
小谷野敦の『リアリズムの擁護 近現代文学論集』は、その「あとがき」にあるとおり、〈『反=文藝評論』(二〇〇三年六月)以後に書いたもののうちから、日本近代文学に関する、比較的まとまったものを集めた〉もので、やはり「あとがき」から引けば、小谷野の〈この数年、「私小説」は悪く言われすぎている、と思ってきた〉という考えが、全体の趣旨を覆っており、そしてそれは、たとえば表題論考のなかの〈広い意味でのリアリズムで小説を書こうとすれば、無から作り上げ、私小説やモデル小説を避けるというのは難しい〉という言いに集約されているように思われる。極端な話、じっさいの事件や経験をベースにして書かれたもののほうが、そうではない、つまり理想や空想を頼りにして書かれたものよりも、細部の描写にすぐれ、総体的に説得力が感じられる、いや、もっと極端な話、理想や空想だけでは、現実感のあるお話を書くことは難しい、ないしリアリティのある創作を果たすことは不可能に近しい、ということであろう。「大岡昇平幻想」で、大岡の小説『花影』にこだわるのも、大岡本人の身の上に起こったことをモデルにしながら、あるいはモデルとしているがために、肝心のところが書けなかった、そのせいでいまいちの出来になってしまった、との意図を含むし、また反対に、まったくの虚構であったとしても、それをつくりあげるためには、なにか、基準となる体験が作者に内在しているか、さもなくば、なにか、参考としている対象がかならずや外在していることが、「司馬遼太郎における女性像」や「偉大なる通俗作家としての乱歩――そのエロティシズムの構造」、「『卍』のネタ本――谷崎潤一郎補遺1」では、追求されている。そういった文脈からはいっけん離れているふうでもある「ペニスなき身体との交歓――川上弘美『神様』」に、藤堂志津子の名が唐突に出てくるのは、そこに書かれていることが、『反=文藝評論』において、藤堂の小説を引き合いに出し〈奇妙なことだが、通説では日本の「純文学」は、自然主義の全盛とともに、痛烈な現実を描く作品を、美化された虚構作品から区別して生まれた概念だとされているのに(略)この構図は崩れ、むしろ「純文学」と呼ばれるもののほうがロマンティックになってゆく〉と述べたことの延長にあるからに違いなく、「ペニスなき身体との交歓」で〈一応、現実とはつながっているけれど、不思議な出来事が起こって、しかし生々しいこと、七面倒なこと、決定的なことは「わたし」には起こらない。そして、現代の少なからぬ人々が、こういう世界に憧れている。こういう世界を、日本で最初に描いたのは、夏目漱石の『吾輩は猫である』である〉といわれている部分は、「リアリズムの擁護」の〈漱石は女が描けないというより、恋愛が描けなかったのである。確かに漱石は、数多くの英国・米国の小説を読んで、恋愛の心理は十分に掴んでいる〉が〈所詮は頭で考えた恋愛心理に見える〉という箇所とリンクする。そうして小谷野が、たとえば夏目漱石から藤堂志津子までを横断し、たとえば私小説を参照し、たとえばリアリズムという語を用い、行おうとしているのは、純文学という概念の峻別、大衆文学との区別化ではない、そうではなくて、ファンタジーの心地よさをなし崩し的に受け容れ、屈託なく感情移入し、無自覚のうちにそれを敷衍、水準化してしまうことへの懐疑が、根底に述べられているのである。ところで「ペニスなき身体との交歓」の(付記の)最後で、小谷野が、現代の純文学の小説家では、大江健三郎と村上龍、阿部和重を評価するといっているが、大江、村上に関しては、以前から言及されることが多かったからよくわかるのだけれど、阿部については、へえ、そんなに高く買っているのかあ、と、ちょっと意外な印象を受けもした。「岡田美知子と花袋「蒲団」について」は、大塚英志の最近の仕事、『初心者のための「文学」』あたりかな、と併せて読むのもおもしろそう。
・その他小谷野敦に関する文章
『退屈論』文庫版について→こちら
『新編 軟弱者の言い分』について→こちら
『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
『恋愛の昭和史』について→こちら
『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
『すばらしき愚民社会』について→こちら
『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
『童貞放浪記』について→こちら
『悲望』単行本について→こちら
「なんとなく、リベラル」について→こちら
「悲望」について→こちら
