ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年05月31日
 覇-LORD 12 (12) (ビッグコミックス)

 『FLASH』で連載されている「漫画家魂」の第1回(2008年2月26日号)で、池上遼一が、原哲夫の登場を振り返り、次のようにコメントしているのが印象的だ。〈彼の作品を初めて見たとき、劇画界にも男の美学を描く新しい才能が出てきたんだ、と嬉しかったですね。同時に少し嫉妬もしたんですよ。というのは、彼はギャグも描けるでしょ。シリアスな闘いであっても、その間にどこかふざけたキャラを配置する(略)昔、『ジャンプ』の編集長に言われたことがあるんです。「キミの絵は洗練されすぎている。どこかバタ臭いものがないと売れないよ」って(略)そもそも『蒼天の拳』の霞拳志郎を描くことはできるけど、虎(フー)さんのような三頭身のギャグ的キャラなんて(略)ボクには描けないよね〉と。

 これは今日のマンガ表現におけるイディオムを考えるさい、意外と貴重な証言なのではないかと思われる。たとえば、原のアシスタントから出てきた森田まさのりなどは、劇画的なタッチを引き継ぎながらも、ほんらいはシリアスな線の登場人物を屈託なくデフォルメさせることができるし、さらにはギャグだけで丸々エピソードをつくれてしまう。ちなみに『週刊少年サンデー』第16号(2008年4月2日号)で、池上は、自らの出世作である『男組』をセルフ・パロディ化しているが、それはちょうど、出来上がっている映像にあわせマトはずれなアテレコを加えているようなもので、ギャグという要素をその作風のなかでうまく消化しているとは言い難い。野中英次を認めているのも、おそらくは、そうした資質の部分で、自分とは完全に別個の表現であると承知しているためであろう。だが、ここで重要なのは、かつては〈洗練されすぎてい〉て、〈バタ臭いものがない〉とされていた池上の作風が、今日の目からすると、間逆の意匠に見えかねないという点で、若い読み手は、たぶん、池上の作風を洗練とはとらないか、あるいはもしかしたら、そうして洗練された様式を、「ベタ」だとか「ネタ」だとかいう現代ふうの、オートマティックな意識で解釈している雰囲気である。

 まあたしかに、そのきわめて劇画的な、それこそオールドスクールと言い換えてもよい作風には、どうにもこう茶化してみたくなるような誘惑が備わってはいる。この、武論尊と組み、“超”三国志を標榜する『覇―LORD―』の12巻でいえば、公孫サン(漢字出ません)と張燕とが、泣きながら兄弟の契りを交わすくだりは、たまらないよね。ひさびさに再会した二人は、その感激を分かち合うべく、連れだって娼婦を求めにいくが、しかし二人ともがあまりにも醜男だったので、ことごとく同衾を断られてしまい、そして〈どうやら オレ達ァ、“女”より“国奪り”だなァ 兄弟……〉と、自分たちの使命に気づき、結束を固めるのであった。ああ、このときの張燕の表情のすばらしさといったら。まちがいなく、名場面に挙げたい。などという冗談はさておき。

 全体の流れに関しては、常元の暗躍と劉備の人徳とが、ここにきてあきらかな対照となり、物語を動かすキーとなっているのが見逃せない。『覇―LORD―』において、彼ら二人は倭の国から大陸に渡ってきた、つまりは古代の日本人に設定されている。以前にも述べたが、主人公である劉備は、いうなれば、先進国が発展のなかで失ってしまった価値観を、後進国からやって来、復権させる役割を負っている。そこで働いているのは、歴史的には遅れている者が、じつはコスモポリタン的に先んじている、の逆説だろう。だが、それに対し、常元という、たしかに弁は立ち、狡猾ではあるが、しかし後進国の遅れが野蛮にしか現れえない人物を導入することで、一種の弁証が、作中に出来上がっている。両者の対照の内から引き出されるのは、個人のレベルで文化と精神とが熾烈に衝突し合うイメージである。このことの意味は、むしろ彼ら周辺の人物への影響となり、表されているといえる。それにしても、まさか、卑弥呼が再登場してきたのには、おどろかされたな。

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2008年05月30日
 『少女と少年と大人のための漫画読本2007-2008』は、野中モモが『流行通信』誌に〈一年に渡って書いた漫画レビューの原稿をまとめ〉た第一部と、彼女が〈いつもその動向を気にかけている漫画目利きのかたがたに、07年に面白かった漫画と08年の注目作をお聞きしたアンケート〉をまとめた第二部の、二部構成になっている自主制作誌である。自主制作誌とはいえ(いや、だからこそなのかもしれないが)、ガイド・ブックとしてたいへん便利に機能し、とても愉しく、読み応えのある内容となっている。たしかにある種の偏りはあるけれども、その偏りを自覚する鋭敏さが、決して排他的ではないポピュラリティをもたらしている。個人的に、ここで取り上げられている作品はだいたいフォローしているので、今まで知らなかったものを教えてもらえてうれしい、ということはなかったが、自分とは違う目線で、とある作品が評価される、そのことから得られた点が多い。たとえば、鳥飼茜の『わかってないのはわたしだけ』は大好きなマンガで、野中の述べていることにほとんど異論はないのだけれども、作中に登場するロック・バンドの固有名詞を見、そこから引き出される〈女子バンドを配したところにセンスとガッツを感じます〉という感想の、とくに〈ガッツ〉という部分は、自分ではうまく拾えなかった印象であるにもかかわらず、まさしくそのとおりだな、と頷かされる。もしかしたらメタ批評といえるかもしれない「漫画ランキングをランク付けしない」以降の第二部や〈「漫画レビュアー心得」のようなもの〉を紹介する「リルマグ漫画文庫ジャーナル」では、第一部でマンガそのものに傾けられた愛好が、マンガをめぐる現実の観察へと姿を変えている。言うまでもなく、両者は分離的に存在するものではない。マンガを読むことが、たとえ趣味であろうが生き様であろうが、主観と客観とが相関し合うところでこそ、その態度がはかられ、問われなければ、たいした価値や意味を持ちえないのである。体裁はコンパクトであるし、語り口や切り口はユーモアにあふれているが、しかしそれ以上のおもしろみが備わっているように思われた。
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 個人的には、小説『サマースプリング』の作者でもある吉田アミには、つねづね、南勝久の『ナニワトモアレ』(『なにわ友あれ』ではなく)を論じて欲しい、そう思っているのであった。もしかしたら否定的な言葉の出てくる可能性がつよいが、それでもそこには、昭和と平成の分岐が、あるいは80年代の終わりと90年代のはじまりが、そして暴力と抑圧の対照が、さらには男根主義と女陰主義の相剋とが、おそらくは明瞭に示されることになるだろう、と予感されるからである。いやもちろん、趣味じゃないとかの一言で簡単に通り過ぎてしまう可能性のほうがもっとつよいのだけれども、しかしまあ。そのことはべつとして、この同人誌『ヨシダマガジン2 マンガ読んでる?』には、マンガについてのレビューが、長いものから短いものまで、それなりの数収められており、正直なところ、あまり説得されないものもすくなくはないのだが、たとえば徳弘正也の『狂四郎2030』に関する文章において、〈(略)ツメが甘いのは作者が女性に愛情がありすぎるからなんだろう。わからない部分はわからない、で逃げちゃってもいいのに描いちゃったので残る腑に落ちなさ(略)志乃の内面描写に魅力がない。なんでそこまで被害者意識がないの? 相手が悪いという思考にならなさすぎるというか。そう、優しすぎるし、もっと自分に都合のいいように正当化するもんじゃないのだろうか〉といっているあたりに、書き手の資質もしくは趣味がよく出ているように感じられる。そのほかには、ロクニシコージについて書かれている長文が、読んで、おもしろかった。『すべてに射矢ガール』に『こぐまレンサ』という、とてもすぐれていながらも、一般のレベルではさほど広く認知されていない二作品の、読まれるべきところを、たいへんわかりやすく取り上げている。
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2008年05月29日
 From First to Last

 これは超高性能、もしくは超高機能的なエモっ気ラウド・ロックといって差し支えがないだろうね、のFROM FIRST TO LASTのサード・アルバム『FROM FIRST TO LAST』である。脱退したヴォーカルのかわりに、新任を迎えず、バックでヴォーカルをとるギターの1人がフロント・マンに回る、そのような体制の変化が、06年の前作『HEROIN』と本作とのあいだには生じているのだけれども、ともすればダメージになりかねない転機を、うまく、自分たちの成長、すなわち年齢や技術、音楽性のすべてにかかるといってもよいような成熟のアピールへと持っていっている。初期の、スピーディな演奏のなか、スクリームの勢いを借りて、カタルシスを、どかん、と炸裂させる手法は、『HEROIN』の時点で後退的になりはじめていたが、ここでの主体はもう完全に、伸びやかなメロディと適度に硬質な重低音のグルーヴであって、ダイナミックに盛り上がるべきところはダイナミックに展開し、抒情性でいけそうなところには際立った抒情性を盛り込み、ドラマティックに響き、なおかつコマーシャルにも聴こえるサウンドをつくり出している。もちろん、ラディカルであることをロック・ミュージックの大事とする評価からしたら、とくに先端を思わせる部分はないし、鳴らされるエモーションも人工的というかやや図式めいたきらいがある。それこそMETALLICAの『METALLICA』以降の、アメリカのメインストリームを洗練させていったら自然とこうなる、というような。だが、楽曲一個一個のクオリティは、まちがいなく、高く、十分なフックを持ち、それらの総和であるアルバムは、他の同系統と比べものにならないほどパワフルな魅力にあふれる。

 『HEROIN』について→こちら
 『DEAR DIARY,MY TEEN ANGST HAS A BODYCOUNT』について→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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 たとえば、世界が無数にあるとして

 オンライン同人誌『CHILDREN』Vol.04に「終わりもなく、はじまりもなく――生田紗代『たとえば、世界が無数にあるとして』について」という評論を書きました。題にあるように、生田紗代の小説『たとえば、世界が無数にあるとして』を論じております。わりと長めの内容なので、時間があるときにでも読んでいただければ→こちら
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2008年05月27日
 ムカンノテイオー 4 (ヤングガンガンコミックス)

 巻数というものが、そのマンガの人気をうかがうひとつの基準になるとしたら、玉置一平(監修・取材協力 / HTロクシス)の『ムカンノテイオー』が全4巻で終わっていることは、そこそこ読まれていながらも、決して大勢に読まれていたわけではない、との印象を寄越す。たしかに今日の流行からは、すこしずれたところに位置する作風であるし、キャッチーとは言い難い内容であるように思う。いや、何もそれは、元ヤンキーが主人公だからだとか、テレビ業界を(たとえリアルを謳っていたとしても)通俗的に描いているからとか、お色気の要素に肉の感触がつよすぎるとか、ということではない。物語の背景にある社会への接し方が、いささか生真面目であるあまり、汎用的なダイナミズムが、うまく備わらなかったことを意味する。いっけん、問題児VS制度のセオリーを用いながらも、問題児が制度に勝つ、負ける、を描かず、むしろ制度の側に立ってみれば、問題児も駒の一個に過ぎない、といった描き方がされているため、ダイナミックな展開が、後ろへ引っ込んでしまっている。そのことは、ゴミ屋敷を捏造してしまった主人公の平蔵が、罪と罰を免れるかわり、ある種の理不尽さを引き受けなければならなくなる様子に、よく現れているだろう。ただし個人的には、それを悪く評価しない。社会との直接的な取り引きのなかに、主人公のアイデンティティを置くことで、モラトリアムの幻想をイノセントであり正義であると勘違いした内容からは、十分に離陸しているためだ。残念を述べるとすれば、その先の地平にまで作品が飛んでゆけなかったことである。

 1巻・2巻について→こちら
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2008年05月26日
 『スタンド・バイ・ミー』は、小路幸也の「東京バンドワゴン」シリーズの第三作目にあたる小説で、語り手の配し方を含め、そもそもの設定、全体の骨格といってもよいそれがしっかりとしているため、物語内部の時間が進み、登場人物が増え、彼らの生活や環境に変化があろうとも、一作目の時点ですでに形成されていた読み心地の好さに崩れはなく、その世界に、ある種の安心感を抱きながら、浸ることができる。もちろん、作中で起こるあれこれは、ほとんど、お約束、予定調和の範囲にほかならないし、おどろきに値するハプニングすら、平和的な解決の前段階であって、そこへ至るまでの過程を追ううち、思わず泣かされてしまう場面もすくなくはないのだが、涙は、けっして悲しみに寄り添わない、この、人の温もりが人の残酷さに敗北する、いうなれば破滅的な要素のまったく排除された筋書き自体は認められるにしても、それの繰り返される構成に、ケチをつけてみせることは、おそらく、可能だろう。しかし「東京バンドワゴン」シリーズの魅力は、現実世界の重力を、ちょうど跳躍するときのかっこうの、地についている側の足には感じたまま、先に浮かせた側の足は、そこから自由になっているような、力強さが、すべての篇を通じ、損なわれていない、むしろ際立ちを増して、こちらに届いてくる点にある。『スタンド・バイ・ミー』に収められた四つのエピソードの、ラストのエピソードの、文字どおりクライマックスとなっているのは、とあるスキャンダルを掴んだ記者の悪意とそのスキャンダルを世間に出したくない堀田家の善意とが、対決する場面である。記者の訴えかけは、もしかすると「東京バンドワゴン」シリーズが持つあかるさに対する反発でありうる。つつがなく生きられるのは一部の人間のみであり、大多数の人間はそうではない、したがって暗さを引き受けざるをえないのだ、と、彼は言っているふうにさえ思える。たしかに展開は、作品の力学にそって、主役である堀田家の立場に力を貸している、けれども、こうしたデリケートな問題を扱うにさいし、作者は周到な手続きを踏み、ぶんぶん振り回すバットにボール球が偶々当たってホームランになりました、式の都合のよさだけは斥けている。そうすることで、堀田家に象徴されるモラルの存在が、たとえ条件付きであったとしても、現実世界の前に、かならずしも非力、無意味ではないことを表現するに至る。

 『シー・ラブズ・ユー』について→こちら
 『東京バンドワゴン』について→こちら

・その他小路幸也に関する文章
 『HEARTBEAT』について→こちら
 『そこへ届くのは僕たちの声』について→こちら
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2008年05月25日
 王子ってやつが、他人から好かれたり、もてたりする存在の代名詞であるなら、一度はそう呼ばれてみたいもんだな、と思う。ぶさいく王子というのでもいいよ、いや、だめだろ、それはさすがにもてなさそうである。中原アヤの『ときめき学園・王子組』は、じっさいにどこかの国のプリンスが、というのではなくて、比喩的な意味で王子と称されるような快男子たちに恋をしたヒロインの姿を描く、四つの篇によって成り立っているオムニバスのシリーズで、コミカルなやりとりやテンポの良さに、この作者の、らしさ、は感じられるものの、正直、新規で導入された他のマンガ家からの影響が消化されず、随所にそのまま出てしまっていること、話のつくり自体にそれほどのインパクトがなく、作中にこしらえられているフックやギャップがあまりにも類型的であるせいでフックやギャップとして生きていないこと、などを欠点に挙げられる。ラスト・エピソードである「おまつり王子」に関しては、決して下手くそな作家ではないので、不便なく読めはするけれども、いかにも間に合わせのような出来に少々鼻白む。が、どの篇も、王子と注目されるほどの人間が、大勢の女性のなかから、どうしてその一人を選んだかについて、過渡にロマンティックになりすぎず、適度に納得のいく、手堅さでプレゼンテーションできている。そのことを美点に挙げられる。

 『ラブ★コン』
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  11巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
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2008年05月24日
 メルマガ『週刊ビジスタニュース』(2008.05.07配信号)に文芸誌に関する文章を書かせていただきました。現在、WEB上でも読むことができますので、お時間があるときにでもチェックしてください→こちら
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 異性に苦手意識があるとき、または自分の気持ちが報われないようなとき、女の子にしてみれば、男なんて、ということになるのだろうし、男の子にしてみれば、女なんて、ということになるのだろう。こういう呟きは、たぶん、いつの時代にあっても変わらず、ある。ななじ眺の『コイバナ! 恋せよ花火』の2巻では、それまで男の子の良さがさっぱりわからず、恋になんかまったく興味のなかったヒロイン、丸井花火が、高校に入って知り合い、最初は嫌な奴だと思っていたはずのイケメンさん、宇野誓のことを、もしかしたら好きになっているのかもしれない、と自覚する様子が描かれている。だが、初心な花火にとって、その、イレギュラーな心の動きは、ただただ混乱を招く一方でしかなかった。そうした内面の混乱を、どたばたとしたコメディに移し替えるさいの手つきに、この作者の良さがとてもよく出ていると思われ、1巻にもましておもしろい内容になっていると感じられる。新規で登場する女講師、AMI姫もじつにユニークな人物である。〈自称28歳 実年齢45歳〉と自分でいってしまうところが、本当か嘘かは知らないけれども、すげえインパクトがある。それから佐々くんが、やっぱり、いいよね。やさしくて、気が利く、こういう男子はもててしかるべきであろう。色気より食い気な元気いっぱいのぽっちゃりさん、厚美が顔を赤らめるのも、わかるわかる。さらに、花火の友人である美衣の思わせぶりな行動が、まあ、おそらくは彼女が同性愛者あるいは性同一性障害という設定の伏線なのでしょうが、ワキの部分を賑やかにしている。しかしながら、と、注意しておかなければならないのは、あくまでも花火の恋が物語のメインだということであり、そして前途は多難だということにほかならない。ヒロインの好きになった男性にはすでに彼女がいる、ばかりか、その彼女はルックスも性格も良い、このような前提を置いてしまった少女向けのラヴ・ストーリーは、たいてい、先に進むにつれ、失敗する。なぜなら、恋愛対象である男性が今付き合っている彼女と別れ、ヒロインを好きになる、もしくはヒロインを好きになったので、今付き合っている彼女と別れる、いやまあ手続きはどうであれ、なぜヒロインを選んだのか、といったポイントに対し、つよい説得力を与えることができなかったりするためだ。ある程度、大人向けであれば、なんとなくであったり、場のムードやノリであったりしても、そういうことってあるよね、と解釈されるが、恋愛がイノセントな感情の結果だと信じられているような表現にあっては、身近にいたほうが勝ち、(じっさいに性交するわけでなくとも)寝取ったら勝ち、の美学は、そもそものテーマを壊しかねない。はからずも2巻には、誓の恋人とたまたま挨拶する機会のあった花火による〈別に 望まないし 望めないし 勝ちとか 負けとか 考えもしなかったけど 完敗な私は 宇野誓の目にどう映っているのだろう〉というモノローグがあるけれど、じっさい、誓が心変わりをすることがあるとしたら、相応の必然を、作者は、今後の展開に用意しなければならないのである。それこそ心変わりの理由にルックスや性格以上のサムシングを。この難問をどうクリアーするか。正直なところ、序盤はすごく楽しかったのに後半がかなり残念になってしまった前作『パフェちっく!』を思い出してしまえば、どうしても不安を覚えざるをえないのだった。

 1巻について→こちら

 『パフェちっく!』
  22巻について→こちら
  19巻について→こちら
  14巻について→こちら
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2008年05月23日
 前巻のときにも思ったのだけれど、やはり、こういう多国籍なハード・アクションになると、石渡洋二(原作)の絵が懐かしくなるな。いや、山根章裕のシャープな線もけして嫌いではないのだが、もうすこし無骨な感じが出ていたほうが、血や肉の残酷さがよく伝わってくるように思う。しかしながら、そういう、スマートでもある山根の作風との化学反応によって、ここまで連載が続いた、現在も続いている可能性が考えられる。たしかにこれだけの長さの作品は、今までの石渡のキャリアにはなかったものに違いない。さて。『デンドロバテス』の4巻、昼は新宿北署の会計課に勤務し、夜になれば「千の銃の男」の名を持つ復讐代行人に変わる仙川は、たまたま知り合った日系コロンビア人女性の敵を討ったことから、蛇と呼ばれる新興の外国人勢力と対決することとなる。そして読み手が知らされるのは、どうやら仙川と蛇とのあいだには何か因縁がありそうだぞ、ということである。石渡の過去作、『フロンティア』では北朝鮮を、『青侠(ブルーフッド)』(原作・江戸川啓視)では中国を、と、他民族の価値観を用い、この国を相対化し、さらには弱者と強者との、貧困と裕福との、生と死との対照のなかから、プライドとでもいうべきものの重たさを引き出した手法が、『デンドロバテス』においては、南米のアンダーグラウンドから日本に流れ込んできた人びとによって為されていることはあきらかで、蛇の頭領であり、孤児を人間爆弾に使いながら神の慈悲を語る男、ライコ(俗人)の登場が、おそらくはそれに拍車をかけることとなるのだろう。ところで、この巻には、そうしたおおきな動きとはべつに、一話完結型のエピソードが二つ、収められている。高級料亭の擬装問題にネット難民と、どちらもいわゆる時事ネタを盛り込んだ内容であるが、日本人ってほんとうに駄目になっちゃったんだなあ、でも全部が駄目になっているわけでもないんだろうね、という印象のうちで扱われているのも、基本的にはプライドの問題だといえる。

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2008年05月22日
 将来を嘱望されるフィギュアスケート界の至宝、現在15歳の月岡ノエルが、その手の推薦を蹴ってまで、進学校の四ツ葉学院に受験入学したのには理由があった。幼い頃から思慕している兄の尚人がそこで教師をしているためである。一方、尚人は、いつまでも兄離れしない妹を、とても可愛らしく思い、嬉しくもある反面、複雑な感情にとらわれていた。なぜなら、彼らはじつは血の繋がらない兄妹であったからだ。ノエルだけがまだそのことを知らない。こうして、ノエルと尚人の、周囲の人間を巻き込んだ賑やかな日々が、幕を開ける。と、つまり山花典之の『ノエルの気持ち』は、オールドスクールな近親間のラヴ・コメディといえる内容であり、作者には似たタイプの過去作として『妹』とそのリニューアル版『妹〜あかね〜』があるけれど、おおきく異なっているのは、二人の両親が健在のうえ、中流もしくは上流(に見えるような環境)に生活レベルが引き上げられている点だろう。これにともない、幸せファミリーの一家団らん的なムードのつよい作品になっている。そのため、抑圧であれ、愛情であれ、家族という関係性から生じる葛藤が薄口になり、兄妹のあれこれも、どこか、嬢ちゃん坊ちゃんのママゴトじみてしまっている。もちろん、1巻の段階で、これを不備とすることは、いささか性急に違いない。おそらく、物語が進むにつれ、尚人が養子であることや、ノエルに対する大勢の期待などが、シリアスな問題となり、浮上してくると思われるからだ。しかし、そういった展開が読めてしまうことを残念に思うのである。いや、キュートな振る舞いの女性たちが多数登場してくるドタバタ劇としては、さすがにキャリアを積み重ね、それ用の作風が出来上がっているだけあり、楽しい。が、その観点からいくと、正直、女の子のデザインは以前までのほうが良かったような。どうしてこう、目や唇のかたちを(シリアスなタッチのときの)森下裕美みたいにしてしまったのか。元の絵柄に加えられた新機軸が、ところどころで歪に作用している。

 『オレンジ屋根の小さな家』7巻について→こちら
 『夢で逢えたら[文庫版]』第1巻 第2巻について→こちら
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2008年05月21日
 ええと、この『聖闘士星矢 EPISODE.G』0(0巻)には、車田正美の本編『聖闘士星矢』の前日譚を岡田芽武がマンガ化した『聖闘士星矢 EPISODE.G』のさらに前日譚にあたる「アイオロス編」と、『聖闘士星矢 EPISODE.G』の足跡をまとめた「銀河百科事典」が収められており、「アイオロス編」に描かれているのは、超人同士の壮絶なバトルというより、『聖闘士星矢 EPISODE.G』の序盤にあったような、現代文明のなかで聖闘士(セイント)がいかなる役割を果たしているか、秘密裏に人類の平和を守り、保つ働きだといえるわけだけれど、『聖闘士星矢』本編でも、『聖闘士星矢 EPISODE.G』でも、キー・パーソンとして注目を集めながら、しかし活躍そのものはあまり取り上げられることのなかったアイオロスの、そのポテンシャルがどれほどのものであったのか、ようやく見られるのが、うれしい。さらには『聖闘士星矢 EPISODE.G』の黒幕的な存在であるポントスの復活に、アイオロスとアイオリアが絡んでいたというのは、因縁めいている。それにしても、アイオロス、いやまあ、車田の設定ではないのだろうが、ずいぶんとキュートな人物である。まだちびっ子であるアイオリアを可愛がったり、意外とアバウトであったりする様子は、のちにアテナを死守した英雄と語れる像とは、いっけんかけ離れている。が、やるときはやる、凜とした立ち姿からは、やはりこれが、あのアイオロスなのだろう、と説得させられる。このへんに、岡田のアレンジのセンスの良さが出ているように思う。

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 二刀聖剣(ダブルエクスカリバー)、神を貫く。まさに捨て身の覚悟というべきか、拳の砕けることを畏れぬ覚悟が、シュラを加速させ、ついにクレイオスとの戦いに決着が訪れる。やがて崩れ落ちるクレイオスが述べる言葉のかっこうよさときたら。〈その力 己の魂と引き換えに得た刃は いかなるものであろうと斬り裂くのだな 仮令(たとえ)相手が神であっても〉。以前にもいった気がするけれど、『聖闘士星矢 EPISODE.G』における最大のテーマは、やはり、たとえ運命が神によって予め定められていようとも人はけして無力ではない、ということだろう。この一戦も、それを見事なほどのスペクタクルに変え、烈火のごとき熱のうちに表現していたように思う。そして、シュラの敢闘を含め、これまで聖闘士たちの起こしてきた奇跡が、とうとう神の側に動揺を与える。人間の強さが、その有限である一生に由来していることを見抜いたティターン神族のコイオスは、約束されたアイオリアとの一戦に、勝利すべく、自らの命を懸け、のぞむ。雷光電撃(ライトニングボルト)VS漆黒刺突(エボニーレイピア)、雷と雷が衝突し合う、ここからの展開が、いやまた燃えるなあ。力、力、力、逆賊であるアイオロスの弟であるがゆえ、ただ孤独に力だけを求め、強くなってきたアイオリアを、ティターン神族全体の未来のため、死をも厭わぬコイオスが圧倒する。だが、アイオリアには、あった。〈その力は神である私を倒せる力なのか?〉と問うコイオスに、〈倒す…力じゃない これは…全てのものを…守る…力だ…〉と答えるだけの力が、まだ、あった。それを勇気という。〈勇気ある者に…こそ奇蹟が起こる…!!!〉のである。瀕死の状態にありながら、なお小宇宙(コスモ)を強大にするアイオリアの拳に奇跡が宿る、そのときをおそらく、コイオスは目のあたりにすることとなる。

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2008年05月20日
 群像 2008年 06月号 [雑誌]

 『群像』6月号掲載。第五十一回群像新人文学賞に選ばれた松尾依子の『子守唄しか聞こえない』は、海と山のある地方都市を、一個の世界として見、その閉塞に違和感を覚えながら生きる女子高生を語り手に置いた小説で、まあ概要自体は、女性作家によるライトノベルやケータイ小説にもしばし見かけられるものであるし、要するに少女マンガ的といおうか、少女文学的といおうか、とにかく、そうしたナイーヴさを土台にしており、家出や自殺などの作中で起こる事件も含め、注目に値する部分はすくない。しかし作者が、それについてけして無自覚ではないことは、次のような一節からうかがえる。〈この光景に、妙な既視感を覚えた。こんな風に複雑な気持ちで自分達の行く末を話し合う若者を幾度も見てきた気のするこの既視感の目線は、しかし私のものではないだろう。幾度も繰り返されてきた普遍的なこの一場面を通ってきた、先人達の目線だ。/ そうした大きな目で見れば、特別なものなど何もない、手垢にまみれた一場面ではあるが、それでも私たちは繰り返さなければならない。打ち砕けては引いてゆき、また打ち返す波のように、自分も波の断片となって繰り返す他ない。何度となく続いてきたリズムの一端を担うだけのことだが、それでも、自分たちとしてはたった一度の当事者としての緊張を味わいながら〉。つまり、こうした〈特別なものなど何もない、手垢にまみれた一場面〉でありながらも〈自分たちとしてはたった一度の当事者としての緊張〉が、いかに描写されているかが作品の重心にあたるわけだが、それを出来事のほうにではなく、あくまでも〈私〉という自意識に寄り添わせるような書き方は、そこが純文学っぽいとすればそうなのかもしれないけれど、やや怠い、とはいえ、その〈私〉である主人公の美里の自意識に、彼女のクラスメイト真沙子の存在が深く絡んでくる中盤は、なかなかにスリリングで、引き込まれる。たぶん、〈私〉の認識にそって成り立つ作品のなかの関係性が、はっきりとさせられている箇所だからだと思う。恋人であるタイラと三人の男友達に囲まれているとき、彼女は、性差を条件とする隔たりを逆手にとって、自己を理解している。〈私〉は彼らとは違う、彼らとは違うからこその〈私〉なのである。だが、ここにもう一人、女性が加わり、四対二の関係になるとすれば、まさしく四対一であるがゆえに得られた単独性は失われてしまう。もちろん、そうした四対一の関係における一の側が、誰とでも入れ換え可能なものであったとしたら、なおのこと自他の区別は曖昧化する。このような事実への畏れが、美里に、真沙子に対する不快感を与えている。反対に、真沙子の登場と接近は、タイラの彼女という立場からゆるやかに女性性を行使し、自分に都合のいい立場を、意図的につくり出している美里への批判ともとれる。たとえば、もしかすると書き手や語り手の性差の問題なのかもしれないけれど、白岩玄の小説『野ブタ。をプロデュース』が、他人をプロデュースすることで狭く残酷な世界を生き抜こうとする作品であったとしたら、『子守唄しか聞こえない』は、セルフ・プロデュースによってそれを為そうとした作品だと解釈することも可能だろう。それにしてもなあ、作中人物たちが住んでいる地方都市に、田舎というわりに田舎の住みづらい感じ、環境があまりよく出ていないのには、いちおう温泉街の周辺で駅前は開発されているとの説明は為されている(そりゃあ東京にくらべれば、どんなに発達した郊外だって田舎になってしまう)ものの、もうすこし、舞台をそこにする必然、リアリティがあって欲しかった。
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2008年05月19日
 Heavy Music

 すぐれたロック・ミュージックを聴くと元気が出てくる。これはなぜなんだろうな、と思う。おそらく、テクニカルに分析していけば、音の配列がそういうふうになっている等の理由付けをすることは可能だろう。が、しかし考えることは疲れるし、もちろん疲れは元気を奪うので、ロックは理屈じゃないと単純化されるか、あるいは極度に抽象的な精神論で解説されるのが、常となる。とはいえ、それをかならずしも悪だとは判ぜられない。なぜなら、結果的に、すぐれたロック・ミュージックは分析を拒む、と言い換えることもできるからだ。そう、たとえば、スウェーデン出身の5人組、THE SOULSHAKE EXPRESSが、そのファースト・フル・アルバム『HEAVY MUSIC』のなかで奏でているサウンドの話である。名は体を表すという言いがあるけれど、これがちょうど、ソウルのシェイクをエクスプレスしているかのようなヘヴィ・ミュージックといった感じで、いやまあ、どんなんだよ、ってな話ではあるが、しいていえばREEFとKULA SHAKERのミックスと喩えられなくもないかな、基本は60年代的であったり70年代的であったりの、要するにヴィンテージな指向のロックン・ロールというか、バック・トゥ・ベーシックなハード・ロックにほかならないのに、ブルージーな渋みとファンキーな躍動が一緒くたになり押し寄せてくるような、そういうシンプルでソリッドなダイナミズムを耳にしているだけで、どうしてか、やたらと元気が出てくる。「ウッ」と叫び、「オオッ」と叫び、「イエー」と叫び、「ベイビー」と叫ぶ、ヴォーカルの歌い回しは、雄々しく、セクシーであるし、いちいち決まっているギターのフレーズもナイスで、やわらかく跳ねるオルガンの旋律がそこかしこに効果のおおきなアクセントを与える。そして何よりもまず、低音のずしりと響く、骨太なグルーヴが、たいへん心地好い。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2008年05月18日
 周知のとおり、矢沢あいの『NANA』で語れらているのは〈あの頃〉のことであるが、しかし、たとえば紡木たくの〈あの頃〉が現在を過去として回想する視点であったのとは違い、まさしく現在からの視点で回想される過去でしかなく、この現在と過去のあいだに何が起こったのかを、ちょうど穴埋めするような手法の〈あの頃〉であることが、じょじょに明瞭となってきているのだけれども、同時に気づかされるのは、描かれている現在の内容からするに、物語の結末は未来にまで時間が進まないとやってこなさそうだぞ、ということである。未来とはすなわち、現在がすっかりと語られ、そしておそらく、ナナとハチ(奈々)とが、何らかのかたちで、再会することを意味する。もちろん、現在がすっかりと語られるためには、そこへ至るまでの経緯が十分に説明されていなければならない。ここで注意しておくべきなのは、そうした穴を埋める作業が、他ならぬ現在において作中人物たちがいかなる問題を抱えているのか、を解説する役割を果たしていることで、この19巻では、順調に子供は育ち、生活も裕福でありながら、しかしハチの置かれている状況はまったくの幸福だといえそうもないことが、あかされる。物語のはじまった当初より、ハチは恋に生きる女性であった。換言するなら、誰かを愛し、誰かに愛されることでしか、自分の居場所を得る術を知らなかった。それを愚かだと批判するのは容易い。だが、この世のすべてが平等には成り立ってはいない以上、そのようにしか生きられぬ人間というのもいるのではないか。この巻には〈ねえナナ こんな話 知ってる?〉とはじまるモノローグがある(P129)。これはもちろん、タクミとの仲が健全に機能していない、つまり現在の時点から発せられているものである。にもかかわらず、そのモノローグは〈ほんとは今も好きなの〉と閉じられる。ここは前後の文脈を踏まえたとき、たとえ愚かだとしても笑うことができないぐらい、切実で、せつない印象を寄越す。

 18巻について→こちら
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2008年05月17日
 スプラウト 7 (7) (講談社コミックスフレンド)

 この7巻が南波あつこ『スプラウト』のフィナーレにあたるが、やっぱり、ちょっと、残念な内容だったかもしれないねえ、というのが最終的な評価である。それはひとえに、本来区別されるべき恋愛感情と家族愛とが、ごっちゃになってしまったためであろう。いや、もしかしたら作者は、恋愛感情と家族愛とを区別するべきではない、もしくは両者に共通する、つまり自分以外の誰かを想うことの価値を掘り下げようという意図のもとに、あえてごっちゃにしたのかもしれない。だが、たとえそうだとしても、やはり、やり方が、浅はかで、薄っぺらく、拙すぎた。家族は大事、恋人は大事、というのを前提にしながら、ではなぜ家族が大事なのか、なぜ恋人が大事なのか、作品はまったく答えようとしていないのである。そして結局のところ示されたのは、たかだか、家族は大事だから家族は大事、恋人は大事だから恋人は大事、程度のトートロジーにほかならない。〈俺 俺 ときどき心配だった みゆは 俺じゃなくてもよかったのかなって あのとき最初に声かけたのがたまたま俺だったから みゆは俺を選んだだけで‥‥‥‥俺じゃなくても他のやつでもよかったんじゃないかって ずっと不安だった〉と草平が口にする言葉は、恋愛感情において、本質的な不安だといえる。しかしそれは、みゆと草平が別れる理由にはなっても、草平が実紅と付き合う理由にはならない。なぜ草平が実紅を選んだのか、なぜ実紅が草平を選んだのか、やはり、たまたま一つ屋根の下で暮らす機会があったから、にすぎないのではないか。そうしたもっとも重要とすべき部分を描くにあたり、家族の関係を例に出し、すり替え、誤魔化してしまった印象を受ける。なるほど。たしかに、どうして家族は大事なのか、それは家族だからだよ、という問答は、いちおう成立するには違いない。血縁関係がはっきりとしていればなおさらである。けれども、どうしてその恋人でなければならないのか、どうしてその恋人が大事なのか、という問いに対し、それは恋人だからだよ、と答えてみせるだけでは、そもそも赤の他人である存在を受け入れる理由として、ほとんど何も言っていないに等しい。なぜその人のことが好きなのか、ラヴ・ストーリーであるような物語において、そこに気分以上の材料を与えられていないことは十分な疵に値する。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2008年05月16日
 タイトル曲のほか、二人一組で各メンバーのソロ・ナンバーをわけて収めた3種類のヴァージョンを初回限定盤とする(タイトル曲のみの通常盤を含めれば4種類の同時リリースとなる)戦略をとったKAT-TUNのニュー・シングル『DON’T U EVER STOP』であるが、個人的には、赤西くんと田中くんの盤がフェイヴァリットである。理由は単純に、他の2枚にくらべ、激しめの内容になっていると感じられるからだった。打ち込みのダンサブルなトラックに、全編自作の英語詞をのせた赤西くんの「LOVEJUICE」にしても、ヘヴィ・メタリックなギターが響き、田舎の不良くさい歌詞をがなる田中くんの「PARASITE」にしても、どこかアメリカのロック・バンドLINKIN PARKっぽいところがあって、そのへんに、現在ジャニーズ系のなかでもっともミクスチャーな方向性をゆくKAT-TUNの、音楽面における背骨のようなものが透けて見える。メインである「DON’T U EVER STOP」に関しても同様に、彼ら二人の貢献はおおきく、赤西くんのセクシーなヴォーカルと田中くんのワイルドなラップがなければ、おそらく、ここまでの仕上がりにはならなかっただろう。あるいは逆に、彼ら二人の存在を前提につくられた楽曲である可能性が高い。いや、だからといって六人のバランスが崩れているというのではない、むしろ、彼ら二人が自分たちの役割をしっかりとこなし、それがKAT-TUNというグループに固有なアクセントとして機能することで、今までに発表されたどの楽曲より、もしかすると、この六人による本来的なバランスの効果、魅力の備わっているかもしれない印象を受ける。踊りながら歌うことを目的視したかのような曲調はセカンド・シグナル「SIGNAL」の路線に近しいといえるだろうか。しかしアグレッシヴなスタイルのギターをフィーチャーし、重低音がびんびん轟くサウンドは、ここ数作のシングルの延長線であるふうにも思える。そうした鳴り自体の触感や、裏切りの街角に生きる俺と君という、SPINが提供した歌詞も含め、グラマラスなバッド・ボーイのイメージにあふれている。コンセプト的にははまっている気がするので、6月発表予定のサード・アルバムに、この曲も入れて欲しかったな。

 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら
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2008年05月15日
 ちはやふる 1 (1) (Be・Loveコミックス)

 末次由紀『ちはやふる』の1巻を、08年上半期最大の収穫として挙げたい。それぐらいこのマンガはおもしろい。もうすでに30回は読み返しているけれど、そのたびに鮮度の高まっていくような興奮がある。

 まず第1話目(第一首)の冒頭、単行本のページでいうと4ページ目から7ページ目まで、〈お願い だれも 息をしないで〉とヒロインの横顔があり、次の瞬間、〈ち――――〉という読み上げとともに、かるたの札が、勢いのある擬音とともにはじかれる、このときのインパクトにどれだけの情報が凝縮されているか、物語を追ううちに気づかされ、振り返り、おどろかされる。わずかなコマのなかに示される力強い動き、烈とした目の輝き、そしてそれらを統べる集中力が、いったいどこからやって来ているのかが、その後に、もちろん1巻の時点ではすべてではないだろうが、非凡なほどの緻密さをもって展開されているためである。

 さっそうとしたクライマックスの直後、8ページ目からいきなり回想に入る。読み手が目にするのは、6年前のこと、小学生だった頃のヒロイン、綾瀬千早と競技かるたとの幸福な出会い、そのはじまりとでもいうべき瞬間だ。彼女はまだ、新聞配達をする転校生、綿谷新が、自分に何を教え、もたらすのかを知らない。ここから『ちはやふる』は、弾むようにテンポよく、しかし劇的に、一人の少女の運命が変わっていく様を捉まえていく。

 とにかく、作中人物たちの造形と配置、一個一個の設定と振る舞いが、次第に、千早のかるたにかける情熱へと集約される、その話の運びが見事だというほかない。千早と新、それから二人のクラスメイトである真島太一の、三者のあいだで結ばれる関係性が、ちょうど中心の軸となり、回り、作品全体を動かしているのだけれども、それぞれの家庭環境や性格、潜在的な能力をプレゼンテーションしながら、そこにあらわれた現実と孤独とに架橋するエモーションをよく生かすことで、イノセントな子供たちにとって成長の証となるものが、どうしても競技かるたでならなければならなかった、というストーリー上の必然に対し、多大な説得力が与えられている。あるいは、もっと単純に、かるたの存在を通じて得られた夢と友情とが、夢と友情のなかにある純粋な喜びと純粋な悲しみとが、たいへん楽しく、さらには感動的にさえ描かれている、といってしまってもよい。

 おそらく競技かるたとはマイナーなジャンルだろう。いや、すくなくともマンガ表現においては、近年、竹下けんじろうの『かるた』があっただけで、取り扱った作品が他にはなかなか思いつかないぐらい、稀少な題材ではある。だが『ちはやふる』においては、作中人物たちのユーモラスなやりとりが間口のひろがりをつくり、なおかつ集中力をモチーフに抱くドラマとしての普遍性が高められているおかげで、読み手は、マニアックな概要に躓くことがない。前者は佐々木倫子のそれを彷彿とさせるし、後者は曽田正人のそれを思わせる。

 いずれにせよ、上の句が「ちはや」ではじまる札と出会い、自意識に目覚めてしまった少女が、これからどういう道のりを歩み、冒頭に予告された一点の動作にまで辿り着くこととなるのか、先が気になっては仕方がなく仕方がなく。

 『ハルコイ』について→こちら
 『Silver』2巻について→こちら
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