ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年10月30日
 デジモノステーション 2008年 12月号 [雑誌]

 いま出ている『デジモノステーション』の12月号から「ご長寿WATCH」という長寿テレビ番組に関するコラムを書いております。まだ手探りな部分もございますが、何かのおりにはチェックしていただきたく。

 それからお問い合わせをいただいたので、ちょこっと書いておくと、今年の文学フリマには、残念ながらブースがとれなかったため、出店いたしません。来年の春に開催が予定されているのには参加するつもりですので、そのさいにはよろしくお願いします。
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 あのヤンキー・マンガを懐かしみたいのコーナー、いや、そんなコーナーはねえですし、あの、といったところで、懐かしい、と思う読み手は、ごく少数、もしかしたら皆無かもしれないのだけど、まあ、個人的な偏愛をめいっぱいに、どんな作品でも振り返られる機会があっていい、という心積もりでこれを書いていく。で、何の話をするのかといったら、TAIRAの『ZEROSAKI(ゼロサキ)』のことである。

 97年に『ヤングマガジン増刊エグザクタ』に連載され、98年に単行本となっている(全1巻)、つまり、ちょうど10年前のマンガになるわけだけれども、作者がそこで行っているのは、おそらく、ラヴ・コメディと不良ヴァイオレンスのアマルガムであるようなヤンキー・マンガの洗練、ポップ化だと思う。ここでいうポップ化とは何か。説明するのは容易じゃないのだが、しいて試みるのであれば、ラヴ・コメディを、恋愛の問題ではなくて、女の子と遊んでたら楽しいじゃん、のシンプルきわまりない態度へ、不良ヴァイオレンスを、男らしさを競うコンテストではなく、うずうずする衝動は止まらない、式の勢いによったゲームへと、それぞれ置き換えることで、ある種の軽さが前景に出てきている表現を指す。

 もちろん、モラルやルールに基づく観点からすれば、ややくだけすぎ、危なっかしい部分もあるにはある。しかし、付け足しのイデオロギーでイズムを語りがちな胡散くささをまったく斥けながら、ピカレスクなノリにすべてを預け、テンポを上げに上げていく展開の続くさまは、じつに潔い。まあ、ぶっちゃけて、ギターのケースを手にした作中人物がマリアッチと呼ばれていることから察せられるよう、当時流行っていたロバート・ロドリゲスやクエンティン・タランティーノの影響をつよくうかがわせる作風だが、ファッションやデザインは今見てもそれほど古びれておらず、とにかくアクションの数々を派手に決めているところに見映えがあって、たのしい。

 中学時代に青華のゼロサキとおそれられた主人公と、その連れのムラサキは、高校入学早々、悪ぶった新入生たちの繰り広げる抗争に、しごく当然のごとく巻き込まれ、さらには、そうした騒ぎをよく思わない上級生たちにも目をつけられてしまい、次々に敵を増やしていくのであった。要するに、筋書き自体は、この手のジャンルにおいてセオリーともいえるものだ。それを先述したとおり、ポップなセンを狙った演出によって、独特なテンションで疾走する快感の溢れた内容にまで持っていっている。絵柄はあえていうなら90年代時の日本橋ヨヲコや長田悠幸に近しいか。作中人物の会話が、関西弁のユーモラスさで成り立っているのも、効果的なんだろう。

 作者のTAIRAは京都出身で74年生まれである。この世代の、ちょうど同じ時期に『ヤングマガジン』の周辺から出てきた人びとが、現在のヤンキー・マンガのシーンを中心で支えている。だが、『ZEROSAKI』に等しいポップ性を描いている者は、ほとんど見つけられない。
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2008年10月29日
 マンガ家による映画評というのは、決して珍しい企画ではないけれど、それに何かしらかのイラストが付せられていたり、あるいは作品の魅力自体がマンガ形式で綴られているものが多いなかにあって、やまだないとの『ハルヒマヒネマ』は、活字だけでできている。とはいえ、作品に対する評価が、読めば頭の痛くなるような、小難しい文章によって述べられているのではなく、ひじょうにシンプルに、好き、と、嫌い、にわかれていく直感が、気分のおもむくままに書き留められている。わりと辛辣な意見もある。つまり、この〈メモに書いてあるのは感想で、批評とか評論ではないつもり。それから自分用の備忘録であるので、映画のあらすじなんかは書いてない〉のであって、〈ハルヒにとって、覚えていたいのはストーリーよりも、映画を見終わったあとの気分なのだ〉ということである。その結果、ガイドとして役立つというよりも、まるで一個の、楽しく、そしてときに寂しくもあるフィクションみたいな印象を帯びる。じっさい、これを書いている、もしくは語り手となっているのは、ヤマラハルヒと名乗る〈職業あまりファンのいない漫画家〉であり、彼女が〈この備忘録を読む人は、レンタルショップの棚の前に立って(略)ぼけーっとしてたら、となりのおばさんがいきなり(略)トメドナクおしゃべりを始めたと思うといい〉といっているので、そのつもりになっていると、いつの間にか、映画への関心よりも、そちらのお喋りのほうに引き込まれてしまっている。たとえば、『アバウト・シュミット』について、どういう映画なのか、説明はないかわり、〈世界にひとりくらい自分を思ってくれている人がいるのかって、老後ハルヒも考えるだろう。/ 考えてみて、いないことに気づくだろう。/ とりあえず、自分は誰かのことを思っていよう。/ 誰かが、老後同じように、自分のことを思ってくれる人がいるのかと考えて、そのとき、ハルヒが思っていれたらいいなと思う〉と、こういうふうに書かれているあたり、何かエモーショナルなニュアンスが、他愛もない言葉のうちに、すくなくとも含まれていると信じられるのが、いい。また、『メゾン・ド・ヒミコ』に関し、同じ監督の『ジョゼと虎と魚たち』は好きとしながら、〈この映画を見る限り、この人たちは何がそんなに悲しくて寂しいのかがハルヒには伝わらなかった〉のは、ラストのくだりを観、〈ああ、みんな、楽しく暮らしていくんだ。なんの問題もない(最大の悲しい問題は、他人に押しつけてしまったし!!)。幸せそうでよかった。/ なんなんだ? なんなんだ? この映画の冷たさは……〉と思ってしまったからで、そうした自分の感情から作品を〈少女の夢の国として描かれていればこの映画を嫌いにならずにすんだように思う。夢の国なんてないんだよ。おじさんがリアルを教えてあげよう。大きなお世話だ〉と、言葉のありようからすれば意外なほどに冷静な分析で、切り取っていく個所も、いい。やまだないと自身のマンガの映画化である『L’amant ラマン』には〈映画版と原作の漫画版でどっちが好きかといえば、ハルヒは、もちろん自分の描いた原作の漫画のほうが好きである〉、なぜならばそれは〈漫画の映画化は、必ずしも、その原作が伝えたことを伝えてくれるわけではないし、その義務もない〉からだと率直に対応し、縁のあるよしもとよしとものマンガが原作の映画には〈仮にこの監督が、『青い車』だか、ヨシモトヨシトモが好きで好きでしょうがなかったとしても、必ずしも両想いになれないのは、恋愛の常〉と述べている。『時計じかけのオレンジ』のファッションを〈ああいう帽子や、一見「は?」な取り合わせを、若い人はすごくさりげなく上手にやっていて、素敵だなあと憧れたり尊敬したり、ムカツいたりするが、おしゃれって、だんだんヤンキー層に降りていくものだから、ヤンキー層のさらにアホの部類、日本の悪い子供たちで、この格好をまねた集団が出てきたら嫌だなあと思った〉というのも、そりゃあたしかにそうだ、の一般論でもあるのだが、こうして言われてみると慧眼にも思われてくる部分がある。あともう一つ、『ガソリンゼロ』のところ、〈この映画の主人公が、高校生だったらよかった。というのは、まさにハルヒが、そういうデビュー作系の漫画や映画が好きだからだ。/ とくに、高校生男子がうおーっとヤミクモに疾走してくれれば、内容なんかどうでもよい〉のは〈何もすることがない、どこに行きたいかもわからないっていうのは、主人公が高校生ってだけで、誰の胸にも、なんとなく、伝わってくる、疑似体験できるという魔法の記号だ〉からで、しかし〈『ガソリンゼロ』の主人公は26歳だ。/ 26の男が、居酒屋で、「いやぁ、オレ、モラトリアムの真っただ中なんスよねー」とかいいやがったらトルチショックだ! おまえ払っとけ! と、飲み代置かずにハルヒは帰るだろう。/ 26歳のモラトリアムは、青空に煙じゃ描けないと思う〉これにも、うんうん、と頷かされる。それにしても、話はまったく変わるのだけれど、ヤマラハルヒはナカイマサヒロの(ルックスの?)ファンなのか。

 『ソラミミ』について→こちら
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2008年10月28日
 せつないストーリー・テリングを求めず、コメディ作家としてのアルコの資質を考えるとき、問題となってくるのは、やはり、その、作品に課せられたページ数ということになるだろう。単純にいってしまえば、一個のエピソードに対し、与えられている紙幅が多すぎるのだ。これはもちろん、作者の能力を踏まえないで、あるいは踏まえたうえでなのか、それだけの量を与える編集者の責任でもあるのかもしれないが、すくなくとも、長尺における展開のしようがあまりよくない。一ページ内に収まる一コマ一コマが、構図が凝っているわけでも過剰な描き込みがなされているわけでもないのに、やたら大きく、かえってそれが、すかすかなお話を間延びさせると、マンガのテンポを悪くしてしまっている。先般テレビ・ドラマ化もされた『ヤスコとケンジ』の5巻は、そのタイミングに合わせ、『別冊マーガレット』誌上に四ヶ月に渡って発表されたスペシャル編、いわばエクストラ・トラックの位置づけにあたり、おそらく、あらかじめ単行本1冊分の内容になるように決められていたのではないか、と思われる内容だが、しかしこれだけのヴォリュームを使っているにもかかわらず、読まれるべき点があまりにもすくないことに、驚かされる。康子は、二人が付き合いはじめたことをちゃんと報告すべきだ、と純に言われるものの、じっさい知られたら何をされるかわからないので、兄の健児には黙ったまま、できれば秘密にしておきたい。そうしたある日、まだよちよち歩きの赤ん坊が一人でいるのを見つけ、保護したことから、謎の組織に狙われ、香港で大暴れの冒険に巻き込まれるのであった。荒唐無稽な展開は、まあフィクションだしコメディだからね、の一言で済ませることができるのだけれど、そのフィクションでありコメディである部分自体が、先述したとおりの理由によって、はげしく魅力に乏しい。せいぜい半分のページ数であったなら、だいぶ印象も違っただろうと感じられるのは、出だしとオチの二点に関しては、たいへんおもしろおかしく、楽しいからである。出だしは、ちょうど古典的な少女マンガのパロディみたいになっており、オチは、ちょうど古典的な少年マンガのパロディ(というか少年マンガにおける劇画のパロディのパロディ)みたいになっている。たしかに、このへんのセンスにはコメディ作家としての立派な資質がうかがえもする。だがこれほどに長いワン・エピソードを、持ち前のセンスのみでやっつけてしまおうとするのは、さすがに厳しい。

 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他アルコに関する文章
 『超立!! 桃の木高校』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら 
 『Loveletter from…』について→こちら
 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
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2008年10月27日
 JACKALS 7 (ヤングガンガンコミックス)
 
 この『JACKALS(ジャッカル)』(原作・村田真哉:作画・金炳進)というマンガには、できれば運命や陰謀に関係なく、そう、すごく単純な理屈により正義が悪を裁くかのように気紛れもなしで、血に飢えた者同士が戦い、争い、奪い、殺し合うスペクタクルを期待していたのであったが、残念ながらといおうか、やはりといおうか、複数に並列する因果と組織単位の思惑が登場人物たちの生き死にを左右し、結果、彼らの機動性によって生じていたスリルとスピードとが減退していったと感じられる。もちろん、物語を物語らしく駆動させるためには、一定の思考や苦悩が必要ではあるのだろう。ただ、そちらに割かれるプロセスがやや大きくなりすぎてしまい、ちょうど戦闘意欲に動機付けが重石のごとく課せられてしまったので、大胆なバトルにおけるパフォーマンスの効果が低まってしまったかな、という印象を持つ。まあ、そのへんは、好みの問題、になるのかもしれないし、おい、おまえさんはたんに切った貼ったが読みたかったのかい、と問われれば、そのとおりわかりやすいチャンバラが読みたかったのだよ、と答えるしかないのだけれども、たとえば人が戦うには何かしらかの理由が必要だとして、おおよその登場人物が相応の理由をべつべつに有しているとき、いくらそれを掘り下げていったところで、和解がありえなければ、各々が各々の理由を賭けて戦ってみせるよりほかない。つまり、こうしたフォーマットに則っている以上、どうしてもメインはバトルになってしまうわけである。じっさい、この完結編にあたる7巻で迎えられているラストは、たとえそれが空しさに似ていたとしても、対話や議論を通じてではなく、あくまでも戦いの果てに見出されているものであり、しかしそのなかにあって、登場人物たちの戦う姿だけが十分に描かれていない。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2008年10月26日
 The An Albatross Family Album

 00年代の現在に突然発狂したCAPTAIN BEYONDか、あるいはTHE LOCUSTによる70年代ハード・ロックの再現か、いやいや、さらにはファンキーでもありジャジーでもありプログレッシヴでもあるそのサウンドは、であるがゆえに混沌とし、しかし、かのような混沌にイニシアティブをとられてたまるもんか、とでも言いたげなアジテーションに溢れて、たいへん我が儘な興奮を打ち鳴らす。米ペンシルヴァニア州フィラデルフィア出身のアヴァンコア・アクト、AN ALBATROSSのニュー・アルバム『THE AN ALBATROSS FAMILY ALBUM』は、06年の前作『BLESSPHEMY (Of The Peace Beast Feastgiver And The Bear Warp Kumite)』の路線を受け継ぎながら、一曲一曲の整合性にあたる箇所を、ぐっ、と高めており、たとえばちょっとしたフレーズや、楽器間のアンサンブルによって練り上げられたダイナミズムなどから、このバンドの硬い部分が、ぐぐっ、と前面に出てきたことをうかがわせもする。エレクトリックなノイズのなか、サキソフォンやハモンド・オルガンの挿入が見事に決まり、じつにエキサイティングなのも、基盤のしっかりと固まっているためである。そうして、掴みどころがわかりやすくなったぶん、とても聴きやすくなった。が、もちろん、短いスパンで急展開する構成のせわしないあり方や、ぎゃんぎゃん叫ぶヴォーカルのスタイルからは、依然、アンチ・マナーの勢いが導き出されている。この作品からバンドは、所属先を、THURSDAYと馴染み深く、MY CHEMICAL ROMANCEを輩出したことで知られるEYEBALL RECORDSに移しているけれど、現在のレーベルを代表するTHE NUMBER TWELVE LOOKS LIKE YOUやKISS KISSといったカオティック勢と比べてみたところで、個性、クオリティともに、抜群のものを発揮しているし、あらゆる傾向のこれだけ出揃ったシーン全体から捉まえてみても、非凡なほどにラディカルな魅力を備えている。後半の流れが、すさまじく、かっこうよい。とくにラストの手前、8曲目の「THE ELECTRIC PROLETARIAT RIDES A VELVET CHARIOT」が、最高潮に燃えるだろ。高速域で攪拌される旋律の歪み、スクリーム、スクリーム、演奏の盛り上がりはやがて、スペーシーなトラッキンのジャムを大々的に繰り広げはじめる。怒濤の喩えの相応しいぐらい、激しい、やかましい。

 『BLESSPHEMY』について→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2008年10月25日
 青春パンチ 上 (1) (マーガレットコミックス)

 しばし人は、ルックスではなく、内面で、自分を認めて欲しいと願う。しかし内面の評価など、いったい何によってくだされれば、そうだと信じられるのか。わかりやすい例を挙げるとすれば、友情であり、恋愛であり、ということになるだろう。容姿でのみ、自分の存在を、これこれこういう人間だと見なされてしまうことは、どれだけ懇意であっても、文字どおり、上辺のものにすぎないのではないか、とのような疑いをもたらす可能性を孕む。あるいは逆に、容姿がよくなく、そのせいで自分には魅力が損なわれていると感じられる人間を、励まし、前向きに回復させることができるのも、恋愛であり、友情であり、ということになるだろう。そしてそれは、椎名軽穂の『君に届け』や、河原和音の『高校デビュー』等々、今日、売れ線であるような少女向けのマンガに、共通し、備わり、表現されているものの一つだといえる。としたとき、やはり『別冊マーガレット』誌の作品である、小藤まつの『青春パンチ』にも、この上巻を読むかぎり、同種の傾向に基づく内容が描かれていることがわかる。ヒロインの神大寺サキは、目つきが悪く、愛想もなく、じっさいに元ヤンキーの兄がいるため、同級生たちからはおそれられるばかり、そんな中学時代を送ってしまったことがつらく、他の女の子みたいな青春を求め、心機一転、遠方の高校へと進む。ようやく友人もでき、戸呂という同じクラスのイケメンさんに一目惚れし、彼とも親しくなりつつあったのだけれど、どうしてか、どこからか、隠していたはずの過去が噂で広まってしまう。こうしたストーリーにおいて、重要なのは、じつは戸呂が、かつてサキがヤンキイッシュなイメージで見られていた事実を知っており、にもかかわらず彼女にやさしく接していた、という点である。なぜ戸呂はサキの内面を誤解することがなかったのか、これが一種の伏線となり、二人の恋の行方を色めかせながら、下巻へと物語を引っ張っていっている。また、仲良くしていたクラスメイトたちが、噂に攪乱されたからといって、手の平を返すのではなく、むしろそれが、以前にも増して深く付き合っていくきっかけになっていることも、たんなるグラデーションにとどまらない。一連の出来事は、サキに〈思い描いていたフツーの高校生活とはちょっと違うけど〉と思わせる展開をもたらすのだが、しかし反面、自然体でいられ、それでも他人から嫌われない居場所のあることが、彼女に成長と微笑みとを獲得させている。

 『3番目の彼氏』について→こちら
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2008年10月24日
 パンドラ Vol.2 SIDE-A(2008AUTUMN) (2)

 『パンドラ Vol.2 SIDE-A』掲載。『蹴語(シュウガタリ)』なる題名は、ともすれば大河ノベルとしてリリースされた仮想の時代劇『刀語』の外伝的なものを思わせる題名であるけれど、違った。そうではなくて、現代を舞台にした青春小説の趣であり、たぶん西尾維新にとってはじめてのスポーツもの(だよね)になっており、セパタクローという、わりとマイナーな競技を扱っている、とはいえ、基本的には、ルックスはともかく頭の中身に問題があるヒロインのもたらすトラブルに、坊っちゃんくさい初々しい自意識を抱えた少年が巻き込まれていく、式のライトノベルふうのシチュエーションや語り口でこしらえられた物語であって、たとえば谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』や田中ロミオの『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜』などと並べてみれば、自らの凡庸さを知ってしまったがゆえの諦念をいかにしてクリアーしてゆくか、という点において、共通するものを見つけられ、それなりに興味深いところがあるのでは、と、すくなくとも前編である「SIDE-A」のパートを読んで、思う。中学時代に、テコンドーで鳴らし、〈言うなれば主役だった。言うなれば花形だった。言うなれば一流だった。言うなれば――オレ様だった〉と信じて疑わず、我が儘を通してきた鵠沼裃(くげぬまかみしも)は、しかし同世代のキックボクサー葉原と組み手をし、圧倒的な敗北を味わい、まさしく〈オレの人生のメインテーマはテコンドーじゃなかったのだ。これから続く、エリートではない負け犬人生こそが、オレの人生の本番だったのだ〉と、挫ける。それ以来、〈自分が挫折したエリートであることは、一生隠し通すつもりでいた〉し、じっさい自分の過去を知る人間の誰もいない、遠方の高校に入学するのであったが、クラスメイトの相模笑顔に格闘技経験者であることを見抜かれ、なぜか彼女が設立しようとするサパタクロー部に誘われるのであった。この作者の新境地たるスポーツもの、ましてや部活動もの、とはいっても、まあ、読んだみたなら、いつもどおり西尾維新の作品でしかないような雰囲気の内容ではある。あるいはだからこそ、そうしたフォーマットの、そして今後の展開のなかで、挫折の乗り越えられていく様子をどう導いてくるのか、この点に関し、はっとさせられるだけの一手が繰り出されることを望みたい。

・その他西尾維新に関する文章
 「零崎人識の人間関係 匂宮出夢との関係」について→こちら
 『零崎曲識の人間人間』単行本について→こちら
 「零崎曲識の人間人間3 [クラッシュクラシックの面会]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら
 『真庭語 初代真庭蝙蝠』について→こちら
 『君と僕が壊した世界』について→こちら
 『傷物語 こよみヴァンプ』について→こちら
 「そっくり」について→こちら
 『刀語 第十二話 炎刀・銃』について→こちら
 『刀語 第十一話 毒刀・鍍』について→こちら
 『刀語 第十話 誠刀・銓』について→こちら
 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 『不気味で素朴な囲われた世界』について→こちら
 『きみとぼくの壊れた世界』ハードカバー版について→こちら
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2008年10月23日
 ゼロセン 1 (1) (少年マガジンコミックス)

 硬派といい、軟派という。しかし今や、こうした二項対立の図式に、どれだけの意味があるだろう。すでに硬派の有効性は疑わしいものになっており、それに比例し、わざわざ軟派のレッテルを貼ってみせるのも詮なきことになっている。というのは、過去にも何度か書いてきたことであるけれども、まあ、日本男児であるとか大和魂であるとか、望みもしない生き方を強要することのない社会は十分にアリ、ではあるものの、明確な指向性を持たない自堕落なマッチョイズムが、逃れようもなく強化されてきてしまっている感覚をときおり受けるのは、おそらく、この国のアメリカナイズが中途半端になってしまっている現実と不可分であり、つまり、郊外的だとかヤンキー的だとか呼ばれるそれとパラレルな傾向でもあると考えられる。

 不良少年の青春を扱った『今日から俺は!!』で知られる西森博之は、『甘く危険なナンパ刑事』の頃より、一貫して硬派の存在を扱ってきたといえるマンガ家だが、その西森が『天使な小生意気』でジェンダーの領域に踏み込んだのち、『道士郎でござる』では、侍や武士の、要するに近代以前の男子精神に傾倒する主人公を現代に持ってき、その復興やリバイバルというのではなく、現代社会に対するカウンターとしてあててみせ、続く『お茶にごす。』においては、茶道をテーマに、性差の垣根を意識しつつ、同質の、さらに進んだ表現を果たそうとしているのは、じつに印象的である。

 ところで本題は、やはり、90年代に『カメレオン』というヤンキー・マンガで鳴らした加瀬あつしが、現在取り組んでいる『ゼロセン』の1巻になるわけだけれど、このマンガにも、ある意味、硬派の原石をカウンター式に採用することで、今日における自堕落なマッチョイズムの潮流をチェックしようとしているところがある。六十五年ものあいだ、氷漬けにされていた海軍航空隊のエース旭が、歳をとらぬまま現代に蘇り、この国のたいへん様変わりした光景を憂い、最悪の不良中学校の教師として、札付きの悪童たちと対決する、というのが、だいたいのストーリーだが、六十五年前、旭が軍人として生きていた戦中というのは、当然、戦後よりも戦前に近しい価値観の時代だろう。それが法度として士道として、彼の受け持った私立松本学園中学のZ組に持ち込まれる。教壇に立った旭は、反抗的な生徒たちに向かい、〈士道とはサムライの道 言ってみりゃ 男の道だ! 男としてのヒキョーな振るまいをZ組では一切禁ずる!!〉と言うのだった。

 第二次世界大戦時の日本人という、シリアスに考えれば、ちょっと厄介な問題を孕む主人公ではあるけれども、下ネタもふんだんに、メジャーなサブ・カルチャーを適当にパロディ化することのできる、この作者ならではのセンスによって、ひとまず、エンターテイメントのおかしさにあふれた、教師びんびん物語の幕を開けている。
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2008年10月21日
 境遇のせいで無感動になってしまった少年が、遺品整理業に携わり、多くの人間の生きた証しと向き合ううち、感情を回復、成長していく姿を描いた富田由紀子の『Re:Life―リライフ―』は、この3巻でエンディングになっている。一個一個のアイディアは決して目新しくはないものの、一話一話に込められたドラマからは、けっこう、ぐっ、とくるものがあった。それというのはおそらく、主人公の爽に課せられた特殊な能力がどうというより、喪われた者と残された者との絆がいかに感動的であるかというよりも、爽を取り巻く人びと、とくに遺品整理会社である「リライフ」の仲間たちが、みな、善良的な性格であってこそ、だったかなと思う。じっさい、ラストのエピソードでは、彼らの呼びかけによって、爽は、自分の人生がリセットし、リスタートする機会の得られたことを実感し、たくましい笑顔を寄越すわけである。爽を取り巻く人々の彼を見るそれは、まだ未熟な子供をやさしく見守る大人の視線と、言い換えてもいい。幼い頃、母親に捨てられ、父親に虐待された少年が、ある意味で、家族に代わる共同体のなかに置かれ、それに対する信頼を取り戻す過程が、全体の輪郭を形づくっているのであって、遺品整理業の仕事がもたらすいくつかの経験は、むしろ、その補助線にあたる。まあ、サイコメトラー的な設定に関しては、本来ならば死者とはコンタクトのとれない生者の悶々をフォローし、きれいにまとめるための辻褄合わせ、程度の機能しかなく、あまりうまく扱えていなかった気もする。たとえば、ここに収められている「家族の肖像」というエピソード、これは爽と彼の実の母親との再会と別れを捉まえたものであるが、その部分はともかく、細かいところになるけれども、爽の特殊能力により知りえた死者の本心を、どうやって遺族に伝えたのかについては、やや疑問を残す。すでに述べてきたとおり、作品の印象を悪くするほどではないにしろ。

 1巻について→こちら
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2008年10月20日
 力押しともとれる展開によって、あらかたの事象が収束するラストは、じつにこの作者らしい、と思うし、人類の希望と未来とが、まさしく、後発の世代に託されることで、一種の救いとなっていく様子からも、同じことが思われる。藤澤勇希の『レギオン』の、完結にあたる3巻である。日本を襲った超異常現象は、ネズミの大量発生にとどまらず、小動物全般に及び、獰猛な蟻の大群が地上を黒々と覆い尽くすとき、ついに人びとは逃げ場を失う。たとえそれが神の裁きであれ、運命を受け入れられないにせよ、滅びの瞬間はすぐそこにまで迫っていた。ようやく合流した戸隠親子は、その奇跡も喜びも束の間、さらなる災害に見舞われる。華音と龍斗の姉弟を、ずっと庇ってきた教師の鬼崎と早瀬陸曹が、とても尊敬できるよね。鬼崎に関しては、序盤、あんがい裏がありそうだな、という気もしたのだが、純粋に良い人であった。彼と早瀬陸曹のとった選択は、『BM〜ネクタール〜』の終盤における主人公たちの行動に近しく感じられる。守るべきものを守ることが、ただ一つできる使命であるならば、自分の身を挺するのも厭わない。『BM〜ネクタール〜』にとって守るべきものとは、これから生まれてくる人間すべてに対象が広げられていたけれど、『レギオン』では、今この場を生きている子供たちの命となっている。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他藤澤勇希に関する文章
 『メトロ・サヴァイブ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『エレル』全2巻について→こちら
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 サムライソルジャー 2 (2) (ヤングジャンプコミックス)

 おい、そこのあんた、踊るのは勝手なんだが、他の人間の邪魔になるから、もっとハジっこのほうでやってくんねえかな。せっかく楽しんでいるとき、こう言われちゃうほど寂しいこともないよね。モラトリアムを祭りとして描くこと、しかしその、ハレの場は無条件に生じ、与えられるものではなく、そしてまた、賑々しさの渦中で、余計な疎外感を覚えてしまえば、すべての魔法は解けてしまう。もちろんのとおり、永遠に続く祭りなど、どこにも、存在しない。2巻に入り、たぶん週刊連載のペースを掴みはじめ、この作者、山本隆一郎らしさが、よくよく出てきたな、と思われる『サムライソルジャー』だけれど、それというのはつまり、かつて『GOLD』のなかに描かれたテーマを、ある意味で、受け継ぎ、ある意味で、深めようとしているかのような印象を受けるためである。

 たとえば、作中人物の一人で、武闘派集団の「マーダーコープ」を率いる吉田が、〈華のねー不良(ガキ)が輝くにはよ ヒーローから無理やりライト奪うしかねーンだわ〉と述べる台詞は、なにか、象徴的なニュアンスを含んでいる。おそらく、彼にそう言わせているのは、主役には程遠いバッド・ルッキンな顔つきに対するコンプレックスであり、主役を引きずり落とそうと頼れるだけの腕力が自分にはあるとの信頼だろう。だが、その二つは所詮、主役になりたい誰しもが主役になれるわけではない、という諦念上における同質の強ばりでしかない。これは言うまでもなく、『GOLD』の、前半で、主人公を盛り立てていこうとする不良少年たちの、そして後半で、主人公の兄を裏切っていくギャングたちの、その闘争のうちにあらわされていた心情の、変奏にあたる。

 さらにいうなら、『サムライソルジャー』というマンガにあって、本来ならば主人公に位置する藤村新太郎が、なかなか本筋に絡んでこず、むしろワキの場所に置かれ続けているのは、すでにモラトリアムの外へと出てしまった人間だからであって、ふたたび彼を祭りの内部に引き戻そうとする力が、言い換えるなら、主役に相応しい人間を欲するがゆえの必然が、さまざまな局面で働き、全体的な物語がつくられているわけだけれども、そんな新太郎に向かい、「ナダレ」の元ナンバー2であり、敗北と挫折を知った市川が〈あんた…ちょっと人間が出来すぎてやしねーか そのうえバカみてーに強いときてる ずりーよ…あんたみてーな人間には自然と仲間が集まるんだろーな〉と述べているのも、やがて彼が「ZERO」に対抗すべく、「渋谷連合」を立ち上げようとし、〈『渋谷連合』は『ZERO』を倒すまでの祭りだと思ってくれりゃいい ただ…その御輿には俺を乗せてくれ 『ZERO』に『ナダレ』とられて 俺の居場所はなくなったんだ…あと戻りできねーぶん ド派手な花火あげてみせるからよ!! 終わったらそんな御輿うっちゃってくれてかまわねーから!!〉と刹那に生きることを選ぶのを考えると、じつに皮肉的な運命を暗示している。

 こうして、渋谷を舞台にした抗争は、新太郎の親友であった桐生と「ZERO」とを中心に激化していくわけだが、はたして桐生の狙いは何なのか。彼は自分に従う人間を集め、次のように言う。〈命令とか男とか…オメーらいつまでダセーことコイてんのよ 嫌なら渋谷から出てきゃいーじゃねーか でも渋谷で遊んでたいから わけわかんねー理由つけやがる 今 ここに49人いる そんで49人とも1年後は何してんの? 不良(ガキ)やめて肉体労働(ゲンバ)か? それともヤクザごっこやってのたれ死ぬの? スカウト・AVなんかの企業舎弟でもやる? みんな俺についてこい…そうすりゃ ずっと渋谷の不良のままでいさせてやるからよ〉と、まさしく宣誓する。これはもしかすると、『サムライソルジャー』に、アウトサイダーが描かれ、モラトリアムが描かれていることの意義を代弁しているのではないか、あるいは、モラトリアムの戯れを扱う、たいていのフィクションに対する挑戦のようにも思われてくる。

 子供のままでいたい、子供のままじゃいられない、そうしたジレンマの仮託されたフィクションは、しばし現実を、もっと強調すれば、社会を遠巻きに眺める視線でしかなくなってしまう。『サムライソルジャー』においての渋谷は、ほとんど匿名的な、もしくは郊外化されつつある都会の総称でしかない。しかし完全に郊外の匿名性に埋没しているわけではない、ぎりぎりのラインにより、かろうじて渋谷という固有名が与えられているにすぎない。そして、そのようなぎりぎりのラインは、モラトリアムの最中とモラトリアムの終焉との分水嶺をも、代替している。だからこそ、そこで遊ぶ不良(ガキ)たちは、桐生が言うとおり〈嫌なら渋谷から出てきゃいーじゃねーか でも渋谷で遊んでたいから わけわかんねー理由つけやがる〉のだし、〈1年後は何してんの? 不良やめて肉体労働か? それともヤクザごっこやってのたれ死ぬの? スカウト・AVなんかの企業舎弟でもやる?〉という問いかけに、心動かされる。モラトリアムの喧噪だけが、自らが匿名的な存在であり郊外的な存在であること、すなわち、ありふれたワン・オブ・ゼム以上になれないことを忘れさせてくれているのだ、と自覚する。

 桐生の言葉に刺激された一人が〈俺…みんなで遊んでる時はいいんすけど 1人になると この先どうなんだろうって ガラにもなく考えちゃって…かといって マジメに働いている自分も想像できねーし……ホント今のまま時間止まんねーかなーなんて思ってて〉と述べているが、ここには、モラトリアムとその後の世界は地続きであり、両者のまったく切断できないことが、不安となってあらわれている。そうした認識下において、〈みんな俺についてこい…そうすりゃ ずっと渋谷の不良のままでいさせてやるからよ〉という断言が喚起するイメージは、現実社会に打撃を与えるテロリズムが、ときおりそうであるのと等しく、ある種の魅力を持っているに違いない。

 ところで、かのように桐生の言動を、テロリズムと仮定するのであれば、やはり、それを食い止めるのが、新太郎に課せられた使命ということになるだろう。

 新太郎や桐生とともに「ZERO」のキー・パーソンでありながら、今は亡くなってしまっている雫の姿が、ここにきて、ようやく描かれる。不良というのでは決してなく、むしろ文系少年のステレオ・タイプであったのは少々意外だが、彼の抱いていた夢も、やはり、渋谷という街の固有性と深く関わっている。雫にとって〈……渋谷は 世界中の音楽好きに愛されている街!〉なのであって、〈ここでレコード屋をやるのが俺の夢!!!〉だったのだ。この、他のどこでもなく渋谷でなければならない、という主張は、もちろん、郊外で匿名的に生きなければならない思想と、相反するものにほかならない。それが、理由は異なれども街への愛情という一点で新太郎と桐生に通じ、雫を旧「ZERO」に参加させることになるのである。こうした、いっけん自分たちと価値観の違うふうでありながら、本質的には何ら変わらない雫との出会いが、のちの新太郎に〈……あの時 俺らはサイコーの仲間を手に入れたんだよな……桐生〉との感慨を抱かせ、現在の「ZERO」が実現しようとしていることは暴力によるモラトリアムの一元化であり、当時の三者の思い描いた理想から逸脱していってはいないか、との疑いを持つに至らせている。

 1巻について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
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2008年10月18日
 真島ヒロに先立ち、ヤンキー・マンガを描かない(描けない)ヤンキー・マンガ家としての路線を確立したのは安西信行であるが、真島が田中宏からの影響がつよいのに対し、安西の場合、吉田聡からのそれが顕著であるのは、世代の差であろうか。いずれにせよ、完全ファンタジー指向の前作『MAR』では、あまり発揮されることのなかった(初期)吉田聡的なイディオムを、ひさびさに、ふんだんに用い、描かれているのが、野坂恒との共作『MIXIM☆11(ミクシム・イレブン)』であって、二人の役割分担がどうなっているのかは知らないけれども、やはり、こういう賑やかな学園ものは、安西の持ち味であると思うし、読んでいて、無邪気にたのしい。ケンカ上等を地でいく祭壱松と、オタクでゲーマーでメタラーの参宮橋竹蔵、そして頭脳は明晰だがチャイルディッシュな春野小梅の三人は、まったく女の子から好かれず、すこし寂しい高校生活を送っている。しかしどうして彼らはこうももてないのか。じつは異星人であり、北極星の王位継承者であり、選ばれた12人の妃候補としか、恋愛ができないよう魔法をかけられているためであった。とはいえ、三人のうち、真の王位継承者は一人のみで、残りの二人は、たまたま運悪く、もてなかったにすぎないのだが、もちろん、現段階では誰が真の王位継承者なのかは、明かされてはいない。こうした条件のなか、壱松と竹蔵と小梅は、まあ適度に運命を受け入れながら、あかるい青春を目指し、奮闘していく。と、最初に(初期)吉田聡的なイディオムと述べたけれど、それはつまり旧き良き時代のラヴ・コメディの要素を、わずかならず含むものでもある。別世界から異者(エイリアン)がやって来てくることによって、物語の幕が開くなど、じつに正統的で伝統的かつ古典的な手法だろう。むしろ、期限付きのモラトリアム下において、繰り広げられるどたばた、主人公の少年たちの積極性と能動性や、それに基づくテンポの良さに、(初期)吉田聡を意識させるニュアンスがある。言い換えるならば、男の子をどうしようもなく男の子らしく、かっこうよく描きたい欲望が垣間見られる。連載で追っていると、いかんせん一話分のページ数がすくなく、物足りない部分もあるが、そのページ数のすくなさが逆に、バトル展開になりそうなあたりで、そうはなっていかない方向に作品を引き止めているのかな、と考えられたりもする、今のところ。
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2008年10月17日
 もちろん、対象にされているのだろう読み手の年齢や性別が異なる以上、組まれているイディオムも違ってくるわけだから、単純には比較できないのだけれども、バドミントン・マンガという圧倒的に作品数のすくないジャンルにおいては、咲香里の『スマッシュ!』(その前身である『やまとの羽根』も含め)が先行し、なかなかの成功を収めている今日、朝吹まりの『バドガール』が、どれだけ後ろから迫っていけるか、またはべつの道を切り拓いていけるか、というのは少々気になるところではある。全体的な濃さからすると、『スマッシュ!』よりも、やや薄口であり大味ではあるものの、弱気なヒロインが、競技との出会いを通じ、身も心も成長していくドラマとしては、隠された才能の開化や、一癖ありそうなワキの人物たちとの絡み、友情と恋愛とライヴァルの関係性、等々、基本的なセオリーを押さえに押さえ、まずまずの内容となっており、今後にこのまま調子をあげていくことを期待させられる。

 ところで、いきなり話は変わるのだが、この1巻には、本編とは関係のない読み切りで「百年人形」というマンガが収められていて、これが最近読んだもののなかでは、最大のヒットであった。正しく、驚きの、というに値する結末、そして慈しみにあふれたストーリーに、おんおん泣かされてしまう。まあ、アイディアとしてはSFやミステリのジャンルにおいては珍しくないものだろうし、もしかしたら下敷きとなっている既存作品があるのかもしれないけれど、それを今日における『りぼん』の主流的な作風に落とし込んだうえ、じつはその絵柄からくる作品のイメージ自体が巧妙に伏線化されているため、そうか、そういうことか、見事に騙されたし、泣いてばかりいた少女の成長を、こんなふうに描くこともできるのだと、予想を裏切られ、いや、驚かされた。
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2008年10月16日
 The Glass Passenger

 かつて、SOMETHING CORPORATEというバンドで、ピアノの軽快なポップ・ソング「PUNK ROCK PRINCESS」というナンバーで〈君が僕のパンク・ロック・プリンセスになってくれたら / 僕は君のガレージ・バンド・キングになってあげる(田村亜紀・訳)〉と歌い、ピアノの壮大なバラード「KONSTANTINE」というナンバーで〈僕には夢があった / ギターを弾けるようになって / この国中を旅して回り / ロック・スターになるんだって / そこへ君も一緒に連れて行けるかもって望みを抱いていた / けど残念ながら君はあまりにも若くて(略)僕は君のスターじゃない / 君はそう言わなかったっけ / この曲にはそういう意味が込められてると君は思ったって(田村亜紀・訳)〉と歌った青年が、このJACK'S MANNEQUIN(ジャックス・マネキン)のセカンド・アルバム『THE GLASS PASSENGER(グラス・パッセンジャー)』の10曲目「HAMMERS AND STRINGS(A LULLABY)」で、ピアノのセンチメンタルな響きにのせて〈「(略)いまだにこの古いパンク・ロック・クラブにいると / あなたの幻が見えるのよ / ねえ 私に一曲書いて / 何か信頼できるものをちょうだいよ(略)何か信じられるものをちょうだいよ / 呼吸のひと息でもいい / そのことを書いてちょうだい / 私は目を閉じたりしないと思う / だって最近夢も見てないから / だったら眠ることになんの意味があるの? 夜になると隠れるところもないって感じなのよ」 だったら君に子守歌を書こう(沼崎敦子・訳)〉と歌えば、たとえそれらが一連なりの物語でなくとも、そりゃさまにならあ、と思いながら、そのメロディがまっすぐに力強く、抗いきれず、ぐっときてしまう。

 上記の青年とは、言うまでもなく、アンドリュー・マクマホンのことだけれども、やはり、彼の書く旋律と、そして歌声からあふれ出すイメージの、スウィートネスとトワイライトには、どうしたって心動かされるものがあるな。ある意味ではコンセプト・アルバム的であった05年の『EVERYTHING IN TRANSIT』に比べ、一個一個の楽曲におけるスケールとドラマ性がアップした印象を受ける『THE GLASS PASSENGER』には、同時代的なポップ・パンクやポップ・エモのマナーよりも、COUNTING CROWSの『RECOVERING THE SATELLITES』(96年)や、JON BON JOVIの『DESTINATION ANYWHERE』(97年)、RED HOT CHILI PEPPERSの『CALIFORNICATION』(99年)などに通じるニュアンスを感じた。すなわち、ハード・ロックの夢が終わり、パンク・ロックの夢が終わり、ニュー・ウェイヴの夢が終わり、ヘヴィ・メタルの夢が終わり、グランジの夢が終わり、時代が変わり、その跡地に残されたメロディんの結晶が、どれだけパーソナルなテーマを追おうとも、いや、あるいはパーソナルなテーマを追ううち、あたかもそれが宿命的なミームであるかのごとく、アメリカの哀愁として再生し、メロウなエモーションのなか、しなやかに逞しく鳴り響く様子である。アップ・テンポなナンバーももちろんあるし、アンドリューの奏でるピアノが、いきおいよく跳ね、ときにはダイナミックなうねりを持ちえながらも、決してアグレッシヴに盛っていかないのは、内側にパセティックな揺らぎが抱えられているためだ。しかし、そのパセティックな揺らぎが、バンドの演奏にそいながら、振幅を増すことにより、わっと熱を帯びたカタルシスをもたらす。

 『EVERYTHING IN TRANSIT』について→こちら

 アーティストのオフィシャル・サイト→こちら
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2008年10月14日
 12月生まれの少年 1 (1) (バンブー・コミックス) (バンブー・コミックス)

 個人的な印象ではあるが、施川ユウキの登場が衝撃的であったのは、ああ、ついに『エヴァンゲリオン』世代のギャグ・マンガ家が出てきたな、と思わせるところが、つよかったためである。じっさい、作者がどれだけかのアニメーションに影響を受けているのかは知らないけれども、内面を覗き込む視線の角度、ときおり思索にふけるありように、すくなくとも90年代半ば以降ならでは、のものを感じられたのであった。このことは『がんばれ酢めし疑獄!!』の初期にこそ、如実にあらわれており、どこか根暗な面がシュールともとれるネタに対し、どうにかオチをつけるべく、まるでバカルディの三村みたいな、極度にカリカチュアライズされたツッコミを入れているのは、いま読むと微笑ましくもある。やがて、ラムニー君に代表されるような特徴的な登場人物(ラムニー君は人ではないが)をうまく生かす手法を、しばらく続いた『がんばれ酢めし疑獄!!』の連載において培い、『サナギさん』や『もずく、ウォーキング!』など、文字どおり、特徴的な登場人物(もずくは人ではないが)の名がタイトルになっている作品で、他の何ものでもない、決定的な存在感を確立するに至るわけだが、この『12月生まれの少年』は、どちらかというと、初期の頃の作風に近しい、つまり、特徴的な登場人物の造形よりも、内面を覗き込む視線の角度と、ときおり思索にふけるありようで勝負している印象を受ける。したがって、他の作品に比べると、一発でとっつき入っていけるフックの部分に、やや弱さを感じる向きもあるかもしれないけれど、ナイーヴなうつむいた感性に一ひねり加えることで、そこはかとないおかしさが生まれ、心に引っかかると残ってしまうことに、なるほど、施川ユウキだ、と思わされる。

 『もずく、ウォーキング!』1巻について→こちら
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 さんざん繰り返しているけれども、すべてのヤクザの夢はヤクザをやめることでなければならない、というのが立原あゆみのヤクザ・マンガ全般における重要なテーゼである。しかしながら、どうしてもヤクザになるよりほかない人間がいる。『本気(マジ)!』でいうなら、もちろん、本気がそうであるし、たとえば、次郎がそうだろう。『本気!サンダーナ』が、『本気!番外編』、『本気!II』と続く『本気!』シリーズの(今のところ)完結編だといえるのは、本気が、長いあいだ自分の片腕として仕え、どっぷりと極道の血に染まってきた次郎を、それでも堅気の世界に戻してやりたく、ついに破門とするからでもある。いくつかの危機にさいし、本気が窮地を脱しえてきたのは、彼自身のカリスマによるところも大きいが、次郎のサポートに助けられているケースも決してすくなくはない。単純に子分ということであれば、矢印や新二のほうが古い、だが次郎は特別だとの思いが、本気にも読み手にも、ある。

 文庫版5巻には、ヤクザであるがゆえに次郎は愛した女性とともに生きられない、その別れのエピソードが含まれている。次郎の恋人の名は、美雪という。そもそも本気と次郎が出会ったのは、美雪が本気に助けられたためであった。チンピラの次郎が、本気の兄貴分である赤目の組の金を持ち逃げし、恋人の美雪が下っ端ヤクザの手込めにされそうになったところを、本気が助けたのである。これがきっかけとなり、次郎は本気を慕い、後をついてくるようになる。そのくだりが描かれている文庫版3巻を読み返されたい。命を助けられ、互いに庇い合う次郎と美雪を見つめ、本気は〈このふたりはやり直せる…ふたりそろってどこでんいける うらやましかったです……〉といっている。〈このふたりはやり直せる〉という言葉には、もはや自分とは無縁になってしまった夢を、すなわちヤクザから足を洗うという夢を、美雪といっしょの次郎なら果たしてくれるだろう、との期待が込められている。その気持ちを知っているにもかかわず、次郎が『本気!サンダーナ』のラストまで、本気にもっとも近い人物として、極道を生きてしまったのは(おそらくその後も生きるのは)、彼もまた本気と同じく、ヤクザになるよりほかない人間だったから、なのかもしれない。

 本気に〈このふたりはやり直せる〉とまで信じさせた美雪との愛が、終わりを迎えなければならなかったのも、結局のところ、次郎が、ヤクザとしての生き方を、そして何よりもヤクザである本気の傍らで生きることを、選んだためである。なぜ次郎は美雪と別れねばならなかったのか。弱点のない本気の身代わりとして、次郎の恋人である美雪が、敵対する組織にさらわれてしまい、救出することはできたものの、もしも自分といっしょにいれば、同じ場面がこれから何度も起こりうる、どれだけ彼女が平気な顔をしていたとしても傷は残る、愛しているからこそ幸福にしてやれないのがつらい。そのため、次郎は、自分がヤクザをやめることのできないかわり、せめて美雪だけは、と身を引く、堅気の男性に彼女を託す。愛しているくせに恋人への想いではヤクザをやめられない、というのは、ある意味で、我が儘な、矛盾したロジックであろう。しかし、このような自己規定の矛盾には、社会のあらゆる面に汎用可能な、一定の普遍性がある。立原が、ヤクザの世界を用い、物語化しようとしているのは、ちょうど、そうした現象下で、ときに人を正しくもさせ、誤らせもするような、エモーションのありさまだといえる。

 次郎の美雪に対するそれと同様のジレンマを、じつは本気も抱えている。久美子へ向けた純情であるほどの想いが、そうだ。久美子をどれだけ求めながら、そして相思相愛の手応えを覚えながら、自分がヤクザであるため、堅気の、しかもまだ学生である彼女には、偶然以外の理由で、指一本触れられずにいる。いや、それ以上のことは願うのも禁じている。これに関しては以前にも述べたし、またべつの機会に述べるつもりなので、そちらに譲るが、とりあえず、この文庫版5巻において、ついに久美子の病が発症する。今ふうの言葉でいうなら、難病ものとでもとれる展開が、のちのち待ち構えているわけだが、そのとき、愛する人のためにヤクザをやめるかやめられないのか、といった問題が本気の前に立ち塞がってくる。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1・2巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『極道の食卓』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『仁義S』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『恋愛』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2008年10月13日
 Classical Fantasy Within 第四話 アルジャイヴ戦記 (講談社BOX)

 島田荘司の『Classical Fantasy Within 第四話 アル・ヴァジャイヴ戦記 決死の千騎行』は、あらかじめ予告が打たれていたとおり、前話までの舞台、第二次世界大戦中の日本から、中東(オリエント)へと、一気に飛ぶ。しかも、時代も違えば、登場する人びとも異なるような、剣と竜のファンタジックな世界に、である。こうした大胆な転回が、いったいどんな意味を持つのか、二つの物語が、どこでどう統合されるのか、あるいはされないのか。もちろん、この作者が過去に発表した小説を読んだことのある向きには、どちらかが、またはどちらともが、作中人物によって仮想された現実なのではないか、といった疑いを持つであろう。推理的にページをめくるであろう。が、そうした懐疑を差っ引いても『Classical Fantasy Within 第四話 アル・ヴァジャイヴ戦記 決死の千騎行』で繰り広げられる冒険は、たいへん魅惑的なものだと思う。

 かつて〈音楽と美の、世界最大の文化都市といわれた〉サラディーンの街は、度重なる天変地異のせいで、今や破滅の危機に瀕していた。多くの人びとが、地震、隕石、シラミの猛威、ペストの大流行で死に、そして残された人びとも、降り注ぐ雹と寒さのため、ゆっくりと死につつある。〈街は呪われた。天上の神によって、滅びを運命づけられたのだ。もう助かる道はないのだろう〉。どれだけの精鋭部隊も役に立たず、ただ終わりの時を待つしかないのだろう。だが、最強の王室守備隊に司祭から思いがけぬ使命がくだる。わずか五日間で、地上で最悪の土地アル・ヴァジャイヴを越え、イスラエルに降り立った月の女神アイラのもとに辿り着くこと、それだけがサラディーンを救い、再生させうる唯一の希望だというのである。蛮族や魔物が跋扈する彼の地を横断し、帰ってきた者はこれまで一人もいない。ましてや期限がつけられている。達成不可能にも感じられる使命は、勇敢な兵士たちさえもおののかせる。しかし、挑み失敗しようが、挑まなかろうが、訪れるのは破滅なのだ。これが神に与えられた最後のチャンスと懸けるほかない。かくして、主人公のマスードを含めた千の兵士たちが、馬を駆り、死線へと旅立つ。いきなり、小型竜に襲われ、壊滅の危機に見舞われるなど、前途多難ななか、クライマックスが連続するので、やたら盛り上がる。

 ロール・プレイング・ゲーム(RPG)を思わせる舞台設定において、特徴的なのは、兵士たちの冒険にいくつもの条件が課せられていることだろう。もちろん、五日間という期限もそうだし、それ以外にも装備や所持品、再生プログラムと呼ばれる過程に関し、兵士たちの行動には、かなりの制限が設けられている。そして、一つでも誤れば、サラディーンに救済はもたらされないのである。すべてが予言と伝説のとおり、規則性正しく、進まされなければならない。苛酷な旅路で生き残ることができるのは、たった一人の兵であり、これがつまり、ライヴァルとのサヴァイバルであるのも、同様の理由によっている。そこにはしかし、おそらく作者が荒唐無稽な物語のうちに用意しているのだろう、たしかな論理性と整合性が垣間見られる。さらには、その細かく定められた辻褄のどこか作り物めいている気配が、翻って「アル・ヴァジャイヴ戦記」というフィクションのフェイク性を高めており、『Classical Fantasy Within』全体に、なにか、とんでもないサプライズが仕掛けられていることを疑わせる。

 『Classical Fantasy Within 第三話 火を噴く龍』について→こちら 
 『Classical Fantasy Within 第二話 怪力光線砲』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第一話 ロケット戦闘機「秋水」』について→こちら
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2008年10月12日
 オトメゴコロ 2 (2) (講談社コミックスフレンド B)

 この2巻で完結を迎えた渡辺あゆの『オトメゴコロ』であるけれども、好きな男の子には、ずうっと片想いしている相手がいて、その女の子が自分よりよっぽど魅力的な存在であるとき、さあどうすればいい、という問題をいかにして描くのか、このような難しいところからはじめつつ、わりとあっさり、外見の良い女の子と気の合う女の子のどちらが男の子に選ばれるか、式の決着に切り替えてしまったのは、ちょっと逃げてしまったかな、と思えるものの、イケメンさんである淳をめぐり、ヒロインの寧々と相対する、いずみの鼻持ちならなさがじつにすばらしく、これがもてるってのが男女の不思議だよね、という気持ちで、たのしく最後まで読めた。それにしても、最近気になっているのは、この『オトメゴコロ』のいずみもやっているのだが、男の子の携帯電話をばれないよう勝手に使い、いちゃいちゃしているふうな声を、恋敵の位置にいる女の子に聞かせてダメージを与える、そのような嫌がらせを女性向けのフィクションにおいて、頻繁に見かけることである。これは着信履歴に記名性がある、と認識されているおかげで成り立つ巧妙な手口であり、しかも効果は抜群で、仕掛けは容易い。また汎用性が高く、そもそもの発明者がいったい誰なのかは知らないけれども、すさまじいアイディアだと思う。

 1巻について→こちら

 『キミがスキ』2巻について→こちら
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 彼はトモダチ 3 (3) (講談社コミックスフレンド B)

 未遂であったから良かったものの(いや良かったのか)、ユーマがやろうとしたことは立派な強姦なのだが、周囲の人間がそれを知り、当人たちに対して、まあ相思相愛の可能性があるなら仕方ないよね、というのでは、まずい。何も作中人物たちに倫理をつよく求め、そう述べているのではない。だいいち、まだカレン(佐々本)に未練を残すヒヨリが彼の名を呟くことによって、場面自体は十分な効果をあげている以上、自分が求められているわけでもないことに悩むユーマが、(酒を飲み、寝入り)ほとんど意識のないヒヨリの服を脱がし、コトに及ぼうとするのは、余計な描写でしかないだろう。これだったらむしろ、嫌がるヒヨリを無理やりユーマが犯そうとするほうが、欺瞞がないぐらいである。もちろん、掲載誌である『別冊フレンド』のカラーや編集者からの要請があってそうしているのかもしれないし、その、合意がなくとも無防備で無抵抗な女性とのセックス(性交)は強姦行為には入らない的な認識が今ふうのリアリティなのかもしれないけれど、やはり、表現のうえで瑕疵にあたる箇所だと思う。すくなくともユーマの株が下がっただけだわ。それにしても、と、いきなり話は変わるのだが、カレンのクラスメイトとして出てきたイケメンさんがいいね、こういうさばけた性格の男の子、すき。

 1巻について→こちら

 『99%カカオ』について→こちら
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