ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年06月30日
 芦原妃名子の『Piece』は、『砂時計』もそうだったが、一片一片は、わりと見え透いたアイディアであるのに、その織り成しが達者であると、受け取ったとき、こうも胸に響くものになるかあ、という感想を持てる。高校時代の同級生、折口はるかが亡くなった。とくに仲がよかったわけではないけれども、はるかの母親から、彼女が親しくしていた男性を探し当てて欲しい、と依頼された須賀水帆は、過去に所縁のあった人びとと再会し、それぞれの諸事情に関わるうち、現在の自分のありかを掴まえ直してゆく。この2巻では、かつて学校中のアイドルとされていた瀬戸内円や、志望の大学に入れずに浪人生を続けている菅原勇、当時の体育教師であった宮本との接触を通じ、またもやはるかの知られざる一面が明かされる。だがまだ、真相には届かない。はたして彼女は、いったい誰を愛し、身籠もり、堕胎したのか。あえて指摘するまでもなく、はるかの存在もしくは不在は、『Piece』という物語の、中核に置かれた謎として機能しており、まさしくピース(断片)のように散らばった彼女の本質は、探偵の役を買って出たヒロイン、水帆の視点によって総合される。これがすなわちアウトラインとなっているわけだが、そのさい、提供される数々のヒントを、水帆は、ある種の鏡としてのぞき込んでしまう。たとえば、円の恋愛観も、菅原の挫折も、宮本の親子像も、どれもフィクションのケースにおいては、ありふれたエピソードだろう。しかし、ありふれていることが同時に、そうもなりえたという可能性と、そうはなりえなかったという断念の、じつに卑近なエモーションを描き出す。大勢との交渉がはるかの実像を浮かび上がらせるのにつれ、水帆が〈もっともっと丁寧に今周りにいる人たちを大切にしよう〉と思うのは、そして〈…最近 私の中で「はるかさん」が少しずつ“色”を持ち始めてて…〉と思うのは、接し合う人びとに対しての、もはや接し合えない人に対しての、少なからぬ共感のなかに、自分の姿を見ているためである。もちろん、誰もがべつべつの性格を持っている以上、他の誰かを丸ごと理解することはできない。せいぜいがコミュニケーションの一端からイメージされる同調をあてにしているにすぎない。それを、深い隔たり、浅い繋がりととるか、つよい繋がりをもたらせるだけの糸口ととるかは、心の持ちようだといえる。ページをめくって最初のほう、信用、という言葉が、時と場合を違え、いくども繰り返される。言わずもがな、信用することと信用されることは、お互いに一方通行なのかもしれない。だが、そうした一方通行を、とりあえずは前に進もうとする微かな足音が、どこからか響いてくる。

 1巻について→こちら
 
・その他芦原妃名子に関する文章
 『月と湖』について→こちら
 『砂時計』
  10巻について→こちら
  8巻について→こちら
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2009年06月27日
 starman.jpg

 いやはや、天才っているところにはいるもんだな。あまりにもブリリアントなのに驚き、思わず、おいおい、これ、ほんとうに新人さんの作品かよ、と疑ってしまったのであったが、本格的なデビューの前にも第1回「ドラゴンカップ」(講談社『少年マガジンドラゴン』)等にエントリーされていたり、もしかしたら熱心なマンガ・ファンや一部の編集者からはすでに注目を集めていた可能性が高い。結果としては、集英社の第1回『金のティアラ大賞』の大賞を得ることによって登場してきたわけだが、受賞者に与えられる2年間の専属契約という項がなければ、他の出版社からのデビューだって十分にありえただろう。いずれにせよ、破格の新人とは、こういう作家のことをいう。片山あやかの『Star man(スターマン)』、1巻である。

 ユキコ(雪野由紀子)17歳、ユキオ(由紀夫)15歳。両親が共働き、出張も多く、留守になりがちな家で暮らす姉弟のもとへ、ある日、突然、小型の宇宙船が突っ込んでくる。惑星「ビーンズ」のマメオ(マ・メオ)と名乗る男は、宇宙船が直るまでのあいだ、自分を雪野家に置いて欲しいと言うが、当然、しっかり者のユキコは眉間に皺を寄せる。しかし、脳天気でお調子者のユキオは、とくに躊躇う様子もなく、マメオの提案を受け入れてしまうのであった。

 こうして幕を開ける奇妙な共同生活の風景を、『Star man』は、どたばたとしたコメディのなかに、ほんのすこしのリリシズムを加えながら、描いているのだけれども、あらかじめ述べたとおり、これがまたひじょうに冴え渡っている。なんて言えばいいのだろう。その作風は、きわめてオーセンティックであることと、どこかずれてユニークであること、そしてたいへん現代的であることの、トライアングルの、ちょうどど真ん中を、猛スピードでストライクしてゆく感じ、しいて喩えるなら、矢沢あいが楳図かずおと鈴木志保と東村アキコを参照しながら『ちびまる子ちゃん』を描いたつもりが『コジコジ』になってしまったふうとでもいおうか、とにかく、規格内で遊びつつ規定外のことをやっているような羽根ののばし方をしている。

 宇宙人のマメオって、要するに、デヴィッド・ボウイをモチーフにした伊達男だ。ラヴのニュアンスも多少はあるけど、ロマンティック・コメディの、あくまでもコメディとしての自由奔放さ、絵のセンスも構図もテンポもよく、ジャンルに偏らない楽しさを満たしているので、おそらくは今後、より大勢の支持者を掴まえていくことになるだろうね。とても好き。
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2009年06月26日
 スピリット【初回生産限定】<MUSIC盤>ジャケットA

 正直、V6についてはあまり熱心じゃないのだけれど、知り合いのshooter(Vinylism)くんが、7月にリリースされるComing Century(言うまでもなく、V6の年少チームによるグループ)のアルバムに楽曲を提供しているアーティストの顔ぶれがけっこう興味深いよ、と言っていたので気になっていたところ、このV6名義のシングル『スピリット』の、初回限定(MUSIC盤)に付属しているボーナスCDが、20th Century(言うまでもなく、V6の年長チームによるグループ)とComing Centuryにわかれ、2曲ずつを収録しているのだが、それらのナンバーもまた、へえ、と思わされるようなアーティストたちによってソング・ライティングされているのを知り、さっそくチェックしてみた次第である。しかし予想以上に、手応えがあった。とくにComing Centuryの2曲が、好ましい。そのうちの1曲「Desert Eagle」は、Spontaniaが手がけたラップ・ソングになっており、岡田くんと森田くんが、まあ用意された詞を指示のとおりやっているだけなのかもしれないが、あんがい器用に韻をおさえている。また、陰湿ないじめの風景を、急な速度、低いトーンでなぞらえる森田くんのパートから、三宅くんの、高い声でメロディアス、ゆったりとした調子のパートに入っていくところのコントラストは、けっこう、あざやか。アコースティック・ギターのループがリズムを刻み、いったんフェード・アウトし、ふたたびフェード・インする終盤、三人のリレーもなかなかで、最後の最後を、森田くんが、ばっちり、かっこうよく決めているじゃない。もう1曲の「Are you ready tonight?」は、スケボーキングのShigeoの手による。スケボーキングといえば、嵐の「a Day in Our Life」が思い出されるけれど、同じミクスチャーの路線でも、「Are you ready tonight?」の場合、もっとずっとエレクトロでダンサブルなテイストに仕上がっている。曲調も相まって、近年のスケボーキングに、かなり近しい。というか、岡田くんはともかく、森田くんと三宅くんが、ハイ・キー、ハイ・テンションで、イエー、と盛り上げるあたりは、そのままスケボーキングみたいであって、逆にもうちょい工夫が欲しかった気もするが、ポップな楽しさに溢れている。
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 ファンタジウム 4 (モーニングKC)

 今や立派な評価を得ているマンガなので、いちいち確認するまでもないのだが、それでもやはり杉本亜未の『ファンタジウム』には、感心させられることが多い。この4巻では、類い希なるスター性を買われた長見良少年が、大手芸能プロダクションと契約を結び、派手なプロモーションのなか、これまでになかったぐらいの大舞台を踏まんとする過程が描かれているのだけれども、おそらくは「ESCAPE ARTIST」と題された(次巻へと続く)エピソードのクライマックスにあたるのだろう、驚愕に相応しい脱出マジックの実現に向かって、一連なりのドラマが成立してゆく、物語の動いてゆく、そうした様子の脈々としたところに、ふっ、と掴まれ、引き込まれてしまう。鳥井金庫店の挿話や、もう一人の主人公とでもいうべき北條英明の勤務先であるソシオセキュリティのコネクションや、数々のタイミングが、まるで良のマジシャンとしての欲望に呼応するかのよう、一種の運命的な偶然をつくり出すあたりに、フィクションならではの心地好さが溢れている。一方、そのなりゆきが、うんうん、と頷けるだけの魅力を持っているのは、作中人物の言葉を借りるわけではないが、どんなすぐれたフィクションだって人間先にありき、という理が使えるのであれば、人間の面倒くさい関わりを、適度にデフォルメしながら、しかしピントのぼやけていない精確さで、射貫いているためであって、あんがい北條もそうだし、教師の山村やクロスプロのマネージャーである岩田徹子など、作中の人びとが、まったくの善人でもなければまったくの悪人でもないのはちょうど、良という光をさらに輝かすかのようなプリズムの、多面体の役割を思わせる。そしていくらかの波瀾万丈はまるで、周囲の尽力によって良に集まってくる注目が、はたして彼の一面を見ているにすぎないのかどうかを、試している。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2009年06月24日
 ごく私的な意見を述べるなら、安西信行の『MIXIM☆11』には、超常バトルに満ちた展開ではなく、学園ドラマふうの賑々しさを望む気持ちがおおきい。それは決して、自分が超常バトルよりも学園ドラマのほうを好む、というのではない。むしろ単純に、マンガの趣味をいうのであれば、超常バトルのほうに惹かれることが多いのであって、要は、作者次第、つまりこの場合、安西の適正は学園ドラマに向いているのではないか、と思うのである。そのようなことは過去にも書いた気がするし、じっさいじょじょに超常バトルのモードが増してきている『MIXIM☆11』に関しても、この4巻までを読むかぎり、異性との関係性や同性との関係性のなかに、男の子の、らしさ、を描く、こうしたテーマの、とくに熱く、一方でコミカルな部分は、序盤における学校規模の舞台でこそ、ひじょうに明確であったと感じられる。もちろん、その基本線は現在も変わってはおらず、強大な敵を登場させ、壱松、小梅、竹蔵たち、メインを担う登場人物と対決させることで、勇敢な男の子の像をあらわそうとしているのだろうけれど、いかにもなアイディアのスペクタクルが、芯のつよさを、すこしばかり、曖昧にしてしまう。できることなら女の子を泣かせたくない、傷つけたくない、守りたい。友人との結びつきはとても尊く、いつだって助けられるのと同じく、どんなときも助けになりたい。もしかしたら、このようなモチベーション以外の、プラス・アルファを盛り込みたいせいなのかもしれないが、しかしそれは必ずしも、最大のチャーム・ポイントを生かしていない。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2009年06月23日
 鹿賀ミツルの『ギャンブルッ!』は、この11巻で完結した。連載当初はてっきり、あらゆるギャンブルのまったく合法化された世界という設定を生かし、ロジカルでゲーム性の高いエンターテイメントをやっていくのかな、と予想されたのだけれども、結局、アンダーグラウンドの人間が生死を賭けて騙し合うような、こうしたジャンルの性質上とくに目新しさのない内容となってしまったのを、すこし残念に思う。まあ、基本的には少年マンガの作品だから、ある程度のわかりやすいダイナミズムが必要だったのかもしれず、各人の人間性を掘り下げたり、ドラマを盛り上げていくための、テコ入れに近しい措置であった可能性も考えられるが、決してうまくいってはいなかったかなあ。陰謀たくましいヤクザやマフィア、ギャング、殺し屋たちの、代理戦争としてギャンブルを存在させてしまうのは、むしろ、ステレオタイプ性を高めるだけであっただろう。物語の最後は、法律や倫理の上位で機能するギャンブルが、国家間の戦争すらも代替しうる可能性を示唆し、スケールをひろげるだけひろげて、終わっている。個人的には、こういう『少年サンデー』の系にしばしば見られる素朴な政治観が、すこし苦手である。わざわざ入れなければいいのに。そのことも含め、どうして設定自体を特殊にしておきながら、平凡な個人(もちろん、能力的には天才であってもいい)の単位で、ギャンブルを、そしてマンガを成立させられなかったのか、やはり、この一点が作品の限界と重なってしまっているふうに感じられもする。

 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら
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 〈オレらは群れなしてねえと何もできねえって世間からは言われるが…まったくその通りでな / 自分一人のチカラなんざ タカが知れてるって思ってるのさ / オレらにとってマシンやコブシは自分を表す言葉で…決して武器じゃあねえんだぜ! 武器はよ 仲間なんだ!!〉

 燃えるし、いいこと言ってんだけどな。そのセリフの熱さほどストーリーには熱くなれないというか。どうしてもつい、吉田聡の魅力はこんなもんじゃねえだろう、という気がしてしまう。

 一般的にヤンキー・マンガもしくは不良マンガと見なされるものの多くは、軍記物の現代版だと解釈することができるのだけれど、吉田のマンガの長所はむしろ、そういった潮流とは一線を画すところにあったと思う。しごく簡単に述べるなら、国盗り合戦の下位に青春が描かれているのではなくて、青春の像のなかにときおり国盗り合戦があらわれているのであって、構造上、必ずしも血で血を洗うような抗争劇を必要としていない。すなわちそれが、吉田の作品における、軽さ、あかるさとなっていた。

 だが、しかし、この『荒くれKNIGHT 黒い残響完結編』には、真っ正面から軍記物の結構に挑んでいるふうな気配を感じられる。もしかすれば、高橋ヒロシなどの後発が、軍記物のヴァリエーションでしかないことによって成功していることの逆影響なのかもしれないが、あきらかに『荒くれKNIGHT』の本編や『黒い残響編』とは、異なったテイストを発してる。血で血を洗うような抗争劇をベースに、きわめてシリアスなメッセージが組まれているのである。

 とはいえ、決して成功しているとは言い難い、というのが個人的な感想で、一つには、軍記物にとって必要不可欠な武将の、とくにそのカリズマが乏しいためで、もちろん、じつはそのことが『黒い残響完結編』のテーマなのであり、『荒くれKNIGHT』の本編を、ある種の歴史における表としたならば、この『黒い残響完結編』は、裏を、すなわち歴史の影にまわされてしまった人物たちの姿を拾い、彼らもまた一人一人が重要な役割を担っていた、と証言するかたちになっているのだけれども、そのとき、作中を生きる面々の個性と作品を成り立たせている軍記物のスタイルとが、うまくはまっていない、との印象を持たされてしまうのだ。

 『黒い残響完結編』が、軍記物の現代的なヴァリエーションであることは、あくまでも語り部の口を通じ、先達の武勲が後世に伝えられるという形式からもあきらかだろう。

 そう、この3巻で、ふいに挿入されているとおり、湘南のトップを走る輪蛇ではなく、あえて二番手に近い位置の虎武羅を選んだ若い世代、すなわち四代目リーダー候補と目される井脇が、先々代のリーダーであり、現在のチームの基盤をつくった大鳥大悟のレジェンドを、先代の一人、稲垣によって教えられる、そのような追想と継承の形式をとっているのである。まあそれがヤンキーの昔語り、おおげさな口承とどこがどう違うの、といった疑問を、とりあえずストーリーの読み応えはまだ、乗り越えられていっていない。

 1巻について→こちら
 1話目について→こちら

 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
  11巻について→こちら
  最終回について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『ジナス』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 
 『湘南グラフィティ』について→こちら
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2009年06月22日
 聖闘士星矢EPISODE・G 17 (チャンピオンREDコミックス)

 自分の運命が自分にしか変えられないっていうんなら自分で変えるしかねえんだ。当初の目的からすれば(雑誌連載型のマンガであるかぎり、それは必ずしも最終的な目的にはならない可能性もあるのだが)、とうとう佳境に入ってきた感のある『聖闘士星矢 EPISODE.G』だけれど、このところすこし、岡田芽武の絵柄が、柴田ヨクサルふうとでもいおうか、微妙なセンスを発揮しているのは気にかかるが、大げさなはったりによって描かれるメッセージは一貫している。つまり、神という観念の前には誰しも無力にならざるをえない、そう定められていることが絶望であるような場所からでも、人は可能性をひらいてゆけるし、希望をともしてゆける、という意欲のパフォーマンス化だ。たいていのスペクタクルがそうであると同様、根拠の厳密さよりも、傾けられたエネルギーの量が、作品の価値をなしているのであって、だからこそ主人公のアイオリアは、他の黄金聖闘士たちに比べ、思慮が浅く、独善的でなければならない。とりもなおさず、感情のままに突っ走るさまが、燃えるよね。激闘の果て、アイオリアの拳がついにヒュペリオンを砕く。互いを認め合いながらも、どちらかがどちらかを倒すよりなかった。アイオリアの胸中を悲しみが満たす。そのとき、まるで彼らの戦いを嘲笑うかのごとき不敵さで、海洋神のポントスは姿を現した。こうして17巻のストーリーは幕を開けるわけだが、ヒュペリオンの敗北すらも、計画通りにすぎないと宣うポントスに対し、〈二人の運命の間に入って邪魔をすンな!!!〉と怒りをぶつけるアイオリアの叫びが、やはり、『聖闘士星矢 EPISODE.G』の本領だろう。しかし、邪悪とはいえ、神は神、ポントスの存在は強大すぎる。そして、ああ、〈我は星座にも神話にも残されぬ神ではあるが / その身の奥に燃えるたった一つの小宇宙(コスモ)に――お前と戦えた事を誇りとして刻み――この炎を永久に灯すと誓おう〉という覚悟を、アイオリアに伝え、今まさに散らんとするヒュペリオンが、せつない。だがそれもまた、あらかじめ仕組まれたものでしかないのか。ヒュペリオンとの約束を守り、クロノスを保護したアイオリアの目の前で、カタストロフィの幕が開く。

 15巻について→こちら
 0巻について→こちら 
 14巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら 
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2009年06月19日
 萩原重化学工業連続殺人事件 (講談社ノベルス)

 うう。おお。ああ。はっ。息が詰まるほどの絶望が漏れる。あいかわらず、狂気の沙汰である。そしてこの、浦賀和宏の、カッティング・エッジなアプローチのみが唯一、もしかしたら小説の未来に通じているのではないかとさえ、大げさにも思わされる。松浦純菜(もしくは八木剛士)シリーズという、空前絶後の物語をなしとげてしまったあとだけに、しばらくは新作を期待できないだろうと予測していたのに、まさかこんなにもはやく、驚愕の一撃が届けられてしまうだなんて、にわかには信じられないよ。そう、つまりは『萩原重化学工業連続殺人事件』のことだ。

 しかしながらまず、今までの作品に比べ、ひじょうにまともな長篇のレベルで仕上がっていることに、驚かされる。まっとうにシリアスで、いたくエモーショナル、ともすれば感動的ですらあって、いやまあ、そう受け取れてしまうというのがすでに、この作者に毒されている証拠なのかもしれず、ネタを割りかねないのでくわしくは控えるけれども、こんなにも常軌を逸した事件は、人間には不可能としか推理できないとすれば、じじつ犯人は人間ではなかったとでもいうような、奇想天外さ、起承転結のぶっとんだ連携は、従来のとおり、浦賀和宏以外の何ものでもないのだが、ただしそれが丁寧にわかりやすくあらわされているふしはある。いくつかのトリックを、容易く見抜けるのも、そのためにほかならない。

 ファッションにも敏感で、美麗なルックスを持つ青年、有葉零は、セックス(性交)をする相手に事欠くことがなく、つねづね〈女を抱くのは、朝昼晩の食事をとるのと同じぐらい造作もないこと〉なので〈こんなに簡単なこともできない男達がこの世に存在する事実と、そして自分がいつか結婚し、たった一人の女を生涯抱き続けなければならないという現実〉が、まったく想像できなかった。しかし、祥子という不思議な雰囲気の少女に教えられてはじめて、首を絞めながらセックス(性交)することがあまりにも甘美なのを知ったはいいが、絶頂のあまり、知らずのうち、彼女を殺めてしまう。祥子は、自分のことを不死身だと言ったにもかかわらず、死んだ。当たり前だ。死なない人間なんているはずがない。だが、散々足掻いた挙げ句、いよいよ警察に自首するよりほかなくなった零の前から、忽然と祥子の死体は消えた。はたしてすべては夢幻だったのか。一方、零の双子の弟で、兄とは正反対に、醜い自分を呪って、いじけ、自室に引きこもる一(はじめ)は、隣家で家政婦として働く綾佳を、窓から覗き見、密かな想いを抱いていた。その彼女が、どうしてか零の留守中、一のもとを訪れ、「お兄さんは、最近、ある事件に遭ったの。それで――少しずつ壊れて始めている」と告げながら、意味深にも「あなたのお兄さん、いきなり消えたりすることない?」と尋ねてくるのだった。さらにちょうど同じ頃、巷では女性の頭部を切断し、なかから脳みそが持ち去られるという猟奇殺人が発生する。そしてそれはやがて、犯人の手がかりを警察が掴めぬまま、連続事件へと発展してゆく。

 こうした諸々におけるミステリの、意外な真相が、次第に明かされるわけだが、それはもちろん、凡百の作家であったならば、おそらく記すのをはばかるほどに、ありえない。ありえない、とはいえ、今日的なサブ・カルチャーの想像力においては、むしろ常識の範囲内に収まるので、ちゃんとした整合性が備わっているふうに感じられてしまうのが、じっさいには異様である。

 思春期的な思いなし、通俗的な独我論を汲み、脳内、主体の思考を一種の密室に見立てるのは、初期の頃より用いられてきた手法の一つではあるが、それがここではかなり洗練され、説得力のとても高い域に迫っている。加えて、世界そのものに対する懐疑も、思弁性と抽象度を落としているかわり、作中の設定に与えられた強度をあげる方向に生かすことで、たいへんたくましいカタルシスを述べるに至る。ヒロインたち(といっていいのかな)の造形に、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイのモチーフを指摘されるのも織り込み済みだろう。はたまた、神の陰謀に等しきゲームを前に無力な個人はどう対峙しうるか、そのようなテーマのエンターテイメント化を見つけることもでき、もしかすれば村上春樹の『1Q84』や伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』にも通じる社会認識の像を取り出せるが、当然、浦賀和宏のそれは、惨劇のぬめりをぴかぴかにコーティングしない。

・その他浦賀和宏に関する文章
 『生まれ来る子供たちのために』について→こちら
 『地球人類最後の事件』について→こちら
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら
 「三大欲求」について→こちら
 「リゲル」について→こちら
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 GOLD (KCデラックス)

 ケータイ小説『天使がくれたもの』のChacoと、『Deep Love』シリーズのコミカライズで知られる吉井ユウが、『みずたま』に続きタッグを組んだのが、この作品、『GOLD』であって、マンガ用の完全オリジナル・ストーリーを編むという新しいカードを切ってはいるが、しかしそれが、キャバクラ嬢を主人公にした通俗的なドラマであるのは、両者のキャリアもしくはイメージからするに、どうもはっとしないアイディアに思われてしまうし、せっかく女性のコンビでつくっているのに、男性作家のそれと内容的に大差がないのも、切り口としてはもったいない気がしてしまう。あるいは、こういうふうにしかサブ・カルチャーの表現は水商売をあらわせないのだろうか。派遣の仕事でかつかつの生活をつなぐ笑(えみ)は、貧しさを見かねた友人に誘われて、気が進まないながらもキャバクラの職に就き、スズと名乗ることになるのだった。色気がなく、その世界のルールもうまく飲み込めないスズは、当然、失敗を繰り返しては店に迷惑をかけるばかりなのだけれども、持ち前の前向きで明るい性格から、がんばり、じょじょに客の心を掴んでゆく。言わずもがな、枕営業がどうだとかの噂やら、金に非情な店長のプレッシャーやら、禁じられた職場恋愛やらもあるよ、といったところであって、取材の成果か、女性の視点か、部分部分にはきわどい現実性を立たせてはいるが、全体の結構は、ステレオ・タイプなドラマに収まっている。それにしてもよく出来ていないのが、作中人物のモチベーションである。それはまあ、こうしたジャンルの常ともいえる。たしかに、どのような職種に関わっているのであれ、じっさいに働いている人間の意欲なんて、この程度には矛盾しているのかもしれないにしても、説得力のプラスにはなっていない。クライマックスにさしかかって、店を辞めていこうとするナンバー1のキャバクラ嬢を、スズが引き止めるくだり、これ、要するに、お客さんに笑顔をもたらすことがいちばんのやり甲斐だと信じて疑ってはいけない、式のサービス業における倫理で話をまとめているのだが、きれいごとを述べるためだけに無理やり辻褄を合わせている(なのに、じつは合っていない)ふしがあり、ひじょうにもやもやとしたものが残る。

 『みずたま』について→こちら
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2009年06月18日
 L・DK 1 (講談社コミックスフレンド B)

 父親の転勤に連れられて、学校が変わってしまうのを嫌がったヒロインの葵は、反対を押し切り、一人暮らしをしながら高校へ通うのだが、二年生になったあるとき、アパートの隣室に引っ越してきたのが、親友の萌を素っ気なくふった同級生、柊聖であったため、敵愾心といっしょに要らぬ関心を抱くことになってしまう。そうしてさらに、トラブルもあって、同じ部屋に寝泊まりしなければならなくなったことから、波乱含みのラヴ・ストーリーが繰り広げられてゆく。というのが、渡辺あゆが描く『L・DK』(中黒の箇所はじっさいにはハートを示す)の1巻で見られる展開なのだけれども、当然、それはこの手のマンガにおけるお決まりのコースにほかならない。言うまでもなく、柊聖の存在は、サドっ気のあるクールなイケメンさんで、学校では王子様と呼ばれるほどの人気に設定されている。こうした概要を受けて、ああ、はいはい、で済ませてしまう向きはすくなくないかもしれないし、たしかに新鮮さはないのだが、しかし決して悪くはないのは、作中人物たちの、しょせん嬢ちゃんや坊ちゃんの駄々でしかないような振る舞いにおける一分の切実さが、恋愛の感情を契機とし、他人の気持ちを汲めるだけの関係性を導き出している点である。とくに萌が、柊聖に惹かれはじめている葵の自分に対する気遣いをわかり、あえて発破をかけるくだりは、いささかクリシェ的な表現でありながらも、彼女たちの友情を羨ましくさせるものがある。120ページの最後のコマ、まるで平静を装う萌の口元に、複雑な胸中をのぞかせているのが、見せ方として、いい。こうした表情の技術は、もちろん、じょじょに距離を縮める葵と柊聖のあいだにも生かされている。

・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キミがスキ』
  2巻について→こちら
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2009年06月17日
 同じマンションで隣同士、同い年、生まれたときから仲良く育ってきた幼馴染み、むろんその男女比は二対一の三者が、中学三年になり、要するに思春期の恋愛感情抜きではやっていけない頃を、春田ななの『スターダスト★ウィンク』は描いているわけだが、まあこうした概要は、少女マンガのジャンルにおいて、決して珍しいものではないし、すこしずれてはいるが率直なヒロインを真ん中にして、タイプの異なるイケメンさんが両ワキを固めるフォーメーションもまた、ありふれたものだろう。王子様たちといつも一緒にいるあの子はいったい何なのよ、ってやつである。が、しかし、きわめて現代的な『りぼん』の作風によってつくり出されるテンポは、あかるさを大事に、気持ちよく、作中人物たちの生き生きとした表情、やりとり、間のとり方が、とてもいい。そのようななか、少々まじな話を述べるのであれば、血縁がないにもかかわらず平衡を保ってきた共同体に、もしも恋愛の要素が不可避に持ち込まれたとしたならば、それは以前までの穏やかな関係性を破壊する可能性となりうるか、といったテーマが、ひじょうにわかりやすく顕在しているふうに思われるのは、たとえば主人公たちが、中学生という、世間一般的には、現在の家庭を出、新しい家庭を設けられるだけの力を、十分に備えていない年代に、もちろん読み手の層を意識して、設定されているためで、ヒロインである杏菜の鈍感は、自分を子供の立場にしておくことが、当然だという認識によっており、もっというなら、彼女にとって、幼馴染みである二人の少年、颯や日向との関係は、わざわざ恋愛に直す必要を持たない。すくなくとも、物語がスタートした段階においては、そのことが自然な環境に置かれている。この1巻では、杏菜と颯と日向の、行くべき場所(学校)はつねに一緒であり、帰るべき場所(マンション)もつねに一緒であることが、何度となく強調されるのだが、それはつまり、彼女たちが自覚的に進路を選ばずに済ませられている子供だからであって、結局のところ、所与の条件を見ているにすぎない。そこから恋愛の様子を通じ、すこしずつ、成長していく過程があらわされるに違いないのだけれども、おそらく、そのようにませる一方で、作者の意図や読み手の意識とは関係なしに、杏菜たちの物語は、あらかじめ与えられた共同体が、自身の気持ち一つで、不変とはならない事実に立ち合う。

 『チョコレートコスモス』
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
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2009年06月16日
 kat0615.jpg

 残念ながら「SIGNAL」を聴くことは叶わなかったが、しかし「YOU」をやってくれたのがうれしかったな。〈あなたのために生きていいかな〉という印象的な問いかけを、やわらかなビートに乗せ、伸びやかなメロディで彩ったナンバーは、「SIGNAL」がそうであるのと同様、KAT-TUNの、もしかしたらありえたかもしれないもう一つの方向性を、想像させる。結局、そのような清潔感のつよいシティ・ポップスの路線を採らず、バッド・ボーイズのイメージ(もしかすればオラオラ系ってやつだろう)をまっとうするのに適したハード・ロックを、グループのおもな持ち味にしてきたわけだが、それも現在は、一般のレベルに対する訴求力を見るに、やや頭打ちの感があり、今後の活動を模索していくうえで、違ったステップを踏むために必要なヴァリエーションとして残しておいてもいいことを、あらためて実感する。

 しかしまあ、どれだけのスペクタクルだろうが、同じ仕様のコンサートを何度も体験すれば、さすがに興奮も薄まるだろう、と思っていたのだけれど、いやいや、そんなことはなかった。イントロにうながされ、無数のジャニーズJr.が縦横に並ぶ巨大なセットが、どどーん、と登場するオープニングを目の当たりにしたとたん、圧倒され、ふたたび、めくるめくエンターテイメントの最中へと召喚されてしまうのだった。

 東京ドーム10日間公演、記念すべき最終日となった昨日(6月15日)のそれも、基本の構成は、5月のときとおおきく変わらないが、記録的なステージをこなしてきた余裕か貫禄か、ファン・サービスもしっかり、その様子は堂々としたところが増しているふうにも受け取れた。嫌がる中丸くんにバンジー・ジャンプをさせる余興がなくなったおかげだろう、へんに中だるみしてしまうことはなくなっていたし、たしかに個々が責任を持っているソロ・タイムの緊張に比べ、6人が揃ってのパフォーマンスは、あいかわらず、どこかルーズではあったものの、いやいやそれこそKAT-TUNという着地点が会場中に共有されているので、必ずしも悪手にはなっていない。とはいえ、もしも無謬の完成度でこれをやり遂げたとすればどうなってしまうのか、あともう一歩先が知りたくなってしまう。

 バンジー・ジャンプのかわり、中丸くんによるヒューマン・ビート・ボックスのコーナーが設けられたわけだが、そうそう、これがよかった。中丸くんの素養、ひいてはグループの音楽的な資質の生かし方としては、まったく正しい。たとえば、最初に述べたことと重なるのだけれども、赤西くんのソロ・ナンバーである「WONDER」のような洋楽指向の楽曲に、田中くんのラップも含め、こういう部分が合わさっていったとしたら、驚くべき新展開もあるのではないか、と待望させる。いずれにせよ、バンジー・ジャンプがよっぽど耐えがたかったんだろうね、MCの調子からして中丸くんがたいへんリラックスしているのが如実に伝わってきたのは、ショウの全体においても確実にプラスだったんじゃないかな。

 過去にも述べたとおり、クライマックスに選びたいポイントはけっこうあるのだが、サポートに従えたA.B.C-Zの「Vanilla」とKis-My-Ft2の「FIRE BEAT」を挟んで、過去の映像を流しながら、デビュー曲の「Real Face」に入っていくくだりも、あんがい、好き。後輩であるKis-My-Ft2が激しいギターに合わせて〈壁を蹴飛ばすんだ / 夢を引きずりだせ / いますぐ手に入れるんだ〉とうたう「FIRE BEAT」は、あきらかに「Real Face」における〈ギリギリでいつも生きていたいから / ここを今 / 飛び出して行こうぜ / このナミダ・ナゲキ→未来へのステップ / さぁ / 思いっきりブチ破ろう〉という躍動のなかに迸る若気と通じるものがある。そういえば、「Real Face」の、JOKER(田中くん)のラップ・パート、前半はこのあいだと同じく亀梨くんへのパスだったので、じゃあ後半はやっぱり田口くんに振るのかい、と油断していたら、違った。マイクを向けられたのは、中丸くんである。だが、まさかのアドリブだったのかしら、当の中丸くんもまるで驚いた様子であって、あたふたトチってしまったのも、らしい、といえば、らしい、のだろう。

 じっさい、そういうファニーなモードのまま、亀梨くんが担当したという日替わりのセット・リストに入っていき、「I LIKE IT」や「離さないで愛」など、初期の楽曲が次々披露されはじめると、前半のシリアスな雰囲気とは異なる賑やかさに、会場中がはしゃぐ。途中で、亀梨くんがテレビ・カメラを肩に担ぎ、他のメンバーの、どアップな表情をバックのスクリーンに映し出すたび、声援はすさまじく、盛り上がるばかり。後半のステージに十分な勢いをつけた。

 本編のラストをバラードで送る「NEIRO」の、深々とした余韻のあと、アンコールも等しく、アップ・テンポなナンバーが続くなか、オーディエンスとの垣根をなるたけ崩してゆくような振る舞いが、客席を煽った。赤西くんなんて、わあわあ沸くアリーナのど真ん中をショート・カットして歩きながら、ファンにタッチしたりされたりしてたもんな。あれは羨ましい。赤西くんが目の前にきたら、そりゃあ嬉しいだろうよ。やばい。自分だったら眩暈してしまうかもしれない。かくして熱狂は渦巻き、我らがアンセム「ハルカナ約束」と、さらには〈頑張ってる君の目が / 世界中に輝いて / 未来さえ変えてゆく / 今ここで〉という励ましが、高らかなコーラスとなって響き渡り、掲げられる「Will be All Right」で、すべてのショウの幕は閉じられたわけだが、結論をいうなら、うん、とても楽しかった、の一言に尽きる。

 だからまたいつかいっしょに、終わりのない日々を経て、ささやかな、名もない遙かな約束を刻める日を待ちましょう。

 5月22日の公演について→こちら
 5月18日の公演について→こちら

 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2009年06月14日
 好きです、草食男子。 (講談社コミックスフレンド B)

 そういえば、すこし前に古谷実が『ヤングマガジン』の柱と巻末のコメントでしつこく鳥飼茜の出産を報告していたが、あれはいったいなんだったんだろうか。いずれにせよ、鳥飼の資質の異質さをうかがわせるエピソードであって、現時点ではここでしか読むことができない(らしい)短篇の読み切り「家出娘」(初出は『別フレ2008』5月号)からは、古谷実や山崎さやかにも通じる内面の抽象性と現実の残酷な一面を、ジョージ朝倉以降とでもいうべき少女マンガ的なリリシズムを参考にし、すくいとっているかのようなニュアンスが感じられ、もちろんそうした手つき自体が物珍しいし、じっさいに作品は独特な雰囲気をおびている。いやはや、もしかすれば傑作であるかもしれない。ストーリーというよりもある種の叙情を読ませるマンガである。一個の物語をつくるためには、十を描かなければならないところを、その半分ぐらいにとどめ、余白のなか、見えていない部分に切々とした情緒を浮かび上がらせる。雪の降る国道沿いのバス停に、同級生の男女を偶々居合わさせただけで、こんなにも深い余韻があらわせることに、おどろく。この『好きです、草食男子。』というアンソロジーには、鳥飼のほかにも、ヒナチなおや春木さき、B型、安理由香、克間彩人といった作家が参加していて、正直、表題のカテゴリーでくくるのが無理やりな(要は、奇人タイプのイケメンさんを題材化している)ラヴ・ストーリーが並んでおり(ヒナチの「ファンタスティック コンタクト」は『机上のrubber』にも入っていたな)、それなりキュートな作品が揃ってはいるのだが、なかでもとくに「家出娘」は、異色、出色であった。

 鳥飼茜
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 ヒナチなお
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2009年06月13日
 畑亜希美の『ベイビー☆キスをどうぞ』はこの2巻で完結、前シリーズである『ベイビー☆お手をどうぞ』と合わせて全3巻の内容でまとまっている。終盤、シリアスな展開になるにはなったものの、それすらも愉快な調子のまま走り抜けているのが、とてもよかった。楽しかった。新人ネイリストのそのみと彼女が勤めるサロンのオーナーである心二の、でこぼこ、騒々しいやりとりは、ちょうどマゾっ気抜群のどじなヒロインとサドっ気抜群でやり手なイケメンさんが、諍い、乳繰り合うような、つまりあの手この手のラヴ・ストーリーの、極度にユーモラスなヴァージョンとなっており、そこがとてもチャーミングで、とにかくまあ、ふつうなら暗くなりそうな話題も、テンションを落とさずにずうっと、ヒモパン、ヒモパン、って言い続けたのは見事である。クライマックスで、そのみに対し、恋愛をとるか夢をとるか、の選択と決断が迫られるのだけれども、もちろんそれ自体が、お約束とでもいうべき定型的なパターンであって、もしかしたら一種の現実性を汲んでいるため、深刻度の高いドラマになりうるのかもしれないが、うだうだいじけてしまいがちな話の筋も、持ち前の明るさで吹き飛ばしている。あまりのハッピー・エンドぶりに、都合がいい、という意見もあるだろうけれど、いやいや、一挙両得をものにしたそのみのガッツが、すばらしいんじゃないか。このマンガにはそれぐらいの勢いがあってもよい。だいいち、そのみのモチベーションが、心二の評価によって成り立っていた事実を考えるなら、両想いの成就が、彼女の器量をよりよくしているのは必然であり、それが大団円をもたらしているのであれば、物語上の辻褄は合っているし、ラストのエピソードにおいて、メインの視点、モノローグの持ち主が、いったん心二にスイッチし、そのみのがんばりは、読み手からは見えないようになってしまう、こうした手法を生かし、感動的な一コマの前にさえ、ギャグを盛り込んでくるところに、『ベイビー☆キスをどうぞ』という作品の本領はあるのだと思う。

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 『ベイビー☆お手をどうぞ』について→こちら
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2009年06月12日
 枯骨の恋 (幽BOOKS)

 岡部えつの『枯骨の恋』は、作者のことをよく知らぬままに小説を読んでいって、あ、これは当たり、もしかしたら大当たりなんじゃないか、と思えるぐらいの魅力をなしている短篇集だった。全部で七つの作品が入っている。表題の「枯骨の恋」が、第3回『幽』怪談文学賞短編部門の大賞受賞作であるとおり、基本的に、おっかない話が並んでいるわけだが、いやはや、何がおっかないかといえば、現象として題材にされている怪異の数々というより、その根に刻まれている人間の、孤独の、たいへん芯の太い描写に説得されてしまうことが、であって、ほとんどどれもが、三十歳から四十歳にかけての独身で働く女性を主人公とし、今日的な様相のなか、世間的な幸福からは距離のあいた現状を送る彼女たちが、決して手に入れられなかったものを望み、ひどく飢えているかのような感情を持て余しているうちについ、日常から半歩ほど足をずらしたところへ踏み込んでしまう姿を、不吉なほどに生々しくあらわしているのだけれども、そうした断片の一つ一つが必ずしも他人事とはかぎらないことに、心証は引きずられてしまうのである。死した恋人の怨念を慰みにしながら加齢してゆく女性の欲望を捉まえた「枯骨の恋」は、もちろん白眉で、続く「親指地蔵」も、かるく眩暈を覚えるぐらい、すさまじい。外聞上、親友同士のつもりであった三人の女性から一人が欠けたとき、見せかけのバランスによって隠されていた抑圧、嫉妬、蔑視の残酷が曝露される。これを、女の友情はこわい、と通俗化してしまうことは可能だし、フリーランスでライターをしている主人公の、貧困と隣り合わせである生活を通じて、現代の病巣を覗いてしまうことも可能だろう。だがやはり、もっともおそろしいのは、若さでは選び直せない段階にまで人生を進んでしまった作中人物たちの孤独が、真に迫り、悔恨や焦燥ではどうにもならない無力なありようが、容赦なく突きつけられてくることにほかならない。そこで苦々しさに満ちた触感は、「翼をください」や「GMS」などといった他の篇にも通じている。はたまた、「親指地蔵」において、女の友情はこわい、と通俗化できるそれは、卑近な関係性の力学はつねに弱者を欲している、このことの喩えだと言い換えられる。アニミズムを媒介に、長篇への萌芽を見つけられる「アブレバチ」では、加害者と被害者の対が、まったく社会化された場所や理由でのみ起こるのではない、せこくて狭い利己の問題でしかないことが、まるで訴えられているみたいだ。そしてそれを訴えるためには、多くを犠牲にしなければならないにもかかわらず、もしかすれば誰からも賛同を得られないかもしれないことに耐えきれないのが、いちばん、おっかない、のだと皆が知っているので、想像は哀しみを生み続ける。
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2009年06月11日
 群像 2009年 07月号 [雑誌]

 『群像』7月号掲載。松本智子の『法螺ハウス』は、最初、ああ、エモ時代の若い女性作家らしく、働く女性の無味な憂鬱を情緒化した小説なのかな、と思い、読み進めるうち、いや、ちょっと待てよ、という気になりかけもしたけれど、最後までいって結局、はじめに持ったのとそう遠くは離れていない感想へと、落ち着いた。平易な日常のなかで、主人公は、労働や家族について、溜め息を吐き、吐かれた溜め息の、他愛もなさと重たさのバランスをとったイメージが、作品の輪郭をつくりあげているのである。特殊な点を述べるとするなら、東京で一人暮らしをする今の様子に対し、こういう《二重山括弧》のかたちで、幼少期の体験が、そしてそれはおそらく、阪神淡路大震災時における当事者のスケッチが、呼び出され、挿入されていることだろう。そこで喚起されているのは、正しく寄る辺のない不安だが、同時に家族の原風景みたいなものとしてありうるのであって、災害から娘の立場を通じ、父親の存在感が強調されてゆき、その強調の一本柱を、成人女性の立場で見た煩わしさにより、横倒しにすることで、過去と現在とのあいだに、橋渡しがされている。《二重山括弧》の箇所をひろげていったなら、もしかすれば立派な災害小説になったかもしれない。が、しかし、そうしなかったところに、たぶん、作品の意図はあるに違いないのだけれども、あらかじめいったとおり、浮かび上がってくるのは、あくまでも微温な心象にほかならない。
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2009年06月10日
 要は、皆がだいすきなガンダムのシリーズに喩えるなら、『ポケットの中の戦争』や『第08MS小隊』の、さらにマンガ化みたいなもんだ。内藤ケンイチロウの『クローズZERO』は、高橋ヒロシのオリジナルはもとより、原作の映画を観たときがある向きにも観たときがない向きにも、おそらくはその魅力をよく伝えてくる、という意味で、十分なコミカライズを果たしていると思う。作中人物が派手に動いて回る映像ほどにはスペクタクルがないかわり、急展開の連続からは抜け落ちてしまう関係性の描写に手間をかけていることが、功を奏しており、この3巻では、映画版において設定の提示のみでほぼやりくりしていた源治と時生の、友情の念が、どのようにして結ばれ分かたれたのか、中学時代を振り返るかたちで、あらわされている。源治の独特な髪型が、じつは時生の考案で、今もずっと同じスタイルをキープしているというのは、さりげなく、ちょっといい。まあ、ストーリーとしては、ヤクザの坊ちゃんと金持ちの坊ちゃんが、それぞれ学校からは浮いた存在であることを共通項とし、打ち解け合ってゆく、式のありがちなパターンではあるが、これがあるとないとでは後々、鈴蘭高校のトップをめぐって激突することになる源治と多摩雄のあいだの、ライヴァル的な対照における説得力にも、違いが出てくる。源治と多摩雄は、本質的に(あるいは逆に表層的になのかもしれないが)異なるカリズマを有しているので、互いに勢力を拡大、学校の大体を二分することになるのだけれども、映画版では、後者の振る舞いにはトップに相応しい人間性の豊かさがちゃんと託されていたのに対して、前者のいったいどこがケンカのつよさ以外に秀でているのか、あまり丁寧ではなかった。だが、孤独もしくは孤高であるがゆえの弱みを持つ者が、同じく孤独もしくは孤高な立場に置かれた者を惹きつけうることを、マンガ版の内容は、補完している。言うまでもなく、牧瀬や伊崎という反主流派の人間が、源治につくのもこのためである。

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2009年06月09日
 売れているマンガというのは正しい、何はさておき正しい、すくなくとも大勢の読み手から支持されるだけの正しさを必ずや持っている、が、しかし、もちろん、誰しもがその正しさに従う必要なないのだし、その正しさに疑いを抱くこともありうる。つねづね、品川ヒロシ(品川祐)の同名小説を、鈴木大(鈴木ダイ)がコミカライズした、要するにマンガ版の『ドロップ』には、あやしいものを感じており、たとえばそれは、何百万部も出ているらしい発行部数に、しばしば小説の売り上げが混ざっていたり、混ぜていることを曖昧に明記しているようなカウントの仕方が、まずうさんくさいのであって、じっさいに内容のほうも、どうしてこれがそんなに高く買われているのか、納得のいかないところが多い。率直にいって、高橋ヒロシのフォロワーもしくはエピゴーネン以上の価値は、いっさいないだろう。まあ、当の高橋自身がキャラクター・デザインとしてクレジットされているので、当然といえば当然なのかもしれないけれど、いやいや、だからといって志が低すぎやしないかい、と関係者各位に問うてみてくもなるのだった。いちおう、マンガ版にはマンガ版ならではの、原作とは異なる展開が設けられていて、この7巻のストーリーにおいて、それはとくに顕著となっているのだが、マサトという、あたかも自意識の壊れてしまったかのよう人間の扱いが、現代的なヤンキー・マンガにおいて、あまりにもステレオ・タイプであること、つまり、生まれや育ちの不幸に対するクローズ・アップでしかないので、たいへんがっかりさせられる。たしかに、テーマのレベルで見るなら深刻な問題であり、この手の、世間一般からは逸れねば生きられなかった不良を題材化したジャンルこそが、真剣に向き合い、付き合い、何らかの応答をあらわさなければならない部分も、ある、には、ある。じじつ、山本隆一郎や小沢としおなどは、これを迎え撃ち、見事な成果をあげている。だが、このマンガの、あくまでも現時点からは、ほらほら、やばいでしょう、ちゃんと流行色も押さえてるでしょう、ショッキングでしょう、シリアスでしょう、といった手つきしか感じられないのが、痛い。それにしても鈴木ダイ(鈴木大)、『ヤングチャンピオン』で連載をはじめた『春道』もそうだけど、ほんとうに駄目になっちゃったんかな。かつて『BANG2』や『MASTER GUN MASTER』に燃えたファンの身としては、とてもつらいし、寂しい。

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2009年06月08日
 なにわ友あれ 8 (ヤングマガジンコミックス)

 いつの時代であれ、童貞のマインドをこじらせたら手に負えないのはいっしょ、不良だろうが坊っちゃんだろうがオタクだろうがヤンキーだろうが大差なく、そのまま性根を腐らせてしまえば、変態か畜生に成り下がるしかない運命かい。90年代に環状族と呼ばれた大阪の走り屋を描いているのが、南勝久の『なにわ友あれ』だが、そのモチーフ上、男性の行動原理がテーマの位置を占めており、たとえば、自動車というアイテムから離れても、男性性の横暴が女性という主体を苦しめることがありうる危うさを、ベンキみたいなクソ野郎の存在を通じ、おそらく、作者は自覚的にあらわしてきているわけだが、この8巻では、準主人公(もしくは主人公)であるテツヤの恋人、ナツに密かな感心を抱くパンダがやっちゃった。いや、正確には、やっちゃいそうになっちゃった、か。テツヤを自分の部屋に住まわせているパンダは、改造モデルガンのダメージを股間に受け、まるでインポテンツのようになってしまっていた。しかし、ナツに対していやらしい想像をしているときだけは立派に欲情することができるのだった。テツヤが不在の夜、アパートでナツと二人きりになったパンダは、あろうことか、背後から彼女を押し倒してしまう。まあ、結果的には未遂に終わったとはいえ、このくだりはほんとうに最低だよね。パンダの個性を、半ばシンナーでラリっている点も含め、特殊化することで、いちおうギャグとして受け取れなくはないのだけれども、もてない人間にありがちな我執に還元するのであれば、過剰な妄念のありようは決して例外的なものではないだろう。言い換えるなら、一般化してしまうことも可能なのである。馬鹿が、強姦の力関係で女性を組み敷いたところで、何の解決にもならないのに、そのような事件や動機が世間からまったくなくなることはねえんだ。いずれにせよ最悪だよな、パンダ。一方、グッさんのスパーキーに入り、鍛えられるテツヤは、トリーズンの初代会長、ヒロが所有しているワンダー・シビックをめぐって、トリーズンの新進気鋭であるバクとの対面を果たす。テツヤを自分の愛車の運転席に座らせ、力量をはかってやろうとするバクは、走りから感じられてくる意外なセンスに驚かされるのだった。いっけん生意気だが冷静なバクもそうだし、パンダみたいな駄目人間や、この巻でスパーキーに入ってくるケンカ屋のカワチンなど、それぞれべつの性格をもって青春を生きる同世代たちと、テツヤの対角線下に照射されているのは、やはり、すべて、男性の行動原理にほかならない。それが、90年の〈当時 大阪では様々なスタイルの環状チームが――‥‥生まれては消えた――台数と人数増強を目指し ステッカーをくばりまくるチームもあれば――ステッカーの売り上げで金儲けに走るチーム――ケンカや根性でメンバーを人選するチーム――そして環状で走りをテストするチームなどは――‥‥テストの段階で大事故を起こし――‥‥ケガ人や廃車になる者たちもいた‥‥名を上げたチームのステッカーは当時の若者にとって――ブランドと化した――〉という背景の、軍記もののアレンジともとれる物語へと集約されているのだが、ディテールの描写をべつとするなら、作品の性質から必然的に要請される男性性の美化に対し、どこまでの批評と抵抗を加えながらマンガを成立させられるかが、たぶん、『なにわ友あれ』の、最大の課題であって、テーマの重要な行く末を担っている。ところで、表紙カヴァーの折り返しに、ついに作者の近影が登場したのであったが、なんだよ、作品のイメージどおり、ちょっとおっかねえ面構えじゃないか。

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