ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年01月29日
 至福、の一言に尽きる。尽きた。遂に初来日を果たしたカナダの男女二人組ユニット、NADJAの東京公演だが、アンビエント、エクスペリメンタル、シューゲイザー、スラッジ、ドゥームetc. 様々なトピックを弄しながら形容されるサウンドは、確かに轟音の贅を凝らしたものであって、ああ、これはちょっとすばらしいぞ。と、そう、正しく未曾有の領域を実感させるほどなのだった。

 先にステージをこなしたENDONとVAMPILLIAが「動」の、すなわち激しくうるさいパフォーマンスを繰り広げたのに対し、NADJAの演奏はまず最初に「静」の、つまりは決して騒がしくはないし派手でもない表情を暗がりのなかに描き出す。実際、セットの中央に固まったAidan BakerとLeah Buckareffの姿からは何の気負いも気取りも見えてこない。普通である。自然に構えているだけである。装いは平凡ですらある。しかしその、いっけん特色のない佇まいが、いつしかデリケートな緊張に包まれていき、やがて圧の高い轟音と一体化してしまうのは不思議だ。NADJAならではのマジックというよりほかない。

 マシーンのビートとスローなノイズがスピーカーを通して反復される。地響き。フロアーに背中を向けたLeah Buckareffのベースと電子楽器を並行して操るAidan Bakerのギターが、混じり合い、身体が震えるぐらいのドローン(持続低音)に満たされた空間を、より濃く、うねりが実体を持ったかと錯覚させられるまでの厚み、甚だしいまでの波動を、密度を作り上げていく。そのうねりに掴まれたなら簡単に振り切れはしまいよ。だが息苦しさは、ない。美しくて眩しい幻想に囚われるのとも似た陶酔や恍惚はどこからやってくるのだろう。絶え間なく降り注ぐ轟音がハレーションを起こし、麻薬的に作用するのかもしれない。いや。間違いなくパセティックな旋律を耳にした。メロディアスとはいわれないメロディだ。それが、凄まじく強烈なサウンドと因数分解されないカタルシスとを同じ体験において一致させているのである。

 ともあれ、最高だったよね、と言いたい。唯一もしくは最大の不満は、1時間に届かないステージの短さ、であろう。既存しているアルバムに20分超のナンバーが稀ではないアーティストである。それを何曲もプレイしたら余裕で長丁場になるはずなのだったが、アンコールを含めて結局のところ3曲かな。あっという間に演奏が終了してしまったのを物足りなく思う。

 もちろん、にもかかわらずNADJAのNADJAたるゆえんである圧倒的なポテンシャルを目の当たりにできたというのは、すでに述べたとおり。これまでに発表されてきた作品から窺い知れるように、NADJAのサウンドには、もしも拒絶反応を起こさずにそれを受け入れるならば、感性の構造や法則を変えられるだけのインパクトが備わっている。すなわち、我々によってこうだと信じられているのとは異なったもう一つの世界を顕在させる。価値観を揺るがすでもいいし、現実を忘却させるでもいい。どう喩えてもいい。認識のプログラムが入れ替わる。新しい世界に面してしまうのだ。たとえ束の間だったとしても、である。今回のライヴは全くそのことを明らかにしていた。
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2012年01月15日
 TRACE 2 (アース・スターコミックス)

 こうした新展開が意図するものとは一体何なのか。NASTY CATの原作と雨松の作画で送られる『TRACE』の2巻である。が、1巻と同じ舞台、設定を共有しながら、全く別のエピソードへと話は飛ぶ。当初の主人公、神山ユウを見舞った絶望をよそに、人間と異能者であるトレイスの相剋は更なる局面を迎える。妻子のために働く月城カイは、30年前に突如として人間を襲いはじめたトラブルという謎の脅威や、人間の体内組織を超人のレベルに変質させてしまうトレイス化の奇病とは無縁に、そして平和に生きてきたはずだった。どれほど社会が深刻になろうとも自分の家族だけは絶対に幸福でいられると信じていた。しかし、いつだって悲劇は忽然としていて容赦がない。まさか、予期せずトレイスの能力に目覚めてしまったがため、カイは現在の生活を捨てなければならなくなってしまう。会社を辞めさせられ、妻子との隔離を余儀なくされるのだった。政府の管理下に置かれるのは仕方なかった。受け入れるよりほかない。だがしばらくすると、研究施設で検査を受けなければならないとされていた妻のハルカから連絡が途切れ、関係者は質問に一切答えなくなってしまう。ハルカと娘のサナを心配するカイが、あらぬ容疑をかけられ、指名手配されたのは、それから間もなくのことだ。追われ、あまりの理不尽さに為す術をなくした彼に、稲葉アキラと名乗る男がスカウトの声をかけた。果たしてこれが1巻のエピソードとどこでどう繋がっていくのかはまだわからないのだけれど、アキラとカイがとある計画を実行すべく、トレイスの仲間を集め、個性的なチームを結成していくという筋書きの、大変陽性な描かれ方は、今日におけるフィクションのマナーからすれば、プロセスとは正反対の暗い結果を予期させる。アキラの意味深長な発言はその手の伏線にも思われる。いずれにせよ、無事にカイが家族を取り戻してめでたしめでたし、は難しかろう。そう考えるなら、ユウが再登板してからが本当の本編になるのかもしれない。設定や描写に謎めいた部分は多いし、先は随分と長そう。とはいえ、フックのしっかりと効いた内容は十分な魅力を湛えている。また、シリアスなストーリーのなかで、カイの養父やアキラの上司に代表されるようなやさしい大人の存在がきらりと光っているのは、このマンガにとって大きな美点になりえている。
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2012年01月14日
 新潮 2012年 02月号 [雑誌]

 『新潮』2月号掲載。ここ最近、文芸誌の類に目を通していると震災後の日常を小説の舞台に使っているものが、いや確かに増えた。必ずしも直接的な被害を題材にしているわけではないのだったが、作中人物の心境に、あの体験が、部分的にであれ、紛れ込んでいる様子なのである。そりゃそうだろう。そうした在り方こそが、我々の現在なのであり、生活なのであって、リアリティなのだから、とは思う。しかしながらその大半に対し、どことなく距離を置きたくなってしまうのは、いくらかパターン化された驚きを導入したにすぎない以上の成果が見られないためだ。この場合の驚きとは、大まかに二種類ある。震災を経たことで変わってしまった自分への驚きか。あるいは逆に震災を経ても変わらなかった自分への驚きか。前者であれ後者であれ、デリケートに胸を痛んでみせるのは、作者の誠実さなのか。それとも単なるクリシェでしかないのかどうか。技法の面ではっきりしないものが少なくはない。さて本題は佐藤友哉の『今まで通り』ということになる。

 佐藤の『今まで通り』もまた、震災後の日常を小説の舞台に使っているのだけれど、おそらく例外的であるのは、上述した驚きがほとんどといっていいほど示されてはいない点だろう。反面、無感動と無関心、すなわちアパシーであることの憂鬱が作品の真ん中にきている。震災について、主人公の感想は〈大きな地震と、それによって原子力発電所が爆発して、放射性物質がばらまかれたというニュースを見ても、なにもなかった。/ 地震はすごかったけれど、すんでしまえばそれだけだし、原発についても、私の住んでいる場所からずいぶんはなれているので、あまり切迫したきもちにはならなかった〉という言葉に尽きる。専業主婦である彼女は、そのかわり、生後半年の赤ん坊と自分の関係に注意を引かれているのである。震災後の状況がどうであろうと『今まで通り』に。それが作品のあらましを担っていく。

 極めて単純化すれば、主人公の姿にはある種のストレスが投影されており、そしてそのストレスは、震災の以前から存在していたのであって、震災がもたらしたストレスよりも大きい。ではそのストレスの正体とは何か。自分と小さな赤ん坊の関係に根差したものだといえるのだが、しかしそれを育児の一語にまでは単純化できないところが、主眼にあたるのだと思う。力の強いと弱いとで対他関係が決定されるのなら、母親である主人公は赤ん坊よりも強い。けれど、赤ん坊を取り巻く社会性よりは遙かに弱い。このとき、本当に赤ん坊を保護しているのは誰なのか。果たして赤ん坊を一個の人格と認められるのか。疑問形になりうる混乱を、決して異常な事態とせず、現代的なミニマリズムのなかに落とし込んでいる。震災後の風景を採用してはいるものの、むしろ金原ひとみの『マザーズ』以降に発表された家族小説として、『新潮』1月号に掲載された舞城王太郎の『やさしナリン』などと並べたい作品だろう。ちなみに『マザーズ』は2010年から2011年にかけて『新潮』に連載されていた小説である。

・その他佐藤友哉に関する文章
 『333のテッペン』について→こちら
 『世界の終わりの終わり』について→こちら
 『1000の小説とバックベアード』について→こちら
 『子供たち怒る怒る怒る』について→こちら
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2012年01月10日
 Return To Earth

 これは昨年(2011年)にリリースされた最高にヘヴィなロックン・ロールである。どしどし響くリズムに、分厚いグルーヴを練り出すギター、そしてヴォーカルはブルーズにも似た泥臭さのなかにぶっきらぼうな表情を覗かせており、それらが迷わず、轟音と快楽と天上が同義であるかのような世界のドアを叩く。90年代にブリティッシュ・ストーナーを代表する一つだったACRIMONYの元メンバーによって編成されたバンドだという。なるほどな、と思わせるうねりこそが、このSIGIRIYAの持ち味であり、彼らがファースト・フル・アルバム『RETURN TO EARTH』の魅力に他なるまい。つまり、基本の路線はACRIMONYの頃とほとんど変わっていないのだったが、リフの反復作用にサイケデリックな触感を漂わせながらも、一個一個のフレーズを派手めにすることで、メリハリの大分はっきりとした印象を打ち出している。ダイナミズムが強まったといっていいし、キャッチーなアプローチが増したといっていいほどである。実際、長尺なのはラストに置かれた「DEATHTRIP TO ERYRI」のみで、いやまたその「DEATHTRIP TO ERYRI」におけるメロディアスでドラマティックでスケールの大きな展開がたまらないのだけれど、あとはもう直感的に瞬間的に痺れさせられるナンバーが目白押し。1曲目の「THE MOUNTAIN GOAT」からたちまちめくるめく。スローでドープにもかかわらずなぜかしら。じりじり焦らされることがない。その後も決してアップ・テンポな楽曲ばかりが並んでいるわけではないのに、まるで同じ阿呆なら踊らな損々のテンションを焚きつけてくるのだ。繰り返しのパターンに加え、歌うようなギターと歌いまくるヴォーカルが強烈な3曲目の「HURRICANE」などは正に真骨頂であろう。2010年代の今、ともすればKYUSSやFU MANCHUに比肩しうる最高にヘヴィなロックン・ロールを成し遂げている。

 バンドのMySpace→こちら
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2012年01月09日
 WORST 28 (少年チャンピオン・コミックス)

 ついに鈴蘭史上初の番長が誕生した。時を同じくして、巨大な萬侍帝国に不穏な動きが広まりはじめる。ぬおお、これは熱くならざるをえまいよ、があああっ、なんて言うと思ったか。確かにストーリーは、完結に向け、着実に大きな変化を見せてきてはいるのだけれど、シークエンスそれ自体に魅力は乏しく、アップを多用した派手なカットが手癖にしか見えない面もあるため、いくらか盛り上がりに欠ける。しかしまあおそらく、ここから真のクライマックスに入っていき、手に汗握るような場面も出てくるのだろう。信じたいところ。

 90年代に『クローズ』でハロルド作石や井上雄彦の技法を横目にしつつ80年代のヤンキー・マンガとは一線を画すことに成功したのが高橋ヒロシである。だが、そこで確立された作風は『WORST(ワースト)』の長期連載中、ともすればマンネリズムに等しい印象を持ってしまった。もちろん、それを作者のぶれないイズムとしたい向きも少なくはないので、いまだに十分な支持が得られていると考えるべきなのかもしれない。

 以前にも指摘した気がするが、当初の『WORST』には、たぶん海外のギャング映画を強く意識しているのだろうな、と思わせる部分が色濃かった。自らをアウトサイダーとして引き受ける不良少年たちの造形や、彼らを結束させるファミリーという概念の頻出に、それは顕著であったろう。一方で、主人公である月島花の笑顔とサムズアップ、あれは明らかに『仮面ライダークウガ』のヒーロー五代雄介の引用である。ここで不良少年たちのイメージが初代『仮面ライダー』の敵役ショッカーに重ねられていた『QP』を引き合いに出すのであれば、『WORST』とは、ヤンキー=ショッカー=マフィアの喩えに悪のレッテルが貼られるとき、五代雄介みたいな正義漢を対置するのではなく、もしも同じ立場としてその自由を奪わずに放り込むことができたなら、何かポジティヴな化学反応が起きるのではないか、式の試みと解釈することが可能だったはずだ。

 ただし、物語が進むにつれ、国盗り合戦、軍記物のフォーマットに作品の構造は純化、抗争のための抗争が繰り返されると、青春と学園の枠組みは後退し、大立ち回りの場を次々与えられたワキの人物らが人気を博すのはいいが、反動的に花のカリスマ・アピールがなおざりになってしまったのは痛し痒し、であろう。

 冒頭で述べた展開がこの28巻に訪れているわけだけれど、どうしたって花が春道や九里虎の先行世代より大物には思われないし、数以外で萬侍帝国が他を圧倒する理由があまりよく伝わってこない。一つにはここまでの積み重ねがそれらの脅威とは別のものにあてられていたせいである。無論、前者に関しては先行世代にはなかった資質を花だけが備えていたと読めるわけで、後者に関してはこれから存分描かれるに違いないと踏める。したがって今後に真のクライマックスを期待したいというのも最初に言った。

 また、ここで注意しておきたいのは、ファミリーという概念が、萬侍帝国との対決を意識した武装戦線、村田将五の口を通じ、あたかも重要なテーマを再確認するかのごとく、浮上している点だ。コミックスの裏表紙にまで引かれるほどそのセリフは28巻のなかである種のハイライトを為している。いわく〈だがそれでも戦おう・自由を奪われるわけにはいかねー・野郎ってーのは自由と女とそしてファミリーのために立ち上がるもんだ〉なのだったが、アウトサイダーたる不良少年たちが「自由」のために「立ち上がる」のは至極当然のこととして、周知の通り『WORST』にはほとんど「女」の人物は登場しない。そうであるならば「ファミリー」の一言こそが、実は最も示唆に富んでいるのではないか。

 しかしてその「ファミリー」は、鈴蘭史上初の番長に花を推挙する九里虎の、こういうセリフと間違いなく呼応している。〈わしはこげな男や! ワがためンしかケンカはせんバイ! 仲間のためやらツレのためやら・そげなもんアホらしか〜って男バイ! バッテンあいつは・花はちがうやろ! お前らんごたるしょーもなかボンクラどもんために一緒に血ば流し一緒に泣きよる男やろが! 今どきめずらしか〜大バカモンタイ!〉

 結局、これなんだよなあ、花道や九里虎になくて花にのみ備わった資質ってのは、といえるだろう。そして鈴蘭の統一を果たした花の目に映っているのは、決して周りは敵ばっかりの世界ではない。〈ホントに敵なのか? 鳳仙… 竜胆… 武装… ホントはこの同じ街に住み・同じにおいがする仲間なんじゃねーのかな…〉という問いがそれを代弁している。このとき、鈴蘭の花と武装戦線の拓海が、梅星一家なるファミリーの絆で結ばれているのを伏線と考えてもいい。他方、萬侍帝国、九頭竜會會長のビスコ(蛭子幸一)が〈勝ち続けでかくなった萬侍帝国… 今 オレたちに必要なのは「大いなる敗北」かもな…〉と自身たちの先行きを占っているのは、否応なく『クローズ』の終盤で九頭神竜男が坊屋春道と相まみえたあのくだりを思い起こさせる。がゆえに、ビスコが〈ああ… そんな奴らがいたらの話しだがな…〉と続けているのを看過してはならない。

 春道と竜男のそれは、一対一の、正しくタイマンであった。『WORST』の場合、集団VS集団の決戦になるだろうことが、もしかしたらビスコの「奴ら」という複数形に暗示されているのであって、共同体の換言であるようなファミリーという概念も必ずやそこにかかっているのである。

 22巻について→こちら
 21巻について→こちら
 20巻について→こちら
 17巻について→こちら
 11巻について→こちら

 外伝について→こちら

・その他高橋ヒロシに関する文章
 『鈴蘭男子高校入学案内』について→こちら
 『クローズイラストBOOK』Vol.1について→こちら
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2012年01月05日
 ごくべん (ヤングキングコミックス)

 題名に「べん」と入っていたら、まあ弁当の「べん」というケースもあるにはあるのだったが、たいていは弁護士を題材にしていると考えていいわけで、オオイシヒロトの『ごくべん ―極道弁護士 豆柴トメオ―』もその例に漏れない。つまりは極道の「ごく」と弁護士の「べん」をかけて『ごくべん』になるのだけれど、おお、なんてわかりやすいんだ。無論、内容の方も題名を裏切っていない。非常にストレートでわかりやすいものである。

 カタギの世界で最弱と馬鹿にされる新人弁護士のトメオは、しかしヤクザの世界では小津組最狂の男として知られる青年であった。その彼が東京は下町を舞台に、弱きを助け強きを挫く、的な活躍を繰り広げていく。おそらくはこのような説明でほとんどを語れてしまうマンガだろう。

 たとえば、日向武史や佐藤秀峰、浅野いにお、等をミックスしたかのような絵柄と画面の作りは、ある意味で現代的だし、大変キャッチーだと思う。それが、古臭いともとれるストーリーとテーマを汲んでいる点に、作品の真面目さ、を見られたい一方、各個の展開が安直すぎるため、雰囲気だけが熱っぽい、のレベルを大きく越えてはいない。結局のところ、弁護士の資格は、主人公を正義としておくのに適した建て前、単なるエクスキューズにしかなっていないのであって、おおよその事件が武力解決されてしまうのは、いやそれを痛快だとすることは可能だとしても、練りの面からするとやはり拙い。

 勧善懲悪の結末は決して批判されるべきではないが、設定より深く述べられているものが少ないからか、読み手に対する説得が十分ではないように思われるのだ。連載が続いていたら、作中人物の立場にしろ、コンセプトにしろ、もう少し掘り下げた部分が出てきたのかもしれない。ラストのコマには第1部完と記されている。
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2011年12月20日
 12/21(水曜日)の19:00から放送される「ニコ生PLANETS」の年末特番「惑星開発大賞2011」に小説とマンガの二部門で出演します。今年の作品で印象に残ったものについてちょびっと話させていただく予定となっております。詳しく内容等は→こちら でご確認ください。
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2011年12月14日
 このマンガがすごい! 2012

 『このマンガがすごい!2012』の「オンナ編」に投票しました。意外と悩みはしたものの、我ながらなかなかのセレクトになったのではないかと思います。
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2011年12月13日
 さよならさよなら、またあした (ウィングス・コミックス)

 生きる。どれだけの悲しみに顔を曇らせても誰かがそばにいてくれたら日は差すことだってありうるんだ。何があろうと自分を諦めない姿に慈しみの降る。

 あらましを述べれば、ほとんどネタを割るのに近くなってしまうのだったが、シギサワカヤの『さよならさよなら、またあした』は、いわゆる難病ものの範疇に入れられる。二十歳までは生きられないだろうと幼い頃に宣告された女子高生と、とある事件のせいで仕方なく田舎の高校に追われた男性教師の、二人の出会いを題材にしたマンガなのである。しかしここがポイントになるのだけれど、作品のエモーションは、ヒロインが二十歳を過ぎても死なず、結婚してからの毎日を生き、生き続け、明日もなお生き長らえようとする懸命な、その強さとともにある。

 基本的には、気の重たくなるようなストーリーではない。ナイーヴであり、センチメンタルであるものの、青年期前後の主観をベースに、にやにやとちぐはぐの入り混じったラブコメが騒々しく、繰り広げられている。あるいはその、騒々しいテンションこそが『さよならさよなら、またあした』という作品に込められた祈りであって希望であろう。

 育と正嗣による主人公カップルのほか、育の親友である会社員の万喜と彼女に好意を寄せる後輩の武田のエピソードをワキに盛り込みながら、回想を経、過去と現在とを場面は行き来する。こうした構成は、まず間違いなく、心の移動のなかに横の広がりを持たせ、時間の概念に縦方向の手応えを与えている。作中人物が各々背負っているドラマは、もしかすればフィクションにありふれているかもしれない。だがそれらの面には確かな起伏が存在していて、先に述べた騒々しさ=光を受けてできた影の部分に、命と見られるのに相応しい触感が備わっているのである。言い換えるなら、他人との関係や経験と変化が膨らみとしてよく描かれているということだ。

 ほのぼのとした日常のシーンが魅力的に映し出されている分、いつかはそれも消えてなくなるのではないかという軋みにこわくなる。他愛もないことの大切さと同時に壊れやすさが、哀楽のグラデーションを濃くしていき、漂うポエジーをやさしくもせつなくもさせる。

 ああ、かくも運命は残酷だ。現実は非情である。でも一人ぼっちじゃないんだと。君を寂しくさせない誰かが必ずやどこかにいるのだと信じて欲しい。たどたどしくてささやかなコミュニケーションにあてられたページは、諦めを前に選ばれた抗いをあらわしているのだと思う。

 少数ではない人たちが日々を無駄に過ごし、後悔しては簡単に忘れ去っていく。結局のところ、我々が生きられているのはただの幸運にすぎないのかもしれない。しかしその幸運ですら、いとも容易く捨てられる。失われたら取り戻せないものもある。当たり前のことにさえ、目隠し。豊かな世界を台無しにしてしまえる。もちろん、それを浪費という。

 常に死を間近に受け止めてきた育が、ストーリーを通じて教えているのは、決して自分を諦めず、他愛のなさを豊かに生きる方法にほかならない。あるいは彼女の意識と強さがそれを実現させている。もう一度いうが、『さよならさよなら、またあした』は大変賑やかな作品である。端的に死別をモチーフにしているにもかかわらず。騒々しい。なぜか。誰かと誰かが何かを分かち合う。このことの価値をストレスとは反対の角度から掘り下げていっているためだ。

 しかし最終話のラスト、見開きのページにそこまでのテンションを裏切るかのようなカットがついに描かれる。突然の痛ましさに胸を衝かれても不思議ではないのだった。が、パセティックである以上に鮮烈な輝きを覗かせているのはどうしてだろう。あきらかに作者は、エンディングの印象に悲しみの一文字を残しながら、ヒロインの逞しい表情や言葉を介することで、悲愴と悲壮の意味を入れ替えている。生きることの有り難さを克明に浮かび上がらせている。

 後半の展開に震災後の影響があるのかどうかは知らない。けれども、1999年からの十数年を〈世界が滅びなくてよかった / あなたに会えてよかった / …目先の小さな「よかった」で / 私は十分泣きそうに幸せだった〉風景として切り取った『さよならさよなら、またあした』の結末は、ちょうどこの瞬間に希有な感動をもたらしているのである。

・その他シギサワカヤに関する文章
 『九月病』について→こちら
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2011年12月04日
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 小川圭の『特攻事務員ミノワ』は、第65回ちばてつや賞ヤング部門の大賞受賞作で『ヤングマガジン』No.52に掲載された。少しばかり関係のあるようなないような前置きをするが、現在ヤンキー・マンガのシーンを形成している中堅作家たち、主に団塊ジュニアの年代であるそのほとんどは、同賞の出身者でしめられているのはよく知られているところだと思う(いや、本当は知られていないかもしれないけれど)。果たしてその手のジャンルに向いたタッチを審査員が好むからか。もしくは受賞後のコネクションがそうさせるのか。因果関係ははっきりわからないものの、ある種の伝統的な傾向を26歳の作者が描いていることは、題名に付せられた「特攻」の二文字からもうかがえるだろう。ちなみに作者は掲載誌の柱コメントで「これぞ悪人! 主人公の活躍を引き立てる名悪役といえば?」という質問に、『特攻の拓』の武丸です、と答えているのだったが、おそらくはギャグでしょう。そう、ギャグなのだ。『特攻事務員ミノワ』は、元暴走族の青年を主人公にした就職のギャグ・マンガなのである。一家を支えていた父親が亡くなったため、まだ幼い妹を養っていかなければならず、就職活動し、ようやく見つけた勤め先でも以前と変わらぬ男気ルールを発動していき、周囲に仰天される主人公の姿を、おもしろおかしく、パワフルに走らせている。簡潔なコマ割り、実にテンポのいい展開が、最大の長所だといえる。デフォルメの技術も確かであるし、こうとフォームの定まった筆致は新人離れしてさえいるのではないか。なるほど、ちばてつやの「主人公のミノワのキャラクターが抜群に素晴らしい。そのほかのキャラたちも、それぞれの位置でいいバランスを作っている。演出、構成は文句なし」という選評や「本当に楽しかった。ほぼ完璧な読みきり」というコメントには納得するよりほかない。破天荒な人物を描きながら、他との関係からは彼の硬派な気質がよく伝わってくる。箕輪の行動はその素直さに裏打ちされていることが、行間のレベルをも含め、確かに描かれているので、ほのぼのとしたエモーションを汲んだオチに、くすり、と笑えるのである。この喜劇性は、ステレオタイプとイコールであるような浪花節の魅力をいかに再獲得するか、の批評性でもある。ヤンキイッシュなイメージはもちろん、主に関西弁が使われているのも、あきらかな狙いに見える。照準のきっちりと定まったストーリーを、ありがち、と切り捨ててしまう向きはともかく、ギャグという手法ならではのアドバンテージを存分に生かした内容になっている。
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2011年11月29日
 BLOOD~真剣士将人 1巻 (ヤングキングコミックス)

 他のマンガの話題から入るのはいささか恐縮なのだが、青木幸子の『王狩』が第一部完となり、存続の不透明な状況にあるのを残念に思う。ところで、もしもこの十数年のあいだに将棋マンガ・ブームというものがあったとしたら、本作、落合裕介の『BLOOD 〜真剣師 将人〜』がその最後尾にあたるのではないか。もちろん、これ以降も将棋マンガは次々と登場するであろうし、なかにはヒット作も生まれるだろう。しかしながら、作劇のパターンとしてはある程度出揃った印象を受ける。奨励会、真剣師、女流、アマチュア、サスペンス、ドキュメンタリー、メロドラマ、家族もの。将棋の指す手を通じ、実際にいくつものアイディアが網羅されてきたわけだけれども、『BLOOD』においては生と死と金をかけた真剣師の姿が描かれている。アンダーグラウンドの世界で、要するにギャンブルに近いタイプの将棋が打たれているのである。いや、ともすればギャンブル・マンガと呼んでしまっても差し支えがないそれ、少なくとも1巻の段階ではそうとしか解釈できないそれが、ここ最近では類例を持たないアプローチであるにもかかわらず、きわめてオールドスクールな仕様に見えてしまうあたりに、ジャンル内のアイディアが一回りしたような実感を得てしまうのだった。大まかな筋書きは、多額の借金を背負わされた青年が、ヤクザに恋人をさらわれ、父親と同じく真剣師としての勝負を強いられる、というもので、明らかに堅気ではない連中と相対し、さまざまな窮地に立たされていく。死線ならではのスリルに段々とはまっていく主人公の、いわば狂気とロマンが作品の濃さを決めている。盤面がどう動いたかという部分にさほど重きは置かれていない。現時点で、真剣師の勝負は、アウトサイダーいかにあるべし、を指し示すためのアレゴリカルな手段にすぎない。世間の認識がそうさせるのか、アイディアの出し方やタッチの暗い明るいがどうであれ、将棋マンガには生き様系に傾くものが多い。後がないという危機感を剥き出し、何かを背負った人間の背負った何かを具体化しやすいスタイルなのかもしれない。そしてそれはおおよその場合、生まれと育ち(遺伝と環境)の問題に還元される。『BLOOD』の主人公である桐生将人もまた、〈“獅子の血”を継ぐ〉という運命によって将棋の駒を握らされている。
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2011年11月21日
 Set the Dial

 ああ、獣の数字は皆に勇気を分けてくれる素敵な掛け声なんだぞ。フラストレイトして死にたくなるぐらいだったら、悪魔のような自分を全力で出してやるべきなのだ。何をしても駄目ってことは、結局、何でもありってことだからね。さあ、こい。きた。米ジョージア州サバンナ出身のトリオ、BLACK TUSKのサード・アルバム『SET THE DIAL』であるが、無論、その、汗はかいてもベソをかきそうにない握り拳のヘヴィ・ロックは相変わらず。いや、もしかすれば2010年の前作『TASTE THE SIN』以上に荒ぶり、押しの強さにフックを噛ませたサウンドは、野性ならではの魅力を満載にしていて、轟々燃える。確かにMASTODONやBARONESS、KYLESAなどに近しいタイプといえるけれども、大作主義やプログレッシヴな展開、サイケデリックのアプローチをほとんどかえりみることのない直情こそが、ずばり、BLACK TUSKの妙だ。ざっくばらんなほどに噴きこぼれるエネルギーが生々しい。冒頭、インストゥルメンタルの「BREWING THE STORM」で、ぶいぶい弾みをつける低音は、不確かで曖昧なものはこれから先全部蹴散らしてやらあ、という狼煙であろう。そして2曲目の「BRING ME DARKNESS」で、一切の躊躇いもなく引き上げられた振り子が、粉砕の軌道を描きはじめる。最高なのはそこで即座に畳み掛けてくる〈six, six, six〉の叫びである。ジャストのタイミングでそれが〈sick〉のワン・フレーズに切り替わる瞬間にほかならない。もうこの時点でカタルシスの9割が達成されているも同然、完璧でタイトな修羅場にせこいスタンスは滅ぼされてしまう。3人のメンバーが少しずつ個性の違ったヴォーカルを入れ替わりながら立ち替わりながら、あるいは同時に聴かせるのが、BLACK TUSKのマナーだが、ドラムのタイミングに合わせ、その本領が発揮された直後、ギターとベースに怒濤のリフ、リフ、リフは刻まれていく。練り上げられたグルーヴがスコアを倍増し、カタルシスはより徹底的なものとなるのだった。必ずしもスピードに溢れたナンバーばかりではなく、テンポのチェンジを加え、ぐっとスローに落ちる楽曲もあるにはあるけれど、こちらの体感速度に鈍りをきたさないのは、血の気たっぷりの演奏がぬかりのないスリルを突きつけてくるためだ。クリアーとは方向が逆なジャック・エンディーノのプロデュースも功を奏し、全体の印象をざらつかせ、語義矛盾するようだが、フレッシュなどとめ色を偲ばせる。汚れなき穢れの濃い清さ。

 『TASTE THE SIN』について→こちら
 『PASSAGE THROUGH PURGATORY』について→こちら

 バンドのMySpace→こちら
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