ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年03月31日
 蒼太の包丁 20 (マンサンコミックス) (マンサンコミックス)

 細かい部分はさておき、料理マンガと大きく括るのであれば、数的に見ても他の題材に決して劣らぬこのジャンルの、とくに物語のレベルにおいて、『蒼太の包丁』は、いま現在、もっとも正統派の作品であるし、すぐれて上質な部類に入るとさえいえる。北海道から上京してきた青年が、形式と伝統の世界で揉まれ、自立を目指し、頼もしく成長してゆく、こうした本筋の魅力的なところは、20巻の長さになっても変わらず、さまざまなエピソードが次々に繰り広げられている。しかしまあ、嫌な奴は嫌な奴でどこの店にでもいるもんだな。蒼太たちが働く銀座の『富み久』から、赤坂の『なのは』へ移っていった須貝が見舞われる悪意に、思わず、そう呟きたくもなる。だが、ここで重要なのは、嫌な奴が誰でどうというより、災難に振り回された須貝が、それをバネとし、前向き、また一つ、歩みを進めることに、物語のテーマが託されている点である。主人公の蒼太と同じく、作中の時間は確実に、ワキの人物たちをも逞しくさせている。初期の頃の、あのだらしがなかった須貝は、もはや、いない。それは、以前と比べたときに彼の造形がぶれているということではなく、こうした表情を持てるまでに彼が育っているというしるしにほかならない。一方、蒼太のもとには、亡き父の弟弟子だという料理人、勝俣が訪れる。生前に〈俺に万一のことがあったら……たまにでもいい 東京で仕事をしている蒼太の様子を見てやってくれねぇか?〉と言付かっていた勝俣の目に、はたして蒼太の仕事は、どう映るか。一度は苦言を呈しながらも、十分に納得のいく答えを得られた勝俣は、まさしく蒼太の、父の魂とでも呼ぶべき包丁一式を手渡す。こうしたくだりは、たしかにウェルメイドのきらいがあるだろう。じっさい、話の内容そのものはあまり深くなっていないので、作中人物と同じぐらいの感動を得られるかといえば、ノーである。主人公の成長自体の表現化にはなっていないためでもあるのだが、そのかわり、彼はいったいどこまで進んだか、一種のチェック・ポイントであるような確認が、物語のなかに明示されている。

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 とりあえずは、もうここで完結しても十分だろう、ゴールしてもいいよ、と感想を述べたいのであったが、いやいや、それは決して批判の意味ではない。じつのところ、たいへん恥ずかしながら、この『味いちもんめ〜独立編〜』の、2巻の内容には、これまでの無印『味いちもんめ』そして『新・味いちもんめ』とシリーズを通し、最大級のクライマックスが用意されており、読みつつ、涙させられてしまったのだった。おい、具体的にどのへんだよ、と尋ねられれば、もちろん、ついにオープンした伊橋の店に、かつての恩師である『藤村』の親父さんが訪れ、祝いの言葉をかける場面のことをいっている。そこはまちがいなく、シリーズ全体を一個の作品として捉まえたさい、重要な到達点であるような、つまり、これを描いてしまったらあとは何が残されるんだ、というぐらいのピークを担っている。だって、そうだろ。スタートの段階においては、つっぱった兄ちゃんでしかなかった主人公が、形式と伝統の世界で他人と交わり、経験を積むうち、いくつかの変節を経て、一人前の職人へと成長してゆく、こうした過程のすべてが、『藤村』の親父さんの〈いい店やないか。開店おめでとう〉という伊橋に向けた言葉、さらには従業員たちに対して〈いたらん所もあると思いますが、伊橋をよろしく頼みます〉と頭をさげる姿には、集約されているのである。以前のレギュラー陣、無印のボンさんやナベ、「新」の松下や早瀬の再登場も手伝い、作品史上、特筆すべきエピソードとなっている。すくなからぬ思い入れを持った読み手であれば、しばし泣けるであろう。『味いちもんめ』を、伊橋の物語として考えたとき、もはや、これ以上のドラマがありうるとは思われない。無印の当初は、伊橋の意識に明確であった親子間の確執と葛藤も、『藤村』の親父さんとのやりとりに肩代わりされ、報われていると見てしまってもいい。もう、これ、最終回でいいじゃん。とはいえ、深田と啓介の新メンバーを加え、いよいよ『楽庵』を開店させた伊橋の、見事な大将っぷりは、しょぼい自分探しで展開を引き延ばしていたふうな「新」の、あの後半のぐだぐださ加減を払拭して余りある充実を、ストーリーに提供している。ふつうにおもしろい。まだ人手の足りない『楽庵』に助として入っているナベや早瀬とのやりとりもたのしい。伊橋の野郎、すっかりカリスマじゃねえか。ほんとうはこのまま、山あり谷あり質のよいエピソードを量産していければ、まあ、問題はないのだが、いかんせん、「新」の前例があるだけに、シナリオの部分に不安が残る。

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 『新・味いちもんめ』
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2009年03月30日
 〈とんでもなく甘い気象予報 / 曰く俺らは異常気象〉「Re(mark)able」

 あのときの興奮がよみがえる、というのは、いかにもクリシェであるけれど、当日、会場に居合わせた者からすれば、あのときの興奮がよみがえって仕方がない、というのは、まぎれもない事実である。

 DVD『ARASHI AROUND ASIA 2008 in TOKYO』には、昨年(08年)の9月6日、東京は国立霞ヶ丘競技場に、むんむんと充ち満ちていた歓喜に歓喜と歓喜が、余すところなくパッケージされている。超が付くほどに大スケールなコンサートの、見事に映像化された模様は、おそらく、居合わせることのかなわなかったファンにも、十分に追体験の感動を与えると思う。

 嵐(ARASHI)の5人によって繰り広げられるハイパーなパフォーマンスに7万ものオーディエンスが沸く、ちょっとしたロック・フェスティバルをはるかにしのぐ光景は、全編がクライマックスというに相応しい。しかし、やはり、最高の瞬間として挙げたい、はげしく圧倒されるのは、2枚組ディスクのうち、DISC 2の冒頭、ショーの中盤、いったんのブレイクを挟み、聖火の燃えさかるなか「Re(mark)able」が炸裂、そして続けざま「truth」へとなだれ込んでゆく場面であろう。

 尋常じゃない。ほんとうにやばい。こうしてふたたび、そうして何度観返しても、心のヴォルテージが、マックスを超えて上がる。過去にもさんざん述べてきたが、90年代のラストに登場し、そのまま00(ゼロ)年代を突っ走り、まさしくタイトなパイオニアとして、時代の寵児にまで昇り詰めたグループの、そのキャリア、勢い、ポテンシャルが、驚愕のワン・シーンにおいて、遺憾なく発揮されている。

 そのようなハイライトが、どうやってつくられていったか。あたかも、プロローグのごとく、ドキュメントのように、DISC 1の最初に置かれている今回のコンサートのメイキングで、あかされている。メンバーの一言、スタッフの協力、リハーサルの最中にも、アイディアは密に練り上げられ、完璧が目指されている。さらには、ショーを設計する段階にあって、松本くんがどれだけキーの役割を果たしているのかが、よくわかる。

 また、本編との関係性でいうなら、オマケにあたるパートであるけれども、国立霞ヶ丘競技場での公演を含む2度目のアジア・ツアーのために用意されたナンバー、「Re(mark)able」のレコーディング過程が記録されているのも、貴重だ。

 バックのトラックを聴きながら、ノートのパソコンでエディタの窓を二つ開き、ラップ詞の作成に頭を悩ませる櫻井くん、そこからじょじょに楽曲が、完成へと近づいていく様子は、歌を吹き込むさいの苦労、工夫に各人の個性もよく出ていて、へえ、こんなふうになっているわけかあ、裏側をのぞけることができるのは、たいへん興味深い。

 コンサートの終盤、「言葉よりも大切なもの」が披露されている途中、櫻井くんが天を仰ぎ、歌い終わり、そのことを伝えられた二宮くんが、マイクを通さずに、え、という表情で「雨」と口を動かすのを見、そういえば、たしかにあのとき、雨が降り出してきたんだったな、と思い出す。

 最初は気のせいかしら程度の降りが、だんだんとつよまっていたのだった。野外のイベントで雨天になってしまうのは、ふつう、残念でしかないが、しかしそれがちょうど、最後の最後になってやって来たのは幸運である以上に、嵐という語の字義、そしていくつかの楽曲にあらわされた歌詞のイメージも込みで、このグループのアンコールにぴったりなシチュエーションとなりえていたのは、まさしく奇跡のよう。

 まさか、それを予想していたわけではあるまいね。締め括りが、アップ・テンポなミクスチャー・ロックのテンションで、〈Rainy Cloudy Fine Today〉とうたわれる「五里霧中」であったのは、今こうして振り返ってみても、できすぎである。

 雨のはげしくなっていくことが、天すらも味方につけているみたい、すぐれた演出となって、ステージ上、ありったけの声援を受け、手を振る5人の魅力に還元されてしまう。あのときの、信じられないぐらい、すばらしくすばらしかった興奮が、まざまざとよみがえる。終演後の雷。すべての印象を、たぶんずっと、忘れることがない。

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 『truth / 風の向こうへ』について→こちら
 『Dream“A”live』について→こちら
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 9月6日『arashi marks ARASHI AROUND ASIA 2008 in TOKYO』について→こちら
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2009年03月29日
 河原和音の『青空エール』は、1巻のときはそうでもなかったのだが、2巻を読んで、ぴんとこない。どころか、あまり感心しなくなってしまう。それというのは、相応のキャリアを積んでいる作者が、どうしてこんな、まあ原作が付いているわけではないのだけれども、出来がいまいちな児童文学のコミカライズみたいな作品を描くのか、つよく響いてこないためで、もちろん、児童文学のコミカライズみたいな作品であることが、どうというのではない。そうではなくて、ここに捉まえられている純粋のようなものが、個人的には、よく信じられないのである。ヒロインのつばさは、高校にあがると、吹奏楽部に入り、甲子園のスタンドで、トランペットを吹き、野球部の応援をすることを夢見る。しかし、まったくの初心者である彼女にとって、吹奏楽の名門として知られ、実力者が揃って練習に励む活動の内容は、きびしい。ときにはくじけそうになってしまうつばさであったが、野球部でがんばり、甲子園出場を目指すクラスメイト、大介の存在と言葉を支えに、すこしずつ、夢に向かって、前進をしてゆく。こうした物語をあらわすにさいし、作中からはほとんど、悪意をもって働きかける人物が、排除されてしまっている。そのため、いかにもピュアでござい、としつらえられている部分が、無条件に前面化している。ふくらみがない。もしも、何かしらかの純粋が託されているとしたならば、それはひどくごつごつとしていて、とても魅力的には感じられないのだ。たとえば、ここに示されているイノセンスは、『高校デビュー』がそうであったように、体育会系の熱心さを糧にしている。だが『高校デビュー』においては、そうしたヒロインの資質が、周囲の言動によって相対化されることで、ある種のイノセントとして機能しえたのに比べ、『青空エール』の場合は、子供は子供だから純粋だという無根拠な思いなしと同じく、十分に検討されていない基準を信仰しているふしがある。そうした偏りは絵柄にも及ぶのか、登場人物たちのデザインにしても、以前ほどにはチャーミングでなくなった。

・その他河原和音に関する文章
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2009年03月28日
 さまざまな体験を通じ、ヒロインのしま奈にとって、虎(たいが)、朝陽、善たちとの暮らしが掛け替えのないものになってゆくなか、また一人、クセのありそうな人物と関わりを持つことになる。その、善の兄、拳の登場、次第にあかされる彼ら兄弟の葛藤が、高野苺の『夢みる太陽』3巻の、一つの柱とでもいうべき展開になっているわけだが、そのほかにも、しま奈の心が朝陽から虎に移ったり、しま奈に対する善の片想いが頑なになったり、といった二つの柱が存在している。もちろん、それらは異なった面を別々に支えているのではない。同じ、一個の物語にかかっている。では、ここでいう物語とは何か。『夢みる太陽』は、その内容を、同居タイプのどたばたラヴ・コメディ、と簡単にまとめることができる。しかし、それはあくまでも設定と語り口の問題であって、ストーリー上の要点は、もうすこし、ほかのところに見られる。たしかに、どたばたとしていることが、にぎやかなラヴとコメディの部分を、がんがん盛り立てており、次から次へ、ひっきりなしに事件の起こっていくさまが、作品のテンポや魅力を担ってはいる。だが、それだけではこの、浮き世離れしているかのようなマンガが、どうしてときどきエモーショナルなのか、を説明しきれないのである。したがって、もしも『夢みる太陽』に、何か、こちらの心をゆっくり動かすものがあるとすれば、それは、いささか紋切り型の言いになるけれども、おそらく、先天的な共同体から逃れてきた人間が後天的な共同体のなかで家族関係をやり直す、式のテーマが、現実性として控えられているためなのだと思う。この巻のアタマのほうで、しま奈が、自分たちを家族に喩えてにこやかなのは、たんに洒落がおかしかったのだと、ふつう、読み手は受け取らない。また、善と拳の兄弟は、まったくじつの肉親にほかならないが、いったん家庭の外に出なければ、ここでのくだりで見られるほどには、正直になれなかったのではないか。拳が、善と言い争いしたのち、もともとは同級生だった虎に〈てめぇ 善に変な事考えさすなよ ちゃんと見てろって言っただろ 道 間違えねぇようにちゃんと見てろって!〉と告げていることは、ある意味で、それを裏書きしている。反面、善と拳の対立は、多くの関係性が、家族の感情をベースにしていることを教えてくれる。これに、ほんらい部外者であるはずのしま奈が、どうしても首を突っ込もうとするのは、善のことが、(すくなくとも現段階では)恋愛とは違うレベルで、赤の他人ではないと認識されているからだといえる。こうした物語を、テンポよく、あかるくほがらかに描けている成果まで見てきて、ようやくそれを、『夢みる太陽』の、特徴的な魅力として挙げられる。

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2009年03月26日
 ストロボ・エッジ 5 (5) (マーガレットコミックス)

 いま、もっとも素敵な少女マンガは、ということであれば、間違いなく、咲坂伊緒の『ストロボ・エッジ』を挙げよう。とにかくもう、最高潮に胸がときめく。せつない。このせつなさを誰かと共有できるなら、そうしたい、と願う気持ちを恋と呼ぶのなら、恋がしたい、恋がしたい、恋がしたいに違いない。たいへん、いてもたってもいられなくなるのである。

 しかしそれにしても、安堂くんがかわいいすぎる。このさい、安堂きゅん、と口にしてもいい。なんとキュートであることよ。詠嘆せざるをえない。途中から物語に参加してきたワキのくせに、完全に主役の二人を食っている。まあ、さすがにそれは過言だろうが、すくなくともこの5巻は、番外編の「〜未完の地図〜」を含め、安堂という男の子の魅力に満ちている。もちろん、ストーリー自体も、いつだって、佳境かというぐらい、感情のままならなさに満ち、きらきらとしたドラマを輝かせているけれど、ここではとくに、その輝きのうちの一つ、安堂が眩しい。

 仁菜子の、蓮に対する気持ちは変わらぬまま、季節は冬に移っていた。学校が休みに入って、これでもうしばらくは蓮と会えない。12月24日、きっと蓮は恋人の麻由香と一緒に過ごすのだろう、と思っていた仁菜子であったが、クリスマス・パーティの帰り、たまたま目に入ったガソリン・スタンドで働く彼の姿を見、どうしてか苦しく、いや、たぶん諦めきれない心が苦しくて、涙してしまう。好きだと告白してくれた安堂の言うとおり、ほんとうはふっきれなければいけない。蓮のことも、この苦しみも。しかし休み明け、学校で彼の姿を見たとたん、ふたたび思い知らされる。〈この冬休みで 会えない事に少しは慣れたかもしれない だけど目に映った瞬間 そんなのはいっぺんに振り出しに戻される こんな確かな気持ちを 私は 消すことが出来るのかな 蓮くんの写真は毎日見てしまった〉。自分の気持ちに嘘はつけなかった。

 何よりも『ストロボ・エッジ』がすぐれているのは、作中人物たちの仕草、表情に、その心のなかの傾きが、よくあらわされているからで、たとえば、先ほど引いた仁菜子のモノローグの場面では、じつは蓮の目線、仁菜子の目線、そして安堂の目線がそれぞれ、三角関係とも言い難い微妙なニュアンスを見事に構図化している。とくに蓮の眼の動き、眼の輝きは、ふだん口数が少なく、あまり大げさな感情を見せない人物だけに、他のシーンにおいても、重要な意味を持つ。

 あるいは、ここにきて、安堂がやたら魅力的なのも、表向きちゃらかっただけの彼の内面が、同様の技法により、実感として十分な説得力のあるところにまで引き上げられているためだろう。〈手は握ってないっ 服しかつかんでねーもん〉って、はにかむ、その顔、ああ、まじで恋しちゃってんのね。かわいくて弱るよ。

 物語のレベルで踏まえるならば、そうした安堂の一面を引き出しているのは、やはり、仁菜子の存在にほかならない。この巻で語られているように、かつて恋人に裏切られたせいで、恋愛に対して、女性に対して本気になれなくなってしまった。だから遊びでなら誰とでも付き合えた。その、いったんは不審になってしまった純粋が、仁菜子との出会いを、さらにいうなら、彼女の、自分のためだけに人を利用したり、騙したりしない性格を通じ、信頼を取り戻すことができているので、なんだかかわいらしい顔を見せるようになっているのである。やがて、蓮に向けられた仁菜子の一途さに、ふられた安堂が〈今なら仁菜子チャンの気持ちもわかる 仁菜子チャン 前に『いつか きっと こういう恋する』って俺に言ったよね まさに今それだから だから まだすぐには諦めるとか出来そうにないけど〉と述べている言葉の、ひたむきな印象も、そこからやって来ている。

 一方、蓮と麻由香のカップルに、いよいよ作品が佳境に入ってきたことを教えるかのような、そういう大きな転換がもたらされる。二人のあいだに何が起こったのか、くわしくは触れないけれども、両親の離婚に傷つく麻由香が、父の話を聞き、のちに一個の天啓を得るくだりは、今日の少女マンガを考えるうえで、なかなか見過ごせない。

 両親の離婚もしくは再婚というのは、この現代の家庭事情にそったリアリティを担うからか、少女マンガのジャンルに、おそらくは以前にも増して、頻出的になってきた設定だといえる。このこととパラレルになって顕在化しているのは、どれほど愛し合った者同士でも別れてしまうことがあるなら、永遠の愛などない、今こうして誰かを愛していることも、いずれ嘘に変わってしまう、という不安である。ときにそれは、恋愛に真実はない、という諦念になりうる。ある種、ロマンティック・ラヴ・イデオロギーへの反動であるが、にもかかわらず少女マンガ的なテーマを追わねばならず、恋愛主義の物語を抱かなければならない、そのような困難からはじまっている作品が増えつつある。

 もしかしたら不変なものなんてないのかもしれない。こうして前提化された困難に、『ストロボ・エッジ』は、たとえば心境と時間の概念を、麻由香の決断とそれを聞き入れる蓮の姿に託し、少女や少年の時代に必ずやもたらされる成長へ置き換えることで、うまく、誠実に応えていると思う。

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 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他咲坂伊緒に関する文章
 『マスカラ ブルース』について→こちら
 『BLUE』について→こちら
 『GATE OF PLANET』について→こちら
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2009年03月25日
 ハロルド作石といえば、今や『BECK』の作者であろうが、ロック・マンガとしての萌芽はすでに『ゴリラーマン』の時点であった。そしてそれは、日常から浮遊した文化祭の夢であり、思春期の名残となってあらわれる幻であった。これと同様に、佐木飛朗斗の(正確には佐木が所十三に原作を預けた)『疾風伝説 特攻の拓』からもまた、ロック・マンガへの指向を見てとれる。言うまでもなく、あの、死によって永遠のカリスマを得た天羽時貞の存在と、まさしく彼のギター・ヒーローたるハイライト、増天寺にて行われた大規模なコンサートのことである。が、しかしそれもまた、一度失われたなら二度とは取り戻せない、夢幻のごとく、であった。いささか後付け的ではあるけれども、そこには、今日のように毎夏のロック・フェスティバルが恒例化する以前の、ロマンとロマンの敗北とが、限りのある学園生活の姿を借り、縫い込まれていたのかもしれない。

 現在、佐木が山田秋太郎と組んで発表している『爆麗音』は、ハロルドの『BECK』がそうであったのと同様、ロック・ミュージックを直接の題材とし、学校の外側を生きる人々のロマンを、小さなライヴ・ハウスからはじめ、大きなスケールのひらけているところにまで持っていこうとしている。22歳のフリーターである主人公の歩夢が、さまざまな才能と出会い、ギターの類い希なる資質を開花させてゆく、というのがメインの筋にあたり、それと並行して、クラシック音楽に全人生をかける人々の執念が、作中に複雑な愛憎劇をもたらす。この4巻では、強力なパフォーマンスによってライヴを成功させながらも、他のメンバーとはあまりにもかけ離れたグルーヴであったため、バンドを追い出されてしまった歩夢が、再出発を誓う一方、前日譚でもある『パッサカリア[Op.7]』の、そのタイトルに暗示された伝説の楽曲をめぐり、運命の歯車が、よりいっそうの激しさをもって回りはじめる。

 過去にも何度か述べてきたけれど、『特攻の拓』の天羽時貞を最大の象徴とし、佐木の諸作品に通底しているのは、生まれと育ち(遺伝と環境)にまつわる苦悩の問題にほかならない。学園生活をベースとしない『爆麗音』の場合、社会に出ても、自己が実現されないでいる、このことへの苛立ちが反転し、生まれや育ちに対する苦悩となって、物語の磁場をつくっている。たとえば、印南烈がそうであるように、藤堂政美がそうであるように、ほとんどの登場人物は、そのエモーションを、出自に左右されてしまうのである。だが、おそらく歩夢(と、もしかしたら『パッサカリア[Op.7]』の主人公の妹、理香子)は、そうした拘束から、極力逃れられている。まあ、それは母親の冴子や妹の樹里絵と比べてみればあきらかなとおり、基本的には無知であって、無知であることがイノセントの役割を果たしているためなのだが、しかし、いっけん平々凡々としている彼が、周囲にとってチャームを持ちうるのは、眼差しが、生まれや育ちに囚われず、いまだ敗北を知ることのないロマンのほうをずっと、まっすぐ向いているからなのだと思う。

 しかしそれにしても、ガソリンバニーというグループのナンバーが名曲だとされてラジオでかかったりするのは、じつは『外天の夏』とリンクしている設定だったりするのだけれど、〈誰が何を――アタシの価値に払うのー 命なんかじゃ物足りない MONOTARINAI 命なんかじゃ物足りない MONOTARINAI(はあと)〉って、これ、ひどい歌詞だよね、どんな曲なんだろう、ちょっと聴きたい、MONOTARINAI。

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 1巻・2巻について→こちら

 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『外天の夏』(漫画・東直輝)
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 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他山田秋太郎に関する文章
 『解錠ジャンキー・ロック』1巻について→こちら
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2009年03月24日
 oh no not stereo

 フル・アルバムとしてはセカンドの扱いになるのかな。07年のEPで初めて聴き、どんぴしゃであったロサンゼルスはOH NO NOT STEREOの、ニュー・アルバム『OH NO NOT STEREO 003』が、ようやくリリースされたわけだけれども、メロディアスにロックし、ハードにポップする、そのサウンドのスタイルに大きなチェンジはなく、翳りもなし、こちらの期待に応えて十分な内容になっていて、うれしい。以前にも述べたとおり、基本線はAMERICAN HI-FIやSUGARCULTなどに近しい系であるが、あくまでもメインのメンバー2人組によるユニットであるため、こうしたサイズの作品になってくると特徴的なのは、良くも悪くも、拡散性が高いという点である。全15曲、並べられたナンバーは、アップ・テンポを主軸としながら、しかしそれ以上の幅を持っている。スローなバラードまでをも含め、多彩に富んでいるといってもよい。おそらくは、ソング・ライティングの段階でまとめられたアイディアから演奏の形態が練られていった結果、そうなっているのだと思う。バンドの編成をパーマネントに有していないことが、ある程度の制約を、事前に、解除してしまっている。そういった意味では、ソロ・アーティストの制作するアルバムに、雰囲気が、とてもよく似ている。自由な発想がそのまま、持ち前のカラーとなって、響く。反面、すべてのコンビネーションが一丸となって、突っ込み、のけぞり、盛り上がっていくかのようなタイトさに、すこしばかりの弱さを感じられる。いやいや、ギターははげしくはじけているし、ドラムのアタックはパワフルでするどい、かなりかっこうよく決まっているのだけれど、こういうタイプのアレンジであれば、総体的なグルーヴに、かっさらわれるぐらいの勢い、いったん覆われたなら抜け出せない厚みがあって欲しい。良くも悪くも、とは、つまり、そうしたニュアンスを指しているのだが、結論としては、やはり、ナイスな部分が傑出していることに変わりない。とくに、ギターは変幻自在にうなり、ゼッペリンふうのダイナミズムが荒々しく、逞しいなか、ヴォーカルの熱唱が印象的な2曲目の「HURRICANES」や、うつくしいピアノから入っていって、豪快なバンド・サウンドを展開、次第にドラマが過剰化してゆく4曲目の「MISS HARD TIME」、大胆な疾走のロールに、サキソフォンを導入し、大団円のラスト(じつはその後にもう1曲、シークレット・トラック的な趣向が凝らされているが、ひとまず)を飾る「CAN'T TRUST ANYONE」あたりが、すこぶる好みだ。大好き。

 『OH NO NOT STEREO 002』EP→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2009年03月23日
 恋愛 4巻 (4) (ニチブンコミックス)

 騙す男が悪いのか、騙される女が悪いのか。そうした訴えはもちろん、立場を逆転させて、騙す女が悪いのか、騙される男が悪いのか、と言い換えられる以上、必ずしも性差の都合にのみ単純化できないし、一般的に嘘偽りは正しくないので、絶対に騙す側がいけない、と判断するのも可能ではあるのだけれど、じつはそうと知りながら騙される、ということも世間にはありうる。このため、たいていは当事者の関係を固有のものとし、内情を見、是非を推し量っていくよりほかないのだが、いずれにせよ、悩ましい問題であるには違いない。立原あゆみが、マンガ『恋愛(いたずら)』を二部する構成のうち、オムニバスのパートに描く、つまりホテル街にあるバー「いたずら」を訪れたカップルたちに託しているのは、恋愛状態にあるような男女の仲に、そもそも共犯ならざる罪の介在する余地はあるのか、もしあるのだとすれば、はたしてそれはどういうふうにあらわれるのか、あるいはそのせいで幸福になれないのが悲しいのはなぜか、アンビバレントなまま、いくらでも続けられる謎かけを、ちょうど人がひとり、両手ではすこし持て余すぐらいのサイズに切り出した憂鬱なのだと思う。正直、作品がはじまった当初は、主人公のジミーの、いけいけの復讐譚だけを重点的にやってくれればいいのに、という気持ちのほうがつよかったのだが、しかし平凡な人々の、ささやかでしかない願いが、それこそ毎回引用されている歌謡曲のごとく変奏されながら、静かに、さまざまな重みを伝えてくると、ジミーの破滅的なスタンスとは異なった部分で、人生の哀歓を響かせるようになっている。この4巻の冒頭、「メモリーグラス」や「雨の慕情」と題されたエピソードなどは、それが一話単位で、うまく、はまった例であろう。その一方で、ジミーの、ヤクザとしての宿命を追ったパートが、重要なモーメントを迎える。死んで欲しくない人間が死ぬ、死んでしまう、というのは、フィクションにおける常套手段であるし、この作者が得意とするパターンであるけれど、これでもう、すべてを擲つのにジミーの躊躇う理由は何もなくなってしまった。それは決して救いじゃあないことが、ひどく、寂しい。

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・その他立原あゆみに関する文章
 『極道の食卓』
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 『仁義S』
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  7巻について→こちら
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  3巻について→こちら
 『本気![文庫版]』
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  4巻について→こちら
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  1・2巻について→こちら
 『ポリ公』
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 『喰人』1巻について→こちら
2009年03月22日
 そもそも、立原あゆみの『極道の食卓』は、1巻が出たきりになっている過去作『喰人』を原型にしていると見てもいいのであって、つまりは柳沢きみおにとっての『大市民』のようなもの、といえばいえなくもない側面を持っているのだけれど、個人的には、あくまでもマンガを読みたいときに、そういう時事に対するオピニオンは、やはり、ストーリーとなる部分が生きてこそ有意義だと思っているので、さすがに8巻までになってくると、一話完結の形式でエピソードをこしらえるのがつらくなってきたのか、お話のレベルに当初ほどのエンターテイメント性が感じられず、すこし残念な節もあるにはあるのだが、路上売春婦と援助交際者の対立を描いた篇や、若いカップルの出産を苺のバースデイ・ケーキで祝う篇、そして、久慈雷蔵の子分の失恋をベースとした篇には、シリアスな作品とは違ったユーモアのなかに、独特のあゆみイズムがよく出ており、世知辛さも込みで人生の情趣であるような、そのへんはしっかり満足のいく内容になっている。とくに、先ほど挙げたうちの三番目、濁組の若い衆である飛が、高嶺の花に一目惚れし、夢中になったはいいが、二目と会えず、傷心するくだりは、ああ、こういうのがやっぱりこの作者の真骨頂だな、と思われる。純情であるあまり、恋愛にはからっきしなヤクザというのは、『本気!』の初期に通ずるものだろう。いや、もしかしたらパロディになっているのかもしれない。もはや自分からは失われてしまった清廉を、高潔でうつくしく見える女性に求めるというのも、そうである。しかしそれが、ここでは、ひとひねりのオチも含め、ラヴ・ストーリーとして盛り上がる以前の、可笑しいとも悲しいとも、何とも言えない、侘びしさを連れてくる。

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2009年03月21日
 サムライソルジャー 4 (4) (ヤングジャンプコミックス)

 これまでの3巻において、山本隆一郎『サムライソルジャー』の、単行本(コミックス)の表紙をつとめていたのは、つねに主人公の藤村新太郎であった。しかし、この4巻でついにべつの人物がカヴァーを飾る。そう、藤村のライヴァルであり、もう一人の主人公とでもいうべき桐生達也のことである。これはある意味で、物語に、一つの転換が訪れていることを暗示しているかのようにも思われる。よくよく注意するまでもなく、4巻の作中に、桐生の姿は、ほとんど、見かけられない。にもかかわらず、彼の存在感は、その野望によって、以前にも増し、大きくなっている。そのこととは反対に、というべきか、それとも正比例して、というべきか、主人公でありながらもメインのストリームからは外れていたため、当初は控えめであった藤村の活躍もまた、ずいぶんと目立つようになってきた。いずれにせよ、桐生のプランが具体的になるにつれ、そうなっている。藤村が、それに真っ正面から口を挟む、首を突っ込みはじめたことで、そうなっているのである。こうした二者の、各々が各々で自分に課している使命の対照こそが、やはり、作品の最重要なポイントであって、その象徴的なバランスこそが、すくなくとも4巻の、桐生の表紙にはあらわれている。

 緊迫した空気のなか、睨み合う『ZERO』と『渋谷連合』の面々、そこに構成人数わずか一名のチーム、初代『藤村新太郎』として、まさしくワンマン・アーミーのごとく乱入し、すべてを阻止せんとする藤村に向かい、『ZERO』の一人は、こう言う。〈…藤村さんよォ き…桐生さんはこう言ったんだ 俺についてこい…そーすりゃ ずっと不良(ガキ)のままでいさせてやるってな………あんたにはわからねーかもしれねーが 俺ら渋谷にしか居場所がねーんだ…あんたが桐生さんの邪魔するんなら 俺らだって自分のために体張るんだよ!!〉と。これに対し、藤村は〈…バカ同士よってたかって ケンカして血ィ流して守る居場所…んな居場所にドンダケ価値があんのよ? そのモノサシ 俺にはわかんねーが………こっちも大事なモン守るためにデバってんだわ テメーらの欲しいモン…簡単に手に入ると…思うなよ!?〉と一蹴、居合わせた全員を挑発してみせるのだった。

 いやあ、3巻の盛り上がりを受けたまま、スペクタクルは増大する。『ZERO』対『藤村新太郎』の火蓋が切って落とされようとするとき、満を持してあらわれた元『マーダーコープ』の頭、ヨッシー(吉田薫)が、にくいね。まったく。良いところを全部持っていきやがった。これなんだよなあ、いっけんぶさいくでかっこうわるいヨッシーが、『マーダーコープ』の連中から慕われるのは、というやつであろう。そうした藤村とヨッシーの意外な登場により、『ZERO』と『渋谷連合』のあいだにある緊張は、いったん水に流される。だがもちろん、それはすべての終わりを意味しない。むしろ、すべてのはじまりとなって、今後の展開を担ってゆくのである。ふたたび、渋谷の、戦争状態であるかのようなサイドに帰還せざるをえず、花屋の仕事を辞め、居候先を去った藤村を引き受けるかわり、〈……教えろ あんなに嫌がってた不良(ガキ)の世界になんで戻った?〉と尋ねるヨッシーのするどさが、侮れない。これなんだよなあ、いっけんぶさいくでかっこうわるく、もてないし、だいいちもてるための努力の方向性が完全に間違っているのに、なぜか男前に見えてしまうのは。だが藤村は、ヨッシーの問いに、うまく答えることができない。あるいはそれ以前に、正確に答えようとはしていない。ぼかしている。なぜならばそこには、かつては親友であった桐生に関する、とてもデリケートな問題が含まれているからだ。そしてそうした二人のやりとりは、迂遠にではあるが、じつは作品上の構造自体を言い当ててもいる。

 この『サムライソルジャー』という物語は、あらかじめ主人公のために用意されていたものではない。当人もそれをよく知っている。だからこそ、部外者でいたかった。主人公らしからぬ立場にいた。主人公以外の人物たちが、彼が介入してくることを快く思っていないのも、そのためにほかならない。ここでいう物語を、渋谷やストリート、青春、モラトリアムと換言してもよい。どれだけ縁があろうとも、そこから出ていった人間は、もはや外部の人間でしかないのである。一般化していうなら、OBであるような者が、現役の舞台にしゃしゃり出てくることは、当然、筋違いに近しい。しかしながら、そういう筋違いを犯してまでカムバックしなければならない理由ができてしまったので、藤村は初代『藤村新太郎』の名乗りをあげる。

 すこしばかり、作外のインフォメーションに触れておきたい。単行本の帯や巻頭の相関図、また雑誌掲載時の煽りなどを見るかぎり、作者の考えはともかく、編集の側は『サムライソルジャー』を、おそらく、アウトサイダー・フィクションのフォーマットに忠実な、すなわち現代に意匠替えした国盗り合戦、軍記物のヴァリエーションとして売り出したいみたいである。たしかに、あちこちにさまざまなカリスマを立て、渋谷統一を至上の目的とした抗争が、作中には繰り広げられているだろう。だが、作品そのものの力学は、必ずしもそれにそっていない。結局のところ、藤村は〈あんなに嫌がってた不良(ガキ)の世界になんで戻った〉のか。先ほども述べたヨッシーの問いかけは、場面を変え、次のように繰り返される。〈3日なんていってもう1週間たっちまったじゃねーか だいたい『ZERO』の渋谷統一が気にくわねーなら桐生本人に直談判すりゃいい話で おめーがわざわざ看板出す必要はねえ そう考えると おめーは理由をとにかく隠しつつ…誰にも理由を知られることなく「渋谷統一するチーム」を絶対に作らせない…ように動いている…〉のではないか。と、言われた藤村の反応からわかるとおり、これは彼の意志の、読み手に向けた代弁になっているのであって、つまり『サムライソルジャー』においては、もしも主人公が主人公として物語を十分に生きられたとき、渋谷統一の概念は、必然的に無効化されねばなるまい。すくなくとも、作品の力学は、そのように動いているので、是が非もなく、藤村の介入が、戦況を一変させてしまう。

 はたしてヨッシーが、初代『藤村新太郎』に加わるのかどうかは不明だけれども、藤村とのコンビネーションは、なかなか楽しい。シリアスな部分以外、すばらしく頭が悪いのが良い。本筋がやたら血なまぐさいぶん、こういうギャグやユーモアのセンスは大切である。ありがたい日常のワン・シーンを思わせる。一方、『渋谷連合』だけではなく、厄介なことに『藤村新太郎』とも事を構えなければならなくなった『ZERO』の幹部たちは、面倒が重なることに苛立ちを覚える。とくに、しでかしたヘマを挽回したい江田昭二は、狂気とでもいうべき光を、その眼に宿らせるのだった。かくして実現された江田と藤村のタイマンは、この巻の、最大のクライマックスだろう。喧嘩のほかに自分が存在する意義を知らない江田の執念がすさまじい。そしてその執念は、彼の回想となって、まだ藤村も雫もメンバーにおり、絶頂期を謳歌していた『ZERO』の、初期の理念として語られる。江田にとっては、やばいチームを次々と潰し、全方位を敵に囲まれたとしても、最短距離で渋谷の制覇を成し遂げようとする『ZERO』のつよさが、すべてであった。誇りであった。命を懸けるのも厭わなかった。〈ワシらが渋谷に出れば誰もがワシらに見とれとった そりゃあ気持ちよかったわい ワシらに誰が勝てる? ワシらに誰が歯向かえる? 喧嘩がイチバン強い男たちがイチバンの注目を浴び イチバンの風を切って歩く ワシは その風に吹かれて渋谷の残るチーム全部に喧嘩をふっかけたろっちゅう勢いやった〉のは、4年前も今も変わらない。ただし、新アニイこと藤村だけは、そんな自分に厳しい視線を向けてくるのが、気に入らない。『ZERO』の特攻機であるからには、〈ワシの喧嘩を認めんいうことは ワシをゴミやということと同じ 最悪の気分じゃ〉と思えて仕方がないのだったが、こうして袂を分かった以上、〈不良は喧嘩が全てじゃ わからしちゃる ワシの喧嘩を〉と、血気逸らせる。

 もちろん、藤村の態度の見え方は、江田の主観にすぎない。何よりも、藤村と桐生、そして雫が『ZERO』によって目指したのは、あくまでも『頭のいない渋谷』の可能性であって、江田の望むような、統一制覇などではなかった。それなのに、雫が亡くなり、自分が去ったのち、桐生が巨大化した『ZERO』を使い、渋谷を仕切ろうとしているため、藤村は、不良(ガキ)の世界の外で、伝説のまま、のうのうしているわけにはいかなくなったのである。

 繰り返しになるけれども、藤村を、渋谷の、戦争状態であるかのようなサイドに引き戻したのは、『ZERO』の暴走行為にほかならない。しかしそれは表面上の結果であって、本質的には、幼馴染みの桐生が、武闘派ヤクザとつるみ、何かを画策している、そのせいで命を落とすかもしれない、こうした心配のせいだろう。つまり、しごく私的なモチベーションに従っている。ここで注意しておかなければならないのは、藤村個人にとってはそれが、渋谷中を巻き込んだ抗争よりも大きい、ということだ。語弊はあるかもしれないが、決して、渋谷の街が、他の不良がどうなってもいいのではない。因果関係がまったく逆なのである。すでに述べてきたとおり、ほんらい藤村は、部外者、外部の人間としてあらわれている。その彼がまず、法や倫理の大義をかざし、不良の世界の内部の諍いに手を出していったならば、それこそ欺瞞になってしまう。私利私欲であれば、なおさら、なのはいうまでもない。だが、この観点において、藤村の切実さが不純を免れているのは、親友である桐生への憂慮が先立っているためであって、桐生の意味深長な行動からすべてがはじまっているようなとき、副次的に、抗争の形勢に関わってゆく必要が生まれている。こうした藤村の位置づけを、すくなくとも読み手にレベルにあって、明確にしているのが、桐生と裏で繋がっているとされる武闘派ヤクザ、武藤の存在だと思われる。藤村と武藤、あるいは二者の対比に、ベトナム戦争や湾岸戦争におけるアメリカの役割を投影することも、不可能ではない。

 それにしても、一定のバランスが保たれていたはずの勢力図を塗り替えてまで、桐生が果たそうとするたくらみは、いったい何なのか。藤村との対決の最中、〈わしゃ偶然 桐生さんのハナシ聞いてしまったんや〉と告げる江田の口から、ついにその一端が明かされる。

 喧嘩天国。

 そう、たしかに聞いた、〈桐生達也がヤクザぁ 後ろ盾にして創る 喧嘩で飯の喰える喧嘩天国・渋谷の話をのう〉と、江田は述べるのである。喧嘩天国がいかなるものか、具体的な内容はいまだ謎めいているが、そのネーミングのセンスからは、まあ、いけているかださいかの是非はともあれ、すくなからず99年の映画『ファイト・クラブ』の影響を感じとることができる。『ファイト・クラブ』とは、簡略していうなら、超高度に資本化された現代社会の、抑圧と暴力、テロリズムをめぐる、一種の寓話であった。『サムライソルジャー』もまた、以前にもすこし書いたことがあるけれど、日本に固有な不良のイメージをジャンル化したマンガのなかに、すぐれて等しいテーマを内包している。ちなみに、阿部和重が、渋谷の街を戦争状態に喩え、やはり抑圧と暴力、テロリズムを採用した小説『インディヴィジュアル・プロジェクション』を発表したのは97年のことである。後者に関しては、山本隆一郎がそれを読んでいるかどうかは知れないが、『ファイト・クラブ』や『インディヴィジュアル・プロジェクション』の、およそ10年後、俗にいう「9.11」を遠目に眺め、通過したのち、この国のサブ・カルチャーは、『サムライソルジャー』のような、じつにヤンキイッシュでエモーショナルなフィクションを成り立たせた。

 作品のエモーションは同時に、先行きの不安な世のなかで未来があかるくひらけていない若者たちの、とめどない寄る辺なさに拠っている。たとえば、それが当人の幸福であったとしても、江田の〈不良(ガキ)は出たトコ勝負ッ! やってみるまでわからんのが喧嘩やろーがっ!! “負け”は“死” それがワシの喧嘩……!! 前にしか飛ばん特攻機(トッコー)の意地じゃあッ…!!〉という生き方は、どうしたって寂しい。そうした江田の、喧嘩でしか物事を測れない心情に、桐生と藤村は、二股にわかれてゆく生き方を示している。かつて〈生まれて初めて喧嘩に負けた…今までテングじゃった鼻折られて悔しくて 涙ぁ流した…んな情けないワシを…桐生さんは笑うことなく認めて『ZERO』に入れてくれた…〉ことが、江田にとっては一つの救いとなっている。しかしそれを救いとし、破滅にすらまっすぐ突き進んでしまう愚かさを、藤村は〈俺の喧嘩は バカにバカってわからせる目覚ましだ〉と、容赦なく、圧倒するのである。そこではたぶん、自身を受け入れようとすることと、運命を変えようとすることとが、認識上、折り目正しく重なってはいない。こうした、ずれ、メッセージのありよう、違いようは、いうまでもなく、桐生と藤村の、現在の、分岐に連なっている。無期限のパラダイスを導こうとする桐生と、悲劇を阻止すべく奔走する藤村の。

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 外伝「吉田薫」について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
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 『GOLD』
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2009年03月19日
 youngjump4.jpg

 山本隆一郎の、『月刊ヤングジャンプ』の4月号に掲載された『サムライソルジャー 吉田薫外伝』を読んで、やっぱりこの人はどっちかっていうと短篇よりも長篇向きのマンガ家で、そしてそのへんが、おそらくは柳内大樹などと比べたときに大きな資質の違いでもあるのだろう、と思う。題名からあきらかなとおり、「吉田薫外伝」は、『サムライソルジャー』の番外編、スピンオフ(スピンアウト)的な内容にほかならないけれども、一個の独立した作品として見るなら、怪我のため柔道の夢破れた学生が、純粋に生きようとする不良との対決を通じ、励まされ、立ち直り、自分のあらたな居場所をストリートのなかに見つけるという、たいへん素朴なストーリーであって、本編を参照するなら、主人公の学生とはつまり、『サムライソルジャー』において、とくに男気あふれる喧嘩屋、半端を慎むポジショナー、吉田薫その人を指す。当然、ここで彼に対して、重要な働きかけとなっている不良は、本編のほうの主人公、藤村新太郎であり、ストリートとは、さまざまなギャングが闊歩する、あの渋谷の街のことである。要するに、吉田薫、いかにして不良になりしか、を前日譚ふうに描いている。正直、青春の挫折と救済のあらまし、骨格自体は、ステレオタイプなものでしかない。たしかに問題は、それがどのようにあらわされているか、であって、若き日の、一回かぎりの敗北で人生のすべては決まらないことが、不器用な少年たちの姿に投影され、じつに尊い和を結んではいる。しかしながら、そこから先にひらけているものが、あまりよく、見えないのだった。いやまあ、そこから先にひらけていった世界こそが、すなわち『サムライソルジャー』の本編の、まさしく学校と社会の合間に置かれたモラトリアムの、苛烈な闘争だといえる。なるほど、ヨッシー(吉田薫のことね)の、ああいうカリスマは、こうしてはじまったのか。これで中学生というのもかなりすごいが、〈どうして不良(ガキ)の世界に足を踏み入れたのか理由はない ただ藤村(バカ)の言う通り このままじゃ俺の男が腐っていくだけだ 柔道だろーが 喧嘩だろーが 俺は俺の男を上げるために 戦い続けることでしか輝けない…〉という、彼の決意には、十分な意味と価値がある。前向き、後ずさりはしまい。ただし、そのような表明は、厳密さを問うなら、ひとまず、の条件付きを逃れていない。したがって当然、ひとまず、の決着にすぎないこと、そしてそれが、この物語の単位では深く突っ込まれていないことに、短篇としての弱さを感じてしまう。

 『サムライソルジャー』
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2009年03月18日
 Keep Me on Your Side

 長引く不況という言いは、まあ常套句であるけれども、そのような世相においては共感性の高いメロディが欲されるのか、エモ・ポップ時代にもなかなか終わりが見えないねえ、といったところである。たしかにシーン自体は、いささか供給過多であって、飽和状態にも感じられるが、それでも次々と新人さんが登場してくるのだから、アーティストにしてもリスナーにしても、まだまだそのスタイルに求めるものがあるのだろうし、勢力のでかさは、依然としている。しかしなあ、さすがにちょっと、飽きないかい。キモであるメロディのラインは、半ば類型的、パターン化していて、アコースティックやディスコティックのヴァリエーションも、ユニークなアイディアというより、ひとたび発見されたとたん、さっそく右にならえの汎用性で、各バンドの固有性を埋没させてしまう。もちろん、みんな同じがいい、の連帯が、ジャンルの美学であるようなとき、それは決してマイナスにはならないのかもしれないけれど、個人的には、やっぱり、熱くなれない。とか述べつつ、だよ。ニュージーランド出身の4人組、GOODNIGHT NURSEによるセカンド・アルバム『KEEP ME ON YOUR SIDE』は、ひさびさにヒットであった。正直、飛び抜けた個性というのは、ほとんど、ない。いかにも、エモ・ポップ(ポップ・エモ)でござい、式の、メロディ、躍動、リズム、コーラス、ハーモニーの総和で、すべて楽曲はこしらえられている。日本盤の、MEY-Eのライナー・ノーツがそうしているとおり、容易く、比較対象のあれこれを挙げられる。だがしかし、その、屈託のなさによってクオリティの引き上げだけを目指されたかのようなナンバーがどれも、すぐれて響くのである。ギミックというほどのギミックは用いられず、感情の、前向き後ろ向き、アップとダウンとを表現したドラマが、たくましいバンド・サウンドのダイナミズムによっているのも、たいへん気持ちよく、決まっている。エモ・ポップのみではなく、一線級のパワー・ポップにも届きそうな射程がある。へたに抗ったらもったいない。いや、抗えないね。「UNTIL SUNRISE WE ARE THE NIGHT」という、そしてそれはつまりバンド名にもかけてあるのだろうフレーズが、どこまでもロマンティックな弧を描く2曲目の「THE NIGHT」など、ああ、これ、かなり、好きだ。

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2009年03月16日
 フライハイ! 1 (りぼんマスコットコミックス)

 小桜池なつみの『フライハイ!』1巻を読んでいると、ああ、こういうマンガが若年層に向けてつくられているかぎり、この国のサブ・カルチャーはまだまだ大丈夫なんだぞ、と思えてくる。しょぼい人間のせこくてネガティヴな内面があらわされていることをリアルと評するなら、運命や未来を切り拓いてゆくポジティヴな心持ちは、これぐらいばかみたいな大胆さでもって、フィクションに描かれていてもいい。

 5歳の頃、総合格闘家である父親に、男の子と間違われたまま、修行の旅に連れ去られた立花芽留は、7年のあいだに、合気道、空手、拳法、柔術のほとんどをマスターし、逞しくなって、ようやく東京の家に帰ってきた。そんな娘を、普通の女の子として中学校に通わせたい母親は、友だちが欲しかったら〈ここでは その力をしまって生きていきなさい〉と諭す。しかし彼女の入学先では、大きな支配力を持った2年生たちが、年中行事を潰したり、授業を妨害したり、さまざまな横暴を働いていた。上級生の3年ですら、敵わない。かつてルールの役割を果たしていた生徒会執行部は、機能しておらず、教師たちは、見て見ぬふり、手を出せないでいる。もはや学校そのものがおかしくなっていた。これに憤りながらも、母親の言いつけどおり、目立たないでいようとする芽留であったが、はじめてできた友だちの結木千夜が、理不尽にも傷つけられ、悲しまされているのを見、とうとう我慢ができなくなってしまう。スポーツ万能でケンカもつよい鮎沢一哉、カリスマ読者モデルで権力者の父親を持つ宇野夏澄、頭脳明晰で知略に長けた針谷莉久、この3人を頂点とするグループに対し、逆らうべく〈私が、この学校の生徒会長になる〉と宣言、〈「生徒会長」っていう肩書きが学校を変えていくのに使えるなら 私はそれを使う そして もう二度と 学校のことで千夜を泣かせない〉と誓う。

 作風は、基本的に、あかるい。テンションは高く、コミカルかつキュートな部分を多くを占める。楽しくて、にやにやとさせられたりもするのだが、しかしそのぶん、シリアスなモチーフが、たとえ綻びは小さく見えようとも、幼い登場人物たちの影を濃くしている。なぜ、鮎沢の一派は、生徒会を目の敵にし、学校中に害を与えるのか。具体的な理由は、今のところ明かされていないかわり、ちょうど伏線であるかのような含みを、彼らの表情に持たせている。しかるべき原因があって、そうせざるをえない。だがもちろん、それは鮎沢の一派にとっての正当性でしかなく、全校生徒に共有されているわけではない。このことが彼らを悪役にしているのである。

 いやなにも、鮎沢たちの振る舞いを肯定したいのではない。そのような彼らと対置されることで、いっけんしたら単なる頭の弱い子であるけれども、本質的には勇敢さにあふれる芽留の資質が、よりいっそう、際立つ。持ち前のガッツで、不穏なムードを打ち払い、周囲に影響を及ぼす彼女の姿に、会心のドラマは担われているのである。学校を舞台に、意地悪なイケメン坊ちゃんと健やかで前向きなヒロインとが衝突し合う、といった系のストーリーは、決して、この手の少女マンガに珍しくはないだろう。だが、ここまで対決のムードが前面化されているものは、なかなか見られない。いや、あるいは逆に古典的もしくは正統的な学園ドラマのスタンスに近しい、のかもしれない。当然、ラヴ・ロマンスもあるにはあるとして、恋愛だけに的をしぼらず、なるたけたくさんのニュアンスが、劇中に盛り込まれている。ここで注意しておきたいのは、そうすることによって浮上してきているのが、自治の問題だということにほかならない。たしかに『フライハイ!』の校内においては、教師や大人が不介入の、奇妙な状態が設けられている。しかしそれは同時に、生徒たちが、教師や大人を頼らないで、いかにして学校生活を正常化させるか、といったテーマをも顕在させている。

 ワキの、ほんのちょびっとしか動かない生徒たちの描写が、意外とするどい。彼らは、要するに、名もなき小市民であり、鮎沢たちの支配的な態度に反感を持ってはいるものの、自力では太刀打ちできないので、半ばくじけており、そしてその、仕方がない、とでも言いたげな気分がよく出ている。無条件で従属する奴隷というよりも、各人がささやかな権利と主張を有していることが、芽留による新生生徒会と鮎沢たち2年生グループのあいだの、緊張を、バランスを、絶妙にしているのである。

 最初は孤軍奮闘していた芽留の活躍によって、だんだんと校内の空気に変化が訪れる。千夜だけではなく、天才的な頭脳を持つクラスメイトのルカ・ミラーなどが、仲間に加わってくる、このような展開も、じつに頼もしい。いかんせん、正しく現代の『りぼん』にラインナップされている絵柄であるため、アクションのシーンはやや迫力を欠くが、物語には、それを補って十分なカタルシス、波瀾万丈が用意されている。さわやかな熱気の込められているところに、わくわくする。
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2009年03月15日
 サトーユキエの『ノーバディ クライ』は、とても好感触な作品集であった。その作者がもうすこし長めの物語に取り組んだのが『子供だって大人になる』である。もしもこのマンガが、すぐれた内容であるとすれば、それはたぶん、ピュアラブルな片想いのストーリーとして成り立っていると同時に、上京という個人単位のエクソダスをベースにした一種の田舎論だからであって、さらには現代的な背景のなかに、二人の女性の逆さまな関係性を置き、どこへ行っても、何をしていても、他愛のない自分自身からは誰もまったく自由になれないことを、ちょうど読み手の感傷に見合うかたちで描けているおかげだと思う。

 田舎を出てから五年、大学を卒業し、社会人となって働く直は、久しぶりに帰郷したさい、初恋の相手である譲と再会する。〈思い出なんてない この町を出るまではそう思っていた〉のだったが、譲に対する想いだけは、そのせつない気持ちだけは、ずっと忘れたことがなかった。二人きり、言葉を交わせば、今でも〈譲ちゃんのちょっと泣きそうな笑顔が好き〉だと感じられてしまう。しかし彼の口から、近々結婚するのだと聞かされ、過去の痛み、現実のきつさが、憂鬱となってあらわれる。譲と結婚するのが、幼馴染みの鈴だというのも、つらい。わがままで奔放な鈴は、昔から、控えめな性格の自分とは、まるで正反対の人間だった。失意のまま、都会で一人暮らしのアパートに戻ってきた直が〈どうして鈴となの〉と呟く、こうした嘆きには、おそらく、選ばれる側と選ばれない側の違いは、あらかじめ定められており、その差異が埋めがたいとしたなら、絶望するよりほかないような後者の気分が、含まれている。だがその鈴が、やっぱり譲とは結婚しないと言って、直の部屋に転がり込んできたため、てんやわんや、一騒動持ち上がっていくのである。

 べつに譲のことが嫌いになったわけでもないのに、どうして鈴は、周囲の人間にも迷惑をかけ、こんなことをしでかしたのか。じつはそこにも、直の場合とは同じではないにしたところで、自分は必ずしも選ばれた側に立っていない、という不安が隠されている。ほんらい譲は、高校を卒業したら、大学に進み、一度は町の外へと出てみたかった。けれども、父親が倒れてしまったので、家業を手伝わなくてはならず、その願いは叶えられない。もしも譲が、心の奥底でそれを悔やんでいるとしたら、ほんとうはここにいるはずじゃなかったとしたら、自分との恋愛もまた真ではないことになってしまう、この可能性を考えられてしまうことが、鈴にとっては、つらい。

 たとえば『子供だって大人になる』において、直と鈴は、一個の対照にほかならない。そしてその対照は、都会と田舎という二項の分岐をベースとしており、ある意味、譲と彼の弟の行生の現在とも重複している。すでに述べたとおり、家庭の事情のため、譲は大学へ進むことを、都会に出て行くことを断念しなければならなかった。しかしながら、行生のほうは、譲のおかげで、大学に進み、都会へ行くことができた、はいいが、そうした兄の恩恵に対し、逆に負い目を感じてもいる。何かを得ることで何かを諦めなければならないとしたとき、登場人物たちはみな、イーブンの条件下にあるといえる。ただ、主観ではそれを認められないので、身近に育った他人の姿から自分の不幸せを演繹してしまう。そのような錯誤をあるいは、各人が真摯さを通じ、前向き、解消していこうとした結果、ようやく『子供だって大人になる』のかもしれない。

 一回かぎりの、初恋の、片想いの、結末の、せつなさにも、ポジティヴな光が、宿されている。

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 彼はトモダチ 4 (4) (講談社コミックスフレンド B)

 しかし嫌な女がいたもんだねえ。生まれや育ちのせいで、性根のひん曲がってしまった坊ちゃんもたいがいであるが、嬢ちゃんも同様に、タチがわりい。吉岡李々子の『彼はトモダチ』に登場する、神原琴音の困ったちゃんぶりは、作者はよくぞこれを発明したな、と思わせるぐらい、むかむかする。この4巻では、それがさらに腹立たしくなっている。水野から恋愛の感情を伝えられたヒヨリは、そのことをきっかけとし、あらためて、自分がほんとうに好きなのは佐々本以外にありえないと知る。そして彼の家を訪ね、もう一度、話し合いの機会を持とうとするのだが、琴音の陰謀によって、知らずのうち、それを阻止されてしまうのだった。やはりヒヨリのことを忘れられない佐々本が、彼女を追いかけたときにはもう遅い。すべて終わってしまったと悲しむヒヨリが、水野によって慰められ、彼の気持ちを受け入れる場面を目撃してしまう。とにもかくにも、琴音の、自意識の壊れ方がすばらしい。これが男の子だったら、甘ったれんな、不幸なのはおまえだけじゃねえんだよ、って、ぶん殴ったら効果があるのかもしれないが、女の子はデリケートで複雑という思いなしが世間一般にはあるので、周りの扱いもそうはいかない。だからこそ、佐々本は〈……あいつは1人にしておくと ヤバいんだ 「さみしい」ってだけで 他人も自分もキズつける〉琴音に、自分のヒヨリに対する想いを断念してまで、付き添わねばならないのである。琴音の事情を知ったクラスメイト(当道のこと、かっこういい役回りだよね、この子)が、〈オレもさぁ ヒメみたいな子 近くにいたんだよ あれはエスカレートすると取り返しのつかないことになりかねないし ほっとけないよな……〉と述べるとおり、はたして佐々本のスタンスが、正しいとも間違っているとも、容易くは判断できないけれども、このままでいいはずがない。ヒヨリ、水野、佐々本、そして琴音の四角形において、もっとも横暴な琴音が、ヒヨリに向かい〈ホントのコト なにも知らないクセに〉と冷ややかに浴びせる言葉が、そりゃおまえのせいだろう、誰かさんの匙加減一つじゃん、あんまりだあ、いちいち癇にさわる。もしも作者が、物語をヒロインのハッピー・エンドに持っていくつもりで、さらには琴音の存在も救いたいと考えているなら、どういうふうな結論を用意するのか。すくなくとも、その点からは目が離せなくなっている。

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2009年03月14日
 すばる 2009年 04月号 [雑誌]

 『すばる』4月号掲載。岩崎保子の中篇小説『薔薇色の明日』は、次のようにして物語をはじめる。憎むほどの因縁があって、父親の葬式には出たくない果歩は、その煩わしさから逃れるため、恋人の秀の幼馴染みで、もしかしたら彼と浮気をしているのではないかと疑える久美が、体調を崩した母親の様子を見にいったん、北海道の実家に帰るという話を聞き、同行したいと言い出す。果歩の提案に困惑する久美は久美で、体調が悪いという報せを受けたものの、じつは母親と顔を合わせるのがまずかった。結婚に失敗したのもあるし、生活にだらしのない母親と縁を切りたいのもあって、子供の頃から親しく通じていた秀だけを頼りに、東京へ飛び出してきたのだった。当然、果歩のことも良いふうに思っていない。しかし彼女の強情さに押し切られるかたちで、北海道に連れて行く羽目になってしまう。こうして要するに、一人の男性をめぐる宿敵の女性同士が、奇妙な二人旅に出立するのである。果歩は、これを機に、証拠不十分な秀と久美の関係を、問い詰めるつもりでいる。久美のほうもまた、果歩に、そして秀との関係に対し、ある種の決意を持っている。もちろん双方とも、それが重要だと考えれば考えるほど、慎重に相手の様子を見、切り出すタイミングをうかがいたい。そうした腹の探り合い、駆け引きが、読み手を煽り、おもしろくさせる。だがもちろん、作品の本題は、そこからもうすこし、奥へ入っていったところ、二個の主体のありよう、心理の、不安にかかっている。果歩は、久美の、うつくしい外見、配慮のある性格に、コンプレックスを抱く。一方、久美は、果歩の、気のつよさ、自立して働く意欲に、嫉妬を覚える。それぞれがそれぞれの姿に、自分が自分でしかないこと、他の誰でもありえないからこその欠損を、突きつけられてしまうのである。そのような対照は、しかし根本で、三十歳を過ぎ、だんだんと若くはなくなっていく女性が、この世界で生きづらく、孤独を覚えるとき、いったい何を寄る辺とすればいいのか、等しい困難をあらわしながら、繋がっている。ひとまず、果歩も、久美も、秀という男性の存在によって、自分の空漠が埋められる、埋められていると信じたい、信じている点で、お互いのなかにまったくべつのものを見ているわけではない。そうであるがゆえ、ただ一つのことをどうしても、相手に譲れない。おそらくこれが、男女の二人旅であったなら、お互いがお互いの欠損を埋め合う展開もあっただろう。あるいは彼女たちが、すべての災いは男性が支配的な社会にあると共闘できたなら、それこそ呉越同舟から友情を結ぶこともできたに違いない。けれども、そうはなっていかず、果歩と久美のロードは、郊外もしくは田舎の、アップとダウンにさまざまな出来事を経て、東京の、都会の、不思議な、良いとも悪いともつかぬ、不思議な居場所に帰り着く。
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2009年03月13日
 RESCUE (初回限定盤) RESCUE (通常盤/初回プレス仕様) RESCUE (通常盤)

 なるほど、こうきたか、という感じもする。前シングル「ONE DROP」は、KAT-TUNというグループの、ハードでメロウなイメージを、バンド・サウンドの、短いインパクトのなかに凝縮してみせたナンバーであったけれど、この「RESCUE」では、同様のイメージを今度は、打ち込みのリズム、ダンサブルでピッチのはやいビートに落とし込んでいる。バラードである「White X'mas」を除き、「喜びの歌」よりこちら、ハード・ロックもしくはスピード・メタルな路線をアピールしていただけに、ある種のマイナー・チェンジが行われた印象を持てる。根本のせつなかっこういい部分はそのまま、曲調にあたらしいヴァリエーションをもたらしているのである。とはいえ、個人的には、「DON'T U EVER STOP」初回限定盤の、赤西くんと田中くんのソロ・ナンバーを収めたヴァージョンの、延長線上に、これを置きたい。耳当たり、ダークなトーンがそうだし、いかにもデジタルな時代のアレンジもそうだが、何より英語で歌われるコーラスの、そのメロディの、節の終わりが、どこか似ているふうにも響いているからだった。以前にも述べたとおり、LINKIN PARKのポップ性にも相通ずる。とすれば、今日的にモダンだということでもある。一方、反復を繰り返し、ワン・フレーズを繰り返す構成において、ポイントをわけて挿入される田中くんのラップと中丸くんのヒューマン・ビート・ボックスとが、とても効果的なアクセントとなっているのも見逃せない。ハード・ロックもしくはスピード・メタルな路線のナンバーにとって、後付けされたオマケ程度の魅力でしかなかったのに対し、ここでは必要不可欠な要素のごとく、立派に生かされているのだ。ところで、赤西くんによって歌い出され、亀梨くんがあとを続けてゆき、ハーモニーとなる〈誰かのためになんて / 生きれないと思った / こんな愛しくて / 大切なものを / 初めて見つけた〉という歌詞からは、たとえ作詞者が違えども、「YOU」の〈あなたのために生きていいかな〉という個所や、「喜びの歌」の〈生きてる / ただそれだけで / 君と走って行こう〉、そして「Lovin'U」の〈Lovin'U / 君がいないと / I miss U / ダメになってた〉などと同じく、すべてが「君と僕」に集約されるドラマを受けとれて、いや、それがもしかしたら、このグループに託された主旋律なのかもしれないが、だからこそ、ここで聴かれる〈I don't wanna cry alone〉という、感情の寂しさから取り出されてきたかのような力強さに、たまらず、胸が熱くなる。そう、誰だってひとりぼっちになってしまう可能性を生きている。でも、誰だってひとりぼっちにならない可能性をもって生きている。

 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2009年03月12日
 ナンバデッドエンド 1 (1) (少年チャンピオン・コミックス)

 しかしそれにしても、どうしてこう、『ナンバデッドエンド』って、やたらにおもしろいのか。たしかに主人公に課せられた設定自体はユニークであるものの、話の運びや展開に奇をてらったところはなく、むしろオーソドックスきわまりない。したがって、ページをめくりながら、落とし所が見えてしまう部分もあるにはある。にもかかわらず、その内容からは目が離せない、たいへん引き込まれる。なぜこんなことができるのだろう。と、考えて、作者の過去作を振り返ってみたとき、驚くべきことに気づかされる。なんと、小沢としお(小沢利雄)というマンガ家は、98年に『フジケン』ではじめての連載を得てより、すくなくともこれまでのあいだ、複数の作品を手がけながらも、一貫して高校生活だけを描いてきているのである。それのどこがすごいのか、と問う前にまず、現代において他にどれだけ同じようなスタンスの作家がいるか、を考えて欲しい。しかもファンタジーを題材とせず、つまり、にぎやかな学校生活を日常に置き換えることで、異界の戦いから帰ってくるべき場所としてあらわすのではなく、にぎやかな学校生活そのものをズームし、表現し続けている点も踏まえねばなるまい。さらにいうなら、『フジケン』、『いちばん』、『ダンコン』、『チェリー』、そして『ナンバMG5』と、読み比べてみればわかるとおり、テーマのヴァリエーションは豊かであり、決してマンネリズムには陥っていない。こうした一途ですらある関心の高さと、対象に向けられる視線のやわらかさが、おそらくは、現在の小沢に類い希なる筆致をもたらしているのであって、むろん、スキルとセンスもそれに乗じる。

 筋金入りのヤンキー一家に、生まれ、育った難破剛は、ケンカばかりで明け暮れる日々に疑問を覚え、家族には黙って、秘密にしたまま、遠方の白百合高校へと入学する。かつての自分とは無縁な、ごく一般的な学校生活を、そこで送るつもりであった。しかし根っからの面倒見で、あれこれと持ち上がるトラブルに関わるうち、隣の不良校である市松高校のトップにされてしまい、あまつさえ千葉を制覇、横浜のギャングたちからも一目置かれるまでになってしまう。ふだんは何とか素性を隠しおおせるてはいるが、擬装も兼ねていた特攻服の姿が、「特服の男」の噂となって、各地の不良のあいだで一人歩きし出す。以上が、『ナンバMG5』のあらましであり、後継作にあたるこの『ナンバデッドエンド』の出だしといえる。ふつうのヤンキー・マンガだったなら、学校の外に舞台がひろがりそうになったとき、それを好都合と利用することで、物語に規模のおおきなダイナミズムを導き出していくものだけれども、『ナンバデッドエンド』の場合、むしろベクトルは逆さまに、学校の内へ内へと物語を深めていっている。いったん揉め事に巻き込まれれば、特攻服を着、修羅のごときつよさで、不良連中を圧倒する剛の、破天荒なスペクタクルではなく、どうしてもその正体を知られたくない、できれば普通の学生でありたいとする心性こそが、前面化されているのである。

 以前にも述べたが、『ナンバMG5』とは、一人二役の奇妙で困難な高校生活を送る主人公の、入学から二年生の夏休み明けまでのストーリーであった。すなわち、三年間という限られた時間の、まさしく折り返しが、一つの区切りとなっている。そこからバントを受けてはじまった『ナンバデッドエンド』では、この1巻の時点で早々と、三年にあがった主人公の様子が中心にきている。つまり限られた時間のおしまい、ちょうど高校生活の最後となるような一年が、示されているわけだ。

 序章、まだ二年生であった頃、クラスメイトたちに信頼されて、次期生徒会長に立候補することになった剛が、次のとおり述べる演説は、たぶん、『ナンバMG5』から『ナンバデッドエンド』にまたがるテーマを代弁している。〈みなさんは もし何かの理由で 学校をやめなきゃいけなくなったらって 考えたことありますか? って…そんなこと考えませんよね……あの…高校生活って長い人生のたった3年しかなくて ボクは この白百合高校での毎日が ホントに楽しくて 明日 高校生活が終わっても 後悔しないように 毎日を過ごしたいと思ってて……すいません…あの…ボクが言いたいのは 白百合高校のみんなが充実した学校生活を送れるように お手伝いできたらいいなって思います!〉。こうした表明に含まれているのは、言うまでもなく、たとえ今がいくら楽しいときであっても、永遠には続けられない、いつしか終わりはやってきてしまう、という剛自身の実感であろう。そしてそれはたしかに胸を打つ。大勢の生徒たちからの支持を得られても不思議ではあるまい。剛が生徒会長になることに対して、今やもっとも親しい友人の伍代は、〈皮肉だな…〉と危惧を抱く。なぜならば〈生徒会長なんてやってみろ アイツ ケーサツとヤクザ 1人でやってるよーなモンだぜ ぜってー どっかに無理が出る…………〉はずで、この予感が、『ナンバデッドエンド』の、剛の、今後を先取りしていることはあきらかである。しかし最初の波乱は、思いがけぬ方向からやってくる。

 ここであらためて確認しておかなければならないのは、どうして剛が、難破家の皆には、伍代と同じ市松高校に通っていると偽ってまで、自分の選んだ高校生活をまっとうしたいのか、ということだ。基本的にはとてもユーモラスにあらわされているため、表面上はなかなか感じられないのだけれども、そうした主人公の腐心には、家族関係におけるシリアスなジレンマが預けられている。しごく簡単に、親からの期待に応えなければならない、式の抑圧と指し替えてもいい。いやまあ、難破家の父ちゃんも母ちゃんも、ぜんぜん悪い人間じゃない、どころか人が好すぎるぐらいであるし、息子である剛は、彼らの愛情をちゃんと享受できている。しかしだからこそ、その存在が、重たい、ということもありうる。ヤンキー一家の人間がしゃばいふりして高校生活を送る、このような始点はコメディにほかならない。だが、そのコメディを成り立たせているのは、まちがいなく、家族関係下の普遍的な問題にほかならない。付け加えるなら、次男であって、上に兄があり、下に妹がいる、これもまた剛の立場に影響を与えている。たとえば、両親が自分たちの果たせなかった夢を託しているという意味で、高校時代に関東を制覇し、カリスマとして崇められた猛は、見事、その理想を叶えている。したがって、父ちゃんと母ちゃんは、次男にも同様の、あるいは長男のとき以上の期待をかけたい。だが、次男の希望は必ずしもそれと一致しない。じつはこれ自体が、よくあるフィクションの、エリート一家の子供が自分の生まれや育ちに苦しむていの、パロディになっているともいえる。一方、妹の吟子である。吟子の高校進学に関し、父ちゃんと母ちゃんは、剛のときのような期待をかけてはいない。期待をしていないのではない。誤解を避けるべく、換言すると、男と女では両親のなかで求めるものが違っているのだ。そうであるがゆえに彼女は、学力など馬鹿らしいとする難破家の価値観に向かい、堂々と勉強を宣言することができるのだし、じっさいに最初は無理だとされていた白百合高校に合格すれば、父ちゃんと母ちゃんは嬉しそうな顔を見せる。ヤンキーでオーライな難破家の家風は、いっけん自由で奔放に思われる。しかし本質的には、ヤンキーというポリシーに厳格であるため、封建的な性格を持ち合わせている。剛が自分の嘘を、真実を打ち明けられずにいるのは、もちろん純朴に家族の愛情を裏切りたくないからなのだが、その背景には、男の子として置かれた環境の複雑な呪縛が横たわっている。

 さて、つい先ほど触れたとおり、進学した吟子がなんと、剛と同じ白百合高校に入ってくることになった。これが、思いがけぬ方向からやってきた最初の波乱である。剛の高校生活を見た伍代の〈ぜってー どっかに無理が出る…………〉という予感は、ともすれば外敵の到来を案じている。ところが、『ナンバデッドエンド』において、まっさきに窮地をもたらすことになったのは、ほんとうに身近すぎる相手、妹の吟子だったのである。吟子は、自分の学校の、冴えない生徒会長が同性同名であっても、親しい兄と同一人物だとは間違っても信じられない。もしも同一人物であったなら、ただただ嫌悪を抱かざるをえない。ばかりか、吟子の登場は、特攻服姿の剛を「特服先生」と慕うが、それが自分の知っている先輩と同一人物だとは思わない、美術部の後輩である弥生に、もしかしたら、との疑惑を呼び起こす。このとき、家族関係と学校生活という、半径5メートルの世界だけで成り立つような、それをリアルと呼んでもいい寓話の、つまりはモラトリアムの認識にあっては、二項のクリティカルなポイントが折り重なり、さあ、おまえさんのアイデンティティがおまえさんのものならば、おまえさんはそのアイデンティティが正しいとどうやって証明するんだ、証明できるのか、熾烈な訴えを投げかける。はたして、これといかに向き合い、答える。ああ、これ、やっぱり、すげえおもしれえや。いくら語っても語り足りない。もっと語りたい気持ちの続きはまた、次巻。

 『ナンバMG5』
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2009年03月11日
 なにわ友あれ 7 (7) (ヤングマガジンコミックス)

 それが現在であろうが、90年代であろうが、女性にひどいダメージを与えることに呵責のないクソみたいな野郎は、いつだってどこにだって存在しているのだった。南勝久の『なにわ友あれ』が、この7巻で、いちおうのピリオドが打たれるベンキ編のなかに描いてきたのは、そのようなゲスに対し、いかなる罪と罰がありうるか、という認識の問題だと思う。グっさん率いるスパーキーの猛追もあって、ついに捕縛されてしまったベンキは、その身柄をビートに引き渡されると、バーナーで火あぶり、紛れもない私刑(リンチ)にかけられる。こうした行為は完全に社会的な倫理を逸脱している。よい子は真似しないでね、どころの話ではないであろう。しかし、ここで見ておかなければならないのは、その私刑によって、ベンキの犯した罪、つまり複数の女性を連続し、拉致し、監禁し、暴行し、強姦し、脅迫しても平然としていられる態度が、彼らのルール内では絶対に許されていない、このことが示されている点であって、そしてそれは、行きすぎた暴力をふるった主体が、被害者の人格をかえりみないとき、法の裁きは十分に値するかという、今日の社会において、しばしば浮上すると同時に議論される問いを、極端なかたちで内包している。もちろん、ビートの会長であるマンジの処断、制裁が正しいわけではない。だいいち、改造自動車を乗り回し、他のチームと揉めれば、暴力的な解決も辞さない彼ら自身、一般的には犯罪者として括られる。したがって、彼らの正義はあくまでも、小さな枠内の秩序を盾にしているにすぎない。ここでいう小さな枠内とは、すなわち副題に置かれている「OSAKA-KANJO-TRIBE」の、そのトライブだと考えてよい。言うまでもなく、トライブのルールは、トライブの内部の人間だけが決定でき、トライブの内部でのみ通用する。そうしたルールが正常に機能しているかどうかは、トライブが正常に機能しているかどうかの結果上でしか、結局のところ、判断されないのである。たしかにベンキの罪は許しがたい。この感情にそうなら、作中の私刑は、必ずしも悪とはかぎらない。だが、外部に立つなら、やはりそれは、たんなる私刑以外の何ものでもない。あきらかに作者は、そうしたレイヤー構造を用い、物語をシリアスにこしらえている。グロテスクな描写も、おそらくは、そのために必要とされた。ところで、私刑の途中、マンジがグっさんに〈グっさん――あんたさっきから黙ってるけど――どう思うよ‥‥?〉と尋ねる場面がある。そこでグっさんが〈俺が好きやった女は――‥‥こいつらみたいな奴にマワされた……〉と言っているのは、前作にあたる『ナニワトモアレ』の、終盤の展開を指しているわけだけれど、それこそ『ナニワトモアレ』の序盤において、女性とセックス(性交)をするためだったら、どんな無茶もやらかしてきた人物の、個人の欲望にこだわるのではなくトライブ全体の規律を踏まえるまでになった成長が、『なにわ友あれ』ほんらいの主人公(でいいんだよね)テツヤの活躍とはべつに、作品にとって一つの柱をなしているのは周知のとおり。

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