ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年01月31日
 Classical Fantasy Within〈第7話〉アル・ヴァジャイヴ戦記再生の女神、アイラ (講談社BOX)

 ああ「サミラ、今ぼくにもやっと解った。これが、再生というものなんだな」かくして千人の兵士たちによる、故郷サラディーン救済のための、苛酷な試練は、目的を遂げる。島田荘司の大河ノベル『Classical Fantasy Within 第七話 アル・ヴァジャイヴ戦記 再生の女神、アイラ』である。神の塔の上、ついにポルタトーリの壷の謎かけを解いたショーン・マスードは、辿り着くには遠く遠い紅海までの距離を、最高速で駆け抜ける手段を手に入れる。砂金を燃料とし、モーターを回転させ、雷の力で二輪を駆動させる、そのマシーンならば、不可能を可能にすることもできるだろう。だが、行く手にはまだ、おそろしい竜が、虫が、獰猛なトゥルード族が、待ち構えている。「Classical Fantasy Within」のうち、「アル・ヴァジャイヴ戦記」と題されたシリーズも、いよいよ完結になるわけだけれど、ここから物語は、クライマックスに向かい、まるで主人公らが乗る雷の機械の力を借りたかのように、さらにスピードをあげてゆく。とくに、二つに割れた紅海を、リミットぎりぎりで、走りすぎなければならぬくだりに、はらはらさせられる。全編を通じて、士郎正宗の手がけたイラストとのコラボレーションが、もっとも生きているのも、その場面ではないかと思う。結論からいえば、ロール・プレイング・ゲームふうの英雄譚に、ミステリやSFのロジックを持ち込んだ神とは、いったい何者だったのか、神話レベルでの真相は、作中に明示されていないが、まあ、伝説や寓話の成り立ちは本質的にそういうものであって、そこにこそ想像力の入り込む余地がある、想像力で補われなければならない部分なのかもしれないし、あるいは今後に別シリーズの続く「Classical Fantasy Within」のすべてが提出されたとき、はじめて見えてくるものがあるのかもしれないけれど、こうしてサヴァイバルのかたちで描かれたファンタジーが、しごく単純に考えるなら、受精や受胎の喩えを持っていることは、主人公と女神の邂逅に、あきらかだ。しかしそれにしても、たいへんわくわくさせられる冒険活劇であったな。もしも「Classical Fantasy Within」に興味を抱いている向きがいるとしたら、順番は異なってしまうものの、ひとまずこの「アル・ヴァジャイヴ戦記」から入ってしまってもよいとさえ、言いたい。

 『Classical Fantasy Within 第六話 アル・ヴァジャイヴ戦記 ポルタトーリの壺』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第五話 アル・ヴァジャイヴ戦記 ヒュッレム姫の救出』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第四話 アル・ヴァジャイヴ戦記 決死の千騎行』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第三話 火を噴く龍』について→こちら 
 『Classical Fantasy Within 第二話 怪力光線砲』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第一話 ロケット戦闘機「秋水」』について→こちら
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2009年01月30日
 文藝 2009年 02月号 [雑誌]

 『文藝』春号掲載。自分でも、この頃は青山七恵の作品を持ち上げてばかりいるなあ、という気がしているのだけれど、どうしてかと考えながら、たぶん、少女マンガの端整な小説化であるようなところを好いているのだろう、と思うようになった。もちろん、少女マンガみたいな感性を持った小説自体は、80年代ぐらいよりこちら、とくに珍しいものではないし、今日的な小説家にとっては、もしかしたら無意識な、ごく自然と身についた作法なのかもしれないが、だからこそ重要なのは、それが端正にも受け取れる、との一点である。たとえば、同世代の(といってしまってもいいかな)同系統の(といってしまってもいいよね)女性作家である島本理生や生田紗代と比べてみたとき、そのことはわかりやすく見えてき、最初期の『窓の灯』や『ひとり日和』には、十分に足りていない部分であった。この『出発』にもまた、まるで少女マンガの(とはいっても若い社会人ぐらいの年代が読む)ような印象が備わっている。とくにドラマティックな出来事が展開されるのではない。気難しくない程度に、等身大の、個人の、漠とした感情をあらわしている。二十八歳の〈僕〉が、絶対のおおきな理由があるわけでもなく、会社を辞めようかと考えているある日、街角で、派手目の見知らぬ女性に「お金貸してくんない」と声をかけられた場面からはじまり、そうして何か事件が起こるのではなしに、一日の、風景や人々の描写がちょうど、語り手の、心の移動と重なるかたちで、小説は進んでゆく。男性の一人称による語り手は、この作者にとっては『ムラサキさんのパリ』、『欅の部屋』に続く三作品目で、もはやキャリア上の異色ではないだろう。その彼が、旅行事業部に勤めているという設定によって、たしか『ムラサキさんのパリ』の主人公も旅行関係の仕事だったよな、と思ったのだが、両者に表立った関連性はなさそうである(旅行会社に勤務しているらしい作者の経験に基づいているだけの話とも考えられる)。けれども、ビルディング小説として対照的な面を持ってはいる。あるいは、『新しいビルディング』を間に挟み、立ち去る者や出て行く者になれない者、とでもすべきテーマを持ち出していいのかもしれないが、『ムラサキさんのパリ』では、匿名的な高層ビルに囲まれるなかで〈フェンスの向こう、ビルとビルの隙間のもっと遠くに、小さな灰色の電気塔が小さく見えた。エッフェル塔に似ていなくもなかった〉と、ここではない風景がイメージされることに、おそらく主人公の心証を託しているのに対して、『出発』では、〈駅を昼にして西のほうを見やると、すぐ向かいには昼、女に声をかけられたスバルビル前の横断歩道、コクーンタワー、工学院大学、それから僕の会社が入っているビルがある。十二回のフロアには、ぜんぶの窓に蛍光灯がともっている。そこを取り囲むようにいくつかの高層ビル、京王プラザホテルの一部、そして駅からまっすぐにのびるイチョウ並木。街灯に照らされて、今はどの木の葉もマーカーでひいたような蛍光イエローに光っている〉という、具体的な場所に立ち、いま〈日本の中心の東京の中心の新宿の中心に〉いると気づかされることに、主人公の実感を預けている。

 『欅の部屋』について→こちら
 『お上手』について→こちら
 『かけら』について→こちら
 『新しいビルディング』について→こちら
 『松かさ拾い』について→こちら
 『やさしいため息』について→こちら
 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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 デジモノステーション 2009年 03月号 [雑誌]

 現在出ている『デジモノステーション』3月号、「ご長寿WATCH」というコラムに『徹子の部屋』について書きました。
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2009年01月28日
 柳内大樹の『ギャングキング』には、かつての吉田聡みたいに学園ラブコメと不良ヴァイオレンスのアマルガムであるようなヤンキー・マンガの路線をいって欲しかったが、結局、高橋ヒロシ以降ともとれる国盗り合戦的な不良ヴァイオレンスの方向に向かってしまったことを、とても残念に思う。とはいえ、当人としては、おそらく、ハロルド作石の『ゴリラーマン』の、藤本がしばしばモラトリアムの自由と不自由で迷う姿を、一つの手本に置いていることは、以前に、ひさびさに悪魔のような自分を取り戻したぜ、的なセリフがオマージュされていたことから、うかがえる。だが、そのことが結果的に、主人公であるジミーの造形を、ちょっと、頼りないものにしてしまってもいる。彼の、リーダーとしてのスケールが、エピソードごとにぶれる、生きている人間だからぶれるのは当たり前じゃんね、というのはあるのだけれど、そのぶれの奥底にあるべき芯すらもぶれてしまっているふうに見えるので、どうも頼りないのである。もちろんそうした、先行する作品群と比べたら、筋の通っていないところを、あえて描いている点を指し、新しさといい、今日のリアリティをよく掴んでいるとするなら、ああ、まあ、たしかにそれはあるのだろう。さて。この15巻では、かつて『ヘドロ会』に在籍し、現在は建設現場で働くチャンベが、居酒屋で、がやがやうるさいアラーキーと相まみえたことから、バラ学の不良グループと元不良の土木作業員たち(ワークマンズ)とが、いさかい、抗争に発展するくだりが描かれている。いうなれば、モラトリアムと社会の衝突が、その背景に見え隠れしているわけだが、しかしここで重要なのは、それが決して子供対大人の図式にはなっていない、いやむしろ、子供対大人の図式になってはいないがために、学生と社会人とが、たんなるカテゴリーがべつの、同年代の人間同士の、暴力による対立関係を結べていることだ。当然、これが導き出しているのは、成熟などしない男性像にほかならない。おそらく、作者の思惑は、そのような男子のイメージに対してさらに、なるたけ争いを穏便に解決したいので、非の所在を明らかにしようとするジミーと、そして元『ヘドロ会』のリーダーで、今の段階ではメインのストーリーに噛んではいないが、高校にも行けずに働くことを良しとするヘドロベロを、子供から一歩先に進んだ場所へ配置することだと考えられる。が、ジミーの立ち振る舞いも含め、長篇向けのドラマと文脈のつくり自体は、相変わらず、うまくない。
 
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 「オヤジガリガリ」について→こちら
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2009年01月27日
 登田好美の作品集『夏の残骸』には五つの読み切り作が収められていて、そのなかでは表題作と「わたしたちの箱庭」、「4.5時間目はうそつき」が、印象に残った。幼馴染み同士の淡い触れ合いと当人たちの気づかぬうちに成長している姿を描いた「夏のあと」も、いやいや決して悪くはないのだが、今しがた挙げた三つのマンガに比べると、雰囲気以外の部分にすこし、物足りなさがあるように感じられる。もっとも分量のある「いびつな太陽」は、血の繋がらない姉弟の恋愛という、つまりフィクションの世界にありふれているモチーフが、これだけの長さ、物語のサイズの内で、うまく実を結んでいない。作者にとっては、短いもののほうが、具体的に、焦点の定まったドラマを描きやすいのかもしれない。と、そのことは翻って、「夏の残骸」の、思春期の無力さに対する抵抗が鮮明である様子に、よくあらわれている。両親の身勝手な離婚に疎外感を覚えた少女は、自分が子供だから意見も何もできないのだと思う。はやく大人になりたい、はやく大人にならなければ、噂では女性にだらしないとされる同級生と付き合いはじめ、セックス(性交)をして、はやく子供の時代を終わらせたいと願う。そんな彼女に対して、じつは真剣で大切にしていたかった彼氏が〈…寝るって大人になることじゃねーよ?〉と投げかける言葉が、つよい。たしかに、思春期においては、セックス(性交)や恋愛は、なにか、魔法のような力を持ちうることがある。だがそれが、ほんとうに魔法として生きるには、感情の、心の作用が必要なのではないか。もしもそうだとすれば、という可能性が、少女に、誤りからさえも真に信じられるものを見出させてゆくのである。同様に、「わたしたちの箱庭」も、少女同士の閉塞的な共犯関係から、恋愛によって与えられた勇気を一つの手がかりとし、抜け出そうとするヒロインの姿を、デリケートに描く。
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 ホンゴウランコの『ヘブンズ・ドア』は、同名邦画のコミカライズであって、さらに大元の原作は海外の映画にある以上、プロットに対しての責任はよそにあると言うべきなのだろうが、しかしマンガのエモーションが、登場人物の迎えるラストの描写にのみ担われてしまっているのは、あきらかに作者の演出上の問題である。結局のところ、荒唐無稽な難病ファンタジーのヴァリエーションを突破するものではなく、悪い見方をしてしまえば、タチの悪いカップルの、そして死以外は二人にとって都合のよい、傍迷惑な逃避行でしかなくなってしまっている。余命いくばくもない少女、春海は、病院で知り合った青年、勝人から、〈天国じゃ みんなが海の話をするんだ〉という、彼が昔観た映画の話を聞かされ、一度もじっさいに見たことのない海に思いをはせる。子供の頃に入院して以来、病院の外へ出たことがない春海の境遇に、同情してか、あるいは他にも理由があってか、勝人は、春海を連れ、海の間近に感じられる場所まで向かおうとする。盗んだ自動車、そこになぜか置いてあった拳銃、強盗、強盗、そして警官に追われて強盗、しかしそのような椿事は、しょせん、着の身着のままで出発した二人がどうやって海にたどり着いたのか、それはね、犯罪を働いたからだよ、といった程度の、説明不足を補うがための説明にすぎず、あくまでも概要は、死を背景にしたボーイ・ミーツ・ガール譚にほかならない。ヒロインの、ようやく得る生の手応えが、死にたくない感情が、どこからやってきているのか、たとえプロットのうえではそうでなくとも、ここではラヴ・ストーリーの部分がクローズ・アップされているので、ただ大切な相手ができたから、ということになってしまっている。そうしたとき、大勢に損失を与えてまで海に行く必要がほんとうにあったのかしら、逆説的な疑問が生じるのである。結末だけがうつくしい。
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2009年01月26日
 ああもう、切なすぎて、胸が潰れそう。藤原よしこの『恋したがりのブルー』に示されているのは、男女四人のスモール・サークル内における恋愛模様でしかなく、それがこの4巻に入っても決して開けてゆくということはないのだが、しかし、溜め息がいくつも漏れるほど、やわらかく透き通って今にも壊れそうな、情景が広がる。ウソからはじまったはずの恋が、いつの間にか、本心になってしまっていた蒼であったけれど、陸と清乃とがじつは昔から好き合っていたことを思えば、それがどれだけ辛くとも、身を引くよりほかなかった。一方、清乃と付き合い出した陸も、蒼のことが思い出されては、悔やみたい気持ちでいっぱいになる。だが、いったん先に進んでしまった時間の針はもう元に戻ることがない。清乃のかつての恋人であり、陸の親友でもある海から、意外な告白を受けた蒼は、そのやさしさに触れて、だんだんと陸を忘れようとする。ほんとうに、それ以上のことは、何も起こらないのである。事故や難病で誰かが死んだりもしない。にもかかわらず、ありありとした感動が、マンガのうちに存在している。なぜだろう。たとえば嫉妬がそうであるように、想いがつよく深ければそのぶんだけ、せこいこと、しょぼいことにも、感情が、おおきく揺さぶられてしまう場合がある。たかだかその程度のことさえ、コントロールしきれない部分に、あるいは人間らしさを見つけられたりもする。こうした、他愛もないモーメントのうちに隠される生々しい表情を一個の手がかりとし、作品は、自分にすら正直になれない人々の苦しさを、見事に描き出しているためである。四人がそれぞれ、複雑な思惑を抱き、立ち会い、二手に分かれる場面の〈ただ いっしょうけんめい好きな人がいるだけなのに あたしたちの 心は いつも 泣いていた〉というモノローグが、抜けないトゲの痛みを寄越す。

 1巻について→こちら
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2009年01月25日
 この4巻に入って、花火と誓、そして雪音の三角関係が、やたら生々しい展開を見せているような、ななじ眺の『コイバナ!』である。好きになってしまった男子に、自分では決してかなわなそうな恋人がすでにいる、さてどうしたらいいか、の展開をいかに描くかが、このマンガのポイントになるだろう、と考えていたわけだけれども、劇的なドラマを用意し、状況を一変させるのではなく、言い方は悪いが、せこいアプローチを積み重ねることで、相手の心変わりを期待しちゃうだなんてのは、こうしたピュアラブルなラヴ・ストーリーのヒロインらしからぬ、邪の道ではないかしら、という気がしないでもないが、意外と現実の恋愛だってそんなものだしね、とは思う。他人からは磐石に見えていた誓と雪音の隙を、まあ花火の立場からしたら自覚のないまま、突いて、別れのきっかけをつくってしまう。以上が、ここでのくだりであって、おかげで誓と急接近できたことに、多少は罪悪感を覚えながらも、結局のところ、うきうきしちゃう花火は、でもやっぱりちょっと、客観的には、嫌なやつだねえ。要するに、恋愛においては物質的に近くにいる人間がいちばんつよいの理論、の勝利でしかないわけだからさ。しかし必ずしも悪者となっていないのは、三角関係にあとから加わった人間の、こういうかたちでしか恋愛を成就できない仕方なさに、それなり説得されてしまうものがあるからだろう。それで十分なのに、はたして読者の目に向けてのフォローか、あるいは今後の物語のためになのか、雪音の人格に致命的な非があるように持って行っちゃう、持って行こうとしているのだとしたら、程度が低すぎる、疵となりかねない。そのへん、ほんとうはどうやって転がすつもりなのか、次巻以降を待たなければならないが、うまくやって欲しく。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『パフェちっく!』
  22巻について→こちら
  19巻について→こちら
  14巻について→こちら
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 ああ、こいつはやばいや。佐藤ざくり、まさかここまでのポテンシャルとは、思わなかったな。すさまじくファニーである。『おバカちゃん、恋語りき』は基本的に、最近のアルコや幸田もも子のような、ギャグとしてのラブコメになっているのだが、しかしその弾け具合ときたら、正しく他に類を見ない。この1巻の時点でもう、ネジが一個か二個、完全に外れてしまっている。とにかく、身も蓋もなさすぎるところが、茶目っ気にあふれ、おかしい。

 格闘家の父親に育てられ、不良をも簡単にのしてしまうせいで、西日本最強の女という噂が一人歩きしてしまった園田音色は、そうしたすべてをリセットすべく、東日本の高校への転校を果たす。もちろん、目標は本気で恋をすることであった。以上のような出だしから、自然と、最近の主流でもある高校デビュー系のヴァリエーションかしら、と予想してしまうけれども、いや、ぜんぜんそんなことはなかったね、これ。

 何せ、さっそく音色は揉め事を起こすし、彼女が入れられたのは、問題児ばかりを集めた特殊クラス、通称「バ科」であり、〈なんか…スタートダッシュ…逆走って感じ…?〉と、途方に暮れる。だが幸運はどこにでもあって、特進科のイケメンさん、相澤深と出会い、一目惚れし、胸ときめかす。こうした筋立てから、自然と、逆境にくじけないヒロインの片想いとがんばりを描いていくのかしら、と予想してしまうけれど、いやいや、そんなこともぜんぜんなかったね、これ。

 たしかに、筋書きだけを追えば、高校デビュー系のヒロインが片想いにがんばる、と要約できるだろうが、しかし最大の魅力はそこではない、そこにはなくて、現代的な少女マンガの、通常におけるイディオムを換骨奪胎しながら、セオリーとして想像される展開の斜め前を、一歩も二歩も先にいったコメディが、怒濤のごとく繰り広げられる様子に、たまらないものがある。ノック・アウトされる。

 ひとまず、登場人物たちがみな、めちゃんこである。基本的なスペックがどうというより、その言動が、ずれているのではなく、あまりにも明け透けであるため、おいおい、ちょっと、慎めよ、という具合に、突っ込みを入れたくなる。特殊科のクラスメイトは、もちろんとんでもないし、ほんらいは彼らと住む世界が違う相澤も、天然なわりにサドっ気抜群、という少女マンガにおける典型的な王子像を、大胆にサンプリングし、いい感じに傍若無人であるさまが、音色を引っ張り回す。賑やかな空気の一端を、ぎゅっと掴んでいる。理事長とその弟も、ワキに置いておくのがもったいないぐらいの馬鹿さ加減で、いいよ。

 特殊科のなかでは、しだいに音色に惹かれてゆくトキオが、どうやら相澤と因縁があるあらしい点も含め、キー・パーソンの役を負っていると思われるが、それ以外には虹花という女子の存在が、じつにエクセレントである。ふつうなら、ヒロインの親友にあたるポジションにいるのだけれども、初対面の音色に向かい〈え〜〜虹花 女子とかどうでもいいんだお だって虹花 男子にモテる事以外 どーでもいいんだもん〉と悪びれないあたり、かなりひどい。そして音色の恋愛に関しても、完全にどうでもよさげであって、こういう態度がしかし、芯のしっかりしているふうに見えてきてしまうのが、困る。

 個性的な登場人物ばかりではなく、エピソードの立て方やギャグの入れ方も、よく生きていて、とくに音色と相澤が急接近する学内合宿の編が、好き。音色が手刀で薪を割っているシーンとか、それだけでもう変だろ、愉快だろう。イベントの最中にヒロインが倒れ、好きな男子に介抱される、そのようなお約束だって、理由が生理の二日目に熊に襲われたからだというのも、ロマンティックぶち壊しである。だがそうした全部がたいそうすばらしい。

 印象としては、作中に〈よかったね 相澤深は園田さんにラブずっきゅん・なんだよ〉というセリフがあるけれど、おそらくはそのフレーズの元である邦楽の某アーティストがそうであるように、まじなのかネタなのか不透明な揺らぎを脈絡の欠いたまま、できうるかぎりクリアに描き出している。

 『otona・pink』2巻について→こちら
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2009年01月24日
 おや、幸田もも子も(この、も、こそが今日重要である)、こういう路線へと振り切れていくのか。『よってけ!音子村』は、ラヴ・ストーリーの、ストーリーにあたる箇所を、コメディに移し換えて成り立ったマンガである。もちろん、それって単純にラブコメのことでしょう、といえるだろう。が、しかしラブコメと呼ばれる系がすでに、男女の関係を戯画化した一つの様式、一つの語り口である、と前提されるとき、『よってけ!音子村』に描かれているのは、もっぱらギャグでしかなく、恋愛のモチーフは、ただそのどたばたを盛り上げるためにのみ、費やされる。つまり、従来のラブコメに比べて、極端に物語性が低い。にもかかわらず、そこにドラマを見ることが可能なのは、やはり、ラヴを扱っているからにほかならない。要するに、これをラヴ・コメディであるとするならば、ラヴはテーマにかかっているわけではなく、あくまでもストーリーを肩代わりしているものなのであって、それがさらにコメディとしてあらわされているのである。そしてそのようなスタイル、センスは、幸田に特有であるというよりも、現在、少女マンガのシーンにおいてポピュラーになりつつあるものの一つ、ではなかろうか。ヒロインの有栖川乙女は、根っから〈男ってのは最低な生き物ね!〉と思っており、恋愛なんてのもするつもりがない。だが、16歳になったら婿をとらなければならないという、家のしきたりのために無理やり、婚約者を見つけるべく、住民の98%が男子であるらしい音子村で暮らす羽目になってしまう。まず設定の大半が冗談のようであるし、そうした事情を嫌々、反抗する乙女の態度が、当人の切実さに反し、おもしろおかしく示されていることが、作品の魅力を担う一点だと感じられる。もう一点、白馬騎士(はくばないと)という、この名前もまあ冗談のようであるけれど、その、音子村で出会った同級生とのやりとり、じょじょに惹かれ、不器用で切実に片想いしていく様子が、フックの役割を果たしている。つまり、こうした二点を指し、最初に述べたとおり、ラヴ・ストーリーの、ストーリーにあたる箇所を、コメディに移し換えて成り立ったマンガ、と受け取れる。

 『姐さんカウントダウン!〜恋愛抗争編〜』について→こちら
 『姐さんカウントダウン!』について→こちら
 『誰がスッピン見せるかよ』について→こちら
 『そんでむらさきどーなった?』について→こちら
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2009年01月23日
 Travels

 ああもう、ちくしょお、いらっとする、そのようなときには轟々とうるさいものを聴いていたいよ、カタルシスするからだ。けれども、ジャストなのは、なかなかなあ。結局のところ、叫ぶからやかましいだけ、テクニカルだから騒がしいだけ、という気が、すくなくはないバンドにしてしまい、それだって近頃じゃあインパクトがつよいわけでもなく、いまいちこう、がっとこない、要するに、カタルシスしないのだった。が、ボストン出身の5人組、DEFEATERが昨年(08年)にリリースしたファースト・アルバム『TRAVELS』は、そんなことなかったな。燃えた。かなり燃えた。パッケージに貼られた英語の惹句によれば、MODERN LIFE WARやCOMBACK KID、VERSEのファンにどうぞ、であるらしいが、言わんとしていることはわかる。ざっくりとした印象を述べれば、芯のぶっといハードコアで、熱のたっぷり入れられたストロングなスタイルで押す、合間合間にスローでメロウなパートのアクセントを噛ませ、青臭いといってもいいような情緒を、うねりのうちに設けてゆく。スピードの激しい展開は、たしかに、ある程度の複雑さを備えた演奏によって、押さえられ、支えられてはいるのだろうけれど、何よりもそこから生まれてくる怒濤に圧倒される。心惹かれる。メリとハリの、どかどかと目まぐるしいなかに、ちゃんとドラマが聴こえてくる。ガッツにあふれている。テンポをダウンし、重量のあるグルーヴを響かせながら、アジテーションがすごむ6曲目、「PROPET IN PLAIN CLOTHES」の半ば、いきなりアコースティックで弾き語りふうになるのは、いい声で男らしい哀愁のあるメロディを歌っているのも含め、ちょいとびっくりした。やあ、かっこういいね。

 バンドのMySpace→こちら
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2009年01月22日
 サムライソルジャー 3 (3) (ヤングジャンプコミックス)

 大勢が総意するような通過儀礼のあれこれが亡失された今日にあって、成熟せよ、という要請は、潜在的に、いったいいつどこでどうやって、という問いを投げかける。こうした議題に対し、いち早く応答したのが、90年代の、一部のヤンキー・マンガであったわけだが、しかしそれらのほとんどは、まあ読み手に想定されている層を考えれば仕方がなかったのかもしれないけれど、真剣に読まれず、語られず、いやむしろ茶化して受け取るのが、当然になってしまったことを、これだけサブ・カルチャーが隆盛し、サブ・カルチャーの批評が隆盛するなか、とても残念に思う。だがもちろん、先駆的な作品によって取り組まれた問題意識を、00(ゼロ)年代に受け継ぎ、さらに深いレベルで描き出そうとしているマンガはあって、たとえば山本隆一郎の過去作『GOLD』や、同作者の現行作『サムライソルジャー』などは、正しくそれだといえる。

 現代的なモラトリアムのありようを象徴的に描き出そうとするがために、舞台としての渋谷と不良少年の物語が選ばれた『サムライソルジャー』の3巻だが、ここではまず、前巻で、桐生達也に高らかに宣誓された、あの〈命令とか男とか…オメーらいつまでダセーことコイてんのよ 嫌なら渋谷から出てきゃいーじゃねーか でも渋谷で遊んでたいから わけわかんねー理由つけやがる 今 ここに49人いる そんで49人とも1年後は何してんの? 不良(ガキ)やめて肉体労働(ゲンバ)か? それともヤクザごっこやってのたれ死ぬの? スカウト・AVなんかの企業舎弟でもやる? みんな俺についてこい…そうすりゃ ずっと渋谷(ココ)の不良(ガキ)のままでいさせてやるからよ〉という言葉の、そのルーツの一つが、主人公である藤村新太郎の誕生日にあったことが、明かされる。

 まだ16歳だった4年前の誕生日、藤村は、親友である桐生に、こう漏らしている。〈何が誕生日だ 歳が増えるってだけじゃねーか あんな汚ねー生き物になり下がるくれーなら 大人になるのなんてゴメンだ…それなら…このまま ずっと 一生 不良(ガキ)でいーわ!〉と。これにはもちろん、すでに引いた桐生の宣誓へと、やがて通じていくような響きが含まれており、重要なのは、その藤村のセリフが、原初的な共同体である家族の存在を否定する、そうした立場から発せられていることだろう。

 だらしのない生き方をする両親に向けられた嫌悪が、藤村に、家族を信じさせず、大人を汚いものだと思わせる。一方、孤児院を出身とする桐生は、自分の誕生日すら知らない。要するに、最初から家族を持っていないのである。こうした二人の、孤独、所在のなさ、それに対する反動が、渋谷最強を目指す『ZERO』というチームの根っこには、まちがいなく、ある。そして、4年前には〈じゃあ 誕生日 俺に半分くれよ〉と、〈こりゃあ なかなか名案だぜ 俺ら いっつもニコイチだろ――? これから絶対お互いにおめでとうって言い合えるじゃねーか! 一人じゃない…俺ァ ずっと新ちゃんのそばにいるからよ!〉と桐生が言うほど、絆のつよかった二人の袂の分かたれたことが、現在の『ZERO』の暴走ともとれる大規模な抗争劇の、すくなくとも遠因にはなっているに違いない。

 おそらく、初期の『ZERO』は、藤村と桐生にとって、家族の十分な代替であるような、寄る辺であった。そしてその、自分の居場所を大切にしたい、といった理念が、じょじょに『ZERO』の仲間を増やしていったのである。もちろん、そこには亡くなった雫も含まれている。だが、まだ明確な理由は明らかにされていないけれども、雫の死を契機とし、運命を違えてしまった藤村と桐生の目には、『ZERO』の拡大が、それぞれべつのものとして見えはじめる、そのことが二人を背反する立場に回させている。いや、より正確を期すなら、桐生が行う『ZERO』の巨大化、『ZERO』による渋谷の統一は、大人にならず不良(ガキ)のままでいるのに必要不可欠なプランであり手段である、との意味において、初志を貫くものにほかならない。これに対して藤村が異を唱えるのは、暴力が果たす『ZERO』のスケール・アップは、確実に人を傷つけ、あらたな疎外を生み出しかねない、からだと考えられるわけだが、じつはこれもまた〈強いってのは大切なモン ビシッと守れるコトなんじゃねーのか〉という彼の信念上、以前の感情を裏切るものではない。

 藤村の〈強いってのは大切なモン ビシッと守れるコトなんじゃねーのか〉という言葉は、2巻の時点で、『ナダレ』の元ナンバー2である市川に向けられたものであったけれども、それはこの3巻でも反復されているとおり、あるいは1巻の、1話目で、桐生に憧れるトオルに告げた〈本当の意味の強さってのはな…どこのチームに属してるだとか 誰の下についてるだとか……そんなモノサシで測れるようなもんじゃねーんだ!〉というセリフの言い換えであるように、もしかしたら『サムライソルジャー』全体にかかるテーマを秘めているのだと思う。

 そうして注意しておかなければならないのは、どうやらヤクザと手を組み、危ない橋を渡っているらしい桐生を、『ZERO』を、そして渋谷を守るべく、いよいよ決意を固めた藤村が、『ZERO』に敗れ、いったんリタイアした『マーダーコープ』の頭、吉田に〈今 渋谷の不良(バカ)どもが どーなってるのか 教えてくれ〉と訪ねる場面、読み(ルビ)のかたちで「不良」の語に働いている力学だろう。すなわち、『ZERO』やその他のチームの抗争が繰り広げる抗争を、「ガキ」のそれではなく、いや、ともすれば「ガキ」のそれであるがゆえに「バカ」のそれとして、藤村が認識している点である。

 ここですこし、作外のレベルを踏まえながら、話を進めたい。高橋ヒロシの『クローズ』というよりも『WORST』のヒット以降、すなわち00(ゼロ)年代のヤンキー・マンガ史において、高橋のフォロワーとともに主流派となったのは、いわゆる国盗り合戦的なテーマをつよく出したものであった。それは当然、派閥的な闘争、権力の推移を描くことであって、要するに、この山本の『サムライソルジャー』でいうならば、藤村が「バカ」と指す連中のどんちゃん騒ぎでしかない。『KINO』誌VOL.7(08年)に掲載されている「21世紀のマンガ・ベスト60」という記事で、『WORST』を評した呉塵しは、そこに描かれる不良たちの〈その共同戦線はスポーツ的なホモソーシャルによるものではない。なんだか新鮮で、どこか懐かしいこの「聖域」で、不良たちは仁義ある戦いをし、大人になるために洗礼をうけ、己を見極めて社会に出て行くのである〉といっているけれど、しかしながらそれはやはり、社会も大人も本質的には存在しない「ガキ」の世界の出来事に止まってしまっている。結局のところ、モラトリアムを担保にしなければ、構造上、成り立てない表現なのだ。

 ある意味で、そうしたモラトリアムの永続を目指しているのが、『サムライソルジャー』の桐生だといえよう。だがそのような振る舞いだけで完結せず、いつか終わらねばならぬモラトリアムを引き受けようとする視線を、態度を、主人公を介し、導入し、相対化さえしてみせているところに、作品の鋭さ、作者の批評性はある。すでに述べたが、主人公の藤村は4年前に、16歳であった。この設定はつまり、作中の現在は、ちょうど彼が20歳になった時であることを示している。そう、成人である、が、今どき成人になっても存分に「ガキ」のままでいられるし、じっさい、桐生も含め、藤村と同級もしくは年齢の近しい登場人物たちが、渋谷のトップになろうと、年少の人間を弄し、国盗り合戦みたいな諍いを起こしている。大人になることを自覚した者だけが、これを批判しえるのであって、もちろん、藤村がその役割を負っている。

 結果はどうであれ、市川の尽力が実現させた『渋谷連合』と『ZERO』とが対峙し合う場にあらわれた藤村は、いうなれば、子供のケンカにしゃしゃり出てきた大人である。それが〈『渋谷連合』…だったっけ? ソレ解散しろ!?〉とのたまい、〈『ナダレ』も『マーダー』も元通りのチームに戻す…そして今後 渋谷統一なんてアホなことはやめるよーに! もしやめねーんなら 俺が『ZERO』つぶす〉と指図するのだから、やる気のみなぎっている『渋谷連合』と『ZERO』の面々は、いらっとするだろうね。えらそうに、と。わかるわかる。しかし、子供が「ガキ」のケンカをしているのではなく、大人が「ガキ」のケンカをしているのなら、話はまったく違ってくる。

 作中で、ほぼ唯一、成熟を前向きに意識させられた藤村は、『渋谷連合』と『ZERO』に対して〈チームごとに解散すると3日以内に俺んトコ報告に来い〉と一方的に突きつけながら、たった一人のチーム、初代『藤村新太郎』を名乗る。「バカ」のケンカを止めるために、「ガキ」のケンカに混ざろうという。これによって、『ZERO』の乾が〈初代『藤村新太郎』の看板は降ろせや〉と述べるとおり、〈渋谷で看板出した以上 渋谷統一掲げる『ZERO』も テメーのくだらねー遊びに付き合うことになる〉。つまり、「ガキ」の事情だけでやっていたものが、それだけでは回らなくなるのである。桐生の裏にいるというヤクザがもしも、いずれ「ガキ」の世界に介入してくるつもりであるなら、逆のベクトルから、先取りされたアクションといえるかもしれない。そしてたぶん、藤村が3日以内と指定しているのは、物語の展開を、のちのちシビアに激化させてゆく前振りの、条件となってゆくのであって、モラトリアムに我執を託す者は、それが強固であればあるほど、わずかばかりのことに多くをかけねばならない、皮肉にも。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
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2009年01月20日
 たまさか人形堂物語

 『たまさか人形堂物語』は、津原泰水の小説のなかでは、どちらかというと『ブラバン』や『ルピナス探偵団の憂愁』のようなものに近しい、要するに、口当たりのよいせつなさをたくわえた内容だというふうに感じられた。あるいは、自らの所在を求め、手に入れ、失くし、再発見するといった流れのうちに、他の作品へと通じるものがある。失業の存在が、とても身近に描かれているのも、らしい、といえばいえる、か。渡りに舟ではないのだが〈三年前、勤めていた広告代理店をとつぜんリストラ解雇され、茫然と赤坂の2DKのマンションに引き籠もっていた私は〉、つまり主人公の澪は、ニュージーランドに移住していった祖父から、時代遅れにも世田谷に残された小さな人形店を継がされる。それが本編の舞台、玉坂人形堂であって〈当初はどうなることかと思っていたが、人形の小売りではなく修復に主軸を移してから、ありがたいことに店はそこそこ忙しい。ふたりの従業員も、かろうじて雇い続けられている〉その二人の従業員、勝手気ままな性格ながら、手芸を起用にこなす青年、富永くんと、過去や素性をいっさい明かさないかわり、たしかな技量を持った人形職人、師村さんに助けられる澪のもとに、さまざまな思惑や因縁を秘めた人形が持ち込まれる。これを次々に解決してゆくというのが、まあ、収められた六編のおおよそである。一編一編は、決して長くはなく、ライト目であるけれど、真相のはっとさせられる業のありようを、気詰まりしないぐらい、和気あいあいとしたドラマのうちに隠している。先に述べたとおり、所在にまつわる物語になっていると受け取ることもできる全体のおしまいのあたり、現実感はぼやけ、立ち位置がぐらつき、視線のよろめいた描写に、この作者ならではの感情が際立っている。

 「土の枕」について→こちら
 『ピカルディの薔薇』について→こちら
 『ブラバン』について→こちら
 『アクアポリスQ』について→こちら
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2009年01月19日
 この文庫版6巻には、主人公である本気(マジ)のカリズマが西は大阪でシンパをつくるという、『本気!』シリーズのみならず、同じ世界観をシェアする立原あゆみの諸作品にとって、重要な転機が描かれている。渚組をいったん離れ、大阪へ渡った本気が、獄地天道会の図譜と接触し、天組の組長代理となったことは、今のところのシリーズ完結編にあたる『本気!サンダーナ』や、べつシリーズの『弱虫』ばかりか、もしかしたら現在連載されている『仁義S』の内容にも、すくなからず影響しているのである。

 大局から見れば、こうして本気の存在は、関東と関西の、両方の極道に一枚噛むこととなり、やがて全国区となっていくわけだが、その一方で、ちいさなエピソードの一つ一つがたまらないほどせつなく、平和であることの尊さ、それを願う気持ちの大切さを、しみじみ伝えてくる。とくに六助の最期は、主人公の地位や立場の向上とともに、作品そのものの構造が、政治的な駆け引きを含まねば成り立たなくなっているなかで、本気の、自らがヤクザ以外の何ものではないという姿勢を、しかしだからこそ人びとのために貢献できることがあるはずだという決意を、あらためて問い直す。

 そう、〈オレがつまんねえ見栄はらなきゃ ダチだろうと兄弟だろうと 風の金バッチひけらかして話つけりゃ 六…てめえは死なずにすんだ…〉のかもしれない。このような反省を受け、もしも誰かを助けられるなら、手に入れた権力を行使することも、反対に泥をかぶることも、厭わぬようになるのである。『本気!』の物語は、ある意味で、汚れなければならない生き方を選んだ人間が、はたしてどれだけイノセントであり続けられるか、あるいはイノセントになることができるか、とのテーマを負っているともいえる。背景に、仏教やキリスト教の考えが見え隠れするのも、そのためであるし、本気と久美子の、性的な関係のいっさいない、ピュアラブルな恋愛が、血なまぐさい抗争のほかにもう一個、メインのストーリーをなしているのも、そのためであろう。

 だがそれにしても、六助のラストは、見え透いた演出ではあるものの、とても悲しい。惚れた相手のためなら、自分の命を捨てても構わない、そうした悲壮な覚悟が、本気の述べるとおり〈久美子さん 六助は 二十何年の人生でホレたのは 逝った恋人とオレだと言いました こんなオレにほれたと……………でも久美子さん さみしすぎます 二十何年生きてきて たったふたり〉という寂しさを後ろに背負っている、と感じられることが、とても悲しい。死が迫り来るとき、救急車を呼ぼうとする本気に、六助は言った。〈いいよ せっかく 七美ンとこいけんだ 救急車なんぞいるかい?〉と。七美とは、もちろん、亡くした恋人の名だけれども、この世で唯一の親友を守るべく命を落とし、あの世で再び恋人に逢えると信じられるのが、たとえ幸福であったとしても、それはやはり、とても、とても悲しいことだ。

 いつの時代にも、望む望まぬにかかわらず、ヤクザになるよりほかない人間がいる。六助が抱えているような、寂しさ、悲しさを、どうしたら救えるのか。これが、本気の、いや作者の、すべてのヤクザの夢はヤクザをやめることでなければならない、という主張に通じているのは、あきらかだろう。また当然のごとく〈かたぎだからといって 許されねえ事があ〉って、〈国 守んなきゃなんねえ政治家が 市民いじめて…極道よりきたねえ…〉こともありうる。いくつもの難題を抱えながら、ストーリーは、じょじょにふくらみ、やがて『本気!』以外の作品にも、拡散、反映されてゆく。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1・2巻について→こちら
  
・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『極道の食卓』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『恋愛』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2009年01月18日
 持田あきの『君は坂道の途中で』は、もしかしたらケータイ小説以降の時代を代表するような少女マンガなのではないか、と思う。しかし誤解のないよう述べるなら、ここには、セックス(性交)や妊娠、堕胎などのショッキングな事件は、いっさい描かれていない。さらには、携帯電話という今日的なツールすらも、ほとんど登場しない。そうした、表層の、ギミックのレベルではなく、物語の背景、作中をくるむセンスとでもいうべきに、どこまで作者が意識しているのかは不明だが、ひどくヤンキイッシュなものを見つけられるのである。それはたとえば、決して優等生ではないヒロインが不良少年と恋におちる、といった本筋に顕著であるし、家族であったり過去であったり、のもろもろがあって、心に傷を負っている、心に傷を持っている二人の、十五歳のそのときが、まるで人生の総体として、過去回想形のモノローグで語られるところからもうかがえる。幸福なすべては、純愛の感情とともにあり、そして純愛の感情を通じてでしか、成熟は得られない、こうしたテーマの立て方が、主人公の亜由に〈この街で15歳の今まで 私の周りには傷にふれない 優しい人ばかりだった けど 家のことで気をつかうんじゃなくて あんな真正面からぶつかってくれた人は 千治 君が初めてだったよ〉〈私達はまだ子供で 迷いも失敗も後悔もあんまり多過ぎる それでも 君は坂道の途中で私を選んでくれたね〉と言わせている。そのポエジーにこそ、おそらく、『君は坂道の途中で』の本質を見出せる。さて。転校生の千治が、かつての想いを精算し、晴れて亜由と恋人同士になろう、というのが、この2巻のくだりであるけれど、注意しておきたいのは、千治が「あの街」といい、亜由が「この街」という、その街へ、千治が「帰ってくる」ことを、亜由が「待ってる」ことによって、そうした展開が担われている点である。要するに、生活の、舞台の範囲を狭めることへの同意が、二人の関係を、具体的に、密にしてゆく。そしてそれは、本来よそ者であったはずの千治が、周囲の環境に溶け込む過程を、スムーズに肩代わりしている。じじつ、後段における文化祭でのクラスの出し物は、ほぼ千治を中心に回っているとさえいる。そこにはあきらかに、純愛の感情を端にし、高まった地域への帰属意識が、共同体のベースになっている、というふうな力学が働いている。また、そのさい出し物として行われるのが、ツッパリビストロ(ヤンキーのコスプレをしたミニ・レストラン)だというのも、興味深い。

 1巻について→こちら
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2009年01月17日
 いい年した人間なのに、オカルトめいた恐怖劇場が、やたら苦手なタイプなので、もうふつうにこわくてこわくて、まいった。夜に読めねえよ。眠れなくなっちゃう。吉成郁子を原作に持った『自殺ヘルパー』が意外な良作であった、いしかわえみの『絶叫学級』はオムニバス形式で綴られるホラー・マンガである。そしてこれが、学校という、たいへん身近な、日常的で、生活感のあふれる場所を、舞台にしているのもあって、おぞましいハイライトが、やたらやたら映える、とてもおっかねえのであった。まあ、こうした系の作品を好む向きには、物足りないものがあるかもしれない。が、無垢と見なされがちな子供たちの、当人にしても悪意とは認識していないような悪意が、都市伝説的な出来事に反映され、やがて訪れる結末に見事なほど救いがないのには、ぞっとさせられる。たぶん、想定されているに違いない読者の年齢層(『りぼん』という掲載誌)から考えるに、そのおそろしさが、何かしらかの教訓ふうに受け取られることを狙っているのだろうけれども、基本的には、学校であれ、クラスであれ、家庭であれ、決して規模のおおきくない共同体におけるディス・コミュニケーションのストーリーになっている。なかでも、インターネットやメールでのやりとりを題材とした「優しいママの家」が、現代的であるがために印象的なエピソードだといえよう。実の母親よりも、ホームページ上にあらわれたイメージでしかないものに対し、理想を見てしまった少女が、悲劇的な末路を辿る。サイコ・サスペンス調に話が進むのも緊張がある。個人的には、本編とは無関係に収められている「海が読んでいる」という読み切りが、好きである。これもいちおうは、ロマンティック・ホラーと呼べ、ざわざわする雰囲気に包まれているのだが、せつなさや、やさしさが、そうした作品の真ん中、主題に来ている。

 『自殺ヘルパー』(原作・吉成郁子)について→こちら
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 近キョリ恋愛 3 (3) (KCデラックス)

 みきもと凜の『近キョリ恋愛』の3巻を読んで、おおっこういう物語の転がし方をするのかあ、と感心させられる。ピュアラブルなラヴ・コメディにおけるヒロインは、多少エキセントリックであったとしても、あるいはそれも含め、たいていはイノセントなものと相場が決まっていて、このマンガの主人公である枢ゆにの個性も、根本はそのラインにそっている。超がつくほどの天才児である反面、同世代と比べ、世間に疎く、度がすぎるぐらいすれていないことが、とてもチャーミングな表情の変化をもたらしているのである。しかしそれは、あくまでも外向きの、態度の、印象の問題でしかない。そこから、感情の問題を引き出し、掘り下げようとしていることが、この巻における展開、そしてラストのカットでうかがえるところに、おおっ、と思わせられるものがある。生徒と教師という立場の違いにあるため、周囲に隠れての交際を続けるゆにと櫻井ハルカであったが、修学旅行先の京都が櫻井の地元であったことをきっかけとし、また一騒動持ち上がる。ここでのくだりは、今までのような、単純に雨降って地固まる的なものでは、ない。ゆにと出会う以前の櫻井が、その足跡が、二人の関係に割って入り、影響、作用を設けることになってしまう。いや、より正確を期すなら、ゆにの側の主観に波紋を呼びかける。一般化して述べるなら、自分よりも経験を積んでいる恋人の過去をいかに受け入れるか、という事態に動揺させられているのだ。過去とは決してスキャンダラスなドラマとはかぎらない。たとえそうであっても、ここで重要視すべきは、違う。かつて恋人に自分以外に好きな相手がいたという、ささやかな、誰にでも起こりうる悩みであるし、もちろんそれはつまり、この作品のヒロインが、ただ可愛らしいだけの人形として描かれているのではなく、生身の人間にほかならないことの表現になっている。そしてさらに注意しておかなければならないのは、ほんらいは過去であるはずの出来事を、現在も進行形であるかのごとく感じられてしまう、そのような主観の歪みが、ゆにの視点を通じて、示されている点だろう。恋人の昔の恋人を登場させるパターンは、こうしたラヴ・ストーリーにとって、珍しいものではない。修学旅行ののち、櫻井の元カノと(当人たち以外から推量)されている滝沢美麗が、作中におけるある種の都合の良さによって、ゆにたちの学校へやって来るのは、たしかにそういったセオリーをなぞらえている。だがすくなくとも、現段階の『近キョリ恋愛』に見出せるのは、よくある三角関係の図式ではない。みきもとというマンガ家の意識は、おそらく、そうした図式をつくり出すことではなく、ヒロインの内面に内面に向け、焦点を絞っていくことに傾けられている。たとえば、女教師の峰藤コウが、ゆににいろいろなコスプレをさせる行為は、読み手へのアピールも合わせて、彼女を人形として扱うのと、おおきく異ならない。しかるにその、コスプレの似合うことが、魅力的なポイントでもある。それをそのまま、作中人物にも読み手にも可愛がらせ続けることは、コメディの性格を持った物語上、可能だと考えられる。しかしながら、作者自身が「あとがき」にあたる個所で〈最後、ゆにがプチダークサイドに落ちてますけど〉と述べるような、ともすればショッキングなシーン、カットを用いることで、嬉しさや、恥じらい、泣き顔など、これまでにあったのとはまたべつの、角度の、人間らしい、表情が、感情が与えられるにいたる。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他みきもと凜に関する文章
 『17歳』について→こちら 
 『水曜日のライオン』について→こちら
 『タイヨウのうた』(原案・板東賢治)について→こちら
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2009年01月15日
 青春パンダ! (講談社コミックスフレンド B)

 『青春パンダ!』は、Chacoのケータイ小説『天使がくれたもの』のコミカライズを手がけたことのある木村文子によるオリジナル・ストーリーになるのだけれど、いまいち、こう、個性的な面に乏しいというか、月並みの内容に収まってしまっている。幼馴染みの渚と凌は、互いのことを口うるさく感じながらも、付かず離れず、高校生になった現在は、優美や啓といった友人たちと一緒に、仲の良いグループになっている。しかし、そうした関係は、それぞれの恋愛感情があいだに挟まり、すれ違いを起こすうち、うまく回らなくなっていく。要するに、片想いをベースにスモール・サークル型の青春像を描いている。当然、こうした設定に特筆すべき点はないだろう。告白までの勇気、距離をテーマとしてつくられたドラマに切実さはある、と思うものの、全般的に膨らみは乏しいし、また、絵のレベルにおいても、登場人物の描きわけが、髪の毛の色を白く抜くか黒く塗るかの違いでしかあらわせておらず、やや不親切に感じる。ほんらいはカラー原稿であったに違いない最初のページ、単行本では色が潰れ、渚と優美のどちらの髪も黒みがかって見えてしまい、構図自体もあまりよくないため、物語に入る前、彼女たちのことを何も知らない人間に対し、何をどうプレゼンテーションするかの段階で、まず工夫を欠く。
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2009年01月14日
 にしても、ユタの耳、でっけえなあ。いや、総じて登場人物たちの耳はおおきく描かれているのだけれども、ユタのそれは並はずれている。しかしながら、決して所十三のデザインが狂っているというのではないだろう。恐竜と人類とが同居する架空の進化史において、ユタの耳のでかさに託されているのは、おそらく、哺乳類の、たとえば戯画においてサルやネズミの耳がおおきく示されるような、イメージの端的なデフォルメであり、同時に“竜の言葉を解する者”としてその心の声を聞くことができるという、物語の主人公に備わった特殊能力を表象しているものだと考えられる。このことに対するヒントが、『竜の国のユタ』改め『D-ZOIC』の3巻には存在している。はからずもヒトモドキと共感し、その生態をくわしく知ったユタによって告げられたことが、〈サウロアントロプスにおける“ティタノイデス” サウロモスにおける“エルフォイデス” そしてサウロピテクスにおける“フェアロイデス”が生まれ やがて“劣化”していく理由――…否!! それは“劣化”ではない〉という希望を、ゴッロにもたらす場面である。ヒトモドキ(擬人)は、自らに訪れる異変を、劣化と見、忌み嫌う。それはまず、身体において顕著であると、作中では表現されている。もちろん、劣化と呼ばれる現象が、じつはそうではないとしたら、いったい何を意味するのか、現在のところまだ、におわされるかたちでしか、読み手には教えられていない、あくまでも明確にはなっていないので、〈だからその“答え合わせ”のためにもボクは “降臨の地”へ行かなくてはならないんです〉と、ユタは、いよいよ主人公らしい決意を固め、物語はもう一歩、前へ進んでいるわけだが、そこでヒトモドキの容姿を特徴づけるのにさいし、働いている作画上の理念が、すでに述べたとおり、ユタの耳のおおきさにも反映されている。さらには、ユタが悪夢のなかで感知する冥王の、邪悪な三つ目も、同様の技法から発想されているに違いない。そのような細部に至るまで、じつはちゃんと設計されている。読ませる。

 2巻について→こちら 

・『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年01月13日
 藤井みつるの『教授と僕〜当世浮世男草紙』には、飄々とした研究生の大学院生活を描いたシリーズ・マンガの単行本化で、三つのエピソードが収められているが、題名どおり「教授と僕」の二人がメインの登場人物をなし、彼らが、見落としているのか、明示されている個所を見つけられなかったけれども、おそらくは歴史学に関わっているという設定は同一ではあるものの、それぞれまったくべつの趣の内容になっている。いちばん最初の「花散る里に雨の降る」ならば、ホラーの要素のあるサスペンスだといえるし、続く「花降る庭に夢現」ならば、学内の派閥抗争を日常のなかに描いているといえるし、最後の「花摘む波に戯るる」ならば、伝説や神話を題材とする宝探しをモチーフにしているといえる。それらのうち、もっとも楽しく読めたのは「花降る庭に夢現」であった。というよりも、他の二篇に関しては、正直、いまいちに感じる。理由を簡単に述べると、登場人物たちに与えられたスペックが、物語内にこしらえられた特殊なシチュエーションのなかで、あまりよく生きていないためである。これに比べ、「花降る庭に夢現」は、個々の性質に、味が出ている。どれもが、ある意味で、閉じられた環境下における人間ドラマとして読めるわけだが、作中の時間や視点をばらけさせなかったのも、効果としては、大きい。
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