ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年05月31日
 ポケットの中のレワニワ(上) ポケットの中のレワニワ(下)

 伊井直行の小説にはいつも不思議な魅力がある、というのが個人的な感想で、それはもちろん、この、上下巻のかたちでありながら、例の講談社創業100周年記念出版である「書き下ろし100冊」のレパートリーに加わっている『ポケットの中のレワニワ』についても同じであって、やはり、現代的な日常から、ほんのすこし、足を浮かせたままの姿勢で前へ前へ進んでいたと思ったら、いきおい、宙返りしたのち、現代的な日常の、実感のまったくのさなかに着地している、こうした物語のあり方に、ああ、伊井直行だな、と納得させられるし、不思議な魅力を覚えるのだった。

 だいいち、題に置かれているレワニワとは何か、その言葉の響き自体が、作品の奇妙な輪郭を暗示しているみたいだ。ネタを割らない程度で、おおざっぱに述べるなら、レワニワというのは、要するに、他愛もない嘘のことである。くだらなくて、ささやかな、と言い換えてもよい。しかし、その、くだらなさ、ささやかさ、他愛もなさが、主人公の安賀多青年を含め、作中人物たちが生きている深刻な現実、現在のなかで、切々とした機能を果たしてゆく。

 語り手である〈俺〉、安賀多は、小学校の頃、貧しい団地で、日本に移住してきた外国人たちを近隣に持ちながら、暮らした。クラスメイトに日本人以外の子供がいるのも珍しくはなかった。しかしその後、父親の仕事の都合で転校してゆくことになり、中学では散々いじめられ、落ちこぼれ、不良でもないのにろくな高校には行けず、大学に入ったはいいが、卒業後に就職することができなかったため、派遣社員として働いている。小学校のときの同級生だったティアン(ベトナム人とのハーフである町村桂子)とは、今の勤め先であるPC電源メーカーのコールセンターで再会した。彼女には惹かれるものがあった。とはいえ、ちっともロマンティックな調子じゃないのは、底辺と喩えられるような生活が続くなか、〈俺〉は自分に期待することも将来に希望を持つことも諦めかけていたからだろう。そんなおり、仕事上の付き合いで、小学生時代を過ごした土地を訪れたティアンに、何か、不吉な影が付きまとうようになる。

 こうした物語の背景には、今ふうの言葉でいうならば、格差の問題や人口の高齢化、思想の幼稚化、グローバリゼーションと、それに応答するローカリズムの島宇宙化、家族の困難など、まさしく現代的なものを見つけられる一方、安賀多の義理の弟で、2ちゃんねるでコテハンをやっている引きこもり、充(コヒビト)を筆頭とし、どうやら宗教団体と繋がりがあるらしく、あやしげなところもあるかつての同級生のハン(泉)、頼れる性格の上司で、ティアンに精神的な片想いをしている徳永さん等々、ちょっとクセのある連中が、それぞれにそれなりの不幸と苦悩を抱えながら、さまざまに関わってくるのだけれども、無駄にとっ散らかっているわけではないし、全体のトーンがやたらに暗かったり重たかったりするわけでもない。いや、むしろ、ある種の屈託を、これ以上シリアスにしたならば、とたんに嘘くさくなってしまう、誰も現実の世界では生きられないことになってしまう、といったラインで収め、まとめ、丸く、愛嬌のある仕草で描写しているのである。

 先に、ロマンティックな調子じゃない、と述べたが、それでも基本的には、安賀多青年とティアンのラヴ・ストーリーなのだと思う。ぜんぜん立派になれないまま、この世界に正確な居場所を持てないまま、社会を臨まなければならなかった二人が、いくらかの危険と少々のファンタジーを孕んだ冒険を経たあと、ともに差し出した答えの、他愛もなくて尊く、明るいことが、それを教えている。

・その他伊井直行に関する文章
 「心なき者、恋するべからず」について→こちら
 『愛と癒しと殺人に欠けた小説集』について→こちら
 「ヒーローの死」について→こちら
 『青猫家族輾転録』について→こちら 
 「ヌード・マン・ウォーキング」について→こちら
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2009年05月29日
 かつて、武論尊が平松伸二と組んだ『ドーベルマン刑事』は、初期の頃こそ、殺伐としたヴァイオレンスのなかに、半ば行きすぎであるぐらい鬼畜米英かつ護憲的な精神を盛り込み、この国がいかにあるべきかを、ハイパー・アクロバティックに活劇化していたが、女性の登場人物が賑やかになるのにつれ、ユーモラスな描写が増えていき、まるで加納が骨抜きにも見えるふうになっていったのは、まあ、いよいよ80年代が訪れようとする、そういう時代の要請とでもいうべき点を汲んでいたのだろう。それから約30年後、武論尊が、初期の加納をどこか思わせる非情な主人公、斐藤完爾の活躍を、上條淳士に託したのが、この『DOG LAW』というマンガである。タイトルに付せられた犬のイメージ、そして斐藤がバイクにまたがり、疾走し、大型の拳銃を容赦なくぶっ放すのは、たぶん、原作者の側にも『ドーベルマン刑事』に対する意識があってのことだと思わせる。警察の機能は衰え、テロが横行、右傾も左傾も甚だしく、若者はギャングに走り、カルト教団、外国人のマフィアが跋扈、ほとんど無秩序状態と化した日本、通称「D・O・G」と呼ばれる超法組織のメンバーたちは、もはや既存の正義ではくだせなくなってしまった悪を、ただ死によって裁いてゆくのみであった。『北斗の拳』のような核戦争は起こらかったにもかかわらず、なし崩し的に暴力のひろまった世界の近未来性は、武論尊の作品でいうなら、池上遼一とのタッグである『HEAT』を彷彿とさせる。すでに述べたとおり、そこに『ドーベルマン刑事』の加納の直系であるような、しかし加納ほどには法律を信じてはいない主人公が配せられている。これを上條淳士が描くというのは、いっけんミスマッチな気もするが、『8(エイト)』のあとに続く作品だと考えるなら、あながち的を外してもいない。ただし、幸福な化学反応は生まれなかったのか、全体のタッチはやや精彩を欠いている。

・その他武論尊に関する文章
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他上條淳士に関する文章
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2009年05月28日
 たとえばこの5巻のクライマックス、ままならぬ感情の勢いに胸を痛めるヒロインの〈何を? どこから? いつから? あたしたちはいつも まちがってばかりだ〉という、こうした言葉のありようはあまりにもナイーヴすぎる、けれども、そこがいいんじゃないか、藤原よしこの『恋したがりのブルー』の良いところなんじゃないか、と思う。

 しかし、それにしても『恋したがりのブルー』は、ひじょうに要約のし難いマンガだといえる。いやいや、ストーリーそのものはとてもシンプルであって、つまり、各々恋愛状態にある四人の男女、高校生たちが、時系列にそって、付いたり離れたりをやっているにすぎないのだが、それではまったく作品の特徴を押さえられていない。

 見られるべきは、やはり、こういう半径の狭い世界にアプローチした少女マンガには珍しく、他人の足を引っ張ってやろう、出し抜いてやろう、自分が幸福になることのみを第一義とし、腹に一物を持っているような人物が採用されていない、その人物の登場やアクションによって、物語が動かされてはいないことであろう。もちろん、最初は悪人だった子が、改心して良い子になる、性根は良い子だった、というのではない。そうした転向の様子を通じ、エモーションを描写、ドラマをつくり、転がしてゆく手法自体が、あらかじめ選ばれていないのだ。

 蒼、陸、海、清乃の、四人の作中人物は、ただ、かつて好きだった相手を想い遣り、現在の恋人を想い、そして友人の気持ちを想う、誰も等しく傷つけたくないと願っていたはずのことが、なぜかしら、お互いを傷つけ合うかっこうになってしまう、このような逆さまに対して、たっぷり引き込まれるものがあるのは、ある種のデフォルメがきいた作風のなかに、作者の綿密な手つきが説得力を生んでいるためなのだが、ではその説得力はどこに由来しているかといえば、恋愛という誰しもに身近なテーマを媒体として、欲望を抑圧された主体同士のコミュニケーションを、ありありと描写しているところからやって来ている。おそらく、世間一般的には、ルックスもよく、優等生タイプの、清乃が陸に惹かれ、海が蒼に惹かれる、これの説明は、双方の前者の目には後者が抑圧よりも自由に映っていることに求められる。だが、じつは後者ですらも決して自由ではいられない。

 このことは、5巻において、とくに印象的な場面、ヒロインである蒼と彼女に惹かれながらも無力にならざるをえない陸の、まずは84ページ目のあたりのやりとり、そして138ページ目のあたりのやりとりに、顕著である。

 たとえどれだけのささやかさであったとしても、たったほんのすこしであってさえも、いったん本心を口に出してしまったなら、何もかもがすべてぶち壊しになってしまう、なりうる可能性がある。そのことの躊躇いが、言葉を足りなくさせる。他人にやさしくありたいとする気持ちが、翻って、他人を傷つけてしまう。さらには自分自身をも傷つけることになってしまっている。

 どうしてこうも、感情の勢いだけが、ままならないのか。禁じきれないのか。過剰な事件性がそうするのではなく、思春期の日常、純粋さに忍び込んだ幾重もの疑問形が、こんがらかり、呼び水となって、喜怒哀楽を押し流す。こうした状景化の内に、『恋したがりのブルー』の、藍出でられた青さ、魅力はあらわれている。

 4巻について→こちら 
 1巻について→こちら
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2009年05月27日
 やまもり三香『シュガーズ』の1巻を読みながら、思い浮かべたのは、たとえば、いくえみ綾、海野つなみ、ジョージ朝倉といったオムニバスの名手とでもいうべきマンガ家たちであった。じっさい、直接的にか間接的にかはともかく、多少なりの影響はあるに違いないが、ここで誤解を避けておきたいのは、それはあくまでも作風のイメージを指しているにすぎないのであって、決して今しがた挙げたようなマンガ家の作品群に匹敵しているという意味ではない。とある高校を舞台に、登場人物たちが入れ替わり、いくつかの恋愛模様を描く内容は、正しく連作ふうの趣を持っているのだけれども、そのほとんどが一対一の目線を交じらせることによって充足し、内向きのベクトルしか帯びていないため、きわめて単層的、いや、たしかにピュアラブルなラヴ・ストーリーとしての完成度は高いが、それ以上にはなっていかない、つまり、群像劇としての構成要素は薄く、青春グラフィティとしての奥行きには欠けるのである。もちろんそのあたりの、要するに物語性の総和であるよりも個々の設定(いわゆるキャラクター等々)を前面化しているつくりは、作者の指向を忠実に再現しているのかもしれず、読み手の好みにおいて判断がわかれるところであろう。しかし、やはり、一話目(SWEET[1])や四話目(SWEET[4])のような、三者以上の目線を背景に感じさせ、ストーリー自体に膨らみが出ている篇のほうが、ぎこちなさはあるものの、他に比べて、印象が濃い。
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2009年05月26日
 ああもう、ちくしょう、おもしれえな。1巻の時点で、かなりのファニーが満載されており、とてもとても油断ならなかった佐藤ざくりの『おバカちゃん、恋語りき』であるけれど、その印象は2巻になろうがちっとも変わらない。急展開に次ぐ急展開、そして、どうしようもないギャグ、概要はいっけんトリッキーであるのに、一周して、じつにオーソドックスな少女ラブコメにも思われてしまう内容は、つまり、たいへんおもしろい、という感想に尽きる。しかしそれにしても、こういうストーリーの運びになるかい。関西ではケンカ最強の女として知られ、恋愛とは無縁の青春を過ごさなければならなかったため、素性を隠し、関東の高校へ編入してきたヒロインの園田音色だったが、せっかくの猫かぶりもすぐに露見、問題児ばかりを集めた「特殊科」通称「バ科」に加えられてしまう。結局、かつてと同じく、もてない日々を送る羽目になるところだったのだけれども、特進科の相澤深に向けた一目惚れが、まさか叶い、念願のラヴ・カップルを成就させる。一方、「特殊科」のクラスメイトで、深とも浅からぬ因縁を持つ不良の栄山トキオも、じつは音色に好意を寄せていて、彼女彼らの高校生活は、波乱含み、賑やかさを増してゆく。それがまったくコメディのようにあらわされているのだが、ここでは、どうして深が音色と付き合うつもりになったのか、じつは暗い企みを持っていたとあきらかになるのに合わせて、わりとシリアスなエモーションが入り込んでくる。そもそも、ひじょうに喜劇性の高い物語において、恋愛に対する真剣のモードが、作中人物たちの情緒や、緊張を担っているマンガである。それがさらにはなはだしくなることで、性急なテンポのなか、理想的なテンションがつくり出されている。個人的には、『おバカちゃん、恋語りき』の1ページ1ページを、じつに楽しみながらめくっているとき、この、テンションを読んでいるという感覚がつよい。音色、深、トキオの、ややこしく絡み合うかっこうが、いわゆる三角関係の力学をベースとしていることに、異論はないだろう。舞台を学園に限定した三角関係のドラマは、半径の狭い世界そのものの密度を濃くしていくしか、表現を巧みにする術がないのだけれども、多くの場合、スキャンダルのせこさに内面のしょぼさが比例してしまい、わざわざ、といったていのオーヴァーなカットを挟むことで、やたら深刻ぶり、何とか体裁を取り繕うとする。『おバカちゃん、恋語りき』もまた、そうした様式からは決して逃れられていないのかもしれないが、ハイにキープされたテンションは、せこさや、しょぼさをも、あらかじめ、ばかばかしさの内に織り込み済み、チャーミングなノリで括ってしまうほどの効果を発しており、心覚えのある怠さに白けるということがないのだった。ところで、欄外コメント、津村記久子や山崎ナオコーラ、金子光晴を最近の愛読書に挙げている作家が、こうしたマンガを描くのは、なるほど、わかるようなわからないような気もする。

 1巻について→こちら

 『otona・pink』2巻について→こちら
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 水野美波の『アタシんちの男子』は、たしかに同名テレビ・ドラマのコミカライズを含んではいるが、正確には、読み切りの短篇を収めた作品集となっている。むろん、その半数は作者のオリジナルであるけれども、スマートな絵柄、とくにいびつなところがない以外に、アピールしてくる部分はすくないかな、という気がする。まずはオリジナル作品のほうから見ていくと、「拝啓、兄上様」は、苦しい家計を助けるためにホストをしている兄の、妹の生活に対する過剰なまでの干渉を通し、いうなればうるわしき兄妹愛を描いており、話運びもよいし、そつなくまとまってはいるものの、そうした概要の、まあ物珍しさのないなかから、この作者ならではの色合い、がしっと心掴まれるものがほとんど出てこないことを、惜しく思う。「拝啓、兄上様」の登場人物を流用した「フレンド・ライフ」は、男の子同士の友情を題材化しているが、こちらもやはり、もう一掴み程度でいい、特徴のつよさがまざまざとしているところを加えて欲しかった。もしかすれば、ストーリーがまっすぐすぎ、作品に奥行きが足りていないのかもしれない。たとえば、「拝啓、兄上様」でも「フレンド・ライフ」でも、ホストの誠二の、ちゃらい外見に反して、自己を犠牲にするのも厭わぬことが、要の役割になっているわけだけれど、そういう彼の人徳みたいなものは、残念ながら、設定の以内にとどまっている。身近な人間には、その良さが理解されているという事実だけが物語化されているにすぎず、じっさいに彼が果たしている機能は空虚なシンボルのごとくでしかない。初体験のういういしさをモチーフにした「そんな僕だけど」にしても、表だって欠点らしい欠点がないかわり、テーマのレベルを覗いたとき、セックス(性交)そのものに関する屈託をまったく省いてしまっているので、結局はタイミング次第なんでしょう、の形式的な範囲にコミュニケーションのぜんぶが収まってしまっている。さて。表題作である「アタシんちの男子」は、テレビ・ドラマ版を総括するものではなく、その、あくまでも1話目をベースにしながら、自分の年齢とそうおおきく違わない6人の、若い義理の息子を突然持つことになったヒロインの奮闘を、前後編にわけて、ダイジェストふうに描いており、借りてきた設定、登場人物たちの個性を器用にアレンジしている。しかしながら総じて、作品づくりにおける手際のよさにのみ、作家のセンスや実力を見るべきなのだとすれば、すこし寂しい。
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2009年05月24日
 打撃王凛 15 (月刊マガジンコミックス)

 ごく私的なランキングを述べるなら、佐野隆の『打撃王(リトルスラッガー)凜』が現在の野球マンガでトップにあたる、というのは以前よりいっているとおりであるけれど、正直、高校野球編に入ってからは、ほんのすこおしテンションが落ちたかなと感じられるのは、そりゃ仕方がない。中学野球編で、あれだけのクライマックスをやり遂げたあと、状況設定を一新し、主人公の実績をほとんどチャラにしてしまったのだ。カタルシスはゆるやかに後退せざるをえない。のだが、しかしそれでも、一場面一場面における熱量の半端なさは相変わらず、さらには先の読めない展開のはったりをばっちり決めており、すくなくともそうした点に関してはまだ、他の作品の半歩ほど先をいっているように思う。さて。中学野球編では、落ちこぼれの野球部が一丸となって、努力と訓練により鍛えられ、強豪チームをくだしてゆく、というスタイルをとっていた『打撃王 凜』だが、13巻以降の高校野球編では、主人公である凜が、エリート級のプレイヤーばかりを集めてきたチームのなかで、ライヴァルたちに混じり、さながらバトル・ロイヤルのごとく、レギュラーのポジションを得るため奮戦する、といった形式へと転じている。もちろん、ある程度のまとまりがチームにできたならば、目指せ甲子園、のテーマに段階をシフトするのだろうが、今のところ、団体性よりも個人間の対決的な姿勢が前面になっている。中学野球編のような前者であれ、高校野球編のような後者であれ、スポーツを題材化したフィクションではすでに定番のパターンというか、そのどちらかがたいていであるし、両者の混成ですらも、決して類例が少なくないわけではない。にもかかわらず、『打撃王 凜』が、まあね、と一笑に付せないほどにエキサイティングなのは、繰り返しになるけれども、尋常ではない熱量の込められていることが、如実であるがゆえにほかならない。この15巻では、第一次のテストに落ち、あわや脱落しかけて、雑用係に回されてしまった凜がそこで、同じく下位の立場にある選手らとチームを組み、二次のテスト、3イニングの短縮試合を行うことになる。そのような過程において描かれているのは、凜の過去との訣別、自立であり、あらたな仲間意識の芽生えとでもいうべきものである。もっとも重要な局面で、バッターボックスを任された凜の気迫、チーム・メイトからの信頼には、このマンガのいちばん良い部分が出ている。やはり、胸を熱くさせられる。ただし、一年生のみで新設された野球部を、やがて全国区の戦いに向かわせるためか、内輪でしかないレギュラーの争奪ですら、各人のすさまじいポテンシャルをアピール、やや超人オリンピックの様相を呈しつつある。今後、対外試合が行われるとなれば、これ以上のプレイヤーが次々登場してくるに違いなく、そうしたインフレーションにどう対処するのか、まあそれ自体は少年マンガの文法があらかじめ抱えている条件だとはいっても、懸念はある。

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2009年05月23日
 本編のラスト、「NEIRO」の最後、ほんらいなら感動的に締めて欲しいところを、亀梨くんが自分のパートを勘違いしてずっこけちゃう、そういう詰めの甘さも、なんとなく、このグループには合っているような気がしたのであった。いやいや、楽しかったあ。

 昨日は、KAT-TUNが前人未踏の東京ドーム8日間連続公演、最終日となる22日のコンサートを観てきたのである。今回の使用を体験するのは、18日に続いて、なわけだけれど、一回じゃ気づけない部分もいろいろあって、ああなるほど、と思ったりもするし、それ以上に、だ。こういう興奮、幸福はもう、何度だってあっていい。

 序盤、ハード・ロックのモード全開なシングル・メドレーから「SADISTIC LOVE」を展開していくくだりが、やっぱり、最高潮に好き。荒削り、高度な洗練はまったく感じさせないにしても、あそこの、テンションの上がり具合ときたら、それこそ「喜びの歌」じゃないのだが、止まらねえ、ってな勢いがある。そして「SADISTIC LOVE」を経、ソロ・パフォーマンスに入り、「1582」で亀梨くんが、中央のステージへ向かい、肌の出た肩に刀を担ぎながら歩いて行く姿の、なんとさまになっていることよ。心底しびれる。以前に観たときは、「SADISTIC LOVE」の終わり、檻に入れられた亀梨くんが頭上高く宙づりにされるのと、「PIERROT」の中盤で、バイクにまたがった田中くんがアクロバティックなアクションに挑むのに、すげえ命がけじゃん、度肝抜かされたのであったが、よく見ると、ちゃんとスタントマンの人と入れ替わってるんだね。そりゃそうだ。しかしそれはそれで違和感を覚えさせぬよう、施された演出の巧みを見事というよりほかない。

 そういえば、「peak」もやったな。あれのクレーンで上空に吊されたままのパフォーマンスだって十分におっかねえ。

 個人的に、中丸くんのバンジー・ジャンプには重要性をあまり感じていない、つもり、であった。だが、この日、一度は躊躇ったものの、5万人規模の観客が、10、9、8、7、カウントダウンしていき、それが3、2、1、ときて、やあっと成功したときの、あの達成した感の共有は、十分に、あり。中丸くんも、ようやく肩の荷がおりたらしく、MCのコーナーではずいぶんリラックスしていたもんな。

 そのMCのコーナーの直前に、今回の記録的な公演が成功したことの公開記者会見が行われて、内心、ああこれで曲数が削られたらいやだなあ、ついついせこいことを考えてしまったのはここだけの話にしておきたいが、受け答えからはメンバー全員の充実した様子がうかがえ、それはじっさい、ショウ全体の余裕にも結びついていたふうに思う。

 照明と水柱が美しく調和する「WATER DANCE」、そしてヘヴィなグルーヴが轟くなか、儚げな叙情が、矛盾するようだが、どこまでも激しく熱唱される「MOON」の、とくに最後の一節、〈生まれ変わっても / 抱きしめてね / 夢の中でいいよ / 私を愛して / SO PLEASE〉に至ったさいの高揚には、えもいわれぬ。この「MOON」もそうだし、「1582」や「PIERROT」もそうだが、随所に和のテイストを盛り込み、生かすことで、視覚と聴覚、双方のレベルに独特な世界観があらわされていた。

 どうやら「Real Face」の、JOKER(田中くん)のラップを、頭のほうは亀梨くんが、後ろのほうは田口くんが請け負うというのは、パターンとして決まっているみたいね。

 日替わりのコーナーでは、懐かしい、という感想をメンバー自身漏らしながら、「HAERT BREAK CLUB」や「MIRACLE」などが披露され、続く「うたいつづけるとき」もよかったよね。〈今ここにいる俺たち / 何ができるのだろう / 傷つく覚悟さえもできてないのに / くり返す日々の中で / その答えが知りたくて俺は / 今日も遠い空に手をのばす〉のである。こうした若さの葛藤をテーマにした曲は、最近のKAT-TUNにはあまりないのが残念なほど、グループのイメージにとても似合っていて、ぐっとくる。

 もちろん、すべての場面がクライマックスではあるのだが、赤西くんのソロ・タイムで「WONDER」がかかって、ああ、このあいだ一回耳にしただけなのに、こんなにもこれを楽しみにしてたかよ、と自分でも思ってしまう。クリスタル・ケイとのコラボレイトなうえ、バックのダンサーが女性であるからか、会場の女性客の、といってもまあ、おおよそが女性の観客なわけだが、そのテンションは微妙になっているのが如実に伝わってくるほどであったけれども、いや、イントロから燃えるし、ブラック・ミュージック指向のリズムも気持ちよく、赤西くんが非凡なシンガーであることを証明する。好き。どうか、KAT-TUNなんて興味ないよ、という向きにも、届けられる機会があって欲しい。

 疾走感にあふれる「SHE SAID」と「Peaceful Days」で、大団円のアンコールが迎えられるのはいつもどおり、いったん幕を閉じたのち、今日は「ハルカナ約束」が聴かれるだろう、と期待していたら、アリーナの後方から、あれ、誰かきた、誰、誰、う、おおお、関ジャニ∞の安田くん、安田くんばかりじゃない、大倉くん、錦戸くん、あのカメラぱしゃぱしゃやってんの丸山くんじゃねえか。びっくりすらあ。まさか、お祝いの言葉と花束を持っての登場である。

 関ジャニ∞の半分を交え、満を持して〈ナ・ナ・ナ・サ・ク・カ・ナ・ハ・ル・カ・ナ・ヤ・ク・ソ・ク / マ・ワ・ル・ナ・モ・ナ・イ・ヤ・ク・ソ・ク〉、「ハルカナ約束」が響き渡る。赤西くんと錦戸くんのツー・ショットを眺めながら、このときがずうっと続けばいいのに。願わずにはいられない。

 しかし、ああ、こうしてまたあたらしく、遙かな約束が名もないままに刻まれ、終わりのない日々は回っていくのだろうね。いやいや、ほんとうに楽しかったあ。

 5月18日の公演について→こちら

 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2009年05月22日
〈読解力なんて必要無い / 想像力なんかで補わない / だからアタシは尋きたいの――命の宇宙を突きつけて――冷徹に精密に寸分たがわぬ正確さで――命なんかじゃ物足りない / MONOTARINAI / 命なんかじゃ物足りない / MONOTARINAI〉

 まったく。実在の世界でも、佐木飛朗斗プロデュースで、世界で最高にアナーキーなガールズ・ロック・バンド、ガソリンバニーをデビューさせるぐらいの投資を『ヤングジャンプ』にはして欲しかったものだな。甲斐性なしとは思っていたが、まさかここまで甲斐性なしとは思わなかったぜ。せいぜい、どっかの男性誌と組んで「オトナのマンガ」とかでっち上げてろよ。中身はトッチャンボウヤの慰みでしかないくせに。以上は、『外天の夏』の連載が終了してしまったことに対する完全な逆恨みであり、もちろん、それ以外の何ものでもない。

 まあ、じっさいに編集部が打ち切ったのか、原作者の佐木飛朗斗が途中で放り出してしまったのか、まさか力関係ではいちばん弱そうな東直輝が投げたわけはあるまいが、真の事情を知れない読み手にしたら、好き勝手を述べるぐらいの自由は許されてもいい。それにしたって、佐木がつくり出した宇宙の、相変わらず、罪深きさまよ。カオスに満ち満ちた物語を、また一つ、出口も見えないままに閉じてしまったんだからね。すくなくとも、この4巻の時点では、いったい何がどうなれば正解なのか、まったく把握させないほどの勢いで、カタストロフィに向かい、フル・スピードのスロットルを開けている。

 ところで「マンガ大賞2009」の非ノミネート作品でありながら、この『外天の夏』を激賞しているのが、選考委員の一人、小説家の海猫沢めろん(こちらのPDFの70ページ目で読むことができる→http://www.mangataisho.com/dl_data/comment090324.pdf)で、かなり激しめのアジテーションが、まじなのかネタなのかどうか不明ではあるものの、『外天の夏』もしくは『疾風伝説 特攻の拓』もしくは佐木飛朗斗評としては、なかなか、読ませる。

 海猫沢がいう〈80年代ヤンキー漫画〉の定義は、やや感覚的に過ぎるし、明確さを欠くけれども、『特攻の拓』が他と一線を画したのは〈実は単なる「ヤンキー漫画」などではなく、同種と異種の交流と争いを描いたハイブリッドなヒロイックサーガ(三国志や大河ドラマのような)であった〉からであり、佐木が〈初期から一貫して描いているテーマは「組織統一=全体性の回復」そして「脱アイデンティティ=どこにも属さない者こそがそれを成し遂げられる!」という右翼的であり左翼的であるというアンビバレンツな夢想〉なのであって、そうした偉業的なサーガの集大成こそを『外天の夏』が担っているというのは、十分に説得力のある紹介だと思う。

 さながら国家単位のイデオロギーは弱まり、誰もが他人の目線によるカテゴライズから逃れられず、種々のトライブに分かれ、固まり、排撃と自衛ばかりの過剰化された価値基準を乱立させているような状況下、それが人を人たらしめる本質に拠っているのか、あるいは戦後における制度的なものにすぎないのか、このことを佐木原作の諸作品は、ヤンキイッシュな若者たちの抗争劇を通じ、アレゴリカルに問うているのである。そして『外天の夏』は、こうしたテーマのアップグレード、最新のヴァージョンにほかならない。ほかならなかった、というべきか。

 尊大なロジックで自らの正当性を述べる作中人物の言葉を聞かれたい。しかし彼らは何のための正義に身を委ねているのかを語らない。おそらく、当人たちの従っている主義主張が誤っていないとすればそれは、敵、つまりは自分たちとは違う倫理に従っている者と戦い、打倒し、勝利した結果でしか保証されないと知っているのである。

 街角でナンパされる少女の〈でも大量消費っていいよネ! アタシ達にはその価値があるんだからさ〉と悪びれない声も、じつは同様の無根拠を示すものだろう。彼女たちが、自分に認めている価値というのは、所詮、高度に発達した資本社会の恩恵にすぎず、必ずしも先天的な資質ではないのであって、穿った見方をするなら、ア・プリオリに特別な存在であるがゆえに、大量消費が許されているのではない、大量消費が可能な主体という逆説においてのみ、その価値が許されているにとどまる。

 かつて『R-16』の終盤の展開がそうであったように、『外天の夏』もまた、子供の世界の暴走に並行して、大人の世界の謀略を描いている。しかし、表面上、両者は深く関わっているわけではない。ある意味では、乖離している。これを、佐木の大風呂敷、今までに畳まれたためしのない大風呂敷として非難することもできるし、作品を散らかすばかりの悪癖と見なすのが普通である。もしも『R-16』や『外天の夏』に比べ、『特攻の拓』がすぐれていたとするとき、それはやはり、あくまでも少年誌に発表されたものだからなのかもしれないが、物語の題材を子供の世界に限定することで、筋書きに一定の収まりをつけていたためでもある。

 だがもちろん、『R-16』や『外天の夏』における大人の世界の導入とは、あの『特攻の拓』を象徴する天羽時貞の悲劇を、根底にまで掘り下げる、本質的な背景を拡張していこうとする試みにほかならない。活動の舞台をヤング誌に移し、読み手の層を青年以上に想定するのであれば、より複雑な問題の提起は、当然の帰結だともいえる。そこにあらわされているのは、たぶん、父性なき父権であり、母性なき母権であり、その集合体であるような社会がすでに一般化され、構造的には何ら不合理なく機能していることの不幸だ。

 思い出すべきは、天羽時貞の認識にとって、家族の絆は、資本制もしくは巨大なシステムの下位に置かれ、そこから絶対に脱しえないと感じられることが、この世界の不浄と過酷な運命を強いていたのである。話を『外天の夏』に戻すなら、政財界につよい影響力を持ち、金本位制の実現を目指す巻島宗親、彼とその妻であり、四人の娘を自らの所有物として扱う玲子が、作品のなかで、徹底された資本システムの強度を代弁する役割を果たしている。こうした両親の思想に、まさしくヒロインの亜里沙と亜芽沙は抑圧されているのであったが、ここに親子の対位法を用いることは、おそらく、できない。すくなくとも佐木は、もっとべつのベクトルを作中人物に与えている。

 この4巻までに描かれた『外天の夏』の物語では、大人の世界と子供の世界は、すくなからず等位になっていると考えていい。家族の関係だけが、たんにその序列を定めているにすぎない。どちらが大きい、どちらが小さい、ということはないのである。したがって片方がもう片方を覆ってはいかない。これが両者を乖離させているふうにしてしまう要因でもあるのだけれど、双方ともに独善的な精神が先んじた価値基準を生きているという意味で、まったく同様のテーマを負っている。

 たとえば巻島は、夜会に招いた議員を前にし、〈“流儀”“見識”“美学”…どんな男であっても戦う事から逃れられんのだ…〉と言い、〈誰もが…人類の誰もが暴力を否定する / 譬え“蹂躙する側であっても否定するだろう…〉と言いながら、現代の誤謬を資本制に求め、金本位制によってその乗り越えを訴える。妻の玲子の場合はさらに、男の価値とは〈どんなに莫大な“権威と叡智”“名誉と資本”も無意味…価値とは『何を敵とし如何に成し遂げたかを証明する事で』で計り得る〉とし、女の価値とは〈尊く美しいのは人生…肝要なのはその“偉大な価値”を持つ男に…どれ程尊く…“美しい人生”を支払わせたかで計り得る〉とする。彼ら夫婦はたしかに、資本制の本質を見、社会を判じてはいるが、しかし、あくまでも私的な個人主義の敷衍であって、そこからこぼれ落ちてゆく者を決して救わない。

 こうした利己と正義の同一視に対して、何のためにかくあるべきか、のアンチテーゼを加えることが、主人公の天外夏に課せられた役割であり、そして暴走族同士の苛烈な殲滅戦に紛れ込んでしまった彼が、それを回避させていった先でこそ、獲得されるに違いない主題だろう。主題のおおよそはあらかじめ見当がつけられている。友情の絶対性、愛情の絶対性、もしくは絶対的な友情のあること、絶対的な愛情のあること、必ずしも物質の形式に囚われることのないそれら、であるはずだ。

 しかしそもそも、そのような議論自体が抽象の概念を汲んでいるので、整合性の高い立証を物語化するのは、ひどく困難だといわざるをえない。取り組み自体は、当然、立派であるものの、最初に述べたとおり、『外天の夏』は、ほとんど未完結の状態で連載を終了してしまった。事情はどうであれ、作品の力及ばずのことだから、こればっかりはいただけない。巻末の予告によれば、完結編となる5巻には、大幅な描き下ろしがあるらしいので、せめて納得のいくピリオドが打たれていることを期待したい。

 ※この項、いずれ書き改めるかもしれません。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』(漫画・山田秋太郎)について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
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2009年05月20日
 スマッシュ! 13 (13) (少年マガジンコミックス)

 もちろん、バドミントンを題材にしたマンガは過去になかったというわけではないが、おそらくそのジャンルを代表する一作として、後のマンガ史に名を残してゆくのは、咲香里の『スマッシュ!』になるだろう、という気がする。すくなくとも、現時点で13巻もの内容に及んでいる連載の好調ぶりは、そうした可能性を十分に示しており、『スマッシュ!』と同じように深い愛情をもってバドミントンを描いていたにもかかわらず、掲載誌の休刊と不運をともにしなければならなかった『やまとの羽根』の前例を持つ作者にしても、この成功は励みとなっているに違いない。いや、じっさいに作品がすぐれておもしろいものをキープしている以上、読み手であるこちらの視線も必然、熱くなるばかりである。そもそも、競技への熱心さを溢れさせつつも、自らの秘めたポテンシャルを知らず、人並み程度に収まっていた主人公が、進学にともなう環境の変化や、出会い、訓練を通じ、才能を開花させてゆくていの、つまりはスポーツ・マンガにオーソドックスな形式を、あえて選ぶことによりスタートを切ったマンガであって、そこからの話の膨らませ方、好奇心の持たせ方にこそ、評価の好悪を分かつセンスが発揮されていると見てよいのだけれども、ストーリー、作画、構成などの、あらゆるレベルにおいて、十二分な成功を果たしていると思う。バドミントンに詳しいか詳しくないかの前提は関係なく、作中人物たちの一喜一憂に没頭させられるだけの質をともなっている。たとえば、練習や試合のシーンでは、作中人物の内面を開示することによって、読み手の視線を競技の結果に誘導する仕組みになっているのだが、すなわちトリガーの役目を為す彼らの、心の動きは、日常の描写を丁寧に積み重ねることで、説得力を宿すことができている。ともすれば『スマッシュ!』が、学園ドラマ、ラブコメ、青春群像としての魅力を有しているのもこのためで、日々の一個一個に、プレイヤーの、あくまでも思春期の人間らしいモチベーションを含ませ、それを筆に、色にしながら、成長へと繋がってゆくようなラインが引かれているのだ。物語の開始当初は、中学を卒業したばかり、まだ初々しかった主人公の翔太も、すでに高校2年生となってずいぶん経つ。その間には、ヒロインである優飛との恋愛や、アキレス健に重度の怪我を負うなど、さまざまな事件、出来事があった。伏線よろしく、潜在的な才能も引き出された。こうした歳月をみっちり踏まえているおかげで、現在の彼の存在に、そりゃ一つ上の蛯沢先輩も一つ下のひよりちゃんもめろめろにならあ、というぐらいの頼もしさが備わっているのである。苦労もしたんだ、実力がつくのも当然だし、皆から信用されるのもわかるよ。したがってその、あまりのもて具合に対して、ずるい、とは言わない。いや、ちょっと言いたい。純粋な嫉妬としてなら、めちゃんこ言いたい。

 1巻について→こちら
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2009年05月19日
 kat18.jpg

 もちろんのとおり、記録を破るというのは記録を作ることと同義であって、先般リリースされた『Break the Records -by you & for you-』を携え、KAT-TUNが挑んだ今回の大規模コンサート「不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009」は、正しくその実現にほかならず、いやはや、会場そして日程におけるスケールの大きさはもとより、ショウの内容自体も、破格のスペクタクル、昨日(5月18日)に観たそれの感想を述べるとすれば、たった一言で済む。つまり、最高潮に燃えた。

 何はともあれ、オープニングの迫力はさすが。18時30分、暗転、メンバーのやりとりを模したアニメーションを経、壮大なイントロの「RESCUE」で幕を開けたのだが、どどんと火柱が前方で立つ、そしてバックには(後のMCによればKAT-TUNマンションと呼ぶらしい)高層ビルディング状のセットが組まれ、すさまじい数のジャニーズJrが。真っ赤な衣装を着、縦横のスペースに並び、踊る。圧巻というよりほかない光景のなか、6人のメンバーが威風堂々、歩いてくるのである。うおおお。そりゃあテンションもハイになるぜ。しかもそこから、アリーナ席の頭上を移動するステージに立って、シングルの楽曲をメドレーする展開へとなだれ込むのだから、息つく暇もない。

 バンド形式のグループ、FiVeの演奏を受けながら、「LIPS」、「喜びの歌」、「DON'T U EVER STOP」等々、スピードがあってギターのリフのはげしいナンバーが連続する。おいおい、いきなりこれかよ、このあとどうすんだよ、と思わされるぐらいの一挙放出であるけれども、いやいや、シングルのほかにもすぐれた楽曲を数多く持っているKAT-TUNだからこそ、可能な芸当だろう。まずは勢い、攻め、「ONE DROP」で、すこしドラムが走っているふうに聴こえたところが、生々しくてよかった。

 歌詞をとちってしまう箇所もすくなくはなかったが、昨年に比べ、ヴォーカルの主軸を担う赤西くんの声量は序盤から安定し、他のメンバーの歌唱も気持ちよく決まっている。とはいえ、完成度の観点からいうなら、相変わらず、むらの多いグループである。徹底して隙のないパフォーマンスを繰り広げるタイプではない。正直、なし崩しの姿勢で切り盛りしている場面も見受けられた。が、そうしたルーズさも魅力の一つ、と言ったらファンの贔屓目かよ。しかし、計算の高さのみでは演出しきれないロックン・ロールの魔法がそうであるように、自然と空気の温度が高まっていき、知らずのうち、そのうねりに引き込まれているのだった。

 アリーナ席の中央に設置されたステージに全員が集まり、バラードの「White X'mas」を歌いあげたのち、「SADISTIC LOVE」を嚆矢として、いよいよ『Break the Records -by you & for you-』のナンバーが披露される。着物というか、ユニセックスの歌舞伎ふうというか、艶やかな衣装に身を包んだ亀梨くんの「1582」は、ミニ・サイズの舞台劇で振る舞われる姿が、惚れ惚れするほどかっこうよく、続いて田中くんの「PIERROT」もそのイメージを引き継いでか、和太鼓を大々的に導入したヴァージョンで送られる。ミクスチャー系のヘヴィ・ロックに和太鼓のリズムを加える手法は、SEPULTURAの名を出すまでもなく決して前例のないものではないが、LINKIN PARK以降のメロディアスな路線にそれを組み込んで成功しているスタイルには、馬鹿にできない画期性があった。ステージ上でバイクにまたがる田中くんのパフォーマンス、あれもロブ・ハルフォード以降におけるヘヴィ・メタルの歴史的な認識に基づいたものだ(ここ、ちょっと、うそね)。田口くんのピアノ・ポップ「WIND」では、赤西くんが登場して、ハーモニーを被せようとしたのがうまくいかず、惜しかった。

 それにしても、コンサートの途中で生放送の中継が入ったのは、まあこれはこれでおもしろい日にあたったんじゃない、と楽しむことができたのだけれども、ショウの進行からするに、やはり、すこしだれた感は否めない。テレビ番組『Cartoon KAT-TUN』の企画から発展、連動している中丸くんのバンジー・ジャンプも、個人的には、なくてよかったかなあ。昨年のコンサートでは仕切りのよさを発揮していた中丸くんだが、ほんとうにバンジー・ジャンプが嫌そう、今回は終始テンション低かったよね。とまれ、MCのコーナーでは、得意のヴォイス・パーカッションに、亀梨くんのドナルド・ダックの物真似、田中くんのラップを交え、なかなかの即興が見られた。こういう、KAT-TUNの音楽的なポテンシャルは、もうちょい、高く評価されてもよいように思う。

 そうしてコンサートも後半から終盤に入っていくのだが、シングル「LIPS」のB面に収められた「LOVE」、そして「WATER DANCE」の流れは、楽曲のせつなさ、セクシーさが、幻想的な照明、水柱が幾筋も立ち上る舞台装置と相まって、ひじょうにうつくしいワン・シーンを描き出す。その、うつくしさをはげしさに変えてみせるかのごとく、打ち込みのモードがバンド・サウンドにスイッチし、重低音のグルーヴが響き渡る。おおお、こうくるか。『Break the Records -by you & for you-』アルバムの通常盤のみに収録されていた、つまりはボーナス・トラックに近しい位置づけながらも、スリルとダイナミズムに満ちた「MOON」だあ。思わず声を出して喜ぶ。シングルの楽曲以外にも、ほんとうに十分な佳作が揃っていることを、まざまざと実感させられる瞬間であった。

 その後、A.B.C-ZとKis-My-Ft2が1曲ずつ、それぞれの持ち歌をパフォーマンスする機会があったのだけれど、Kis-My-Ft2の「Fire Beat」、いいじゃん、ハード・エッジなミクスチャー・ロックのヴァリエーションで、たとえば初期の嵐やKAT-TUNの現在を踏まえたものがある。歌詞は少々クリシェすぎるが、ぶんぶんヘッド・バンギングするパフォーマンスを含め、好感触を持った。

 ふたたびKAT-TUNがステージに戻ると、ここにきてデビュー・シングルの「Real Face」が炸裂し、もういっちょう盛り上がる。ほんらいならJOKER(田中くん)の役割、最初のラップを亀梨くんが、後ろのラップを田口くんがフォローしていたのは、ハプニングなのか、事前にプランされたものなのか、知れないけれども、ふだんありえない趣向、サプライズであって、じつにはまっている。メンバーが日替わりで選曲をしているらしいパートでは、昔からのファンのあいだでは根強い人気を誇る「青天の霹靂」が、このときの会場の熱狂ぶりときたら、すごかった。その興奮のまま「サムライ☆ラブ☆アタック」が来たかと思いきや、そちらはイントロしかやらなかったのが残念だった。

 上田くん、中丸くんのソロと続き、でんと玉座にもたれかかった赤西くんが、女性のダンサーを引き連れ、あらわれる。そして歌うのは、クリスタル・ケイとのコラボレイトを果たした「WONDER」である。残念ながらというべきか、当然ながらというべきか、クリスタル・ケイ本人の出演はなかったが、バックの映像を交えながら、KAT-TUN本体では希薄になりつつあるブラック・ミュージック的なセンスに由来したナンバーを、全編英語詞のそれを、堂々としたヴォーカルで聴かせる。これがさあ、ちょっとたまらないぐらいかっこうよくて、ぜひとも何らかのかたちで音源化して欲しい。

 対戦形式のちょっとよくわからないブレイクを挟み、巨大な亀梨くんと赤西くんのバルーン人形を浮かせながら「WILDS OF MY HEART」がかかると、ああ、もう完全にエンディングの雰囲気であって、じっさいにドラマティックなバラードの「NEIRO」で本編は大団円を迎える。もちろん、引き続きアンコールが待っているだろう。「SHE SAID」と「Peacefuldays」の、お約束とでもいうべきくだりは、しかし、やっぱりこれがなくちゃね。とくに「Peacefuldays」における、K-A-K-A-K-A-T-T-U-N、の掛け声なしでは、すべてを締め括ることなんてできねえんだ。ステージ上には、メンバーやジャニーズJr、ゲストが揃い踏み、ジャンプ、ジャンプ、ジャンプ、かくして幸福なひとときに笑顔いっぱいの幕がおろされた。

 ただし、生放送の中継が入ったからなのかもしれないが、セット・リストの曲数には、やや物足りなさが残った。というか、どんだけアンセムを抱えてるんだこのグループは、と思う。シングルの楽曲にしたって「SIGNAL」と「僕らの街で」はやっていないのに、約3時間のショウを興奮のうちに埋めてしまうんだから、な。

 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2009年05月18日
 お憑かれさん 6 (6) (講談社コミックスマガジン)

 島田英次郎の『お憑かれさん』も、いつの間にやら、6巻である。いや違う、これは作者が堅実に積み重ねてきた結果以外の何ものでもないのだから、いつの間にやら、と言ってしまうのは失礼にあたるだろう。個人的に、島田というマンガ家は不遇、というイメージがある。『伊達グルーブ』も『サッカーけるける団』も好きな作品なのだけれど、あまり評価されなかった。しかしそれだってもうずいぶん昔のことであって、この『お憑かれさん』に至るまで、本式の連載を持てず、当然単行本のシーンで名前を見かけられなくなってしまう。もちろん、過酷な競争社会で実力が足りなかったのだといえば、それだけの話にすぎないし、あるいは運がなかったのかもしれない。だが、決してリタイアしてくれなかったことがファンにはうれしく、さらに現在の風潮であれば、こうしたギャグ作家のキャリア自体を、自嘲的に、自虐的に展開することも可能であるだろうに、プロフィールや欄外のほかにはほとんどそれを出さず、あくまでも創作の内容で勝負しているふうに感じられるところが、潔い。そしてそうした潔さは、ある意味、現在の作風にも反映されている。『お憑かれさん』は、4コマのスタイルをベースとし、アレンジを加えたギャグ・マンガである。霊能力を持った神社の神主とその周辺人物たち、むろんなかには妖怪変化の類を含む、彼らの日常が、ずっこけ、どたばた、賑々しく描かれているわけだ。女の子のかわいらしさや、題材としているネタのレベルからは、最近の流行をリサーチしていることがうかがえる。だが、それをそのままフックとして用いるのではなく、ちゃんと自己流に解釈し直し、作者ならではのスタイルに落とし込んである。ボケとツッコミのコミュニケーションで、話を転がしていった先に、お得意の、ぜんぶ台無しの1コマをオチとして置く、この、すべての設定が有機的に結びつかなければ成功しない様式を前提とし、それをつくるのに手間を惜しんでいないことこそが、てんやわんやとした機能をもたらしている。ただし、フォーマットの性質上、マンネリを回避しながら新規性を出すためか、登場人物の入れ替わる回転が、ここ数巻、かなりはやい。初期の、とくにドラキュラ伯爵が登場したばかりの頃のような、各人の個性をしっかり定着させて生かすエピソードが、乏しくなってしまっている点には、多少の危惧を抱く。
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2009年05月17日
 怖い話、ホラーの系が最高潮に苦手である、というのは以前に書いた。しかしこの『絶叫学級』の2巻は、それほど怖くなかったかな。いや、怖いのは怖くて、たとえ掲載誌である『りぼん』の読者層よりずっと大人であったとしても、絶対、夜には読まないのだけれど、一話完結型におけるアイディア自体はわりとよく見かけるもので、ことさら凝った仕掛けが設けられているわけではないから、悪意のある描写にぞおっとするぐらいで済む。このマンガの場合、だいたい、幽霊や怪人、サイコさんやストーカーの正体は、じっさいに幽霊や怪人、サイコさんやストーカーということになっており、サプライズは少ないのである。バレンタインのエピソードは、ラヴ・ストーリーの系でも偶にやっているものがある。それの趣を黒く塗り替えているにすぎない。とはいえ、作品の基調を見る上で重要なのは、あくまでもその幽霊や怪人、サイコさんやストーカーの噂が、学校や教室の範囲内で培養されていることだろう。つまり、半径が狭い世界の関係性、優越感、承認欲が、主題となっているのであって、子供の世界にも息苦しさがあること、ときにそれが他人に対しての加減を狂わせることに、物語の内容は還元されている。

 1巻について→こちら

 『自殺ヘルパー』(原作・吉成郁子)について→こちら
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2009年05月15日
 東京湾岸バレエ団☆ 3 (3) (講談社コミックスキス)

 巻末のコメントからするに、作者はもうすこし続けたかったのかな、という感じがしないでもないが、朔田浩美の『東京湾岸バレエ団☆』は、この3巻で完結を迎えた。しかしほんとうのところはどうだったのか、内幕は知れないけれど、読み手の立場からいうなら、もうすこし続けてくれてもよかった、残念な気がしてしまう。特定の団体をベースにしたコメディのなかに、トラウマめいた暗い影を落とし、それを糧にして、才能を持った若い男の子を、逞しく、育成するかのようなアウトラインは、『のだめカンタービレ』や『ハチミツとクローバー』に通じる点でもあり、もしもアニメ化されたとしたなら、ちょうど「ノイタミナ」の枠がはまるような印象の作品だったと思う。もちろん、それを悪く言っているのではない。世界的なプリンシパルの果家時生に誘われ、彼が設立した湾岸バレエ団の一員となった主人公、佐藤吾郎が、恋愛や友情、ライヴァルを含め、さまざまな障害によって、賑やかに揉まれていく様子は、いや、なかなかに楽しかった。題材をダンスに置いている以上、踊りのシーンをどうあらわすかは、重要な個所で、しっかりとした工夫を凝らし、見映えは美しかった。おそらくはヒロインになるのだろう三上十子を、とうが立った腐女子にして、某テニス・マンガのミュージカルのパロディを登場させるなど、今どきなアイディアを取り入れたりしているのも、可笑しかった。だたし、そういった物語や設定において、雑多な情報を詰め込み、うるさくなりすぎ、群像劇としての描き方は、やや散漫であったか、展開が飛び飛び、どこへ向かっているのか、掴みづらい面もなかったとはいわない。

 1巻について→こちら
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 おかわりのんdeぽ庵 3 (3) (講談社コミックスキス)

 食文化は健康であって欲しいという信仰が根底にあるからか、料理マンガのストーリーには、性善説といおうか、人に善くすることを当然として採用しているものが多い。もちろん、なかにはいくらかの例外はあるものの、基本的に例外はその絶対数が少ないことの上に成り立っているのであって、そちらを主とは踏まえない。イタバシマサヒロが原作をつとめ、なかはら★ももたがマンガを描く『おかわり のんdeぽ庵』も、やはり、料理マンガの多数派に入る、つまり、良心的な人々の関わりが味覚の幸福をもたらすことになっており、東京で居酒屋「ぽ庵」を営む菜々葉と穂波のコンビが、店にやって来た人々の悩みに答えるかたちで、酒と料理に腕を振るうのを通常のスタイルとしているけれども、この3巻では、大学時代の友人に招かれ、山形県の庄内を訪ねてゆく。そうして彼女たちが出会うのも、ひっきょう気持ちのやさしい人間ばかりである。これをジャンルの性質、そのベーシックなイディオムに由来した現象だとするとき、『おかわり のんdeぽ庵』ならではの特徴をべつに求めるとすれば、ヒロインのかわいらしさ、ということになるかい。たしかにまあ、なかはらの女の子は、デザイン的にとてもかわいい、と思われる。おおまかな背景だけを共有している前作『のんdeぽ庵』に比べると、デフォルメのタッチをつよめているが、それも含め、キュートな印象が、丸くまとまったエピソードの気色を、より和やかに上塗りする効果をあげている。しかしいきなり穂波にモテ期が到来するくだり、なかはらは久保ミツロウと親しかったはずで、まさかオマージュではないのだろうが、こういう、ちょっとばかばかしいののほうが、個人的には、好き。

 2巻について→こちら

・その他なかはら★ももたに関する文章
 『あかねSAL☆』(原作・岡田惠和)
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年05月14日
 ナンバデッドエンド 2 (2) (少年チャンピオン・コミックス)

 とりあえず、自意識や社会性が欠損している人間に関しては生まれや育ちのせいにしておけ、的な言説によっていくつもの物語がつくられているにもかかわらず、フィクションを通じ、そうした土壌とでもいうべき家族や学校の風景に、希望を描き込むことの困難さを嘆くばかりが、さも高尚な問題提起であるかのごとくもてはやされる近年、小沢としおの『ナンバデッドエンド』が一際すぐれているのは、その、容易じゃないところを果敢に攻め、着実な成果をあげているような真面目さが、もれなくマンガのおもしろみへと繋がっている点にあるのだと思う。

 ついに剛の秘密がばれる。ばれた。実の妹の吟子や後輩である弥生は、自分たちの敬愛する人物が、どうして偽りを用いてまで、ありふれた高校生活を守ろうとしているのか、納得のいかない表情を浮かべる。とくに吟子は、裏切られたという気持ちがいっぱいになってしまい、素直に話を聞くこともできない。彼女の不信感に対して、主人公は、いかなる言葉、態度を尽くし、切実さをあらわそうとするのか。これが2巻のあらましであって、主眼である。もしかすれば、二人の和解が用意されるにあたり、ワキから悪人が登場してくるなど、ストーリーに都合のよい部分があるかもしれないし、吟子のピンチに剛が駆けつける展開を、ベタだとか、お約束だとか、の一言で済ませてしまうのも可能だろう。が、しかし、それらはいわば、ドラマの核心を強調してゆくための補助線を果たしているのであって、作品の内容、価値を低めるものではない。どころか、無理のないプロットを自然と成功させ、そのなかに十分なテーマを盛り込んでいる作者の、熟達した手腕に舌を巻かされる。

 吟子に剛のことを尋ねられた伍代が〈ヤンキーの難破もアイツだし 生徒会長の難破もアイツ…ウソはついてない どっちもアイツなんだ〉と伝える言葉は、せつなく、重い。弥生に特服先生の正体を知られた鉄が、まじな横顔をのぞかせる一瞬、一コマのさりげなさに、剛をかばう気持ちがよくあらわれている。これら友人たちのやさしさは、もちろん、前シリーズである『ナンバMG5』から引き継がれてきた主人公の人格、魅力、苦悩を再確認している。

 以前にも述べたとおり、主人公である難破剛に課せられているのは、環境と内面の二極に引き裂かれた主体のアレゴリーにほかならない。いうまでもなくそれは、今日のサブ・カルチャーが物語を扱おうとするとき、誰しもが経験しうる可能性として、説得力の足しにされているものと同質である。そして、たいていは、悲惨な暴力や犯罪の原因にあてることで、ほら、こんなにも深刻に時代を捉まえてますよ、といった程度の手振りを示しているにすぎないのだけれど、『ナンバデッドエンド』の場合、等しい現実に属していながらも、そこから腕をひろげていき、運命には必ずや変えられるだけの余地が残されていることを、表現の内に抱こうとしているので、注目にあたいする。剛の〈オレは……暴力でしか評価されたことがない……ケンカ以外でホメられたことがない自分が スゲェカラッポに感じたんだ…〉といい、〈オレの取り柄なんてケンカだけかもしんねェ…それでもさがしたかった ケンカ以外の何かをな…〉という告白は、とても悲痛だが、「ケンカ」の個所を他の言葉に置き換えてみればあきらかなように、家族からの期待を理解しているうえで、自立心を目覚めさせてしまった人間にとっては、決して特殊な呟きではないだろう。

 それにしたって、相変わらず、クソみたいな連中はどこにでもいるんだな。おまえら、数と力に頼って他人に言うことを聞かせようとするのが、みっともねえって思わないのかよ。危ない目に遭う吟子と弥生を助けるべく、躍起になって息切らす剛の、その表情をよおく見られたい。傷か、汚れか、黒い線がいくすじも張り付いている。ああ、こうして誰かのため、いつだって身を挺し、仕方なしに戦ってきたから、先に引いた告白のくだりは、彼の自分勝手以上の深い意味を、持ち合わせてくるのである。

 1巻について→こちら

 『ナンバMG5』
  18巻について→こちら
  17巻について→こちら 
  16巻について→こちら
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  14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
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  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
  1話目について→こちら
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2009年05月13日
 何だかんだ言ったって、いまだに新しいギャグ・マンガの才能を輩出し続けている『週刊少年チャンピオン』の役割は立派なもんだと思う。この『トンボー』が、初の単行本となる沼田純も、そうしてあらわれてきた内の一人で、まあ、たしかに昔からのファンにしてみれば、やっと、という感じかもしれないが、作者の名の知られる機会が一個でも増えてくれたことは、単純に、うれしい。舞台は田舎、道草村に住むワイルドな14歳の少女、トンボが、親友のリンコなど、半径5メートルの範囲で接する人々を巻き込みながら、どたばた、はちゃめちゃ、賑やかに繰り広げてゆく日常を、ギャグの勢いにしている。正直、現代の観点からすると、やや古めの作風だというふうに判断されてしまう可能性があるのは、エロや萌えの要素、シュール、根暗さ、インターネットに由来するジャーゴンや知識、つまり今日的なフック、キャッチーなノリに、ほとんど頼ることなく、一個一個のエピソードがつくられているためだろう。ただ、元気いっぱいな人間の元気が目いっぱい剥き出しにされていることによって、ゆかいな世界が開けてゆく。要するに、素直な馬鹿をてらいなく描いているところに、おかしさが生まれている。よいほうにとるなら、完全に正統派なのである。トンボの表情は、ときどきキュートであるけれども、彼女のパンツが見えることに、およそ有り難みはない。このアンビバレントでさえも、ちょっとした魅力だといえてしまう。ただし、1巻の段階ではまだ、たとえば登場したばかりのリンコの髪型がきちんと定まっていないのと等しく、作中人物たちの個性が十分に育ちきっていないふしがある。そのへんは、いやもちろん、のびしろとすべきなのであって、作品の楽しさを決してそぐものではない。
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2009年05月11日
 文学界 2009年 06月号 [雑誌]

 『文學界』6月号掲載。「机の中から男が出てくるなんて、相変わらずあんたはありもせん話ばっかり書いてからに。第一、婆さんが恋するというそんな気色悪い話、誰が読むというのよ。あんた一体いくつやと思うてんの、いくらなんでももういい加減もっとまともなもん書いてるやろう思うてたんのに、それやったらこれまでのとちっとも変わってへんやないの」。1932年生まれであるらしい作者の実年齢と相関しているのか、老いをモチーフにしながら幻視を取り入れた小説をよく書いてきている桑井朋子であるけれど、この『黄泉入りどき』も、ある意味では、その伝を外れてはいないのだが、おそらくは作家当人を模しているとおぼしき語り手と彼女の姉の口うるさいやりとり、日常茶飯な牽制のし合いが、顰蹙とはなっていかず、不思議と呼吸の合った家族の親しみを、とうとうと浮かび上がらせているところに、むしろ本題を見ることができる。相応に積まれた人生のキャリアのなかで、いくつもの変節を経てきた二人の女性が、互いに配ってみせる目線に、それがとても出ているのである。題の、黄泉入りどき、というのは姉が〈黄泉入り前〉と言いながら説明しているとおり、当然、〈嫁入り前〉とかけている。実家でいっしょに育った姉妹が、それぞれ嫁に行くことで、べつべつの家庭を持ち、違い違いの人生を歩んだのち、暇を得て、ふたたび、しばしば顔を合わせるようになったときの一幕が、半日として描写されている。もしかすれば、作中人物の正体に何か奥行きを仕掛けてあるのかもしれないけれど、基本的には、日常のワン・シーンの微温化された叙情だと思う。
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2009年05月09日
 明日、大田区産業プラザPiOにて行われる「第八回文学フリマ」に出店します。諸般の事情により、ちゃんとした新刊は作れなかったのですが、いちおう『Y系(ヤンキー・マンガ読本ミニ)』というコピー誌をご用意いたしました。100円で頒布いたします。サークルは、F32「凡TIME 」です。よろしくお願いします。

 文学フリマ公式サイト
 http://bunfree.net/

 それから以前に生田紗代の「たとえば、世界が無数にあるとして」論を書かせていただいた同人誌「Children Vol.4」が文学フリマで頒布されるそうなので、そちらもよろしくお願いします。くわしくは→こちら

・追記
 あと、さっき、自分が出すつもりのコピー誌を綴じている途中で気付いたのですが、なかにある「「SLAM DUNK」はどうしてヤンキー・マンガではないのか」という論の、「SLAM DUNK」の綴りが「SLAM DANK」になっておりました。さらに、もとはしまさひでの「ヤンキー烈風隊」に触れた箇所の「月刊少年ジャンプ」は「月刊少年マガジン」の誤りです。ちょっと原稿を改める余裕がないので、ここで事前に訂正を申しておきます。すいません。
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2009年05月08日
 すばる 2009年 06月号 [雑誌]

 『すばる』6月号掲載。海猫沢めろんの『ニコニコ時給八〇〇円 其ノ壱 マンガ喫茶の悪魔』は、それほど流行ってはいないマンガ喫茶に勤める人々の内幕を戯画化したかのような小説で、ある程度のマンガに親しんでいる向きには、といっても今どきマンガに親しんでいない向きのほうが珍しいのかもしれないが、くすり、とさせられる部分があるし、現代的な文化における屈託のなさを散りばめた会話、語り口には、にやにや、とさせられるところがあるのだけれども、内容的には、エンプティ、まったくの空(から)だとさえ思われてしまう。しかし、その、中身の寂しい点が、作品の、作中人物たちが生きているリアリティを支えている、という意味で、ひじょうに効果的なアプローチが選ばれている、と、良いほうに解釈することもできる。マンガ喫茶「るるイエ」のアルバイト募集にやってきたキノキダくんは、東大の大学院を卒業予定の、つまり弁護士の卵であった。東大生、という自分たちとは無縁な世界の住人に、カザマ店長は脅威を覚えるが、キノキダくんは、他の従業員たちに溶け込み、持ち前のインテリジェンスを発揮すると、以前とは断然見違えるぐらい、店を繁盛させてしまう〈――などというふうに、物事は簡単に美しく進まない〉のだった。最後のオチが、無言の種明かしになっているとおり、基本的には、ギャグであって、コメディであって、すべてがでたらめの産物である。が、多少シリアスに考えるなら、作中人物たちはみな、見栄っ張り、嘘つきであり、彼らの他愛もない自尊心が現実の世界をそのまま、質量保存しているので、ユーモアにもアイロニーにも転がるだけのお話になっている。

 『ピッグノーズDT』について→こちら
 『オフェーリアの裏庭』について→こちら
 『零式』について→こちら
 『左巻キ式 ラストリゾート』について→こちら
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