ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年09月30日
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 じつは『ヤングチャンピオン漢(オトコ)』Vol.1に掲載されている作品のなかでは、この吉沢潤一の『ボーイミーツガール』を、いちばんおもしろく読んだ。たぶん、ギャグ・マンガに分類される。くわしく検証したわけではないので、いや誰か、熱心な研究者か余程の暇人に調査してもらいたいところなのだけれども、おそらく今日というのは、「漢(おとこ)」なる言い回しが、この国の歴史においてもっともポピュラーになった時代だ、と思われる。「男」ではなくて、わざわざ「漢」と表記し直される行為は、ネタであれ、マジであれ、さまざまな方面で見かけることができる。しかしながら翻ってそれは、「漢」という語に託されているはずの価値がさがっているからなのではないか。「漢」とは何か、こうした問いや思想をすっ飛ばしたところで使われている、使うことに抵抗がなくなっているがゆえに、ある種の気軽さを持つにいたっている。もちろん、そこで起こっている意味の空無化を指し、アイロニーなどといってみせることも可能には違いない。だが、アイロニーというほど立派なもんか、というのが、たいていである。そうした状況下において、『ボーイミーツガール』は、本来なら「漢」と表されても良さそうな威厳を、あえて不様に、見事なギャグへと転がしているので、高く買える(作中に「漢」の文字は見つけられないものの「漢」と名付けられた雑誌に載っていることが重要だろう)。内容からして、話の筋を説明しても仕方がないところがあるのだけれども、大規模なヤクザの会長が、渋谷の路上で、座り込んでいるギャルのパンツに目が向いてしまったため、彼女から因縁をつけられ、最高潮にギャップのあるコミュニケーションによって圧倒される、というもので、たいへん頭の悪そうなやりとりと、その間の置き方が絶妙である。
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 今日におけるヤンキー・マンガ群が、ときおり作中に採用するポエム、あれはおそらく、不良にも内面があるんだよ、という表現であろう。だからか、モノローグの枠組みを借り、読み手に向けて、あるいは作中人物に向けて、告白のかたちをとっているケースが多い。しかし驚くべきなのは、90年代に発表されたヤンキー・マンガの有名作に、そういった形式を大々的に用いたものは、ほとんど見かけられないことだ。すくなくとも現在ほど長口上で、さらには数ページを費やすパターンはレアである。つまりは、00年代に入ってから、ジャンル内で主流化したのだとさえいえる。とりあえず、少女の表情と心理描写ふうの風景イラストにポエムをミックスするという、80年代に一部で流行ったポエミー(イラスト・ポエム)の文化を、少女マンガのクライマックスだけを取り出していると指摘したのは、たしか大塚英志だったが、むしろ現在のヤンキー・マンガがやっているのは、それの反転的な導入に近しい、すなわちクライマックスにあたる箇所に、ケンカや暴力の描写ではなく、少女性抜きのポエムをつらつら書き添えることのように思われる。こうした現象が進歩であるのか退行であるのか、いずれにせよ判断は微妙だが、個人的にはあまりおもしろく感じられない旨は、過去にも述べてきた。『ヤングチャンピオン漢(オトコ)』Vol.1に掲載されている『クローズ外伝 リンダリンダ―野良犬―』は、ゆうはじめが高橋ヒロシの『クローズ』から設定と登場人物を借りてきたシリーズの第二弾で、やはり以前のエピソードと同じく、作中にポエムめいた告白のモノローグが採用されているわけだけれども、しかし今回は、その語りがうぜえ、ということもなく、印象も決して悪くない。これは、たぶん、作品の構成力が、いくぶんか上がっているためである。何はともあれ、しみったれたポエムが、物語の概要もしくはテーマないしメッセージを、ぜんぶ代弁してしまわない。中学生でありながらも、ケンカの強さで名を知られるリンダマンと、そのツレの圭一を、応華中学の「蟻の軍団」が付け狙う。ちょうど同じ頃、雄太という気弱そうな少年が彼らに接触してき、圭一は好感を抱く。が、じつは雄太こそが「蟻の軍団」のトップであった。端的にいって、バトルとアクションが派手で、良い。そうして、自らを野良犬に喩えて憂鬱をのたまう雄太が、孤独を寡黙に背負うリンダマンに一蹴される場面へ、カタルシスを持ってきている。また、高橋ヒロシのフォロワーがあふれるシーンにおいて、できうるかぎり影響圏から逃れようとしている作風を評価したく、作中人物たちがスタイリッシュに躍動する姿は、どこか上條淳士の『赤×黒』を彷彿とさせる。

 『クローズ外伝 リンダリンダ』
  後編について→こちら
  前編について→こちら
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2008年09月29日
 羽柴麻央の読み切り作品集である『イロドリミドリ』に入っている四篇(わずか2ページの「キミドリミドリアオミドリ」を合わせれば五篇)のなかでは、「劇団中学生」と「14歳の肖像」の二つが、良いね、と思う。もちろん、「イロドリミドリ」と「糸と釦」の、淡い情緒がリリカルともいえる作風のうちに落とし込まれているマンガも決して悪くはなく、いや、むしろそちらのほうが一般的な評価は高いのかもしれない、が、個人的には「劇団中学生」と「14歳の肖像」のほうを、尊く見た。その理由は、単純である。現在では、血の繋がりがあるにせよ義理のものであるにせよ、兄妹(姉弟)の関係を用いるさい、それがなぜか、極端なほど近親相姦化されることに屈託のない作品が多すぎる。おそらくそこにはそこで、ある種のリアリティがありもするのだろう。兄妹(姉弟)を描くことが、無条件で家族を描くことにはならず、恋愛やセックス(性交)を通じなければ、半径5メートル圏内の身近な他人を実感することもできないぐらい、実存は困難になってるんだよ、とでも言いたげな。しかし、だからといってすべての兄妹(姉弟)が、当然、恋愛やセックス(性交)をする必要などは、どこにも、ぜんぜん、ない。だいいち、そんなんばっかでも飽きるだろ。「劇団中学生」は、両親が再婚したため、義理の兄妹となってしまった少年と少女が、主人公である。一緒に暮らしはじめたとき、中学生にまで成長している二人は、それぞれ、突然の関係をうまく受け入れられずにいる。仕方がなく、兄妹になってしまった事情は、お互いを拒否するような態度となり、あらわれてしまう。一方は、兄として認められたいと思いながらも素直に向き合えず、一方は、実の兄を喪ってしまっている経験が暗い影となっている。こうした両者の軋轢が、やがて、家族のワン・シーンに、微笑ましく収まっていく。わざわざ偏って傾いた過剰さをダシにせずとも、ここまでの繋がりと結びつきを描けるのだ、という豊かさにあふれている。
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 デジモノステーション Vol.80 (Sony Magazines Deluxe)

 『デジモノステーション』Vol.80に舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』のレビューを書きました。どぞ、よろしくお願いします。
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2008年09月28日
 テレビ・ドラマ『ヤスコとケンジ』は原作のチョイスが絶妙であった。いや、何もそれはアルコによるマンガの地力を指して述べるのではない。そうではなくて、登場人物のスペックと彼らが置かれている状況の設定しか存在せず、ストーリーがすかすかであるような作品を借りれば、いくらでもその手のプロが気の利いたエピソードを量産し、中身を水増しできるという都合の良さを言っている。中途半端にでも物語に魅力があったら、ああもうまく、原作とのあいだに摩擦のすくない実写映像化が果たされることもなかったろう。まあ、つまり、マンガ版の『ヤスコとケンジ』って、物語のレベルにおいては、ほんとうに読むところがないんだよね、という、これまでに何度か繰り返してきた話で、『超立!! 桃の木高校』に関しても、同様の危うさを抱えている、これも1巻のときに書いたような気がする。基本的には、ヒロインの片想いを友情とをベースに進められているマンガだが、メインの登場人物たち四人がみな超能力者(エスパー)だとの特殊な環境に置かれている。それら二つの主軸が、シリアスとコメディの要素を攪拌する。しているのだけれども、混ざり合ってマーブル模様になっているストーリーからは、やはり、かわいらしい、以上の感想が出てくることもない。もちろん、それが良いのだ、そこが良いのだ、といった意見もあるには違いないものの、個人的には、もうすこし、じっくりと読ませ、心に残るようなところがあっていいな、と思う。

 1巻について→こちら 

・その他アルコに関する文章
 『Loveletter from…』について→こちら
 『ヤスコとケンジ』
   4巻について→こちら
   2巻について→こちら
   1巻について→こちら
 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
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2008年09月27日
 まさか、ここまで期待させられるとは。すこしぐらいの現実離れもぜんぜん気にならない勢いが、今の高野苺にはある。コメディのたのしげなテンポとシリアスに悩むエモーションとが、どちらか一方でも欠けてしまえば成り立たないバランスで結びつき、ページをめくっているあいだ、マンガのなかを生きる人物たちの、駆けずり回っては、こけ、泣き、そして立ち上がると笑う姿に、魅了されてしまう。家出少女と男性同居人たちの賑やかな暮らしぶりを描く『夢見る太陽』の2巻は、万事が万事その調子であり、すべてのシーンにある種の、まぶしさに気持ちが動かされるような、鮮明さが備わっている。

 この巻に入ってストーリーは、ヒロインのしま奈が想いを寄せる一学年上の同居人、朝陽の、恋人との別れをめぐって展開する。朝陽が恋人と離れてしまうことは、単純な恋愛の都合に換算できるのであれば、しま奈にとっては好転のはずである。しかしながら、それが朝陽にも、彼の恋人であるまなみにも、決して望まれていない事情によっていることを知り、しま奈は、わけて入れない愛情の深さが二人のあいだにあることを教えられる。そこにあらわされているのは、もちろん失恋であって、同時に成長でもある。しま奈が独りよがりな子供のままでいられたら、片想いは失恋にすらならず、そして失恋をする機会さえなければ、彼女は独りよがりに気づかぬ子供のままでいられた。ここでのくだりは、まだ幼い少女の成長を、わりと複雑な心境の変化を、恋愛への意識を通じ、とても自然に捉まえていると思う。

 とはいえ、全体に漲るテンションの高さは、ギャグのそれに近しい。同居人の一人で、しま奈の同級生でもある善が、まるで彼女に引きずられるよう、惹かれていく様子は、コミカルで、おかしい。物語においては、こちらも大事な側面だろう。善の頭の悪さ、頭の固さには、たいへん笑わされるが、まあ、初心な男の子なんてこんなものだ。イノセンスを、天使様みたいな人間ではなく、ほんとうに単純でしかないガキへ投影することで、ご立派というより、可愛げのあるものに変えている。フィクションは宗教である必要もないのだから、イノセンスの存在はそのように扱われるのが相応しい。

 ところで、もう一人の同居人、大家の虎(たいが)が、朝陽に告白しようかどうか躊躇うしま奈へ、こうかける言葉がいいよね。〈最初っからダメってわかってたらいいじゃん 言って損することねぇんだし それにもし可能性が1%でもあったら 言わないともったいねぇ〉。たしかにそのとおりで、それはわかっちゃいるのだが、にもかかわらず勇気がえらくいるから、たった一言のためのドラマが、こうして生まれる。

 1巻について→こちら

 『バンビの手紙』について→こちら
 『Shooting Star』について→こちら
 『愛し金魚』について→こちら
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 吉村綾子の作品集『できれば花になりたい』を読んで、こういうマンガであればいくら描かれてもいいな、と思う。率直にいって、絵柄と作風は、現在人気のある少女マンガのあちこちから引っ張ってきたふうであり、とくに独創性のあるものではないのだけれども、とてもやさしさのあふれる内容に、上記のような感想を抱いた次第である。まず表題作である「できれば花になりたい」が良い。周囲からは女の子らしいと見なされていない、まさしく男勝りをいく少女が、美男の同級生に告白され、作中の言葉を借りれば〈乙女なスイッチ〉を押されてしまい、戸惑う様子を描いている。技術の部分を問うなら、読み手にとってわかりやすいところとわかりにくいところの調和が、かならずしもうまくとれているとは見なしがたい面もあるにはある。が、重要なのは、だからといって物語が不格好にはなっていないことだ。これを考え悩んでつくった作者の姿が浮かんでくるようでもある。どこに重きを置くべきか、外すまいとする真摯さが伝わってくる。ヒロインからは他人の心が見えない、その見えないことが雑多なノイズを生み出し、ノイズに応対する態度がヒロインの心の描写となっている。「できれば花になりたい」がそうであるとおり、他の作品もまた、外見と内面のギャップが恋愛によって克服される、というテーマで共通している。なかでも、いちばん新しいものである「オレンジの傘が好き」が、やはり、もっともまとまりを感じさせる。大雑把な喩えを使うとしたら、『ラブ★コン』と『高校デビュー』のミックスともいえるニュアンスのストーリーだけれど、雰囲気そのものはどちらとも違っている。おそらくは、コンプレックスを表現する手つきに、この作者ならではのものがあるからだろう。そして救われ方には、くそう、こうなることはわかっていたのに、じん、とさせられてしまう。
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2008年09月26日
 AMI姫先生がすげえ良いことを言っている。〈恋をしなさい 恋は心の筋トレなの 恋をしないで大人になったら それよりずっと重い愛なんて持てっこないわ〉と。いや、たしかにそのとおりであるのかどうかはともかく、恋愛という感情が、たとえ悩みの種蒔く厄介なシロモノだとしても、たとえ苦く辛い経験ばかりが重なってしまうとしても、そこから教えられるものは、かならずや、あるのだろう。もちろん、幸福のなかで学べることもすくなくはないに違いない。ななじ眺の『コイバナ! 恋せよ花火』も3巻に入ったが、しかし、ここまでわくわくさせられてしまうだなんて、驚きを隠せないほど、おもしろくなってきている。順調にピークをあげていっている。ついに花火は自分の気持ちに気づいてしまう。あれだけ憎たらしかった誓のことを、いつの間にか好きになっていた。だが彼女のいる人間に想いを抱くというのは、つまり、それが叶わない恋である可能性をも意味している。誓の顔を見られることがうれしい、話せることがうれしい、でもそのうれしさが、花火を悲しくもさせる。前作『パフェちっく!』と同じく、三角関係上の桎梏がマンガのなかに持ち込まれているのだけれど、(すくなくとも今のところは)そこに合わせてピントをきつく絞るのではなく、ワキの登場人物たちを活発に動かし、展開の幅をひろげることで、単調でも退屈でもない物語が成立させられている。たしかにメインは、ヒロインである花火の片想いにほかならないのだが、美衣や厚実といった花火の友人たちの、そして尾山や佐木など男の子たちの、その姿を広角に含めたショットを使用し、誰にとっても満遍なく、たかが恋愛、されど恋愛、と伝わるのに十分な実感がつくられているのである。にしても作者は、誓の彼女のユキネをどう描くつもりか。この一点にかなりの興味を引かれる。なぜならば、ユキネの存在は、以下のような現実の世界においても、間違いなく、ありうる困難を示しているからだ。そう、要するに、意中の人には自分より性格も容姿もすぐれた恋人がすでにいる。決してあいだに入れるとは思えず、ましてや二人の仲が壊れることを信じられない。これはときとして、絶望と同義であろう。この絶望をどれだけ深く掘り下げられるかによって、表現の質はおおきく左右されるし、もしも今後に奇跡の逆転劇があるにしたって、まあうまくやれればの話ではあるが、ヒロインはヒロインだから愛される、式のご都合主義を阻み、より高次の説得力を与えてくれるものとなる。正直、ユキネの花火や誓に対する態度が、素だとしても牽制だとしても、屈託なさすぎて、ちょっとおっかねえんだけど、執着って意外とこういうふうにあらわれるんだよね、というリアリティもある。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『パフェちっく!』
  22巻について→こちら
  19巻について→こちら
  14巻について→こちら
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2008年09月25日
 Take Me to the Sea

 THE BLOOD BROTHERSにPRETTY GIRLS MAKE GRAVESという、メンバー3名の前キャリアを踏まえたとき、JAGUAR LOVEのファースト・アルバム『TAKE ME TO THE SEA』で聴くことのできるサウンドは、かなりポップの方向に振り切れている。フラストレーションによって研ぎ澄まされたハードコアの極端なポップ化ということであれば、THE MAE SHIの『HLLYH』あたりに近しいタッチだろうか、しかしあちらに比べるとアヴァンギャルドによじれた展開をほとんど持たず、ハードめにまとまった演奏のなか、素朴であるほどにキャッチーなメロディをヴォーカルは追う、すべてがならめかでスマートなのにジョニー・ホイットニーの、あの甲高くヒステリックな声はあいかわらず、十分なインパクトを持ち、強烈な個性をアピールしている。それにしても、フォーマットとサイズをきちんと定め、そこに自分たちのスキルとセンスをめいっぱい詰め込んだかのような楽曲が、もちろんフックもアクも十分に満たしたまま、これでもかという具合に続いていくので、ついつい、はまる。ちゃかちゃかと刻まれ、局面によってはダンサブルにも変化するリズムは、巧妙に、軽妙なステップを誘い、賑々しく盛り込まれたキーボードの音色が、躁状態を摩訶に膨らます。センチメンタルな抒情も、揺れ、振れながら、上機嫌のバルーンに引っ張られ、舞い上がる。先行EPに収録されていた「VIDEOTAPE SEASCAPE」も、けっこう特徴的でナイスな一曲だったから、あれもこのアルバムに入れて欲しかったな、と思うのは、おい、おまえ、贅沢すぎる不満だよ。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2008年09月23日
 原作をつとめている石渡洋司への贔屓がつよくて、この『デンドロバテス』を読み続けているのだが、おそらくは最後の敵(ラスボスってやつ)にあたるライコという男が登場したはいいけれど、主人公である「千の銃の男」仙川との直接対決が先送りにされているため、やや中弛みな印象を持つ。じっさい、この5巻は、ライコの部下を一人倒したら、もう一人違う部下が出てくる、っていう展開でしかないしね。もちろん、それはライコの造形を掘り下げる役割を果たしているんだとは思う。とはいえ、背景にライコの存在を絡めてこなければならないため、事件の成り立ちに以前までのヴァリエーションがなくなり、また人間ドラマといおうか依頼者たちが復讐を願うエモーションもそれに隠れがちになってしまい、全体のテンポが、すこし単調になっている。まあ、マンガが長篇化するさいに生じる迂回路とはそういうものだとしても、やはり、もうちょいのメリとハリとが欲しい。
 
 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2008年09月22日
 すこし反動的すぎるな、と自覚しつつ、これを書くのだが、『新吼えろペン』に関しては、やっと終わってくれた、というのが正直な感想である。なぜこのような退屈なマンガが11巻も続いてしまったのか、それはおそらく、島本和彦が熱いマンガを描いている、というのではなく、島本和彦が描くマンガだから熱い、という錯誤が、一部の読み手のあいだで共有されてしまったためであろう。熱い、という基準が、おもしろい、や、たのしい、の評価を代替していることに、なんら問題はない。しかしながら、そうした評価の基準自体が、相対的な見方のうえに成り立たず、作品もしくは作者を絶対視しようとする姿勢からやって来ているとしたら、おそらくは、間違える。すくなくとも『新吼えろペン』の長期化はそのことを教えてくれる。いやたしかに、『燃えよペン』はおもしろかった、『吼えろペン』はたのしかった、が、残念なことに、たぶん作者がそれらとは違う方向性を模索したに違いない『新吼えろペン』は、おもしろくもたのしくも、ましてや熱くなんてなかった。続編でありながらも、『吼えろペン』において重要な役割を担った前杉英雄をほとんど登場させず、言うなれば若者の成長物語的な要素を極力抑え、炎尾燃というベテランがいかに業界と向き合うか、を軸に展開された内容は、結局のところ、実話ベースのフィクションを抜きん出るものではなかったのである。まあ、『アオイホノオ』の人気などを見るに、もしかしたら読み手の多くはもう、島本にエッセイ・マンガ以上を求めていないのかもしれない。ところで、この11巻には作品の完結にさいし、「読者からのお便りコーナー」なるオマケが設けられている。要するに、著名人のコメント的なあれなのだけれども、そのなかでササキバラ・ゴウは、〈『燃えよペン』、『吼えろペン』と、主人公は同じであっても、趣向が大きく異なるこのシリーズは『新』にいたって、ついに何かの一線を超えた領域に突入したようだ〉とし、それはつまり〈創作の現場にいる人間にとっては、決して他人事ではいられないようなギリギリの問題に、あえて捨て身で突っ込んでい〉くことなのだが、〈ただその分、旧来のファンからすると、炎尾らしい炎尾の姿を見る場面が減〉ったため、〈「熱くまんがを描く」という、傍目から見たらちっぽけな(略)行為を軸足にして乗りきってきた『燃えよペン』のシンプルさが、懐かしく思えた人もいるかもしれ〉ず、〈私も、どこかそう感じていた〉と述べている。この分析は、きっと、正しい。ただし、古くより島本の熱心なファンであるササキバラの場合、かわりに「捨て身」となっていることを強調しつつ、『新吼えろペン』を肯定的に評価している、あるいは、しようとしているみたいだ。要するに、汚物にまみれることをいとわず、現実の生々しさをえぐり、切り取るかのような態度に、作者の批評性を見ている、見ようとしているわけだけれど、それが他と比べすぐれているか、また以前と比べすぐれた表現になりえているのかどうかは、本来、分離させて考えなければならない。
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2008年09月21日
 ああ、結局のところ、俵文七こそが、自分にとっての『天上天下』であった。じっさい、奴に比べれば、主人公の凪宗一郎を含め、他の登場人物たちなんてみんな雑魚だしね。だが、その巨星もついに墜ちた。しかも、だ。ほとんど心や体がビョーキでしかないような連中の噛ませ犬にされて、である。作者である大暮維人の思惑はともかく、もうすこしたくさんの花を持たせてやっても良かったのではないか、という気もする。が、それでも見事な散りざまであったと思う。しかしながら、いまいちこう、文七をくだした光臣のカリスマが、納得しづらいんだよな。もちろん、この19巻で高柳父が述べている言葉を借りるなら、〈武とは「弱者」の立場から成立し 「強者」に対する卑屈なまでのコンプレックスから生まれている〉のだとして、そのような挫折を乗り越えようとする態度が、すなわち光臣の体現しているところなので、大勢を惹きつけているのだろう。〈生まれながらの絶対的強者〉である文七を前にし、拳を繰り出すけれど、〈所詮これが“武”の限界よ……光臣〉と高柳父が見なすとおり、あとすこし、及ばない。〈ならばこそ完成させねばならぬのだ 真の“武”を〉というわけである。とはいえ、文七は光臣に討たれる。なぜか。〈あのまま……振り抜いていれば おまえの勝ちだったはず〉なのに、そうはできず、文七は自らが砕かれることを選ぶ、それを“甘さ”だと光臣は言う。どちらかとすれば、文七の、その“甘さ”こそが、じつは正常者のロジックであり、光臣に委ねられた“武”のロジックは、反対に異常者のそれだというふうに感じられる。前者は、それこそ、強いや弱いにこだわらぬ、あるいは強いも弱いも許し、包括した指針となりうるのに対し、後者は、強いと弱いの基準ですべてを裁こうとする、偏狭で、独断的な考えのなかでしか、生きられない。たしかに、作品の世界は、強いと弱いの観念に支配されており、これを内側からいったん突破するには、後者のロジックが必要とされる、そうした理解は十分に可能だ。が、裏返すなら、作中には、それを支持するのが多数派であるほど、ビョーニンが溢れかえっていることになってしまう。おそらく、俵文七は『天上天下』における、数少ない正常者であった。個人的には、その正常であることに、たいへん燃えさせられた。しかし、彼がリタイアしてしまった今、光臣に象徴される異常者のロジックに立ち向かえるだけの人間がいるとすれば、やはり、雅孝とボブぐらい、か。物語からはすっかり忘れられているっぽいボブはともあれ、ここに至り、がぜん雅孝がキー・パーソンめいてきたのは、たぶん、そのためである。

 18巻について→こちら
 17巻について→こちら
 16巻について→こちら 

 『NAKED STAR』について→こちら
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2008年09月20日
 あまり深く考えられてはいないことだと思われるが、佐木飛朗斗とコンビを組んだマンガ家はツー・ショット写真を単行本に掲載しなければならないのか、問題というものがある。そしてそれは、00(ゼロ)年代に入り、健在化したといってもよい。桑原真也(『R-16』)や山田秋太郎(『爆麗音』)など、どちらかといえばオタク寄りの作風で売ってきた人間が、佐木と並ぶ姿は、彼らのそれ以前のキャリアを知るものにとっては、すくなからぬ衝撃を与える。この写真を撮られたかぎり、おまえはもうおれの言うことを聞いて、ヤンキー・マンガを描くしかないんだぜ、と既成事実をあらかじめ作っちゃっているかのようなインパクトがある。『外天の夏』の東直輝も、まさしくそのケースにはまっている。そもそも『週刊少年ジャンプ』からデビューしてきたマンガ家であり、まあオタクに向いた作風とは言い難かったけれども、こう、肩に佐木の手が置かれ、すこし引きつっているふうに見えなくもない表情は、まるで無理やり舎弟にされてしまった小僧みたいである。

 以上のことはまったくの冗談で述べているのではない。たとえば桑原も山田も東も、おおもとの絵柄はまったく違う。それがなぜか、佐木の原作を得ることで、微妙に似てしまう。いったいこれは何なのだ。そう考えていくとき、どうしてもあのツー・ショット写真の存在に行き当たるのだ。つまり、まず佐木の顔を立てなければならない、そのような、もちろん読み手の立場からしたら意識的にか無意識にかは知れない、バイアスがかかっているのではないか。

 さて。じつはここからが本題なのだが、『R-16』も『爆麗音』も『外天の夏』も、舞台をほぼ同じくしながら、さらには暴走族などの固有名を共有しながら、しかしサーガとでもすべき具体的な繋がりを持たない。むしろ、同じ物語がいくつものヴァリエーションをつくり、語り直されている印象がつよい。言い換えるとすれば、佐木が提供した原作に倣いながら、それぞれのマンガ家が二次創作を行っているとさえ、受けとれる。このとき、もっともオリジナルに近しい参照項は、おそらく『疾風伝説 特攻の拓』であろう。この参照項を共有していることが、あるいは、『R-16』と『爆麗音』と『外天の夏』の雰囲気と内容とを似させている。

 不良をたくさん抱える高校に編入してきた坊ちゃんが、謎めいた可憐な少女と知り合い、暴走族のきれたトップと友人関係を結び、周囲の人間からはキー・パーソンと見なされる、このようなストーリー・ラインを持つ『外天の夏』は、どうしても読み手に『特攻の拓』を思い起こさせてしまう。主人公である夏の通う高校の名は、ずばり、私立聖蘭高校であり、夏がそこで親しくする伊織と亜里沙の関係は、マー坊と晶のそれに等しい。さらには“外天”の初代頭であり、今は亡くなっている冬の存在感は、あきらかに『特攻の拓』における誠とだぶる。もちろん、『特攻の拓』では主人公の拓の姿に誠が重なることの理由は、宮沢賢治的な純粋に焦点化されていたのに対し、『外天の夏』の冬と夏とはじつの兄弟ということになっている、だからその姿が重なる。このあたりは、なるほど、血の繋がりによる拘束を重視して展開された『R-16』のテーマを受け継いでいる。だが、そうした血縁の桎梏もまた『特攻の拓』の天羽時貞に象徴されていたものであった。これらを踏まえていった結果、いやまあ1巻の時点で決めつけるのはいかにも早計だが、しかし、ある意味で『外天の夏』は『特攻の拓』の、00(ゼロ)年代的なアップデートのヴァージョンとすらいえる。

 昨年、90年代に一世を風靡したアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』が、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』としてリニューアルされ、その序章が発表された。周知のとおり、かつて『新世紀エヴァンゲリオン』は、さまざまな二次創作を生んだ。もしかしたら『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』自体、そうした二次創作の一環、いや、決定版と捉まえることも可能だろう。それに通じることが『新世紀エヴァンゲリオン』と一部同時代の作品であり表現でもあった『特攻の拓』をベースに起きたとして、なんら不思議ではあるまい。『外天の夏』は、ふと、そんなことを考えさせる。

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』1巻・2巻(漫画・山田秋太郎)について→こちら 
 『パッサカリア[Op.7]』(漫画・山田秋太郎)について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
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2008年09月18日
 文学界 2008年 10月号 [雑誌]

 『文學界』10月号掲載。人というのは自分だけで自分を確認することができない、おそらくはこれが村上龍の作品群を貫く一本の真理である。たとえば江藤淳や柄谷行人といった批評家に影響を受けながら(まちがいなく江藤はデビュー当時の村上を非難したことで影響を与えるのに成功している)、経済学などを学びながら、トレンドに目配せしながら、状況や情報や環境を参照しながら、さまざまな物語をつくってきた作家であるが、どれもが根っこの部分に、人というのは自分だけで自分を確認することができない、という言いを含んでいるかのような印象を受ける。もちろんそれは、ときにアメリカという外圧によって自己確認する日本の姿としてあらわれ、ときにセックス(性交)を媒介に主体と他者とのあいだに屹立する欲望としてあらわれている。村上の過去作において、自らに告白を禁じるが、しかし告白の誘惑に飲み込まれていく登場人物がすくなくないのも、結局のところ、人というのは自分だけで自分を確認することができない、さらには正体不明になってしまう自分に耐えきれないものがあるからだろう。さて。この『心はあなたのもとに “I’ll always be with you, always”』もまた、そのような思想のヴァリエーション化された小説だといえる。

 以前にも述べたとおり、『心はあなたのもとに』の概要を端的にいえば、携帯電話のメールを重要なギミックに採用した今どきの難病ものにほかならない。一般的には成功者の部類に入る中年男性が、予断を許さぬ病を抱えた風俗嬢と出会い、できるだけの手助けをしてやろうとするのである。いや、さすがにけっこう長くなってきている内容だから、もうちょい複雑な部分もあるのだけれども、おおよそとしてはそうまとめられる。まあ、そのへんはどうなの、というところもあるのだが、しかし主人公である西崎の、香奈子という決して非凡ではない女性に対する期待と嫉妬を通じ、つまりあの、人というのは自分だけで自分を確認することができない、という状態が描かれているのは、たしかだといえる。読み手にはあらかじめ予告されているように、やがて香奈子は、死ぬ。もちろん作中の人間にとって、香奈子が生きているかぎり、それは決定的な事実とならない。だが、まるきり死が意識されていないというのではない。死者を前に誰しもが無力である。どれだけの人間関係であろうと、相手が死んでしまえば、取り戻すこともやり直すこともできない。このような不安が、西崎に、香奈子の死を先取りさせる。動揺させ、混乱させる。体調不良を知らせる香奈子からのメールが、小説のなかで重みを持つのもそのときで、要するに、欠落への恐怖が、香奈子のというより、西崎自身の実在を彼につよく認識させている。

 第十一回について→こちら
 第七回について→こちら

・その他村上龍に関する文章
 『半島を出よ』について→こちら
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2008年09月17日
 20世紀の幽霊たち (小学館文庫 ヒ 1-2)

 序文を引き受けているクリストファー・ゴールデンが〈「ポップ・アート」は至高の域に達するとびきりの大傑作だ〉と力を入れていて、まあ、こういうのは話半分に聞いておくべきだよね、と思っていたのだが、いやいや、じっさいに「ポップ・アート」を読んでみたら、だ。見事にはまった。語り手が友人のことを〈つまり、ヘブライ系の空気人形だった〉とかいっても、どこが「つまり」で「ヘブライ系の空気人形」ってのが何だかわからねえぜ、と独りごちつつページをめくっているうち、孤独な少年たちの友情が思いがけずせつない別れを描く瞬間に立ち会い、胸締めつけられた。これはやばいぞ、と驚く。しかし魅力的なのは「ポップ・アート」ばかりではない。ジョー・ヒルの短篇集『20世紀の幽霊たち』に収められている、その他の作品もえらいことになっている。アタマの「年間ホラー傑作選」を筆頭に、個人的な好みを含めていえば、表題作にあたる「二十世紀の幽霊」や「アブラハムの息子たち」、「うちよりここのほうが」に「黒電話」、「挟殺」、「おとうさんの仮面」、「自発的入院」あたりは、かなりのものである。なんで訳者(安野玲)は訛りの箇所を関西弁ふうにしちゃったのか、そこが白けただけで「寡婦の朝食」も良い。要するに、大多数を気に入ったのだった。もちろん、ジャンルにしたらホラーの系に名を連ねる作家であるから、グロテスクでおっかない描写もあるにはあるし、ぞくりと背中を刺す感覚にもあふれている。だが、ときにそれをしのぐ抒情が、素朴にもやわらかく、散り散りになりそうな痛みを引き寄せる。アイロニカルな微悲劇のなか、作中人物たちはつまずき、つまずきを取り戻そうとするけれども、わずかに手遅れてしまっている。その、わずかだが致命的な境目から、人生の影を踏んで成り立つ郷愁がこぼれてくるのである。死んでしまった人間を愛し続けても生き返ることがないように、過ぎ去ってしまった日々は振り向き懐かしんでも立ち返れない。失われてしまうことの奥底には恐怖が潜んでいる、いや、だからこその重みを持ちうる。この重みを秘めることで、ある種の幻想は生々しく、美しい輝きすら放ちはじめる。『20世紀の幽霊たち』のいくつかは、正しくそうした彩りの小説化だといえる。

 『ハートシェイプト・ボックス』について→こちら
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2008年09月16日
 Old Wounds

 ああ、やだやだ。世界中が憎たらしく空しく感じられるようなとき、何もかもを轟音でシャット・ダウンしたくなる。しかし、めいっぱいフラストレイトした気分と十分に渡り合うだけのものはなかなかなあ。いっそのこと死ねちゃえばいいのに。うるせえ、おまえが死ね。愚痴愚痴しいのはここまでだ。それにしても、いかしているのはYOUNG WIDOWSである。アメリカはケンタッキー州ルイヴィル出身のトリオが、06年に発表したファースト・アルバム『SETTLE DOWN CITY』は、不機嫌な興奮を満載した、ふてぶてしく頼もしい内容であったけれど、このセカンド・アルバムとなる『OLD WOUNDS』も当然、いやかなり、荒くれている。前身であるBREATHER RESISTの頃より籍を置いていた古巣JADE TREEを離れ、よりわかりやすくポスト・ハードコア、ポスト・ロック向きのレーベルTEMPORARY RESIDENCEに移ったが、洗練なんぞ知ったこっちゃないよ、と言わんばかりの殺伐さ加減は、目減りしていない。白々しい技巧をぎざぎざなフォルムに切断し、その演奏がひずみ、割れてきそうなほど、ノイズのヴォリュームをあげる。カート・バーロウ(CONVERGE)の、あの、素材に関係のないワン・パターンなプロデュースも、今回はうまく生きている。ロー・ファイでざらざらとしたところがよく出ている。だが驚くべきなのは、ギター、ベース、ドラムによるコンビネーションの、アンバランスなさまが完璧なバランスの上に成り立っている、あるいは見事なぐらいのバランスをアンバランスに成り立たせていることだろう。ぶっちゃけて、カタルシスという一点においては、『SETTLE DOWN CITY』のほうが何倍もすぐれていた。ねじ伏せ、有無を許さぬ鉄腕ぶりから、『OLD WOUNDS』は数歩身を引いている。じっさい、アルバムの大半は、ジャンクなブルーズと喩えてもいい、スローに、ヘヴィに、黒く塗りつぶされたナンバーに占められている。暗く荒涼としたグルーヴは、不吉そのものですらある。もちろん、部分的にだがダイナミックにうねる箇所はいくつもある。しかし、テンションが、どかん、と爆発した瞬間止まらない感覚は、はやくて5曲目の「LUCKY AND HARDHEADED」を待たなければならない。もっともスピードが出ている8曲目の「DELAY YOUR PRESSURE」でさえ、半ばまでいくと極端にテンポを落とし、ドゥームめく。ずるずる、すり足の進行をとる。ただし、だからといって怠くてかなわない、ということもない。全体に、ひりひりとした肌触りの空気が満ちている。そして一音一音は、鋼を鍛えるハンマーのごとく、硬い。それらが複雑な化学反応を起こし、一種独特なスリル、気づかず神経を持っていかれるような緊張を運んでくる。なかでもラストを飾る11曲目の「SWAMPED AND AGITATED」が、すばらしくかっこういい。締め括りに相応しい。まるでTHE JON SPENCER BLUES EXPLOSIONとJESUS LIZARDとHELMETとが三つ巴の協奏を繰り広げているみたいな、ハードヒットのインパクトをぶちかます。勢いに押され、駆り立てられるものがある。ああ、そうだったな。腹の底からぐっとくる、この感じが大事なのだ、と思う。

 『SETTLE DOWN CITY』について→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2008年09月15日
 パピヨン 5―花と蝶 (5) (講談社コミックスフレンド B)

 簡易心理学的なファクターを導入し、内気なヒロインの変身願望といおうか自己実現といおうか、とにかくコンプレックスからの脱却を、上田美和の『パピヨン―花と蝶―』は描いていたのであったが、そのヒロインである亜蝶(あげは)とカウンセラー見習いの九(いちぢく)の間柄が両想い化したのにともない、亜蝶の双子の妹、花奈(はな)の存在感をアップさせて、姉妹の確執がちょうど三角関係上に成り立つような、わりとオーソドックスな方向へとストーリーを展開してゆく。もちろん、双子という設定を生かした入れ替わりトリック(?)もふんだんに活用されている。この5巻では、かつて花奈の恋人であった新堂が登場してくるのだが、彼の語る真実は、なかなかに興味深い。先ほど冗談半分で入れ替わりトリック(?)といったけれども、じつは姉妹が入れ換え不可能だからこそ、中学のときに新堂は、亜蝶のほうに心惹かれ、花奈とはうまくいかなかったのである。そしてそのことが花奈にトラウマ状のダメージを負わせている。そもそも亜蝶は自分が花奈みたいにはなれないことをネガティヴに捉まえているのに対して、花奈は自分が亜蝶と入れ換え可能な存在であるかもしれないことをネガティヴに考えている。むしろ両者の根本的な差異はそこにあるとすらいえる。たとえ第三者にとって、二人が入れ換え不可能であったとしても、恋人が自分以外の、さらにいえば自分によく似た相手に感情を動かされ、そちらを選んだとしたならば、必然的に蹴られたほうは一時の代わりでしかなかった、と自己評価をさげてしまう。これが花奈の気持ちであろう。逆に亜蝶は、あらかじめの自己評価が低いため、そのような境地とは無縁にいる。自分が誰かを差し置いて選ばれるとは思いもしない。結果、寄せられた好意をからかいだとしてしまう。真剣に問わず逃げ出してしまう。亜蝶が新堂と再会したことを隠しているのを知り、花奈が〈あんたって自分の気持ちばっか敏感で 人に無神経すぎ あんたのそういうとこ大っきらい!!〉と当たるのは、過去に受けた惨めさを、与えた側がまったく理解していないからで、この苛立ちが解消されないかぎり、姉妹に和解が訪れることはない。むろん、それは各人が単独でのぞまなければならない問題であると同時に、両者の歩み寄りを必要としなければならない問題でもある。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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 教師の萩原に惹かれていることを自覚した紗雪は、スキー合宿を経て、その想いをよりいっそうつよくするけれども、彼への距離が近づいているのか遠ざかっているのか、幼馴染みである悠士との関係を誤解されている可能性もあって、いまいち確信が持てない。そんな折、バレンタインの勢いを借りて、ついに告白を果たそうとするのだが、二人のあいだには、やはり、教師と生徒の越えられない壁が存在しているのだった。春田なな『チョコレートコスモス』の3巻である(ちなみに恩田陸の同名小説とはまったく関係ない)。率直にいって、作風やストーリーのパターンに目新しいアイディアがあるわけではないにもかかわらず、テンションの高さ、テンポの良さが、退屈を寄越さない。それというのも、(今のところ)自己評価の低い人間が登場してきていないためだと思う。せいぜい萩原が、歳のわりに自分が幼く見えることを気にかけているぐらいで、基本的にはコンプレックスに関わる描写を含まず、総体的にあかるい内容のマンガとなっている。紗雪の、恋愛の障害も、あくまでも立場の違いという外的な要因によっている。しかし各人が引け目を持たない態度でいるから、たとえば前巻のスキー合宿における萩原と悠士の牽制もそうだったし、ここで新たに形成された萩原をめぐる紗雪と由佳子の接触など、三角関係上の対立は、けっこう容赦がない。えぐい、とさえいえる。
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2008年09月14日
 17(じゅうなな) 1 (1) (講談社コミックスフレンド)

 以前から述べているとおり、桜井まちこには、ぼちぼち、子供ではなくて、大人の物語を描いて欲しい、と思う。たしかに、画の技術は著しく向上し、いくつもの場面には目をみはらされる、が、しかしストーリーのレベルにおいて、初期の頃の作品にはあったイノセンスを、それほどナチュラルにつくれていない感じを持つ。純粋の輝きをつよくしようとするかわり、どうしても登場人物たちに負わせる影を濃くしてしまう。そのような印象のなか、開放されないエモーションが、どっと暗く重みを増し、あらかじめ用意されていたはずの明るさをも飲み込んでいく。むろん、そこにいくばくかのリアリティはあるのだろう。けれども、鈍くなった光が、ある種の鮮明さをぼかしてしまう。かようなことを『17[じゅうなな]』の1巻を読み、考えさせられた次第である。〈これは高校生活最後の一年間のおはなし〉というイントロダクションをはじまりに置く『17』はつまり、詩歌と佑介のカップル、そして詩歌の友人の明、それから明が想いを抱く恵、この、三年にあがり同じクラスになった男女四人の関係が、繋がり、もつれ、ほつれ、やがてどこに到着するのか、をスモール・サークルの内における恋愛の、青春の、いつしか終わりを迎えるに違いない群像劇として展開している。ちょっとした行き違いが、過敏な傷をつけて残す描写の繊細と、その感受性には、さすが、と見入るものがある。とはいえ、その感受性は、少年少女という(すくなくともフィクションにおける)ダイナミックなシーズンを捉まえるには、いささか内向的すぎる。ところで、以前の作品である『H-エイチ-』であれば、ときおり挿入される河川の風景が、作中の息苦しさ、いわばガスを抜く効果を果たしていた。同様の役割を『17』では、雲と太陽、大空のうつくしさに与えている。このことはむしろ、登場人物たちのやりとり、笑顔だけでは、彼らを照らして十分な光度の足りない事実を、裏返し、含んではいまいか。

・その他桜井まちこに関する文章
 『minima!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『H-ラブトーク-』について→こちら
 『H-エイチ-』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
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 これは恋です 1 (1) (りぼんマスコットコミックス クッキー)

 前作『素敵ギルド』が、どうも今一歩、あともうすこしの印象に終始してしまった遊知やよみであるが、この『これは恋です』に関しては、かなりグッド、とても愉しい。すくなくとも幕開けである1巻の感想を述べれば、そうなる。〈R高校には綾井剣(通称綾ちゃん)という生徒に人気のある先生がいます〉、若く性格のあかるい男性教師である。しかし屈託のない彼にもたった一人だけ、苦手とする女生徒がいた。その生徒、遠藤伽良をどうして自分は避けてしまうのか、悩む綾井に、同僚の辺名は、それが恋である可能性を指摘する。教師と生徒間のラヴ・ストーリーという、基本的なシチュエーションに特筆すべき点はないだろう。だが『これは恋です』において、二人の関係はまず、教師の側つまり年上の男性の一方的な片想いとしてあらわれている。立場を越えてはならんとする彼の葛藤が、作品に魅力的なコメディの要素を加えている。さらにいうなら、恋愛の対象である相手側の気持ちがうかがい知れぬため、そうした葛藤が独りよがりになりがち、要するに、まさしく内面の伏せられているような他者を相手にしているので、葛藤は必然的に一段階二段階と掘り下げられ、迷い戸惑う振る舞いが、センシティヴでキュートなストーリーのラインを描く。とりあえず、第四話までは、伽良が綾井のことをどう意識しているのか、読み手に対してもほとんど明示されず、結果、どうしても綾井に感情移入させられてしまうのは演出的に巧み。綾井の一喜一憂する表情に、こいつきもい、っていうよりも先に、たいへんですなあ、と思わされるからね。おそらくは『ハチミツとクローバー』以降の、ピュアラブル指向の恋愛劇に分別してしまっていいような内容だけれども、意外にも新鮮でどきどき胸の高まる部分は多い。

・その他遊知やよみに関する文章
 『素敵ギルド』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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