![文学界 2008年 08月号 [雑誌]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51ikbgRCERL._SL160_.jpg)
『文學界』8月号掲載。お、綿矢りさもついに『文藝』以外で小説を発表しますか、と、おそらくは短篇の範疇に入る『しょうがの味は熱い』を読みはじめ、はじめに思ったのは、結局のところ綿矢は『蹴りたい背中』と「You can keep it.」が例外的に良かっただけなのかなあ、ということだった。綿矢と同じ年代の、つまり80年前後に生まれた女性作家たちが現在の若い時分にすでに一回は書き済ませているような、だらしがない同棲小説の類に感じられたためである。いや、世代や時代、もしかしたら性別にも関係なく、小説家というのは一度はこういうお話を書かなければならない、とすれば、ではその通例のどこにこの作者ならではのしるしを見つけるべきか。もちろん、文体であったりするのかもしれないし、題名のセンスであるのかもしれない。斎藤美奈子あたりだったら、作中人物の生活水準を見、料理の描写がどうとかいっちゃったりするのかもしれない。大学院に通う女性が、社会人になっている恋人のため、キッチンで晩ご飯をこしらえている場面から、『しょうがの味は熱い』の内容は立ち上がる。〈鍋が煮えるまで、またはグリルで魚が焼けるまでの、何もすることがないこの空白の時間を、私はうまく過ごせない。おかえりなさいから夕食を食べるまでの、日常の隙間の四十分が絶望させる力を持っているなんて、絃(ゆずる)に会うまでは知らなかった〉と。そうして〈今日お互いに起こったことを話したり、お腹は空いているかいないかなどのやりとりは家で彼の帰りをずっと待っていた私にとっては大切だけれど、疲れて帰ってきたうえ家でもやらなければならないことがたくさんある絃にとっては、削ってもいい時間の第一候補になるだけなのだ〉と、かすかな寂寥を覚えもしている。もちろん、寝床に入ればセックス(性交)はするし、行為が終われば睦言めいた会話も交わす。けれど、最終的には、自分と彼の内面がぴったりと一致していないことが、〈ねえ絃。なにを考えているの?/ なにを、考えているの〉という声にならない呟きをもたらす。正直、開けっぴろげすぎるよ、となるが、しかし、小説は、一方通行である女性の気持ちをよそに、視点を変え、男性側の内面までをもこちらに読ませようとする。たぶん、このへんがポイントであり(ケースはまったく異なるけれども『蹴りたい背中』におけるにな川の在り方と比べてもいい)、作者の悪意がよく出ている箇所なのだと思う。工夫がこらされ、仕掛けがあるような気がし、繰り返し、目を通してしまう。とはいえ、そうしたつくりは、一個の関係性をふくらますというより、分割していった結果上にあらわれているものでしかなく、先細り、どこか貧しい印象を持たされる。
『夢を与える』について→こちら
「You can keep it.」について→こちら
