ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年07月31日
 Hello-Goodbye(ジャケットC)

 先行するV6のシングル『スピリット 初回生産限定(MUSIC盤)』に収録の2曲を聴いた時点ですでに、予感されていたことではあったけれども、このComing Century(以後、カミセン)のミニ・アルバム『Hello-Goodbye』は、おそらくファンのあいだで傑作の呼び声を高めていくことになるだろうね、という内容に仕上がっている。いや、自分自身がそうだから言うのだが、熱心なファンでなくともいい、それでも十分に届いてくるぐらい、すべての楽曲に凝らされたアイディアが功を奏し、カラフルに、とても鮮やかな世界を切り拓いている。

 ひとまず、タイトル・トラックにあたる「Hello-Goodbye」からして、その印象をつよく押し出しているだろう。『スピリット 初回生産限定(MUSIC盤)』の「Desert Eagle」と同じく、SpontaniaとJeff Miyaharaの提供によるナンバーである。しかし、低音のラップを主体に、シリアスなトーンを前面にしながら、ネガティヴな空気のなか、希望のメッセージを込めた「Desert Eagle」とは違い、ギターのカッティングと打ち込みのビートが軽快なリズムを刻むイントロ、親しみやすいメロディでもって「きみとぼく」の世界観をコーラスに、フックをつくり、やんやテンションをアップさせる曲調は、まあ、くるりの「ワンダーフォーゲル」以降、この国のポップ・ソングに根付いたフォーマットの応用にすぎないけれども、ヴァリエーションにラップを加えたトリプルのヴォーカルが、幾重ものイントネーションをともない、そして響き渡る様子は、純粋に楽しいし、盛り上がる。

 続く「Black-out」は、ピッチがはやく、モダンで大味なハード・ロック、発音のあやしさを選んでまで全編が英語詞であることの特徴は、かっこうのよさよりもむしろ、メロディの乗せ方にプラスの成果を与えている。もうすこし、バックのサウンドがパワフルなほうが嬉しかったし、いささか、ダイナミズムに物足りなさを感じるものの、アルバム全体のバランスを考えたとき、ここで得られる勢いが、貴重なアクセントになっていることは間違いない。じっさい、わりと単純な構成の「Black-out」のあと、「手のひらのUNIVERSE」のようなナンバーを出してきたのには、びっくりした。「手のひらのUNIVERSE」、もしかしたらいちばんのハイライトである。

 女性アイドル・グループ、Buono!の「恋愛ライダー」や「ゴール」のソング・ライティングで、才気走ったところを見せていたAKIRASTARが、作曲で携わった「手のひらのUNIVERSE」は、スローなテンポを用いたスペーシーなトラック、ときおりヴォーカルにエフェクトをかけ、ひじょうにドラマティックで、ユニークな音のひろがりを聴かせる。ミックスを寺田康彦(元Scudelia Electro)が手がけているかいもあってか、電子音のうにうにとうねるバックのサウンドが、たいへん心地好い。Buono!の「ゴール」がそうであったように、洋楽をダイレクトに参照している雰囲気もあるけれど、わりと大胆なアプローチを、日本のポップスの機能にうまく落とし込んでおり、良い意味のけれんに溢れ、もちろん、カミセンの三人が、それぞれの声質で、先に述べたとおりエフェクトがかかっていたりするにもかかわらず、ナイーヴな心象を拾い上げ、エモーションをあらわしているのにも、マッチしている。

 4曲目の「Forget it all」は、作曲をJazztronikに任せたナンバーで、調べたら、作詞の為岡そのみもJazztronikに所縁のアーティストなんだね。とにかく、小気味よいビートの運動が、ダンサブル、の一言に尽きる。

 それにしてもこうして耳を通していると、森田くん、三宅くん、岡田くんのヴォーカルには、別個であっても重なり合っても、カミセンならではの、しるし、となるようなチャーミングさがあることに気づかされる。5曲目の「想いのカケラ」などは、とくにそれがよく出ている楽曲だと思う。ギターのリフとドラムのアタックによって展開される、いかにもパワー・バラード・タイプのナンバーだが、せつないフレーズを、リレーしながら、ハーモニーしながら、ラヴ・ソングの輝きをつくってゆく。

 たぶん、全曲中、もっともアイドルらしい表情をうかがわせるのが、6曲目の「Precious Song」である。これもまたダンサブルなナンバーだが、クラブ・ミュージックに架橋する「Forget it all」とは異なり、あくまでもさわやかなコーラスをメインに、派手なステップの似合いそうな点に、正しくアイドルらしい、と認識させる特徴がある。あるいは反対に、これ以外の楽曲がいかにチャレンジであったかを実感させられるのであって、それをラストに持ってきたのは、あきらかに、狙い、だろう。

 DVDもしくはソロCDの付属する初回限定盤は、以上の6曲で終わる。が、通常盤にはその次に、ソナーポケットが提供した「ファイト」が入る。コードのはっきりとしたアコースティックのギターをループ状に、アンサンブルの厚みで、ゆるやかな起伏が、じょじょに膨らみ、膨らみきったあたりを目安とし、ポジティヴなメッセージが主張的になり、フィーバーするという、じつにスタンダードなダイナミクスを採用している。オーソドックスであるがゆえに、ヴォーカルの個性が、そのまま楽曲の熱量に換算されることになるのだけれど、ここでもカミセンの三人は、十分に力強い魅力をうたう。三宅くんと岡田くんの、キーの高低によるコントラスト、森田くんが、両者の合間をとるかのよう、調和的なバランスで、まっすぐ。そしてユニゾン。

 すべてのナンバーにいえる。彼らの存在とともに、アイディアは生かされ、カラフルで、鮮やかな世界を、切り拓き、届けようとするのだった。

 V6『スピリット 初回生産限定(MUSIC盤)』収録曲について→こちら
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 80年代から90年代にかけ、流行ったヤンキー・マンガの系は、以前の時代の不良ヴァイオレンスと学園ラブコメのアマルガムとして見るべき、というのが、かねてより述べている主張であるけれど、もちろん、いやぜんぜん違うよ、という反証があってもいいし、だとしたらむしろ、それこそが言語化されなければならないのかもしれないが、いずれにせよ、そうしたジャンルは、90年代の半ばに、レディース(女性暴走族)を扱ったいくつかのマンガを登場させることになる。たとえば、94年には克・亜樹の『エンジェル・ハード』が、95年には森左智の『特攻!アルテミス』が、96年にはきらたかしの『少女爆走伝説Fair』が、といった具合に、次々、あらわれたことの背景には、速水健朗が『ケータイ小説的。』で指摘しているような、あるいは中村すえ子が『紫の青春』で回顧しているような、90年代前半におけるレディース文化そのものへの共感が、すくなからず、影響しているだろう。しかしながら、一方でそこには、男性向けのラブコメが、ハーレム型の慰安を求めるパターンへ、じょじょに進みつつあった時勢に対するかすかな反動、女性の視点を導入し、ピュアラブルな関係性を擁護しようとするマンガの、文化的な作用が、傾向としてあったのではないか。そもそもがラブコメに寄った作家の描いた『エンジェル・ハード』が、男性が女性に乱暴(レイプ)することの罪悪を、まったく自覚することがなかったため、作品的には失敗してしまった(にもかかわらず、露骨なセックス(性交)の描写だけはあっさり解禁して、その後に『ふたりエッチ』のようなマンガを発表することになる)のは、本質にかかる部分を、皮肉でもって教えてくれていると思う。ともあれ、95年に『週刊少年チャンピオン』で連載をスタートし(01年まで続い)た、みさき速の『特攻天女』もまた、上記の一群に加えられる。たしかに、どぎつく、凄惨な場面もすくなくはなかったが、『エンジェル・ハード』とは反対に、ラブコメの触感を手放さず、残酷な世界においてさえ純心であろうとするエモーションを、女性の主人公に託していたことを、やはり一つの特徴に挙げられる。

 この、創刊40周年記念名作読み切りシリーズの一環として、『週刊少年チャンピオン』No.35 (今週号)に掲載された『特攻天女』の新作は、多くの人物が因果応報の酬いを受ける本編において、まだ幸福が許されていた時期の日常を抜き出しており、オーソドックスなラブコメの様式における一話完結型のエピソードにも読める。ヒロインである和泉祥の活発さを動力にして、周囲の面々がわいわい賑やかなワン・シーンを繰り広げるのである(本編では、その崩壊と終着がクライマックスをつくっていくわけだけれど)。そうした内容が、どことなく夏のイメージを持っているのも、ラブコメのイディオムに内在するテーマ、すなわちヴァケーションはパーマネントであって欲しい、式の欲望に要請されているのだと思われるし、じつは作風自体、終わらない夏休みといえば代表的な高橋留美子の影響がおおきい。なかでもちょうど学園ベースのどたばたを参照しているかのようなアプローチは、同じく高橋をリスペクトする渡瀬悠宇が、ファンタジックなストーリーの線を強化することで、ユーモラスなしなりを弱めているのとは、好対照な成り立ちだともいえよう。みさきは現在、『ヤングチャンピオン』で『酒は辛口 肴は下ネタ』という、この方向性を追求したマンガを描いているが、当然足し算引き算の単純さでは決して語ることができないとしてもそれは、あくまでもニュアンスを見るのであれば、『特攻天女』にはあった不良ヴァイオレンスの要項を抜き取ったものにほかならない。

・その他みさき速に関する文章
 『殺戮姫』について→こちら
 「日曜の夜は出たくない」 (原作:倉知淳)について→こちら
 『曲芸家族』第4巻について→こちら
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2009年07月29日
 大事な恋人にちょっかいをかけてくる野郎がいたら、そりゃあ腹が立ったりもするだろうし、ましてやそいつがまじであったならば、男と男の戦いになることもあるだろうよ。こうした衝突のテンションを極度にクローズ・アップした表現として、新條まゆに象徴されるような『少女コミック(Sho-Comi)』の系を読むことができる、と個人的には思っているのだが、そのラインでいうなら、この、水瀬藍の『センセイと私。』の3巻は、たいへんに燃えるな。基本的なコンセプトは、教師と生徒の、要するに、周囲に隠れて付き合わなければならない二人が、さまざまな障害のなかで、いかに自分の気持ちをキープし、自身の欲情に耐えうるか、であって、それを過剰化したところにドラマが生まれているのだけれども、2巻の時点で、教師の篤哉が記憶をなくし、恋人であるヒロインの遙香のことを忘れてしまう、という展開を持ち出してきたのには、さすがに古典的すぎるよ、白けそうになってしまったのだが、この巻に入り、遙香の傷心を見かね、同じ高校に通う男子生徒の拓海が、慰め、気持ちを振り向かせようとするあたりから、古びているはずのアイディアが、馬鹿にならず、逆にさんさんと輝きはじめる。そう、たとえば〈俺 吉野(注・遙香のことね)を抱きました あんたとつき合っても 吉野は泣いてばかりだ 記憶が戻ったって どうせまた先生と生徒のつらい恋愛になるだけだろ だから 吉野は俺がもらいます〉と、こういうセリフは、まあたしかに紋切り型であろうが、しかして遙香を真ん中に置き、篤哉と拓海が、まさしく男と男の意地をぶつけ合うかっこうになるのは、いやいや素直に熱いじゃねえか。すくなくとも、篤哉と遙香のあいだに女性の側から割って入ってくるアキラが、噛ませ犬のいやなやつ以上の役回しを得られなかったこととくらべてみるなら、テンションの激しさは歴然としている。拓海が〈…………大人って大変ですね 手が震えるほどの嫉妬も隠さなきゃいけないなんて〉と挑発するのに対し、篤哉が〈嫉妬? 貴様への怒りを抑えているだけだ〉と言ってみせるのも、なかなかのクライマックスさ加減である。もしかすれば、拓海の、遙香へのアプローチは、ちょっと、ずるい。汚いとさえ思う。だが、それだけのハンデを使ってまでも、手に入れたいと願うほど、まじであったに違いない。遙香の弱みにつけ込み〈ドキドキするだろ? 先生じゃなくても 俺なんだよ 吉野ちゃんのはじめての相手は〉と述べる姿は、完全に悪者のそれだとしても、彼女の〈ドキドキします…でも ここがぽかぽかしないんです〉という答えを前に、間違いを正す態度が、拓海を、再度、べつの意味で、男にしている。
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2009年07月28日
 藤井明美の『スイート☆ミッション』も、いつの間にやら9巻目に入った。が、それはマンガの内容に十分見合った実績であると思う。元気と純情が取り柄のヒロインとサドっ気抜群で天才型のイケメンさんの、不釣り合いともいえる恋愛を片方の辺とするなら、二人を含めた生徒会の個性派たちが活躍し、校内で起こる数々のトラブルを解決してゆくというのをもう片方の辺とする、こうしたストーリーの成り立ちには、いやまあ、たしかに目新しさを求められないけれど、まさしく学園ドラマの醍醐味の一つ、特定の条件下で結ばれる連帯の賑やかさを、気軽にアクセスできる親しみやすさで、描き出しているのである。しかし、学園ドラマのフォーマットに律儀である以上、作中人物らの卒業が近づくことは、いよいよエンディングに向かいはじめているのかな、と予想させる。一学年の上の恋人であり、生徒会長である夏の進学に、もしかしたら離ればなれになってしまうことの不安を覚える主人公の灯里に、夏の弟で、極度に兄を慕う高良は〈足枷になるなよ なっちゃんはおまえといるためにがんばってるのに 不利な条件ばっかり選んで なのに おまえは何かしてんのかよ なっちゃんのために〉と、厳しく問いかける。その言葉に灯里は〈胸を殴られたような気がした〉のだった。ここでのくだり、表面的には、夏の、京都の大学へ進学するかもしれない可能性が、物理上の距離があくことを意味し、それが灯里を苦しめているふうに読める。たぶん、作者自身もそういうつもりで話をつくっているだろう。だが、本質的には、同じ共同体に属するペアのうちの一人が、その外側に出て行かざるをえないことが、置いて行かれるもう一人のほうの精神に負荷を与えているのではないか。物理的な距離の、遠い近いは、おそらく、それを誇張しているにすぎない。すくなくとも、こうした感触を頼りにしなければ、卒業式の直前に事件が起こり、ふたたび生徒会が一致団結する、というシークエンスの説得力は薄まってしまう。ところで、誰の影響かは知れないが、絵柄に関し、女の子たちの、とくに灯里の表情が、ここにきて、ひじょうに可愛らしくなくなってしまっているのは、残念だし、もったいない。
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2009年07月26日
 前作の『学校のおじかん』もそうだったが、田島みみ、スタートのダッシュはいいんだよね。深く考える必要もなしに、わくわくさせられるものがある。唯一の肉親である祖父を喪い、まったく身寄りをなくしてしまったはずのヒロイン、菜花には、じつは母親違いの兄がいた。その兄を頼り、上京、教えられた住所を訪ねてみたはいいけれど、そこで顔を合わせたメガネのイケメンさん、桐谷蒼は、彼女のことなど知らないと言う。あまりにも素っ気ない態度に驚き、あらためて機会をうががおうとする菜花であったが、公園で一息ついているとき、不良少年たちにからまれてしまう。はたして、ピンチを助けてくれたピアスのイケメンさんは、自分を桐谷紅と名乗る。蒼と紅、彼らは血の繋がらない兄弟であり、つまり、もしも菜花の兄がほんとうにいるとすれば、二人のうちの片方のみがそうだということである。しかし桐谷家の父母が不在のため確認がとれず、蒼と紅からも拒否された菜花は、せめて〈他人かどうかわかるまで この家に置いてください〉と必死に願い出るよりほかなかった。この1巻の滑り出しから『君じゃなきゃダメなんだ。』のストーリーを述べると、以上のようになる。もちろんこれは、紋切り型といって構わないほどによく見られる設定の、ちゃんぽんにすぎない。そうして、菜花、蒼、紅、の三者による共同生活と学園生活が、近親相姦や三角関係の上澄みをすくいながら、正しくなし崩し的に幕開いていくわけだ。定石に従い、利己心がつよく意地の悪そうな美人さんも登場してくるし、ね。だが、最初にもいったとおり、これがわくわくさせられる。基本的に、少女マンガのコードに忠実なイベントやリアクションが、ぽんぽん、テンポよく起こるので、余計な躓きを得ることもなく、読み、受け入れることができるからだろう。だが、この作者の弱点は、本質的にそれ以上のものを描けないことにある。おそらく、話が進んでいけば、作中人物同士の関係性を、その上澄み、要するに状況説明だけではやっていけない局面が出てくる。するとたちまちテンポが悪くなり、わざわざ、といった感じのイベントやリアクションの繰り返しに終始したせい、怠くなってしてしまったのが、『学校のおじかん』だったのだけれど、さて、そのような困難を『君じゃなきゃダメなんだ。』はクリアーしうるのかどうか、というのが、当然、物語のレベルに作用し、内容の濃さに関わっていくのだと思う。

 『学校のおじかん』
  17巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  9巻について→こちら
  5巻について→こちら
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 香魚子の『さよなら私たち』は、純粋な少女マンガのラインで見るより、たとえば佐原ミズあたりが持っているナイーヴさを好むような層に受けそう、といった感じの読み切り作品集である。たしかに初期の頃の一篇、「失恋ファミリーレストラン」は、現代的な『別冊マーガレット』の系を意識したタッチの絵柄になっているが、本質的にはそうではないことが、他の篇からはうかがえる。ストーリー自体も、シンプルなラヴ・ストーリーとは逸れていて、なんとなくこう、根が暗い。むろんそれを、線の印象も含め、繊細と言い換えてもよい。おそらく、完成度の面でいうなら、もっとも新しい「時をかけるまえに」を挙げるべきだろう。カヴァーからして、本当はこれを表題作にしたかったんじゃないかな、という気がするけれども、題名があまりにもあんまりなので、今のものになったんだと勝手に推測する。「時をかけるまえに」の舞台は、すでにタイムマシンの完成が予見されている未来、そのようなSFの設定を用い、とある少女と少年の恋愛を、幸福とは何か、いくとおりもの解釈が許されるなかに、残酷な結末がせめてものせつなさに変わるよう、描いている。作者は現在、少女小説である『伯爵と妖精』のコミカライズを手がけているが、今後、このぐらいのクオリティでオリジナルの作品を発表していければ、おおきくファンを増やすことになるかもしれない。ただし個人的には、すべての篇を読み終えたとき、屈託している物語をあらわす手つきにいったいどれだけの躊躇いがあるのか、あって欲しいという意味で、ほんのすこし、疑問を覚えるところがあった。
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2009年07月25日
 尾玉なみえ短編集脳酸球 (シリウスコミックス)

 ギャグ・マンガについて、ああ、これ、可笑しいや、以上のことを述べるのは、たいてい難しい。ましてや、尾玉なみえの場合、エキセントリックなアプローチはおそらく、計算尽くでありながら、その尻尾を掴ませない、要するに、頭の良さをまったく隠してしまっているところが、また厄介なのである。いずれにせよ、異才であるのは間違いなく、たとえばこの短編集『脳酸球』は、たんに単行本に入っていない作品をまとめただけの内容にすぎないのだけれど、あたかも傑作選のような純度を保ちながら、ヴァラエティに富んでいるのが、おそろしくいかしているのだった(集英社や秋田書店、竹書房の雑誌で発表されたものを、講談社が出す、というのも一種のギャグになっているだろう)。まずは冒頭の「燃えよセールス!!」、最初のヴァージョンの3話分を読まれたい。これ、1話目と2話目は、コントの台本としてそのままコメディアンが演じても構わないぐらい、よく出来ている。しかしながら逆に、マンガならでは、といえるのは、せいぜいラストの2ページが完全な反復になっているあたりにすぎない、と思うのだが、それが3話目になると、同じ登場人物、設定、シチュエーションを使いつつ、ほとんどマンガでしか成立しない表現に突入しているのと並行し、作中の関係性までもが、一変する。ボケやツッコミ、といった役割分担により定められていたはずの秩序が崩壊してゆき、日常から半歩ずれているがための笑いは、ちょうどホップ、ステップ、ジャンプの、ジャンプの勢いで、見かけ上は等しい世界であるにもかかわらず、まさしくべつの位相にワープしてしまうのである。かくして、あまりポピュラリティのない場所へとオチを持って行っちゃうのが、まあたしかに作者の業であり、不幸であるのだけれども、端的に、この3話の構成は見事な技になっている。2つ目以降のヴァージョンは、むしろ助走なしのジャンプを繰り返すことで、マニアックさを追求しているふしがある。いやいや、好きなんだけどさ、趣味がつよすぎるよ。だいいち、「燃えよセールス!!」以外の作品も含め、変態さんしか出てこねえんだ。はたして、「スーパーマグナム まむしレディ」のどこに、「愛しのレスラー」のどこに、まっとうな人間が存在するというのか。もちろんその、変態さんたちが清々しいまでに生き生きとしているのが、最大の魅力でもある。3つのヴァージョンが描かれた「サルっ子ペペ」にしたって、細かいあれこれは異なれど、基本、変態さん同士のコミュニケーションをギャグに仕立てている。ここで注意しなければならないのは、変態さんと世間とのディスコミュニケーションを、言い換えるなら、ギャップをおもしろく見せているのではない、ということで、さらに言うとすれば、変態さんたちによるカオスではなく、エキセントリックなシーソーの両端でバランスがとられ、変態さんたちのコスモスがつくられている、ということだ。この違いは、似たように変態さんの我が儘をギャグにしている金田一蓮十郎の作風と比べてみれば、あきらかである。マニアックなコスモスは、もしかしたら自閉の領域になりかねない。そこに自らを打ち切り作家と嘯く尾玉の本質があっても不思議ではない。「サルっ子ペペ」は、人間の母子と高い知能を持った猿とが、心を通わし、どたばたを繰り広げる。このような梗概を、西洋文学的な題材のパロディと受け取ってもよい、が、じっさいの印象は、意外なほど隔たる。可笑しさの重心は、そうした舞台装置さえ軽くまたぎ、あくまでもこちら現実における常識そのものとの、対照のなかに置かれている。彼ら変態さんたちはまるで、読み手の側から、おいおい、と声をかけられるのを待っているみたい、とりあえずは好き勝手をし放題、ぎゃんぎゃん騒がしくやっているところに、もちろん、作者の企みがある。
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2009年07月23日
 少年サンデー1983 2009年 8/15号 [雑誌]

 大野茂の新書『サンデーとマガジン』では、副題に「創刊と死闘の15年間」とあるとおり、1959年の両誌の創刊から70年代半ばまでのドキュメントが内容を担っていて、その先に関しては〈「少年サンデー」は、1970年代後半から、「ラブ・コメディ」という金鉱脈を掘り当てる〉という一節でまとめられているのだが、では『週刊少年サンデー』とラブコメが蜜月であった時代とはどのようなものか、もちろん、それはいくつかの資料、言説で知ることはできるものの、当事者の証言を集めたものは決して多くはないと思う。そこにきて、この『週刊少年サンデー』の増刊号としてリリースされた『少年サンデー1983』である。たしかに、巻頭に〈この本は、少年サンデー誌上、最大部数(2009年7月現在)を記録した「伝説の1983年」当時、連載していた作品の中から徳に厳選した9作品を、出来る限り当時に近い形で再掲載したものです〉とあるように、ノスタルジーに頼った誌面づくりがなされており、そのへんは基本的には既発表の作品を再掲したものにとどまるのだけれども、特筆すべきは、あだち充、高橋留美子、村上もとか、島本和彦、原秀則、細野不二彦、石渡治、岡崎つぐお、新谷かおる、といった錚々たる面々に、自身のマンガ家人生と当時を振り返るかたちでインタビューが行われている点だろう。これだけでけっこう読み応えがある。また、それらの作家(あるいは作品)に所縁のある(もしくはファンである)マンガ家がメッセージをあてており、こちらのラインナップも、青山剛昌、藤田和日郎、魚戸おさむ、石川雅之、猪熊しのぶ、曽田正人、よしもとよしとも、村枝賢一、ゆうきまさみ、であったりと、かなり興味深い。だいたい、よしもとよしともが実兄である石渡治と自分のことを、これだけダイレクトに語っているというのは、なかなかレアなのではないか。さらには当時の担当編集者が、それぞれの作品の裏話を打ち明けているのも、重要なエッセンスとなっていて、同時期の『週刊少年マガジン』の側から、小林まことの発言を引っ張ってきているのも、小林の『青春少年マガジン』と合わせたとき、ぐんと資料性が高まる。それにしても、伊集院光とあだち充との対談や、青山剛昌の感想、そしてあだち自身の発言から、あらためて確認できるのは、やはり『タッチ』における上杉和也殺しは、とてもセンセーショナルな事件であったことだ。かつて小説家の酒見賢一は、ある意味で『タッチ』は『あしたのジョー』へのオマージュであると指摘したが、おそらく和也の死の遠因には、力石徹の死がある。このことをいつか誰かが明晰に論じてくれないか(酒見がやってくれてもいい)と思いつつ、読んだ。
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2009年07月22日
 新潮 2009年 08月号 [雑誌]

 『新潮』8月号掲載。これまで青山七恵の小説には、東京に出てきた人間の主観で書かれたものが、少なくはない。それが(位置からすれば群馬寄りの)埼玉の出身である作者のプロフィールに由来しているのかどうかはともかく、『山猫』ではあらかじめ都内に根をおろしているような人間の主観が、作品を象っている。とはいえ、その主観の持ち主もまた本質的には東京都の出身ではないだろう。物語に招き入れられた別個の人格(なんなら他者と言い換えてもいい)と接するとき、相対的に、東京の人間になっているにすぎない。新婚生活を送る杏子のもとへ、ある日、沖縄で暮らす母の妹から頼み事の電話がかかってくる。高校二年の娘が、東京の大学に進みたいらしいので、夏休みのあいだの何日か、後学のためにも杏子のところで預かってはもらえないか、と言うのだった。それを心好く引き受けた夫婦、杏子と秋人の主観が、従妹の栞をある種のプリズムとし、二色に分かれてゆくというのが、だいたいのあらましになるのだけれど、もちろんこの作者らしく、筋立て自体は、きわめて穏当なものであり、ショッキングな事件は一個も起こらない。かわりに、半径の狭い世界ならではの摩擦が、その小ささにもかかわらず、作品の温度をあげてしまうような、さざ波の響き渡る世界をつくり出している。必然、そうした世界のなかに、女と男であったり、妻と夫であったり、の対照を見取ってしまってよいのかもしれない。しかしながら、特定の関係性における何らかの欠損が、対立によって曝し出されるというより、あやうげのないほど充足していたペアに、あからさまな余剰が含まれることで、キャパシティ内の差異に点線の輪郭が打たれるにとどまる。これはもしかすると、芥川賞を今回とった磯崎憲一郎の『終の住処』とは、反対方向のアプローチだといえる。輪郭の点線は、決して二つの主観を切り離さない。結末において、栞というプリズムが抜き取られてしまえば、夫婦の、二つの視点は〈杏子も秋人も、なぜそこにいるのか、誰を見送りにきたのか、なんてことは忘れてしまったように、ただ食べて、笑い、いつもの二人に戻った〉とされるとおり、ふたたび一つに統合され、家族とそれ以外の境界線を引きながら、こともなげに充足するのである。夫婦には、やがて二人の子供ができ、住みよい場所を求めて、都心を去ってゆく、と、最後の最後に記されている。しかしそれが家族のワン・シーンであることに変わりはない。

 『ニカウさんの近況』について→こちら
 『出発』について→こちら
 『欅の部屋』について→こちら
 『お上手』について→こちら
 『かけら』について→こちら
 『新しいビルディング』について→こちら
 『松かさ拾い』について→こちら
 『やさしいため息』について→こちら
 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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2009年07月21日
 あたかもその作品を内部から食い破るかのように、佐木飛朗斗のつくり出す宇宙はつねに膨張をし続ける。しかし、増大してゆくエントロピーはやがて佐木自身の手にあまり、結果、多くの作品が意味不明瞭なエンドを迎えざるをえなかったことは、周知のとおりだろう。同様の困難もしくは爆弾を、山田秋太郎と組んだ『爆麗音』も当然のごとく抱え込んでおり、はたしてそれにどう、調和の旋律を与えるかが、ストーリーとは異なったレベルで、最大のテーマになると思われる。

 ところでここ最近、ロック・マンガ、いや、バンド・マンガというべきが、シーンの一角に定着しつつある。なかでも主流をなしているのは、音楽そのものを題材化するというより、趣味やサークルの存在に焦点を絞ってゆく手つきである。これを指し、ハロルド作石の『BECK』以降から、かきふらいの『けいおん!』以降へ、とタームを切り替えられるかもしれないが、それはともかく。たとえば、花見沢Q太郎の『PLAY!』では、女の子に誘われたことをきっかけに、方向性や技術的な問題はべつとし、ついついバンドに加入してしまう主人公の姿が描かれているけれども、『爆麗音』では、似たふうな場面、まったく違う選択肢をとる主人公の姿が描かれている。もちろん、これはたんに傾向の差異にしかすぎず、どちらが良い悪い、正しい、ということではない。だが、そうした例の対照によって、同じジャンルにおける分岐の一端を知ることができる。

 さて、以上は余談にほかならない。本題は『爆麗音』の5巻である。アルバイト先を訪ねてきた「デモンズ」のオーナー黒沢に、あらためてライヴ・イベント「デモンズナイト」への出演を依頼された歩夢は、まさかの出来事を喜んで引き受けるが、しかし、肝心のバンドがない。すでにヒューマンガンズとは袂を分かってしまっている。そのため、いそぎメンバーを探さなければならない彼のもとに、かねてより縁もゆかりもある人物たち、印南烈、ヴィオレッタ、そして道夫が集まってくるのだった。

 こうしてバンドの結成される経緯が描かれているのだけれど、その様子はオーディション形式のジャム・セッションのなかに切り取られている。歩夢と烈のツイン・ギターが織り成す「揺れ(グルーヴ)」に、代わる代わる加わるリズム隊はついてゆけず、演奏の最中に除けられてしまう。〈…確かに凄ェ…っつーか “違う世界の生き物”みてーだ…〉が〈けど…“これ”をバンドにするつもりなのか? これは…ソリストのペアだっ!! …バンドじゃ無いっ…!!〉と敬遠されてしまうのである。しかしそれがすべてのはじまりだっただろう。テレキャスターのベースを携えたヴィオレッタの登場が、彼ら二人にあたらしい展開をもたらすのだった。歩夢のギター、ギターからピアノへとチェンジした烈が、ふたたび「揺れ(グルーヴ)」を発したとき、いっしょにジャム・セッションに入っていたヴィオレッタは〈最高ネ! 無伴奏ソナタでは得られない“グルーヴ”ッ!“烈のピアノ”の無限世界を “歩夢のギター”が どこまでも突き抜けてゆく…!! 〉と思う。さらには、三人が奏でる「揺れ(グルーヴ)」に触発され、ただの傍観者だったはずの道夫がドラムを叩き出すと、ようやく歩夢は〈これだっ!! この爆音こそがッ…!! オレの… オレのバンドの産声なんだッ!!〉という実感を持つのだ。おそらくはこのシークエンスに『爆麗音』の本質が託されている。そしてそれは、佐木の宇宙がひろがり、膨張するのとパラレルなものであるに違いない。

 独特なポエジーをともない、膨らみ続けながら、もしかしたら破綻さえもきたしてゆく佐木飛朗斗の宇宙に、山田秋太郎はひとまず、応え、こらえ、抗っている。演奏シーンにイディオム的な目新しさはないものの、たとえば、ファズで音をひずませたストラトキャスターを烈が弾いてみせる場面、〈まるでッ… 重金属(ヘヴィメタル)… 超デケェ戦斧を振り廻してるみてーだッ!!〉と述べられるようなイメージの具体化、激しい動きの描写は、作画上のインパクトを引き出すばかりではなく、「揺れ(グルーヴ)」なる抽象的な概念に対し、明瞭なダイナミズムを与えているのである。

 ギター、ベース、ドラム、これでバンドは揃ったかに見える。たしかに、インストゥルメンタルのみでやっていくのであれば、何ら問題はない。しかしやはりここで思い出されたいのは、弥勒の存在、つまりはヴォーカルのパートを設けるだけの余地が物語に残されていることだ。弥勒との因果は、歩夢の母親を通じ、すでにひらけている。まさかそれを伏線として回収するような真似を、佐木がしたらしたで(できたらできたで)驚くし、すくなくともストーリーのレベルではまだ、音を合わせたときの開放感以上に鳴らすべきテーマを、主人公たちは得ていない。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら  
 1巻・2巻について→こちら

 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『外天の夏』(漫画・東直輝)
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他山田秋太郎に関する文章
 『解錠ジャンキー・ロック』1巻について→こちら
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2009年07月19日
 すこしばかりおさらいをしよう。同一の世界観をシェアする立原あゆみの作品群においては、風組(『本気!』シリーズ)、関東一円会(『JINGI』シリーズ)、極地天道会、の三大勢力が互いを牽制し合うことで、日本の極道社会の均衡は保たれている。余談になるけれど、それらの図式からは独立しながらも一目置かれているのが、けもの会は猩猩組の、壁村耐三である(『あばよ白書』)。そうして下部の組織や末端に位置するヤクザたちの、欲望、諍い、血を流す様子が、いくつものヴァリエーションを生んでいるわけだ(『東京』、『弱虫』、『極道の食卓』、『恋愛』等々)。が、より巨大なレベルで見るなら、その大半は、先述した三すくみのバランスを、崩そうとし、守ろうとし、結果的には強固にするための運動、闘争だといえる。たとえば、無印の『本気!』では、風組の内紛が、雨降って地固まるような結末をもたらしていた。たとえば、『本気!サンダーナ』では、極地天道会の内紛が、やはり雨降って地固まるような結末をもたらしていた。そして『JINGI』シリーズでは、関東一円会の内紛が、同じくなってゆくことが、この『仁義S』の10巻の、墨田川会のトップである仁と義郎、実質上極地天道会のトップである飛田の三者会談のなかで、暗示されている。

 関東一円会から分かれ、極地天道会にすり寄ろうとする六星会をめぐり、それぞれの幹部がついに顔を合わせるのである。飛田の参入は、『本気!サンダーナ』を読んでいるファンにしたら、けっこう盛り上がる箇所ではあるが、それはともかくとしても、立原の作品世界全体にかかるビッグ・イベントだろう。しかし、一円会も極地天道会も、正面切って事を構えたくない。もしもそうなってしまえば、これまでに築き上げてきた均衡が壊れてしまう。風組を巻き込んでの波乱が日本中を覆うかもしれない。そこでまず飛田は、悶着の種になりかねない六星会を潰し、その縄張りを一円会と極地天道会で折半しないかと持ちかける。だがこれに仁と義郎は首を横に振る。彼らは〈関東割るわけにはいかないと言ってるんです 割れば争いが起こるは必然〉と主張するのだった。では、そのかわりにどのような提案がなされるのか、ここに立原らしい方便が見られる。関東を割るぐらいなら、一円会もろとも極地天道会にくだり、風組との緊張をキープしたほうが穏便、とのたまうのだが、いずれにせよ〈全国がひとつになれば 進歩ってやつが止まる 少々のセクトは必要というわけです〉という義郎の言葉は、『仁義S』が、いや立原のマンガ自体が持っている構造自体を指しているかのようですらある。

 他方、若き仁義たち、つまり主人公のアキラやドクター大内は、まさしくそうしたセクトのごとき役割を果たしながら、じょじょに頭角をあらわしてゆくことになる。これをよく思わないべつのセクトが、守などの彼らと同世代のヤクザたちにほかならない。そうしたセクト同士の小競り合いが、大状況に対し、いかなる影響と進歩をもたらすのか、物語は新しい局面に入りつつある。

 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら 
 3巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『本気』文庫版
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『恋愛』
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  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
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  3巻について→こちら
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  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2009年07月18日
 しかしみんな、戦国時代とか、戦国武将とか、好きだよね。とくに織田信長とか織田信長とか織田信長とか豊臣秀吉とか織田信長とか。近年におけるヤング誌掲載のマンガでも、宮下英樹の『センゴク』や、山田芳裕の『へうげもの』、そしてこの、たなかかなこの『秀吉でごザル!!』などが、ほとんど同じ時代を舞台にしながら、それぞれに異なったアプローチでフィクションを組み立てている。さて、『秀吉でごザル!!』の4巻である。主人公の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は、堺の町で、鉄砲の名手である雑賀孫市を仲間にしたはいいが、別れた妻のねねを、そうとは知らぬ孫市に寝取られてしまう。藤吉郎に恨みを持つねねにはねねの企みがあり、じつは復讐のため、孫市を利用しようとする。一方、朝倉義景の軍勢に囲まれるなか、浅井長政に反旗を翻らされた織田信長は、最愛の妹である市姫にもまた裏切られたと思い、茫然自失とする。危うし、というところを、しかし藤吉郎の檄によって、からくも乗り切った信長は、やむなく逃走をはかるのだった。以上が3巻のあらましになるのだけれど、しんがりを任され、危機に陥った藤吉郎の前に、孫市が駆けつける、というのがここでのくだりで、当然、ねねとの再会も果たされる。『秀吉でごザル!!』においては、セックス(性交)が重要なテーマを持っており、たとえば、ねねと孫市が通じていることを知って苦悩する秀吉の姿がそうだし、市姫が信長にとって特別な存在であることが近親相姦の間柄であらわされているのもそうだといえる。これはもしかすれば、ポルノ的な要請も込みで、夢枕獏や菊池秀行などに代表されるような伝奇ロマンのセオリーを忠実に踏襲したものであるのかもしれない。じじつ、信長や秀吉には鬼神が憑いており、それがときどき尋常ならざる力を発揮するなど、物語の背景には、妖怪変化の類が跋扈しているのである。またそれらが、天皇家と藤原氏の陰謀論に回収されている点を、作品の特徴として見てもいいだろう。藤原氏の始祖、中臣鎌足が、中国からやって来た妲己を抱え込んでいたとか、じつは信長包囲網は蠱毒の壷であり、藤原氏の近衛前久は信長を魔王(サタン)に仕立て上げ、操ろうとしているとか、その荒唐無稽さにこそ、作者の魅力がよく出ている。

 『たなかかなこ短編集』について→こちら
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2009年07月16日
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 いったいどれだけの人間が喜ぶのかは知れないが、ひとまず、声を大にしたい人間がここにいる。ついに『本気!』の新作がきたああっ。『週刊少年チャンピオン』NO.33(今週号ね)に掲載されている『本気!〜雑記〜』は、同誌の40周年を祝う特別企画の一環であり、てっきり他のマンガ家の作品がそうであるように、1話かぎりの読み切りかと思っていたのだけれど、どうやらシリーズ連載として今後も続いてゆくらしく、冬には2話目が発表される予定になっている(ただしこの予定はあてにならないだろう、と個人的には睨んでいる)。作中の人物がメタ・レベルである作外の事情を汲んでゆく内容は、半ば、今流行りのマンガ家マンガに近しいが、『本気!サンダーナ』のラストにおいて、本気に破門された舎弟の次郎を語り手とし、その後の経緯も描かれているあたり、番外編であると同時に、やはりこれは続編なのだろう、としたい。あるいは、『喰人』や『極道の食卓』以降のスタイルで『本気!』を展開したらこうなる、といったヴァリエーションなのかもしれない。まあマンガ史的には、少女マンガ家であった立原が少年誌でヤクザ・マンガ(「風」という『本気!』のプレ・ストーリー)をスタートさせたのはじつは手塚治虫が病気で倒れた穴を埋めるためだった、このへんがポイントであるに違いない。のちに立原はパーティの席で一度だけ手塚と顔をあわせたことがあると記している。しかしでは、という具合に、立原のファン及び『週刊少年チャンピオン』のファンは、もう一つの疑問を持つことになる。はたして立原はいつ、『本気!』登場以前に『週刊少年チャンピオン』の全盛期をつくったとされる編集長の壁村耐三を知ったのか、である。周知のとおり、立原の『あばよ白書』では、壁村耐三という同名の人物が伝説の極道として一目置かれ、その威厳は世界観をシェアする『弱虫』や『本気!サンダーナ』にも影響している。そこから推測するに、かの人物に対して何らかの思い入れがあるはずなのだ。すくなくともここには壁村への直接的な言及は存在しない(もしかしたら立原に依頼の電話をかけてきたのがそうかな、とも考えたが、たぶん時代が違う)ので、できるならそれは2話目以降に描かれることを期待すりよりほかない。一方、1話目で作者自身が、船のたくさん詰まった風景を眺めながら〈こんないっぱい船 描くのやだな〉とこぼすくだり、現在ではあきらかにコピーかパソコンで処理しているのを逆手に、余裕と貫禄で、にやり、自虐のギャグにしている。

 『本気』文庫版
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『恋愛』
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 『極道の食卓』
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  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
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 『仁義S』
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 『ポリ公』
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 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2009年07月15日
 メルマガ「週刊ビジスタニュース」に「現代と格闘する文芸批評」という文章を書きました。00年代における文芸批評のトピックをひじょうに簡単にまとめております。
 
 現在WEB上で読むことができます→こちら
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 さて。『荒くれKINGHT』シリーズのなかで、もっとも魅力的な人物を挙げよ、ということであれば、それはヒデオさ、ヒデオなのさ、と言うよりほかない。野口日出夫、大好きである。もちろんヒデオなんてのは、外道も外道、ろくでなしのクソ野郎であって、褒められたところが一個もない。だがその、絶対に否定されるべき人格が、どうしてか、とても人間らしく、チャーミングにさえ見えてしまうのが、吉田聡というマンガ家のすごさだと思う。とにかく『荒くれKNIGHT』のシリーズにおいて、ヒデオがメインを張っている回はどれも最高なのは当然で、それがヒデオさ、ヒデオなのさ。したがって、この『荒くれKNIGHTキャラクターブック THE BIBLE OF KNIGHTS―荒くれたちの聖典―』の、ヒデオの扱いの小ささには、いささか不満を持たざるをえないのだが、まあ、これだけ膨大な登場人物を抱えている作品なのだから仕方がないよね。納得はいく。しかし、こうしてシリアスなラインで登場人物たちをまとめたものを、パラパラめくっていくとよくわかるのだけれど、現在の『荒くれKNIGHT 黒い残響完結編』に足りないのは、やっぱり、とんだクズ人間であるヒデオを生き生き、晴れ晴れとさせていたような、明るさの余地なのではないか。個人的には、そうした部分が乏しくなりつつある最近の傾向に対し、どうもぴんとくるものがなく、もしかしたら吉田聡は駄目になっちゃったのかなあ、と、すくなからず疑っていた。ところが、『週刊少年サンデー』VOL.31(先々週号になるのかな)に掲載された「MY SWEET SUNDAY」というエッセイ・マンガの第16回(つまり吉田の回)で、まるで自身を『荒くれKNIGHT』の主人公みたいに描きつつ、現在の作風を逆手にとって遊び、さらには〈絶対オチをつけると思ったぜ! 古い読者も少しは安心しただろ〉と最後のコマをギャグに落としているあたり、意識的にイメージのチェンジをはかっていることはあきらかである。やればできるのにやらないのだ。無印の『荒くれKNIGHT』から「高校爆走編」へ、そして「黒い残響」から「黒い残響完結編」へ、シリーズを経るごとに試みられてきたのは、おそらく、かっこいいとはこういうことさ、このようなテーマの純化だろう。結果、ふざけたりおどけたりが減じていった。照れがなくなったのかもしれない。が、同時に、かっこいいとはどういうことか、読み手に問いかけてくるふうな多義性は薄れてしまった。このデーター・ブック、『THE BIBLE OF KNIGHTS―荒くれたちの聖典―』で確認できる女性人物の大半は、無印の『荒くれKNIGHT』と「高校爆走編」にあらわれているのみで、彼女たちが、やんちゃな男の子に向かい、注意を与える場面は、もうほとんど描かれることがないのである。

 『荒くれKNIGHT 黒い残響完結編』
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  1巻について→こちら
  1話目について→こちら

 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
  11巻について→こちら
  最終回について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『ジナス』
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  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 
 『湘南グラフィティ』について→こちら
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2009年07月14日
 ナンバデッドエンド 3 (少年チャンピオン・コミックス)

 これまでにも再三述べてきたことだけれど、小沢としおの『ナンバMG5』及び続編である『ナンバデッドエンド』の健全さは、今日における少年マンガの、とくに日常の世界をベースとした作品群のなかにあって、まったく際立っている。おそらく、匹敵する作品を現在進行形のものから探し出すとしたら、西森博之の『お茶にごす』と加瀬あつしの『ゼロセン』ぐらいしか、見つからない。しかしながらどうして、そのような、いわゆるヤンキー・マンガの系に数えられるものが、少年が健全に生きられる可能性の題材化に成功しているのか。さしあたり理由を挙げるとすれば、そもそもそのイディオムの原初的な段階において、学園生活という、ほとんど誰もが経験し、共感が可能な領域を、絶対に不可欠な舞台として選んでいると同時に、そこで自らの優位を得ようとする男の子たち(主体に都合のよい未熟な男性性)の存在に対し、決して甘やかさないぐらいの批評性を加えることが、物語を成立させるのに必要な条件となっているためだと思われる。もちろん、基本のイディオムに忠実なだけでは、たんなる時代遅れになりかねない。だがその力学を、現代にアレンジしながら、徹底的に深化させることで、高度な達成を果たしている。それが作品の健全さとなってあらわれているのである。

 だいいち、『ナンバデッドエンド』の、この3巻だよ。進学校にすべく改革を目論む校長が、テストで赤点をとった生徒のいる部活動を無理やり停止させ、あくまでも成績重視の気風をつくろうとする、それを心好く思わない生徒会長が先頭に立ち、できるかぎりの抵抗を試みるのだった、というストーリー自体は、まあベタだとか何とか、知ったかぶりのジャーゴンに喩えることができるだろう。どころか、あまりにも通俗的すぎて今どき敬遠されがちな展開だとさえいえる。しかしそれが、白けないだけの魅力をともなっているのは、テーマのレベルの要請を受け、切実に応じた結果のナラティヴだからなのであり、またそうやって確認されているのは、学園生活が青春と置き換えられるとき、その所有権はいったい誰が持つのか、こうした事実関係の問題にほかならない。じつはそこに現代的な意義が盛り込まれている。たとえばもしも、学校というコミュニケーションの空間において、関係性を維持するためには、何らかのロールプレイをキープしなければならない、あるいはスケジュールに合わせ、分断された共同体を移動するのにさいし、自らのキャラクターをスイッチしなければならない、としたならば、それを行う主体は青春の所有者として真に主体的だと判ぜられるのかどうか、このような懐疑を、主人公の行動は射貫いているのである。

 はからずも、千葉最強のヤンキー、そして白百合高校の生徒会長、の二面に引き裂かれながら、青春をハードに送り続ける主人公の難破剛だったが、妹である吟子の理解を得、ようやく一息ついていたところ、すでに触れたように、心ない校長の提案が全校生徒を苦しめることになる。月末の学力テストで赤点をとった部員が三割以上いた場合、そのクラブは活動を停止しなければならない。できるかぎり脱落者を出したくない剛は、成績の悪い生徒たちを必死になって励ます。それを見た吟子が、かつてたくさんの不良を束ねていた頃のイメージを重ねるのは、たしかにニュアンスはギャグなのかもしれないが、たとえ外見や言動が時と場合によって違ったとしても、剛の精神の柱がつねに一本であることを教えている。さらには校長の決断に抗議する剛の姿がふだんから想像できないことを、〈いや〜それにしてもさっきの難破は迫力あったな…あれが素の難破だったりして!〉とクラスメイトが言ったりするのも同様である。仕方がなく複数の個性を演じ分けているにもかかわらず、精神の柱がつねに一本であるというのは、すなわち、その責任の所在がはっきりと自覚されていることを意味している。これが、青春の所有者として真に主体的であろうとする健全さを、剛に、『ナンバデッドエンド』のストーリーに与えているのだ。

 それにしても伍代はゲーム脳すぎらあ。いやいや、こういうギャグを決して忘れてはいないあたり、作者の資質がよくあらわれているのだが、大丸が初恋の相手を救おうと奮起するのに並行し、剛の修学旅行が描かれることで、波瀾万丈の広島編が幕を開けるのだけれども、生まれや育ち(遺伝や環境)のせいで不良にならざるをえなかった運命を指すのであれば、『ナンバMG5』における横浜編の光一が、剛のオルタナティヴであったのと等しく、広島編で登場してくる鋼一もまた、剛のオルタナティヴなのだろう。やはりキンキ・キッズかい。

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 『ナンバMG5』
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2009年07月12日
 少女マンガふうの絵柄で、少年マンガのイディオムを参照しながら、独特なヤクザの世界をマンガに描く、こういう立原あゆみならではのスタイルは、私見によるが、この文庫版『本気!』の8巻に収められているあたり(89年の時期)で、完成の域に達したのではないかと思われる。じじつ、ストーリーのほうも、主人公の本気(マジ)を、いったんラブコメ的なイデオロギーから引き離し、切った張ったの激しい世界に集中させることで、シリーズ前半における最大の山場を迎えている。

 風組の調停もあり、集優会との縄張り争いにも決着がついた、はずだった。しかし集優会の目論みによって、ふたたび抗争の幕が、ひらく。集優会の組員が死亡、本気の子分である金造が罠にかけられ、警察から追われる羽目となってしまったのだ。自分たちの身内が殺されたことを理由に、集優会は渚組に対する報復の正当性を主張、またもや緊張が高まるなか、何があろうと金造を信じ、そして争いを止めようとするう本気は、とにかく真犯人を見つけ出そうとするのだけれど、事態はついに、どちらかの組長が倒れなければ収まりのつかないところにまで悪化してしまうのだった。

 ふだんから内容の濃いマンガだが、とくにここでは、渚組の組長である大河内を見舞う悲劇や、潮紋組の長である雪見老人の介入、集優会の若頭である地童の暗躍、染夜に託した五億円などなど、後々の物語において伏線となる箇所も含め、見逃せない点がやたらに多いし、まるで最終回が迫っているかのように(じっさいには倍、いや三倍以上の長いお話しになっていくわけだが)、主要な人物たちが次々と顔を出すのも、たいへん盛り上がる。しかしながら、着目しておきたいのは、やはり、ここから本気の運命において青年期の終わりとすべき転換がはじまっていることだろう。以前にも述べた気がするけれど、『本気!』とは要するに、立原あゆみ版『ブッタ』(手塚治虫のね)なのではないか。内容を先回りするなら、この後に本気は、刑務所に送られ、やがて社会に復帰し、もっとも大切なものを失う、というシークエンスを経、まさしく修行僧のごとき旅へと出発してゆく。そのような受難の、大河ドラマの、引き金となる瞬間が、ちょうど描かれているのである。

 もちろん『本気!』は、直接に信仰を題材としている作品ではない。たしかにその背景には、さまざまな種類の祈りが込められているが、特定の宗教が信じられているわけではなく、てんでばらばら、たとえばこの文庫版8巻のとある場面で、本気は〈久美子さん オレ そん時 理由もわからず 胸に十字を切りました〉という。だが結局は〈後で神さんうらむ事も知らんで…〉と思わざるをえないのであって、ことごとく神は人を裏切る役割として存在する。そしてこうしたテーマはそのまま、少女マンガから出発した作者の重要なモチーフとなっていき、シリーズの(現時点での)完結編『本気! サンダーナ』のラスト(06年)において、ようやく〈オレの存在がひょっとしたら神の解答かもしれないのだから 地球上の生きとし生けるもの そのすべての種を絶ってはいけない 神の与えた解答を絶ってはいけない すべてが解答だからだ… 草木も鳥も魚も 動物も微生物さえも そしてあなたひとりひとり すべて地球の解答なのだから〉という帰結を導く。次巻以降にまた触れることになるかもしれないが、本気の最愛の人である久美子は、たぶん、観音菩薩と聖母マリアの合わさったイメージであり、処女でありながら偉大なる母親の尊敬を集めて、作中に記録されることとなる。

 最後になるけれども、孤児院で育った利一が、本気のもとへ、高校進学を願い出るくだりが、いいよね。すずめやナツ、ギンジたちとともに、のちのちまで本気と久美子の、精神を受け継いだ子供として、成長を描かれる人物である。その彼が、高校進学の金銭的な工面を快く引き受けてくれた渚組の面々に〈オレ がんばって 必ず 恩返し し…ます〉と感謝するのに対し、本気が〈オレらに返す事なんて考えなくていいぜ…でっかくなって立派になったら同じような子供たちに手ェ貸したれ… オレはよ こんな風に思ってる… 一生かかっても人間一匹何人もの人と出会うわけでもねえ… 百人かも千人かもしんねえし そりゃ何万人も知り合いになる人もいるだろうけど それにしたって地球の人たちの数からすりゃ ほんのすこしだ 知り合った人はみんな友達だよ… 助けっこさ〉と言う。これはこの時点ではたんなる浪花節であるかもしれない。しかし、物語が進むにつれ、まるで神に与えられたかのような試練、巨大な信念のさまを呈す。

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・その他立原あゆみに関する文章
 『恋愛』
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 『極道の食卓』
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 『仁義S』
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 『ポリ公』
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2009年07月10日
 所十三の『竜の国のユタ』並びに『D-ZOIC』はもっと評判を得てもよかった。いや、こうして作品が完結した今からでも遅くはないか。しかし、物語の途中でタイトルをいったん変えたのは、人気にとってプラスになったのかどうか定かではないけれど、『竜の国のユタ』と『D-ZOIC』を合わせて、一個の長篇としたさい、中身を知らない読み手には親切じゃないよな。まあそれはともかく、終盤の展開はさすがに駆け足であったが、それを差し引いても空想冒険活劇の良作だったと思う。

 もしかすれば、『D-ZOIC』のクライマックスにおいて明らかになるテーマの全体像は、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』(映画版でもマンガ版でもいいよ)に近しいところがあるかもしれない。ユタ(ナウシカ)、ヒトモドキ(巨神兵、科学)、恐竜(王蟲、虫)の三すくみによって、自然や環境と言い換えてもいいような、惑星規模の視点がつくられ、そこから人類の賢しさと愚かさを問うているみたいでもある。だが、このマンガの特徴は、むしろそれを軍記物のスタイルに落とし込み、少年向けのビルドゥングス・ロマンに仕上げている点にあるだろう。戦時下の波乱において、ある種の使命を生まれながらに負った主人公の成長が、正しく英雄譚のごとき盛り上がりを見せる。

 もちろん、ワキの人物たちの役回りも、なかなか。フリードやパウルス、ランス等々、さまざまな人びとが、ときにはユタのライヴァルになりながら、ときにはユタと協力しながら、それぞれの国や敵味方の垣根を越え、彼らにしかなしえないチームワークを育んでゆくのである。とくに5巻で、あれだけ対立していたフリードとランスが、ユタの説得を受けて、部隊を組むくだりから、この6巻のハイライト、原国の王都を死守すべく、わずかな軍勢で十万もの冥王軍と激戦を繰り広げる場面まで、派手なスペクタクルをこしらえるのとはべつのレベルにドラマティックな印象を描き出しており、たいへん燃える。じつは残酷な描写も多いが(だいいち人間はヒトモドキの食料なんだし。老兵が突撃死を選んだりとか)、良くも悪くも不快感を免れているあたりに、作者の資質がうがかえる、というのは以前にも書いた気がする。

 それにしても、いちばん燃えるのは、やっぱり、主人公であるユタの勇姿だろうね。ユタが、作中の言葉にならうなら「鍵」として特別なのは、その血筋と決して無縁ではないのだけれども、5巻のなかで、親友のフィルがユタを慕って集まった仲間に〈オフタルモスの力なんかじゃない あいつはちゃんと 自分で運命を切り拓いてるんだ…ってさ〉と言うように、6巻において、〈プライドやメンツなんかより “命”の方がずっと大切だってボクは思うから〉と述べるユタに対し、命を捨てようとすることでしか生きられないランスが〈結局 お前って 俺やフリードの対極に生きてるんだよな だからこそ“鍵”に選ばれたのかもしれねぇが…〉と言っているとおり、あくまでも彼の健全で逞しい精神が、物語の重要なキーとして選ばれ、そしていくつもの運命を逆転させているのだ。

 最初にもいったが、『竜の国のユタ』並びに『D-ZOIC』は、じつに空想冒険活劇の良作である。完結して十分にそのことを実感する。できれば多くの読み手がこのマンガに出会えることを願いつつ。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら 

・『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
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  4巻について→こちら
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2009年07月08日
 『文學界』8月号掲載。単純に(両方を)読んでいる人間がほとんどいないからなのだろうが、高橋源一郎の『いつかソウル・トレインに乗る日まで』と村上龍の『心はあなたのもとに “I’ll always be with you, always”』のあいだにある、いくつもの共通点に触れているものをまだ見たことがない。まあもしかしたら、『心はあなたのもとに』の連載が終わり、単行本になったとき、ようやく出てくることになるのかもしれないが、言ったもん勝ちなので、先に言っちゃおう。まず何より主人公の、ケンジ、という名前だ。『いつかソウル・トレインに乗る日まで』がヤマザキケンジならば、『心はあなたのもとに』のほうはニシザキケンジといった具合に、苗字までを含め、ひじょうに酷似しているのである。もちろんそれを、中上健次に由来している、と指摘するのは容易い。そして中上の念に引っ張られるかのように、双方とも、韓国のソウルが、一種のシンボリックな機能を果たすのもそうだし、彼らの年齢が、職業などのディテールは違えど、ちょうど作者の、現在の等身大に近しく50歳代に設定されているのもそうだといえる。はたまた、その主人公たちが、(ほとんど登場しないが)妻もいるのに、年下の女性に惹かれてしまい、決して欲望だけでは叶えられぬ、ピュアラブルな恋愛を貫こうとしたりする。結果、いわゆるベタと喩えてもいいような、たいへん通俗的な物語を繰り広げてゆくのであった。もしも『心はあなたのもとに』をケータイ小説ふうだとするなら、『いつかソウル・トレインに乗る日まで』は韓流ドラマふうにも思われる。なるほど、ポストモダンとやらの行き着く先はそこか、とかね。ただし、作品の結構、筋書き、文体には、それぞれの資質がよく出ており、全体の印象がまったく違っているのは、明記しておかなければなるまい。

 高級風俗で働いていた香奈子を、自分の恋人にした主人公は、彼女にべつの職を紹介するとともに、栄養士の専門学校へと通わせることで、将来に対する夢も与える。しかし重病を患ってしまったために香奈子は生活のほとんどを病院で送らなければならなくなる。じょじょに希望をなくしかけてゆく彼女の不安を、携帯電話のメールで送られてくる文面などから察し、いったい自分に何ができるのかを悩むことが、主人公に無力感を突きつけてくる。こうした物語においてさえ、先ほど作者の資質がよく出ていると述べたが、この第二十七回でいうなら、主人公が一人でいるホテルの部屋に、どこからか白い蛾が迷い込んでくるくだり、描写の綿密さが内面の孤独と重なり合う筆致は、正しく村上龍に固有のものであるし、夜のデートを久々にした二人の、関係性の、抽象的な距離が、「カギ括弧」で区別されない会話のなかにあらわされ、あたかも告白に似た似た印象をつくりあげていくのも、じつに、らしい、点だろう。それにしても完結はまだ先か。一回一回のヴォリュームはそれほどじゃないにせよ、けっこう長い作品になっている。

 第十九回について→こちら
 第十七回について→こちら
 第十一回について→こちら
 第七回について→こちら

・その他村上龍に関する文章
 『半島を出よ』について→こちら
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2009年07月05日
 たとえば、安西信行や真島ヒロが、真っ向からヤンキー・マンガを描いてくれない、というニーズに対して、田村隆平の『べるぜバブ』は応えているふうにも思われる。あくまでも学園を舞台にしながら、周囲からは荒くれと見なされる主人公が、本質的には立派な硬派であったため、不良ヴァイオレンスと少年ラブコメの展開を通じ、男をあげてゆくことになるのだが、しかし、ファンタジーの浮力を用い、現実離れしている(換言するなら、社会的な責任を逃れているかわり、世界規模の危機を持たされている)ところに、きわめて現代的な必然をうかがえる。

 石矢魔高校の一年、男鹿辰巳は、圧倒的な腕力を誇り、県下でも不良の生徒ばかりが通う校内においてさえ、注目を集める。ひじょうにシンプルな性格のせいか、ケンカを売られれば二つ返事で買う毎日であったが、奇妙な成り行きで拾ってきてしまった赤ん坊が、人類を滅亡させるべく魔界より寄越された悪魔の、魔王の息子であったことから、ただですらトラブル続きの学園生活に、さらなるハプニングが、しかも非日常なテンションで、重なってくる羽目になってしまうのである。

 男鹿になつく魔王の子、カイゼル・デ・エンペラーナ・ベルゼバブ4世は、外見も中身もまったくの赤ん坊であるけれど、彼の従者であるヒルダやアランドロンが〈まだ幼すぎる坊ちゃまが人間界で魔力を発揮するには 触媒となる人間の助けが必要となるのです / どれ程 巨大な電力があっても それを通す丈夫な電線がなければ意味がないでしょう…それと同じです〉と述べるとおり、その育ての親に選ばれた人間の存在次第では、おそろしい脅威となりうる。それこそ、男鹿の親友、古市貴之が〈もしかして人類の未来って…お前の肩にかかってる?〉と冗談混じりに言っていることは、あながち的外れではなく、作品の、基本の動力を教えている。要は、いち個人のピュアな感覚に世界の命運が預けられてしまうわけだが、こうしたプロット自体は、とりたてて目新しいものではないだろう。古くからよくある。また今日でも、酒井まゆの『MOMO』などは少女マンガのジャンルでありながら、これに近しいパターンを採っている。

 男鹿と赤ん坊の関係は、ある種の子育てを装っているが、じっさい(すくなくともこの1巻の段階では)そうではない。単純に、親代わりをする主体に父性とでもいうべき感覚が導入されていないのもあるし、結局のところ、『幽☆遊☆白書』の初期における霊界獣のミッションのような、強制的な依頼を受けているにすぎないので、男鹿はその役割を他の誰かに回してしまいたい。子は親を映し出す鏡、という言葉があるが、赤ん坊が主人公に見ているのは、決して父としての人格ではない。あくまでも、少年性の健康と不健全にほかならないのであり、そしてそれは、学園という身近な規範を目の前にすることで、明解に、いや爽快に際立たされる。
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