ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年12月31日
 昨日(12月30日)は東京ドームで行われた『NEWS WINTER PARTY DIAMOND』を観に行ったのだった。要するに、NEWSのこの冬のツアーの、東京公演初日である。たしか加藤くんだったかな、自分たちは今回のライヴ(コンサート)のことをパーティと呼びたい、みたいなことを述べていたけれども、パーティというのが、盛り上がれば盛り上がるだけ、楽しければ楽しいほど、終わりのときがやって来て欲しくないものであるように、パフォーマンスのパワーと会場の興奮は、正しくパーティというのに見合うぐらいの、すばらしいヴァリューがあった。まず、滝沢秀明くんがディレクションしたらしいプロモーション・ヴィデオが流れ、くるぞくるぞ、とテンションの高まったなか、「Happy Birthday」、そして「weeeek」の、NEWS式ミクスチャー・ポップのとてもかっこうよいところからスタートすれば、そりゃあ、はじけざるをえないよ。「weeeek」のアップ・テンポな勢いのほうが、印象的にはオープニングに相応しい気もするが、いや、「Happy Birthday」の、あの打ち込みの心地好いリズムが、どでかく響き渡り、ドレスアップしたメンバーたちが、優雅に振るまい、ラップし、メロディを歌い、ハーモニーを重ね、コーラスをつくっていくさまは、サイズのおおきな会場の、スケールのおおきなショウの幕開けには、ぴったりと合っていた。自分がいた座席の問題もあったのかもしれないが、低音がけっこう硬く聴こえていたのも、功を奏していたように思う。「weeeek」は、やっぱりアンセムで、大ヴォリュームであふれだす音響は、もしかするとややバランスを欠くところがあったのかもしれないのに、ハードにドライヴする楽曲のイメージと各人が派手に決めていくアクションとが、それすらも逆に飲み込んでいく。コンサートの中盤で、ゲストに生田斗真くんとともに登場した松本潤くんが、「weeek」が大好きなので飛び入りしたかったのに2曲目にやっちゃうんだもんなあ、みたいなことを言っていたが、リップ・サービスであるかどうかはともかくとして、その気持ちはわかる、わかるよ、わかるけどあれだ、じっさい、アンコールで2回目の「weeeek」が披露されたさい、松本くんが錦戸くんや山下くんにパートを分けてもらう場面があったのだけれども、松本くん、他の人たちとまったくコンセンサスをとらず、めちゃんこ好き勝手に動き回るし、自由人すぎるだろ。ほんらいは松本くんに用意された歌詞カード片手にみんなが振り回されているのがおかしかったな。しかし、そんな部分も含め、すべてはコミカルでファニーに、そしてキュートであかるく、むろん締めるべきときはきっちりと締め、ああ、そうか、これがNEWSの魅力なんだな、と実感されるシーンが多数あった。小山くん、いいよね。それから、ソロ・ナンバーの「ordinary」で、錦戸くんのギターを携える姿は、やっぱり、サマになってるわ。今回の公演のためにつくられたという、メンバーが自分のパートを自身で作詞したという、「Share」というナンバーは、ぜひとも音源化していただきたい。これまでの歩みを振り返る映像が流れるバック・スクリーンを背に、初披露されたそれの、ワン・フレーズ、ワン・フレーズには、各人の個性がたいへんよく出ていたように思う。さらに本編のラストを、アルバム『color』のうちでも個人的にフェイヴァリットな「STARDUST」や「FLY AGAIN」といったナンバーが飾る構成には、たまらないものがあった。とくに「FLY AGAIN」の、〈全てはうまくいかない・そんなの分かっているけど・悩みは消えないね〉とか〈やりたいことがあったら・迷わずに進めとか・そんなこと分かっているさ〉とかの、やるせなく、せつない気分を、〈まだ消えない・想いを胸に・確実に踏み出せば・いつかFLY AGAIN〉という前向きな宣言へと転化するメロディに、励まされ、感動させられる、その余韻のなか、メンバーたちがステージを去っていくのは、ずるい、どうしたってしみじみすらあ。そうしてアンコールの1曲目が、力強さに満ちて拳を振り上げたくなる「Smile Maker」だったのは、もう、はまりすぎである。パーティというのは、ただの盛り上がりだけじゃない、ただ楽しけりゃいいじゃんってだけでもない、パーティが終わったあとでも喜びを残してくれる、ある種の祝福がそこにはあって欲しい。この年末に観られた『NEWS WINTER PARTY DIAMOND』には、まちがいなく、それがあった。どうか良い年でありますように。

 『color』に関する文章→こちら
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 デジモノステーション 2009年 02月号 [雑誌]

 『デジモノステーション』2月号、「ご長寿WATCH」というテレビ番組のコラムに、ブラック団というか、三遊亭楽太郎というか、『笑点』に関する文章を書きました。
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2008年12月29日
 サキ、ふつうにかわいいじゃないか。いや、彼女のルックス(作中人物のデザイン)がどうというより、その、恋をしていると気づきたくないままに恋をしている表情が、とてもよく描けていると思うのだ。誰かを想うことは、ときに卑屈さをもたらす、しかしながら、そうした卑屈のなかに見え隠れする素直さが、作品のやわらかなエモーションとなり、こちら側に伝わってくるのである。

 小藤まつの『青春パンチ』は、決してインパクトのつよいマンガではないだろう。むしろ、現代的な少女向けのラヴ・ロマンスにおけるスタンダードなイディオムを、奇をてらうことなく、まっとうしている。したがって、斬新、奇抜、独創性の価値基準で作品を測るような向きには好まれないに違いない。だが、今どきであることをしっかりと押さえる手つきで、上下巻にまとめられた内容は、たいへんすぐれた長めの短篇、もしくは、たいへんすぐれた短めの長篇として、ひろく評価されてもいい。

 強面のせいで、恵まれなかった中学時代に別れを告げ、高校に入ってからは、人並みの青春を謳歌したいと願う神大寺サキであったが、過去を曝露されるような悪い噂が流れ、ふたたび肩身を狭くしてしまう。しかし、ようやく出来た友人たちの心優しさや、なぜか積極的に関わってくるイケメンさん、戸呂友哉のフォローもあり、賑やかな学校生活にも居場所を見つけられる。そうして、サキにとって問題となってくるのは、戸呂との、二人の関係であった。そもそもは一目惚れの相手だったけれども、からかわれ、信用できず、そして真意の見えぬなか、告白をされ、いったいどう答えればよいのか。サキは悩む。

 この下巻では、上巻で暗示されていたとおり、サキの兄の恋人である紅音と、戸呂とのあいだに秘められていた事情が明かされる。物語のために、くわしくは述べないが、紅音と戸呂にまつわる個所もまた、当世の少女マンガのイディオムにあって、とくに珍しいものではない。とはいえ、ここで重要なのは、『青春パンチ』では、その解となるべき部分に、サキの存在が置かれていることである。

 紅音と戸呂の関係は、ある意味、依存で結ばれた共同性(だった)と読める。それへの固執を戸呂が持っているのに対し、紅音のほうは、サキの兄との恋愛を通じて、べつの段階に入ってしまっている。このことが、戸呂を傷つける。一方、紅音とのことについて、戸呂から告げられた言葉は、サキを傷つける。注意されたいのは、戸呂の言葉の上にあらわれているのは、たしかに真実にほかならない、が、その言葉の下に隠されている感情、つまり、どうしてもこれをサキに伝えなければならない、そうした逼迫もまた、真実でしかありえない、ということだ。

 もしも紅音と戸呂の関係を、依存で結ばれた共同性とするならば、サキと戸呂のそれは、依存とは違った可能性に選びとられた共同性だといえる。もちろん、それを恋愛と名指すこともできるし、たとえば前者を過去として見るとき、後者を未来と言い換えることもできる。そしてどちらが、現在において大事にされるべきなのか、真実を伝えた側の人間も、真実を伝えられた側の人間も、同じ真実を抱え、向き合う以上、等しく決心しなければならないことが、サキと戸呂の運命を変えていくのである。

 振り返るなら、『青春パンチ』のストーリーは、世間一般でイメージされる青春の風景に近づくため、学校生活を、あるいはそこで育まれる共同体を、コミュニティを、選び直し、やり直そうとするヒロインに端を発していた。同時にそれは、今日の少女マンガにスタンダードなイディオムに由来している。もちろん、今日の少女マンガにスタンダードなのは、そのことばかりではない。紅音と戸呂に設定された環境もそうだし、ヤンキー気質の兄とサキのコミカルな対立もそうだろう。

 それらいくつもの描写は少女向けのラヴ・ロマンスにありふれている。だが、そのありふれた一個一個が、決して容量の多くない枠内で、過密に重なり合うことで、本質的には単層であるような構造に、トータル化された含みを持たせている。上下巻で繰り広げられているのは、高校入学から一年目の夏休みが終わり二学期になってまでの、要するに、わずか半年間の出来事である。半年のあいだにこれだけいろいろなことが起こっている。といっても、そうしたいろいろは、半年の期間を不自然にオーヴァーしていない。

 いや、違う、そうではない。喜びも悲しみもあふれるほど、ナチュラルに多彩なことがありうるから、青春というものは、人生の一角でしばし、重大なマジックを持つとされるのだ。ハッピー・エンド式のラストに示されているのは、その力を信じる、つよい肯定であると思う。
 
 上巻について→こちら

 『3番目の彼氏』について→こちら
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2008年12月27日
 金(こがね)は、中学生ながらも、唯一の肉親であった祖母を亡くし、天涯孤独の身になってしまう。四十九日もすませ、悲嘆に暮れているとき、親戚を名乗る女性が現れ、一緒に暮らしたい、と申し出るのであった。しかし、じっさいには親戚ではなく、また金を引き取るのにも、べつの理由があった。巨大なグループ会社を営む大神家の先代は、かつて金の祖母と恋仲にあり、その遺言には〈大神家の財産は 全て 壱田金が相続すること ただし 壱田金は孫のいずれかと結婚することを条件とする〉とあったため、どうしても金を、三人の跡取りのうちの誰かと、結婚させたい。その跡取りたち、高校一年の松太郎、中学二年の竹蔵、小学六年の梅之介の三兄弟は、ルックスも良く、学校中に知られる人気者ではあったものの、それぞれ一癖も二癖もある性格の持ち主だったから、容易じゃない。純朴で、田舎から出てきたばかり、世間をよく知らない金は、ほとんど有無を言えぬまま、彼らと一つ屋根の下暮らし、同じ学校に通うこととなってしまう。工藤郁弥『金のエンゼル』の1巻で見られるのは、つまり、イノセントであるような少女が、金銭的には裕福だが、精神的には必ずしも恵まれているとは見なしがたい人々に、影響を与え、もう一度家族をやり直させるという、その手のストーリーのヴァリエーションだといえる。あるいは、学園を舞台とし、溌剌としたヒロインと彼女を中心とする複数の王子様が、プライドよりも大事なものを再発見していく、お馴染みの物語だろう。しかしながら、ではそれが退屈かといえば、そんなこともない。まず、テンポの良さがある。そしてそのテンポは、あくまでも登場人物たちの素直さを大事にするところから、つくられている。すべて、お約束の範疇を出ていないかもしれないが、作品の基調をなしている明るさは、決して悪いものではない。

 『シャングリラブ』について→こちら
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2008年12月26日
 青春と恋愛はときにイコールとなる。藤沢志月の『キミのとなりで青春中。』の、タイトルで指されているのも、つまりは恋愛のことなのだろうが、しかし、この1巻に描かれている内容は、さすがにちょっと紋切り型すぎるのでは、という気がしてしまう。美羽の高校にやって来た転校生のイケメンさんは、3年前にアメリカに引っ越していった幼馴染みの慶太であった。久々に再会した彼は、かつて美羽に告白し、そして茶化され、ふられてしまった過去など、もう、覚えていないみたいだ。けれども美羽のほうは、今さら、慶太のことを好きな自分に気づき、困惑する。要するに、以前は家族のように親しかった男女が、思春期に入り、お互いを異性として意識するあまり、牽制し合う、そうしたシチュエーションに対し、ステレオ・タイプの印象を持つのであって、さらにはその、恋愛マンガの系では、ありふれたシチュエーションのなかに描かれるヒロインのときめきにも、際だって特徴的な面が、薄く、あるかないかぐらいにしか、感じられないのである。事細かなモノローグはたしかにデリケートな内面をよくあらわし、花火や大空の背景をヤマ場に持ってくる演出は相応の効果をあげており、ロマンティックなラヴ・コメディとしての落ち度があるわけではないにしても、それが他の作家や他の作品と比べ、ことさらすぐれたものであるのかどうかの点において、いささか疑問を残す。

・その他藤沢志月に関する文章
 『ラブファイター!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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 芦原妃名子の『砂時計』は、ある種の通俗性もここまで高められたらメロドラマとしてたまらないよね、というところに作品の魅力があった。通俗性は、たとえば、純愛とでもすべき頑なさや、親から子へ一方的に手渡される葛藤によっていた。では『Piece』はどうか。いやたしかに、この1巻の時点では異なったテーマが見えてくるけれども、通俗性の高さがそのまま作品の魅力に転化されている、こうした意味において、やはり『砂時計』に通ずるものがある。ここに描かれているのは、いわゆる自分探し的なモチーフだろう。自分で自分が何者なのかよく知れない、そしてもし、他人が自分を映す鏡であるならその見方もよくわからない、作中人物たちの心の動きを決めているのは、以上のような、つまり今日の人々にたいへん親しまれた戸惑いである。大学生の須賀水帆が恋人の浮気を知った日、高校時代の同級生から、かつてのクラスメイトが乳癌で亡くなったとの連絡を受ける。〈“折口はるか”正直この日まで彼女の存在を忘れていた〉というほどに親しみのない人物の死に、悲しみがわくことがなくとも、葬儀に参加した水帆は、ふとした話の流れからやがて、はるかの母親に相談を持ちかけられ、のることとなる。高校の頃、地味で目立たず、からかわれ、いじめられてばかりいたはるかには、じつのところ皆に知られることなく、付き合っていた男性がいた。妊娠と堕胎の経験があった。はたして彼女の恋人とは誰だったのか。はるかの過去を知るべく、当時の人々と連絡をとるうち、水帆は自分の過去ともまた向かい合う。群像劇ふうに多種多様な人物を巻き込んでの、ブラック・ボックスに手をかけるようなサスペンスをベースとしながら、過去と現在とを行き来する進行は、なかなか工夫の凝らされたものである。しかし物語を支えているのは、やはり、自分との向き合い方がよくわからない、他人との向き合い方をよく知らない、という、通俗的なテーマにほかならない。水帆ばかりではなく、彼女とのあいだにいわくありげな鳴海皓や、一学年上の先輩ではるかに片想いしていた矢内高史等々、自身に欠損を感じている者同士が、はるかの不在を通じ、はからずも行動をともにするなかに、濃厚なメロドラマの気配を見られる。

・その他芦原妃名子に関する文章
 『月と湖』について→こちら
 『砂時計』
  10巻について→こちら
  8巻について→こちら
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2008年12月24日
 前田塁の『小説の設計図ver._1.10 補遺『「メロス・ゲート!」を追え!』――国語教科書の(レ)トリックス』は、「第七回文学フリマ」にて頒布された小冊子である。そこで論じられているのは、太宰治の『走れメロス』という、たいへん自分勝手な人物を主人公にした小説がなぜ、信頼や友情の物語になってしまい、今もなお中学校の国語教科書に堂々と採用され続けているのか、ものすごく簡単にいってしまえば、そのようなことになる。前田は、『走れメロス』において〈メロスの「正義と友情」をもっともよく体現している〉だろうと見なされるシーンを、こう、切り取って、いう。〈いまはもう、全裸に近く足裏からは血を流し、ほとんど絶望的な日没に向かって(略)、走るメロス。たしかに、それはきわめて印象深い場面ではある〉がゆえに、ある種のヒューマン・ドラマ的な設定となりうる、〈だが、あらためて指摘するまでもないことだけれども、そのように、印象づけたい場面に夕陽の情景を設定したり、登場人物のある種感傷的な心象をあらわすのに夕暮れを用いたりすることは、なにも「メロス」に独特のものではない〉のだ、と。ここから、たとえばアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』や映画『ALWAYS 三丁目の夕日』でもまた、夕陽や夕暮れが、ある種の心理作用をもって、演出上の効果をあげていることを例に出し、そしてこの国の人々が、そうした表現に対して歓迎的であることを、平岡敏夫が『〈夕暮れ〉の文学史』のなかで、柳田國男の「一種の伝統的不安」を引き、述べているとおり、〈昼の明るさから夜の暗さへと移行する「たそかれ=誰そ彼」どきの一日二四時間における物理的条件、あるいは昼=労働時間と夜=休息時間といった文化的役割の移行時間帯としての夕暮れの特殊性は、たしかにあるに違いない〉と認めながらも、ただし理由はそればかりではないだろうとする。つまり〈夕暮れが情緒一般の投入されがちなタイミングであることと、そこに投入される情緒が均質化することは、本質的には別の問題〉なのであって、『走れメロス』が〈人間性の発露として均質に教科書化される点において、さらには、受容する側の不自然なまでの疑わなさにおいては、おそらく後者とともにある〉のである。そうして前田は、べつの方向から、ふたたび『新世紀エヴァンゲリオン』や『ALWAYS 三丁目の夕日』などの内容を見ながら、どうして夕陽や夕暮れによって作品に〈投入される情緒が均質化〉してしまうのか、それを問う着眼をもって『走れメロス』の、教科書に相応しい面を、あらためて捉まえ直す。しごくコンパクトに要約してしまうのであれば、それはすなわち、〈明治のある時点以降のこの国において、そこに属する者は、誰もが「義務」として一定期間の学校教育を受けてきた。昼間は子供だけのコミュニティに赴き、夜には家族のコミュニティに帰る――そのようなコミュニティ間の「移動」を、誰もが当然のように課され経験してきたのである〉としたら、結局のところ、夕陽や夕暮れによってもたらされる情緒の普遍性の〈その根底には、「誰もが」経験させられている「義務」=制度がある〉のであり、この意味において、それが信頼や友情を、あるいは人間の美しさや弱さを、ほんとうに訴えているかどうかはともかく、〈「走れメロス」の物語は、だから、義務教育下の国語教育に、きわめて適していたのである〉と、前田は喝破する。もちろん『「メロス・ゲート!」を追え!』という論考にとって、重要なのは、そうした構造に対して〈いかに「テキスト論」が介入しうるのか〉といった結末にあたる部分なのだと思われる。それでも個人的には、ここまで引いてきたようなこと、夕陽や夕暮れによって呼び起こされる共感が、学校のコミュニティと家族のコミュニティの分割という、きわめて歴史的な制度を背景としている、との指摘には、ああ、と感じられるものがあった。

 『小説の設計図(メカニクス)』について→こちら
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2008年12月23日
 この2巻から、安西信行の単独名義となった『MIXIM☆11』だけれども、巻末にはちゃんと野坂恒の名前も作画にクレジットされていて、まあ、このへんはいろいろと事情があるんだろうね、と思うしかないし、もしかしたらアクセル・ローズがガンズの名前に固執するのと等しく、ある種、作家性の発露であるのかもしれない、と考えられたりもするが、いずれにせよ、個人的にもっとも安西信行というマンガ家に望んでいるものが、『MIXIM☆11』にはよく描かれている、この意味において、とくに差し障りの出るような変更点がないのは喜ばしい、今のところ。

 安西の過去作である『ロケット・プリンセス』や『烈火の炎』のなかでも魅力的だったのは、やはり、学園をベースとしながらどたばた転げ回る部分である。そこには、日常生活とファンタジーの境で、男の子が女の子のためにがんばる、あるいは逆に女の子が男の子のためにがんばる、といった古典的なラブコメのモチベーションが、生き生きとしてあらわされていた。やりようによっては『MAR』もそういうふうにつくることが可能であっただろう。だが、ファンタジーの世界で繰り広げられるバトルに邁進する一方、学園という場所、空間は、帰るべき平穏な日常を象徴する以上のものにはならなかった。できればの話、『ヤングキング』誌に発表された「CRAZY MANIAX」みたいなマンガを、読み切りではなく、やって欲しかった。

 そうした、こちらの願いに近しい印象が、『MIXIM☆11』には、かなり、おおきく、ある。つまり、学園という器に、ささやかな日常と大胆なファンタジーの混在になった賑やかさが、溢れている。付け加えるなら、世間の評価がどうであれ、だ。

 自分たちが、北極星の王子候補であることを告げられた壱松と竹蔵、小梅の三人は、12星座の刻印をそれぞれ一人に一つずつ持つ少女たちを探す使命を負いながら、もてない高校生活に一喜一憂する日々を送っていた。しかし、そのような安寧を脅かす存在が、すぐそこにまで迫っている。危機の到来に備え、北極星の使者カルミナは、壱松らに特殊な能力(星の加護)を与えんとする、ちょうど同じ頃、壱松の幼馴染みである弓が、謎めいた転校生たちの手に囚われてしまうのであった。というのが、ここでのくだりであって、やがて繰り広げられる超常的なバトルの展開がどうというよりも、むしろそこへ至る過程のなか、モチベーションのなかに、ホットさがある。

 ホットさは、友情や愛情、とにかく誰かを大事にする気持ちに由来している。たとえば、兄貴分である勝っちゃん(勝巳)が、転校生の一人にやっつけられ、病院に入れられてしまったのを見、壱松が、表向きは静かに、しかし内面はかっとなって、怒りを行動に移すあたり、これは男同士の繋がりを、意趣返しを用い、表現しようとするさいの、典型的な作法に違いない。だがそれが起爆剤となり、順繰り順繰りテンションのあがっていく展開、いやより正確を期すなら、それを起爆剤とするための手はずまでをも含め、場面ごとに、だんだんとテンションを加えていくプロットのあり方は、正統であるがゆえの強度を有している。

 かっこういいとはどういうことか。深く考えるうち、素直に示せなくなってしまう作家もしばしば、いる。しかしながら、ここで目にすることのできるエピソードは、かっこういいとはこういうことだ、とでもいうような断言を、素直なぐらい、登場人物の一挙手一投足に託すことで、ひじょうに明確な、すなわちわかりやすく、熱を浮かび上がらせ、実感させる。

 今後に強敵があらわれても戦うことを決意した主人公たちから、彼らの秘密を明かされた勝っちゃんは〈死ぬかもしれない!! それでも誰もお前らに「ありがとう」なんて言わねーぜ!?〉と言う。これに対し、壱松、竹蔵、小梅の三人が〈別にいいよ。損得で決めた事じゃねえんだ〉と断固たる姿を見せるのが勇ましい。そしてその姿は、苛酷な運命に巻き込まれてしまった12星座の刻印を持つ女の子たちを守るためにがんばるという、回りくどさのいっさいないおかげで、まっすぐ、溌剌としたモチベーションに支えられているのである。

 1巻について→こちら
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2008年12月22日
 メフィスト 2009年 01月号 [雑誌]

 『メフィスト』1月号掲載。じつをいえば、近頃出た二つの新刊に関しては、読んで、あまりはっとせず、取り上げることもしなかったのだが、やはりこちらが本流なのか、『零崎人識の人間関係 無桐伊織との関係』は、ひさびさに、十分おもしろかった。ご存知のとおり、西尾維新が「戯言シリーズ」から派生させた「人間」シリーズのワン・エピソードであるが、一方で「戯言シリーズ」の後日譚的な役割も果たしているのかな、と解釈することもできる。「戯言シリーズ」が、そこでの語り手である「ぼく」こと「いーちゃん」の、一種の成長と前進を示すことでピリオドを打っていたのに対し、同等の時間とスペクタクルと経験を得て、ではワキの登場人物たちはいかなる変化を遂げたのか、が描かれているふうにも見えるからである。題名にあらわれているとおり、作品は、零崎人識を中心の点とする人間関係をベースとしているけれども、必ずしも彼が主役というわけではないだろう。『零崎人識の人間関係 無桐伊織との関係』の概要を、簡単にまとめるのであれば、「戯言シリーズ」の作中時間において、石凪萌太からとある依頼を受けた哀川潤が、「戯言シリーズ」後の世界において、ようやくそれを果たすべく、人識と伊織の零崎一賊の生き残りを引き連れ、闇口崩子をともない、萌太と崩子の生まれ故郷、大厄島を訪れ、そこで結晶皇帝の異名を持つ、生涯無敗の男、六何我樹丸と、対決することになる。そうした物語のあちこちに、家族にまつわる共同性の問題が、まざまざと縫い込まれている。ここでいう家族とは、血縁関係そのものを指すのではない。零崎一賊が、血筋ではなく、資質によって、家族化されているように、だ。また、大厄島で父や母と相対した崩子が、自分にとっての家族がいる場所、帰るべき場所は〈京都の町で立て直されている最中の(略)あの骨董アパートだけなのだった〉と実感するように、である。すなわち家族は、あらかじめ用意されたものというより、自らが選びとったものとしてあらわれている。これは、血縁関係を運命の始点とするなら、そこからの自立をも意味する。たぶん、定められた運命にも変えようがある、こうした可能性を「戯言シリーズ」は、「ぼく」と語られる人物の自意識に寄り添わせ、成長と前進の予兆を教えるかたちで、すくい出していた。それがここでは、家族にまつわる共同性をたたき台とし、登場人物の多くにひろく行き渡らせている。彼らはみな、「戯言シリーズ」の「ぼく」と、同等の時間とスペクタクルと経験を得て、以前のままの自分ではなくなっている、そして以前のままの自分でないことを、身近な他人の存在を通じ、再確認しているのである。あるいは第八章、対決のシーンになって、再三繰り返される〈奇跡は起きない。大抵の場合、バトルはオッズ通りに進行する〉という文句が、その数だけ例外を生んでいく展開もまた、すべてが運命だと決められた生き方にもきっと突破口がある、そのような可能性の、言い換えられた表現だと受け取れる。ところで、おそらく本筋とは関係のない話なのだが、誌面でいうとP90、〈哀川潤と闇口崩子は闇口崩子に案内されて〉というところ、この二回目に出てくる闇口崩子って、たんなる誤りなのか、てっきり闇口憑依という人物の名前とかけて、ミスリードを誘っている箇所なのかと思った。

 「零崎人識の人間関係 匂宮出夢との関係」について→こちら
 『零崎曲識の人間人間』単行本について→こちら
 「零崎曲識の人間人間3 [クラッシュクラシックの面会]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 「蹴語 SIDE-A」について→こちら
 『真庭語 初代真庭蝙蝠』について→こちら
 『君と僕が壊した世界』について→こちら
 『傷物語 こよみヴァンプ』について→こちら
 「そっくり」について→こちら
 『刀語 第十二話 炎刀・銃』について→こちら
 『刀語 第十一話 毒刀・鍍』について→こちら
 『刀語 第十話 誠刀・銓』について→こちら
 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 『不気味で素朴な囲われた世界』について→こちら
 『きみとぼくの壊れた世界』ハードカバー版について→こちら
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2008年12月21日
 岩原裕二の『学園創世猫天!』が、この巻で完結となる。全5巻というのは、今どき、決して長いものではないだろう。いや、むしろ短く見られてしまうかもしれない。それでも、十分にヴォリュームのある内容だと感じられるのは、作中人物がみな、まさに自分の為すべきを為し、すべてに十分な決着をつけ、ようやくのこと辿り着けたラスト・シーンの、その清々しくも爽やかな印象からやって来ているのだと思う。『学園創世猫天!』は、不思議な能力を持った猫たちと、彼らと交感する少年少女たちとが、学園生活そのものに仕掛けられた困難を、反目し、共闘し、成長し、乗り越えていくていの、現代的なファンタジーである。ストーリーが進むうち、謎めいた背景が、人類全体とその他の動物種族との一千年もの時に渡る確執によっていることが、明かされる。つまり、学校という閉域、日常での出来事が、世界規模の危機を孕み、そして歴史上の先端である場所として、作中人物の目の前にあらわれてくるのだ。クライマックスに入り、いよいよ登場してきたラスボスというか諸悪の根源というべき存在に実行されるのが、生まれ変わりと伝説の継承という、二つのモーメントを含んでいる点は、とくに注目しておきたいところだと感じられる。それらはおそらく、直線的な時間のなかにおける代替の可能性と不可能性を孕んでいる。あるいは、ほんらいは直線的な時間のなかで、次々に代替者を立て、継承されていかねばならない伝説が、生まれ変わりが起こり、一個人の意識が循環し続け、彼にながらく所有されてしまった結果、欲望のかたちに歪んでしまったので、それはいったん終焉を迎えなければならなかった。学園生活とは、直線的な時間のなかで循環的な時間が繰り返される、そのような空間でもありうる。こうした条件の折り重なりが、世界中を巻き込む災厄との重大な決戦に、本質的には小さな場所でしかない学校を、選ばせている。いやまあ、そういった設定自体は、今日のサブ・カルチャーにとって、もしかすると珍しいものではないだろう。しかし『学園創世猫天!』がすぐれているとすれば、その必然性が、みっちりと高められているためである。終局にさいし、とある少年が元凶たる人物に一撃を加える展開が描かれている。両者の血縁関係を踏まえるなら、これは進んでしまった時間は、元に戻らず、先にしか進められないことの暗示になっている。やがて、〈こうして叉美学園にまつわる千年の物語は終わりを遂げました〉とヒロインが告げるとおり、日常の物語に戻った学園生活もまた、なだらかに時を先へ先へ進めていく、それを前向き、肯定するかのような様子が、ラスト・シーンに、清々しくも爽やかな印象をつくり出している。
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 16巻の表紙カバーが思いっきりネタバレしているのだが、しかしまあ、それすらも些細なことよ、と思わされてしまうのが、ゆでたまごの、『キン肉マン』シリーズの魅力か。15巻と16巻とが同時刊行となった『キン肉マンII世 究極の超人タッグ編』だけれども、二冊のうちでは、ロビンマスクとテリー・ザ・キッドによって組まれたアドレナリンズと時間超人であるサンダー&ライトニングの世界五大厄(ファイブディザスターズ)の戦いを描いた15巻の内容が、最高潮に燃えるし、泣ける。未来の息子、ケビンマスクを救うべく、ふたたび因縁の不忍池デスマッチに挑んだロビンマスクは、見事な正義超人の意地と誇りをみせる。それを目の当たりにしたキッドは、自らの命を懸け、サポートの役割を十分に果たすのである。アトランティス戦の再現を経て、逆転の糸口を掴んだアドレナリンズであったが、時間軸をずらす能力を持ったサンダー&ライトニングに、残念ながら、及ぶことができない。不忍池に引きずり込まれたキッドが、右手で闘志をサインする場面は、何度も繰り返されるほどに、涙してしまうよね。そして、今まさに力尽きんとするロビンマスクが〈せ…正義超人に犬死には許されん せ…正義超人の死の そ…尊厳は悪を倒した時のみにあり!〉と示す覚悟が、たまらなく、胸を熱くする。「究極の超人タッグ編」は、いうなればタイムトラベルものの意匠を借りているわけだけれど、正義超人たちの前に立ちはだかるのが、時間を自在に操るサンダー&ライトニングでなければならなかった理由は、ライトニングのこういうセリフに出ていると思う。〈“時間”は必ず森羅万象あらゆるものを消し去っていく――っ “時間”に対しては命乞いをしても無駄だ! どんなに金を積んでもどうにもならぬ! 正義も! 友情さえも! 全ての言葉が空虚な亡骸となる! 悪魔であっても! 完璧という言葉さえも“時間”の前には全くの無力!〉なのである。続けてライトニングは、キン肉マンに向かって〈キン肉スグルよ きさま その名の通り 今は筋骨隆々の病気知らず 食欲も旺盛であろう? つまり それだけ若いということだ!〉と言い、〈しかし 自分が将来老いるということなど 考えたこともないだろう?〉と言う。老い、というのは「究極の超人タッグ編」にかぎらず、じつは『キン肉マンII世』全体を貫く一本のテーマでもある。たしかに、初代『キン肉マン』の登場人物たちは、後年の『キン肉マンII世』において、老いさらばえた姿をさらさねばならなかった。だがその魂は、次世代たちに受け継がれることによって、洗い直され、決して損なわれない輝きを持つに至る。こうした継承のテーマが、ロビンマスクとテリー・ザ・キッドの敢闘には、そしてそれを見守る前世代と新世代の視線には、如実にあらわれている。

 8巻について→こちら
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2008年12月20日
 この『じゅんさいもん』は、九十九森(原作)と国広あづさ(作画)によってはじめられた料理マンガである。同コンビは、すでに『めっちゃキャン』という、築地市場を舞台にした料理マンガを発表しているけれども、掲載誌上、あちらが少年誌(『月刊少年チャンピオン』)向けの内容であったとしたら、こちらは正しく青年誌(『プレイコミック』)向けの内容になっている。しかしそのことが、いやまあ1巻の段階ではとの留保付きで、作品をひどく凡庸にしてしまっているように思われる。どういうことか。『めっちゃキャン』では、向こう見ずな主人公の持つある種の荒唐無稽さが、かろうじてストーリーに魅力を備えさせていた。それはやはり、少年マンガのカテゴリーでやっていこうとするがゆえに、許されたものであったのかもしれない。だが、『じゅんさいもん』に描かれているのは、つっぱった若者が、厳しい料理の世界で揉まれ、成長していくていの、要するに、皆さまご存知のストーリーでしかない。そしてその、ありふれた物語において、とくにここがこうといったインパクトを得られないのである。たしかに、ほかにも料理マンガをいくつも手がける原作者が提供しているのだろう知識は、取り上げられる題材に対し、一定の説得力を与えてはいるにちがいない。だが、ドラマのレベルで見るなら、ステレオ・タイプな料理マンガをやっているだけ、にとどまってしまっているばかりか、一個一個のエピソードのなかに、今のところ、印象的な場面をつくり出せずにいる。来店客の難題に答えるトラブル・シューティングの路線ではなくて、作中人物たちの人間関係を軸に展開するつもりなのであれば、どうもいまいちそれが描き足りていない。

 『めっちゃキャン』
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
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 主将!!地院家若美 6 (6) (少年マガジンコミックス)

 やきうどんの『主将!! 地院家若美』も6巻になるけれども、ますますくっだらないのがよろしいよ。もちそん、そうしたマンガに対して、わざわざあれこれ考えてみせるのは無粋なのかもしれないが、しかし作品の魅力は、単純に下品なネタがふんだんだから、というだけではないと思う。『主将!! 地院家若美』は、あくまでも骨格のみを取り出すなら、学園生活をベースとしたコメディにほかならない。その、学園生活を営む登場人物たち、とくに題名にもなっている地院家若美のエキセントリックさが、ストーリーとギャグとをリードしている。彼は、後輩の若鳥という美少年を執拗に追い回す変態であると同時に、伝説の武術とされる地院家流合気柔術の継承者である。コメディにかぎらず、学園生活をベースとするマンガの多くは、日常と非日常、そしてユーモアとシリアスの、四つのバランスによって支えられている、まあ、おおざっぱにいえば、だが。たとえばこれを『主将!! 地院家若美』に用いるならば、先ほど述べた若美が変態であることも、また彼がある種の宿命を抱えていることも、どちらも非日常にかかっており、さらに前者はユーモアへ、後者はシリアスへかかっているふうに見える。では、日常はどこにあるのか。一つの仮定ではあるけれど、作品全体を覆うどうしようもなさ、くだらなさがこそがつまり、日常そのものにあたるのではないか、という気がする。この巻では、若美の幼馴染みであり、やがて命を賭して相まみえなければならない、天敵とでもすべき天院家老醜が、なぜか、登場人物たちの通う大内裏高校の校長として、就任してくるといった展開が訪れる。この理由を老醜は〈一見 今の日本は平和に見えるが 未曾有の危機に見舞われている!〉ため、〈もはや国政は腐りきった政治家には任せておけぬ〉ので、〈天院家は常に政治の陰にまわってきたが‥‥〉、もはやそうもいかず〈とうとう表に出なければならないレベルにまできているのだ‥‥〉と、〈そこで私が校長になるということは‥‥明日の日本を背負う若者たちを肌で知るということだ‥〉と、説明されている。これはいっけん、なんとも現実味のないロジックではある。しかしながら、サブ・カルチャー史において、それこそ番長的な存在が出てくるようなオールドスクールの学園ドラマを振り返るならば、決して突飛なものではないだろう。そして大半の作品は、物語を、そこからシリアスに傾斜させていった。日常の象徴であるような学園の舞台に、非日常がなだれ込んでくるのである。近年にも、こういった手法を応用した作品は、数々見かけられる。『主将!! 地院家若美』が特筆すべきなのは、本質的には、非日常とシリアスを物語に導入しても構わないはずの老醜が、学園の外からやって来、ひとたび学園の内に入ってしまえば、作品に充ちているくだらなさにもすっかりと馴染んでしまうことだ。先に引いた校長就任の、まるで大げさな理由でさえ、女子更衣室の覗きという、たいへんせこい出来事に回収されていく。当然、コメディだからそうなっているわけだが、それは結局のところ、どうしてこれがコメディになっているのかの説明とはならない。こうしたとき、このマンガの日常とは、つまり、くだらなさのことにほかならず、それはつねに非日常やシリアスを圧倒的してしまうほどに大きいため、作品はコメディにならざるをえないと考えられる。もっというなら、日本の将来も殺伐とした事件も、作中においては、下品なネタのギャグと同じぐらい、くだらなく、どうしようもないのである。こうした構造にあらわれているのは、厚顔無恥の訳知り顔で社会批判をやらかすよりも、よっぽど潔く、堂々としている態度であって、そのことの好感が、『主将!! 地院家若美』の魅力を支えているのだと思う。いや、ごめん、じっさいに書いたら書いたで、やっぱり無粋なことしかいえてねえや。

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2008年12月18日
 The Cross of My Calling

 古色蒼然としたオルガンとギターの調べが、たわやかな黄昏を誘うからか、それともそこから湧き出るデジャ・ヴュにも似た強烈な印象が、楽曲のフックとなりうるからか、THE (INTERNATIONAL) NOISE CONSPIRACYのニュー・アルバム『THE CROSS OF MY CALLING』は、以前よりもさらにシックな装いに包まれているけど、しかし同時に、以前をも凌ぐぐらい、はじけ、飛ぶ、勢いを聴かせる。ああ、これはもう存分にかっこうをつけていることが、最高に決まっているロックン・ロールにほかならない。とてもいけていると思う。全体を覆うのは、たしかにレトロスペクティヴな質感である。だがそれが、うずうずとした衝動と興奮の、多分に孕んだグルーヴを放ってくる。渋いジャム・セッションふうの「INTRO」が、ウォーム・アップとなり、2曲目の「THE ASSASSINATION OF MYSELF」で、ハードなドライヴィングのスイッチが入る。小刻みなビートに性急さのよくあらわれたドラムをサーブとしながら、演奏のテンポはアップし、デニス・リクスゼンのヴォーカルが、言葉数は決してすくなくはないのにキャッチーなラインのちゃんとあるフレーズの、抑揚の、しなをつくっていく。60年代、70年代の過去に遡っているともとれるタイプのサウンドは、今日のシーンにおいて、一種ファッショナブルにメジャー化してはいるものの、THE (INTERNATIONAL) NOISE CONSPIRACYのそれは、ブルージーな腰回りからヘヴィ・ミュージックに通ずるグラインドをさらってくるのではなく、もっとずっと軽快に跳ねている。押すべきは押し、引くべきは引く、絶妙なバランスがダイナミズムとなっている、そういう、きわめて単純なレイアウトでしかすくいとれない熱気こそが、目指されているような気がする。ポリティカルなメッセージを身の上とするグループだけれど、それがどうというよりも結局、出力されたエネルギーのありように、独特なタッチとパワーは定められるのだ。「INTRO」と「INTERLUDE」を含む14のナンバーに佳曲は多い。なかでも、ある意味でクリシェ的なタイトルどおりのコーラスを、とてもポップに響き渡らせる5曲目の「HIROSHIMA MON AMOUR」が、出色である。掴みやすく、切れの良いリズムが、シンプルなコードに支えられたトラックを輝かせている。また、交互にソロ・プレイするキーボードとギターの、それこそオールド・スタイルのハード・ロックみたいなコントラストのあいだで、だんだんと溜め込まれたエネルギーが、ソォカモンッ、という掛け声によって一気に破裂させられる7曲目の「CHILD OF GOD」にも、すばらしいカタルシスがある。リック・ルービンのプロデュースにしたって、要するに、モダンなアプローチより、こういうもののほうが合っている。隙があり、生々しいところに、音圧では測れない、手応えを感じ取ることができる。臨場にあふれている。くっきりとしたアクセントからは、しばしばデリケートな表情が垣間見られる。そうして作品を通していったとき、アルバム名にもなっている「THE CROSS OF MY CALLING」を、全体のラストに置いた構成は、ひじょうにうつくしい。8分の内容において、切々と繰り返される〈Hold me in your arms like you promised me. Shelter me from harm. Hold me in your arms tonight. When the music stops〉の訴えかけが、スローでメロウなペースを、じょじょに激しく、騒がしくさせていく。ひとしきり盛り上がったのち、尾を引いて残る旋律が、正しくこの最高に決まったロックン・ロールのエンディングに相応しい。

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2008年12月15日
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 「第71回週刊少年チャンピオン新人まんが賞」準入選作として、『週刊少年チャンピオン』NO.2+3(09年1月5日+8日号)に発表された、濱口裕司の『Can you(勧誘)?』を読んだら、たのしかった。『週刊少年チャンピオン』NO.51(08年12月4日号)掲載の同賞審査発表で、浜岡賢次が〈話はそこそこだけど、キャラクターが主役も脇役もいい! 絵にスピード感がある〉と評し、米原秀幸が〈バカマンガなのにさわやかだ〉としながら〈セリフの生きのよさとテンポでキャラを魅力的にしている〉といっているのが、ちょうどぴったりな印象の作品だと思う。まあ、いくつかのカットにはお手本のありそうな気配がつよいし、全般的に拙さの目立つ箇所のほうが多いけれど、そうした点を差っ引いても、十分に魅力は残るだろう、と感じられる。バスケット・ボール部唯一の部員にしてキャプテンである村咲涼は、学校中から白い目で見られる変人でもあった。その主人公の空回りするやる気が周囲を巻き込み、なかには絆されてしまう人物たちのあらわれる様子が、前編に描かれ、3人まで部員が集まったところで無謀にも練習試合が組まれると、じつは主人公がポテンシャルの高いプレイヤーであったことが、後編では明かされていく。基本線は、テンションの高いコメディであるが、なるほど、テンションの高さをそのまま、スポーツの場面にも転じて用いるなかに、爽快でもあるカタルシスが生まれている。正直、バスケット・マンガ(スポーツ・マンガ)として真剣に見たら、ずっこける部分がおおきい。しかし日常の、学生の、とくに男子のそれをベースにしたマンガとしては、なかなかに恰好がついている。何がどうだとかの目的をもった行動を示すのではなく、とかく目立ちたい、自分が主役になりたいという、思春期的だからこそシンプルで無軌道な欲望が、作品のイメージを担保しているのである。
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2008年12月14日
 ヤマトナデシコ七変化 22 (22) (講談社コミックスフレンド B)

 はやかわともこの『ヤマトナデシコ七変化』も22巻である。作品は今も続いている。以前にも述べたが、これを一個のストーリーとして見るなら、正直、長すぎる。だが同時に、よく内容が保っている、よく内容を保たせているな、と感心もする。そもそもこのマンガは、物語を動かすにあたり、ゴールが決められているところからはじめられているような部分がある。単行本のアタマに置かれた「あらすじ」にあるとおり、ホラー趣味の行き過ぎな性格の暗いヒロインの「スナコを」、彼女と同居することになった四人のイケメンさんが、3年間で立派な「レディーに仕立て」あげることだろう。すなわち、期間は限定されていて、それはいつか、終わりを迎える。そして読み手の多くは、四人のイケメンさんのなかでもとくに、硬派タイプの恭平とスナコとがくっつくときが、それにあたるのだと念頭に置いている。あるいは、彼らの学生生活が完了し、同居している理由がなくなったときが、そうなるのだとも考えている。ここで、不満となって出てくるものがもしもあるとするなら、いつになっても、その終わりがまったく見えてこないことだといえる。もちろん、ストーリーの都合に合わせ、あたかも作中の時間が繰り返しているふうであり、ループしているふうであるというのは、『ヤマトナデシコ七変化』にかぎった事例ではないだろう。作中の時間は繰り返しているふうであり、ループしているふうであるけれども、物語の進み具合や登場人物たちの感情は、リセットされているわけではない。たんに日常のコマ数の加算でしかない。結果、すべてがあらかじめ設定されているはずのゴールへ辿り着くまでの迂回路をつくっているにすぎない、と見えてしまう。こうした光景の存在は、決して珍しいものではなく、ある意味で、お約束ともとれるパターンにほかならない。ふつう、日常をベースにした作品においては、恋愛や友情の他愛もなさに重みが加わり、それが物語を転がしていく。しかし転がり方がどうも鈍重なんじゃねえか、と思われるような局面にあって助長されるのは、物語の展開自体に直結するシリアスな要素よりも、それとは別方向で繰り広げられるコメディの要素だというのが、大概であり、そのことは『ヤマトナデシコ七変化』に関しても、同様である。ストーリーについてはもはや、おおよその検討がついてしまっていて、あとは早くゴールしてくれればいいよ、という期待ぐらいしか残されていない。にかもかかわらず、よく内容が保っている、よく内容を保たせているな、と感心するのは、ネタとしたならばワン・パターンでありながらも、一定の質と量をこなしているためで、この巻でいうなら、本筋とは無関係なワキの人間の恋愛をエピソードに盛り込むなど、今なお作者なりの腐心がうかがえる。いやいや、なんだか、毎回、当たり前の、しかも同じことばかりを書いている気がしてしまうけど、しかしまあ、それも結局、作品の性格によるものか。

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 20巻について→こちら
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2008年12月13日
 現在、泉谷あゆみ(脚本・田畑由秋、作監・余湖裕輝)が手がけている『ウルフガイ』は、平井和正の原作にアレンジを加え、学園バトル・ロマンに特化するかたちでマンガ化した作品だといえる。米沢嘉博は、『戦後SFマンガ史』のなかで、70年代終盤には〈SF小説を原作に求めた劇画、マンガも多く現れていた〉けれど、言葉と絵の表現上における制約の違いのためか、〈それらのほとんどは、原作の面白さをマンガとして表すことができず、逆に活劇に徹したものの方が原作の面白さを越えることがあった〉といっており、ある種の困難のあらわれと見ているが、しかし、そうしたSF小説家のアイディアから、とりわけアクションの要素を引き出し、あらためて少年の日常と非日常、少年の健全性と不良性、そして少年の意志と姿を託すことで、物語を構築もしくは再構築していく試みは、その後のマンガ史において、さまざまな影響を受けながら、独自の領域をも確保し続けてきたのである。たとえば90年代には、菊池秀行がマンガ用に原作を提供した、細馬信一の『魔界学園』があった。この、半村良の『妖星伝』を設定協力にクレジットする、桑原真也の『ラセンバナ(螺旋花)』もまた、『ウルフガイ』や『魔界学園』と同様に、SFあるいは伝奇的なファクターを手がかりに、学生たちの血なまぐさい抗争を大胆に描いている。なかでも『ラセンバナ』がユニークなのは、桑原が前作『R-16』で培ったヤンキー・マンガ的なイディオムが、ふんだんに取り入れられていることだと思う。

 春とまどかの剣(はばき)姉弟は、当人たちの与り知らぬ理由により、私立蘭武高校(通称ラブ高)の主流派チーム「鬼道」から狙われてしまう。拉致されたまどかを救うべく、奔走する春が、無勢に多勢の窮地に困惑するとき、助けに現れたのは、かつての親友、四騎森リョオであった。〈剣 春の敵は オレの敵だ〉と嘯くリョオの協力を得、春は囚われたまどかのもとへ向かう。一方、何も知らないまどかは、じつは「鬼道」のリーダーである鬼道逞馬と裏で繋がる学校の理事長から、〈君は「鍵」なんだよ 30年間 わたしが 探し続けた「宝」……「黄金城」を見つける為のね……〉と告げられる。以上がこの2巻の導入である。たしかに、春の身に突如として起こる異変や、登場人物のセリフに秘密めかされた謎など、奇々怪々な諸事情の数々こそが、ストーリーを駆動させるキーにほかならない。けれども、現段階では、心に葛藤を抱えた少年たちが繰り広げる不良ヴァイオレンスによって、展開のダイナミズムは担われている。とくに春とリョオの交わす友情に滾るものがある。リョオを巻き込むことを良しとしない春が〈これはオレの喧嘩だ――ってゆっといたよな? リョオ……〉と言う。これに答えてリョオは〈自分 一人で背負い込もーなんて思い上がってんじゃねェーよ……オマエの背中は いつだって オレが預かんよ 春ゥ……〉と言う。こうした二人の繋がりの前に、いよいよ猟奇的な本性を剥き出しにしてきた「鬼道」が立ち塞がる。

 1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
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2008年12月12日
 踊るジョーカー―名探偵 音野順の事件簿

 北山猛邦の『踊るジョーカー』は、けっこうライトな感じのミステリ小説で、五つの篇からなっており、それらの物語で起こる難事件を、見事に解決していく探偵役と助手役の主人公二人組が、たいへん可愛らしい。まあ、可愛らしいというのが、作中の彼らにとって名誉であるのかどうか。なぜならば若いとはいえ、もう立派な成人男性だからである。推理作家を営みとする語り手の白瀬は、大学時代からの知り合いである音野を、こう評す。〈彼には誰も気づかないような真実の欠片を見つける才能があった〉と。しかし〈彼は進んで名探偵としての力を発揮しようなどとは考えない男だ〉と。それでも〈彼は本来、その冴えた能力を称賛されるべき人間なのだ〉と。そうして、根っから引きこもりがちな音野の社会復帰をあたかも手伝うかのように、白瀬は自分が借りている仕事場の一角に探偵事務所をひらくのだった。謎は謎として険しいものの、乗り気な白瀬に嫌々ながらも事件現場へと連れ出される音野の、二人の性格をよく立たせた凸凹さ加減は、繰り返すけれど、たいへん可愛らしい。可愛らしさとは、たしょう悪く言い換えるなら、幼稚さのあらわれでもある。しかしその幼稚さが作品には見合っている。いや、それは必ずしも作品が幼稚趣味だということではない。たしかに、人の生き死にに関わるような事態にさいしてさえ、極端に暗さや重たさは斥けられ、全般的に楽しく明るい雰囲気のまま、物語は進む。そこを非難するのは容易い。だが、よくよく考えてみるなら、どれほどの凶悪犯罪も、全部が全部とはいわないにしたって、動機のレベルで見るなら、たいてい、幼稚なものである。たとえば、憎しみや妬ましさのあまり、人を陥れたり、ときには人を殺したりする。たとえば、金欲しさが高じて、人から盗んだり、ときには人を殺したりする。こうした精神自体が、もしも幼稚であるとするなら、登場人物たちのコミカルな振る舞いは、むしろ、その描写に適っている。それでも、すでに果たされ、取り返しがつくことのない蛮行の解決に、胸痛めた様子を見せる音野の姿が、作品のエモーションだろうか。音野の憂いを前に、白瀬がいうとおり、〈人生を懸けたトリックで他人を殺害し、運命を変えようとする人々。探偵はその運命を矯正する力を持つ。それだけに躊躇する気持ちはわからないでもない。名探偵は他人の運命を破壊するだけの力を持っている〉のである。とはいえ、ここで重要なのは、あくまでもそれが語り手である白瀬の視線によっていることだ。白瀬の、音野を捉まえる視点から出てきている。つまり、じつをいうなら二人のやわらかな関係性を示すものでしかない。彼らの可愛らしさを見るにつけ、あるいは、この世界におけるラディカルな幼稚さにあっては、そうした親密さだけがただ、感情に繋がっているものなのかもしれない、と思う。

 『恋煩い』について→こちら
 『妖精の学校』について→こちら
 『少年検閲官』について→こちら
 『「ギロチン城」殺人事件』について→こちら
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2008年12月11日
 平川哲弘の『クローバー』において、長めにとられたエピソードは、まんま主人公が悪人をやっつけてめでたしめでたし、というプロットにまとめられる。たしかに、それは少年マンガ全般にオーソドックスなものであるのかもしれないが、ふつうテーマとでもすべきものが先んじ、たとえそうでなくとも、そこから起承転結式のプロットがつくられているふうに読める、あるいはテーマを掘り下げていくうちプロットが複雑化しているふうに読めるのに対し、『クローバー』の場合、じつに簡単に、まんま主人公が悪人をやっつけてめでたしめでたし、とでもいいたげなプロットに収まってしまうのは、テーマとでもすべきものを作品が持っていないからなのではないか。いや、もうすこし正確を期したい。たとえば、日常を舞台にした物語では、たいてい、友情や恋愛や青春といったものが、主題化され、焦点化され、いくつもの展開を支える重心となる。いわゆるヤンキー・マンガ系のスタイルが、仲間や恋人のため、主人公にケンカをさせたりするのも、結局のところ、こうした理念に従っているためだろう。だが、『クローバー』を読んでいると、あたかも、そうした理念が背景のほうへ後ろ回しになっているかのような印象を持つ。もちろん、ストーリーをちゃんと追えば、主人公のハヤトは、トモキやケンジなどの友人たちを大事に思い、彼らが傷つけられたので、または彼らに協力し、悪人をやっつけにいくことになっている。だが、そうした感情はさしあたり、悪人をやっつけにいくプロセスに奉仕するものでしかない。結果、まんま主人公が悪人をやっつけてめでたしめでたし、といったプロットに、いとも容易くまとめられてしまうのである。『クローバー』は、基本的に、不良少年を扱ってはいる。しかしながら、主人公たちの不良性というのは、『サザエさん』に出てくる磯野カツオが悪ガキだという意味での、それと大差ない。カツオが家族から愛される悪ガキである以上、思春期の葛藤や成長を望まれない存在であるのと同じく、『クローバー』の主人公たちも、いちばんのトラブル・メーカーで、天涯孤独に近しい立場のハヤトでさえ、ぐれているわけでもなく、トモキの母親などの年配女性から親しまれ、信頼されているように、大人の期待を決して裏切ることがない。この8巻に収められたエピソードでは、イチゴ(オッサン)という人物のために一肌脱いだハヤトが、その事情をいっさい問われることもなく、イチゴの母親から存分に感謝されている。茶番じゃないか、とまではいわないが、こうした屈託のなさが、個人的には(今のところの)作者の限界であると感じられる一方、テーマとでもすべきものに比重を置かないカジュアルさが逆に、ある種のつよみになっているのは間違いなく、その点については、いずれもうすこしくわしく考えてみたいところである。

 1話目について→こちら
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2008年12月09日
 女神の鬼 11 (11) (ヤングマガジンコミックス)

 とりあえず『KIPPO』の話からはじめたいと思う。ご存知のない方は、『KIIPPO』って何だよ、となるのかもしれないので、簡単に説明すると、『ヤングキング』08年18号より田中宏があたらしくスタートさせた連載(とはいえ、現在の段階では読み切りに近しい)のことである。物語は田中の過去作『BAD BOYS』や『グレアー』と同じ世界のその後の時代を舞台にしている。つまり、この『女神の鬼』との連なりを持っている。発表された順にするなら、『BAD BOYS』→『グレアー』→『女神の鬼』/『KIPPO』ということになるけれども、作中の時系列に直すなら、『女神の鬼』→『BAD BOYS』→『グレアー』→『KIPPO』ということになる(じつは『BAD BOYS』や『グレアー』にも歴史を遡って描かれたエピソードが含まれているが、それはひとまず置いておくとして)。『KIPPO』の主人公の桐木久司は、どうやら『BAD BOYS』の主人公の桐木司の息子らしい。こうして四作を通じ、登場人物や彼らの関係性に、かなりの部分の重なりが出来ている。しかし、ここで注視されなければならないのは、それらが単純な続きもののごとき、または次世代もののごとき続編ではない、との点だろう。それこそ、中上健次の小説『地の果て 至上の時』が『枯木灘』の続編であるように、さらには『奇蹟』が『千年の愉楽』の続編であるように、田中宏のマンガ群も、いうなればサーガとでもすべき内容のうちに、特殊な体系をつくりあげているのである。

 たしかに『グレアー』は『BAD BOYS』の続編でしかありえない。だが、それは必ずしも『BAD BOYS』で展開されたドラマを、繰り越し、更新、上書きしてはいない。むしろ、べつの枠組みが地盤をともにする物語のなかに生成される過程を追っている。ただ歴史の共有だけが両者を結びつけているにすぎない。この場合の歴史とは、作品内部の設定のことであり、作者の問題意識のことである。まだ不明瞭な部分のほうが多いが、おそらく『KIPPO』もそうだろう。同じく、『女神の鬼』もまた、『BAD BOYS』の、たんなる前日譚ではない。作中の、つまり物語世界の歴史的には、もっとも古い出来事を扱ってはいるものの、しかし物語外部の、つまり作者の歴史的には、もっとも新しい出来事を扱っている。『KIPPO』に描かれている家族たち(ファミリー)のシーンにしても、あれはもちろん、『グレアー』のラストからきていながらも、じつはそれ以上に、家族や日常の場面からだんだんと離れていく『女神の鬼』から並行的に、あるいは逆接的に、派生したものなのではないか(もっといえば『莫逆家族』のストーリーを踏まえてはいるのだろうが、ここでは置いておく)。そして各個においては、尋常ならざる深みがえぐりとられており、すくなくとも、こうした田中の試みは、かなり高度なレベルに達しているし、他の追随を許していない。この時代に珍しくワン・アンド・オンリーな作家だといえる。

 さて。本題は『女神の鬼』の11巻である。のちに「カラーボウルの乱」と噂されるボーリング場の死闘にも、いよいよ決着がつく。ここでのくだりも、読み応えに読みどころがすさまじく多く、どこから手をつけたらいいのか、悩むほど。内海を裏切ったケンエーの目論みも、広島ナイツのガネ(小金澤)が〈野望のために寄せ集めた仲間なんて所詮 いつかは壊れるモンじゃ‥‥!! ホンマの仲間っちゅーモンは…ほっといたって勝手に引き寄せられて集まって‥‥固く結ばれるモンじゃろォがぁ‥‥!!〉というとおり、今まさに敗れようとしている、そのとき警察による一斉検挙をくぐり抜け、広島中のチームがボーリング場に駆けつけ出していた。先に引いたガネのセリフも合わせ、ほんらいは敵対していたはずの廣島連合は五島が、内海に向かい、大声で呼びかける言葉が印象的である。〈内海ぃいいーッ!! 迎えに来たでぇええ――ッ!! いっしょに帰ろーやぁ――――――ッ!! 島んなんか行かんでも…ココに作りゃーえ――――‥‥みんなで帰ってから一から作り直そ――やぁ――――‥‥この時代に‥‥同じよーに跳ね上がった皆で 楽しく過ごせるよ――な……ワシらの国を…!!〉。こうした夢はしかし、ケンエーを庇った内海の悲劇によって、叶わない。そして〈検挙者78名中重軽傷者23名‥‥そして死亡者1名を出したこの夜は終わりを告げる‥‥‥‥‥‥〉のみだった。

 主人公のギッチョたちが、そこで経験しているのはたぶん、コミュニティの崩壊と新たな建設が、まるで卵が先か鶏が先かとでもいうように、表裏の関係にあるとしたら、どちらも人為的には選ぶことができない、という不幸だろう。そうした結果から見て、コミュニティに加えられなかった人間は、あるいはコミュニティから追放された人間は、孤独な鬼にでもなるか、さもなくば自らが王様になるしかない。これを受け、いよいよ物語は、鬼を集めているという、王様になれるという、鎖国島と呼ばれる謎めいた地に向かい、動き出す。

 鎖国島、本当なら内海もそこへ連れて行かれる予定だった。彼もまた鬼にしかなれなかった人間だからである。一連の騒動から廣島連合を引退した五島は、初代極楽鳥であり、警察官として後輩たちを見守る岩田(岩さん)に、〈ワシは岩さんみとーーな立派な道へは行けそーにない‥‥‥‥‥‥決めた‥‥っちゅーか 最初っから決まっとるんスよ‥‥きっと‥‥〉と告げ、こう話す。〈ワシらみとーなヤツらの中にもいろいろおって‥‥ヤンチャな時代を経て 立派な大人になれるタイプと‥‥ワシみとーに結局 ヤクザになってしまうタイプ‥‥‥‥‥‥そして……〉と。五島が、岩田と自分との対照によって述べているのは、あくまでもこの社会で生きていける可能性のこと、この世界のどこかに必ずや生きられる場所のある人間を指している。しかしながら〈‥‥‥‥‥‥そして……〉と続けて言おうとし、口ごもるように〈内海みとーに この世界じゃあ……生きる場所がないヤツらがおるんじゃ…!!〉という第三のタイプが、存在する。以前にも触れたが、この第三のタイプとは、つまり、反社会的な人間をいうのではない。没社会的もしくは脱社会的な人間の傾向にほかならない。没社会的もしくは脱社会的な人間の心理と行動は、もちろん、ヤンキー・マンガに固有のトピックではないだろう。今日の文学やサブ・カルチャーの表現全般に、しばしば見受けられるテーマでもある。

 だが田中宏の筆致は、他の作家たちをはるかに凌いでいると思う。それは、この世界を、この社会を、この時代を、決して平面に描いていないからだ。そう、『女神の鬼』の舞台が現代ではなく、昭和58年の日本であったことを思い出されたい。サーガとでもすべき、歴史の縦線を据えることで、立体的に、相対的に、普遍的に、映し出される個人の歪みをすくい取っているのである。ついに鎖国島の存在を知ってしまったギッチョたちが、どうしてもそこへ向かわなければならない、とでもいいたげな衝動に駆られるのは、世界そのものの欠陥をつよく感じ、生きている実感を得られなくなってしまったためだろう。もしかしたら世界に欠陥があると感じられるのは、彼ら自身が欠陥を抱えているせいなのかもしれない。5人で50人を相手にしなければならないという試練も、結局のところ、血気盛んな彼らを充たすことなく、ギッチョに〈なんやこりゃあッ……!! お!? こんなモンかぁあああッ‥‥‥‥!! 残っとるヤツは‥‥こんなモンしかおらんのかぁああッ たらんのじゃああ〉と叫ばせる。欠陥があると気づかれてしまった世界には、もはや彼らの欲望をなだめるだけの価値がない。

 ならば他人から鬼として見られ、見られたまま、死ぬか。いや、逆に自分のほうからこの世界を突き放すべく、ギッチョは〈ワシは……ワシの決めた法で動くで‥‥ココに居場所がないだけじゃない‥‥ワシは……王様になりに行くんじゃッ!!〉と言う、そしてそのために鎖国島行きを決意する。

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 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら
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