ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年04月30日
 恋のABO【初回生産限定盤】 恋のABO【通常盤】

 来いよ! 恋よ! 恋の! ABO! いやはや、ディスコティックな曲調が〈恋をしようよ〉と誘う「恋のABO」は、まさしくNEWSにとってのニュー・アンセムと呼ぶに相応しいハイなテンションのナンバーで、とにかく気分が上向き、賑やかになるのだ。じっさい、このグループのディスコグラフィに並べていったとき、間違いなくトップのレベルに入るアッパーさ加減だと思う。まあ、たしかにミラー・ボール・ポップというか、かつてトラジ・ハイジがそうであったように、こういうタイプのサウンドにユニゾンのコーラスを合わせていけば、否応なく決まるよね、というのはあるにはあるが、その、ある意味でお約束に守られているなか、冒頭における小山くんのユニークなコールやブレイクを兼ねるふうに手越くんが喉をきかせる個所も含め、メンバー6人が、それぞれの個性を貫き通している反面、一丸となったさい、これまでになかったほどはっちゃけて聴こえるところに、最大限のチャームを感じる。2曲目の「ラビリンス」は、NEWSの過去のナンバーや「恋のABO」にも関わっているzoppが、歌詞を手がけ、女性のアイドルや声優系のシンガーの楽曲でよく名前を見かけられる藤末樹が、曲を書いており、バックのテンポは速めだがメランコリックなメロディはゆるやかな流線を描き、どちらかといえば、こちらのほうが従来のNEWSのイメージに近しいかもしれない。そして、裏の目玉はやはり、通常盤の4曲目に収められた「share」のライヴ・ヴァージョンである。ライヴ・ヴァージョンとはいえ、スタジオ・ヴァージョンが現時点では存在しない以上、ほぼここでしか耳にすることができない。メンバー6人が詞を持ち寄って出来たというナンバーで、昨年末のコンサートですでに披露はされていたけれど、まだどこにもパッケージされていなかった。それがついに、となれば、がぜん注目せざるをえないわけだが、「share」、いいね。とてもいい。先に述べたコンサートを観に行ったさい、ああ、いい曲だなあ、とは思っていたものの、再度、こうしてじっくりあらためると、その良さがつよくつよく実感される。打ち込みのビートとストリングスに導かれて、各人が各々の自作詞を、入れ替わり、メロディにのせる。言葉数も抑揚のつけ方もまったく違っている6つのパートが、一個一個別々のフックとなりながら、不思議とちぐはぐではない調和を結ぶ。〈Just only stars…〉と歌いながら、一点に集中するクライマックスは、にわかに感動的ですらある。このままでも音質等に不備はないのだけれども、せっかくの内容なのだから、ぜひスタジオ・ヴァージョンもつくられて欲しいよ。ところで、初回限定盤に付属されているDVDにも触れておきたい。昨年12月31日、東京ドームで行われたコンサートのアタマのほうとMCの部分のみ収録されており、さすがに見所がぎゅっと詰まってはいるにしても、さあ盛り上がってきたぞ、といったところでフェイド・アウトとなってしまうのは、物足りない。以前に嵐がアルバム『ONE』を出したときも、こういうダイジェスト版を用意していて、その後にフル・サイズのリリースはスルーされてしまったと記憶しているが、もしも今回のNEWSの場合もそうなのだとしたら、歯痒い。

 『color』について→こちら

 コンサート『NEWS WINTER PARTY DIAMOND』(12月30日・東京ドーム)について→こちら
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2009年04月28日
 そもそも、伝奇ロマンと学園ドラマの相性の良さは、サブ・カルチャー史における種々の作品群によって実証されていることであって、さらには、伝奇ロマンと軍記的な物語のそれも、古来より支持されてきた創作手法の一つを担っているし、もちろん、学園ドラマと軍記的な物語のミックスもまた、数かぞえきれない名作をマンガのジャンルに生み出してきている。これらの可能性を全方位的に包括している以上、桑原真也の『ラセンバナ』がつまらねえわけがねえんだ。いやいや、じっさいこの3巻のあたりから、すばらしく燃えるばかりなので、うれしくなってしまう。親友である春のため、単身、「鬼道」の目論見を探るリョオは、はからずも、不良たちの集団が、不可解な表情で、飛び降り自殺をする現場に出くわす。謎めいた力でそれを引き起こした「鬼道」のウランが、自殺者たちを指しながらリョオを挑発するのに対して、彼は〈知らねーな… この世界でオレにとって大切な人間は二人しか居ねェ 他の奴らが何万人 死のうが 眼中にねえよ〉と一蹴するが、しかしウランの能力は、圧倒的なプライオリティに動かされるリョオの精神すらも、当人には気づかれぬまま、支配下に置いてしまうほどのものであった。まさか、自分がウランに操られているかもしれない、と知ってしまったリョオが、春とまどかの剣(はばき)姉弟に別れを告げようとする場面、その、あまりにも男前な態度がしびれるし、リョオの悲しむ背中を見て、激昂する春の、なんて熱いことかよ。かくして彼らは、幼馴染みのウランを止めたいヒナに手引きされ、今まさに大規模な暴走族の「夜叉丸」が「鬼道」に襲撃されんとする現場に介入することになる、というのがここでのくだりであるけれども、「鬼道」のトップに立つ逞馬のいまだ明かされぬ野心も絡めて、ひじょうに雑多な思惑が入り乱れるなか、うはあ、こうくるかい、にんともかんとも衝撃的な展開が訪れる。過去作の『0リー打越くん!!』や『TO-mA』で見られた桑原の、エロティックでグロテスクでヴァイオレントな資質は、原作者をべつにする『R-16』ではむしろセーヴされていた、と思わされるぐらい、パンツ丸見えのキャミソール・ワンピースで蹴りを繰り出すヒナのアクション・シーンも含め、数々の描写に本領が発揮されている。いとも容易く日常を崩壊し、じょじょにエスカレートしてゆく残酷さは、あくまでもヤンキー・マンガとして描かれてしまった『R-16』で、つい離れていった本来のファン(っているんだろうね)にこそ、再度確認されたいインパクトがある。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
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2009年04月27日
 まさか柳内大樹がここまでの人気作家になるとは。かつて誰が予想したであろうか。もしかしたら、秋田書店で彼と組み、現在は『スーパージャンプ』の編集部にいる担当のO川氏(小川瞳でいいのかな)は、信じていたかもしれない。そのO川氏によって編まれているのが、柳内にとって初の短篇集となる『柳内大樹短編集 柳内大樹』であり、「バンカラボーイズ」、「オヤジガリガリ」、「救命野郎 鮫介」、「ジ・パッピ・ルッジ・ゴルボフちゃん」、「ギャングパラダイス」の五つの読み切りマンガが収められている。なかでも、柳内のキャリア上、とくに興味深く思われるのは、01年に発表された「ジ・パッピ・ルッジ・ゴルボフちゃん」と「ギャングパラダイス」だろう。初期の、いかにも『ヤングマガジン』的なテイストをバネにしながら、試行錯誤をしている様子が見られ、どこかスタイリッシュであろうとし、ある種のポップ性すら感じさせるところは、友人である長田裕幸(長田悠幸というよりも長田裕幸の頃)に近しいものがある。結局、長田も含め、個人的に「50年組」と呼んでいるマンガ家たちが、こうした冒険心と遊び心のある路線ではやっていけず、スタイルの幅を狭めていったことが、現在の彼らの活躍に繋がっているのは、皮肉といえば皮肉である。とりあえず、柳内の場合、それは作風が完成されたと解釈されるべきであるし、じっさい誰彼のフォロワーではないだけの魅力を備えてはいる。しかし、今年(09年)の作品である「オヤジガリガリ」を、「ジ・パッピ・ルッジ・ゴルボフちゃん」や「ギャングパラダイス」と比べるなら、やはり過渡期に入っているかのような印象を持たされてしまう。「バンカラボーイズ」では、そこを突破していけそうな勢いが取り戻されている、が。ところで、じつはこの短篇集で(というか柳内の作品全般にいえることなのだが)いちばん好きなのは、制作裏話的なあとがきマンガのくだりであった。はっちゃけたギャグが、歴史的な証言になっているのは、吉田聡のそれを彷彿とさせる。にしても「救命野郎 鮫介」の30ページ強を三日間で仕上げたってのはすごいな。いやまあ、たしかに05年に発表された「救命野郎 鮫介」というマンガは、それほどひねりのある内容ではないけれども、無闇に「想像力」と言い出す前の、この作者のよさ、つまり、コメディでさえもちゃんとエモーショナルなストーリーとして生かされている点が、とても恋しい。

 「バンカラボーイズ」について→こちら
 「オヤジガリガリ」について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『ギャングキング』
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年04月26日
 全体的なストーリーや心情の汲み取り方は、決して悪くはないものの、アルコというマンガ家のギャグやコメディのよさ、おかしさを十分に理解しているとは言い難い読み手なので、やはり、『超立!! 桃の木高校』の完結篇にあたる3巻を読みながら、すこし、弱ってしまう。たとえば、その、テンポの順調さを選んでいるのか、たんに手間を惜しんでいるのか、大きく割ったコマのなかに極度なデフォルメの登場人物を描く手法を個性として認めるにしても、とくに冴え渡っているとは思われないのである。ジャンルの違うところで、昨今のストーリー性を持った四コマ・マンガと比べるならば、内容や密度の濃さがいかほどのものか、判然としてしまうだろう。いずれにせよ、森まり、城幹太、嶋田紗織、小野寺秀樹の〈役立たずのビミョーな超能力 4人の力を合わせて一人前 人よんで エスパー4!! このマンガはそんな彼らの青春の日々の記録である!!〉らしい作品も、いよいよ幕を閉じられる。クライマックスにあたって、ほかの三人の超能力が、突如、消えてしまったため、一人疎外感を覚えるまりをめぐり、友情や団結とでもすべき、正しく青春のテーマが浮上していくのだが、このへんは、学校生活において誰にでも起こりうるデリケートな問題を、ユーモラスな展開でくるみ、うまく寂しさをはらっているのだけれども、それを縦の線で進んでいったときに、結末というかオチのつけ方が、あまりよくない。めでたしめでたし、の気分が、いかにも取って付けたふうになっており、起、承、転まできて、結の部分でずっこけてしまっている。そしてそれは同時に、自分がこの作者のギャグやコメディに笑わされない理由でもある。巻末に収録された「夏、イエスタデイ」は、アルコの、作風の内の叙情的な面によって成り立った読み切りで、ギャグやコメディの要素はかなり少ない。しかし、田舎へのカムバックをベースにした自分探し系のストーリーを、ただこの作者がやった、というだけのものにとどまっている。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら 

・その他アルコに関する文章
 『ヤスコとケンジ』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『Loveletter from…』について→こちら
 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
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2009年04月25日
 逢沢雪名の作品集『みつげつ』には三篇の読み切りマンガが収められていて、最初の「みつげつ」では、ヒロインの同性に対して抱かれた恋愛にも近しい気持ちが、続く「うそつきディストーション」では、記憶をなくした片想いの相手の恋人になりすます女の子の姿が、その次の「Re:BIRTH」では、ヒロインの目を通じて複雑な母子関係を持った男の子の姿が、それぞれ描かれており、こうして概要だけを述べてしまうと、いまいち新味を欠くように思われてしまうかもしれないし、じっさい作風にしてもとくに目を引くほどの個性を有しているわけではないのだが、いやいや、けっこう読ませる。正直、絵のレベルにおいて、登場人物の全身像はちょっと狂っているのだけれども、アップになったときの表情、それから場面の転換や、モノローグを含めた心理の描写のレベルにおいて、感情の我がままに動きながら迷う様子が、よく掴まえられているためだと思う。そのなかでも、表題作にあたる「みつげつ」に、いちばん胸なびかされるものがあった。主人公の蜜月(みつき)は、中学校からの同級生である男子の上田に言い寄られても、決して友達以上の付き合いになりたいとは感じられなかった。友人たちに茶化されても気が向かない。今以上の新しい変化を欲していないのだ。しかし高校二年の春、ナツヲという同性の転校生に出会い、その、うつくしくも精悍な立ち振る舞いに惹かれていってしまうことになる。「みつげつ」にあらわされているのは、恋愛と友情の違い、区別は、いったいどこでつけられるか、という少女マンガの系にときおり見かけられ、多くの場合、男女の間を使い、示されるモチーフであったりするが、それがここでは、あえて同性同士の関係上に置き換えられている。もちろん、今日では百合(ガールズ・ラヴ)などと呼ばれ、親しまれているサブ・カルチャーの鑑賞法を意識している部分もあるには違いない。だが、骨格の正しく少女マンガ然としていることが、作品の魅力を為しているのであって、むしろ、女性誌の記事等でソウル・メイトとして扱われるようなテーマのヴァリエーションに見られるべき方向性を、ともなう。なぜ、蜜月はナツヲに魅せられてしまったのか。おそらくは彼女が自分にはないものの象徴であり憧憬であったからではないか。当人ですら、はっきりとはわからいでいる欠乏を埋め、満たしてくれる、そのような居心地のよさに、ただただやさしく甘い期待を募らせていたからこそ、〈――ナツヲも 弱いフツーの女の子だったんだ〉と知らされることで破局が訪れる。たしかに、蜜月の涙は、クライマックスのシーンで、ナツヲが、女性である自分ではなく、男性の存在を選んだこと、つまり自分が選ばれなかったことによって誘われてはいる。でもそのときの〈パキン と 小さく 何かが折れた音が聞こえた 気がした 強いと思ってたナツヲの胸の あたりから〉という主観は、あくまでも蜜月のものでしかなく、はたしてナツヲが同性との恋よりも異性との恋を取ったから〈弱いフツーの女の子だったんだ〉と思うのでは、きっと、ない。たぶん〈――ナツヲも〉の〈も〉とあるのは、女性全般を指してはおらず、蜜月自身のことを意味している。もしもそうであるなら、〈パキン と 小さく 何かが折れた音が聞こえた 気がした 強いと思ってたナツヲの胸の あたりから〉といわれているそれは、ナツヲのなかに投影されていた何か、先に述べたような蜜月にとっての欠乏が、はっきりと自覚されたことを教えている。変化を欲しなかった彼女の成長あるいは前進の痛みを伝えているのである。
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 さすがに元ネタとの差別化をはかるためか、題名のアタマに「猫」と付き、判型も通常のコミックス・サイズになって、仕切り直し、リニューアルされた田辺真由美の『猫☆カトちゃんケンちゃん』の1巻であるが、中身はぜんぜん変わっておらず、あいかわらず、くだらなくて、たのしい。帯には「ちょっぴり昭和」とあるけれども、いやいや、「どっぷり昭和」の間違いだろう。80年代や90年代初頭におけるテレビ番組などの引用をからめながら、たいていのギャグは組み立てられており、むろん、笑いとなる箇所の大半を、うんち、や、おなら、で決めている。ああ、まあそれから、はげ、もあるよ。ふつう、ペット系のマンガだと、かわいい、というイメージが、後にであれ先にであれついて回るものだが、この作品の主人公たち、猫のカトちゃんとケンちゃんに関しては、すばらしくばからしい、以外の感想を必要としないことが、最大最高の魅力になっているのだった。ここで新規登場する子猫の墨ちゃんも、そのつぶらな瞳に似つかわしくないぐらいの曲者であって、ウマが合わないカトちゃんとの三文芝居ぶりが、とても好き。〈この東京砂漠 水だってタダじゃないんでちゅよ!〉って何だよ。ところで、カトちゃんとケンちゃんの飼い主、ヒロインの役にあたるマリアに恋人ができたのは、意外だったな。ルックス的にはいけてるんだろうが、そんなふつうの女子高生みたいなことをされても弱るよ。しかし、その恋人の梅田くんが、とかく好漢であるばっかりに、猫様々、災難に遭ってしまったりするのが、また愉快になっている。いずれ、梅田くんと我らが(毎回毎回気の毒な)パパさんの対決もあるのだろう。その前にまず、みんなもうちょい、パパさんを労ってあげて。

 『カトちゃんケンちゃん』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年04月24日
 Paranoid Delusions, Paradise Illusions

 PULLING TEETHというと、日本のバンドのことを頭に浮かべる向きもきっと少なくはないと思うが、まあ、ジャンル的にもそう遠くはないラウドでヘヴィなサウンドをプレイしてはいるのだけれども、これから書くのは米メリーランド州ボルチモア州出身のトリオであるPULLING TEETHのことであって、そのサード・アルバム『PARANOID DELUSIONS / PARADISE ILLUSIONS』が、ひじょうにかっこういい。リリース元のDEATHWISHレーベルは、主宰者となっているジェイコブ・バノンのCONVERGEで知られるような、重低音のぐしゃぐしゃにひずんだ激情型のハードコアが一種の目印となっているが、このバンドがユニークなのは、ヴォーカルやギターのスタイルに、オールドスクールなスラッシュ・メタルふうのイディオムを、ふんだんに持ち込んでいることであった。楽曲のスピードや展開は、しばしば初期のSLAYERを彷彿とさせる。しかしながら『PARANOID DELUSIONS / PARADISE ILLUSIONS』では、ちょっとしたパラダイムのシフトが行われているみたいだぞ、と感じられるのは、まず1曲目の「RITUAL」が、いやたしかに、ぶっきらぼうに叫ぶヴォーカルと細やかなリフを刻むギターとが、性急すぎるほどに加速を高めてゆく、そのようなくだりは中盤のあたりで用意されてはいるものの、まるでドゥーム調のごとき、暗い音色の深くて濃い、さらには太くてスローなグルーヴを、マキシマムに渦巻かせているからである。そしてそれは、ほかのナンバー、作品全体に支配的な特徴ともいえるし、ラスト・トラックの「PARADISE ILLUSIONS」では、これまでになかった叙情性をみせていたりもするわけだが、そうしたすべてに、ざらざらとした手ざわりのノイズがあふれ、絶えず緊張の昂ぶっているところが、最初に述べたとおり、ひじょうにかっこういいのであった。それにしても、全5曲で約25分という収録時間に、最初、あれ、これ、EPかよ、と勘違いしてしまったのだが、ちがう。PULLING TEETHなりにコンセプチュアルな内容を目指した結果、フル・アルバムでもこのサイズにまとまっているらしかった。でもそらそうか。06年の『VICIOUS SKIN』が、全11曲(日本盤は12曲)で約15分、07年の『MARTYR IMMORTAL』が、全12曲で約25分なのだから、比べるならもう、立派な大作主義ですらある。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2009年04月23日
 『こころ』は本当に名作か―正直者の名作案内 (新潮新書)

 小谷野敦の新書『『こころ』は本当に名作か 正直者名作案内』は、題名からするといっけん、夏目漱石の『こころ』について論じられたものかという気がしてしまうけれど、じつは『バカのための読書術』に続くブック・ガイドとして読まれたい内容になっている。とはいえ、『バカのための読書術』が、書物の読み方、読まれ方をベースとし、現代的な観点から、文学にかぎらず、哲学や社会学も含め、種々の作品を再評価していたのに対して、この『『こころ』は本当に名作か』は、あくまでも文学として見られるもののなかでもとくに、世間一般の評価が、たとえじっさいには読まれていなくとも、定まり、不動になっているような古典や準古典の価値を、あらためて検討し直している。そのさいに念頭に置かれているのは、小谷野の〈「文学作品に普遍的な価値基準は存在しない」というのが私の持論であ〉って、〈ある文学作品をいいと思うか、共感するか、ということは、読者の側の年齢や経験、資質、趣味嗜好といったものに、かなり大きく左右される〉という判断である。こうした発想のありようは、某講演の草稿である「バナール(凡庸)な受容理論の試み」として、前半部のみだが、第一章の内に収められている。いわく〈ニュークリティシズム以来の文学理論というものは、読者論である受容理論にいたるまで、個々人の趣味嗜好の違いということは黙殺してやってきた〉のは、つまり〈知的な行動にはあまりにも個人的差異が大きく、科学として成立させるためには、かなりの個人的差異を無視しなければならないという事情〉を持っているからであり、〈そこに生きているのは、カント以来の「感性の普遍性」という概念〉でしかない。では、そうした概念を信じないところからはじめて、古典や準古典の案内を編んだらどうなるか、をやっているのが『『こころ』は本当に名作か』だといえる。もちろん、前提が前提である以上、小谷野という読み手自身の〈年齢や経験、資質、趣味嗜好〉に基づかなければならず、へたをすれば、ごく私的な、直感の、狭いブック・ガイドにならざるをえないところを、先行する言説や批評をたたき台とし、反証することで、名作と呼ばれるものに向けられた相対的な視線の一個となるような、余地がつくられている。まあ、そのへんは小谷野のいつもの作法にほかならないし、正直、彼がこれまでに書いてきた文章や出してきた著書を相応にチェックしている向きには、ことさら知恵となる部分は多くないだろう。「マンガの古典」というコラムに、相変わらず高橋留美子の『めぞん一刻』を挙げている一方、珍しく名香智子の『PARTNER』を挙げていないのに驚かされたぐらいである。いや、それは半ば冗談であるけれども、いくつかの作家、作品に対する評価は、『バカのための読書術』とも一致しており、本文にもあるとおり、他の著書のほうで詳しく論じられている作家、作品が、こうした新書の形態にあわせて、持ってこられているケースも少なくはない。ニュー・クリティシズム(新批評)に関する懐疑も、純文学と通俗小説の区分のあやしさも、この書き手がかねてより再三主張している点だ。しかしながら当然、あたらしく興味深い箇所も十分にある。その最たるは、まさか意図して題名にちなんでいるのかどうかは不明ではあるものの、やはり、夏目漱石に割いた項だと思う。じじつ、以前に『谷崎潤一郎伝』を書いた経験と、三浦雅士が新書『漱石――母に愛されなかった子』で行っている指摘を踏まえて、〈自分がかつて漱石を読み違えていたことに気づいた〉と述べられている。読み違えがいかなるものであったか、ここでは触れないが、すでに引いたように「感性の普遍性」を信じていないので、〈読み違え〉ることも〈読み違えていたことに気づ〉くことも起こりうるし、そのため作品をよく読むことに繋がりうるのは、ページを遡り、ブック・ガイドの合間に挿入された「私小説、モデル小説」という小論によって、あらかじめ明示されている。〈純文学愛好者の多くは、小説を読むということは「純粋」な行為でなければならないと思っている〉が、〈しかし、「純粋な読書」というのは、幻想〉なのであって、〈SFや推理小説、ファンタジーなどでない限り、人は作者や、書かれた時代について何も知らずに小説を読むなどということはできない〉のだと、小谷野はいい、たとえば〈小林秀雄は、美は目を訓練すれば見えてくると言ったが〉、しかし〈現在の図像学では、絵画には数多くのコードがあり、それらを知らないと読み解けないものがたくさんあることを教えている〉すなわち〈「訓練」ではなく、「勉強」なのである〉のと同じく、〈何の予備知識もなくとりかかるという「純粋な読書」があるというのは、幻想〉なのだとする。ならば、それを裏打ちするかのように正しく、予備知識が更新された結果、〈自分がかつて漱石を読み違えていたことに気づ〉かされているのである。

・その他小谷野敦に関する文章
 創作
 『童貞放浪記』単行本について→こちら
 「童貞放浪記」について→こちら
 『悲望』単行本について→こちら
 「なんとなく、リベラル」について→こちら
 「悲望」について→こちら

 評論
 『リアリズムの擁護 近現代文学論集』について→こちら
 『退屈論』文庫版について→こちら
 『新編 軟弱者の言い分』について→こちら
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
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2009年04月22日
 まさしくモラトリアムの渦中にある少年がロックすること、そしてモラトリアムを過ぎてしまったはずの成人がロックすること、こうした軸の二足歩行で、たまきちひろの『フール オン ザ ロック』は進んでいると感じられるのだが、いかんせんそれが、必ずや自分の居場所はどこかにある、必ずやありのままの自分を受け入れてくれる者がいる、的にしつらえたテーマの周囲を、ぐるぐる、回るばかりなので、あんまり、溌剌としてこない。もちろん、夢を持って生きようとする人間が、壁にぶつかり、痛がり、躓き、転がり、悶々とする様子に、主眼を置き、青春のドラマを担わせようとしているのはあきらかなのだけれども、そのことは決して、望まれるべきは音楽でなければならなかった、というモチーフを高めていない。換言するなら、音楽は、ロックは、夢や青春の概念に入れ替えられる、入れ替えられることで作品のエモーションは成り立っているのだが、入れ替えられることが逆説的に、他の分野でも十分な題材になりえたことを示してしまっている。要するに、音楽マンガとしての強度が、いささか低い。他方、少年と成人の年齢差を並列化するためにバンドの形式が選ばれている、と見たさい、両者の、本質的には異なっている立場が、すでに述べたように、必ずや自分の居場所はどこかにある、必ずやありのままの自分を受け入れてくれる者がいる、の一点で同調されるのは、どうも。たとえ人生を経験で捉まえないにしても、成人のなかの幼さをあらわすことと、幼稚なままの成人をあらわすことは、まったくべつのものであるにもかかわらず、作中の都合に合わせて、混同されているように思われてしまうのである。この3巻では、中心人物のイマイと旧知であるキヨシの姿を通じ、少年が成人になっても絶えずロックすることの、どこか悲壮ですらある喜びが描かれており、そこはよい。キヨシが言った〈才能のない奴にはないなりの居場所があるってもんだぜ〉という、ささいなセリフにさえ、現実の重たさが備わっている。しかし、これに対し、信じられる仲間がいてくれて気持ちが助かったでは、ちょっと。すべてのロマンが無期限に許されているのであれば、まず誰も悩むまい。少年の孤独と成人の孤独を同型にしたばかりに、納得のいかない部分が出てくる。

 1巻について→こちら

・その他たまきちひろに関する文章
 『WALKIN' BUTTERLY』
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら 
  2巻について→こちら
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2009年04月21日
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 弓月光の『瞬きのソーニャ』は、『ビジネスジャンプ』NO.10(5月2日号、先週に出たやつね)に発表された、この作者にとっては、久々の、まったくの新作読み切りである。少女マンガのジャンルから男性誌の作家に転向してからは、エロティックなコメディをおもに描いてきた弓月であるが、しかしこれは意外にも、そのイメージを裏切るかのような内容となっている。1989年、まだソ連と呼ばれていた頃のロシア、雪深い地に設置された国家の研究所が、何者かによって爆破される。至急現場に駆けつけた若きブーニン中尉は、監視カメラに残されたテープのなかに、かつての教官、ヴィクトル・ザイツェフ中佐が小さな少女を連れ去り、逃走する姿を確認する。はたして、国家に反逆したザイツェフの目的は、いったい、何なのか。上層部よりザイツェフを殺害しても〈子供は可能な限り無傷で保護せよ〉との指令をくだされたブーニンは、任務の遂行に不吉な予感を覚えるのであった。ストーリーはおおまかに、きびしくすぐれた老兵が、遺伝子から人造された幼児を保護し、逃走の最中、たくさんの追っ手と攻防戦を繰り広げるというもので、その背景には、ベルリンの壁崩壊を一つの象徴として、いよいよ冷戦も終わりを迎えつつある時代の認識が置かれている。まあ、フィクションの世界では決して珍しくはないパターンの一つといえる。しかしそれを手堅く、魅せるところは魅せ、うまくまとめており、おお、さすがベテラン、と思わされる。いっけん、従来の作風からするとミスマッチにも感じられる概要だが、そうした部分も含め、小山ゆうの『あずみ』を最初に読んだときと、いやあそこまで殺伐としてはいないのだけれど、あんがい近しい印象を抱いた。ザイツェフにソーニャと名付けられた少女の、おどろくべきポテンシャルが、おそらく、いちばん力の入っている個所だろう。表向きの可愛らしさに反し、野性の虎におそれられるほどの身体能力を持ち、軍の精鋭すら歯牙にもかけない、瞬く間に圧倒してしまう。正直、今どきのマンガなどに見慣れてしまった眼には、やや迫力に欠ける面もあるにはあるが、ダイナミズムのどこかスロー・モーションなところは、つまりソーニャのスピードを彼女自身の速度感覚のほうから捉まえているためだと解釈することもできる。ちょっと好意的すぎるかな、でもまあ、タイトルからして『瞬きのソーニャ』なのだから、作者の意識はそこに寄り添っていると見ても、おかしくあるまい。たとえば、ザイツェフが狙撃手に撃たれる場面、読み手にはソーニャの動きがばっちり把握される一方、作中の人物には〈当たる瞬間に標的がブレたように見えなかったか?〉という疑問が浮かぶのみなのである。
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2009年04月20日
 たとえば、東浩紀が『動物化するポストモダン』で述べている「データベース消費」論でもいいし、伊藤剛が『テヅカ・イズ・デッド』で述べている「キャラ/キャラクター」論でもいいのだけれど、そのようなオタク向けのサブ・カルチャーを題材にした読解のロジックを用い、高橋ヒロシの『クローズ』や『WORST』のシリーズや、あるいはこのゆうはじめの『クローズ外伝 リンダリンダ』のような二次創作ふうのサイド・ストーリーを見ることは、おそらく、できるが、しかしそれは同時にあらたな疑問を浮上させる。つまり、高橋ヒロシの諸作、ひいてはヤンキー・マンガ、ひいてはサブ・カルチャー、ひいては物語は、生き様を教えられるか、ということである。もちろん、サブ・カルチャーは必ずしも生き様を教えなくてよい。この考えを割り切っていったところに、もしかしたらオタク的な評価に顕著な「萌え」の発想があるのかもしれないのだけれども、高橋が描いているようなヤンキー・マンガの場合、彼を特集した記事やインタビュー、ファンのメッセージなどからあきらかなとおり、作中人物たちの生き方に憧れる、式の感想を免れることができないのであって、やはり、生き様系の意識は重要なテーマとならざるをえない。しかるに、生き様とは結局、ライフ・スタイルでありファッション・センスであり集団行動の原理でしかないとき、作中人物たちの生き方に憧れる、式の感想自体がそもそもあてにならないといえば、そのとおりなのである。近年の高橋や彼のフォロワー群が、一定の売り上げ、支持を得ながらも、表現のレベルにおいて、ひじょうにあやしいのは、ほとんどこのためにほかならない。たしかに、望むと望まぬにかかわらず不良にしかなれない少年というのは、いる。そしてそれは十分に生き様を扱ったストーリーになりうる。しかしその原因を、生まれや育ちのみに求め、安易にトラウマ化してしまったならば、遺伝と環境を重視したゾライズムの様式を脱さない。まあそうしたおかげで、文学における自然主義よろしく、リアルなどといった修辞が弄される程度の内容にはなっているのだろうが、そこにあてられるべき救いが、所詮、ライフ・スタイルだったりファッション・センスだったり集団行動の原理だったりでしかないのだとしたなら、とても寂しい。その寂しさによって正しく『リンダリンダ』というマンガは満たされている。この1巻には、読み切りで発表されたエピソードが二つ、それを受けて連載になってからのエピソードの序盤が入っているのだけれども、とくに連載分の、リンダマンこと林田恵と中学時代の友人である吉留圭一の誤解と対立は、彼らの生まれや育ちを不幸にしなければ不良の像を結ばれない手つきに、わざわざ、といった気がしてしまう。

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 2話目について→こちら
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2009年04月19日
 Crooked Timber

 そこらへんの坊ちゃんが演じているような疑似ルサンチマンなんて簡単に蹴っ飛ばしちゃう。これがまじもんのパワーってやつなんだぞ。何の話かといえば、北アイルランドはベルファスト出身のトリオ、THERAPY?の通算10作目となるフル・アルバム『CROOKED TIMBER』のことなのだが、その、相変わらず多幸感とは縁遠そうな、無愛想にやたら強張ってひずんだサウンドには、にひひ、という下卑た笑いを、そしてとても嬉しくさせられる。80年代の終盤に登場し、およそ20年のキャリアは、十分ベテランの域であるのに、根本的なスタンス、つまり恨めしや、と歯ぎしり、イーヴルで根暗なアティテュードは、折れ曲がらず、いやそもそも折れ曲がっていたそれは、決して矯正されることもなしに、いまなお全うされていることが、音によって伝わってくるのである。同世代もしくは同時代のアーティストのほとんどが、リタイアするか、さもなくば以前とは様変わり、マイルドになっていきがちななか、このバンドの、とくに中心人物であるアンディ・ケアーンズの、ルックスも含め、はなはだごつごつとしているところは、一貫して一周して、抜群にかっこうがいい。とはいえ、ここで採られているのは、90年代後半の『INFERNAL LOVE』や『SEMI-DETACHED』みたいなグランジ・ポップでもないし、最近の数作において顕著だったガレージィなロックン・ロールともまた違う。しいて述べるなら、THERAPY?式のドゥームといおうかゴシックといおうか、どす黒い情念があたかも、ヘヴィで分厚いグルーヴとして渦巻き、あらわされているかのようなアプローチだと思う。1曲目の「THE HEAD THAT TRIED TO STRANGLE ITSELF」からしてあきらかなとおり、リズムのありようにかなりのインパクトが預けられている。まあ、リズムに関しては、元来クセのあるグループではあったが、その特徴的なセンスを前面に出し、ビルド・アップ、フルに稼働させることで、さらに強力なアンサンブルをつくり上げているのだった。03年の『HIGH ANXIETY』でメンバーに加わったニール・クーパーがドラムで果たしている役割はおおきい。もともとはTHE BEYONDというイギリスのバンドで、プログレッシヴなパターンを叩いていた人物だけあって、手数の多さもさることながら、激しいアタックを次々、ジャストなタイミングで決める。ギターのリフ、ベースのラインも、マッシヴなノイズを支援する一方でシンコペーションを細やかにしており、おそらくGANG OF FOURのアンディ・ギルがプロデューサーに呼ばれたのも、こうした方向性に関係してのことであろう。きわめてパーカッシヴな成り立ちをしているため、ハードコアをジャンク化させた初期の頃のイメージに近しい部分もあるにはあるけれど、線の太さ、禍々しいまでの迫力に、歴然の差がある。ソング・ライティングの完成度もそうだし、憎しみであれ何であれ、負のエモーションを技術的に高めていくと、なるほどこうなるのか、という気もする。たしかに、以前の作品にはあって、ここではなくされてしまった良さもある。が、すくなくとも、うつくしさやあたたかさ、やさしさのレベルでは判断されない表現の質、濃度、密度は高まっている。ブックレットにあるように、アルバムのタイトル『CROOKED TIMBER』は、カントの引用である。そしてまさしくサウンドは〈From the crooked timber of humanity, no straight things was ever made〉だということの産物になっている。

 『MUSIC THROUGH A CHEAP TRANSISTOR THE BBC SESSIONS』について→こちら
 『ONE CURE FITS ALL』について→こちら
 『NEVER APOLOGISE NEVER EXPLAIN』について→こちら

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2009年04月17日
 民間人参加型の死刑制度をサヴァイヴァル・ゲーム化していってフーダニットのサイコ・ミステリを繰り広げるという、今どきの売れ線要素を満載しながらも、結局、門尾勇治の『真犯人!!』が、最後の最後まで、あまりぱっとしない、あとちょっと、もう一歩のところでおもしろくなれなかったのは、ひじょうに残念であった。誰がいったい何のため、冴村亮の妻を殺害し、その容疑を彼に負わせねばならなかったのか、この3巻で、すべての真相が明かされ、物語の幕は閉じられる。作品の性質上、ネタを割ってしまうわけにはいかないけれども、ようやく知れた真犯人の正体には、なかなかの意外性があったと思う。しかしそれが十分に生かされるだけの基準を、筋書き、話の運び、マンガの総体的なつくりは満たしていなかった。また、猟奇的な事件の原理を、生まれや育ちのせいで社会から脱落してしまった人間の狂気へと収束させてゆくのだが、その、いうなれば今日的な犯罪の意識に関しても、こうした内容の作品であるなら、もっとずっと、深く突き詰め、考えられるべきであった。罪と罰でもいいし、善と悪でもいい、テーマのレベルに徹底されたものがないので、現実の重たさに表現が負けているふうに見えてしまうのである。

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 『欺瞞遊戯』について→こちら
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 おかざき真里の『渋谷区円山町』は、タイトルどおり、渋谷のとくにラヴ・ホテル街沿いを舞台に、おもに行き交う若者たちの悩み、迷い、出会い、別れる姿を題材にしてきたシリーズであるが、この『渋谷区円山町―浪人吾郎―』では、端的に、やり直せるものと取り戻せないもの、とでもいうべきテーマに焦点が合わせられ、ストーリーは描かれている。単行本には四つのエピソードが収まっているけれども、おおまかにセクションは、かつてはカリスマと呼ばれながらも、若くしてリタイアし、現在は流しの美容師をやっている吾郎をガイド役に、寄る辺ない少女たちが自らの居場所を求めてゆく篇と、恋愛に躓いてしまった女性たちの前に、どこか不思議な空気をまとった青年があらわれ、やはり彼をガイド役にして、自らの悔いと執着とに正直になってゆく篇の、二つに分けられ、後者では、青年の意外な正体も含め、この世界には取り戻せないもののあることが、そして前者では、美容師の生き方も含めて、この世界にはやり直せるもののあることが、ちょっと甘く、すこし苦いドラマの、ワン・シーンの源泉となっている。そのなかで、どれか一個をチョイスせよ、ということであれば、個人的には「浪人吾郎」の二話目を挙げるだろうか。狭いサークルにおける同調圧力下で、何かしらの人格を演じなければ、自分のポジションを得られない、このようなパブリック・イメージの、じつに今日的な議題が、ユイという根無し草の強さ、あるいは弱さを通じて、コンパクトにマンガ化されている。たとえば〈何でバカキャラやってんの?〉と美容師に訊かれ、ユイが〈でもさーみんなやってなくない?みんなキャラ作ってるでしょ――? そーやってひととつき合ってんでしょー?〉と述べる場面、こう答えることがすでに悲しく、寂しいので、たぶん作者は、ひとまず安易なかたちでしかなかったとしても、ハッピー・エンドに持っていかなければならなかったのだと思う。

 『渋谷区円山町―桜―』について→こちら
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2009年04月16日
 たとえば、個人的にはラブコメのラブが恋愛を意味するようなラヴであって欲しい読み手なので、恋愛の感情や関係が十分に描かれていないラブコメほど残念なものはないのだったが、遊知やよみの『これは恋です』は、そのへんをばっちり押さえており、そうそう、たいへんコミカルなのにキュートでエモーショナルだから、こういうの好き、と素直に述べられる。たんに男女がセックス(性交)の周囲をうろうろするだけで恋愛がついてくるというふうになっていないのもよい。おおまかな筋だけを取り出すのであれば、男性教師と女子高生の両想いが、立場の違いのため、片想いとしてしか生きられない、よくある設定のヴァリエーションだといえてしまうけれども、その二人、教師の綾と生徒の伽良の触れ合いと葛藤に、とても複雑でいて、やわらかく、感受性豊かなものを感じられる。この2巻では、同僚の女性教師に綾がアプローチされているのに嫉妬した伽良が、ついに堪えきれず自分の気持ちを彼へ伝えることになる。それに対して、あくまでも教師の、そして大人の役をまっとうしようとする綾は、どう応えればいいのか、どう接すればいいのか、自分の気持ちを持て余し、悩み困る。ここで見ておかなければならないのは、綾にしたところで伽良にしたところで、必ずしもイノセントな人間とは描かれていないことだ。いやまあ、たしかに世間とくらべたなら、さわやかな佇まいではあるものの、生きてきた経験に相応の貪欲さは兼ね揃えている。しかしそれを、やはり年齢の差によって置かれたアンフェアな事情から、一方は素直に出せず、一方は抑えなければならないことが、ひとつの辻褄となって、ピュアラブルなストーリーを育んでいるのである。セックス(性交)がどうのというのではない、そうではなくて、ただ、好き、だという旨だけがいっさいの報いを得ない、たったそれぽっちのことが、前面化されている。誰しもがイノセントなままいられるわけではない。が、ピュアラブルに恋をすることはできる。願わなくともピュアラブルに恋をしなければならないことがある。こうした道理に説得力の与えられていることが、作品に実感と共感の磁場をつくり出しているのだと思う。それにしても、綾に接近してくる美術教師、花巻の見事な噛ませ犬っぷりよ。綾の友人、強烈な性格の辺名に〈結婚願望の強い妄想癖のある年上女〉と言われてしまう、そんな性格付けをされてしまってはいるが、いやいや正直、ぜんぜん悪いタイプじゃない。たぶん不器用なのであろう。にもかかわらず、ボタンの掛け違いでこうも、どつぼにはまってしまったらさ。そりゃ泣ける。ああ、彼女にもきっといいことがあって欲しい。

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・その他遊知やよみに関する文章
 『素敵ギルド』
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2009年04月15日
 『週刊少年チャンピオン』17号の、「MY FAVORITE!〜私が愛したチャンピオン作品〜」という特集記事のコメントによれば、古谷野孝雄は、石山東吉のアシスタントから出てきたのだという。ある意味で生粋の秋田書店っ子ではあるが、同じく石山のもとから登場してきた哲弘が、そもそもが石山の師匠格にあたる車田正美のパロディをにおわせるような作風なのとはまた違う印象で、どこか、旧き良き時代の『週刊少年ジャンプ』的なイディオム、矜持を持っているのは、なるほど、それもそれとして一因にはあるのかもしれないな、と、かなりの牽強付会にすぎないのだけれど、評論家によって語られないマンガ史とでもいうべきを、しばし妄想させられる。しかしまあ、そうした余談はさておき、いよいよ本筋も佳境に入り、がぜんヒートをアップさせているのが『ANGEL VOICE』の10巻である。当初は、問題児ばかりで再出発された市立蘭山高校のサッカー部であったが、部員たちがみな、それぞれにドラマを経験し、乗り越え、練習に励み、全国高校サッカー選手権は予選を勝ち抜いて、ついに県内のベスト8入りを果たす。ここで彼らの前に立ちはだかるのは、強豪中の強豪、船和学院であった。市蘭のサッカー部を指導してきた監督の黒木が述べるとおり、たしかに試合に勝つべく〈やれることはすべてやった〉が、才能と修練の双方を完璧に備える船学相手に、それが通じるかどうか、まさしく最大の正念場が迎えられる。いやはや、船学の強さときたら、まさか、こんなにも圧倒的だったとは。『ANGEL VOICE』の物語を、あくまでもリニアな流れで見たさい、船学の実力はすでに以前の段階より示されており、やがてライヴァルとして相まみえることもうかがえた。したがって両者が対決するであろうとき、その差を市蘭のメンバーがどれだけ埋められているかこそが、作品の全体にまたがるカタルシスへ繋がってゆくはずだと考えられた。すくなくとも、中心人物である成田たち、一年生部員の成長と活躍をベースにし、いっけん地味に、しかし魅せるところは魅せながら、こつこつ描かれてきたのは、そのための説得力だったといっていい。だが、〈技術ある者には技術で応じ / 力ある者には力によって捩じ伏せる / 才能に恵まれし者が幼少より積み重ねた鍛錬と研鑽 / 他者の追随を許さず / 欲するは3年連続高校3冠〉という船学のすごさは、市蘭の一人が〈勝つもクソもあるかレベルが違い過ぎんだろ〉と喘ぐほどなのであって、まったく敵わない。当然、まだ試合は序盤も序盤であるし、ここから逆転の糸口、突破口がひらかれることを信じたいところなのだけれども、さあどうか。むしろ点差は広がっていくばかりである。そこでフィクションの内に働いているのは、ご都合主義やガンバリズムだけではどうにもならないような、現実性にほかならない。もちろん、そうした現実性を前に、市蘭のメンバーたちがくじけてしまったなら、フィクションそのものが成り立たない。自分の運命は自分にしか変えられない、変わらないと断定されてもなお、変えようとしなければ、未来は閉じる。廃部の約束がかかっている以上、絶対に負けられない。負けるわけにはいかない。このような厳しくつらい展開を、作者はいっさいの手をゆるめることなく、より過酷にしていき、それでいて必ずや希望は信じられること、決して諦めてはならないことが、あまさず熱量化され、描き込まれているので、知らずのうち手に汗握るものが生まれてくる。ここに至るまでのストーリーにおいて、『ANGEL VOICE』の題名に示されている、その、天使の声が、市蘭のマネージャーをつとめる麻衣の存在と不可分であると、あかされている。天使の声とはたんに、不思議な魅力を持った彼女の歌を意味するだけではないだろう。元来はヒールであったため、市蘭の活躍を応援する人間は、ほとんどいない。しかし、もしもわずかにでもいてくれさえすれば、いかに心強く、ありがたいことか、彼女のポジションには象徴されているのである。それが奇跡を起こすかどうかはまだ知れない。が、たとえ奇跡が起こらなくとも、奇跡を見るよりも感動的な、たしょう大げさにいうなら、魂とでもいうべき真剣さを、少年たちの姿は、とうに伝えている。

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2009年04月13日
 文学界 2009年 05月号 [雑誌]

 『文學界』5月号掲載。ここ最近、青山七恵の小説、とくに短篇を読むと、いやマンネリとは決していわないまでも、作者が好んで用いるテンプレートのテーマに合わせたヴァリエーションでしかないような、そんな気がしてしまう。もちろん、たいていの創作とはそうしたものであるのかもしれないし、必ずしも悪く思っているつもりはない。が、要するに、会社員として働く若い人物の日常に、小さなノイズが紛れ込んでき、それが過ぎ去ったあとの一瞬が情景化されて、終わる。こうした説明は必ずしも正確ではないのだろうけれど、大枠だけを取り出すのであれば、『ニカウさんの近況』もまた、それに倣っている。主人公が会社で使っているパソコンに、「二飼浩太郎」という、まったく身に覚えのない人物から近況報告のメールが届く。最初は〈ジャンクメールかと思って二回読み直した。名前のあとには、何をやっているのか見当のつかないカタカナの長い会社名、所在地、電話番号、メールアドレスが続く。あやしい添付ファイルはついていない。見えないところにいわくありげなURLがあるかも、と思ったけど、スクロールが必要な空白もなかった。宛先をクリックしてみると、BCCメールになっていて、他の受信者のアドレスはわからない〉ので、〈もしかして、以前に名刺交換をしたことがある人かもしれない〉と名刺のファイルを確認してみても、その名前は見当たらない。そのほかの可能性も考えたが、やはり、わからない。その、ニカイさんだかニカウさんだかの近況が、語り手である〈わたし〉の毎日に、何かを劇的にチェンジするほどの大きさではない、じつ小さなノイズとして混じってくるのである。二飼から送られてきた近況報告がメールであるとおり、インターネットでのショッピング、コミュニケーション、データベース管理、匿名性や文化などと、現実社会における〈わたし〉の半径5メートル的な世界との対照が、おそらくは、作品の主題であったり、先に引用した描写のありえそうなところも含め、リアリティを担っており、そしてエモーションは、いつもどおり、ラストの街並み、日常のシーンに情景化されてゆく。『ニカウさんの近況』という題は、過去の短篇である『ムラサキさんのパリ』を彷彿とさせ、まさか続編か、と予想したら、基本的には違う。だいいち、語り手の性別が異なる。とはいえ、ムラサキさんもニカウさんも、主人公たちにしたら、なぜか気になるぐらいユニークな人物であることが、物語の構成上必要とされている点で、似ている。

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 『かけら』について→こちら
 『新しいビルディング』について→こちら
 『松かさ拾い』について→こちら
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 『窓の灯』について→こちら
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2009年04月12日
 空 ~美しい我の空 美 我 空 - ビ ガ ク ~ my beautiful sky 【完全初回限定盤】

 この空は皆のものであり皆が同じ空を見ていると信じることができる一方で、この自分によって見られている空は一つしかないとも信じられる。人の認識において、こうした二つの想念は必ずしも矛盾しないし、対立しない。ただ、南からのものであろうが北からのものであろうが季節風のざわめきが感情を揺らすように、生きていることの哀歓を入り混じらせる。

 堂本剛の新しいソロ・ワークである剛紫(つよし)には、「堂本剛」名義のそれともENDLICHERI☆ENDLICHERIや244 ENDLI-x時代のそれともまた違った世界がひらけているのだけれども、これが一種異様な境地であって、なかなか他に類を見ない。シングル『空 〜 美しい我の空』とアルバム『美 我 空 - ビ ガ ク 〜 my beautiful sky』で聴かれるのは、きわめてスケールは大きくありながら、しごくパーソナルかつスタティックに響き渡るという、この、いっけん相反した二つの印象が、不思議と同居したサウンドなのであった。

 リズムに関しては、たしかにENDLICHERI☆ENDLICHERIや244 ENDLI-xの活動で学んだファンクの色が生かされているにもかかわらず、高揚感に直結する部分は極度に後退させられており、総体的にメロディアスといえばいえるなか、そのセンスであったり、歌詞にあてられた言葉は、ひじょうに内向的で、バラードのスタイルといおうか、テンポをアップしないナンバーが、おおよそを占める。躁と鬱の二極で捉えるなら、間違いなく、後者に近しいと判断されるが、しかしそれが、暗い、や、重たい、に変換されない。もっとずっと、あわく、ナチュラルに、せつなく、うれい、そこから迫り上がってくる情緒への信頼を、表現の強度、うつくしさに持っていっている。

 あえていうなら、シック、な作風である。初期の頃のようなSICKさもあり、大人びて得たCHICさもある。

 アルバムには未収録な「空 〜 美しい我の空」は、ゆるやかなピアノの伴奏と東儀秀樹による雅楽器が、メロウに寄った旋律を設けていき、そこにオーケストレーションが薄く被さる。堂本のヴォーカルは、あいかわらず、堂々として、伸びがいい。通常のシングルとして考えるなら、もうちょいのポップさ、キャッチーであること、フックのつよさが欲しいところではあるものの、ENDLICHERI☆ENDLICHERI以降、このアーティストは、そうした観点でシングルを編んではいないと考えられる。7分もある大作で、どかん、とくるダイナミズムは用意されていないのに、ヴォーカルとバッキングの絶妙な案配が、だれない起伏をつくっている。

 同じく東儀秀樹を招いての、しかし今度は堂本が歌うかわりにギターを入れ、ジャム・セッションふうに展開されるインストゥルメンタル「美 我 空」で、アルバム『美 我 空 - ビ ガ ク 〜 my beautiful sky』は、幕を開ける。244 ENDLI-xとの連続性を感じさせるファンキッシュでエレクトロニックなアプローチだが、そのまま動的なモードにはなっていかず、続いて2曲目の「TALK TO MYSELF」は、たいへんシンプルなバンド演奏の、スロー・ソングだ。〈リアルを… / 光を… / 真っすぐに / 君に捧げたいんだけど / 時代はそうさせないかも知れないな…〉というフレーズが、エモーショナルにうたわれる楽曲の題が「TALK TO MYSELF」であるのは、どことなく意味深でいて、アルバムの方向性を暗示しているかのようでもある。

 やはり激しさとは無縁の、凪いで、スローな歌うたう3曲目の「愛詩雨(あいうたう)」が、じつはマイ・フェイヴァリットである。〈愛は優しいから / 僕に黙って死んだよ / さよなら云わずに / そっと胸で死んだよ〉、こういうフレーズが、もったいつけられることもなく、一語一語のはっきりとした発声、メロディによって告げられる出だしからして、たまらない。アンチ・クライマックスな進行の内に、〈癒えないで / 癒えないで〉と〈死ねないで / 死ねないで〉と紡がれ、重ね合わせられるイメージは、ともすれば空漠としているが、〈愛は優しいから / 僕に黙っていたよ / さよなら云わずに / そっと胸で / 生きていたよ〉と反転するラストに、やさしく、前向きな意識を感じたい。

 初回限定版のみに収められた5曲目の「雨の弓 〜Ameno-yumi」では、ストリングスが劇的なドラマを描いており、クラシックな弦楽器の合奏とエレクトリックなギターのソロが、おおいに盛り上がる中盤の展開が、とてもかっこういい。そして繋がれる〈この悲しみ降る場所から / 陽を打てば / あなたまで / 架かるのかしら〉という願いの、なんてセンチメンタルなことかよ。

 6曲目の「NIPPON」や7曲目の「叶え Key」で、前者ならば〈NIPPON〉が、後者ならば〈NIHONJIN〉が、といった具合に、やたら半径のひろげられたアイデンティティをコーラスに用いるのは、個人的にあまり好むものではないのだけれど、リズムの柔軟さ、愛嬌と差し引き、心地の好いグルーヴに包まれる。あるいは〈NIPPON〉や〈NIHONJIN〉といった依り代を前にしたことで、ようやくこの、踊り、祝祭のためのギア・チェンジが導かれたのか。いずれにせよ、アルバム中、もっとも躍動にあふれた場面であるのは間違いない。

 堂本自身のピアノの弾き語り、9曲目の「歴史」も、タイトルだけなら大げさだが、赤い糸の挿話をモチーフとし、〈キミ〉と〈ボク〉のあいだに置かれた小さな関係性を、深く、歴史に喩えられるまで、深く、記憶を掘り起こすように、深く、デリケートにラヴ・ソング化している。しっとりとしていて、〈指先〉の個所で、〈君が云う〉の個所で、〈好きだよと〉の個所で、ファルセットになるヴォーカルに、うっとりとしてしまった。

 以前にくらべ、実験的な性格は低まり、音楽的なキャパシティが狭まったぶん、とっつきやすくなったかといえば、いやいや、そうでもない、ないか。楽曲のアレンジのわりとストレートであることが、翻って、堂本剛とそのソング・ライティングに独特のレリッシュを濃くしている。ラストの「Purple Stage」は、作品全体のプロセスが、あたかも大団円として集約されているかのような、スローなソウルに任せたナンバーであるが、必ずしもハッピー・エンドには思われない、何か、いわく言い難い悲壮さを満たす

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 『Coward』について→こちら
 「ソメイヨシノ」について→こちら
 [si:]について→こちら

 『僕の靴音』について→こちら
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2009年04月11日
 立原あゆみのマンガには、現代を舞台にしているものが多く、したがって現実の時代風俗を参照している場合が多い。この文庫版『本気!』の7巻では、ポケベル(ポケット・ベル)の使われているシーンがあって、へえ、そうか、その頃の話に作品が入っていることを教えてくれる。ヤクザは地上げ、投資、土地を転がし、莫大な利益をあげるようになっている。動かされる額もずいぶん景気がいい。こうした背景は、じつは、主人公である本気(マジ)に与えられた役や、彼と関係する人物たちの構図にも、影響を及ぼしている。

 たとえば、染夜の存在などは、経済系の新式ヤクザと武闘派の旧式ヤクザという対照において、本気のライヴァルとなりえていたはずであった。いわんや、本気は後者である。しかし、武闘派のヤクザのままでは極道の世界を生き残れなくなってしまった、さらには上に立てなくなってしまったことが、おそらくは、物語上で働く主人公の機能を変えており、染夜とのライヴァル状態をも解消させている。もはや、本気は金の価値に対して無垢ではいられない。もちろん、がめつくなったというわけではない。執着のなさは相変わらずといえる。ただ、どうしても金を手段として必要にせざるをえない局面がこの世界にはある、と受け入れられているのだった。

 取り込み詐欺の被害者から相談を受けた本気と弟分の次郎のこういうやりとり。〈兄貴 / 話聞いてみると / とんでもないやつですね / また別の会社つくって悪さしているんでしょうね〉〈そういう悪がいるから / オレたちも食っていける / 法律のザルの目ぬけて生きていくやつがいるからよ〉〈違います / 兄貴 / そういう悪からかたぎの人守るためにオレたちがいます〉〈わりい / そうだったな〉〈はい!〉と。こういうやりとりは、作品のなかの現在で主人公に与えられている役割を適確に代弁している。次郎の〈はい!〉という嬉しそうな声がいい。次郎がどれだけ、本気に感化され、信頼しているかが、伝わってくる。

 主人公の武闘派で旧式なヤクザからの脱却は、戦略的な面においても、すみやかな効果をあげている。渚組と集優会の緊張が高まっていくなか、本気が先手を取ることができたのは、正月の慣例に束縛されず、動くことができたためだ。一個の土地をめぐる争奪戦に突破口を見出した次郎は、そのキー・パーソンである老人に、今にでも会いに行くことを本気にすすめる。〈兄貴すぐに〉と言う。これに本気は〈松とれんうちは失礼じゃろ〉と最初は断るのだけれども、〈何言ってんすか / 松とれたら集優会も動き始めます / 出入りするわけじゃねえ / 動いても極道の仁義にゃはずれんでしょう〉という次郎の訴えに促される。じっさいこれが、集優会の、とくに武闘派である奥村を出し抜く結果を導いている。

 しかるにそれが、必ずしも、ずる、と見られないのは、たしかに〈出入りするわけじゃねえ / 動いても極道の仁義にゃはずれんでしょう〉であるからなのだが、もうすこしべつの方便、すなわち世俗VS神聖とでもいうべき傾向が、作中によりつよまっていて、主人公の行動理念は、そのベクトルのありようによっている、というのもある。この文庫版にかぎらず、シリーズの全編を通して眺めることができる今日の立場から述べるなら、『本気!』とは、いうなれば、あの手塚治虫の『ブッダ』の、立原あゆみのヴァージョンとして解釈されても構わない。本気のパンチ・パーマがシャカ族の王子シッダルタのそれを思わせるのは伊達ではないのだ。と、まあ、これは冗談半分であるけれども、煩悩から出発した主人公が、苦難、苦悩、苦行を経て、悟り、聖人化してゆく過程が、一つの篇を長く編んでいることは疑いようがない。そうして、この巻で挙げるなら、忘木のような、怖いもの知らずで傍迷惑な者でさえも改心させ、じょじょにシンパを増やしていく。次郎などは、さしずめブッダの高弟だろう。

 もっとも『本気!』に関しては、久美子とのピュアラブルな恋愛が大元にあり、野心や欲望からの離脱を本気に強いているのだが、それにしても驚かされるのは、彼のストイックさよ。クリスマスも大晦日もバレンタインも一人で過ごすかい。どれだけ惹かれようともヤクザに堕ちた人間と良いとこのお嬢さんでは住む世界が違いすぎる。〈そうです / 久美子さん / あなたも関係ねえお人だ / ただオレの目にうつる風景の中にきれいな花が咲いていたって許してもらえる / ま…何を考えたって始まりません…………久美子さん / オレはあなたが元気でいてくれるそれだけでいい〉と心に願うのみなのである。またこの願いが、せつないドラマを生むこととなる。

 ところで、先ほど触れた土地の件、キー・パーソンである老人との面会にさいして、この文庫版でいうなら前巻の、大阪から東京へ戻ってくるくだりで出会った幼女が、まさか関連してくるとはな。おそらくは、いや、ほぼ間違いなく、後付けのご都合主義でしかないのだが、そうはいっても、あらかじめ用意周到であった可能性も捨てきれない、すくなくとも読み手の与り知らぬところで、ほとんどの人物が、無駄には登場せず、何かしらの役を負っている、という辻褄が合わせられている、これぞ立原マジックである。ここには、施設で暮らす孤児のすずめとアキラの別れが描かれているけれど、この二人もたしか、物語のずっとあとのほうで再会するんだよね。そのようなサプライズがあるたび、伏線や仕掛けというのとはまったく違うにしても、作者はよく忘れなかったな、と感心する。

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 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1・2巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『恋愛』
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  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『仁義S』
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
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2009年04月09日
 さしずめ高橋ヒロシ・バブルといったところだろうか。クレジットのどこかに彼の名前が入れられたマンガの同時連載率たるや。もちろん、こうしたことの背景には、実写映画『クローズZERO』のヒットやフィギュアの市場におけるプレミア化、そして芸能人やミュージシャンなどからのリスペクト視が、重なり、後押しとしてあって、じっさいに高橋自身は名前を貸しているだけ、作品に関与していないものがほとんどなのだが、それはかえって彼の有するネーム・ヴァリューの大きさ、ブランド力の高さを知らしめることになっている。この活況はどこまで続くのか。まあ、もしかしたら実写映画『クローズZEROII』の公開をピークに、ある程度の収束を見せるのかもしれないけれど、いま現在の状況にかぎっていうなら、ちょっと馬鹿にならないよ、これは、と思う。ただし、高橋の名前を借りて成り立っているマンガ群の大半が、質的に残念な内容しか持っていないことは、過去にも何度か述べてきた。

 さて、高橋の代表作『クローズ』の、実写映画版として成功した『クローズZERO』の、コミカライズにあたるのが、この内藤ケンイチロウの『クローズZERO』という作品である。周知のとおり、実写映画『クローズZERO』は、マンガ『クローズ』のいわゆる前日譚を念頭に、作者公認の二次創作ふうにつくられた独自のストーリーであって、もちろんマンガ版はそちらのほうにならっている。オリジナルの『クローズ』がどうというより、実写映画の物語を、きわめて忠実にマンガ化しているのだけれども、おそらくは表現方法の違いからだろう、いくらかの変更点も見られる。その最たるは、作中のヒロインに位置する逢沢ルカが、フィーメールなヴォーカリストの立場から、主人公である源治の中学時代の同級生に移動させられ、映画版ではあまり深くは踏み込まれなかった部分、源治と時生のかつての繋がりが、クローズ・アップされていることである。これによって、静的な鑑賞に耐えうるドラマのレベルで整合性は高まり、アクションの面では動的な映像の派手さにかなわないところが、フォローされている。

 以前に『週刊少年チャンピオン』に載った記事によれば、オーディション式にイラスト・ボードから選ばれ、今回のマンガにあたったという内藤の作風は、高橋ヒロシのバイアスがへたにかかっておらず、他のフォロワーにくらべて、十分に個性が生きている。技術的には拙さがあるものの、エピソードが進むにつれ、コマを割って進むテンポも、だんだんよくなっているみたいだ。正直、作品自体は、メディア・ミックスの要素を差し引いてしまったなら、かなりインパクトが弱い。しかし個人的には、先にも触れた源治と時生のそれも含め、作中人物たちの友情とでもすべき関係性がどう描かれるか、地味でまじめな表現のなかに期待しているものがある。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(09年)