ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年11月30日
 デジモノステーション 2009年 01月号 [雑誌]

 今出ている『デジモノステーション』1月号、「ご長寿WATCH」というテレビ番組評の第2回で『新婚さんいらっしゃい!』に関する文章を書きました。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | その他。
 巨星董卓墜つ。どんな悪人でも今際には贖罪のときが訪れる、というのは武論尊(史村翔)原作のマンガにとっての黄金律であり、董卓もその例にもれない。また、愛に飢え、渇望するがため狂気に走り、蛮行のかぎりを尽くした結果、討伐される、というのもそうだ。皇帝以上の権力を得ながらも、失われし最愛のものへの残念を断ち切れず、〈……苦しかった………………“鬼畜”になれば、その苦しさから逃れられると思った……〉の〈だが、葉春は消えてはくれぬ……いくらこの手を血で汚そうと、逃れられぬの〉で、董卓は自らが呂布に斬られて死ぬことを受け入れる。『覇―LORD―』の14巻である。三国志(または三国志演義)的にというよりも、あくまでも“超”三国志である『覇―LORD―』的に、なぜ董卓が討たれなければならなかったのか。おそらく、彼が私怨の人であったからだろう。他方、一万の兵士を犠牲にし、敗北した劉備は、自分が何のために生き、戦うのかを見失ってしまう。それは董卓の場合とは逆に、私怨では起つことのできぬ弱さでもあり、強さでもある。こうした二者の対照において、やはり惨めなのは、董卓のほうだと思われる。その惨めさを自覚しながら、結局のところ拭いきることができなかったので、最後の最後に憐憫を誘う。董卓は空虚な自分を私怨で埋めるよりほかなかった。しかし埋まらなかった。このことを踏まえたとき、またべつの箇所で印象的になってくるのは、劉備を名乗る前の燎宇の教えを受け継いだ黄布兵の青峰を前にし、曹操が〈この曹操(オレ)の“戦”――己の腹を膨らませるためではない!‥‥〉と断言する言葉だろう。これを聞き、青峰が曹操を認めるのは、そこに私怨や利己の否定が響いているからにほかならない。むろん曹操の本意は、燎宇が青峰に説いた〈民・百姓の“明日”のため!!〉という教えとは、必ずしも一致しないに違いない。しかし、すくなくとも董卓の生き方に対するアンチテーゼにはなっているからこそ、物語のレベルにおいて、快進撃を続ける権利が与えられている。たぶん、それに対するさらなるアンチテーゼとして劉備の〈何万、何十万人だろうが その将兵の命――オレが全て背負ってやる!〉という覚悟と復活がくるわけだけれども、その前に、である。ぼちぼち呂布のターンに入る頃合いかな。愛を知ったことで、じょじょに変わりつつある呂布の造形もまた、董卓と同じく、武論尊の原作にお馴染みのものだといえる。壮絶なラストを迎えるのは火を見るよりも明らかだが、せめてそれまでは劉備や曹操を向こうに回し、最高潮にかっこうのよいところを見せていただきたく。

 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月29日
 スキャター・ザ・クロウ

 シューゲイザーの継承とは異なり、アメリカで発明されたグランジの発想を学び、積極的な導入を試みたイギリスのバンドというのも、90年代にはいないわけではなかった。しかし、まんまグランジの模倣と見られたため、かなりの成功を収めはしたものの、悪し様に言われる傾向のつよかったBUSHをべつとすれば、そのほとんどは一般の評価を得ることもなしに消えていったといってよい。そう、今ぱっと思いつくかぎり、HEADSWIMやBABY CHAOS、SEND NO FLOWERSなどとバンド名を挙げてみたところで、どれだけの記憶や記録に残っているか。FEEDERのキャリアが、SMASHING PUMPKINSやSOUNDGARDENのフォロワーに近しい音楽性からスタートしていたことも、すでに話題にのぼらなくなりつつある。独自の発想を加え、魅力的なサウンドを出していたアーティストも、決してすくなくはない。にもかかわらず、ブレイクし損なったもののほうが多いのは、結局、ブリット・ポップ前後のフィーリングにはまらなかったのだろう。だが、時代が一回りした00年代の現在になると話も違ってくる。最初は拙かった方法論自体が発展し、感性そのものが洗練されというのもある。たとえば、BIFFY CLYROやREUBENの示すアプローチに、それはよくあらわれていると思う。グランジィなテイストをわりとナチュラルに消化し、今日的なスタイルにまで昇華することで、見事な活路を切り開いている。また、そこからもうちょいハード・ロック色を高めていくと、ZICO CHAINがいて、そしてこのSLAVES TO GRAVITY(スレイヴス・トゥ・グラヴィティ)がいる、といった感じがする。SLAVES TO GRAVITYのファースト・アルバム『SCATTER THE CROW(スキャター・ザ・クロウ)』で聴くことができるのは、ALICE IN CHAINSやSTONE TEMPLE PILOTSを思わせる、重量のある、粘着型のメロディとグルーヴをベースにしながら、上向きのダイナミズムを大胆に盛り込んだロックン・ロールである。これが、それこそ90年代のTHE ALMIGHTY、THE WILDHEARTS、THERAPY?の頃から、その後のFEEDER、MY VITRIOL、さらには近年のOCEANSIZE、BIFFY CLYRO、REUBENに至るまで、英ハード系サウンドをキー・パーソンとして支えてきたクリス・シェルダン(シェルドン)のミックスも効果的に作用し、なかなかにかっこうよく決まっている。もうちょいフックが欲しいかな、という部分もあるにはあるけれど、前身であるTHE GAGA’Sに比べると、焦点が定まり、総体的な印象もつよい。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(08年)
2008年11月27日
 ストロボ・エッジ 4 (4) (マーガレットコミックス) (マーガレットコミックス)

 基本的には、半径5メートルのコミュニケーションで作品がつくられているため、あまり長引いてくると、ストーリーに広がりようがなく、当初の輝きもだんだんと薄れてきてしまうのでは、といった危惧を持っていたのだけれど、ああもう、ぜんぜんそんなことはなかった。この4巻の段階でもまだ、抜群におもしろいままだ。いや、それどころか、ますますおもしろくなっているぞ、と満面の喜びが得られる。

 この咲坂伊緒のマンガ『ストロボ・エッジ』の、とくにすぐれた面は、ある種の緊張によってもたらされている。それは何も、作中人物たちが非日常の危機に瀕し、生と死にわかれるぎりぎりのラインを跨ぐ、という大げさなことではない。ごくふつうの、ありふれた日常のなかで、作中人物たちのささやかな感情の揺らぎが、呼吸の一つ一つを通じ、誰かに伝わってしまうのがつらい、自分に伝わってくるのがつらい、こうした様子がつよい訴求力をもってあらわされているのである。

 すこし小難しく述べて、恋愛もしくは三角関係の原型が、他者の欲望を欲望することであるとしたなら、『ストロボ・エッジ』が描き出しているのは、その欲望すらも自らに禁じなければならない、禁じようとしたときに生まれるエモーションであり、ドラマだろう。それがいかに切実なものか、たとえば、ヒロインの仁菜子による〈ただ想うだけでいいなら『蓮くんがふたりいればいいのに』きっとそれすらも思っちゃいけない事〉というモノローグによく出ていると思う。

 意中の人である連には素敵な恋人がいるので、両想いになることは断念しながらも、片想いを捨てきれない仁菜子の、その、純情でもある姿に関心を抱いた蓮の友人の安堂が、彼女にちょっかいを出すうち、まじに惹かれはじめていく。これが前巻からのあらすじだけれども、安堂の真摯な告白を受けてもなお、仁菜子の蓮に対する気持ちが変わることはない。一方、仁菜子とは友達以上にならない距離を置いていたはずの蓮の心境に、微妙な、しかし劇的な変化が訪れる、というのがここでのくだりである。

 連にとって、恋人は麻由香一人であり、彼女を大切にしたいし、裏切るつもりもない。だが、どうしてだろう、仁菜子のことが、ふと気になってしまう。ピュアラブルなラヴ・ストーリーにおいて、たいへんな困難をともなうのは、あらかじめ恋人のいる人間の心移りをどれだけ誠実に示せるか、であって、蓮に託されているのは、まさしくそれだといえる。いつまでも変わることのない感情などどこにもない、これを前提化してしまえば、今ここにある感情もまた、絶対的な真実ではない可能性を孕んでしまう。

 両親の離婚をいまだ引きずる麻由香が、父親の再婚を聞きつけ、蓮の前で泣く、〈やっぱり ずっと変わらない気持ちなんてないのかもね〉と流される涙が印象的である。蓮は、友人である学(がっちゃん)の慮りのとおり、もしかしたら自分が仁菜子を意識していると気づき出している。眠っている仁菜子と二人きり、電車に揺られている78ページ目から82ページ目のシーン、そこでの彼の葛藤には、じつにさりげない描写のなか、すさまじいものがある。

 ほんとうなら降りるべき駅を乗り過ごし、仁菜子の駅にまで付き添ってきたのは決して〈蓮くんの事だから 私に気を遣って 起こすに起こせないでいたんでしょ〉というのではないだろう。だが、そうした束の間でさえ、彼の性格上、とても罪深く感じられてしまう。そのことが、まったくべつの機会、べつの意図で発せられた麻由香の〈やっぱり ずっと変わらない気持ちなんてないのかもね〉という涙によって、疚しさのつよい否定へとすり変わる。

 そう、麻由香が何をしたわけでもない、何も悪くない。仁菜子が何をしたわけでもない、何も悪くない。このとき、蓮の生真面目さは、自分の感情の揺らぎこそが最大の問題であるとし、もしも彼の内側に芽生えているものが仁菜子への慕情であるとするならば、それを断念しなければならないと決める。

 連のそうした頑なさを見かねた学が〈おまえ 自分の気持ちに気付いたんだろっ!?〉と〈ムキになって自分の気持ち否定したってしょうがないだろ!?〉と責め立てるが、もう一人の心優しき友人、裕が〈本当が いつも正しい訳じゃないだろ〉と〈じゃあ 蓮のカノジョはどうするの?〉と学を押さえるとおり、どこにも正解がないような悩みにおいては、ただ、自分にできるだけのことを自分に課すよりほかないのかもしれない。こういう蓮の迷いと断念は、麻由香の存在を頂点とするかぎり、意外にも仁菜子のそれと相似でもあるふうに対置される。

 ふたたび、恋愛もしくは三角関係の原型は、他者の欲望を欲望すること、といわせてもらうなら、連の仁菜子に向けられた動揺は、さしずめ、二者のあいだに入ってきた安堂のアクションによって、引き起こされている。あるいは、顕在せざるをえなくなった。もしもそうだとしたら、仁菜子に告白する間際、安堂は〈人って結構欲張りなんだよ 本当に好きなら 自然と その先を望むものなんだ だけど連にはカノジョがいる どんなに近付いたって――――交わる事なんかない 蓮と仁菜子チャンは〉と言っていたけれど、平行する二線のあいだに結びつく斜線を引いてしまったのは、皮肉なことに安堂ともとれる。さて、彼女彼らの恋愛は、次巻以降、いかなる展開を見せるのか。

 最初に述べたとおり、咲坂伊緒の『ストロボ・エッジ』は、基本的に半径5メートルのコミュニケーションでつくられたマンガである。しかし、その狭い半径のうちで密に折り重なるエモーションやドラマを、デリケートに、さりとて憚ることなく描き取ることで、表面的にはあかるくたのしいトーンの、だが、じっくりシリアスに読ませるほど充ちた内容の、作品になっている。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他咲坂伊緒に関する文章
 『マスカラ ブルース』について→こちら
 『BLUE』について→こちら
 『GATE OF PLANET』について→こちら
posted by もりた | Comment(4) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月26日
 激流血~OVER BLEED~ 3 (ヤングガンガンコミックス)

 全3巻で完結した、この28 ROUNDのマンガ『激流血〜OVER BLEED〜』には、たなか亜希夫(原作・橋本以蔵)の『軍鶏』や森恒二の『ホーリーランド』の、アップデートなヴァージョンになるかな、という期待を持っていたのだけれども、スペクタクルに偏重したストーリーとスタイリッシュなデザインのせいか、シリアスな議題に対して、今一歩踏み込みが足りず、後追いのかっこうをつけたまま、ラストまでいってしまった感がある。エスカレートするいじめに悩み、自殺を試みた主人公の圭は、そのさい、幼馴染みの明を行方不明にしてしまうが、自らは生き延びる。ふたたび学校生活に戻ったところで、かつて以上の責め苦を負うばかり、どこにも居場所はない。そんなあるとき、謎のサイト「激流血」が発信する動画のなかで、戦い、勝利し続ける武念という名のファイターに明の面影を見つけた圭は、彼の正体を知りたく、近づこうとし、非合法的な格闘の世界に入っていくと、苛烈な殴り合いを強いられ、繰り返すうち、その魅力にはまる。こうした物語の背景にあるのは、やはり、『軍鶏』や『ホーリーランド』に通じるような現代的なフラストレーションの歪み、だろう。そうして、少年Aのカテゴリーに迷い込まされた存在が、肉体の実感を経由することで、自己の輪郭を再獲得するのである。もしもこのような点において、『激流血〜OVER BLEED〜』が、『軍鶏』(未完ではあるが)や『ホーリーランド』のそれを上回る成果をあげられる可能性があったとしたら、あらかじめ匿名的な悪意や欲望を増幅させる装置として設定されていたインターネットというツールに、作者なりの批評性を加え、十分にひろげていくことだったと思う。しかし残念ながら、ストーリーを都合よく動かすためのガジェット以上に役割を与えられていない。インターネットがふつうにある時代だからインターネットを用いるのは、べつに構わない。だが、いじめがふつうになくならないからいじめを描いただけでは、自殺する人間がふつうにいるから自殺を描いただけでは、犯罪者がふつうに絶えないから犯罪を描いただけでは、格闘技を好む人間がふつうにいるから格闘技を描いただけでは、特別な感慨もわかないのと同じく、それじゃあまったくテーマに関わっていない。結局のところ、何がしたかったの、ということになりかねない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月25日
 チャイニーズ・デモクラシー

 ないない、と思っていたはずが、じっさいにありえてしまったときほど戸惑いを覚えることもないのだが、GUNS N' ROSESのニュー・アルバム『CHINESE DEMOCRACY』は、まさにそんな印象を持った作品だといえる。まず、出ないだろう、と踏んでいたのがリリースされてしまったのがそうだし、次いで、もしも出たとしたって微妙な内容に決まってらあ、と睨んでいたのが、いやいや、意外とけっこう良いんじゃねえか、これ、と感じられたのもそうである。もちろん、この十数年間、つねに期待値の高さが話題となっていたバンドだから、どうしても不満を抱いてしまう向きはあるに違いない。しかし、ガンズに比肩するクラスで現在も活動を続けるベテランたち、たとえばMETALLICAやRED HOT CHILI PEPPERSの、ここ最近のものと並べてみても決して見劣りがしないどころか、ぜんぜん、いけている。あるいは、それだけのクオリティに持ってくるまで、膨大な試行錯誤と制作期間が必要だったのかもしれない。また、2曲目の「SHACKLER'S REVENGE」にはレッチリの「OTHERSIDE」の、5曲目の「IF THE WORLD」にはメタリカの「THE MEMORY REMAINS」の、どことない残響を感じられたりするのも、まめなリサーチの結果なのかもしれない。基本的には、91年の『USE YOUR ILLUSION』シリーズに顕著であったアクセル・ローズの、ノイローゼふうでもある、大作主義的な傾向が、長尺であることよりも、ひとまとまりにおける多重構成の濃さ、緻密さを追求するかたちへ、翻り、変容し、そのおかげでやたら大仰にも聴こえてくるようなサウンドが、売りになっている。アングリーでアグレッシヴなアジテーションの魅力はほとんどない。そのかわり、くせのあるヴォーカルが、ドラマティックなメロディが、デジタル時代の恩恵が贅沢な音数の使用に費やされた演奏のなかで、質量のともなったはったりを実現させている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(08年)
2008年11月24日
 The Works

 昨日(11月23日)、赤坂ブリッツで行われたTHE WILDHEARTSのショーは、彼らのファースト・アルバムである『EARTH VS THE WILDHEARTS』のリリース15周年を記念し、その内容を再現するという、まあ、後ろ向きといえばいえなくもない企画ではあるのだけれど、じっさい目のあたりにしたそれは、諸般の事情はもうどうでもよろしくなってしまうほど、すばらしくテンションの高まってとどまらない、まさしく絶好のステージであった。

 だいいち、バンドは『EARTH VS THE WILDHEARTS』の発表当時、日本ツアーを実現していないのである。たしかに、その後の来日公演などで『EARTH VS THE WILDHEARTS』からのナンバーが披露される機会もすくなくはなかったが、しかし滅多にプレイされない楽曲のほうが多いくらいだった。しかもそのなかには、旧くからの熱心なファンに、なぜあれをやってくれないんだ、と待望久しいものが何曲も含まれている。それがここにきて、ついに間違いなく、実演される。

 当然、1曲目は「GREETINGS FROM SHITSVILLE」だ。超満員の(と形容しても差し支えがないだろう)会場が割れんばかりの歓声をあげる。2曲目の「TV TAN」にいたっては、フル・コーラス大合唱という感じで、歓喜と興奮の感情を、パワフルかつエネルギッシュな演奏へと返す。バンド自体も決して若くはなければ、客層も決して低くとは言い難い。にもかかわらず、熱狂が、ダイナミックなウェーヴを、とたんにつくり上げる。

 ヘヴィなギターのリフとメロディアスなヴォーカルのハーモニー。THE QUIREBOYSを追い出されたギタリストが、GUNS N' ROSESのようなスリージーなパフォーマンスを前方に見、NIRVANAの素朴なポップさや簡潔なアグレッシヴさを横目にし、PANTERA、SEPULTURAといった同時代の重量級サウンドに感化されながら、イギリスの風土のなかで見事に結実させたロックン・ロールが、『EARTH VS THE WILDHEARTS』の曲順どおり、絶え間なく響き渡る。「SUCKERPUNCH」の猛スピードな勢いは、いつになっても強烈なままだ。「NEWS OF THE WORLD」が聴けたのも嬉しい。

 「LOVE U TIL I DON'T」で『EARTH VS THE WILDHEARTS』のパートをぜんぶこなし、いったんは引っ込んだメンバーが戻ってくると、アンコールは、「DANGERLUST」からはじまり、初期の「SUCKERPUNCH」EPや「CAFFEINE BOMB」EPに収録された、いわゆる隠れた名曲の数々が、次々と披露される。「GIRL FRIEND CLOTHES」に「THE BULLSHITS GOES ON」、「SHUT YOUR FUCKING MOUTH AND USE YOUR FUCKING BRAIN」、「BEAUTIFUL THING YOU」、「TWO WAY IDIOT MIRROR」、そしてもちろん、THE WILDHEARTSのライヴには欠かせないアンセム「29 X THE PAIN」と、ことによったら、こちらを本編としてしまってもよいぐらいのサプライズと高揚が連続する。

 95年の初来日公演のとき、やって欲しいやって欲しい、と願っていたいくつかのナンバーが、ようやく聴けたという気がした。そう考えると、ずいぶん待たされたものだ。中心人物であるジンジャーをべつにすれば、あれから何度かの入れ替わりがあり、メンバーもだいぶ変わった。個人的な思い入れとしては、あの頃のダニーやジェフを含むラインナップが懐かしいが、しかしそれとはべつの、なにか達成感にも似た感慨が、今回のショーを観終えて、あった。

 おそらく、ノスタルジーではないだろう。うまい言い方を見つけられないけれども、たぶん、あらかじめ頭のなかで描いていた期待にじっさいの興奮が追いついていくような、そういう手応えではないか。「SOMEONE THAT WON'T LET ME GO」や「SICK OF DRUGS」、「I WANNA GO WHERE THE PEOPLE GO」という、『EARTH VS THE WILDHEARTS』以降からピックアップされた3曲の、2度目のアンコールを経て、全編は幕を閉じた。音が止み、照明のあかるくなるつよさは、ちょうど、幸福な夢の醒めぎわを思わせた。

 『THE WILDHEARTS』について→こちら
 ライヴ盤『STRIKE BACK』について→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(08年)
2008年11月22日
 話のスケールをおおきくしていくにあたり、則夫の犠牲も仕方がなかったということか。関東一円会会長選が迫るなか、アキラとドクター大内の暗殺されかけたことが、波紋を呼び、彼らばかりではなく、大介や守、そして加瀬までもが、各組で次世代として台頭してくるきっかけとなる。ここからが、裏切り、裏切られ、血で血をぬぐうシリーズの本領発揮か、と、立原あゆみの『仁義S(じんぎたち)』8巻は予感させる。なにせ、どれだけ重要な役を負っていようが、ちょっとでもヘマをしたら、容赦なく切り捨てられてしまうのが、前作『JINGI』からの伝統であり、醍醐味だからね。それにしても『JINGI』との繋がりでいうなら、大内の命が危ういところだったと知り、仁が柳澤と事を構えようとしていたと、アキラに伝える義郎の言葉が見逃せない。アキラが〈か 会長が……そんな事まで…〉と驚くのに向かい、義郎は〈おめえらは やつにとって 大切な仁義 JINGISだ!〉と言うのである。これはもちろん、作品のタイトルにシメされた意味をアピールするかのような、そういう重みの加えられた箇所にほかならない。しかし、それ以上に注意しておきたいのは、あくまでも義郎が、仁にとってアキラたち新世代は大切な後継だと考えられている、と述べている点だろう。単純に、場面的な言葉のアヤなのかもしれないが、しかし、なぜ義郎がヤクザになったかを振り返ったさい、これは意外とおおきな含みを持つ。なぜ義郎はヤクザになったのか。まあ、これまでにも再三述べてきたので、繰り返さないけれども、先ほどの言葉は、はたして義郎のなかに「仁義」があるのか、あったのかどうか、を読み手にあらためて疑わせる。そもそも天才肌の義郎は、すべてのあらましを、ひっそり、まるでゲームのマスターのごとく、仕切ってきた。その彼にしてみれば、「仁義」というそれも、盤上の展開を左右する一要素にすぎないのでないか。こういう穿った見方をさせられることが、物語のミス・リードを誘う。どれだけ重要な役を負っていようが容赦なく切り捨てられてしまう、それがこのシリーズの醍醐味と、すでに書いた。が、おいおい、まさか、ここで甲田がリタイアしてしまう。仁とともに、前世代の、「仁義」を貫いた人物である。作外の読み手にも、作中人物にも、好感度は高い。はたして誰が彼を殺したのか。ふつうのマンガであれば、仁と義郎に敵対する側の仕業と、すぐに決めつけられる。だがそれすらも、義郎の、のちのちの展開を踏まえた戦略、攪乱という可能性が捨てきれない。甲田の訃報を聞きつけた、関東一円会のトップたちが、まさしく呉越同舟のかたちで一同に介し、牽制し合う。そこで仁と義郎は、こうアイコンタクトする。〈今夜の集まりの中にいる 仁〉〈ああ…オレかもしれねえ 義郎おめえかも〉。甲田の死を起爆剤に、いよいよ戦争がはじまる。

  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 
・その他立原あゆみに関する文章
 『極道の食卓』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『恋愛』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『本気![文庫版]』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
 両親がパチンコに熱中しているすき、駐車場の車中に残された赤ん坊は、熱さのあまり、死のうとしている。それを見つけ、助けだした第三者が、誘拐犯と間違えられ、立場を悪くする。これは立原あゆみのマンガにお馴染みのパターンだといえる。しかし、ついにこの『極道の食卓』は7巻で、作者は助けられたはずの赤ん坊を殺してしまう。いや、作中のレベルで見るなら、赤ん坊を殺したのは両親の傲慢さであり、最初の段階でそれを見抜き、対処することのできなかった社会であり、法である。たしかに、ヤクザの組長である久慈雷蔵の言葉を信じられなかったのは仕方がないとはいえ、もうすこし警察もやりようがあった。と、ここで思い出されるのは、やはり、同作者の過去作『本気!II』5巻における本気の、〈日本の法が正しかった事など 歴史上 一度もねえんだよ!〉という啖呵だろう。なぜこの言葉が思い出されるのか。『本気!II』の5巻を読み返されたい。そこで扱われているのも、置き去りにされた赤ん坊を助けようとしたはずの行いが、警察に追われるという皮肉である。そう、そしてすぐさま気づくとおり、久慈雷蔵の場合と同じく、それは「PACHIKO NEWジャック」の駐車場で起こっている。つうか、背景、完全に使い回しじゃねえか。まあ、それはさておき。『本気!II』では、結果的に赤ん坊をさらってしまった少年たちが、警察である石神に庇われたので、すべてが丸く収まるかっこうになっている。赤ん坊は死なずに済んだ。少年たちが逃げ回っているあいだの時間が、母親に親の心を取り戻させている。同僚たちに咎を受ける石神が〈提訴でも何でもせいよ! この悪代官!〉とうなり、少年たちと赤ん坊のため〈でてこおい! オレが守ったる!〉と全力を尽くす姿が、印象的である。これに対し、『極道の食卓』では、そのような善意は警察の内部になくなっている。カニと呼ばれる刑事がカツ丼をむさぼり食うくだりは、利権への執着の、矮小化された表現だと考えられる(余談になるけれども、そのような警察内部の善意をあらためて問うているのが、現在作者が同時に手がける『ポリ公』だといえる)。かくして誰も、両親が親の心を取り戻すまでの時間を稼げず、赤ん坊は亡くなってしまう。『本気!II』の5巻と『極道の食卓』の8巻には7年の隔たりがある。だが、その間、赤ん坊をパチンコの駐車場で死なせてしまう、同様の事件が現実の世界に起き続けていることが、今回、こうした残酷な結末を描かせているのだ、と思う。
 
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他立原あゆみに関する文章
 『恋愛』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『本気![文庫版]』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『仁義S』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
 本筋には直接関係のないあたりで、『ポリ公』の凉二が、ゲストで顔を出してるな。こういうのもまた、ファンにとってたのしみの一つではある。立原あゆみの『恋愛(いたずら)』も3巻に入るが、兄貴分を殺された主人公のジミーによる復讐譚としては、以前にも書いたとおり、おい、これ、『弱虫』や『東京』の焼き直しじゃねえか、と思わせる面がありながらも、大規模な組織戦に持ち込まず、孤独で非情なヒットマンの裏の顔、つまり人間らしい面を描き出しながら、それがどこへどう転がるのか、先の見えない展開を繰り出しているのは、さすがである。もちろん、どれだけイケイケのヤクザであろうと、病床に臥す女性に対しては無力にならざるをえない、というのも、まあ、この作者にしたら二番煎じ三番煎じのパターンには違いないのだけれど、別れのときが先延ばされ、そして近づいてくる予感のなかに、静かな悲哀を含ませていく手つきからは、やはり、凡百ではない、すぐれたものが伝わってくる。そうしたパートと同時進行する、単発で区切られたエピソードに関しては、第22話(二十二曲目)の「さらば青春」の、こういうところがとくに良かった。作品の舞台となっているバー「いたずら」のカウンターで、一組のカップルが揉めている。ちんぴらふうの男が、女に子供を堕ろすよう、説得している。女が去り、店に残った男に、ワキで話を耳にしていた常連の娼婦たちが、嫌な顔をし、絡んでくるのである。彼女たちに向かって、男は〈だから何です オレがオレの子を堕ろしてどこが悪いんです!?〉と言う。ここには男の、自分以外の人間をいたわる気のない、そういう傲慢さがよく出ているだろう。これに、かっ、っとした「いたずら」の店員、千春は〈私があなたのお母さんだったら 私はあなたを産んであげません!〉と一蹴する。そしてその声は、「いたずら」の用心棒であり、駆けつけたジミーの心に、次のように届くのである。〈かあさんはやくざなんか産むつもりはなかった 今のオレを知ったら 千春ちゃんがオレが店に入った時に叫んだという言葉と同じ言葉を言うのでしょう〉。自分から進んで自分が救われない生き方を、どうしてか、選んでしまう人間がいる。当人がそれを気づいている場合もあれば、気づかないままの場合もある。どちらが不幸なのかは知れない。いや、どちらもすでに不幸なのだ。千春の言葉は、憐れみよりも激しく厳しい感情で、それを告発している。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他立原あゆみに関する文章
 『本気![文庫版]』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『極道の食卓』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『仁義S』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2008年11月21日
 color(初回限定盤) color(通常盤)

 NEWSに関しては、これまで音楽的な方向性が自分の趣味とはちょっと違うため、たとえば前作『pacific』でいうなら、ヘヴィなギターの前面に出たミクスチャー・ロック的アプローチの「change the world」や、初期の堂本剛くんばりにジャニーズ・グランジを聴かせる錦戸くんのソロ・ナンバー「code」などは、かなりフェイヴァリットではあったものの、しかしそれらは全体からすると本筋ではないと思わせる部分がつよかったので、必ずしもジャストという感じではなかったのだが、ここ最近のシングル、とくに「weeeek」や「SUMMER TIME」、「Happy Birthday」で見られた展開には、お、と思わせられるところがあった。しかして、その3曲が収められたサード・アルバム『color』に対する期待は、がぜん高まっていたわけだけれども、いや、じっさいにこれが、なかなかナイスな作品になっており、すくなくともNEWSのディスコグラフィのなかでは、もっとも、ぴん、ときた。

 まず1曲目にさっそく「weeeek」を持ってき、勢いを借りて、飛ばす。続く「STARDUST」はハード・ロック調の楽曲で、これもアップ・テンポに、攻めの姿勢を感じさせる。3曲目が「SUMMER TIME」である。この時点でNEWSというグループのカラー、メンバー6人の個性が、かなり上向きに表現されていることが伝わってくる。4曲目の「SNOW EXPRESS」は、山下達郎に作曲を頼み、すでにコンサートで披露されていたナンバーらしく、DVD『Concert Tour Pacific 2007 2008』でも聴くことができるが、メランコリックなギターの響き、キーボードのきらきらと輝く旋律、心地好い打ち込みのリズムに、メロディアスなコーラスがのっていくなか、ワキから入ってくる山下くんのラップが、特徴的なフックとなっている。

 アコースティックのループを使った5曲目の「Forever」や、いま流行りのヴォコーダー・ポップスを意識したかのような6曲目の「MOLA」などは、正直、他のグループが歌っていても違和感がなさそうという意味で、楽曲単位の個性がやや弱いかな。しかしながら、錦戸くんのソロ・ナンバーが、うん、やっぱり、良いね。好き。「code」の場合、作詞のみが自作であったけれど、ここでの8曲目「ordinary」では、作詞ばかりか、作曲も手がけている。ゆるやかなトーンではじまり、印象的なギターのアルペジオが、大振りなストロークへ膨らむのに合わせ、スピードがあがっていく。バンド・スタイルのサウンドは激しさが増す。そこに「きみとぼく」の関係性から抽出された、一途とも執着とも一瞬とも永遠ともとれるラヴ・ソングが織り込まれている。

 先に挙げた「weeeek」や「SUMMER TIME」、それから13曲目の「Happy Birthday」が象徴するように、総体的にはラップ(っぽい)パートを含んだナンバーが増えており、ああ、なるほど、たぶん、こういうミクスチャーの路線が自分の趣味と合っているんだな、と思う。だが、NEWSの場合、嵐やKAT-TUNとは違い、誰それが専任と決められているふうではなく、MCをスイッチしながら、カラフルに艶やかで鮮やかでポップな色調をつよめている点が、他にはない魅力を孕んでいる。それがよく出ているのは、おそらくはハイライトに挙げてしまってもよいだろうね、と感じられる12曲目の「Smile Maker」である。〈笑え / 苦しい時こそ / 辛い数だけ笑顔見せてよ / さあ声上げて / いっそ笑い飛ばして / 自分のためじゃなくても / 誰かのために笑おう / 喜んでくれた顔が / 与えてくれる力を〉という、キャッチーで力強いコーラスまで、ジャジーなピアノとスクラッチがつくるコントラストのなか、交互にフレーズを繋げていくヴォーカルのひとつひとつから、スウィートなばかりではない、逞しさもがっちりあるポジティヴなフィーリングが溢れ出す。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(08年)
2008年11月20日
 もしかしたら80年代から90年代初頭にかけてのヤンキー・マンガは戦後に対する解体の表現だったと思えなくもない。それ以前の不良マンガの登場人物たちのバックに、右翼の大物や政治家、財界人がうろうろしていたのとは違い、歴史や血の繋がりとは断絶された場所で、不良少年たちは、自分たちだけのパラダイスでありユートピアを謳歌していたのである。現在の郊外がそうであるように、中途半端に終わったアメリナイズの完成形ともとれるその姿を指し、世間はヤンキーと呼んだのではなかろうか。そうしたヤンキー・マンガのフォーマットに、ふたたび歴史と血の繋がりを導入しようとしている作家の一人が、佐木飛朗斗だといえる。彼が、桑原真也に原作を提供した『R-16』にそのことは顕著であった以上、同じく所十三に作画を任せた『疾風伝説 特攻の拓』の枠組みに翻るていで、『R-16』のテーマを載せ替え、まだ若い東直輝に渡したような『外天の夏』もまた、歴史と血の繋がりのめぐるストーリーになっている。まさか〈バッカ どこの国のマネでもねー族ぁこの国の伝統文化だっつーの 日章カラーに特攻服は歴史上の事実だぜ〉という登場人物の与太を真に受けるわけではないけれども、しかしまったくの冗談で済ますこともできない。すくなくとも佐木は、本気半分の力を込め、そう言わせているはずだということは、ストーリーを追うことによって、確認される。札付きのワルが集う聖蘭高校に編入してきた主人公の夏は、そこで知り合った伊織たちから、亡くなった兄の冬がじつは横浜の暴走族である外天の初代であったことを聞かされる。さらには〈冬さんは何世代にも渡って続いてきた横浜をとり巻く族の世界の戦争を 全て終結させるつもりだったんだ…〉という夢が叶わず、外天の二代目をつとめる伊織が〈でも 冬さんは逝っちゃったし…戦争終わらせんなら やっぱ…ぜんぶ潰すっかないじゃん? 別に…オレが…死んじゃっても構わないから〉と決意しているのを知るのであった。こうした、少年たちが命をかけてまで臨まなければならない事態を、アンバランスな価値観に巻き込まれていく夏の不運なさまを通じ、ときにはユーモアを交えながら描きつつ、その少年たちの背景には、血の繋がりが、生々しく、憎しみの連鎖反応を引き起こし、彼らを掴まえ、きつく縛る苦悩が横たわる。伊織の幼馴染み、亜里沙が置かれている複雑な家庭環境も、その一つだろう。魍魎を率いる和國は、彼女の父違いの兄である。彼女の父親は、巻島グループの総帥であり、巨大な資本は政界をも左右する。そして和國は、その男に妻を奪われた父親の弱さを憎しみ、〈“賀来の家”の誇りと名誉はオレが取り戻す!! オレは街を恐怖で支配してやる…!〉と、力のみを頼り、自らの血統を訴える。ここには権力が、下へ下へ、個人へ個人へ、くだるにつれ、暴力に還元されていく構図が生じている。登場人物たちは、血の繋がりから、知らずのうち、歴史を背負わされ、結果、ぐれているのだ。たぶん和國は、まあ魍魎というチームからしてそうなのだが、『疾風伝説 特攻の拓』の武丸のイメージを受け継いでいる。しかし武丸が大企業の御曹司であったのとは違い、そこに『R-16』の、貧しく無力であるがゆえに不良にならざるをえなかった少年たちのイメージが入り込んできている。そのような意味で『外天の夏』の成り立ち自体を象徴する人物になっているといえる。それにしても、亜里沙の双子の妹である亜芽沙が切ない。足の不自由な彼女が、夏に希望を見るのは、冬の弟だからというのもあるだろうし、何よりも純粋であり、自由であるふうにも思えるからだろう。この、夏に託された男の子の像が、ちょうど80年代から90年代初頭にかけてのヤンキー・マンガの主人公たち、それこそ『疾風伝説 特攻の拓』の拓をも含められるイメージとだぶったりするのは、彼らがどれだけ歴史や血の繋がりから解放されていたかを考えたとき、あんがいおおきな意味を持っている。

 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』(漫画・山田秋太郎)について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 もしも、音楽によって狂わされてしまった人間がいるなら、それを調律し直すことができるのも、やはり、音楽だけなのかもしれない。おそらくはハロルド作石の『BECK』以降といってしまってよいのだろうが、ここ最近、音楽マンガもしくはロック・マンガあるいはバンド・マンガと括ることのできるような作品が、やたら増えた。しかし、リアリティ重視とでも言いたいのか、まあね、等身大といえば聞こえはいいのだけれども、しょぼいしせこいサークル・ゲームに終始しているのがほとんどなのは、ああ、ロックやパンクが他人と同じであることを嫌う時代はもう終わっていたんだな、と、あらためて思わせる。だが、佐木飛朗斗だけは、違うね、違う、スケールが違う。山田秋太郎に原作を託した『爆麗音(バクレイオン)』を読むと、たしかにそう実感されるのであった。この3巻は、「デモンズナイト」と呼ばれるイベントの出場権を得るため、コンテストに参加したバンドたちの演奏シーンに、おおよそを占められている。主人公の歩夢と彼がギターをつとめるヒューマンガンズの出番前、顕率いるチーマー系暴走族(すごいカテゴリーだな)でもある泥眼(でいがん)の、巨大な狂気を孕んだ演奏は、無意識でモッシュピットをつくらせるほど観客を魅了してしまう。はたしてヒューマンガンズのパフォーマンスは、泥眼のそれを凌ぐことができるのか。やがて歩夢のギター・ソロが響き渡ってもなお、調子のあがらないステージに、フロアにいた烈は〈こんなのは“オマエの音楽”じゃねーだろ!? 歩夢ゥ!!〉と、苛立った表情を見せる。歩夢の音色(トーン)が炸裂するのを受け止めるのに、ヒューマンガンズのリズム隊は適していないのである。自分を出せば制御不能になり、バンドに合わせれば自分が封じ込まれる。このようなジレンマが、歩夢のあがく姿に描き出されている。一方、音楽とは何よりも自由であるべきか、いや逆に不自由であるからこそ、他との調和がとれ、完璧になれるのか。同様のテーマが、ザルツブルグのオーケストラでモーツァルトに挑むピアニスト印南の苦悩を通じ、展開される。権威のみが、神のつくりし記録(レコード)と信じて疑わないジークフリートガンディーニの指揮のもと、即興演奏を試すことで、印南は〈権威を滅ぼしてボク自身が権威に成り変わってみせる! そうウォルフガングアマデウスモーツァルトの様に…〉証明してみせようというのである。それぞれべつのステージで繰り広げられる二つのクライマックスが、場所を越えて交錯するさまが、演奏の描写をスリリングに盛り上げている。複数の出来事がパラレルに進行するのは、佐木の原作が得意とするパターンであるけれども、正直なところ、時系列が整理されているとは見なしがたく、ぐちゃぐちゃにこんがらがっている。それはもちろん、作品の欠点となりうる。が、しかし、肯定的に述べるのであれば、佐木が導き出そうとしているのが、すべての瞬間と空間とが同時に生起する宇宙の存在である以上、それは当然だという気もしてくる。この『爆麗音』においては、音楽こそが、神へ、宇宙へ、ひらかれてゆく唯一の回路なのだろう。したがってそれは、関わった人間の運命を、容易くも残酷に左右する。平凡な母子家庭に生まれたはずの歩夢の、意外なルーツがあかされるのも、この巻だ。そして、歩夢の妹の樹里絵は、絶対音感を持っているがために母親から過剰なプレッシャーをかけられ、ついには音楽と神を呪詛する。〈そうだ…祈ろう…どうか“音楽の神様”…この地上から消し去ってください…あらゆる音楽を〉と。純粋な憎しみをヴァイオリンの調べにのせはじめるのであった。

 1巻・2巻について→こちら

 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『外天の夏』(漫画・東直輝)1巻について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他山田秋太郎に関する文章
 『解錠ジャンキー・ロック』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月19日
 恒例の自戒エントリになりますが、どうもあれだな、もうちょい文章がうまくなれるようがんばります。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | その他。
 生まれ来る子供たちのために (講談社ノベルス ウF- 18)

 八木剛士、そして松浦純菜、社会から忌まれ、疎まれ、迫害されてきたがゆえに出会ってしまった二人の、悲しい恋の物語が、ここで終わる。あれ、そんな物語だったか、いや、そんな物語だったのだ、たぶん、たぶん、たぶん。だって、ちゃんと切ない結末になってるじゃないか。とはいえ、しかし、冒頭に付せられたエピグラフが、あの安藤直樹(作者の初期作に出てくるキチガイ。キチガイっていうのはさすがに言い過ぎかい)であったことから予想できたとおり、ああ、まあ、それ以前にこれまでの展開からしてもそうなのだが、身も蓋もないぐらい、負の雰囲気に充ち満ちた作品になっているのが、ついにシリーズも最終巻を迎えた浦賀和宏の『生まれ来る子供たちのために But we are not a mistake』である。うん。こいつはすばらしくひでえや。

 自らを拒絶されたという感情が暴走し、剛士は純菜を深く傷つけてしまう。しかし剛士もまた、彼に対して複雑な思いを抱く南部の手により、もっとも大切にしていたはずのものに深い傷をつけられてしまうのであった。こうして三者の、かつては親密にもなりかけていた関係は崩壊し、憎しみのめぐりめぐる、血なまぐさく、たいへん醜い復讐劇が繰り広げられていく。一方、偽王とIR2、ハルマゲドン、天国移送、すべての計画は最後の段階に入り、地球人類に終わりのときが訪れる。

 もしかしたらやるんじゃないかやるんじゃないか、と思ってはいたが、P224、やっぱりやりやがった。過去作でいうなら『リゲル』級のインパクトをかましやがった。もうほんとうに、この作家は、良くも悪くも、期待を裏切らねえな。いずれにせよ、その瞬間を境に、アニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』の頃から近年では遠藤浩輝のマンガ『EDEN』まで脈々と続く、ビオスとゾーエーに引き裂かれる主観の、映し鏡であるような物語へと作品はシフトするのであった。もちろん、それは初期の小説(それこそ安藤直樹が登場ずるシリーズ)にも見られた傾向であり、だからある意味で、原点回帰ともとれるくだりだろう。しかし、ここにきてこのシリーズが、右翼や左翼がどうのだとか憲法九条がどうのだとか、執拗に繰り返し続けていた問答や、あるいはセックスしたいセックスしたいセックスしたい不細工な人間でもセックスしたいんだと、執拗に繰り返していた欲求の高まりが、ビオスとゾーエーの二極化をよりつよく推し進めていることに着目されたい。この場合のビオスとは、せめて人間らしく、といえる。

 もちろん、物語のなかでは、ビオスやゾーエーと述べられてはいないけれども、おそらく、そのように置き換えられる意識のありようは、二重三重の構造をもって描かれている。精神と肉体の対比として、自然と政治の対比として、生命とヒエラルキーの対比として、選ばれなかった側と選ばれた側の対比として。そしてそういった相剋もしくは選択からは決して逃れられない者の姿として剛士は、世界が終わったあとの世界に、一人取り残される。

 『地球人類最後の事件』について→こちら
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら

・その他浦賀和宏に関する文章
 「三大欲求」について→こちら
 「リゲル」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(08年)
2008年11月18日
 元職員

 吉田修一の『元職員』は、講談社創業100周年記念出版「書き下ろし100冊」の第一弾ということになっているが、まあ、そういったことは中身の話をするさいにはどうでもよくて、ではどういった中身を持った小説なのかといえば、異国を舞台に日本人の像を描いた旅行小説、おそらくはそのように説明できる一方で、『悪人』や『さよなら渓谷』に続いて書かれた犯罪小説だとも読める。いずれにせよ、秘密を抱えた、つまり取り返しのつかない事件の起こってしまったあとで、それを胸に伏せたままにしている人物の影が、平静に冷淡に、しかし無味乾燥にはならないよう、語られていくさまが、じつにこの作者らしい作品だと思う。

 バンコクへと一人でやって来た片桐という中年男性は、たまたま食事のために寄った通りの屋台で、長期滞在している日本人青年の武士と出会い、意気投合し、ミントと呼ばれる脛の艶やかな現地の女性を紹介される。そしてタイに留まっているあいだの数日を、彼女とともに行動するようになる。こうした筋書きのなかで、どうやら片桐にはのっぴきならない事情があるみたいだぞ、という印象が読み手に植え付けられていく。もちろん、どんな秘密が抱えられているのかは、だいぶ先になるまで明かされることはないが、まず妻のイメージとなってあらわれたそれは、どこか不穏な空気を孕み、次第に片桐を日本から逃亡してきた人間にも感じさせてくる。

 すくなからぬフィクションにおいて、物語は、事件そのものの言い換えである。だが『悪人』や『さよなら渓谷』がそうであったように、あるいはそれ以前のいくつかの作品がそうであったように、『元職員』の物語は、いま目の前では事件というほどの事件が起こらず、またはすでに起きてしまった事件がなかなか語られず、先延ばしにされることによって、成り立っている。そうして出来たスペースに置かれているのは、片桐とミントの仮初めの馴れ合いであり、片桐が日本に置いてきた妻との日常である。このような女性(たち)とのコミュニケーションを、もっとも身近なところで行われているはずの対他関係と見て取ってもいいだろう。

 日本語を話せないミントが、もしも自分に嘘をついていたしても、タイ語を理解できない片桐は、それが嘘であるかどうか、真実を知れない。しかし同様に真実を述べる必要もない。これははたして言語の相違のみに由来する問題なのだろうか。長い付き合いであり、お互いをよくわかっているつもりでいるような夫婦のあいだにも、かならずや真実ばかりではない、嘘が生まれることもありうる。そのこともまた片桐は実感している。けれども、どこからどこまでがそうでありどこからどこまでがそうではないのか、この線引きだけがつねによれ、すべてを曖昧にしてしまう。

 ある場面で武士が「……なんか、嘘って不思議だと思いませんか?(略)……嘘って、つくほうが嘘か本当か決めるもんじゃなくて、つかれたほうが決めるんですよ、きっと(略)」と言っているのはチープだが真理なのかもしれない。作中には、いくどとなく、嘘、という言葉が繰り返される。しばしば、騙す、という言葉が繰り返される。

 やがてバンコクを去ろうとするとき、自分がいったい誰に何を偽っているのか、もはや考えまいとする片桐の姿は滑稽であるほどに生々しい。

・その他吉田修一に関する文章
 『さよなら渓谷』→こちら
 『静かな爆弾』について→こちら
 『初恋温泉』について→こちら
 『女たちは二度遊ぶ』について→こちら
 『ひなた』について→こちら
 『7月24日通り』については→こちら
 『春、バーニーズで』については→こちら
 『ランドマーク』については→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書(08年)
2008年11月17日
 バイキングス 8 (8) (月刊マガジンコミックス)

 以前にも述べてきたが、もしも曽田正人の『シャカリキ!』が個の才能に集約される話であったとしたならば、風童じゅんの『バイキングス』は、同じく自転車のロードレース競技を題材としているがゆえに、おそらくは意識的に、チームワークの和に結びついていくような話になっており、そしてそのことは、この最終8巻の、文字どおりクライマックスにあたるくだりにおいて、よりあきらかだといえる。凱旋高校自転車部にとって、初の参加となる本格的なレースは、予想以上に苛酷なものとなった。一人また一人と脱落しかけるメンバーたちは、舞夜高校自転車部のエース小平良麗央奈に挑んでゆく一本木一途のため、最後の力を振り絞り、最善のサポートを尽くそうとする。もしかしたら連載の終了が先に決まり、それに合わせなければならなかったためか、やや展開は急ぎ足ではあるものの、仲間の願いと想いが一丸となり、主人公の背中を押してゆく姿には、くそ、まんまとやられたぞ、誰かが倒れなければならないたび、その手に掲げられるVサインには堪えきれないものがあるよね、と。さらには、凱旋高校を応援するワキの人物たち、とくに碧の一言と、彼女から手渡された補給食の、そこに込められた知多のメッセージには、めちゃんこ泣かされてしまう。かくして前へ前へ車輪を進める一本木と、単独のアタックでチーム・メイトすらも振り切る小平良の、両者の対照が、まさしく勝敗を分ける。仲間が傷つくのに耐えられず、失速してしまった一本木に向かい、敵方であるはずの舞夜高校マネージャーが〈みんあアンタと生きるために死んでったんだ! それがロードレースなんだよ! アンタらあたしらよりよっぽどひとつじゃないか!〉と激を飛ばす場面も、じつに象徴的である。ゴール直前、残り100メートルになってからの描写が奮っている。テーマとスピードが力づよく噛み合い、熱くはげしい興奮とエモーションを生み出している。

 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年11月16日
 中間淳生の『夜明け前』は、性同一性障害を取材し、たいへんシリアスに描く内容のマンガだけれども、作品が感動的なのは決して、扱われているテーマのためではない。これを勘違いしてはならない。そのことはたとえば第一話の、あ、とさせられる仕掛けからしてあきらかである。あまり触れるとネタを割ってしまいかねないが、ある意味で叙述トリックといってもいいだろうね、式の展開を用い、なぜ主人公の片想いが挫けなければならなかったのか、を秀逸に表現している。それを通じ、外見と内面の性が一致していない人物の戸惑いを、たんに興味深い症例を眺めるような好奇心から、見事に離陸させており、その後に続く物語を、特別な世界の出来事ではなくしている。だからこそ読みながら、胸が詰まる。もちろん、マイノリティに向けられる厳しい視線にさらされ、苦しみ、耐え、それでも顔を伏せまいとする主人公の姿には、ヘヴィであり、ハードなものが付きまとっているわけだけれども、やや反動的な言い方をすれば、この『夜明け前』を読んで、心を動かされたからといって、とくに性同一性障害に対する関心を持たなくても良いように思う。そうではなくて、ただ、現実はつねに残酷な面を持っていて、押しつけ、深い傷を負わせてくることもありうる、が、しかしときにやさしく肩を貸し、傷をかばってくれるような面だって持ち合わせているのかもしれない、こうした可能性が誰の身近にもあり、そして誰しもがその可能性の一部であることを再確認できればいい。それだけの力がここにはある。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 中途、退屈な展開もあるにはあったものの、しかし高校三年間の限られた時間がとてもきれいに切り取られていたな、という感想が、酒井まゆの『ロッキン★ヘブン』もラストにあたるこの8巻を読み終えたときに、思い浮かぶ。それはきっと、たぶん、卒業式で描かれる風景が、うつくしく、これまでの物語を締めくくっているからだろう。いや、むしろその効果によるところが、圧倒的に、おおきい。正直、快活なヒロインである紗和とひねた坊ちゃんの藍をめぐるラヴ・ストーリーとして見た場合、迂回路も迂回路で、わざわざ、といった感じがしなくもなく、やや一本調子になってしまったが、周囲の人間たちの彩り鮮やかな表情が、学校を去っていくその後ろ姿のなかにも求められ、とても幸福な余韻を与えている。特徴的であったのは、レギュラーに噛ませ犬を一人加えたほかには、当初の時点でできあがっていたスモール・サークルをそれ以上はひろげず、その内部で終始するよう、人間関係が結ばれていたことである。閉じているといえばそうなのだけれども、だからこそ教室を去るさいの〈振り返って 眺めれば なんて狭い楽園 でも ここは 私たちにとって天国みたいな場所だった〉というモノローグが生きてくる。ある時期にしか存在しえない輝きが、まるで両の手のひらでやさしく包み込まれるみたいな、そういう綴じられ方をしているおかげで、純粋な光を拡散しないままに済んでいる。ほんのすこし、卒業後の様子が垣間見られる最後の数ページに関しては、読み返すたびに、もしかするとこれは余計だったのではないか、いや、これはこれで必要なのではないか、と、いまだに結論が出せない。未来から過去を振り返る視点により、幸福な印象が高められているが、なぜそう感じられるかといえば、結局、彼らが何かを失うこともなしに大人になれた様子が示されているからなのだ。もちろん、それはたいへんすばらしいことである。だが、やはり心のどこかで引っかかってしまう。とはいえ、彼らのその後をうまく流用した番外編は無条件でたのしく、こういうかたちであれば、とくに問題とはなってこないあたり、本編の最後で個人的に覚えられる違和感は、今日における少女マンガ自体が持っている構造のほうと、ふかく関わっているのかもしれない。

 7巻について→こちら 
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月15日
 作者も欄外のコメントに書いているけど、そらまあ、誰でも、薄い、って思うよな、というのは内容のことではなくて、物量的なこと、要するにページ数のことで、番外編を除けば、100ページ強しかないのだが、物語のほうはとくに薄いとは感じさせず、最後の最後にきて、畳み掛けるような展開が続く。これで完結となる春田なな『チョコレートコスモス』の4巻である。ヒロインの視点に立てば、教師に対する片想いのストーリーとなっており、俯瞰的には、ヒロインをめぐる教師と幼馴染みの三角関係のストーリーとなっている、そのような構図で描かれているマンガだけれども、なかなかテンポのよい速度で話を二転三転させながら、すべてを収めるべきところにちゃんと収めている。前巻で横から入ってきた三年生の女子が、ヒロインである紗雪の恋のライヴァルになるのだろうかならないのだろうか、と読み手に疑わせておいて、じつはそれがもうちょいべつの役を担っているあたりも、アイディア的に云々ではなく、接続の仕方として、うまくいっている。それからヒロインの振るまいが、テンションの高いまま、ぶれなかったのも良い。ファミレスの乗り込んでいくくだりなど、場の空気を読めるようなタイプであったり、あるいは逆に場の空気を白けさせるほど落ち込むタイプであったりしたら、ああはならなかっただろう。それにしても、悠士の立場になってみると、ほんのすこしボタンの掛け違いでしかないものが、決定的な誤りとなってしまっているわけだから、正直、ちょっとこたえるものがあるよね。しかし、そのへんも、すぱっ、と割り切ったうえで結末を迎えているおかげで、どろどろにもぐだぐだにもならずに済んでいる。

 3巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)