ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年04月29日
 ラブファイター! 1 (1) (フラワーコミックス)

 けして高い学力の持ち主ではない小川奈実が、受験勉強に励み、わざわざ〈中高エスカレーター式で高校からの入学はほんのわずか〉の私立若宮学園高等部に入学したのには、おおきな理由があった。それは、半年前にピンチを助けられ、一目惚れした男子生徒にもう一度会い、〈ありがとう〉と伝えるためである。しかし、いざ再会したその男子、桜木遼は、初対面のやさしかった印象とはまったく違い、〈不動のイケメン特待生ってことで有名なんだけど…それよりもさらに有名なことがあって 超モテるのにどんな女にも一切なびかず しかもこっぴどくふる 難攻不落の冷血王子ってコトで――…〉学校中に知られた人物であった。そのような導入によって、藤沢志月が『ラブファイター!』の1巻で描きはじめるのは、つまり、ホットなヒロインがクールなイケメンさんにアタックする、といった構図であって、こうしたこと自体はそれほどのインパクトを寄越さないであろう。だが、特筆すべきなのは、〈なっにが難攻不落の冷血王子だっ あんたなんか あんたなんか――このあたしがオトしてやる!!!〉という奈実の、遼に対する猛烈なアプローチが、校内で、生徒ばかりではなく、教師をも巻き込み、壮大な賭けの対象として成立している点だと思われる。このアイディアは、たいへんおもしろい。ある意味では、恋愛という行為が、リアリティ番組的な設定の内に組み込まれ、さらには当事者以外にも利害関係を生じさせているわけで、その、外野の思惑が、ときには障害となったり、ときには後押しとなったり、間接的にだが、奈実の片想いに介入してくるのである。おそらくは、そうした外野の存在に影響されない、ピュアラブルなエモーションのあることが、今後の展開によってテーマ化されてゆくのだと考えられるけれど、さて、そのへんをどうやってまとめるのか、完結編であるらしい次巻を待ちたい。
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2008年04月28日
だらだらと物語を延長させることもなく、この8巻で、しっかりと収まりのよく、はっきりと手応えのあるエンディングを迎えた神尾葉子の『キャットストリート』だが、ラストに収められた番外編で表されているのは、つまり、ストーキングも立派な努力のひとつで、諦めなければいくらでも可能性はあるんだよ、というメッセージだろうか、と、いやまあ、それは冗談であるけれども、どんな人間にもかならずや希望を手に入れられるチャンスがあることを伝えてくるストーリーは、ながらく引きこもっていた少女が、フリー・スクールでの出会いを通じ、生きることの意味や価値を発見してゆく、そのような本編のなかに描かれていたテーマと、まちがいなく、通じるものであって、おそらくは幸福なエンディングの余韻から導き出されたサイド・ストリーなのだと思う。さて。女優としての再出発を果たした恵都は、小学校時代の同級生とはいうものの、どこか不審な点のある女性と知り合う、これが前巻からの流れであり、将来を不意にしてしまいそうな危機に恵都はどう立ち向かうのかが、本編終盤における重要なくだりであるけれども、いやあ、最初の頃の臆病な様子からしたら、ずいぶんとつよくなったものだな。同級生を名乗る荒井は、もちろん、恵都自身のネガ、彼女の過去の影とでもいうべき存在である。それと対決し、見事に勝利するのは、成長と前進とが題材の作品において、まさにクライマックスに相当する箇所となっている。そうして、自分にしか出来ないことがあるのに気づき、引き受けようとする意志も、たくましい。だが、ここで注意しておかなければならないのは、単純に過去の否定が未来の明るさに反転しているわけではないことで、それが象徴的に表されているからこそ、恵都の晴れ舞台に揃った仲間たちが〈ケイトはちゃんとあの頃の自分を連れて出てくるよ 俺たちは自分でしか自分を救えないんだ〉と言い、そのとおり〈暗闇にいた昔の自分の手を引い〉た彼女の後ろ姿が光に包まれる場面に、感動的な印象が加わっている。

 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
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2008年04月27日
 アルコの、とくにここ最近の、勢い任せであるようなところを、味と見るか、雑と見るか、の判断は微妙で、前者の気分で読めれば何も問題はないとはいえ、後者の気分になってしまうと、とたんに残念としか評価のしようがないような、ぎりぎりの危うさを抱えており、以前にも述べた気がするが、それの完全に悪い出方をしてしまったのが連載ヴァージョンの『ヤスコとケンジ』であったわけだけれども、さて、新シリーズである『超立!! 桃の木高校』はどうか。高校で出会った男女四人(その比率はもちろん、女の子2、男の子2)が、じつはみな、超能力の持ち主であったことから、学校や家庭のレベルでのトラブルを解決し、同時に恋愛や友情を育んでゆく、と、以上が作品の概要である。エスパーという設定は大胆だが、かならずしもオリジナリティのあるものではないだろう。しかし特殊には違いないシチュエーションを、作中人物たちに、どう受け入れさせ、向き合わせ、扱わせるかが、つまり、作品の説得力にかかっているポイントであって、はじめはわずかばかりの戸惑いがあるものの、この作者ならではの強引なノリで、なんとか乗り切っている。だが、ストーリーを追うにつれ、やはり、どうなんだろうな、と引っかかってしまうのも、バランスを崩すほどにデフォルメされた描写の数々が、手抜きではなくて、ギャグを狙っているとしたら、あまり奮っていない点にほかならず、軽く、ときめきのトッピングされた話の筋自体は、けして悪くないのに、それを押し進めるテンポが、どうもいまいちよろしくない。そのことを個性として割り切るにしてもさあ、率直にいって、もったいないんだよな。

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 『ヤスコとケンジ』
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 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
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2008年04月26日
 ベイビー☆お手をどうぞ (フラワーコミックス)

 畑亜希美は、この、作者にとって初の単行本にあたるらしい『ベイビー☆お手をどうぞ』ではじめて知ったマンガ家であるが、いや、これ、すっごく、楽しく、とたんにファンになった。駆け出しのネイリストと、彼女がつとめる店のオーナーとが、行きがかり上、ニセの恋人を演じることになる、というのが表題作(シリーズ)のおおまかなストーリーで、まあ、ありがちであるといえばいえる成り行きであるし、どじで垢抜けないヒロインをサドっ気抜群なイケメンさんが意地悪に扱う、そのような関係性のパターンにも珍しい面はいっさいないのだが、にもかかわらず、既存の作品には見られないような、清新な空気がそこいら中に満ちあふれていることに、おどろく。おそらくは、全体的にコメディの要素がつよく、作中人物たちがみなユーモラスだというのが、おおきいのだろう。天然的にぼけているヒロインのそのみや、たまたま彼女を自分の縁談話に巻き込んでしまったオーナー心二の腹黒さ、口の汚さはもとより、ワキの人びと、なかでもそのみの二人の姉の存在が強烈で、彼女たちのアヴァンギャルドなアドヴァイスと猥談をさわやかに行う様子には、思わずツッコミを入れざるをえない。おまえら、男とどんな付き合いしてんだよ、そして何よりも、ヒモパンにすべてをかけすぎである。しかしもちろん、基本的にはラヴ・ストーリーなので、ロマンティックに決めるべきところはばっちり決まっており、そのみのまっすぐな性格に、押され、絆されてゆく心二の困った表情が、たいへん、かわいらしい。単行本には、表題作(シリーズ)のほか、「ナチュラルに恋をして」と「ぼくのもの」の二本の読み切りが収められてるけれど、とくに「ナチュラルに恋をして」おける、愁嘆場なのに気持ちのいいやりとり、それからそこでの、女心の繊細で大胆な変化のつけ方は、一読に値する。とりあえず、表紙や題名のイメージで中身を判断し、手にとるのを避けてしまうと損をするタイプの、典型的な良作であるのは、まちがいない。
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 おそらくは、ARASHI(嵐)こそが、この国のこの十年の、つまりは00年代の日本のエンターテイメント・シーンを代表する存在なんだった、と思う。80年代前半の生まれであるメンバーのほとんどがまだ十代だった、99年にリリースされたグループ名をまま冠したデビュー・シングルでうたわれたのは、世界は終わらない、という事実を前向きに受け止める意志であったが、その勢いを落とすことなく、幅広い層からの支持を集め、大勢の歓喜を呼び込み、絶大な成功を収めていったのである。ただし、そういったスケールのアップと並行して、あるいはグループの年齢があがるにつれ、こう、冒険的なスタイルからは離れ、ポジティヴなフィーリングにあふれたウェルメイドな楽曲ばかりを発表するようになり、シングルやアルバムの内容に関してはあまり面白みがなくなっていった、というのが個人的な見解で、もちろんそれについては、ヘヴィなギターのリフによって奏でられる「時代」や「PIKA☆NCHI」には含まれていた90年代的な憂鬱を、完全に振り切ったとの解釈も可能であろう。しかし、やはりちょっと、若さゆえの憤りをダイレクトに伝えてくるような、ミクスチャー・ロックふうのダイナミズムが損なわれてしまったのは、寂しくもある。さて、この通算8枚目となるニュー・アルバム『Dream“A”live』であるけれども、いやいや、ここ数作のうちでもっともダンサブルかつポップな面がつよく出ているのではないか、とにかく、イントロをあけてから、アップ・テンポでストレートな5曲目「Do my best」までの、前半のはじけ具合が、とてもとても楽しい。反面、デリケートなメロディをまっとうするには、何人かのメンバーの歌唱力にやや難があって、バラードやミドル・テンポのナンバーが続く中盤以降は、ちょいと苦しいというのが正直なところである。それにしても、シングル「Step and Go」の段階で、はっとさせられるものがあったが、櫻井くんのラップ、これがかなりの部分で、おおきなフックの役割を果たしている。前述したとおり、活動歴と反比例してミクスチャー・ロックふうのダイナミズムはだんだんと消失し、その結果、ラップがメインをはる楽曲は制作されなくなってしまったけれど、じつにもったいないと感じさせるぐらい、櫻井くんのそれは、かつてより冴え、生き生きとしている。初回限定版特典のボーナスCDのみに収められたソロ・ナンバー「Hip Pop Boogie」は、タイトルに示されているように、全編ヒップ・ホップ調の仕様になっているが、とくにコーラス以前のくだりが、彼が自作している歌詞も含め、なかなかにかっこうよい。

 『One』について→こちら
 『いざッ、NOW』について→こちら
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2008年04月25日
 この2巻でエンディングを迎えた吉住渉の『スパイシーピンク』であるが、終わってみれば、現代的で都市的な成人男女の恋愛劇として、なかなか魅力的な作品であったように思われる。ファンタジーを半分くらい、そして、現実みも半分くらい、足してちょうど一になるぐらいのバランスで描かれた物語は、たいへんやわらかで心地好く、だが、やわらかで心地好いだけで終わらない芯のたしかさを兼ね揃えており、いやまあ、たしかに少女マンガ家とイケメン医師によって繰り広げられる大筋は、ほとんどの人間からしたら、まるで絵空事のようでもあるのだが、しかし、ありえねえよ、こんなん、と言わせないほどの説得力が、その、たおやかエモーションには宿されている。この巻では、クライマックスにさしかかり、けして順調ではないまでも、ゆっくりと距離を縮めつつあるカップルのあいだに、男性側が以前に付き合っていた女性が登場するという、ラヴ・ストーリーの定番ともとれる危機が差し込まれるのだけれど、おもに若年層向けのそれが、過剰な疑心暗鬼を、とり返しのつかない事態に発展させ、そこからの大逆転を狙うことで、どきどき、を孕むドラマを構成しているのに対して、おそらく、それよりも上の世代を想定しているこのマンガでは、いったん手放してしまえば、もう取り戻せなくなる、ぎりぎりのラインで嫉妬や猜疑が描かれる。とはいっても、作中人物たちの性格が、暗く、陰険なのではない。むしろ、ヒロインである桜が携帯電話のメールを打つ姿などに、恋をしたときのアッパーな気分はよく出ているのであって、その彼女が、不安を覚えたり、でもそれをつよく払いのけたりする様子の、おおげさすぎないないところに、等身大の男女が付き合うって、意外とこういうものだよね、と納得させられるのである。また、相思相愛と呼べる関係性はセックス(性交)をした時点からスタートするものだといわんばかりの乱暴な作品が多い昨今にあって、その直前の段階にあるからこそ、じょじょに増してゆく親密さの測りかねる点を、ここまでデリケートかつ丁寧に、しかもコミカルに拾いあげている作品は、かなりレアで、それだけでも高く評価したい気分にさせられる。あまりにもテンポがよいので気づきにくいが、心の移動はとても繊細な足どりで行われ、終わりがないのが終わりであるような結末には、誰かを想うだけでは生きられないが、しかし誰かを想わず生きるのは寂しい、そういうことの実感が見事に表現されている。

 1巻について→こちら

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2008年04月21日
 もしかすると『BECK』以降というタームが有効なのかもしれないが、このところ、男性向けのマンガ誌において、バンド活動を描くタイプのマンガが増えてきているように感じられる。90年代のはじめにも、当時のバンド・ブームや『イカ天』の影響を受けて、『ヘビメタ甲子園』や『唇にパンク』、『コータローまかりとおる(第6部)』など、にわかにバンドものが流行ったことがあった(そしてなぜかスティーヴ・ヴァイをモデルにした人物を登場させる作品が多かった)が、それらのほとんどでは、主人公が、何かしらかの大会やコンテストに出場し、優勝することを、すなわち成功であるとして、目指されていたのに対し、最近の作品の場合、もっと等身大というか、挫折やコンプレックスを含む、リアルな生活感とでもいうべきものを重要視するような傾向がつよいのは、もちろん、90年代の半ば以降に自意識をどう表現するかがシリアスな問題となった側面のほかにも、おそらく、スタンディング形式のライヴ・ハウスやインディーズでの成功も成功に値する文化が、この国におけるサブ・カルチャーのシーンに根付き、主流化したこととパラレルであると考えられる。いうなれば、たんなる時代の反映でしかないのだけれども、たまきちひろの『フール オン ザ ロック』も、そうした今日ふうに仕立てられたロック・マンガのひとつに加えられる。主人公の高校生がギターを弾くのは、やむにやまれぬ衝動を表現し、壮大なスケールの夢を果たす、というより、わびしい自己実現の手段であるような感触に近しい。正直、この1巻の段階では、ストーリーは類型的だといえるし、それほど奮ってはいないが、主人公とバンドを組む、三十路のパフォーマー、イマイケンジのパンキッシュな造形には、なかなか強烈なものがあり、彼の存在をうまく扱えれば、とたんに作品が魅力的になりうる可能性を秘めている。ところで、この手の内容だからこそ気になってくるのは、当然、音楽性(作者の趣味や知識)の部分なのだけれど、作中人物に「WITH OR WITHOUT YOU」(これ、U2のでいいんだよね)のことを〈知ってる? この曲 片想いの曲なの きれいな曲だけど 片想いはこんなにキレイじゃないわよね〉と言わせてしまうのは危ういし、今どきランディ・ローズやブライアン・メイに憧れてギターをはじめる子ってどれぐらいいるのかしら、と、やや現代的な妙味が足りない気がしないでもない。まあ、後者に関しては、掲載誌である『月刊ヤングキング』の読者層を三十代に想定したうえで、あえて、といったセンも考えられるが、それであったら、やっぱりなおのこと、イマイケンジにはがんばってもらわなくちゃならないだろう。

 『WALKIN' BUTTERLY』
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2008年04月20日
 そもそも企画ありきのスタートだったのだろうが、それでもしかし、このマンガに『どろろ』の名が冠されていることは、誰も幸福にはしないように思う。すくなくとも、道家大輔の『どろろ梵』が、手塚治虫版のリメイク(今ふうにいえば「新約」)とかの類ではなくて、舞台を現代に持ってきた続編として描かれていることは、正直、ネックにしかなっていない。いや、何もそれは内容をクサしているのではない。まあ、たしかに、過去の因縁を引きずった妖怪退治ものというアイディアはありふれたものであるし、かつての盟友同士が、敵味方にわかれ、その宿命をもって愛憎劇を繰り広げるのも同様に、けして珍しいパターンではないけれども、とぼけたコミュニケーションのノリや大ゴマを使用したアクションのシーンには、なかなか魅せられるられるものがある。百鬼丸が、奪われた身体四十八カ所を恢復させる旅の途中で命を落としてから500年後、転生を経て、女性の姿に生まれ変わった彼の使命は、妖怪変化に身を落とした少女どろろを見つけ、討つことであった。なぜならば〈想像してみろ 自分が妖怪になっちまって 大勢の人間を怨みながら暮らす姿…それを殺すってことは 解放してやるってことだ〉からである。オリジナルにあった設定は、百鬼丸が方端であり、かわりに超能力が使えることに生かされているが、やはり、これを手塚の『どろろ』とあわせて読むのが厳しいのは、テーマのレベルでみたさい、どろろと百鬼丸のピュアラブルであるがゆえに断ち切れない関係性のみが抽出され、それ以外の要素が、ばっさり、切り捨てられているためだといえよう。人間存在の愚かさが妖怪の怒りを買う、式の取って付けたようなメッセージは論外としても、舞台を現代に移したおかげで、貧困の問題などの時代背景はがらりと変わり、百鬼丸が、男性ではなく、女性として描かれることで、父子間の対立とでもいった部分もオミットされ、そのぶん、どろろと百鬼丸のあいだの結ばれえぬ相愛性が強化されており、さらに百鬼丸のあらたなパートナーとして、現代的な少女である梵を投入することにより、擬似的な三角関係の物語が成り立たせられている。現段階においては、どろろの記憶が失われているのもあって、直接に三者の面談は果たされてはいないが、すくなくともこの2巻からは、百鬼丸にとって梵の存在が、出会いの頃にくらべると、ずいぶんおおきくなっている様子がうかがえる。
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2008年04月19日
 基本的に一話完結で終わるスタイルにおいて、無理に良い話でまとめようと、かっこうつけているエピソードよりも、結局、何が言いたかったのかわからん、ぐらいの素っ頓狂なエピソードのほうが、なんとなく、幸せな気分になれる、というのが『極道の食卓』に持っている印象で、それというのはたぶん、後者のほうが、平和であることの模写に近いからなんだろうなあ、と思う。『極道の食卓』が、立原あゆみの他のヤクザ・マンガと異なっているのは、もちろん、コメディの要素がつよい、その一点に尽きるのだけれど、よくよく考えてみれば、ギャグや小ネタの類に関しては、過去作の使い回しがすくなくもないのだから、もうちょっとべつのレベルで見られる違いをこそ、捉まえておくべきなのかもしれない。としたとき、たとえば、同じ世界観をシェアする『本気!』シリーズ等々が、壮絶な抗争を繰り広げるなかで平和を望む、そういう物語であるのに対し、これは、平和を乱さず、守り続ける、といったていの物語になっていることが述べられるだろう。『極道の食卓』の主人公、濁組組長の久慈雷蔵は、市井の人びとのあいだに発生するせこいトラブルが、生き死にに関わるような大事に発展しないのを防ぐべく、あちこちに顔を出しては、あれこれと手を回すのである。ところで、この5巻に収められているエピソードのうちのひとつには、かつて『地球儀(ほし)』で扱われた「盲流の民」のテーマが流れ込んできている。〈今 ものすごい勢いで経済発展を続けている中国……………………自分たちで「盲流の民」と名乗るそうです 世界中に散っている中国の民 地球上の人類の4分の1とか……〉というのがそれだが、『地球儀』では、中国人が「盲流の民」であるなら、日本人は「棄民の民」であるとし、両者の対照をもって、どこまでも暗く、救いのない絶望が描かれていたのだけれども、ここでは、若い女性にはまったおっさんの単純な歓喜と悲哀とが、本質的には深刻な問題を、ユーモラスに噛み砕いてくれている。まあ、多分に説教じみたポエムが入り混じってもいるが、あくまでもそのユーモアである調子の連れてくる平和的な雰囲気こそが、やはり『極道の食卓』の特徴なのだといえる。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『本気!』文庫版
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『仁義S』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『恋愛』1巻について→こちら
 『ポリ公』2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
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2008年04月18日
 バイキングス 6 (6) (月刊マガジンコミックス)

 以前にも述べた気がするが、風童じゅんの『バイキングス』のえらいところは、絶対数のすくない自転車(ロードレース)マンガのジャンルにあって、おそらくは『シャカリキ!』という先行例を意識しつつ、それとは異なる方向性を模索しているあたりで、とくに団体競技であるような面に比重をおおきくしていることは、この6巻からもうかがえる。強豪である舞代高校に、自分たちが初心者集団であることを馬鹿にされた宮田は、アマチュア界では名の知られたそのプライドから、全日本チャンピオンの小平良に挑みかかるが、しかし苛酷なコースを併走する途中で、ついに振り切られてしまう。だが逆に舞代高校の面々は、どこまでも食いついて離れない、主人公の一本木一途が持つポテンシャルの高さに目を剥くこととなる。以上が、ここでのあらましであるが、一本木や宮田という、そもそも資質が備わっている人間を描くばかりで物語を進めず、彼ら以外の凱旋高校自転車部員たちの、それこそ初心者でしかない人間の初心者だからこその真剣さをも、漏らさず、同時にすくいあげているのが、やはり、美点であるように思う。まあ、そりゃあ、やる気や努力だけでは何ともならん場合がある、と、きっぱりさせてしまえば、シリアスで過剰な表現になることもありうるけれど、ときにフィクションが包括するやさしさや可能性を壊しかねない。そのぎりぎりのラインで、作者は、ポジティヴな姿勢が、なにか、励みをもたらすような、そういうやわらかな地平のほうへ、舵をとる。今後の展開はともかく、すくなくともこの段階ではそうだろう。合宿の途中、舞代高校に一矢報いた凱旋学園のメンバーたちが見せる笑顔が気持ちよい。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
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 打撃王凛 12 (12) (月刊マガジンコミックス)

 この野球マンガがすげえええええ。いわゆる腐女子と呼ばれる層のファンが、どれだけ佐野隆の『打撃王 凜』についているのかは存じないが、しかしまさか、ここにきて、こう、野郎同士の胸ときめく展開を持ってくるかよ。ぼろぼろになり、傷つき、今にも倒れてしまいそうなところを、わきから支えてくれた凜に向かい、やっちん(安長)は〈ありがとな お前に会えてよかった〉と言うだろう。最高潮に良いシーンであるし、何よりも、どきっ、とさせられる。もちろん、そこへ至るまでのストーリーは、死ぬほど熱く、一瞬たりとも目の離せない緊張が続くのだから、手に汗を握る。そして、ついにそのときがきた。雄翔の放った渾身の一球を、凜が長打すれば、逆転の可能性がありうる、その、文字どおり、最後の場面に、奇跡は、緑南シニアと緑北シニアの双方を往復し、やがて、誰もが悔いることのない決着を実現する。いやあ、これは名試合であった。たしかに最後のあれは守備妨害の疑いがあるけれども、むしろ勝利への執念、気迫と言い換えてもいいそれが上回った結果と見るべきであろう。敵味方にわかれた、すべてのプレイヤーが祝福され、ながく繰り広げられた死闘に幕がおりる。ああ、泣いた泣いた泣いた。これまでにもさんざん泣かされてきたが、ここでもまた泣かされたぞ。大団円とは、まさしく、こういうことをいう。だが、せつない別離が、ふたたび、やっちんと凜の二人を遠くする。いちおうは、この12巻をもって、中学生(シニアリーグ)編は終了の運びとなり、次巻からは高校野球に、つまりは甲子園を目指す物語へとシフトする。優秀な作品の連載が続くというのは喜ばしいことに違いないのだけれど、正直、ここで終わってくれても良かったな、と思うのは、やっぱりねえ、この数巻に渡って描かれてきた試合内容が、とにかくすさまじく、すばらしく、野球マンガの臨界であるかのような興奮に溢れていたためである。こちら読み手の立場からすると、さすがにこれを越えるのは厳しかろう、という気がし、不安と期待とが入り混じる。が、ひとまず、ここまでの中学生編が傑出していたことだけは断言しておきたい。

 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
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 5巻について→こちら
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2008年04月17日
 Story Seller (ストーリーセラー) 2008年 05月号 [雑誌]

 『小説新潮五月号別冊 Story Seller』掲載。漠然とした印象ではあるが、このところ、とくに目新しいヴァリエーションが続々と発見されているというわけでもないのに、世の中では、以前にも増して物語の価値が高騰しつつある感じを受ける。本田透が新書『なぜケータイ小説は売れるのか』のなかで〈いつ登場するか分からない「新しい物語」を待っているだけでは、今現在ニヒリズムに陥っている、生きている人間は誰も救われない。/ ゆえに、既成の価値観、既成の物語を反復し続ける「小さな物語」もまた生産され続けなければならない〉と分析しているのも、つまりはそういう現代の雰囲気なのかもしれないが、いずれにせよ、平穏無事で幸福な生活が描写されているだけではとても退屈だから、あるいは平穏無事で幸福な生活を魅力的に描写するのはたいへん困難なので、とりあえず、人が病んだり、死んだり、壊れたりすることが、物語の成立条件として持て囃される。ときには人間様のかわりに、犬や猫が、病気にされ、殺されたりもする。ジャンルを問わず、さまざまな場所で、日々、それは行われている。いやいや、じつに阿呆くさくも難儀な話である。が、そういった現在の様相に対して、佐藤友哉の『333のテッペン』という小説は、もしかすると、何かしらかの、異議を申し立てているのであろうか。そこでは、かつて〈死と死と死と死が血みどろになり、倫理や論理を完全に無視した不条理なストーリー〉を生きていたという意味で、物語的であった人間が、そのような〈死と死と死と死が血みどろになり、倫理や論理を完全に無視した不条理なストーリー〉に憧れるという意味で、いまだ物語に及んでいない人間と、対決し、日常と非日常または現実と非現実もしくは正常と異常とに引き裂かれそうな、混乱が描き出されている。ところで『小説現代五月増刊号 メフィスト』に掲載されている「虚構の自意識の系譜――浦賀和宏・佐藤友哉論」において前島賢が、〈探偵小説、特に新本格という形式にあっては、すべての要素は「読者対作者の刺激的な論理の遊び(ゲーム)」を成立させるためのコマに過ぎない〉のであって、そうした〈「新本格」という環境で自意識を語る以上、たとえばどんなに懸命に描写しようとも、所詮、それが取り替え可能で凡庸なフェイク――「虚構の自意識」に他ならないという事実を受け入れられなければならない〉ということでもあり、だから浦賀和宏や佐藤友哉〈の小説で語られる自意識が、凡百の私小説から差別化されるのは、あくまでもそれが「本格ミステリ」として書かれており「自らの自意識の虚構性について自覚的である」からである。とすれば彼らの「虚構の自意識」は「出来の悪い本格ミステリ」としてしか書き続けていくことができない。それはあまりにも困難だろう。実際、周知の通り、佐藤は主な活動の場を純文学に移している。しかし自意識を描くことが肯定される安全な場所で行われる佐藤の創作は、どことなく物足りなさを感じさせるのも事実である〉と述べているけれども、『333のテッペン』では、荒唐無稽な殺人事件が起こり、探偵が謎を解き、その犯人を突き止める、式に展開されるスタイルへの回帰が見られる。と同時に、それへの無関心が綴られているようでもある。その観点からすれば、重要なのは、終盤で「探偵には二種類の仕事があるんです」と言われている箇所であろう。「一つは、事件から謎を取り除く仕事。そしてもう一つは、事件そのものを除く仕事(略)」だというわけだ。が、このとき、驚天動地の真相すらも消去されてしまう後者において示されているのは、人が病んだり、死んだり、壊れたりするような物語の否定にほかならない。しかし心境のレベルにあって複雑なのは、そうして意味される穏当な日々に価値を認めることは、結局のところ、不穏当な事件や物語をまず必要とし、前提にしたうえでの、比較的な印象に過ぎないのではないのか、というジレンマである。もちろん、それを無視することが可能であるならば、世話のない話だろう。ここでは、それに苛まれることの困難が、前傾化された自意識のかわりに抽出されている。

 ※この項、いずれ書き改める可能性があります。

 『世界の終わりの終わり』について→こちら
 『1000の小説とバックベアード』について→こちら
 『子供たち怒る怒る怒る』について→こちら
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2008年04月16日
 パンドラVol.1 SIDEーB

 『パンドラ Vol.1 SIDE-B』掲載。西尾維新の『真庭語 初代真庭蝙蝠』は、同作者の大河ノベル『刀語』の、要するに番外編になるわけだが、『刀語』に出てきた人物の目線を借りて、本編そのものの裏を展開するというのとは違い、『刀語』の設定を流用し、物語世界のほうを拡張するかたちで成り立っており、直接的には『刀語』に関与している内容ではないから、これはこれで一個の独立した短篇として、読むことも十分に可能であろう。ここで主人公の役割を担っている真庭蝙蝠は、『刀語』本編に登場する同名人物の、その先祖(といって良いのかな)にあたる。正直なところ、『刀語』に対して愛着のある読者に向けてのサービスでなければ、作者自身による二次創作でしかないような内容であって、それほど特筆すべきところのない小品にとどまるけれども、はったりの利いたストーリーは退屈さを感じさせないし、戦国時代を生きているはずの忍者に、現代人とそう大差ない、モダンな価値観を持たせ、その鬱陶しさを、覚悟と責任によってブレイク・スルーすることが、一種のカタルシスになっているあたりに、らしさ、がよく現れているな、と思わせられる。

 『刀語 第十二話 炎刀・銃』について→こちら
 『刀語 第十一話 毒刀・鍍』について→こちら
 『刀語 第十話 誠刀・銓』について→こちら
 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 『君と僕が壊した世界』について→こちら
 『零崎曲識の人間人間』単行本について→こちら
 「零崎曲識の人間人間3 [クラッシュクラシックの面会]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら
 『傷物語 こよみヴァンプ』について→こちら
 「そっくり」について→こちら
 『不気味で素朴な囲われた世界』について→こちら
 『きみとぼくの壊れた世界』ハードカバー版について→こちら
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2008年04月15日
 メフィスト 2008年 05月号 [雑誌]

 『メフィスト』5月号掲載。西尾維新の『きみとぼくが壊した世界』は、ストーリーを細かく語ることを、できれば差し控えたくなるような内容の小説である。たしかに設定上は、『きみとぼくの壊れた世界』の直接の続編にあたり、あの病院坂黒猫と櫃内様刻のコンビが、日本を飛び出し、はるかイギリスはロンドンで大暴れ、で、この作者にとってはじめて海外を舞台にした小説といえるようないえないような、と、適当な説明をすることは可能だが、しかしそれ以上は、いちおうミステリの形式で書かれているこの小説の、最大のサプライズを損なうことになりかねない。そうした前提のうえで、個人的な印象を述べるとすれば、ああ、これはもしかすると西尾維新版『1000の小説とバックベアード』ということもありうるのか、と思う(人によっては、西尾版『キャラクターズ』であったり西尾版『九十九十九』と見たりするかもしれないが)。まあ、それというのは単純に『きみとぼくが壊した世界』が、佐藤友哉の『1000の小説とバックベアード』と同じように、ある意味、小説を書くことについて書かれた小説でもあるからで、たとえば作中で行われる議論のいくつかは、佐藤が『1000の小説とバックベアード』の宣伝と解説のために発表した「1000の宣伝とバックベアード」と共鳴し合うところがある。部分によっては、それからの引用かと見紛うほどの相似性を持っていたりする。なぜ、小説は、書かれ、読まれ、そして忘れられてゆくのか。『きみとぼくが壊した世界』のなかで起こる事件は、書かれたものが届けたいところに届かない責任は作者にあるため、存在するようなものだとさえいえる。だがそれを、私小説ふうのダウナーなモノローグではなく、あくまでもユニークでチャーミングな作中人物たちによるアッパーなエンターテイメントとして、見事に描ききっている点に、やはり、この作者の魅力はよく出ているのだろう。ネタが割れてしまえば、今どきの読み手には、それほど凝っている構造ではないに違いないけれども、とりあえず展開のされ方には、意表を突かれる。

 『不気味で素朴な囲われた世界』について→こちら
 『きみとぼくの壊れた世界』ハードカバー版について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 『零崎曲識の人間人間』単行本について→こちら
 「零崎曲識の人間人間3 [クラッシュクラシックの面会]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら
 『傷物語 こよみヴァンプ』について→こちら
 「そっくり」について→こちら
 『刀語 第十二話 炎刀・銃』について→こちら
 『刀語 第十一話 毒刀・鍍』について→こちら
 『刀語 第十話 誠刀・銓』について→こちら
 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2008年04月13日
 読むのが怖い! 帰ってきた書評漫才~激闘編

 北上次郎と大森望の書評対談は『SIGHT』誌に連載されているなかでも、とくに好きなコーナーであり、この『読むのが怖い! 帰ってきた書評漫才〜激闘編』は、それをまとめたものの第二弾にあたるのだが、こうやって読み返してみて、やっぱりなあ、と思うのは、まあ個人的な好みというか趣味の問題なのだろうけれども、あまり大森望の話にはぴんと来ず、北上次郎のほうに説得されてしまう場面が多いということであって、そういえば、つい先日、北上が83年に出した『冒険小説の時代』を、たまたま立ち寄った古本のフェアで手に入れたのだったが、そこで取り上げられている小説や作家は、現時点からすれば古くなってしまったエンターテイメントの系ばかりだから、読んだこともなく、関心すら持ったことのないのがほとんどであったにもかかわらず、へえ、と興味をそそられる部分が、けっこう、あった。とくに初期の西村寿行の分析をおもしろく読んだ。わりと独断に近しい語りなのだけど、へんに頷かせるパワーがある。そうしたスタイルは、この対談集にも貫かれており、単行本用のボーナス企画として、ここに収められている番外編で、北上が自身のオールタイムベストのひとつに挙げている阿佐田哲也『ドサ健ばくち地獄』の、そこでは、ギャンブルが人間ドラマとしてではなくて、心理劇として展開されているので、密室ならではの緊張感が生まれている云々の解説にも納得させられる。ところで、対談として見た場合、なかでも、おもしろい、というか、おかしかった、のは、第25回目の、大森が、いしいしんじの『みずうみ』の内容を細かく解説するのを受けての、以下のようなやりとりである。〈北上 あ、そう。豊崎(由美)さんが書いてたんだけどさ。「自分がいいと思える小説は既存の物語ではなくて何か新しいことをやっている小説」なんだって。だから壊れててもいいと言うわけ。僕はまったく好みが違うんだけれども、彼女の基準はよくわかった。ところが君と何年もここでやってるんだけれど、どうも君の基準がわからんのだよ。/ 大森 僕、これは好き嫌いで言うと、あんまり好きじゃないんですよ。/ 北上 え、じゃあ好きなのと面白いのは別なの?〉。そうした疑問は、第27回目の、クリストファー・プリーストの『双生児』の項の、次のような箇所に結びつく。〈北上 (略)それでわかったんだけど、この小説じゃなくて大森望が。解説読みながら、「なるほど。こういうことが面白いのか。こいつは」と(略)だから、そうやって読みながら考えるのが好きな人がお読みになればいいんじゃないでしょうか。/ 大森 ははは! その指摘はみごとに本質を突いてますね。北上さんは読みながら考えるのが好きじゃないんだ。/ 北上 エンターテインメントの読者としては何が書かれているかを考えるんじゃなくて、そこから派生するような様々なことを考えるわけ〉と、このあたりは、大森望という、いま現在人気のある(らしい)書評家の評価基準をめぐるエピソードとして、目にとまる。

 『読むのが怖い! 2000年代のエンタメ本200冊徹底ガイド』について→こちら
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 いま現在、ファンタジックな世界を舞台にした少年マンガとしては、異端であると同時に正統でしかありえないという意味で、もしかすると冨樫義博の『HUNTER×HUNTER』と双璧を為しているのではないか。と、さすがにそりゃあ言い過ぎだろ、って声が聞こえてきそうだが、しかし個人的には、それぐらい所十三の『白亜紀恐竜奇譚竜の国のユタ』のことは高く買っているのであって、まあ、たしかに絵柄や構成のスタイルはやや古めかしくもあり、そのせいでマイルドに見られてしまうかもしれない点は多いけれど、残酷な描写をナチュラルに織り交ぜながら、それでいて健全な雰囲気をキープしているあたり、当世のポリティカル・コレクトな少年マンガがしれっとしているところを、真っ正面から引き受けているかのようですらあり、たいへん心強く感じられる。さて。平原王国に囚われの身となったユタが、海王国に荷担している雷龍党を討伐するための出征に乗じ、彼を助けに来た仲間たちと合流、ようやく山王国へ戻れることになる、というのが、この8巻における大まかな流れなのだが、ここでの見所は、やはり、ユタ、フリード、そしてパウルスの、同じ矮人(ナノス)でありながら、それぞれタイプも違い、持っている目的も異なる三者が、“この世に在る可から不る者たち”の襲撃を受けて、はからずも共闘関係を結ぶこととなるくだりであろう。これはちょうど、冥王の復活によって、作中世界が〈人と人が争っている場合ではない〉事態に突入したことのミニマムな再現になっており、その展開のなかで、文字どおり、人と恐竜の命運を握る「鍵」であるユタの、類い希なる資質が発揮される。そしてそれはなにも、恐竜たちと会話ができるといった先天的に特殊な能力だけの話にかぎらない。自らを危険にさらしても他人に手を差し伸べるような、気持ちの有り様も含めてのことである。そこに少年マンガというジャンルの根っこにあたる部分がきっちりと示されている。大状況と小状況をまたぎ、あれだけばらけていた伏線が、ユタの帰郷とともに一本化されている、そのへんの持っていき方にも感心させられる。いちおう『白亜紀恐竜奇譚竜の国のユタ』の題では、この巻がラストとなり、すでに『週刊少年チャンピオン』誌では、『D-ZOIC』とタイトルを改められた続編というか第2部がスタートしているが、全8巻、すこし残された含みはあるけれども、これはこれで一個の少年の冒険譚であり成長譚として立派にまとまっている。

 7巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2008年04月12日
 浩行が逝き、吉村のおっちゃんが逝く。『本気!』シリーズ序盤でもっとも泣けるエピソードが、この文庫版3巻には収められている。さらに、ここで描かれているテーマは、その後の立原あゆみの諸作に偏在することとなる、という意味で重要性を持ち、それはつまり、家族に捨てられた人間が救いを得ることができるのか、ということであり、家族を捨てた人間が赦しを得ることができるのか、ということであって、正直なところ展開としたらややぎこちなくありながら、しかし、そうまでして浩行の死と吉村の死をワン・セットとしなければならなかった理由も、おそらく、そこにあるのだろう。短いスパンのなかで、二人の死体を、本気が抱きかかえ、泣く、ほぼ相似形であるようなシーンが、反復される、このことの価値は、あんがい、おおきい。浩行が火葬されるときの、本気の〈浩行くん 君は…女抱きましたか…おっぱいにうずまってねむりましたか〉というモノローグと、浩行の遺骨を彼を見放したはずの母親が引きとる場面の、本気の〈浩行くん…君は今…おふくろの胸ン中です……かあちゃんの胸ン中です〉というモノローグ、そして浩行の仇をとると決意し、ひそかに久美子に別れを告げている、本気の〈抱きしめたかった……これが最後かもしれんけん……抱きしめたかった〉というモノローグ、これらによって重点的に繰り返されているのは、人が人をその胸に抱く、そういった行為が持ちうる可能性にほかならない。抱きしめること、抱きしめられることが、救いや赦しの言い換えとなり、示されているのである。もしかすると浩行や吉村の最期は犬死ににも思える。だが、彼らの死体が本気に抱きかかえられることで、犬死にであるような最期に十分な報いが加えられている。浩行の場合とは違い、吉村の遺骨は、家族に受け取られることを拒否されてしまうけれど、たぶん吉村はあの世でそれを呪いはしない。彼の本望は、遺書にあるとおりのかたちで達成させられており、そこに書かれている想いは、宛てられた本気に受け取られている。そうして遺骨は、人生の最後になって誰よりも信じることのできた本気に抱きかかえられ、墓へと入る。結果だけとれば、浩行も吉村も、たとえ一歩遅れた状態であろうとも、自分たちの願いを託した相手、本気に抱かれることで、救いや赦しを手に入れている。この事実こそが、読み手に感動をもたらす。反面、本気はといえば、先ほども引いた〈抱きしめたかった……これが最後かもしれんけん……抱きしめたかった〉というモノローグのある場面で、最愛の人である久美子を、その胸に引き寄せることを、つまり救いや赦しを断念している。久美子が立ち去ったあとの、本気が自分で自分の体を抱きしめているようなカットは、象徴的ですらある。以前にも述べたが、本気は、これ以降、誰ともセックス(性交)をしないようになる。自らを慰撫すべく、誰かを抱いたりしない。掲載が少年誌だったからというのではない。じっさい、この文庫版3巻だけでも、性風俗のサービスが登場し、女性が強姦されるシーンすら描かれている。だから理由はもっと根源的なものに違いなく、ひとつにはもちろん、久美子とのピュアラブルな関係を表現するためなのだろう、が、もうひとつ、本気の救いや赦しを拒む態度の表現になっているのだろうことは、この先のストーリーを読み進めるうえで、絶対に注意しておきたい。最愛の人を抱きしめるかわり、莫大な喪失感を抱きかかえることの繰り返しが、あれだけとがっていた本気の、角をまるく、やがて高僧を思わせる悟りの境地へと導いてゆく。ちなみに、(ことによると続編が描かれるかもしれないという可能性は捨てきれない留保つきだけれども)完結編にあたる『本気!サンダーナ』は、浩行や吉村を回想する本気の背中がとある女性に抱きしめられる場面で、終わりを迎えている。

 さて。文庫版3巻において、もう一点、重要な契機を挙げるとしたら、それは『本気!』シリーズ全編を通じ、本気の片腕として活躍することになる次郎が、ついに登場することである。次郎が担っている役割はいったい何か。このことを考え出すと、さらに文章が長くなってしまうので、べつの機会にゆずるが、ひとまず、読み書きもまともに習ってこず、金銭の扱いも適当で、自動車の運転さえ出来ない、ぶっちゃけ、カリスマだけしか取り柄のない本気を、実務の面で補うための機能だといえる。しかし当然、物語やテーマのレベルから見れば、それだけの存在に止まらない。じじつ、ある程度までストーリーが運んでいけば、次郎以外の人物が本気をサポートする機会が多くなる。だが、彼らの誰も、本気とのあいだに、次郎のような、関係は結びえない。次郎に先んじて、本気についている矢印や新二ですら、だ。では、次郎のような、とは、はたしてどういうふうなものを指すのか。それはまた、いずれ。

 1・2巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『恋愛』1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
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2008年04月11日
 パンドラVol.1 SIDEーB

 うおおお。まさかのよしもとよしともの新作に思わず嬉しい悲鳴をあげた。『パンドラ Vol.1 SIDE-B』に掲載された『ブロンちゃんの人生相談室』は、まあ、たった2ページの、同じ構図の絵が裏表になっているだけの内容にしかすぎないのだけれど、しかし、その、間違い探しにも似たパフォーマンスの、行間とでもすべきを必死になって読もう読もうとしてしまうのが、ながく待たされてきたファンの心理というものであって、ひとまず、おっさんと少女の対比という、よしもとの読み手にはお馴染みのパターンに目がいってしまう。よしもとのマンガにおいて、じつは「眼」が持っている意味はおおきい。女性や若い人びとの「眼」はおおきく描かれることが多いのに対し、男性や、とくにネガティヴな性格の人間の「眼」は、だいたい黒くちいさな点で描かれる。それはもちろん見映えの問題であるが、見映えの問題であるがゆえに、ヴィジュアル的な表現でもあるマンガにとっては、何かしらかの象徴であることを必然的に担わざるをえず、与太だと思われたとしても、よしもとの作品にはそれが顕著であると考えたい。たとえばわかりやすく、『青い車』のリチオの「眼」も、やはり点に近しいものであるけど、子供の頃に受けたダメージをさらさないよう、ふだんはサングラスをかけ、隠されている、このような設定が、作品そのもののエモーションと、さりげなく、深く結びついていたことは言うまでもあるまい。またおそらく、『魔法の国のルル』を完結させられないでいるのも、あの暗い「眼」の少年の、まさしくその「眼」に、いかにして光を差し込ませるか、が、いちばんの困難であるせいなのではないか。きらきらとした「眼」を黒く濁らせるのは容易い。しかしながら、あらかじめちいさく潰された「眼」を、光を吸い込ませるほどに見開かせるのは、たいへん難しい。いずれにせよ、「眼」である。『ブロンちゃんの人生相談室』においても、おっさんと少女の「眼」が、何かを語っているような、何も語っていないような、印象的な視線を、のぞかせる。その先にあるのは、人生相談室の外、か。それはそうとして、よしもとの新作が『パンドラ Vol.1 SIDE-B』で発表されたことは、90年代に『週刊ヤングマガジン』誌で連載された『THE GOD DOGS』の、もしかしたら講談社BOXのレーベルによって単行本化する可能性を、ちょっと、妄想させたりもするのだけれど、さすがにそこまで期待するのは行き過ぎかしら。
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 『文藝』夏号掲載。青山七恵は、『窓の灯』や『ひとり日和』、そして『やさしいため息』みたいな、そこそこ分量のあるものよりも、「ムラサキさんのパリ」や、この『松かさ拾い』みたいな、短い小説のほうが感じが良い、というのが私見である。そこでは、なんら事件という事件は起こらず、ただ過ぎる時間と日常の描写が、作中人物の漠然としたエモーションと重なり、やわらかな黄昏となって現れる。ところで小谷野敦が『リアリズムの擁護』のなかで、川上弘美『センセイの鞄』と小川洋子『博士の愛した数式』、大道珠貴の『しょっぱいドライブ』の類似性を指摘していたけれども、青山の『松かさ拾い』もまた、長さこそ違えど、そういった作品群のヴァリエーションのひとつに数えられるだろう。すこし皮肉を込めた言い方をすれば、女性の芥川賞作家にはこういうのを課題作品として発表しなくちゃならない決まりでもあるんですかね、と尋ねたくなるような内容になっている。大学卒業後、特定の職に就けなかった〈わたし〉は、研究室の先輩に紹介され、小日向さんという、以前は大学で働いていたけれども、現在は本を書いたり翻訳をしたりしている年配の男性の事務所で、助手というか秘書というか、とにかく彼の身の回りの世話をしているのだが、あるとき、小日向さんに彼の愛娘である二歳のナツエ(ナッツ)の世話を頼まれ、面倒を見ながら、その日一日を過ごすうち、自分の抱えるすこしの寂しさに触れる。以上がおおまかな筋であり、具体的に断言されていないが、たぶん〈わたし〉という女性は小日向さんに好意を持っているんだろうな、と思わせられることが、作品の肌触りをつくりあげる。小日向さんやナッツの姿の向こうに、物語には登場してこない小日向さんのオクサンも含め、さも幸福でありそうな家族のシーンがイメージされる。このイメージがちょうど鏡の役割を果たし、そこに、なにか、抽象的にしか述べられない空漠が映し出される。不幸でないことはけっして、幸福だということとイコールではない。そういう微妙な感情に、できれば気づかぬ素振りをしようとする判断が、〈わたし〉の言葉の底に横たわる。

 『やさしいため息』について→こちら
 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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 このところ、バレーボール・マンガが好調である、との印象を受ける。大島司の『アタック!!』や日本橋ヨヲコの『少女アタック』、高梨みつばの『紅色HERO』などは、90年代における、満田拓也『健太やります!』やヒラマツ・ミノル『ヨリが跳ぶ』以来の、ひさびさのヒット作であろう。すこし前であれば、梅田阿比の『フルセット!』も、そこに含められたのだが、残念ながら現在は連載が終了している。キュートな男子たちがわんさか登場する作風は、バレーボール版『おおきく振りかぶって』といえなくもないキャッチーなものであるし、『このマンガがすごい!2008』には作者のインタビューが掲載されるなど、そこそこ注目を集めていたようではあるが、しかしまあ、たしかに弱点の多いマンガでもあった。スポーツをフィジカルとメンタルの二面で表現するとしたら、『フルセット!』は、あきらかにメンタルの面に重点を置いているのだけれど、その精神論とでもいうべきものに、あまり高い説得力が備わっていなかったのも事実で、それというのはおそらく、体の弱い主人公が、バレーボールとの出会いを通じ、精神を鍛えられる、こうしたストーリーの流れにおいて、個人にかかってくるガッツと成長、そして団体競技だからこそのガッツと成長の、要するに、努力と置き換えても良いような前者と友情と置き換えても良いような後者の双方を、うまくディレクションできなかったためだと思われる。ようやく足並みが揃い、当初よりよく描けていた中学生という幼さの、その先にあるものが見えてくるのは、この4巻の、強敵である桐条中学バレーボール部との試合の最中の、とくに終盤に至って、である。ややスロー・スターターな展開は、週刊連載の形式には向いていなかったのかもしれない。いずれにせよ、次巻でラストを迎える。

 『幽刻幻談−ぼくらのサイン−』について→こちら
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