「偉い人」の言うことは 本当にいつも正しいことですか? 先生の言うことは理屈では分かっても 私は従えません このままだとみんな「目障りな人間は排除していいんだ」そう思ったまま卒業する それは生徒会長として許せることじゃないんです〉というセリフであり、そしてそれは間違いなく、人と人の関係を決して貧しく見ない精神からやってきていると同時に、作品の健全な理念を臆することなしに代弁しているため、燃えるのだ。すなわち無条件にではない。

 それにしても12歳かあ。(単行本のあらすじにはなぜか14歳と記されているが)中学校を舞台にしている以上、当然のことなのだけれども、子供らしさと純粋さのとてもマッチした芽留の魅力は、あきらかにそのような年齢によるものだと思う。たしかに、こんな12歳なんていないよ、と述べることはできる。しかし、自分が12歳だった頃と比べてみたとき、ほんらい想定されているだろう読み手の世代とまったくかけ離れているにもかかわらず、反省させられるものがあるし、じっさい羨ましい。素直に肯定したくなる。あるいはそこにこそ、フィクションならではの力を認めるべきだろう。

 1巻について→こちら
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2009年08月14日
 ウヅキ☆ミドリの読み切り作品集『僕が君にできること』は、タイトルが示唆的であるとおり、表題作はもちろんのこと、それ以外のマンガも、基本的には、この僕(わたし)という主体が他の誰かに関与する可能性をラヴ・ストーリーのなかに描く、というような内容になっていると思う。まず「僕が君にできること」だが、ここでのドメスティック・ヴァイオレンスの扱いは、シリアスに考えるのであれば、やや平板すぎる。本質的な解決にまでは、おそらくはあえて、話を突っ込んでいない。しかし、モチーフの上では、その難題に対し、主人公である高校生男子の〈――っくそ どうしたらいい 俺に…何ができる?〉といった無力さにあったとしても〈…このままただ守ってやっても何も解決しない…今の俺にできること――それは〉と振り絞られる意志が、どう、働きかけられるか、はたして働きかけを持ちうるだけの余地はあるのか、このことの表現にプライオリティが置かれているので、さしあたりハッピー・エンドのかたちで結ばれているエモーションに、十分な整合性、説得力がもたらされているのである。父親の厳しいプレッシャーに自殺を考えることもある少年が、爛漫な少女と出会い、世界の見え方に変化を覚える「バイバイ ブルーデイズ」も同様に、家族の関係性はいわば作用点の一つであり、それにテーマを求めてしまうと、甘く、薄い、もしかしたら鼻白んでしまうかもしれなけれど、あくまでも力点はボーイ・ミーツ・ガール式のコミュニケーションであって、その部分にあらわれている表情の変化がやはり、作品の輪郭をあざやかに象っている。外見はちゃらいクラスメイトにアプローチされるヒロインの戸惑いを題材化した「信じちゃってもいいですか?」でさえ、じつは等しい根を持っていて、いっけん素朴なラヴ・ストーリーに展開を担われているのは、まあ単純に片想いと言い換えてもよいのだが、すなわち自分にとって特別であるような人間に何かしら関与する可能性があって欲しいという、ささやかな願いの後先にほかならない。したがって、すくなくとも現時点では、それをこのマンガ家の作家性と見ることも可能だろう。単行本に収められているうちでもっとも多いページを持った「エンレン」も、当然、例に漏れていない。離ればなれ、遠距離恋愛になってしまった恋人たちのすれ違い、といってしまえばステレオタイプなラインに収まっているものの、注意すべきなのは、信じる、たったそれぐらいの行為にかけられたウェイトのおおきさが、まさしく他の誰かへの働きかけ、励ましになっている点であって、ねえ君、君がたいへんつらく、寂しく、にもかかわらずがんばろうとしているとき、僕(わたし)にできることがあればせめてそれを、精一杯の申し出みたいに響く。
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2009年08月12日
 文学界 2009年 09月号 [雑誌]

 『文學界』9月号掲載。湯本香樹実の小説は過去に二つほど読んだことがあるぐらいだから、必ずしも正確ではないのだろうが、個人的な印象を述べるなら、自分をナイーヴだと信じたい人間が好きそうな物語、といったところで、それはこの『岸辺の旅』を通じても変わることはなかった。漢字を多めにひらいた文章は、相応にチャーミングであるし、やさしく、思わせる。疲れた心にそっと触れる(こうした形容自体が紋切り型だとしても悪い意味には受け取らない向きもあるだろう)程度にはエモーショナルなのだけれど、そこから拡がってゆくだけの感想を持てないのである。おおまかに内容をいえば、奇妙な別れと再会を果たした夫婦の旅を、まるで夢を見ているようなイメージで、そしてじっさいに夢でしかないシーンを込みで、綴っている。しらたまを食べたくなり、台所に立ってそれをこしらえている〈私〉は、不意に、配膳台の向こうで、三年前に失踪し、まったく行方を知れなかった夫、優介の気配を見つける。〈しらたまは彼の好物だったし、こんな夜中にきゅうに食べたくなったのは妙だと感じてもいたから、「ああそうだったのか」とすぐに思った〉ままに、すんなり受け入れ、今までいったいどうしていたのか、尋ねると、彼は昔と同じ様子で、すこしずつ、自分のことを話しはじめるのだった。そういう不思議さで幕を開けた小説は、主人公を魂の旅とでもいうべき(こうした形容がいささか紋切り型であるとしても)に誘いながら、長篇のヴォリュームを持つこととなる。けれども、正直なところ、どうしてこれだけの長さを必要としたんだろう。やがて旅立った夫婦のあいだに、さまざまな人びとや出来事が介入してくるにはくるが、それらはあくまでも「あなたとわたし」の、ほんらいならたった二人だけで完結している世界に奉仕するものでしかなく、あらかじめの雰囲気をキープするばかり、食料の描写がたびたび大事にされているのも、結局はミニマムな関係性にもっとも身近な話題にすぎないからなのだと思うし、全体を眺めたときに異変をきたすほどの転調もとくにないため、作品自体はとても小さく閉じている。
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2009年08月11日
 本家である高橋ヒロシが連載を休んでいるあいだに、『クローズ』バブルはゆっくりしぼみつつないかい、という気がしないでもないし、すくなくともマンガのジャンルにかぎるなら、公式の二次創作を任せられたフォロワーの多くは目覚ましい人気を獲得することもできず、正直、プロモーションの役にも立たなさそうなレベルにとどまっている。だが、そうした情勢のなかで唯一例外的に、いいね、と認めざるをえないのが、内藤ケンイチロウのマンガ版『クローズZERO』で、この4巻も、基本的には、原作の映画に忠実でありながら、独自のエンターテイメントを描き出せている。以前にも述べたけれど、ワキの人物たちの掘り下げが、じつに功を奏し、とくにここでカヴァーを飾っている牧瀬が、たしかに映画版でも異彩を放つ存在であったが、輪をかけてチャーミングな表情を見せているのが良い。牧瀬や宙太とともにG・P・S(源治・パーフェクト・制覇)を結成し、芹沢軍団との対決も含めて、いよいよ鈴蘭統一に乗り出そうとする滝谷源治だったが、参謀役である伊崎が襲撃を受け、重傷、出鼻をくじかれてしまう。仲間をやられた源治は怒り、周囲の静止も聞かず、突っ走る。それを見かねた牧瀬は、源治にもう一度、自分たちの目標を問わなければならなくなる、というのが、だいたいのあらましである。ワキの人物の造形を深くすることで、それに対応する源治の言動が、たんなる情緒不安定になっていないのが、マンガ版ならではのつよみだ。学園という、限られた領域におけるコミュニケーションと関係性のドラマが、国盗り合戦的なスペクタクルとはべつの魅力を、青春の群像を、作品に引き寄せているのである。女性の人物たちも十分な役回りを与えられており、本家の高橋や所縁のフォロワー群とは一線を画す世界観を、もちろんそれは脚本家の武藤将吾がストーリーの元をつくった映画版に由来するものだとしても、決して借り物に終わらずに確立している。

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 女神の鬼 13 (ヤングマガジンコミックス)

 この世界に居場所のない人間がもしもいたとしたら、はたして彼らはいったいどうすればよかったのか。ことさら難しく考えるまでもないし、ミニ哲学をぶったりする必要もないだろう。所詮、この世界から逸れていくしかなかったのである。もちろんそれは極論にほかならない。が、しかし極論を手がかりにすることで、ようやく垣間見られる回答があるとするなら、絶望すらも天秤にかけるような、破格のテーマとなりうる。ここでいう世界とは、社会という語に置き換えても構わない。

 田中宏の『女神の鬼』は、この13巻から、物語の当初より存在が仄めかされていた鎖国島に舞台を移す。広島を追われ、海を渡った鬼と呼ばれる少年たちが、世代やチームを超えて、一堂に会するのだ。

 それにしても、前巻のラストは熾烈であった。家族や仲間と離ればなれになることを選んでまでも鎖国島行きを決意するギッチョ(佐川義)とアキラ(藤永晃)、そして彼らを見送ることすら許されず、無言のまま立ち去られてしまう人びとの万感が、正しく旅立ちのワン・シーンとして描かれていたわけだけれども、すさまじい悲愴に囚われる後者に反して、前者の表情の何とぎらぎらしていることかよ。鎖国島が決して不良たちのパラダイスではないことは、たとえば12巻において、下畦の〈王様? 島の中で勝ち上がったら‥‥王様じゃとおぅ‥!? 独立国家みとーなえーモンに思ォとんかも知れんがのォ…言ぅといたるが鎖国島っちゅーのは‥‥刑務所なんじゃい!! 刑務所でてっぺん獲ったけぇゆーて何が王様なら 寝ボケたコト言ぅなやコラァッ!!〉という言葉が、教えている。これを述べる下畦にギッチョは、鎖国島は〈ワシらみとーなモンでも 王様んなれる‥‥大切な場所なんじゃ‥‥コレ以上冒涜する気ならワリゃあ殺すど!!〉と怒るのだったが、下畦はさらに〈鎖国島は永久地獄なんじゃコラァッ!! なぁ〜〜んも知らんとガキがぁッ‥‥!!!!〉と言い放ち、〈何が地獄かじゃと‥‥? ふんっ‥‥‥‥‥そんなモン‥‥‥‥‥二度と‥‥‥‥帰ってこれんけぇに‥‥決まっとろ――がぁ……!! お前らにだって‥‥大切な家族がおろーがあ………好きな女と会うコトも‥‥SEXもできん‥‥島ん中閉じ込められておるのは見渡すばかりの鬼だけじゃ‥‥まさに‥‥‥‥地獄じゃろォがぁ……!!〉と続けるのである。全容はともかく、それがひとまずの真理であることは、鎖国島を忌むべき地として知る市民の言動によって、裏付けされている。

 鎖国島は、楽園、パラダイスではない。これまでのストーリーで、その凶暴な悪童ぶりから世間では鬼と嫌われる人物たちが、次々、送り込まれていった、文字どおり、閉じられた世界であって、そこではもちろん、この社会の規範とはまったくべつのルールが働いている。にもかかわらず、ギッチョが鎖国島に向かうことを願って止まないのは、自分の生まれ育った世界に、安住を求められないせいだろう。

 そして鎖国島の不穏な内部が、いよいよ明かされはじまる。13巻で、船を降り立ったギッチョたちが、懐かしい面々との再会を喜ぶよりも先に、容赦のない洗礼を矢継ぎ早に受けることで知れるのは、象徴も隠喩も換喩も何もかも、文学的な修辞など一個も役に立たないかのような現実を、作者がフィクションのなかに表現しようとしていることだ。髪型のためパーマ液を必要とする程度には文明的な不良少年が数多、たった一つの栄冠である王様の座をめぐり、全存在をかけ、奪い合い、殺し合う。それこそが、この世界に居場所がない人間の欲望をフルに満たすに相応しい、とでも言いたげな、もはやサヴァイバルと喩えるのさえも生ぬるいほどの攻防戦が、繰り広げられている。便宜上、島の東側と西側に勢力がわかれてはいるが、かつては親しく、今や西側の大将になっている真清が、〈お前らはとりあえず この国の法律と…この国の国民の‥‥敵と味方を完ペキに把握せ――‥‥〉と、ギッチョに忠告するとおり、〈生き残りたけりゃあ…ホンマに信用できる仲間以外…絶対に信用するな‥‥!! 絶対にじゃ!!〉というのが、不可避な前提なのである。

 先ほど、文学的な修辞など一個も役に立たないかのような現実、と鎖国島のことをいったけれども、ではその現実の激しさを屹立させる物語に、少年の成長が最大の成果であるようなビルドゥングス・ロマンがもたらされるかどうか、というのが、既存の枠組みを容易に超えてしまっているぐらい巨大な作品、すなわち『女神の鬼』に見るべき一つのテーマだろう。

 すくなくとも、異界を旅し、現世に戻ってくる、こうしたビルドゥングス・ロマンの成り行きを徹底的に断絶した場所として、鎖国島は設定されている。異界は異界であってもそこは、繰り返していうが、象徴的にも隠喩的にも換喩的にも何も起こらない場所に定められているのである。すでに主人公たちは帰るべき場所を持たない。

 しかし、絶望を用いることでつねに希望を示してきた田中宏が、ここにきてたんに絶望を弄んでいるとは考えにくい。いずれにせよ、鎖国島の編に入ってからも、目が離せないことに変わりなく、余人のうかがい知れない構想が、超ど級のストーリーを展開させるに決まっている。

 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら

 『KIPPO』1話目について→こちら
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2009年08月10日
 群像 2009年 09月号 [雑誌]

 『群像』9月号掲載。中村文則の短篇小説には、筋書きがどうというよりも、奇妙なシチュエーションの目立ったものが多い。そのことは第一短篇集である『世界の果て』によって確認できるだろう。あるいはこの『妖怪の村』もまた、そうした傾向の一例に数えられる。個人的には、作者の作品をいうのであれば、こういうもののほうが好きである。日本中に黒い小鳥が大量発生し、〈目を突かれて死んだ人間が、この一ヶ月で九十人を超えた。黒い無数の点でつくられた巨大な影が、町の大半を埋めている。鳴き声と、建物に飛び散る小鳥の血液と、死体と糞で町は汚され〉ているので、昼間は〈雨戸を閉め、じっとしているしかな〉いのだと、語り手である小説家の〈僕〉は述べる。そして〈夜は小鳥がまばらにしか飛ばず、日が暮れると、国から業務を委託された企業が、鳥の死体を片付け始める。各省庁の天下り先であるそのR2という会社が、小鳥の死体処理の業務を独占している。年間数百億円の税金が使われ、その全てがR2に入る〉のだというふうに、舞台となっている日本は設定されている。その、作中人物にとっては当然であるような風景が、余計にねじれを重ね、幻視的な世界を導いてくるところに、魅力を感じられると思う。奇妙に歪んでいることが日常の世界では、誰もが奇人みたいであり、モデルガンを携えて夜中に散歩へ出た主人公は、鳥に襲われ、怪我を負った下着泥棒の男を助けるかわり、女性もののパンツを預かる。しかしパンツを所持しているせいで警戒心がつよまり、同じ道の先を歩く女性から痴漢に間違えられたらどうしよう、と考えているうち、知らぬまま、さらに奇妙な場所に足を踏み入れてしまう。夏目さんという女性と、まったく鳥のいない世界で暮らすことになった主人公は、そこで尻尾の生えた住民や、まるで日本昔話に出てくるお喋りな動物たちと、長いあいだを過ごすのである。正直、小説家の〈僕〉に対し、ほかの連中が物語と教訓に関する注意を促してくるあたり、ああ、まあね、せっかくの抽象性に何か辻褄を合わせているのかしら、という気分になってしまうのが残念で、ほんとうはもっとずっと不条理でもよかったが、それなりのへんてこさをさわやかに綴る雰囲気自体は、アンニュイで、楽しい。
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