「あの明け方の」は、単行本『生きてるだけで、愛』に収められている、本谷有希子の、書き下ろしの短編小説である。〈さっき自分が感じた憤りが「やっぱりその程度なんじゃん」とか思われるのが癪で、あたしはそのまま目の前の14号線に沿って歩いてみよう、となんとなく思いついたのだった〉。「松岡修造」のことで、同棲相手に対しヒステリックに振る舞い、部屋を飛び出した〈わたし〉は、午前4時の都道14号線沿いを、目的もなく歩く。そうした行動のうちに、街角のどうでもいい風景や、過去、それから30代なのに働かずにいる自分の現状が、まるでそれらのあいだには程度の差などないかのように、並列される。登場人物の年齢は違えど、付き合っている男性との別れる別れないといった諍いや、自意識がそのまま漏れているみたいな語りがメインであり、微笑ましいラストのやりとりで、それまでの虚無感がさりげなく融解されるつくりは、「生きているだけで、愛」に近しいと思う。こちらのほうがコンパクトであるぶんだけ、わざとらしい物々しさはないが、感情と空想と肉体のトライアングルが鳴らす音には、すこしばかり重みが欠けてしまっている。
「生きてるだけで、愛。」について→こちら
「被害者の国」について→こちら
ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年07月31日
2006年07月29日
かわぐちかいじ『太陽の黙示録』の最新12巻を読んでようやく、その登場人物の名前が『三国志』(『三国志演義』)の英雄たちに模してあることに気づいた自分は遅すぎだけれども、それを踏まえると、要するに『太陽の黙示録』というのは、近未来を舞台に(あるいは日本社会が一回崩壊したあとで)『三国志』をやりたいわけだ、というふうにも読める。が、まあ、それはそれとして。マンガに限らず、創作者たるもの、やはり一度ぐらいは『三国志』に取り組んでみていものなのかねえ、と考えたりもする。それとも、本屋に行けば「三国志に学ぶ現代何とか」とかみたいなののヴァリエーションが豊富なように、日本人(おもに年輩男性)の心性というのは、すべからく『三国志』を好むべしといった感じなのだろうか。いや、僕自身はそうした欲望はあまり強くないので、ときどき不思議に思ったりもするのであった。じっさいに、この“超”[三国志]と銘打たれた『覇‐LORD‐』に関しても、董卓そうくるかあ、というよりは、たんに呂布の、その渡海さん(『サンクチュアリ』の登場人物ね)ばりの、無頼漢なところに燃えているだけなのかもしれない。そうして、この第6巻では、ひさびさに呂布がガッときた。出番は少ないけれども、ギラギラとしたその眼の輝きに、ぷんぷんと噛ませ犬の臭いがする一方で、狂犬のような獰猛さをうかがわせる。だいいち、ひとりだけ敵味方の陣営関係なく、好き放題やり放題じゃないか。呂布に比べれば、曹操も孫堅も、スケール・ダウンである。しかし劉備だけがただ、〈ただ一つ、劉備玄徳に勝つために!!〉と呂布の心を駆り立てるのであった。ついでにいうのではないが、この巻は張飛と協皇子の交流も泣けた。
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3巻について→こちら
2巻について→こちら
1巻について→こちら
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以前にも何度か書いているが、高橋ヒロシは、彼のマンガ『キューピー』に登場する我妻涼に憧れるファンの声が多いことに対して、あれは不幸なのに、と困惑した旨を増刊号だかどっかに書き残している。ところで柳沢大樹『ギャングキング』において、どの組織にも属さず、ギャングキングを目指すピンコの姿は、我妻涼のそれに重なるところがあるのではないか。そう思うときに、やはりそれは間違っているという指摘を、この7巻におけるマッスルくんのアクションに見ることができる。というか、マッスルくん、ここでいきなり物語の主軸に絡んできたなあ。そして、案外にいい人なのであった。〈ハートじゃ! 人っちゅうのはハートについて来るんじゃ!!〉。じつに渋い。前巻のジミーがピンコに敗北を喫した時点で、僕という読み手のテンションは、かなりの勢いで落ちてしまったのだけれども、マッスルくんの熱血硬派ぶりもあって、この巻はなかなかにエキサイティングだった。落ち込んだジミーを励ますアネの役割もいい。サイコの失恋エピソードも含め、これなんだよなあ、『ギャングキング』のよさは、こういう力みすぎない、それぞれがそれぞれそれなりに前向きであろうとつとめる様子なんだよなあ、と思い出す。たしかに、おしなべてこの世界はクソだ。おそらくはそのとおりである。ならば、世界の側に与さず、そこからドロップ・アウトすることこそが、もしかすると正しさなのではないか。いや、そうかな。それはそれでただの屁理屈だろう。社会の仕組みが絶対的に正しいわけじゃないが、そのなかに正しさがまったくないというわけではないときに、バンコは〈…自分の力じゃどうしようもねーことをよ……『しょうがねー』って思うのは簡単だけど……アイツ(ジミー)みてぇに悩んで苦しんで…“怒り”って感情を持ち続けることが大事なんじゃねーかな…〉と言った。
6巻について→こちら
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3巻について→こちら
・『ドリームキング』に関する文章
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2巻について→こちら
1巻について→こちら
6巻について→こちら
4巻について→こちら
3巻について→こちら
・『ドリームキング』に関する文章
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2006年07月28日

絲山秋子の小説はまあいいとして、エッセイはどうなのさあ、といったところで、群馬好きの絲山にちなんで、わりいけんど普通だいね、と群馬寄りの言葉で答える感じである。といったところで、明確にエッセイの良し悪しを定める基準が自分のなかにあるのかというと、そういうわけではなくて、ただ単純にいうのであれば、初読のさいにはページをめくる手がとまらず、その後に繰り返し何度も再読してしまうような、そういうエッセイに関しては、普通以上だと思うし、好きだというぐらいである。つまり、この『絲的メイソウ』については、すくなくとも僕個人に対して、そうした条件を満たしていなかったということになる。たとえば「世の中よろず五七調」とか「講談社24時」とか「自分の取説」とかの文章は、そこに提示されたワン・アイディアだけを読むような内容なのであって、やはり、あまり感心しない。まあ、この書き手は、小説でも、ときおりそれをやったりするが。「男は外、飯は別」というエッセイのなかで〈体験したことを小説に書く、というやり方は確かにあるが〉といい、〈なんと、小説に書いた通りのことがあとから本当に起きるのです〉〈もちろんなんでもってわけではありませんが、友人と同居したのも、群馬に戻ってきたのも、クーペフィアットを買ったのも、そいつが壊れたのも、全部以前に小説やエッセイに書いたことです〉と「男たちよ、本を読むな!」のなかでいっているけれども、それというのは逆に、自分の体験や身近な出来事を捉まえるのが不得手だということの暗示であるのかもしれない。
・その他の絲山秋子に関する文章
「ダーティ・ワーク 第六話 back to zero」について→こちら
「ダーティ・ワーク 第五話 miss you」について→こちら
「ダーティ・ワーク 第四話 before they make me run」についての文章→こちら
「ダーティ・ワーク 第三話 moonlight mile」についての文章→こちら
「ダーティ・ワーク 第二話 sympaty for the devil」についての文章→こちら
「ダーティ・ワーク 第一話 worried about you」についての文章→こちら
「みなみのしまのぶんたろう」については→こちら
『ニート』については→こちら
「ベル・エポック」については→こちら
「へたれ」については→こちら
「沖で待つ」については→こちら
「ニート」「2+1」については→こちら
『スモールトーク』については→こちら
『逃亡くそわたけ』については→こちら
「愛なんかいらねー」については→こちら
『袋小路の男』については→こちら
『海の仙人』については→こちら
「アーリオ オーリオ」については→こちら

そのディケイドを指して、失われた10年というのであれば、そこで得られたものなど、たかが知れているのだろうか。というわけで、竹下堅次朗の『カケル』が、FOX出版というところから復刊され出したので、記憶を頼りに、昔話をします。正直にいって、97年に『カケル』の連載が『ヤングサンデー』ではじまった当初、すこしばかり落胆したのを憶えている。あの『パープル』の作者が推理ものかよ、と感じられたのである。金田一少年のテレビ・ドラマ化が95年で、コナンくんのテレビ・アニメ化が96年だったことを考えれば、ある程度の時代背景はわかってもらえると思う。『ヤングサンデー』の増刊で発表された『パープル』は、おおくのばあいセクシャルな面における設定や描写などで語られるけれども、じつはよしもとよしとも作品の台詞や場面の流用が少なくはなく(同様の振る舞いは、遠藤浩輝や日本橋ヨヲコの短編にも見受けられるのだが)、おそらくは、ポストよしもとよしとも、もしくはポスト岡崎京子あたりの世代が描いた、青春(モラトリアム)劇というふうに、現れるべくして現れたものだと考えられる。じっさいに『カケル』連載時に、竹下は巻末のコメントで、よしもとの「好き好きマゾ先生」をフェイヴァリットに挙げている。そういったことも踏まえ、たぶん僕は、そのころはまだ『ヤングサンデー』にいた、竹下と同い年の沖さやか(現・山崎さやか)が『マイナス』などで、自意識の脆弱さをラジカルに表現していたのにくらべ、『カケル』はといえば、竹下のセルアウトであるかのように見えたのだろう。当然、中盤以降にミステリの要素が排除され、「ぼくっていったいなに」といった問いかけが、まさか浮上してくることを知らなかった段階での話である。と、ここで昔話は終わります。ちなみに、今回の復刻に際して付せられた全話セルフレビューで、作者が、連載当時の状況などを語っているなかには、なかなかに興味深い発言もある。マンガの内容に関しては、もうすこし話が進んでから言及することにしたい。
『COCOON』1巻について→こちら
2006年07月27日

これにて完結の和泉かねよし『そんなんじゃねえよ』9巻である。セックス(性交)するまでには至らなかったとはいえ、ソフト近親相姦ものでありながら、最後までテンションが落ちずに、あっかるい感じが続いたまま、いちおうの大団円となった。とはいえ、主人公である静の、ふたりの兄のうち、烈が、中盤以降に影が薄くなってしまったのが、やはり、ちょっともったいなかったかな。身内の三角関係という特殊な設定と、それにともなう緊張感が弱まってしまったため、作中にある〈静ちゃんは兄妹愛と恋愛の区別がついてないだけだ〉といった台詞に、もう一方の兄、哲がうまく答えていないかっこうで物語が収まってしまっている。その台詞を言った仁村が、最後まで〈まだ全然納得してないんスけど〉と愚痴をこぼすのは、作者自身が、おそらくは無意識のうちに、そういった不備に気づいているからであろう。登場人物たちの血縁関係が入り組んでいるのは、結局、この劇があくまでもスモール・サークルのなかで繰り広げられるよう限定されているからなのだが、その狭められた範疇内の整合性は、たんに血筋の解明といった設定の開示により担われているのであり、結局のところ感情の動きは、そうした裏付けを越えてゆくほどには、説得力を成り立たせてはいない。だからこそ単純に、物語の最初からぜんぶの設定を唯一知っていた、静ら三兄妹の母である涼子の言葉だけが、特権的なぐらい、他の登場人物への強い働きかけを持っていたのである。いや、それにしても涼子はかっこうよかった。その益荒男ぶり(女性なので語義矛盾だ)が、個人的には、このマンガにおける最大のチャーム・ポイントだった。
『二の姫の物語』について→こちら
巷の評判がいかがなものなのかは知らないが、近所の本屋にはいつも一冊しか入ってこない金平守人の単行本を、地道にゲットし続けるのが、なんだか使命のようになってきている。というわけで当然、『金平deR(カネヒラデアール)完全版』も近所の本屋に一冊だけ置かれているのをキープしたのであった。個人的には、下ネタの類には関心がなく、ブラック・ユーモアもあまり好まないのだけれども、この人の描く、既存マンガ家のパロディとか、ひとまず政治的には正しくなさそうなところを、まあ、わりと好む。それはともかくとして。吾妻ひでお風に描かれた森薫が、ものすごくかわいい。と、これが言いたかったのです。

『晴れのち曇りときどき読書』は、松浦寿輝が、この20年ほどのあいだに、おもに新聞紙上に発表した書評を、一冊にまとめたものなのだけれども、いや、これがとてもおもしろくはなかった。松浦は巻末に付せられた「書評の書き方――あとがきにかえて」のなかで〈良い書評が満たすべき条件は三つ〉、ひとつには〈それがどんな本なのかがわからなければならないということ〉で、もうひとつは〈それがそういう本だとして、ではそれにいったいどういう意味があるのかが評定されているということ〉、そして最後に〈それが読める文章でなければならないということ〉だといっているのだが、しかし〈そんな「良質の書評」なんぞ、実はわたしはあんまり書きたくないのである〉と、こういう言葉のうちに見え隠れしているのは、まちがいなく、ある種のスノビズムであろう。「良質の書評」を書けないのではなくて、書きたくないし、書かないという、さぞかしご立派な態度である。ふっ、鼻持ちならねえ、ね。とはいえ、松浦は、そうして自分の書いたものが〈単なる「良質の書評」という以上の何ものかになりえているのが理想だが、実際に言っているのとは違うことを行間に滲ませようとして、ぶざまな失敗を露呈させていることもあったかもしれない。世間様と折り合いをつけようという義務感の空転だけで終わってしまった文章も混ざっているかもしれない。わたしの偏見がぷんぷん臭いすぎてその本の本質を捉えそこねているようなケースも多かったかもしれない〉と、それがもしもアイロニーではなければ、殊勝な言葉を続けたりもするのだが、「かもしれない」といった語尾はもちろん、まあ基本的にそういったことはない、といった傲慢にしか読めない。いや、そうとしか捉えられないのは、こちらが単に頭の悪いせいなの「かもしれない」。それはともかく。さすが蓮實重彦門下というのが褒め言葉になるのかどうかはしれないけれども、さすが蓮實門下といったところで、批評や現代思想に関する書評は、ガイドとして相応に役立ちそうでもあるのだが、ひどいのは小説を扱っている項で、とくに内田春菊『あたしのこと憶えてる?』についての文章は、まあ、これが「実際に言っているのとは違うことを行間に滲ませようとして」成功している部類なんでしょうけれども、たとえば、そこで女性器の描写を引いたあとで〈いいなあ、こういうの。感性としてはむしろゲイ寄りのはずのわたしでも、こういう箇所を読むと何ともおいしそうでいいなあと感じ入ってしまう〉と書くあたり、内田春菊の作品を読める、理解できる、愉しめるボクちゃんてセンスあるよね、と坊ちゃんが媚びているような姿がイメージされ、なんとも白ける。寒々しいかぎりである。同じような詩人の書評集に、3000円ほどの金額を出すのであれば、荒川洋治の『文芸時評という感想』のほうが、何倍も得だし、すぐれていると思う。
2006年07月26日

前巻まで続いた「牙の女王」編で、県警内部の隠蔽工作を公にしてしまったことの代償として、銃器対策課へと飛ばされてしまった主人公の高円寺は、そこで拳銃の密輸ルートを探るために、〈この世で一番恐ろしい仕事〉である暴力団への潜入捜査を命じられる。もしも正体が知られれば、間違いなく命は、ない。そんな危険な任務を高円寺が引き受けたのには、密輸ルート摘発のほかに、もうひとつの理由があった。ヤクザと繋がり、拳銃の密売に一枚噛んでいると噂される、かつての恩師、先輩刑事の沢口豪を救うためだ。〈俺は命に懸けてもあんたの目を覚まさせる〉。というのが、きたがわ翔『刑事(デカ)が一匹…』5巻「裏金を生む英雄(エース)編 上の巻」のあらましである。「牙の女王」編の犯人、梶山めい子が、狂気の、いわゆる壊れた人間であったのに対して、ここで高円寺と敵対する沢口と、その幼馴染みであるヤクザの若頭氷室司は、あくまでも業を背負った人間である点が、「裏金を生む英雄編」の特色であろう。もちろん、組織のうちにあって個人は生かされるのか殺されるのか、といった問題は、前シリーズから引き継がれている。なぜ沢口が、刑事としての自分を見失い、悪に身を落としたのか。それは、氷室が、暴力団の変質について〈社会には本来あぶれ者のための受け皿がなくてはいけない……だが……国家はそれを用意せず ただその存在を否定した〉〈国がどんなに存在を否定したって俺たちはいなくらねえ〉と語る言葉に、パラレルな問題となっている。どのようなシステムであれ、その成熟は、弱者や、それを守ろうとする青臭い理念を切り捨てたうえに、成り立とうとするからだ。そして成熟したシステムは、その内部にエントロピーを増大させる。増大したエントロピーが導くのは、当然、頽廃的な傾向である。成熟した国家の、その下位に属するといった意味では、警察も暴力団も、それぞれがオルタナティヴなカテゴリーでしかなく、どちらも同様に頽廃している。それでもしかし、人が人として生き、なおかつ人が人を救うことに、意味などあるのだろうか。自らの命を賭けてまで、高円寺が潜入(ダイブ)するのは、そのような問いかけのなかへ、でもある。

講談社文芸文庫『ソロモンの歌・一本の木』は、表題になっている二篇を含め、吉田秀和のエッセイ調の文章を集めたものであるが、そのうちでもとくに「中原中也のこと」と「小林秀雄」を目当てにして読んだ。「中原中也のこと」に関して、かつて江藤淳は時評のなかで〈この吉田氏の回想文は回想としても批評としても近来の名文章で、小林秀雄氏の「中原中也の思ひ出」や大岡昇平氏の『朝の歌』に匹敵する地位を主張しうるものである〉といっているけれども、なるほど、小林や大岡と同じように中原と交流のあった吉田が綴る文章は、詩人の、詩人である以前に人間としての、在りし日の姿を、こちら読み手の眼前へと立ち現わせる。吉田は〈私は「詩人」についての思い出などあまりかきたくない〉〈小林秀雄がどこかにかいていたが「上手に思い出すことは、むずかしい」。ことに、詩人についての思い出は、上手にやるのではなくては、単に正確か不正確かというだけでなしに、まるで意味がなくなってしまう〉と書いている。そうして続けられる回想は、ひとりの人間がひとりの人間と出会った、あるいは、ひとりの人間がひとりの人間を喪った、そういう情緒に浸るが、溺れることはなく、あくまでも書き手が、自分の属する此岸から、そして此岸へと泳ぎ、戻り、帰る過程なのである。22歳の中原との交流がはじまったのは、吉田が17歳、高校1年のときであった。〈中原は、こんな若さで人生の遍歴をあらかたすごしてしまったみたいな口のきき方をした〉。〈結果的にいえば、彼には、二十二歳にしてすでにあと七年の生命しか残されてなかった〉。個人的に興味深かったのは、次のような箇所である。〈中原は、日本の俳句や和歌や近代詩について「どれも叙景であって、歌う人の思いが入ってないからだめなんだ」とよくいっていた〉とある。今日においては、これは逆さまで、叙景ではなくて、歌う人の思いが入っている(かのように感じられる)ものが好まれる。エピソードとしておもしろいのは、やはり、中原と小林の単純だが複雑で奇妙な関係が、文章の向こうに透けて見える場面であろう。吉田は、中原の住まいで、小林が翻訳したランボーの『地獄の季節』を発見することになる。そこで衝撃を受けた吉田を見て、中原が小林を評する言葉に、嫉妬だろうか、等身大の感情が込められているように思う。中原の生々しい像が想起される。〈私は、たしかに中原に会ったことがあるにはちがいないが、本当に彼を見、彼の言葉をきいていたのだろうか? こういう魂とその肉体については、小林秀雄のような天才だけが正確に思い出せ、大岡昇平のような無頼の散文家だけが記録できるのである。私には、死んだ中原の歌う声しかきこえやしない〉として捉まえられた、こうした文章のうちに宿されたエモーションはいったいどこからやって来ているのだろうか。ここに収められている「音楽とわが青春」という篇のなかで、〈青春は、なんといっても、誕生や死と同じように、人生での最大の意味をもった出来事の起こる時期〉だといわれている。
2006年07月25日

子供にウケそうな複数の料理をワンプレートに載せれば、お子様ランチという商品が出来上がるわけで、ならば今どきの若者たちに需要が高そうなスクリーモとメタルコアのミックスなどというのも、大味な、お子様ランチ程度の商品でしかないだろうという以前に、スクリーモ自体がエモにスクリームが混じったものなんだったっけとか、たしかヘヴィ・メタルとハードコアのモダンなミックスをメタルコアというんだったかしらなどと考えれば、その味わいを想像しただけでも、なんだかえらく大雑把で、辟易させられなくもないのだが、しかし要は、その作り手のセンス次第なんだよな、と、このDROP DEAD, GORGEOUSのアルバム『IN VOGUE』を聴きながら思うのであった。サウンドの系は、先述したようにスクリーモとメタルコアのアイノコといった部類で、新規のワンダーやサプライズはそれほどないし、したがってとくに個性的というのでもない。しかし、わりとエキサイティングに聴ける、のである。ピアノまたキーボードがドラマチックに響く、ギターがいななき、バスドラがドコドコいう、濁声のスクリーム、それからメロディアスなコーラス、この手のものにとってはお馴染みの構成が続く。激しい展開と叙情で聴かせるというのは、たしかに今様のセオリーではあるけれども、そういったパターンに退屈させられないのは、簡単にいえば、紋切り型の「型」に陥りそうな危険を、つけられたアクセントの効きによって凌いでいるからである。手持ちのカードはすべて凡庸であるが、その一枚一枚は切り方ひとつで、巧妙なフックへと変換されており、それらが2、3分程度の楽曲に万遍なく配せられているおかげで、抜き差しならない緊張のなかに、刺激的な風味すら生じている。
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2006年07月24日

日本橋ヨヲコのマンガは、わりと参照項があからさまというか、先行作品からの影響を包み隠さないので、そのつくりは、要するに、サンプリングだとかリミックスだとかに近しいと思うのだが、多くの読者からそういうふうに読まれているといった気配が感じられないのは、あくまでも焦点は、そうしたフレームの内側にどれだけの熱量を込められるか、または読み手の注意をその熱量のほうへと傾けさせるか、という部分へと合わせられているからに他ならない。言い換えると、カタルシスさせるためのカタルシスを設ける、そのようなある種のハード・ロックに似た様式美がまっとうされているのであり、その機能性の機能的にのみすぐれていることが、良くも悪くも、作者の個性にまで高められているのだとして、作風に明瞭な熱血さ具合やストイシズムもまた、そこからやってきている。さて。古巣の講談社に戻り、現在『イブニング』誌で連載されている『少女ファイト』の第1巻である。過去に体験した悲痛な出来事から、もう調子に乗らないよう抑えながらバレーボールに取り組む主人公、練(ねり)は、しかし試合でコートに立ってしまえば、その才能を隠すことができず、チームメイトとの調和を無視してまで、ボールを追ってしまう、追えてしまうのだけれども、そういった自分自身こそが、もっとも嫌悪すべきものだと考えているので、ついに生き方を見失ってしまうのであった。これまでに『イブニング』に掲載された分をすべて収めたこの巻では、練の、中学時代の終わりが描かれ、高校へと進学した次巻以降では、おそらく、それから彼女がじょじょに再生していく、あるいは生き方の発見してゆく姿を追ってゆくことになるのだと思うが、現段階で、この作者得意のネガティヴに陥った登場人物を他の登場人物のポジティヴさが励ます、サポートするといった構図は、すでに顕著になっている。
2006年07月23日

1巻は、以前にべつの判型で出ていた『水と銀』と同内容なので、すでに『水と銀』を持っている方は2巻のほうだけを購入すればいいです、といったところで、その2巻よりも1巻のほうが確実におもしろいのだから、『水と銀』を読んだことのない方はとりあえず1巻だけを購入すればいいです、とあまのじゃくなことを言ってみたくもなってしまう、1、2巻同時刊行となった吉田基已『水の色 銀の月』である。『水の色 銀の月』は、吉田の、あの『恋風』以前、現在から6〜8年前の作品にあたる『水と銀』のオルタナティヴなヴァージョンというか、リメイクというか、設定はすこしばかり変更されているが、それでも登場人物や主題めいたものは共通しているのだけれども、まとっている雰囲気が微妙に異なっている。それが作者の加齢によるものなのか、時代性の反映なのか、技巧的なディフォルメのせいなのか、判断がつきにくいというのも、『水と銀』には、ほぼ同時代に、やはり同様に大学生のモラトリアムを扱った、たとえば90年代の後半に描かれた木尾士目『四年生』や『五年生』や、たとえば00年代初頭に発表されたひぐちアサの『ヤサシイワタシ』に相通じるような、そういう閉塞感と倦怠が内包されていたのに対して、『水の色 銀の月』のうちには、それがあまり感じられないからなのであった。そのせいで、作内にいる人間たちの切実さが柔いでしまっているように読める。ちなみに世代で括ってみると、木尾が74年生まれ、ひぐちが70年生まれで、吉田が76年生まれになる。さて。このマンガの主題めいたものとはなにか。簡単にいうと、ひとりぼっちというわけじゃないのに、なぜかそうは感じられない、といったものであろう。先にも書いたが、それは『水と銀』と『水の色 銀の月』に共通してある感覚だ。〈どうしてひとつになれないんだろう……〉。『水の色 銀の月』の2話目で、そのような気持ちを抱え、夜を越えざるをえなかった登場人物は、やがて〈ひとりだけど ひとりじゃない ひとつになれないから もっと見つめたい――〉と思うようになれる。ちなみに、こうした他者に関わる不安と自意識の有り様は、男性向けのマンガ表現においては、80年代の後半、安達哲の『キラキラ!』のなかにすでに見られるものである。
『恋風』5巻についての文章→こちら
2006年07月22日

98年の『CANDY FROM A STRANGER』からじつにひさしい、SOUL ASYLUM(ソウル・アサイラム)のニュー・アルバム(通算9作目)『THE SILVER LINING(ザ・シルバー・ライイング)』は、昨年にベーシストであるカール・ミュラーが亡くなったというトピックを抜きにしても、十分に聴き手の胸を打つような、励ますような、このバンドならではのあたたかく人間味に溢れた、心強い作品となっている。たおやかに演奏が高鳴ったところで、曲名どおりの「STAND UP AND BE STRONG」というシンプルなコーラスが繰り返しリピートされる1曲目からして、呪われ、戦い、勝つ、そういった生きていくうえでの様式が、メロディとなり、奇を衒った複雑さのない、やわらかな自然な流れとして、こちらへと届く。デイヴ・パーナーのヴォーカルは、かつてと比べると、やや掠れ気味に聴こえもするけれど、憂いを帯びながら、しかし暗くはなく、熱のたしかに込められていることが如実な、説得力、表現力は増しており、そのうたわれ方が、目の前になくともイメージできるという意味合いで、ひじょうにエモーショナルに、響き渡る。ミドル・テンポからバラードまで取り揃えられた、すべてのナンバーが色彩の豊かな情景を描いている、どれも出色の出来で、10曲目の「OXYGEN」とか、かなりドラマチックで思わず涙腺が緩ませられたりもするのであるが、個人的にはやはり、5曲目の「BUS NAMED DESIRE」に代表されるような、ギター・ロック然とした疾走感のなかに、あくまでも生活者の目線でもって「きみとぼく」のシーンを切りとり、変化を待ちわびる想いをいつまでも変わらない歌に託した楽曲などが、このバンドの原点をとてもとてもつよく感じさせるから、最高潮に好きだ。
バンドのオフィシャル・サイト→こちら
2006年07月21日

一方に正義は教えられるかといった問題があり、もう一方では他人から提示された正義に従うことは真実に正義なのかといった問題があるとして、その狭間で、人は、正義とはいったい何かを考えることができる存在なのではねえのかな、あるいは、それぐらいのことしかできない存在なんじゃないかしら、と僕などは思うのであった。桂正和『ZETMAN』7巻、自分の運命を受け入れたジンは〈まるで他人の為に生きてるみたい〉と言われれば、〈しかたねーだろ それがオレの生きてる理由なんだから〉と、切なげに笑う。ところで。ときおり自己犠牲は、偽善的だといわれる。そのような言説が、この国で、いつぐらいに成立したのか、または説得力を持つようになったのか、もうちょいいうと、一般化されたのか、詳細に検討したわけではないので、直感でいうが、じつはそれほど古くはないような気がする。そしてそれはたぶん、大きな物語と呼ばれるような公的なイデオロギーの失墜と、すくなからず連関している。なぜならば、ポストモダンより以前においては、なにかしらかの倫理のために死ねばよかったのか、そう問われれば、死ねばよかったのだ、と言えた。しかし、ポストモダン以降にあっては、なかなかそうは言えず、言えたら言えたで、まあそれもちょっとどうだろうというのもあって、死ねばよかったのだ、といった言葉が、共感を導き出す機会も稀となった。サブ・カルチャーの表現に引き寄せれば、90年代に、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』で碇シンジが人類のために戦えないのも、小林よしのりが個だとか公だとかいいかましたゴーマンも、それぞれ見え方や主張は違うが、議論としては有効であり、センセーションであったのは、死ねばよかったのだというのは、もうすこし正確を期せば、自分のために死ねばいい、生きればいいというのではなくて、他人のために死ねばよかったのだ、と口にするのが、すでに憚れていた時代の反映であり反動であったと考えられる。さて。『ZETMAN』に話を戻す。出生の秘密や、紆余曲折を経て、ジンが選んだのは、ある種の自己犠牲に他ならない。自己犠牲はたしかに偽善的でありうるかもしれない、が、しかしだからといって、それを偽善であると指摘すること自体が、すなわち真に善なる行為として保証されるわけではない。そうしたときに、いったい何が何をもって正当化されるのか。ひとつ可能性として挙げられるのは、エモーションであろう。先天的には人ではないはずのジンが、なぜ人間のサイドに立ち戦うのか、そして本質的には人でありうるのか、というのは、まちがいなく『ZETMAN』の物語を動かす主軸のうちの一本である。それに対する答えは、この巻の随所で端的に示されており、要するに、感情を、心を、やさしさを教えられたからということになる。もっともエモーションに裏打ちされた行動が、ただそれだけの理由で、善となるいわれもないのだけれど、たとえば打算的な論理とをハカリにかけてみれば、どちらに信頼が置けるのかは、火を見るよりも明らかであるように思える。そうして7巻でもっとも印象的かつ感動的なのは、死ぬことも許されず、愛する人たちからも遠ざけられ、苛酷な試練を告げられたジンが、次のように言う場面である。〈なぁZETになれば・・・大切な人を守れるか?〉。こうした決意を、現段階での『ZETMAN』という作品の内部に入ったところから否定するのが難しいのは、もしもほんとうにジンが〈ニンゲンがどーなろうと知ったこっちゃねーよ〉といったほうに傾き、〈プレイヤーなんか追わねーで好きに生きてやる〉としたならば、〈罪もない人々が無差別に殺される〉可能性へと繋がっていくからだ。問題は、彼の内的な葛藤に止まらない。が、しかし〈やっとこれで本当のオレになるんだろ?〉すべてを受け入れたジンが、いよいよ本格的なZETの覚醒に臨む段になり、ふたたびプレイヤーの到来と危機が予告され、8巻へと続く。
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2006年07月20日
『週間ヤングサンデー』第34号掲載の読み切り。いくえみ綾は、男性マンガ誌はこれがはじめての登場(作者プロフィール欄より)だということである。いくえみが男性向けの雑誌に登場するというのは、そりゃあ90年代の頃だったら、ちょっとびっくりもしただろうけれど、ここ数年は、作風も、また読者の層も移り変わっているので、そのあたりは、へえ、といった程度の感慨しかない。『マシマロ』という題名は、奥田民生の同ナンバーからとられており、いちおうコラボレーションの体になっている、実験作らしいのだが、べつに前衛的な作品というわけではなくて、とある恋人たちの日常を、実質3ページのわずかさで捉まえた、要するに、小品というべきものなのであった。いや出来自体は、じつにこの作者っぽい、程よく肩の力の抜かれた安寧さがあり、けっして悪くはないのだけれども、こうした歌謡曲(Jポップ)のコミカライズは、最近の『コミックバンチ』でも行われおり、種々のマンガ家によって、すぐれた作品がいくつか描かれているのもあって、それほど特筆するような内容でもないと思う。楽曲の歌詞が引かれているとはいえ、中身との関わりは希薄で、まあ、そのへんが「本文と関係ない」といったことなのかもしれない。夏には同様の企画で、長編の読み切り掲載が予定されているらしいので、つまりこれは、そちらの前哨といったところであろう。
・その他いくえみ綾の作品に関する文章
『潔く柔く』第3巻について→こちら
『潔く柔く』第1巻について→こちら
『カズン cousin』第1巻について→こちら
『かの人や月』第2巻について→こちら
・その他いくえみ綾の作品に関する文章
『潔く柔く』第3巻について→こちら
『潔く柔く』第1巻について→こちら
『カズン cousin』第1巻について→こちら
『かの人や月』第2巻について→こちら
『小説すばる』8月号掲載。絲山秋子の連作シリーズ「ダーティ・ワーク」の第六話。ローリング・ストーンズの『DIRTY WORK』アルバムに入っている、「back to zero」というナンバーから小説の題名はとられている。おそらく、単行本の状態で読むぶんには、驚くこともないのだろうが、こうした連載の段階だと、おお、と思うのは、これまでの登場人物たちの相関が、この話で、いくつかクリアーになっているからで、まず何よりも第三話の遠井と第五話に出てきた辻森のやり取りが、ここではメインになっているのだけれども、そうして、その遠井と、第一話の登場人物である熊井が、高校の頃いっしょにバンドをやっていたという事実が明かされるし、第四話のうちで語り手のひとりであった〈俺〉の兄が、じつは遠井であるかのような示唆もされている。とはいえ、正直に、この「back to zero」には、それ以上の楽しみは見つけられなかったかな。人称に気を配った文章の運びは、結果として、ごく通俗的な描写にしかなっていないし、そういった部分や、「うまく言えないけど……俺ずっとマイナスだから、一からやり直すっていうよりは、ゼロからやり直したいって」という青臭さ、先ほどいった人間関係、つまり知り合いの知り合いがじつは知り合いであったというサプライズも含め、まるで青年向けマンガのノベライズみたいな、そういう感じの内容に止まる。会社に行かなくなってから三ヶ月が過ぎ、無気力が深まる一方の遠井のもとへ、年上の知り合いである辻森から、写真展の誘いがかかる。辻森の撮った〈写真はモノクロで、すべてヌードだった〉。そのなかの一枚に、遠井は、高校のときまで仲の良かった熊井が、裸でギターを弾いている姿を見つけると、〈動悸が強くなった。汗ばむ自分を感じた〉のであった。
「ダーティ・ワーク 第五話 miss you」について→こちら
「ダーティ・ワーク 第四話 before they make me run」についての文章→こちら
「ダーティ・ワーク 第三話 moonlight mile」についての文章→こちら
「ダーティ・ワーク 第二話 sympaty for the devil」についての文章→こちら
「ダーティ・ワーク 第一話 worried about you」についての文章→こちら
・その他の絲山秋子に関する文章
「みなみのしまのぶんたろう」については→こちら
『ニート』については→こちら
「ベル・エポック」については→こちら
「へたれ」については→こちら
「沖で待つ」については→こちら
「ニート」「2+1」については→こちら
『スモールトーク』については→こちら
『逃亡くそわたけ』については→こちら
「愛なんかいらねー」については→こちら
『袋小路の男』については→こちら
『海の仙人』については→こちら
「アーリオ オーリオ」については→こちら
「ダーティ・ワーク 第五話 miss you」について→こちら
「ダーティ・ワーク 第四話 before they make me run」についての文章→こちら
「ダーティ・ワーク 第三話 moonlight mile」についての文章→こちら
「ダーティ・ワーク 第二話 sympaty for the devil」についての文章→こちら
「ダーティ・ワーク 第一話 worried about you」についての文章→こちら
・その他の絲山秋子に関する文章
「みなみのしまのぶんたろう」については→こちら
『ニート』については→こちら
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「ニート」「2+1」については→こちら
『スモールトーク』については→こちら
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『袋小路の男』については→こちら
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2006年07月19日

ひさびさに自分の読みにまったく自信が持てなくなる小説であったよ、金原ひとみの『オートフィクション』は。というか、ちょっと、おもしろがれなかった。22歳の〈私〉が書くオートフィクション(自伝的創作)のなかで、18歳の夏に〈私〉は、〈シャアと出会い、大分変わってしまったようだ。シャアを愛せば愛するほど、適当さがなくなっていく。生活も男も、何もかもが面倒臭くなって、適当な放浪生活を始めたはずだった。それが、シャアと出会った瞬間から、私はまたせっぱ詰まった人間に逆戻りを始めてしまった〉と思う、その〈私〉は、16歳の夏にガトウという男と付き合っていたときに、〈私があんたにしてやれる事は、全てやってきたつもりだった。毎日ご飯も作ったし、炊事洗濯もした。ただ浮気だけした。それにも理由があった。あんたが私を大切にしないからだ。毎日毎日スロットばかりで相手にしてくれないし、いつも「飯」とか「風呂」とかクソ亭主みたいな事ばっか言うし、友達の彼女を可愛いと褒めるし、そんなの、浮気されて当然だってんだ。くそ〉と涙を流す以前の、15歳の冬には、父と母の不仲を眺めながら、〈私はこれからずっとにゃんこと一緒にいて、いずれは一体化する方針だ。でも、もう何十年も一緒にいる彼らが一体化していないのを見ると、望みが叶わない可能性を疑って〉しまい、そのにゃんこという男とのあいだにできた子どもを堕胎したさい、〈自分の子供を産むも堕ろすも決められなかった事を。ずっと自分が死ぬところを想像しながら、今この瞬間死んでいないという事実を〉受け止め、〈私はきっと、自分自身で自分自身を変化させていく事が出来るだろう〉と考えていたのであった、が、しかし、22歳の冬に担当編集者からオートフィクションを書くことを提案された〈私〉はといえば、〈シンの事が好きで好きで仕方ないのに、私は死にたくない。愛するという事は死ぬという事だ。生きていたら愛する事など出来ない。生きるべきか死ぬべきか愛するべきか愛を諦めるべきか〉といった妄念に囚われ、〈彼と出会い初めて人間として本物の愛を手に入れる事が出来たのだ〉と信じていた男に離婚を、すでに切り出している。と、引用でもって、おおまかなアウトラインを描いてみれば、そのような感じになると思うのだが、いかんせん、その奥に書かれているもののほうに、どうも僕は入り損なってしまったみたいなのである。とがった文章からは、他者との断絶を前提としながら、それでも他者との共存を願わずにはおれない、殺伐としてさびしげな雰囲気が醸しだされてはいるのだけれども、それにうまく乗れなかったというのもある。まあ、いまどきの饒舌小説としてみたら、それほどに高い水準ではないと思うのだが、しかし、じっくりと付き合ってみれば、何かしらかの発見があるのかもしれない、と引っ掛かるのは、登場人物たちの名前(愛称)の付けられ方の適当さ具合から、オートフィクション(自伝的創作)という言葉が示しているフィクションに対する、作者の用意周到な悪意を察することも可能だからで、だいいちシンとかシャアとかカズとか、リンとかランとかモエとかユウナとか、この匿名的かつヤンキーとオタクが紙一重となった頭の悪さは、それこそがこの時代のリアルなどといえばひどい退屈でしかなく、あきらかに作為的なものなのであろうから、いったい何を意図しているのか、考えているうちに頭がこんがらがった。
『AMEBIC』について→こちら
2006年07月18日

ジェフ・ウォーカーといえば、初期はブルータルなグラインド・コアとして、後期はメロディックなデス・メタルとして、きわめて先駆的であったCARCASSというバンドの、ヴォーカルとベースを担当していた人である。その彼のソロ・プロジェクト、JEFF WALKER UND DIE FLUFFERSが発表したのが、この『WELCOME TO CARCASS CUNTRY』というアルバムなのだけれども、その中身は、ジョニー・キャッシュやハンク・ウィリアムス、ジョン・デンバーなどの楽曲をカヴァーしたものになっており、アルバムのタイトルがある程度示唆しているように、要するに、カントリー寄りの、とはいってもニール・ヤングの「KEEP ON ROCKING FREE WORLD」も収められているのだが、まあ、そういったアメリカンで古典的といえるシンガー・ソング・ライターによるナンバーを、CARCASS流に演じているといった趣である。が、しかし、その、CACASS流というのは、グラインド・コアでもなければ、デス・メタルでもない、ジェフがCARCASS解散後に立ち上げたBLACK STARあたりに顕著な、つまりはCARCASSのラスト・アルバム『SWANSONG』で指向された、「KEEP ON ROTTING FREE WORLD」ふうの、まさに、腐臭漂うロックン・ロールの体をいう。とはいえ、演奏自体は、たしかにエレクトリックで、それなりにハードで、ときにはギターのリフがずんずん刻まれるが、元曲のイメージを著しく損なうというほどではなく、不穏当な空気は、おもにジェフのしゃがれヴォーカルが担っている。かつてと比べれば、それほど聴き取りにくくはないけれども、ま、けっして爽快な気分にさせてくれる類でもない。免疫のない向きには、これでも十分にデス声であろう。それにしても、参加しているミュージシャンの豪華さ加減には、刮目せざるをえない。いっぱい居すぎなので、気づいたかぎりで、適当に挙げていきます。元CARCASSからは、ケン・オーウェンとビル・スティアー。AMORPHISのギター・チーム。ANATHEMAのベース。PARADISE LOSTのヴォーカルとギター。NAPALM DEATHのショーン・エンバリー。元FAITH NO MOREのビリー・グールド。THE HELLACOPTERS(元ENTOMBEDね)のニッケ・アンダーソン。それからH.I.M.のメンバーの名前も見つけられる。そうしたラインナップの充実もあってか、シリアスに受けとるような内容ではない、けっしてアーティスト・サイドの趣味の域を出るものではないにしても、けっこうきっちりと仕上がっており、それなりに愉しめはした。
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2006年07月17日

ウォリアー・ソウルからやさぐれたパンク・アンド・ビリジレントへと転向したコリー・クラーク、彼をフロントマンとして加えてからのDIRTY RIGが、はじめて発表するのがこの『ROCK DID IT』というアルバムである。個人的には、コリー目当てであるため、バンド自体の以前の作品は聴いたときがないのだけれども、いや、これがすごくかっこうのよい内容だったのであり、燃えた。やっぱね、こういうタフでラフな勢いのあるロックン・ロールが最高潮に好きだ。コリーのキャリアを基準にしていうと、彼がWARRIOR SOULのあとにやっていたSPACE AGE PLAYBOYSのような、シンプルで直情的なものであるが、あれよりも、よっぽどダイナミックで、硬く、さわがしい。あるいは、そうした部分こそがDIRTY RIGというバンド本来の持ち味であるに違いない。じっさいに演奏のキー・ポイントを担っているのは、オリジナル・メンバーであるギターのプレイだろう。その、線は太いが、じつに多彩で器用にさばかれるフレーズが、楽曲の印象を左右しているみたいだ。日本盤のライナー・ノーツで、川合純行がザック・ワイルドに類似したスタイルであることを指摘しているが、たしかに1曲目「SUCK IT」のソロに入るあたりなどで聴くことのできるピッキング・ハーモニクスの、あの、ひゅわわーんという響きはザックのそれを彷彿とさせる。そのような豪快なタッチを、あくまでもアップ・テンポのえげつないノリに組み込んでいく手腕が、パワフルでストレートな音のなかから、単調にならないヴァリエーションを引き出しているのだと思う。また、コリーのザラついて荒々しいヴォーカルも、この分厚くアグレッシヴなサウンドに、とてもとてもよく似合っている。ソング・ライティングのクレジットは、バンド名義になっているが、2曲目「DRUNK AGAIN」におけるヴァースのラインなど、あきらかにコリーが持ち込んだとおぼしき部分も少なくない。ワン・フレーズは基本的にキャッチーで、うらぶれた気分を晴らすために、でかい声でガナるのに相応しい。俺は好き勝手にやりたいんだ、邪魔をするなよ、と。まあ身も蓋もない言い方をすれば、アルバム全編が、アルコールとガッツがあれば満足だ、そういう甲斐性なしのろくでなしに向けられたサウンド・トラックであろう。レニー・クラヴィッツの「ARE YOU GONNA GO MY WAY」に似たリフが印象的な3曲目「JUST A STAR」の歌詞とか、「TAKE TAKE TAKE OFF YOUR T-SHRITS」「I KNOW YOUR HARD GIRL, I WANNA ROCK THE WORLD」といった具合に、すごくくだらないクリシェなんだけれども、それがものすごくかっこうよく決まっていて、やはり単純で馬鹿な僕などは、すぐに燃えてしまうのであった。
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