ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年02月28日
 以前にも述べたとおり、某『金剛番長』というマンガに関しては、たいへん懐疑的であるのだが、それというのは結局、往年の番長マンガもしくは学園バトルを今日ふうにチューンナップしているのはわかるのだけれども、そのチューンナップの方向性をまったくといっていいほど支持できないからで、すくなくとも、あれを読みながら、かっこういい男の生き様(これを、漢、と言い換えてもいいよ)を感じとり、かっと胸が熱くなる(これを、燃える、と言い換えてもいいよ、っていう)ことは、ない。まあ、それがテーマではないのなら、やはり自分には関係のない作品だということになってしまう。しかしそれにしても、である。あの作品に対し、肯定的な弁を述べられる方々は、この、瀬戸カズヨシの『〜なめねこ又吉最強伝説〜 なめんなよ!』を、はたしてどういう目で見ているのだろう、すこし気になる。

 マーケティング的なことにあまり明るくないので、いったい「なめねこ」が現在どれぐらいの需要を持った商品なのかはよく知らないが、『なめんなよ!』は、その「なめねこ」と呼ばれる猫たちを題材にしており、ストーリーは、ツナカン学園に転校してきた熱血硬派の又吉が、そこで数々のライヴァルと出会い、ときには拳を突き合わせ、汗や涙や笑いや喜びとともに次々、友情を芽生えさせながら、進むのであって、要するに、往年の番長マンガもしくは学園バトルのセオリーをなぞらえている。この4巻では、前巻の流れを受け、鮫牙工業の襲撃を受けた又吉たちが、敵陣に乗り込み、立ちはだかる魔猫四天王と激闘を繰り広げていくわけだけれど、そのボス、謎の番長である土方リョウのもとへ辿り着くためには、魔猫の塔の最上階を目指さなければならないというのも、じつにツボを押さえた展開である。

 これまでにもライヴァルの造形は、たとえば今どきらしく、ストリート・ギャングっぽいものもいれば、ヒップホップ・ファッションっぽいものもいて、必ずしも学ラン・ベースではなく、さまざまであったが、ついに姿を現した土方リョウのそれはスタイリッシュなホストっぽいといえるかもしれない。『なめんなよ!』において、「なめねこ」のイメージは、主人公の又吉がそうであるように、80年代のヤンキーというよりも、それ以前の不良番長にまで遡っている一方、ギャングスタにラッパー、お兄系といった具合に、ニュー・センスも加えられている。これによって顕在化しているのは、後天的な種族であり、トライブの問題であろう。もちろんそうしたとき、登場するのはすべて、ネコ科というのが先天的なものにあたる。

 それら種々のトライブは、しかし、どれもが自分たちの同胞意識を第一にしているという点で、共通している。このため、異なった信条を生きるトライブとの接近は、必然的に抗争とならざるをえない。土方リョウにとっては、親のいない貧しさに盗みを働くしかなく、そのせいで既存の学校社会からは拒否されてしまった仲間たちのため、あたらしい学校社会をつくりたいとする願いが、又吉たちの通うツナカン学園を攻撃することに結び付いていた。それは、だが、やはり同じく仲間を守るべく、必死を厭わぬ又吉らに阻止されてしまう。土方リョウは〈ボクたちは誰にも居場所をもらえなかった…。だから、絶対に…、この場所はゆずれねェ!!〉と漲り、あと一歩のところまで計画を推し進めながらも、〈お前の気持ち…、オレにはわかるぜ…。オレもずっと独りだった…。ツナカン学園に入るまで……。でも(略)沢山の猫と出会って…。いつの間にか…ツナカン学園のヤツら全員仲間だと思えてきた。仲間がいるのはお前だけじゃない。オレもオマエも同じなんだ…。大切な仲間を…悲しませたくない! オマエがオレの仲間を苦しめるというのなら…、オレは何度だって――、立ってやるぜ!! なめんなよっ〉と立ち上がり、まさしく少年マンガ的なフィニッシュ・ブローを決める又吉に、敗北してしまうのである。

 ここに働いているのは、いうまでもなく、スケールの小さなものはスケールの大きなものにくだされる、という力学にほかならない。ツナカン学園には、現在、いろいろなトライブが共存している。そのような、和の大きさこそが、又吉を勝たせているのだ。そしてそれは、内輪を決して、小さく、狭くは見ない観点から発想されている。したがって、決戦に破れ、自分を信じてくれた者たちに泣く泣く〈約束したのに…、ごめんな…!〉と詫びる土方リョウをも、又吉、そして彼の仲間らはみな〈ツナカン学園に来いよ!〉と受け入れることができるのである。こうした作品の性質上、重要になってくるのは、かくいうスケールの大きさに相応しい人格を又吉が備えているかであって、ギャグ的な短いエピソードのものも含め、物語は、見事に、それを描いている。

 ところでこの巻には、まったくべつの角度から、もう一つ触れておかねばならないトピックがある。何かというと、語尾にメーン! と付けながら喋り、ラップ・グループの練マザファッカーを率いるD・Oが、ツナカン学園を去らなければならないというエピソードのことで、モデルとなっている実在のラッパーは、周知のように、先般、麻薬の所持事件で逮捕されたばかり、雑誌掲載時はともかく、よくもオミットせず、こうして単行本に収めたものである。しかも本来の読者は幼年層なのに(あるいは、だからなのか)。まあ、たんに発売日と制作の工程に変更を加えられなかっただけの話かもしれないし、別れの内容である以上、作品にはもう登場することもないなのだろうが、〈がんばれD・O!〉という大勢の仲間たちによるメッセージは、今この時期だからこそ、変にインパクトを持ちうるな。ラディカルだとさえ思う。なめねこレペゼン、コロコロレペゼン、練マザ学園。
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2009年02月27日
 以前作の『ラブ★コン』が、必ずしも物語にとって幸福な長さではなかったことを考えるなら、『ナナコロビン』の場合、この3巻がエンディングにあたっているのは、ひじょうに適正であるように思われる。『ラブ★コン』において、まあたしかに、高校三年間を描くのにあれだけのサイズが必要だったのは理解できる、にしても、メインのカップルが成立したあとの展開は、エモーショナルであることとコミカルであることの双方に関し、やはり冗長であった。じじつ『ナナコロビン』にしても、ほぼ高校の入学時をスタートにしている以上、三年間の展開にまでストーリーを伸ばすことは可能であったろう。だが、諸事情は知れないけれども、メインのカップルが打ち解け合う瞬間を、正しく落としどころとすることで、とても歯切れのよい、ラヴ・コメディに仕上がっている。それにしても裏表紙が、作品の性質上あまり問題はないとはいえ、めちゃんこネタバレみたくなっているな。楓を意識する小夏を見、自分の想いは伏せたまま、その恋をサポートすると決めた菜子であったが、楓の家に仕える借金取りの妨害なども入って、事態はややこしくなるばかり、右往左往してゆく。自分の兄と菜子の姉のせいで、ひねてしまった坊ちゃんの小夏が、前向きでエネルギッシュな菜子との出会い、交流を通じて、じょじょに変わろうとしている。このことが作品のおおきな柱である。ただし作者は、あくまでもそれを菜子の目線によって、捉まえている。対象人物の気持ちが不透明であるがゆえに、自然と揺れるヒロインの、心の動き、あるいはじっさいの行動力が、柱のあちこちにカラフルな紋様を刻み込んでいるのだ。正直、菜子と小夏の関係に重きが置かれているため、ワキでとても魅力的だったブーちゃんの活躍が乏しかったのは、すこし残念であるし、中原アヤのキャリアを、たとえば『HANADA』、『ラブ★コン』、『ナナコロビン』と並べていったとき、全般的にある種のマンネリズムととれてしまう部分もあるにはある、このマンガ家ならこれぐらいはやれるでしょうね、といったラインを越えてはいないような、しかしそうした点に関する不満を、ちゃんと次作以降の期待へと繋げてはいる。さて、すでにアナウンスされている『ラブ★コンD』はどうなんだろう。

 1巻について→こちら

・その他中原アヤに関する文章
 『ときめき学園・王子組』について→こちら
 『ラブ★コン』
  16巻について→こちら
  11巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
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 山口いづみの『ハルフウェイ』は、脚本家である北川悦吏子が監督をつとめた映画のコミカライズを表題に置いているが、じつはそのほかにも二篇、オリジナルの読み切りを収めており、基本的には、あたらしめの作者を知れる短篇集として読まれたい内容になっている、とはいえ、やはり何よりもまず、「ハルフウェイ」(と、その番外編である「〜だけど、それはまだ物語の途中〜」)に触れておきたくなるのは、それがいちばん最近に描かれたものだからである。正直、原作に関して詳しい情報を持ってはいないままに読んだのだけれども、いや、これはとても素直に、うつくしくやさしい作品だね、と感じられた。話の筋自体は、きわめてシンプルで、北海道の、高校生のカップルの恋愛を、男の子のほうが大学進学のため東京に出て行かなければならないので、地元に残る女の子のほうは離ればなれになってしまうことに脅えるという、ちいさくちいさな関係性のなかに捉まえている。日常に含まれる何かが、具体的に、変化し、終わらざるをえない様子が、ドラマティックに物語化されているのではなく、日常そのものが、つねにゆるやかな変化をともない、そうして進んでゆかざるをえない様子の、スタティックな叙情を、以前よりもあきらかに繊細さを増した山口の筆致が、できうるかぎりこぼれぬよう、丁寧にすくいとっているみたいだ。あとがき的な弁によると、北川からのアドヴァイス(でいいんだよね)もあったらしいが、コマの一つ一つや、表情の一つ一つに、ここまでやってきた作者の、現在の実力がよく示されていると思う。概要において、男の子はとくに目的もなく上京を指向し、女の子はまったりと地元を指向するのはどうして、的な見方もできなくないけれど、それは映画版と社会学的な批評に任せておきたい。とにかく、すべて他愛もないからこそ、敏感な震えの何よりもおおきいことに、作品のすぐれた部分は預けられているのである。「ハルフウェイ」以外の篇、「今日だけのアンリアル」は、若い女性同士の、友情ともつかない繋がり、自意識のあふれるさまを描いていて、いくらか『NANA』を思わせるところもあり、いくらかいくえみ綾のようでもあり、ストーリーについても、ありふれたアイディアを脱しえないが、ささやかな記憶でしかないことがどうしてこうも尊いのか、その触感のたしかさに胸動かされるものがあって、不覚にも泣けてきてしまった、という意味で、好き。一方、「星は日が暮れるまで眠る」は、ふいに再会した幼馴染みの男女が、セックス(性交)を通じ、あらためて恋愛の間柄に入っていくという内容で、決して暗くも後ろめたくもない題材に、不思議とせつない印象を与えている。そしてそれが翻り次第、どこかあたたかな温度に変わる。

・その他山口いづみに関する文章
 『アカンサス』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キリン』について→こちら
 『恋愛幸福論』について→こちら
 『HAPPY DAYS』と『ビターチョコレイト』について→こちら
 『ロマンチストベイビー』について→こちら
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2009年02月26日
 田島みみの『学校のおじかん』も、いよいよ完結であるが、全17巻というのは、正直、長すぎた。実質、それだけのヴォリュームで描かれるに相応しい内容ではなかったと思う。ヒロインが、学生と学園長を兼ねるというアイディアも、かなり序盤の段階で、あまりよく生きなくなってしまったし、とはいえ、これ、要するに、できうるかぎり家族の抑圧を持ち出ずに不純異性交遊(!)をさせないための方便になっていたんだよね。以前にも述べたけれど、陸とマッキーのカップルは、相思相愛で付き合っていながらもなぜか、いやまあ、よっぽど欲情しているのでなければ、それが現代的だからなのだろうが、セックス(性交)をしないことには、恋人同士の意思確認ができないことになっている。すなわち、当人たちがピュアラブルな関係を望んでいるかどうかは、本筋において、無関係なのであって、無理やりピュアラブルな関係にさせられているという、唯物的な葛藤こそが、作品の主軸だったのである。したがってハッピー・エンドはもちろん、ちゃんとセックスできたので二人は末永く幸せに暮らしましたとさ、なのであって、それで満足がいくのなら、おめでとう、よかったね、以外に何も言うべきことはない。個人的には、ワキの登場人物たち、譲や楓、仁美の、細やかな心の動きのほうに好ましいものがあったけれど、作者にとっては、17巻をかけても、配慮だけは備わらない高校生が、たんに障害があるせいでセックスをできないから、あたかも初心であり続けるかのように見える、見せかけることが、何よりも大事であったに違いない。

 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 9巻について→こちら
 5巻について→こちら
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2009年02月25日
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 吉沢潤一の『足利アナーキー』は、『ヤングチャンピオン』NO.6(今週号ね)からはじまった新連載であるが、その一話目を読みながら、平川哲弘の『クローバー』が登場したとき以上に、おお、こいつはいよいよヤンキー・マンガのシーンにもあたらしい世代が出てきたな、と思わされたのであった。すくなくとも、個人的に「50年組」と呼んでいる現在の主流派とは、だいぶベクトルの違ったものが目指されている。もしかしたら、井上三太の『TOKYO TRIBE 2』や森恒二の『ホーリーランド』みたいな、都会派(でいいよね)の不良マンガを一周させて、正統なヤンキー・マンガのスタイルに着地させると、こうなるのか、という印象を持つ(そのほか『バクネヤング』の松永豊和の影響もうかがえるかしらと感じられるところもある)。ストーリーは、次のように幕をあける。七つのドラゴンボールを手に入れたハルキとカザマサだったが、しかし彼らの目の前に現れたのは神龍などではなく、腕に自慢のありそうな、たいへん柄のよくないバッド・ボーイの集団であった。多勢に無勢とはいえ、なんてことはない、ハルキとカザマサのコンビは、これを簡単にいなしてしまう。実践的な蘊蓄も含め、二人の、よっぽどケンカ慣れしていることが描写されているシーンは、ひじょうにダイナミックである。

 17歳、高校三年にしてヤクザから一目置かれるほどの喧嘩屋であるハルキと、ファッション誌の読者モデルをこなすちゃらいカザマサのコントラストは、この手のジャンルにおいて、スタンダードなものだといえる。そうした物語の構成上、もっとも重要なのは、作品の舞台が、栃木県の〈人口約15万8千人のここ足利市は華々しい歴史のある土地である反面…中途半端に栄えている中途半端な田舎であり…(略)中途半端な不良や阿婆擦れや田んぼの天国…つまりどこにでもある田舎…〉に設定されていることだろう。つまり意図的に、何もない場所が選ばれている。いつどのような時代にも不良にならざるをえない人間というのは、いる。その理由は、枝葉を見るのであれば、さまざまであるに違いない。ましてや、坊ちゃんくさい自意識の産物としてそれが描かれることも珍しくないぐらい、モダンのきわまった今日、何もない田舎で頭は悪くてケンカがつよいから不良になるしかなかった、というのは、さすがに呆れるよりほかないわかりやすさであるけれども、いやだからこそ、真理を突くがごとき生々しさを持っている。だいいち子供なんて、そんなものだろうよ。登場人物のディテールは、まだ十分なわけではないが、ハルキもカザマサも、何やらドラマがあってというより、自然と不良になってしまったタイプであるふうに見られる。そしてその、自分の身の振り方に対して、ほとんど屈託のないことが、『足利アナーキー』の、一種のリアリティを補っている。

 たとえば『ケータイ小説的。』の速水健朗は、〈暴走族が反社会的な行動をとったように、一九七〇年代〜一九八〇年代に見られる、ヤンキーの反抗の矛先は親や学校といった社会へと向かっていた。しかし、現代ではその構図は消失している〉と述べ、〈現代のヤンキーとは社会に反抗する存在ではないのだ〉とし、〈一九九七年には(略)少年漫画週刊誌を代表するヤンキー漫画がどれも同じ年に連載が終了している〉のであって、〈そういった旧ヤンキー文化が衰退していったのと入れ替わりに台頭してくるのが、自分の内側の敵=トラウマとの闘争を描く内省的な作品群だ〉としながら、現代的なヤンキー文化と郊外風俗とケータイ小説の相関を論じているが、『足利アナーキー』にあらわされている不良の像は、そのさらに一歩先をいっている、あるいはもっとずっと先にまで突き抜けているようにさえ感じられる。

 個人的に「50年組」と呼んでいるマンガ家の多くは、昭和50年(1975年)前後の生まれである実年齢のためか、作中に、何か、人生訓めいたものを込めたがる。しかし、じっさいに描かれているそれらはほとんど、身近な家族や友人との関係性をベースに発想させられたローカルなルールでしかなく、真の意味で倫理的だと言い難い。彼らよりもずっと若い世代の平川哲弘ですら、この陥穽からは逃れられていないので、善悪の判断にその場しのぎの危うさを認められる。もっというなら、不良の存在自体を悪として示すことに躊躇うあまり、たんに主人公の敵がイコール不良であり悪であり、したがって主人公はイコール不良ではないし悪ではない、の公式でやっているのみなのである。これに関しては、主人公の人格をまったくのクズ人間として造形することも辞さなかった90年代前半のヤンキー・マンガ群にくらべ、不良のおっかなさ(不良になることのおっかなさ、不良がいることのおっかなさ)を深層のレベルで無自覚に隠蔽している、という点において、すくなからず後退しているといわざるをえない。だいいち、不良が無害であるなら、誰も彼らに眉を潜めたりなどしない。愚かではないのなら、誰からも忌まれたりする必要などないのだ。

 反抗すべき対象もなく、もはや内面の闘争にかかずらうのもかったるい、このような不良がハッスルするとどうなるのか。『足利アナーキー』の一話目では当然、退屈しないで済むなら何でもあり、な状況が繰り広げられている。題名に置かれているアナーキー、アナーキズムとは、おそらく、そうした無軌道さの隠喩となっているのだろう。たかだか公園とコンビニ前の場面だけで、とにかく、不良少年たちの砕けっぷり、救いがたく傍迷惑で、タガの外れた様子が、うまく出せている。ジャージーを基調にしたファッションのセンス、日本のメロコア系に熱心な音楽の趣味も、カテゴリー的な、らしさ、を、よく掴んでいる。21歳の若い作者が、ここからどこまでまじに持っていくのか、あんがいギャグの調子でやっていくのか、行方は不明であるけれども、ヤンキーのタチの悪さ、程度の低さを、このぐらい、開き直り、思い切って、表現できるというのは、今や圧倒的なつよみであって、ほぼ独自の路線をひらけている。なにせ、主人公たちを指し、その土地を「板東の大学」と呼んだ〈フランシスコ・ザビエルも……〉それから所縁の〈足利尊氏も…相田みつをも…足利市民も関東平野も渡良瀬川も…アピタもゲオも栃木県民も太田イオンも…佐野アウトレットも佐野ラーメンもイモフライも〉そればかりか〈全国民も…全世界もビルゲイツもマドンナもヒョードルも…宇宙も…星も…神も…こいつらのことをこう罵るに違いない…………〉のである。〈人間失格!!!!〉と。いやいや、その、まさに極悪な人間失格ぶりは、スタート当初の、加瀬あつしの『カメレオン』や米原秀幸の『ウダウダやってるヒマはねェ!』をも、しのぐ。

 「ボーイミーツガール」について→こちら
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2009年02月24日
 Killer
 
 おうおう、こいつははりきっているなあ、といった感じを、VICTIMSの、DEATHWISHレーベルよりリリースされた通算4作目となるフル・アルバム『KILLER』からは受けるのであったが、いやいや、じつはこのバンドを耳にするのははじめてのことなのだけれども、なるほど、巷では同じスウェーデンのDISFEARあたりが引き合いに出されるのも納得がいく、超剛速球型のハードコアをぶんぶん鳴らしている。何はともあれ、かっこういいですぜ、旦那、と言いたい。どうやらメンバーにはACURSEDやNASUMの面子が参加しているらしいが、それらに比べると、印象は、圧倒的にシンプル、かつパンキッシュであり、轟々とロックン・ロールのロールを回す。その無骨であるスピードにMOTERHEADやDISCHARGEのエッセンスを聴きとることも可能であろう。どのナンバーも1分、2分程度で駆け抜けるなか、響き渡るギターのフレイヴァーは、あんがいオーソドックスにロックしているのであって、奇抜な発想なんて知ったこっちゃないよといわんばかり、質実剛健と喩えるのに相応しいダイナミックなうねりを、がしがしと叩きつけてくる。要は、ガッツにあふれている。そしてそれが、たいへんさまになっているのである。こういうサウンドは、結局のところ、ファースト・インプレッションですべてが決まる。一瞬で、おお、と引き込まれたなら、もうほとんど最後の最後まで裏切ることがない。まさしくそのとおりの、実例の一つとして、これを数えられる。

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2009年02月23日
 Common Existence

 ねえ、この頃、どうしてかわからないが、ひどく悲しい、悔しいし、無性に腹が立つんだ。すぐれた音楽はしばしば、その、正体不明な感情にかたちを与える。たとえば自分にとって、THURSDAYの通算5作目となるフル・アルバム『COMMON EXISTENCE』なんかは、そうだといえる。ここ最近、フロントマンのジェフ・リックリーが、ゴリゴリにとがって叫びまくるプロジェクトのUNITED NATIONSに参加したり、バンド本体は、音響叙情派としてふるう日本のハードコア・アクトENVYとのスプリットをリリースしたりと、ビッグ・ネームになったあとも決してアンダーグラウンドの気質が失われていないところを見せていた、米ニュージャージー州出身の5人組であったけれども、所属のレーベルを、モダンなパンク・シーンの重要な拠点、EPITAPHに移し、そしてついに発表された『COMMON EXISTENCE』において、これまでの指向を突き詰めながら、そこからさらに敷衍したかのような、狭いジャンルの内部評価にとどまらぬほどキャパシティのでかい、深奥で強烈に満ちた存在感を発揮している。とにかく、全方位に向けられたナイーヴさと全方位に向けられたアグレッシヴさとが、虚無のずっしり重たくなりそうなムードのなか、パッションとは何だ、リリカルとは何だ、いちいちうるさく問うてゆく勢いで、攪拌され、あたかも絶体絶命の手ざわりを身近に察知したからこそ、生き生きとして振る舞いたくなるさまを描くのである。わっと出たテンションではっちゃけ、ギターの旋律は細やかに激しく、幾重にもふくらむことで複雑化した展開に、ダイナミックなドラマを盛り込んでゆく1曲目の「RESUSCITATION OF A DEAD MAN」からして、じつにスリルあふれるよね。そうしたインパクトをキープしたまま、終盤にメロウな余韻を重ね合わせる2曲目の「LAST CALL」や、先述したENVYとのスプリットにも収録され、めまぐるしいぐらいの性急さが自然と寂しげな印象へとスライドする3曲目の「AS HE CLIMBED THE DARK MOUNTAIN」にも、思わず身を乗り出し、たいへん胸騒がされるものがある。プロデューサーは、06年の前作『A CITY BY THE LIGHT DIVIDED』と同じく、デイヴ・フリッドマンが担当しており、まあハードな部分はもうちょい硬く鳴ったほうが個人的に好みかなという気がしないでもないが、触感は、緻密であることと生々しくあることが同時的に加工されていて、アップとダウンの落差のあいまがカタルシスとなる表現に対し、存分な説得力をつくっている。バックの演奏は、いかにもTHURSDAYでござい、といった力みがクライマックスを連続する場面のみならず、リズムのとり方がキャッチーな5曲目の「BEYOND THE VISIBLE SPECTRUM」や、アコースティックではじまりシアトリカルに孤独を述べる6曲目の「TIME'S ARROW」、一時期のDEFTONESやFARを彷彿とさせるモードからモダンにメロディアスになる8曲目の「CIRCUITS OF FEVER」など、ミドルやスローなナンバーにあっても、以前にも増し、陰影を濃く描き、そこに被さるヴォーカルは、うたうだろう、叫ぶだろう、嘆くだろう、ときには囁くだろう、ありったけ心の裡をぶちまける、傾斜をのぼるにしてもくだるにしても、速度をゆるめない緊張で、もしも魂というものがあって、もしも死んでいるのならレクイエムに、そしてもしも生きているのならエールに、デジタルもシグナルも関係なしに、そのように聴こえるように。はてしなく、せつなく、つよく、だ。

 『A CITY BY THE LIGHT DIVIDED』について→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2009年02月22日
 仁義S 9 (ヤングチャンピオンコミックス)

 まさか、ということもあるまいが、しかしまさか、横山が復帰、柳澤込みで、関東一円会が再編されることになろうとはな。それがはたしていったい、あらかじめ用意された筋書きどおりなのか、あるいは土壇場の思いつきにすぎないのか、作者の思惑について、読み手は推し量るしかないのだけれども、結果として、物語の背景に置かれた関東一円会と獄地天道会の対立という構図に、ふたたびの弾みがついている。ここにきてもまだ、盤面をおおきく揺るがし、動かすとは、あいかわらず予断を許さないねえ、といった感じの、立原あゆみ、『仁義S(じんぎたち)』の9巻である。いや、今までの流れからするに、もうしばらくは柳澤を仮想敵に置いたまま、アキラと大内の主人公コンビによる追撃を描いてくれてもよかった。柳澤の陰謀を、もしもそれが墨田川に仇なすつもりであるなら、突き詰め、打破することで、二人の、とくにアキラの、組織内の株はあがり、ひいては仁と義郎の、つまり今はビッグ・ネームとなった前作『JINGI』の主人公たちの、次の「仁義たち」としての資格を十分に得ることもできたろう。だが、関東一円会が、柳澤の目論見とはべつのところで、二つに割れ、再編されたため、事態は一転し、彼らは目下の事件から、あらたな局面に駆り出されることになる、さらなる火種を抱えてゆくことになるのである。それにしても、大内の役は、見事なぐらい、かつての義郎をなぞらえている。元極左のエリート・テロリストであった義郎と、無所属の天才ドクターである大内とでは、たしかにインテリだとの共通項を持ってはいるが、当然のごとく能力のありようが違う、いやむしろ、前者は暗殺に長け、後者は救命に長けている以上、対極だとさえいえるし、そもそも極道を選びとった目的も異なる。にもかかわらず、株で儲けた金を、パートナーの成り上がりにつぎ込む、賭けるといった奉仕のスタンスで、だぶっている。これをアイディアの使い回し、二番煎じと判じることはできる。けれども、革命の分野であれ、医療の分野であれ、システムが完全な拝金主義に陥ってしまい、本質の見失われたことを憂い、自らドロップ・アウトした人間が、金銭には換えられないものを信じて命すら惜しまぬ人間に出会い、ヤクザの抗争に身を費やしていくことが、投資の行為によって担われているのは、資本制の徹底された世界に対する一種の復讐であると見られたい。バブル経済の余波を受け、小国の国家予算に匹敵する額を叩き出した義郎にくらべたら、そりゃあ今日の不況にあたってしまった大内の儲けは、ややスケールが落ちるとはいえ、それでも億単位で好きに動かせるだけの余裕を稼いでいる。だが、義郎や大内が欲に目をくらますことはない。なぜならば彼らにとって、金には金以上の価値はなく、それ以上の価値を知るべく、存在する手段にほかならないからだ。これから行く道で、もしも金が障壁になることがあるなら、先に除けておきたいだけの話にすぎない。仁をガードするアキラを見、大内は〈今 見送っている男を見送られる男にする 登った先に何があるのか?〉と思う。義郎と仁の関係がそうであったように、大内もまた、アキラの躍進に、いまだあらわれたことのない世界の実現を託しているのである。〈ヤクザはみんなゲイだろ〉という大内の言葉は、たんなる自嘲ではない。むろん、真に同性愛だというのでもない。おそらくは、野郎が野郎の生き様に信頼を預けるような意気を指している。一方、所属は違えども、同じチンピラとして和気あいあいとしていたアキラ、守(もり)、大介(大ちゃん)の、三人の友情とバランスは、それぞれの立場があがるにつれ、微妙になっていく。はからずも甲田の殺害に関与してしまった守に、アキラは、真犯人の捜索を、厳しく、強いる。守の命を思えばこその仕打ちなのだけれど、事情は複雑に絡み、もはや以前みたいに腹を割って話すことはできない。これがのちに遺恨を残すことになる。この作者のマンガにおいて、守のような、小悪党めいた人物の恨みは、しばしば重要なキーとなりうる。穏便な大介の〈アキラの気持ちが守に伝わるか どうか?〉という懸念は、すでに悪い予感を孕んでいるのである。ところで、だ。今後、関東一円会と獄地天道会とが、本格的に臨戦態勢に入るのだとしたら、あんがい、同一の世界観をシェアする立原作品のなかでも獄地天道会ともっとも関わりの深い『本気!』の物語から、本気(まじ)あるいは風岡の登場があるかもしれない。さすがに仁や義郎が、それらの人物と直接相対することはないだろうが、アキラか大内のいずれ、さもなくば関東一円会のトップに立った横山との対面は、決してありえなくない。

 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら 
 3巻について→こちら
  
・その他立原あゆみに関する文章
 『本気![文庫版]』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『極道の食卓』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『恋愛』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2009年02月21日
 なるほど、ヤクザもやっつけちゃえるほどの腕力があれば借金取りだって怖くない、というのは真理の一つである、かな。俵家宗弖一が原作をつとめ、柳内大樹がマンガを描いている『ドリームキングR』に関しては、これまで、どうもちょっとね、いまいち腑に落ちないところも多かったのだけれど、この4巻は、いやいや、たいへん物語に入っていきやすかった。それはおそらく、作品を占めるおおきな要素のうち、自分探し的なモラトリアムの迂回路めぐりが一歩後ろに引き、国盗り合戦的な軍記物のわかりやすさが前に出ているためだと思う。服飾、ファッションの業界を舞台とする『ドリームキングR』であるが、そこでの成功とはつまり、軍記物の様式であらわされているといって良い。競合は許されず、ブランドや店舗は、他のブランドや店舗を食い、支配していかないと、生き残れないのである。もちろん、企業系のフィクションも同様の論理で動いているものがすくなくはない。しかしこのマンガの場合、なぜか、ケンカなどによる武力決着が果たされなければ、優劣ははっきりしないとの点において、ヤンキー・マンガのヴァリエーションに等しくなっている。しかして、そこにモラトリアムを支援するヴァーチャルな自意識を組み込んでいるのは、同じ柳内の『ギャングキング』のごとく、だけれども、『ギャングキング』がそうであるように、作者の筆力は、感情の複雑なさまを緻密化するのに向いていない、むしろ抽象的なイメージのとおり戯画化するのにすぐれているのであって、それがすなわち、自分探し的なモラトリアムの迂回路めぐりを下げ、国盗り合戦的な軍記物のわかりやすさを押すことにより、うまく作用しているのが、『ドリームキングR』の、4巻の内容だといえる。主人公であるジョニーの、深く考えることもなしに、まず行動を先に起こしてゆくことの結果が、関わった人びとを悪政から解放させる。客観的な事実はともかく、主観の判断で敵と見なされるべきは、ぶん殴って倒しちゃえばいい。そしたら勝ったことになるだろう。失敗するはずがない。これはこれで当然、子供のモチベーションにほかならない。だが、ここで重要なのは、『ドリームキングR』の概要自体が、子供が子供のままビジネスの世界でサクセスする姿に支えられていることである。言い換えるならば、子供抜きでは成り立たない世界なのだ。子供らしさは、ジョニーの頭の悪さがイノセンスとイコールであることによって保証されており、その正当性を拳のつよさが補う。正直、こうした構造に関する非難はあるにしても、とりあえずおいておきたいのは、一塊の純粋さが、汚い大人をくじく、汚れつつあった同志を導き直す、といった展開の単純さに、やはり、胸のすくものがあるからで、飛び降りた先にたまたま相撲取りの集団がいたので命が助かったっていう、馬鹿馬鹿しさは好きだよ。数々の困難をまとめてクリアーし、『ゴッサマー』を譲り受け、『SHIBUYA』の顔役を任されるようにまでなった当のジョニーが、こうした成り行きを〈もう展開が急すぎて何がなんだか………〉と漏らしているけれど、ライヴァルであったオザキックやJが配下に加わる部分も含め、武勲の示し方としてはひじょうに明解である。

 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 「バンカラボーイズ」について→こちら
 『ギャングキング』
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 「オヤジガリガリ」について→こちら
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2009年02月20日
 定期的な自戒ではありますが、もうちょい文章をうまく書けるよう、何とかしていきたいです。
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 そう、たとえば、こういうナイーヴなポエジー、イズムからも、『特攻の拓』の残響を聞きとることができる。〈ホントに世界は逆様に出来てやがんよ? 夏ゥ… / 平和を謳って兵器を量産し / 利益の為に世界中に戦火を撒き散らす / 愛されている事を利用して / 誰かを有罪にする事で正義を量産している / 強いものは“強い事”を平然と遣って蹂躙してゆき… / 弱いものは“弱い事”を当然と盾に被害者に擦り変わる… / 愛や心を嘲笑うもの達が権威や収益を崇めてる / 無い価値を信じ込まされた弱きもの達の破綻が世界を瓦解させ… / 自国の価値を信ずる事が出来ぬ強きもの達の判定が人々の豊かさを崩壊させてゆく…〉という、このような残念は、あきらかに天羽時貞のそれを引き継いでおり、佐木飛朗斗が原作を提供する諸作品のなかで、通底音として存在する、もしくは存在し続けるうち、あらためられた変奏にほかならない。生まれや育ちを一種の呪いとして見、世界レベルの不幸と結びつける感受性は、サブ・カルチャー的な想像力において、決して特殊なものではない。むしろ普遍的だとさえいえる。誰しもが戦って死ななければならないとしたら、それは世界によって定められているからなのである。すくなくともそう信じられていることが自然であるような、そういう戦いに対し、はたしてピリオドを打つことは可能か。『外天の夏』が描こうとすること、主人公の天外夏が、死んだ兄から託されているのは、おそらく、そのテーマだろう。物語が3巻に入って、いよいよ夏は、兄がはじめた族(ゾク、チーム)である“外天”の集会に合流することとなる。しかし同じ夜、間宮龍人率いる“泥眼”が、百瀬の“朧童幽霊”に向けた敵意を宣誓し、“魍魎”の和國も戦争の構えをみせるのであった。よもや全勢力の衝突は必至、という事態に巻き込まれた夏が、いかなる活躍を、いかなる役割を果たすのか、いっさいの焦点は、そこへ絞られてゆくのだと思われる。それにしても、これ、ぜんぶ、たった一日の出来事なんだぜ、ありえねえよな、というぐらい、現段階ですでに、作中時間の量は、無尽に膨れあがっている。だが、そのことはもしかすると、登場人物の雑多さも含め、ドストエフスキーの『罪と罰』や埴谷雄高の『死霊』のような文学作品の、狭い物語内における複雑な思弁性を同例にして捉まえられる。としておきたい。じっさいにマンガをつくっている東直輝や、佐木のデザインが間抜けなのではなく、血まみれの諍いも含め、さまざまな思考や対話が、形而上を目指し、奔放に繰り広げられているのである。たしかに、目に見えずとも信じられるものは、ある。としても結局のところそれは、目に見えるかたちを通してでしか、認識されない。このことが真であるのかどうか、バイクや音楽、ダイヤモンドや宗教のもたらす熱狂は、それを問うている。ここに描かれている少年や少女たちが、過酷に生きなければならないのは、ありとあらゆる価値基準が、恒常性のないまま、とっくに頼りなくなってしまっていると、察知しているため、に違いない。たぶん、少女たちにとって、大人が用意した規則や男性のマッチョイズムは、もはやおそれるものではない。安い女子高生はレディース(女性暴走族)をDQNとあざ笑い、レディースは女子高生をウリモンと罵り、合い、同性同世代のなかで、せめて自分のポジションをキープしようとする。元セレブ・ギャルズとゴシック・ロリータの姉妹は解り合えない。ネガティヴな反動のみが、自己を体感させる。少年たちが、暴走と暴力を用い、実現せんとするのも、それと等しいベクトルにほかならない。舐められたらお終い、というと不良くさいけれども、優劣の曖昧なカテゴリー間のせこい対立は、現代においてシリアスな問題となりうる。それぞれがそれぞれのカリスマを立て、群雄割拠する動向をよそに、平凡な立ち振る舞いの夏を主人公たらしめているのは、彼のきわめて中庸な姿勢であるのかもしれない。夏は、現在の“外天”のアタマ、すなわちヘッドでありトップであり、リーダーである伊織の微笑む姿に〈そうやって笑うと…特攻服が全然似合わない… / 出会った頃と変わらない伊織くんなのに…〉と思う。そうした無邪気さのみが、とても手に入れにくいので、争わなければならないとしたら、何とも悲しいことだ。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』(漫画・山田秋太郎)について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
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2009年02月19日
 ぬかるみに注意

 今でこそ生田紗代の小説を好んで目を通してはいるが、初期の頃は高く買っていなかった、というのは以前に書いた。どこでどう印象が変わったかというと、この短篇集『ぬかるみに注意』に入っている「浮いたり沈んだり」によって、である。このたび単行本のなかに入れられたので、初出以来、ひさびさに読み返したが、ああ、そうそう、これなんだよな、と感心したい。しかしたとえば、その文体や物語に、すごい、と形容すべきほど、とくにおどろき、すぐれているところがあるわけではない。いや、むしろ反対に、たいへん平凡でしかない日常の様子が、ほとんどひねられることなく、とてもリラックスしたものとして、描写されている点に、愛着を持つ。だいたい、筋にあたる部分を述べるなら、こうだ。栃木で一人暮らし、大学生をやっている弟のもとへ、両親の心配を受けて、姉が訪ねてくる。はるばるやってきた姉に向かい、弟はいきなり、メガネが見つからない、と言う。いつもと同じ場所に置いて、寝たはずなのに、朝起きたら、なくなっているのだという。視力の弱い弟は、もうそれだけでかなりうろたえているのだけれど、姉のほうはあまり気にかけない。ながらも二人で、メガネを探しつつ、お喋り、夕飯の準備などをしているうち、時間が過ぎてゆく。だからといってそこで何か、読み手に対し、つよく訴えかけてくるようなエピソードが、設けられているというのでもない。そうして夕飯を食べ終わる頃、ふとしたきっかけとひょんな場所からメガネは出てき、〈どうせそんなことだろうと思ったよ〉と平然としている姉の背中で、弟は「メガネ最高」と叫ぶのであった。ほんとうに、こういう模様がまんまあらわされているにすぎない。たしかに、弟との会話を呼び水に、姉が思春期を回想して、〈とてつもなく漠然とだが、その辺の空中にそよりそよりと浮いていた何かに一瞬手が触れた気がして、顔にかかっていた髪を耳にかけた〉のは、一個の感情をかたちづくってはいる。が、決してそれが重たくはなく、何よりもやはり、姉弟の佇まいが、しごくナチュラルであることに、微笑ましさを覚える。もしかしたら作者自身は、くだらなさを目指しているのではないのかもしれないが、とにもかくにも、くだらなくくだけているふうに見えるさまが、心地好いのである。これに比べると、その他の、いっしょに収められている作品には、すこし、強張り、わざとらしく、気取っている面が、表立っているふうにも思われる。

・その他単行本に収められている作品に関する文章
 「彼女のみる夢」(「魔女の仕事」として改題)について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
 
・その他生田紗代に関する文章
 『たとえば、世界が無数にあるとして』について→こちら(オンライン同人誌『CHILDREN』Vol.04内)
  「さよならジョリス」について→こちら
  「アザラシのホーさん」について→こちら
  「靴の下の墓標」について→こちら
  「ハビタブル・ゾーン」について→こちら
 「浮かぶしるし」について→こちら
 「なつのけむり」について→こちら
 「私の娘」について→こちら
 「雲をつくる」について→こちら
 「なすがままに」について→こちら
 「まぼろし」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 『タイムカプセル』について→こちら
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2009年02月18日
 群像 2009年 03月号 [雑誌]

 『群像』3月号掲載。『星が吸う水』は、村田沙耶香のこれまでのものと比べて、その情念とでもすべき感がやや、すっきりと整理され、たとえば本谷有希子のそれをそうというならば、ポップなエキセントリックさをも含んだ小説になっており、このあたりはもしかすると、作中人物の年齢が作者自身に近しく設定されているからなのかもしれないが、生きづらい世界だからこそ自分で自分をつくり直さねばならないこと、あるいは、自分で自分をつくり直すのがこの世界では難しいこと、といった趣旨において、主人公の年齢がずっと若い『ギンイロノセカイ』や『マウス』に通じる点を持っている。そろそろ三十歳代に入ろうとする鶴子は、性交(セックス)について、世間一般からすれば、特殊な考え方を持っていた。濡れない膣ではなく、突起物の高まりによってもたらされる欲情を勃起に喩え、やがて迎える絶頂を射精だというふうに信じ、しかしじっさいには射精しているわけではない、たしかに目に見えて示されるわけではないことを、とても残念に、寂しく思う。そうした自分の、いわば溜まったときに「抜く」感覚を、恋人の武人は理解してくれているが、べつの人々に説明したところでわかってくれないので、あまり言わない。たとえ言ったとしても、〈性器が穴状だと、いくら能動的に行動していても、受身だと思われてしまうのかもしれない〉のが〈鶴子には不満だった〉のであって、たしかに〈鶴子の性器には穴が開いているが、何かを受け入れたと思ったことは一度もない〉し、性交がうまくいくとは〈お互いに、抜くためにとても起用にこすりあっているのだと思っている〉のが〈鶴子には自然な感覚だった〉のである。作品は、そう判じている主観と対照的に、志保や梓という、同世代で同性の友人たちの、それぞれがそれぞれの煩わしさを抱えた姿をワキに置き、既成の概念と個人のプライオリティが、必ずしも幸福な関係上で結ばれるとはかぎらない様子を、ある種の困難であり、不自由さとして、現代的な性差と友情とが、ちょうどフックとなるような物語のなかに描き出してゆく。客観的に捉まえるなら、鶴子はたんに、性交の優先順位が高い人間でしかない。何はともあれ、性交のことばかり考え、それをベースに敷衍し、他のことを考えているにすぎない。結婚に現実を見、執着する梓がしばしば、だらしなくも思われる鶴子の暮らしぶりを非難するのは、二人のライフ・プランに対する見解自体がどうというより、その認識の、回路の、都合の良さを指摘しているのではあるまいか。終わりのほう、恋人とのことで落ち込む梓を、鶴子と志保は日帰りの温泉旅行に連れ出す、そこで梓の凝り固まった考えをほぐそうとし、無茶をしでかす鶴子に向かって、志保が「小学校のころ、隣の家の子が、登校拒否だったの。その子と夏休みに、夜の校庭に忍び込んで花火をしたとき、その子、火花を校舎に振りかけて、爆破しようとしてた。さっきの鶴子見て、そのこと思い出したよ。そういう、無謀な子供みたいだった」と言うのも、同じく、主人公の幼稚さをあらわしているのかもしれない。だが、それが良いとか悪いとかの峻別は、ひとまず保留されている。いったい何が正しく、何が誤っているのか、結局のところ、人は定められない。ただ、空虚な抗いのどこか底で生じる実感を、叙情と呼ぶのみなのである。

 『マウス』について→こちら
 『ギンイロノウタ』について→こちら
 『ひかりのあしおと』について→こちら
 『授乳』について→こちら
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2009年02月17日
 おかわりのんdeぽ庵 2 (2) (講談社コミックスキス)

 なかはら★ももたの、たとえば『あかねSAL』や『のんdeぽ庵』のイメージで、原作なしのオリジナルである『世界はひとつだけの花』を読むと、ぎょっとさせられるものがあるけれど、それはある意味で、さまざまなモチーフに対応しうる作者の巧みさが十分にあらわれている、ということなのだと思う。そして、イタバシマサヒロの原作と組んだ『のんdeぽ庵』の続編『おかわり のんdeぽ庵』には、ライト・ポップなテンションが、グルメ・マンガもしくは料理マンガの体裁を借りて、とてもよく示されている。前作『のんdeぽ庵』のヒロインの一人であるサカナから、居酒屋「ぽ庵」を受け継いだ奈々葉は、相棒の穂波とともに、心づくした料理ともてなしで、訪れた人々の疲れや迷いを晴らしてゆく。こうしたストーリーにおいて大事なのは、やはり、前向きな浮力となるあかるさだろう。現実の生活にそくして、料理とコミュニケーションを描いていくと、人生に突き当たるのか、この手のジャンルにおいては、世知辛い話題が好まれるもので、当然『おかわり のんdeぽ庵』も例外ではなく、茶番でしかない部分もあるにはあるが、男性向けの諸作品に見受けられがちな、断定、言い切り型の説教くささはあまり感じられず、その雰囲気の軽やかさがおもな特徴となっている。この2巻に収められているもののなかでは、前作の主人公をスペシャル・ゲストに使ったそれではなく、ファミレスの大手チェーンで利益を求める親のスタンスに反発し、接客の密な「ぽ庵」で包丁をふるう奈々葉の、よき理解者であり、現在は家業を継いでいる兄が登場してきてのエピソードが、もっとも魅力的である。生き方におけるイズムの問題にしてしまえば、堅苦しくなってしまいそうなところを、うまくかわし、兄妹間の信頼を、とても羨ましいものとして描いている。

 『あかねSAL☆』(原作・岡田惠和)に関する文章
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年02月15日
 17(じゅうなな) 2 (2) (講談社コミックスフレンド)

 桜井まちこの描く泣き顔や笑い顔がほんとうに好きで、ほとんどもう、そのチャーミングさを見るために、作品を追っているようなところがある。しかしそれは、必ずしも作中の人間たちがよく生きているということではないのであって、むしろ各々の個性、魅力、ひいては物語のレベルにおいての弱さを思わせる。と、これはかねてより述べてきたことの繰り返しであるかもしれない。が、そうした印象は『17[じゅうなな]』の2巻になっても、おおきく変わることはない。けれど、登場人物はわずか四人とさえいえる青春の像にあって、表情の一つ一つがこうも鮮やかであると、その一喜一憂に切々と訴えかけてくるものが生まれている。恵に励まされ、佑介との関係を元に戻したい詩歌であったが、終わりは、自然に、唐突に、やって来てしまう。これを機とし、詩歌と恵の二人の関係にも微妙な変化が訪れる。というのが、ここでのだいたいの流れである。四年間付き合っていたカップルが別れる、別れなければならないのは、傍からすれば、たったそれだけのことにすぎない。だが、もちろん、たったそれだけのことが、ひたすら悲しく、重い、このような気分が、さりげない風景にまじった描写のレベルでたしかに伝わってくる。巻頭に置かれている「放課後」と題された前日譚のような、たいへん短いエピソードがとくに、すばらしく、うつくしい。こういうワン・シーンだけを切り取ってきても、それが十分に機能してしまうのが、作者の、らしさ、であるし、同時にウィーク・ポイントでもある。今後、詩歌と恵の間は、どう進んでいくのか。二人の関係をあやしむ明の表情が、彼女の内面を雄弁に語っているのにくらべ、どうも詩歌や恵のそれが、ニュアンスの妙をうまく出せていないのは、たとえばゼロに近しかった関係を積み重ねるというのが、ある場合には物語をつくるというのとほぼいっしょのことだから、だろう。

 1巻について→こちら

・その他桜井まちこに関する文章
 『minima!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『H-ラブトーク-』について→こちら
 『H-エイチ-』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
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2009年02月14日
 MOMO 1 (りぼんマスコットコミックス)

 可愛らしいファッションに身を包んだ少女は、自らを大魔王だと言い、もしも地球に存続するだけの価値がないのなら、破壊してしまおうと告げる。人類は知らずのうち、わずか二年の猶予を突きつけられる。その間、たった一人だけ真実を知ってしまった平凡な主人公が、彼女の気を変えることができなければ、まさしく世界は終わる。酒井まゆの『MOMO』は、ストーリーのラインを取り出すなら、わりと青少年向けのマンガやライトノベルのフィクションに近似な内容であるけれども、矮小な身に巨大な運命を背負ってしまった主人公が、ひねた坊ちゃんなどではなくて、前向きな決断力と行動力を持った女子高生であるところに、なるほど、現代的な少女マンガらしいデザインが宿っているし、作者のセンスがよく出ている。また、そのことは作品の構造自体にも関与していて、1巻を読むかぎり、照れ隠しのボーイ・ミーツ・ガール譚が目指されている印象ではなく、あくまでも素直にロマンティックなファンタジーとしての成果を上げているのだった。不幸に次ぐ不幸に見舞われ、〈誕生日なのに やっぱりいいことなんかひとつもない こんな世界 今からでも遅くないから 終わっちゃえば いい――――――…〉と願っていたヒロインの夢だったが、しかしたまたまのことから、地球の破滅を左右する代表者にされてしまい、大魔王であるモモを〈この星のすべてを使って7度喜ばせ〉なければならなくなる。こうした理不尽さに対し、確たる使命感をもって応えようとするのである。見逃してならないのは、人類に与えられた二年というリミットが、16歳になったばかりの夢にとって、18歳になるまでの歳月と等しいことだろう。それはすなわち、一人の学生が成長して、大人になっていく過程を、含んでいる。この点を見るなら、基本線は、入学から卒業までのあいだをとった学園ドラマ形式の変奏にほかならない。そのなかで、世界の終わりをダシにして描かれていることの本質は、誰しもがどこかで乗り越えてゆかねばならない自立のテーマ、なのだと思う。

・その他酒井まゆに関する文章
 『ロッキン★ヘブン』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら 
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年02月12日
 SUPER JUMP (スーパージャンプ) 2009年 2/25号 [雑誌]

 西森博之が『道士郎でござる』を描いたように、加瀬あつしが『ゼロセン』を描いているように、90年代にヤンキー・マンガで鳴らした作家が、00(ゼロ)年代になって、敗戦以前の日本男児的な精神を現代にぶつけてきていることは、彼ら自身の思惑や表向きはどうであれ、本質的には、中途半端にアメリカナイズされたこの国の男性性を問うている、という意味で重要だ。またこうした観点からなら、ヤンキーの語が、アメリカ人と不良少年の両義性を持っている事実も、不自然ではなくなる。それを前提にしたとき、柳内大樹が『スーパージャンプ』NO.5(09年2月25日号)において、読み切りで発表した『バンカラボーイズ』にも、やはり、注目せざるをえない。ご存知のとおり、『ギャングキング』のヒットを生み、今日のヤンキー・マンガのシーンで、大勢のファンを擁するトレンド・ラインとなり、西森や加瀬たち90年代的なヤンキー・マンガ家に比べれば、およそ一回り下の世代にあたる、その作者が、昭和21年の旧制高校を舞台とし、モラトリアムの馬鹿騒ぎを捉まえたのが、『バンカラボーイズ』である。相変わらず、とってつけたかのような問題意識に、わざわざさあ、といった気がしてしまい、鼻白む部分もなくはないのであったが、しかし、いわゆるベタなネタで押し切ったストーリーは、決して悪くはない。こういう、善悪の判断をよそに、無邪気さが、ただただ理想を夢見るていで、一話完結型のエピソードをやらせたら、柳内は見事にその良さを発揮する。先に述べたことを反故にしてしまうようだが、『バンカラボーイズ』の比較対象として挙げるべきは、『道士郎でござる』や『ゼロセン』ではないだろう。おそらくは、00年のテレビ・ドラマ版『池袋ウェストゲートパーク』の、とくに八話目の内容であった。惚れた女性のため、身を削る人物を見、仲間たちが、ほとんど無償で、協力を申し出る。そのようなプロットのなかで、社会に出るにはまだ未熟だから不良少年をやるしかない弱さに対し、ある種の覚悟が突きつけられている点に、共通性がうかがえる。したがって、このマンガにとって余剰だと思えてくるのは、じつは終戦直後という設定である。登場人物が、バンカラであるよりもボーイズであることのほうが鮮明なのであって、両項のあいだに何かしらの化学反応が起きているわけでもなく、要するに、今に置き換えても十分にやれたドラマにほかならない。そうして、柳内が戦後日本をまるで現代みたいに描いてしまうことと、西森や加瀬が現代をあくまでも敗戦以後の日本として描くことは、たぶん、スタンスが決定的に異なっている。それが世代に由来するものなのか、当人の資質や年齢に由来するものなのか、あるいはもっとおおきく時代背景のパースペクティヴで踏まえるべきものなのか、もしも2010年代から先になってもヤンキー・マンガのジャンルがなくなっていかないとき、あらためて考えていかねばならない宿題の一つだと思う。

・その他柳内大樹に関する文章
 『ギャングキング』
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 「オヤジガリガリ」について→こちら
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 ONE DROP [初回限定盤] [CD+DVD] ONE DROP [通常盤] [CD]

 デビュー時より、せつなかっこいいハード・ロックのモードをいくKAT-TUNだけれども、バラード・タイプの「White X'mas」をアクセントに置き、ふたたびこういう、「ONE DROP」のような、はげしいアタックを全開にしたナンバーをシングルとして繰り出してくるのだから、まったく、ぶれがない。冒頭のSEを抜きにして考えたら、約3分の程度にまとまったナンバーは、たとえばブレイクとなる箇所に、おおげさなギターのソロ・プレイを差し込み、中丸くんのヴォイス・パーカッションを入れ、さらにはJOKERこと田中くんのラップをもうちょい長めに設定することもできたろう、が、あえてそうせず、まるでエディットのヴァージョンみたいにばっさりと、メインのパート以外は切り捨て、編成されている。そうしたアプローチはもしかすると、ギミックを盛りだくさんにゴージャスでグラマラスな路線をとった「DON'T U EVER STOP」の真逆だとさえいえる。しかし、そのシンプルさが、ソリッドなタイミングを生み出し、テンポはハイでありながらも、爽快な勢いで跳ねる「喜びの歌」やスピード・メタル的な疾走の「LIPS」とはまた異なった質感の、じつにこのグループらしい展開をもたらす。ハーモニーを裏で支える赤西くんのヴォーカルが、要所要所で、前に出てくるところも良い。この、エキサイティングな表題曲に加え、カップリングの「D-T-S」も、なかなかに侮れない内容である。Sean-Dというライターに提供された歌詞は、あきらかに、スキャンダリズムを撃っている。それがギターのダイナミックなバンド・サウンドにのって、たそがれ、憤り、うたわれる。マスコミのネタにされがちな立場からしたら、ある意味で、リアル系のエモーションであろう。〈もうちょっと You ちゃんと 準備して出直して 安くないぜ〉というあたり、皮肉がきいているよね。ここにきて、JOKERのラップが、ふてぶてしい。いかにもハード・ロックの様式美ふうなキーボード・ソロから、HaHa、と声荒げたラップを決めてゆく、このようなくだりはアイディアとして抜群であり、他に類をあまり見られない。「ONE DROP」も担当しているha-jのアレンジは、グループの特性をよくわかっている。正直をいえば、昨年にリリースされた『KAT-TUN III -QUEEN OF PIRATES-』が傑作すぎて、あれを越えるものはもうつくれないんじゃねえか、という気がしてた。だがしかし、である。「DON'T U EVER STOP」を、「White X'mas」を、「ONE DROP」を、そして来月に予定されているシングル「RESCUE」を、おそらくはぜんぶ含めるに違いない次のアルバムも、いやいや負けず劣らず、とんでもない作品になるのでは、そんな嬉しい予感が、ひしひしとしている。

 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2009年02月11日
 The Animals Still Run This City

 イギリス出身の5人組、SCREAM!SHOUT!SAY NOTHINGの、5曲の収録だがデビュー・アルバムにあたるらしい『THE ANIMALS STILL RUN THIS CITY』で聴かれるのは、ゆったりとした尺をプログレ的もしくはポスト・ハードコアふうに展開するさまや、エモっぽく力んでエネルギーを発散させていく演奏とヴォーカルとが、ちょうどOCEANSIZEとHELL IS FOR HEROESの間をとったかのようなアプローチで、サウンドのスタイルとしては、ぜんぜん好きだ。例に出したOCEANSIZEやHELL IS FOR HEROESもそうだけれど、ラウド系の、こういう独特な叙情を持ったバンドは他の国にあまり見られないと思う。ワン・セクション、ワン・セクションの回転数をめまぐるしくあげ、どかん、と一気に落とすインパクトではなく、かといって共感のラインをスウィートなメロディでコーティングし、ライト・ポップなセンチメンタルをつくるのでもなく、ローなテンポから、こんもり熱を高め、躍動と繊細をない交ぜながら、ひろまる音響の内に、若々しいヴィジョンを託している。11分の、もっとも長いタイムで成り立つ3曲目の「EINSTEIN I AIN'T」が、やはりハイライトになるだろうか。勢いを激しく、滾るままに叩きつけられた衝動が、2本のギターの、注意深く、そして穏やかで、きらびやかに、フレーズを積み重ねる印象によって、異なった表情をし出すところに、クライマックスたっぷりのドラマが詰まる。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2009年02月10日
 きんぼし 3 (3) (ヤングマガジンコミックス)

 敗北から学べるものはあるか。もちろん、ある。ということにしておきたい。そうでもなければ、誰も敗北から立ち直れないし、やり直せないし、這い上がれないではないか。

 スポーツ・マンガ、もしくは勝負を題材にしたフィクションにおいて、敗北を立派に描くことは難しい。感動のためだけに登場人物を殺しちゃうのは、とっておきの手だから、やたら滅多に使うわけにもいかないしね。しかして生きている人間が、真剣になればなるほどうだうだしてしまう局面をも、うまく表現していかなければならないのである。安易にはいかないこのことに成功している作品は、もうそれだけで、えらい、と思われる。たとえば、明石英之の『きんぼし』などは、そうだ。

 巻末のコメントにもあるとおり、全3巻という長さは、おそらく作者の望んだものではないのだろう。だが、挫折した人間が救ってくれた人間の挫折を救う、このようなかたちできれいに物語は閉じていて、十分に読み応えのある結果を残している。こうした力量をしっかりと見るなら、ほんとうにもうちょい評価されても、よかったな。

 左目を怪我し、野球部を追われた甚野新太が、その身体能力の高さを買われ、長尾蒼士に相撲部へと引き込まれてからしばらく経った頃、彼ら清楓高校のもとに、蒼士の弟で、強豪校である東洸学院のレギュラーをつとめる暁人が、一年生の仲間を連れ、道場破りよろしく、試合をふっかけてくる。これを受けて立った新太たちは、その実力差の前に、自らがまだ、発展途上であることを、あらためて認識していくのだった。

 暁人の類い希なる才能にコンプレックスを持っている蒼士が、しかしじっさいに土俵の上で破れ去る場面は悲痛である。禁じ手を用いてまで勝利しようとするけれども、実力は覆らない。それに対して、暁人は〈苦しまぎれに反則なんて救えねーな マジで相撲やめろ お前‥‥〉と、無情にも言い放つ。

 蒼士には蒼士の勝たなければならない理由があり、暁人には暁人の勝たなければならない理由がある。だが、勝者になれるのはどちらか一人のみであって、望みながらも、選ばれなかったことが蒼士を落胆させる。

 突きつけられた真理に逆らえず、場の空気が重たいとき、ありきたりな慰めに、言葉に、はたしていったい、どれだけの意味があるだろう。蒼士の心は完全に折れた。ここからがクライマックスである。まさしく〈で‥出た――!! ミスター無神経!!〉の新太が、その暗いムードも気にかけず、いや本心ではぜんぶをひっくり返してやるために、満を持して暁人に挑む。

 当然、勝ち気だけで無理難題が何とかなるなら、蒼士がそうしていたはずである。ほとんど素人の新太が、屈強な暁人をねじ伏せる見込みは薄い。新太の一身を平然といなす暁人が〈お前の薄っぺらな気合いと決心だけじゃ‥‥このオレを押すこともできねえんだよ!!〉と言うように、その差は、かぎりなく大きい。それでもゆく。ゆかねばならぬことが、ほんのわずかな可能性の、わずかさをたしかに信じられるふんばりを生む。そうした、ゼロを百にまでは持って行けなくとも、たった一にだけは進めてみせるドラマに、がぜん奮ってくるものがある。

 そこではつまり、作中でいくどとなく繰り返される、カッコイイとはどういうことか、という問いが、そして敗北からしか学べない、認められない、はじめられないものがあるのだとする旨が、新太の姿を借り、こういうことだ、との言い切りとして応答されているのだと思う。

 しかしながら作者は、新太が、暁人に一矢報いることができたのは、たんなる精神論ではなく、もしかしたら身体的な潜在能力のおかげだったのかもしれない、そのような予断を持ち込んでいる。であるがゆえに、他の部員たちが、敗北を経て、前向きさを得ているのに反し、自らのポテンシャルを低く見積もっている蒼士だけは、リタイアを考えなければならなかった。

 ここにおいて、作品の冒頭あたり、新太がすべてを失い、沈んでいくのを、蒼士が引き止めたときの立場を、ちょうど逆さまにしたかのように、今度は新太が、自棄になりかけた蒼士のハートを、たきつけ、ふたたび火ともさせることで、物語はひとまとまりのメッセージとなり、閉じられる。

 逃げ出そうとしていたにもかかわらず、結局のところ、相撲を取り戻すほかなかった蒼士に向かい、新太のこう言うセリフが、最高潮に効いているだろう。〈無理かもしれねえ‥‥勝てねえかもしれねえけど 今ここで諦めるより…頑張る方が楽だろ!!〉。

 白けることが、かっこうよく、満足いくのであれば、まあ悪くはないよね、と。だがほんとうにそれでいいのかどうか、自分で自分に訊いてみな。決して他人事じゃあないのである。

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posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(09年)