ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2018年01月17日
 悪童-ワルガキ- 1 (近代麻雀コミックス)

 ギリギリの窮地で勝利できなかろうと一矢報いること、を描かせたら、さすがの志名坂高次である。それは『悪童 -ワルガキ-』の1巻でも見事に冴え渡っている。柿沢鉄男が中年でありながら「ワルガキ」と呼ばれているのは、ケンカ早く、ヤクザを怖れぬほどに肝は太いが、子供には優しい性分のためであった。飲む、打つ、買う、を地でいく男でもある。今日も今日とて、ヤクザと揉めたり、麻雀に興じていたりする。しかし、ああ、まさか。ひょんなことから運命が一変してしまう。いじめられ、自殺しようとした小学生、カイト(片平海人)と入れ替わり、カイトの代わりにその人生を引き受けなければならなくなったのだ。見た目は子供でも中身は大人、の立ち位置に目新しさは少ないかもしれない。けれど、作者ならではのえげつなさが『悪童』というマンガを特徴的にしている。物語の柱は、大きく二つある。一つは、小学生の姿を借りた主人公が、カイトの人生に対し、リヴェンジを果たすことであって、もう一つは、このような目に遭ってしまった主人公が、自分自身の人生、つまりは柿沢鉄男の人生に対し、リヴェンジを果たすことだ。さしあたり、無力でしかない少年が、リヴェンジを進める上で、いかなる優位性を得ていくのか。元手の乏しさを補うための工夫が、麻雀などのギャンブルとして展開されるのだったが、まあ、チョロくはないよね、であろう。むちゃくちゃな条件下、いとも容易く吊り上がっていくリスクが、作品そのもののスリルを倍増ししているのである。

・その他志名坂高次に関する文章
 『バクト』3巻について→こちら
 『凍牌 〜人柱篇〜』3巻について→こちら
 『牌王伝説 ライオン』1巻について→こちら
 『凍牌』10巻について→こちら
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2018年01月13日
 ストーナーやドゥームのファンだったなら、誰もが一度は抱く夢であろう。SLEEPのライヴというのは。しかし、それがまさか叶うとはな。震撼のSLEEP、初来日公演を観るため、1月12日、恵比寿リキッドルームにて行われたLEAVE THEM ALL BEHIND 2018へと足を運んだのだけれど、ぬおお、これが、これこそがストーナー・キャラバンの実体か。脳みそを攪拌されるかのような高濃度の演奏に諸手を挙げるしかねえ。とてつもないステージを体験したのであった。

 ヘッドライナーのSLEEPに敬意を表したのか。目下の新作である『DEAR』のモードを踏襲しているのか。オープニングのBORISも徹底したドローン仕様で、体が震えるほどの低音を唸らせていった。が、ある意味で折り目の正しいBORISのそれとはまた位相の異なったSLEEPのグルーヴに圧倒されてしまう。90年代に3枚のアルバムを残し(さらにはラスト・アルバムとなった『JERUSALEM』の完全版にあたる『DOPESMOKER』が後にリリースされ)伝説と化したSLEEPである。近年、ライヴでの活動を中心に再結成されたわけだけれど、これほどのものとは思わなかった。想像を遥かに超えている。そのすさまじさは正しく奇跡に値した。

 1曲目から仰け反る。「DOPESMOKER」だ。本来であれば、1時間もの長さを持ったナンバーだが、その前半のパートがステージに姿を現した3人によって体現されていく。マット・パイクのギターは、淡々としながらも意外なほどに躍っていて、重たさと鋭さの同居した1音1音に耳をつんざかれる。アル・シスネロスのベースは、ひずんだ低音を怒濤のごとく轟かせると、難なく抑制し、ストーナー・キャラバンのイメージを、より立体的にしてみせるのだった。オリジナル・メンバーではないものの、NEUROSISでも辣腕を振るうジェイソン・ローダーのドラムは、後ろに引いているようでいて、痛快無比な迫力を手加減なしに加えてくるのである。

 他のメンバーに何かを要求したりせず、各人が自分のフォームを貫いているふうにしか見えないのに、それが互いに息を吐くそばから息を吸うかのようなアンサンブルを作り上げていたことに舌を巻く。「DOPESMOKER」のショート・ヴァージョン(とはいえ、20分ぐらいはある)からの流れを途切れさせないまま、セカンド・アルバムの『HOLY MOUNTAIN』を中心にしたセット・リストへと移行するのだったが、気の抜ける場面が一個もない。上半身裸で腹のでっぷりと出たおっさんにすぎないマット・パイクがどうしてすげえ格好良く感じられてしまうのか。音楽そのもののマジックでなければ説明がつかない。美醜の判断を蕩けさせるかのような恍惚を高濃度の演奏は呼び込むのであって、生のそれはスタジオ音源の何倍も強烈だった。

 ともすれば眠たいと錯覚されるスローのテンポを基本としているのもあり、スタジオの音源においてはテンションの高低とサウンドの質とがどれだけ密接なのかわからないところがあった。しかし、実際にライヴを体験してみると、一心不乱のテンションがサウンドの質を支配していることがわかる。派手さはまったくないにもかかわらず、ダウナーというよりアッパーだと叫びたくなる展開が繰り広げられていく。

 ライヴの終盤、再び「DOPESMOKER」が召還される。このとき『HOLY MOUNTAIN』を『DOPESMOKER』がサンドイッチした構成であることが明らかとなった。個々の楽曲はもちろん、紛れもなく独立しているのだけれど、全編に通底したグルーヴがある。リフの厚みがある。ふんだんにある。それが全体を1つの巨大なヴィジョンとして総括している。油断したら丸呑みにされそうな激流のヴィジョンである。およそ90分の内容に、SLEEPのすさまじさを思い知る。
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2018年01月09日
 KING GOLF(31) (少年サンデーコミックス)

 ちょっとこれ、異様な作品になりつつあるな、と思わされる。佐々木健の『KING GOLF』(技術指導・監修、谷将貴)である。少なくとも、18巻の後半からこの31巻にかけての読み心地は、非常に説明のしがたいものとなっている。基本的に、ゴルフを題材としたスポーツ・マンガにほかならない。不良少年である主人公、優木蒼甫が、同じ高校のゴルフ部で名を馳せている霞見ひかると出会い、その不敵な眼差しに導かれ、ゴルフの世界に足を踏み入れていくというプロットをスタート・ラインにしており、彼ら2人のライヴァル関係のなかに異端(トリックスター)VS天才(スーパースター)の対比、それ自体はスポーツ・マンガにおいて決して特殊ではない構図が描き出されているのであった。18巻の前半までは、ひかるとの対決を望み、一度敗北し、再戦での勝利を目標とした蒼甫のディシプリン(訓練と成長)が、ほぼ直線状に表されていた。キャディ編がいくらか変化球じみた試みであったとしても、蒼甫の向こう見ずなスタンスと著しい飛躍とが少年マンガ式のカタルシスをまっすぐ示していたことに違いはない。しかし、19巻のアメリカ修行編を経、帰国後のSSSカップ編を舞台にした20巻以降、作品の様相が異なってき、それは次第に大きくなっているのだ。

 アマチュアでありながらプロのトーナメントであるSSS(トリプルエス)カップへ出場することとなった蒼甫は、試合中、快調に飛ばしていたはずだったが、そこで新たな試練にぶち当たってしまう。同じくSSSカップの予選ラウンドに挑んだひかるも、人生の岐路をまざまざと見せつけられるかのような苦境に立たされていた。21巻から31巻に渡って繰り広げられているのは、4日間に及ぶ大会の2日間に起こったことだ。たった2日の出来事が、およそ10巻分の長さを持っているのである。たとえば『風の大地』や『あした天気になあれ』等、1試合が長くなりがちなゴルフ・マンガのなかにあっても、予選のみでこれは突出しているのではないか。けれど、注意されたいのは、その長さなのではない。その長さが、いかに描かれているかという点なのである。それこそが近年の『KING GOLF』を前に、異様な作品になりつつあるな、と思わされるゆえんとなっている。

 SSSカップの予選2日間では、蒼甫を加えた予選7組の3人とひかるを加えた予選6組の3人の2つの試合が主に描かれていく。だが、それは回想を含んだ上での時系列をときにシャッフルし、複数の登場人物の視点や思惑をときにスイッチし、1個の展開を進めるだけのあいだに様々な迂回を挟み込むかたちで構成されているのである。単に内面の描写によって占められる割合が増えたとえいるし、以前から下敷きにされてきたゴルフはメンタルのスポーツだというガイドラインに沿ってフィジカルの動きよりもメンタルの動きに軸足を置いたストーリーが紡がれているとはいえる。結果、少年マンガ式のカタルシスが後退したのは疑いようがない。爽快さ、わかりやすさが減じてしまったので、登場人物にかかる重たさ、つらさ、苦さばかりが目立つ格好をとっている。正直なところ、ここで怠くなったとそっぽを向く人間もいるだろうね、と思う。だが、それで本当に作品の魅力が引き下げられているのかどうか。個人的には引き下げられてはいないと評価したい。

 蒼甫が入った予選7組の試合内容は、大変タガの外れたものであった。悪意と足の引っ張り合い、プライドを地に落とされた2人のプロの選手がトップを走るアマチュア、蒼甫を陥れようとする。しかし、さすがは我らが主人公、どんどんとエスカレートしていく妨害工作ですらも蒼甫は簡単にかわしてしまう。が、それとは違ったレベルの障害を通じ、蒼甫の快進撃にストップがかかるのだった。自分の積んできた経験が、もう1つの人格を持ち、まるでドッペルゲンガーのように立ち塞がり、重要な1打を次々とぶち壊しにするのだ。他方、予選6組でひかるが一緒にホールを回るのは、なんと彼の2人の兄、霞見家の長男、天司と次男、瞬である。天司、瞬ともにエリートとして知られるプロの選手であって、世間では高く買われているひかるだけれど、兄の立場からすると霞見家の落ちこぼれにすぎないことが明かされる。とりわけ、ひかるが瞬に抱いているコンプレックスやプレッシャーは想像を絶するものであった。弟を忌み嫌う瞬は、狡猾にもひかるの無意識にトラップを仕掛ける。それにはまったひかるは、まともにゴルフをやらせてもらえず、ほとんど自滅しかかっていた。要するに、蒼甫という異端(トリックスター)並びに、ひかるという天才(スーパースター)の避けがたい躓きを、SSSカップの予選2日間は、浮き彫りにしている。果たして、彼らは躓きを乗り越えられるのか。

 蒼甫とひかるが躓きを乗り越えられるのかどうか。あらかじめ述べた通り、それは徹底的に先送りされる。先送りにされながら、積み重ねられていくのは、むしろ、敗北するのかもしれない可能性の方だといえる。いや、ただでさえ、アッパーなノリは抑えられているのに、時系列を入れ替えて回想は挟まれるし、視点や場面の変転が多く、アレゴリカルといおうか、シンボリックといおうか、比喩としての描写や抽象度の高いカットが頻出するので、話を飲む込む際、ものすごいストレスがある。盛り上がらないのはもちろん、すかっとしない。もやもやする。しかし、そうした紆余曲折に目を凝らしたとき、はたと気づかされるのは、ああ、そうか。これはストレスそのものを描こうとしているのだ。はずみから苦境にさらされ、踏ん張るたびに無力さを味わい、もがこうとすればするほど絶望に足を掴まれるかのような極限状態のストレスが、登場人物の姿を借り、具現されているがため、それを見ている側にも相応のストレスを強いるのであろう。いかんせん、およそ10巻分の長さでもって、である。たまったもんじゃない。が、ここまでのしつこさでなければ描けなかった説得力が備わっているのも確かなのであった。

 作品の色合いを違えてしまいかねないストレスは、蒼甫やひかるだけではなく、予選7組と予選6組の全員、そして、予選6組の試合を観戦している霞見家の父親へと波及している。たった2日の短さが、非常に長い時間に引き伸ばされているのも、こうした拡大による。おびただしいストレスのなかで、何度も確認されるのは、他の誰かの背中にこの眼差しを向けること、この背中に他の誰かからの眼差しを受けること、であって、それは物語の当初から一切違えていない作品の意義を同時に主張している。SSSカップが幕を開ける間近、ひかるに告げた蒼甫の〈おい 霞見!! 間違っても横を見て オレの背中を見んじゃねえぞっ!! てめェがオレの背中を拝む時は、このオレにぶっ飛ばされた時だ!!〉という言葉は、2人がはじめて出会った段階で既に発されていた因縁の再演であり、先を進む者と遅れをとった者のゆるまざる緊張は、2人と周囲の関係にまで敷衍される。『KING GOLF』の全体像に与えられた線の太い輪郭にほかならない。自分を踏まえた皆が他の誰かに認められべく戦いを続けている。他の誰かは自分を踏まえた皆に認められるべく戦いを続けている。そのようなテーマを絶えず研ぎ澄ませていった先に、異様な質感と読み心地が生じているのである。
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2017年12月07日
 HiGH&LOW THE FAN BOOK~俺たちはみんな、HIROさんに夢見させてもらっていた

 現在発売中の『HiGH&LOW THE FAN BOOK 俺たちはみんな、HIROさんに夢見させてもらっていた』で、シリーズを経るにつれ、作品に生じていった変化を、ヤンキー・マンガに照らし合わせながら書いています。字数の関係で詳しく述べられなかったのですが、最終的に『HiGH&LOW』は車田正美の描く神話に近いものとなったのではないか。とするのであれば、誰が主人公なのかを断定することにほとんど意味はないのであって、琥珀とは『聖闘士星矢』におけるフェニックスの一輝のようなワイルドカードに相応するのではないかというのが自分の見立てであります。
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2017年11月17日
 DARK BLACK

 11月15日、MUTATIONのライヴを渋谷 TSUTAYA O-NESTへ観に行ったのだった。現在、再結成後のTHE WILDHEARTSを含め、ジンジャー(ワイルドハート)が関わっているいくつかのプロジェクトのうち、最も激しいサウンドを出しているのがMUTATIONであって、それを興味深く見ている自分がいたからである。しかし、ここまでアングリーなムードと緊張感のピリピリと張り詰めたショーを目の当たりにするのは、いやあ、実に久しぶりのことであったよ、と思う。

 バンドの編成は、ジンジャーがギターとヴォーカル、EXIT INTERNATIONALのスコット・リー・アンドリュースがベースとヴォーカル、YOUNG LEGIONNAIREのデンゼル・ピアソンがドラム、というトリオである。ライヴを行うにあたって、サード・アルバムの『DARK BLACK』(2017年)を共作したジンジャーとスコットの2人に、デンゼルが加わった形だ。が、正直、この日のパフォーマンスの中核を担っていたのは、デンゼルの猛烈なドラムだったのではないか。ドラムのキットがステージの前方に出、スコットやジンジャーと横並びになったちょうどその真ん中から叩き出されるリズムには、主役に近い貫禄さえ備わっていた。

 反面、体調の不備と機材のトラブルとで悪い方向にアピールが転がってしまったのは、スコットであった。その危うさがジンジャーやデンゼルにピリピリと張り詰めたアングリーなムードと緊張感とをもたらし、それは次第にショーの全体へと及んでいく。メンバー間のコミュニケーションが明らかにギスギスとし、一触即発に思われる場面もあった。まったくフレンドリーとは呼ばれぬ状態のまま演奏は進められた。けれど、それは必ずしもMUTATIONの音楽性を損なうものではなかった、というのが個人的な感想である。

 MUTATIONの音楽性には、ノイズ・ミュージックやインダストリアル・メタルからインスピレーションが多く含まれている。『DARK BLACK』の「DEVOLUTION」では、かねてよりジンジャーと交流のあるデヴィン・タウンゼントがフィーチャリングされているが、STRAPPING YOUNG LADからの影響をパンク・ロックやグラインドコアの方面に寄せていったらこうなる、との解釈も可能であろう。ジンジャーのキャリアに則せば、THE WILDHEARTSの『ENDLESS NAMELESS』(97年)を引き合いに出せなくはない。基本の路線は、スコットがパートナーとなる以前の『THE FRANKENSTEIN EFFECT』(2013年)や『ERROR 500』(2013年)で既に当たりがつけられていたものだとはいえ、EXIT INTERNATIONALとの共通項をふんだんにしている。

 MUTATIONが指向しているのは、要するにマッシヴであるような音塊を足場に築き上げられたバンド・スタイルのサウンドなのである。メロディアスなパートはあるが、ポップであることやキャッチーであることよりもラウドであることやヘヴィであることを重視している。その無愛想な楽曲の質と、この日の殺伐としたテンションには、どこか類似したものがある。

 もちろん、スコットのモチベーションが途中から散漫であった点は、マイナスととらえられるべきであろう。もうちょっとベースの低音が強力であったなら、インパクトは一段階も二段階も上になっていたのかもしれない。しかし、何せ、初の来日公演だ。万全なコンディションの演奏がどのようなものかは知らない。だが、荒ぶっている風ですらある轟音に直情的なカタルシスが宿っていたのは確かだといえる。ジンジャーが不出来を謝罪した言葉ぐらいしかMCはなく、怒濤のごとく突っ走る。およそ1時間弱のパフォーマンスは、整合性や完成度だけでは計れない。破綻を寸前のところで免れるのにも似たスリルを持っていた。
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2017年09月11日
 鬼門街 7巻 (ヤングキングコミックス)

 岩明均の『寄生獣』は名作として残るだろうと思う。が、時代的な背景か、学生が主人公だからか、不良少年や非行少女のモチーフが作品へと流れ込んでいたことを忘れてはいけない。『寄生獣』の影響を受けたと覚しきマンガは少なくはないけれど、それらのほとんどから抜け落ちているのも、その点である。永田晃一の『鬼門街』は、おそらく『寄生獣』の流れを汲んでいる。『寄生獣』の流れを汲んでいる作品群のなかにあって、不良少年のモチーフを顕著にしているところに、独自性を見つけられる内容でもある。主人公は、しかし、不良少年ではない。

 そこが鬼門街と呼ばれるのは、古来より凶悪犯罪が多発するためであった。どうしてなのかが不明なので、鬼の仕業という言い伝えが広まったのだ。主人公の川嶋マサトは、両親とともに鬼門街で暮らしている高校生である。長距離トラックの運転手である父親は家にいないことが多く、口うるさい母親を煩わしく思っている。学校での存在感は薄く、ラーメンの食べ歩きぐらいしか趣味がない。好きな女の子に声がかけられるわけがない。目立っていないかわり、いじめに遭っていないことが救いである程度の平凡な日常に倦んでもいた。だが、その日常は、マサトが眠っているあいだ、自宅に侵入した何者かが母親を殺したことで、いとも容易く壊れてしまうのだった。

 なぜ母親が死ななければならなかったのか。誰が母親を殺したのか。母親の死から三ヶ月経っても犯人は見つからず、世のなかが理不尽であることを肌で感じていたときだ。マサト自身、通りすがりの男たちに暴行され、いま正に命を落とそうとしている。それは死の間際の夢なのか。いや、鬼門街には、本当に鬼が住んでいた。生きたい一心で「豪鬼」と名乗る鬼に魂を売り渡したマサトは、今まで知ることのなかった鬼門街の暗部に深く足を踏み入れることとなるのであった。マサトとマサトに取り憑いた豪鬼の奇妙な二人組(バディ)が、同じく鬼に取り憑かれた人間と次々対峙していく。これが作品の基本的なフォルムだといえる。

 マサトと豪鬼の関係、そして、母親を失ったマサトと父親の関係に『寄生獣』との類似性が見受けられる。強力な異能を手にした少年が、「俺TUEEE」式のフル・スウィングや人類規模の闘争に淫するのであれば、今どきだろう。だが、そうはなっておらず、あくまでもマサトは、日常の生活に踏みとどまろうとし、超常現象のさなかに人間性を手放さないでいようとする。この小さく孤独な戦いの激しさに『寄生獣』の新一に重なり合うものがあるのである。肝要なのは、母親の死に対する責任がマサトの胸中においては非常に大きな割合を占めていることだ。思春期だからこその無関心や、それによって起きてしまった過失を、いかに乗り越えるのか。マサトの等身大の苦悩が『鬼門街』に普遍的で生々しいエモーションを与えているのだと思う。

 5巻と6巻で描かれた出来事は、さらなる苦悩をマサトにもたらした。豪鬼に魂を売り渡したことで人間離れした身体となったマサトが、内面に著しい傷を追わなければならないというのは、アイロニーだろう。どれだけ後悔を繰り返したところで後悔しか生まれないのか。自分にできることは少なく、人間の存在そのものが悪であるかのような悲劇が続くことに、マサトは疲弊し、追い詰められていくのである。追い詰められていくのは、マサトばかりではない。家族の復讐を果たそうとするマサトの父親やマサトの先輩である不良少年の広瀬智也もまた、見舞われた不幸に抗った結果、日常の外側へと進み入ってしまうのだ。とりわけ智也は、この7巻において、もう一人の主人公に近い立場にまであがっている。ケンカに滅法強く無敵に思われた智也だったが、ある種の転落を経、鬼門街の鬼を目の当たりにするのであった。そこで智也に内蔵されたのも、やはり、過失と後悔のテーマであろう。

 先に散々『寄生獣』の流れを汲んでいると述べた。それは決して悪い意味ではない。名高い先行例を下敷きにし、作者ならではの視線を盛り込み、独自性を編み出そうとしているところに『鬼門街』の魅力が生じているからだ。社会からこぼれてしまった犯罪者や不良少年にフォーカスを絞ることで、血生臭いバトルが展開されるに至っていると同時に、暴力を否定するための物語が極めて直接に現れているのである。学校に居場所がなかった少年の憂鬱は『Hey! リキ』の序盤にも描かれていた光景であって、それは鬼や犯罪者と関わり合ううちに変化や成長を遂げるマサトの姿へと受け継がれている。

・その他永田晃一に関する文章
 『Hey!リキ』
  17巻について→こちら
  14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
 『スマイル』(柳内大樹との合作)について→こちら
 『ランディーズ 完全版』について→こちら
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2017年08月21日
 プレイボール2 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

 故ちばあきおの『キャプテン』及び『プレイボール』は、自分にとって正典(カノン)のような作品である。したがって、ちばの家族の後押しがあったとはいえ、その続編を別のマンガ家が描くことには抵抗がある。いや、正直に述べると、コージィ城倉による『プレイボール2』に対し、反対派ですらある。城倉の野球マンガについては(森高夕次名義の原作を含め)決して嫌いではないのだったが、やはり、それとこれとは話が別なのであって、本当にすげえ複雑な気分なんですよ、と思うし、違和感の方が大きい。実際、ちばの絵柄やレイアウトに驚くほど寄せていっているだけに、時折顔を覗かせる城倉らしい語り口に戸惑ってしまうのだ。もしも作者が城倉だと明かされていなかったとしたらどうだったろうか、と想像すると楽しいのだけれど、たとえば、この1巻の58ページ目を見られたい。登場人物のデザインやコマ割り、構図など、城倉の(もしも城倉以外のマンガ家だったとしたら、と仮定するなら、城倉に影響を受けた誰かの)色合いが支配的になっている。こうしたところに難しさを覚えるのであった。しかし、作品の成り行き自体、退屈か否かで判断すると、なかなかに引き込まれるものがあるので、一概には貶せない。そこが弱った点でもある。

 続編を考える際、大まかに前作を知らなくとも入りやすいものと前作を知らないと入りにくいものとの二つに分けられる。『プレイボール2』は、おそらく後者であろう。『キャプテン』で墨谷二中を日本一に導いた谷口が、墨谷高校に進学し、一年生ながらも持ち前のガッツで弱小のチームを引っ張っていくというのが『プレイボール』の概要であって、終盤、谷口は三年生になり、墨谷二中のチーム・メイトだった後輩の丸井やイガラシが墨谷高校の野球部に加わってくると、ようやく『キャプテン』の頃から親しみのある登場人物が揃い、甲子園出場への芽が出はじめたところで『プレイボール』の本編は、終了している。そして、そうした展開のすぐあとを『プレイボール2』は、描いているのである。だが、さしあたり『プレイボール2』では、一年生である井口に対する肩入れが強いような印象を受ける。確かに井口は、『プレイボール』の終盤に出てき、今後の活躍が期待されてはいたものの、活躍それ自体は描かれることはなかった。ファンには周知のとおり、中学校入学以前のイガラシの元チーム・メイトであり、『キャプテン』の序盤、谷口がキャプテンとなって初の試合、イガラシが墨谷二中で一目置かれるきっかけともなった江戸川中のあの井口だ。

 井口は、タイプでいうと『キャプテン』の近藤に近い。高いポテンシャルに比例した自信家であり、傍若無人な態度とトラブルメーカーの資質を兼ね揃えている。問題を起こしかねない井口を危惧した丸井が、まるで教育係を買って出たかのように口うるさく接するのは、『キャプテン』における近藤との関係の反復だといえるし、『プレイボール』の段階で既に墨谷高校のキーになるであろうことを匂わせていたものでもある。城倉は、それを糸口にしながら『プレイボール2』の物語を広げていっている。たぶん、この采配は正しい。他方、生意気なスタンスの井口をめぐるコミュニケーションは、『プレイボール』の引用である以上に、城倉の野球マンガによくある1シーンを彷彿とさせる。先に挙げた58ページ目なども、その一例だといえよう。そこでは『プレイボール』本来の魅力と城倉本人の魅力とが衝突しているのではないか。これが自分の感想になる。もちろん、両者の魅力が合致することで、新しい魅力が生まれているとの感想があっても構わない。あくまでも比喩として述べるのだけれど、谷口と墨谷高校のセオリーに反発的な井口の姿は、『プレイボール』の価値観に向き合う城倉自身なのかもしれない。とするのであれば、両者の融和が本当に現れるのは、まだ先のことであろう。

 いずれにせよ、試合(公式戦)がはじまってみないとわからないところがある。それまでモチベーションのレベルで対立していた野球部の面々が、強敵を前にくんずほぐれつ、試行錯誤することで一丸となっていく姿に『キャプテン』や『プレイボール』のカタルシスはあったという気がする。少なくとも今の時点で、それは現れていない。『プレイボール』は、世評の定まった作品だが、『プレイボール2』の真価が問われるのは、これからの話にほかならないのであった。
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2017年08月03日
 Mourning, Resistance, Celebration [Analog]

 FARのフロントマンであるジョナ・マトランガと元JAWBOXにしてプロデューサーとしても知られるJ.ロビンスの合流は、90年代の(EMOと呼ばれるような)ポスト・ハードコアのファンにとって、おお、と興味を引かれるものであろう。CAMORRAが、それだ。が、ファーストEP『MOURNING, RESISTANCE, CELEBRATION』に特徴的なスタイルをもたらしているのは、J.ロビンスと同じく元JAWBOXであり、ドラムで参加しているザック・バロカスの変拍子を交えたあの独特なリズム感なのではないかと思う。どちらかといえば、ではあるけれど、J.ロビンスのキャリアで見るより、ジョナ・マトランガのONELINEDRAWINGに近いアンビエントな作風となっており、JAWBOXやBURNING AIRLINES、 CHANNELS、FARやNEW END ORIGINAL等々にあったロック・バンド的なダイナミズムは極力抑えられている。ギターの主張も控えめであって、メインのヴォーカルをジョナに任せたJ.ロビンスの役割は、おそらく、キーボードの響きが楽曲の方向性をガイドしていくかのようなサウンドのコーディネイトなのかもしれない。そのキーボードのリフとザック・バロカスによるドラムのマッチングには、プログレッシヴ・ロックの構築美を彷彿とさせるものがある。もちろん、魂からこぼれる血や涙をイメージさせるジョナ・マトランガのナイーヴな歌声は健在だし、希望を手探りするなかに生じうるエモーションを如実にしているのだけれど、それでもやはり、特筆したくなるのは、ドラムのパートなのだった。CAMORRAならではの色合いに、どれだけザック・バロカスが不可欠であるのかは、1曲目「BETWEEN THE WORLD AND ME」の導入から、はっきりと窺える。ア・カペラではじまり、女性のコーラスとドラムのみを加えた3曲目「PARTING FRIENDS」には(小品なのに)胸を衝かれる。加速を得ていくドラムに合わせ、ジョナ・マトランガのヴォーカルが衝動のはち切れた叫びへと達する4曲目「BLACK WHITE GIRL BOY」のクライマックスは、圧巻である。

 レーベルのオフィシャル・サイト→こちら
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2017年07月24日
 薔薇王の葬列(8)(プリンセス・コミックス)

 実際のところ、菅野文がセクシュアリティの難題にどれほど関心が高いのかは知らない(ストーリーを運ぶための手段として用いられているにすぎないのではないかと思われる場面も少なくはない)のだが、代表作である『オトメン(乙男)』で喜劇的に否定された性差の障壁は、この『薔薇王の葬列』において極めて悲劇的な筋書きを描き出していく。そもそもがウィリアム・シェイクスピアの『ヘンリー六世』と『リチャード三世』を原案に抱き、大胆な解釈を試みたマンガである。歴史の悲劇的なサイドに対する目配りは、過去にも『北走新選組』等のシリーズで見られたものだ。それがここでは中世イングランドの薔薇戦争を題材とし、凄惨さの夥しい、暗澹たる愛憎劇を織り成すに至っている。

 作品は、両性具有に生まれたことに苦しむリチャード(のちのリチャード三世)と純粋であるあまり狂気をも内包したヘンリー六世のラヴ・ロマンスに思われるかのような出会いを主軸にしている。もちろん、史実としてはありえないであろう二人の関係ではあるのだけれど、本来なら憎しみ、殺し合わなければならなかった彼らに、しかし、お互いに救いを求め、愛し合っていたかもしれない可能性を与えることで、正しく愛憎の入り混じった悲劇が繰り広げられる結果となっているのだ。この8巻で、本格的に『ヘンリー六世』の物語は終着を迎え、いよいよ『リチャード三世』にあたる物語が幕を開く。つまりは新展開が訪れたといえよう。それでもなお、ランカスター家の長、ヘンリー六世とヨーク家の三男、リチャードの共鳴と拒絶と葛藤とが『薔薇王の葬列』の真髄であり続けていることは明らかである。

 死ぬことが呪いであるなら、生きることもまた呪いである。こうした逃れようのない呪いのその循環を『薔薇王の葬列』の登場人物たちは皆、知らずのうちに引き受けてしまっている。運命の歯車の一つとして重要な役割を担っていくが、同時に欠けることも許された歯車の一つとして安易に姿を消していく。だが、歯車の一つの欠けた影響が残った歯車の動きに次々と歪みをもたらしていくのでもあった。それが史実だとはいえ、エドワードが命を落としたのは結構ショックだった。ヘンリー六世の息子でありながら、敵対するリチャードに惹かれ、率直に想いを遂げようとした青年の姿には、この影ばかりが濃い作品にあって比較的に明るいものを見出せたからだ。しかし、エドワードも例外ではなく、呪いに囚われた人間としての役割を果たさざるをえない。そして、エドワードの死がリチャードに新たな呪いを注ぎ込んだことを予感させ、時間は飛ぶ。『ヘンリー六世』の終わりのときから『リチャード三世』のはじまりのときへ。

 ああ、栄華を得たはずのヨーク家だったが、退廃に溺れた長兄のエドワードと次兄のジョージの軋轢が増し、壊れた家族像のなかにリチャードは再び地獄巡りの悪夢を重ねるようになるのである。兄弟の子供や若い世代が物語の舞台に昇ってくるけれど、それはあたかも死んでいった人間たちに代わり、呪いを循環させるためなのかもしれない。成長し、以前よりも狡猾さの似合ったふうであるバッキンガムは、いかなる岐路をリチャードに指し示すのか。いずれにせよ、これまでのドラマが十分に残酷であったのと等しく、ここからのドラマが残酷であるのだろうと身構えるしかない。ジェイムズ・ティレルと呼ばれ、手を血に染めた男のまさかの相貌は、これがリチャードとヘンリー六世のあいだに横たわる絶望や愛憎を醍醐味とした悲劇であったことをまざまざと思い出させる。
2017年07月15日
 冥銭のドラグーン(3) (講談社コミックス月刊マガジン)

 日本史のIF(もしも)を描くことは、『山賊王』や『遮那王義経』を通じ、沢田ひろふみのお家芸になりつつある。『冥銭のドラグーン』では、もしも大阪夏の陣(1915年)で真田幸村が徳川家康を討ち取っていたのだとしたら、引き続き徳川方と豊臣方に分かれたままの争乱は、いかなる道筋を辿るのであろうかが創作されている。主人公は、真田大助幸昌(真田幸村の嫡男)の幼馴染みということになっている鏡風太である。風太の非凡な閃きが真田家に奇跡的な戦略と勝利とをもたらしていくのであった。1巻の冒頭に意図されているとおり、『冥銭のドラグーン』は、日本史の大幅な改変を厭わない。あくまでもファンタジー、ファンタジーとしての日本史と換言できるものであって、風太の存在は、これがファンタジーであることの象徴にほかならない。3巻では、真田家の四女、アグリに他人の考えを見透かせるかのような特殊な能力の備わっていることが示唆される。こうしたファンタジーの力学が、本来なら大阪夏の陣を境に敗者の側へと回されてしまう真田家を史実とは異なった運命に導くのだ。が、着目されたいのは、ファンタジーであるがゆえの設定を発展させることで(実際の年齢で数えてみてもまだ若い)風太や大助の姿に少年マンガならではの逞しさや純粋さを与えている点だと思う。それは一癖も二癖もある大人たちの仕掛ける策謀を風太と大助がなんとか跳ね返し、なんとか跳ね返したことの結果が彼らを次のステージにアップさせ、現実とは別個の日本史を屹立させるという物語の構成に明らかとなっている。題名にある『冥銭のドラグーン』とは、おそらく、六文銭(冥銭)を家紋とした真田家の騎兵たちに量産した八連発の鉄砲を持たせるという風太の着想に由来している。それは2巻で〈今まで誰も見た事のない最強の銃騎兵軍〉だとされ、プロト・タイプとすべき成果が3巻において〈炎を噴く龍が現れた如くに〉と形容される。もちろん、当時としては未曾有の戦力が誕生しうるかもしれない可能性もまた、日本史のIF(もしも)であることの産物だろう。
2017年06月25日
 Two Parts Viper

 ベースレスのディオという編成は、ロック・バンドのスタイルとしては今や広く認められたものに違いない。元NROMA JEAN、元THE CHARIOTのヴォーカル、ジョシュ・スコギンの'68も、彼自身がギターを兼ね、ドラムとの2人組となっている。これまでのキャリアからするとハードコアの資質がおおもとにあるのだろうが、サウンドの方向性は90年代のアメリカン・オルタナティヴ、インディ・ロックをイメージさせる。しいて喩えるなら、NIRVANAとTHE JON SUPENCER BLUES EXPOSIONのミックスを思わせるところがある。まあ、NIRVANAにせよTHE JON SUPENCER BLUES EXPOSIONにせよハードコアの文脈とかけ離れているわけではないのだけれど、NROMA JEANにあったメタリックな響きやTHE CHARIOTにおけるカオティックなアプローチとはいくらか距離をとったサウンドを'68は抱いているのだ。ロー・ファイの濁りを残すことでギターとドラムの簡素なダイナミズムに鋭さが加わり、演奏時のテンションがそのまま楽曲の価値を底上げしているかのような印象である。ジョシュのヴォーカルは相変わらずいきり立っているし、本当にジョン・スペンサーみたいなシャウトを聴かせることもある。ただし、研ぎ澄まされたまでのインパクトに欠け、ちょっとばかり物足りなさを覚えるのも確か。この手の出力が勝負なサウンドにとってインパクトはすごく大事よ、であろう。それは2014年のファースト・アルバム『IN HUMOR AND SADNESS』にも感じたことで、残念ながらセカンド・アルバムの『TWO PARTS VIPER』でも払拭されてはいない。たぶん、ライヴだとスタジオ音源を遥かに上回った破壊力が発揮されるのだろうな、と思う。そう思えてしまうことが歯痒い。

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2017年06月22日
 聖闘士星矢EPISODE.Gアサシン 10 (チャンピオンREDコミックス)

 やっぱり、岡田芽武の『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』は、最高だな。誰がなんと言おうと、最高なんだぞ。大好きである。どうして最高なのか。原作である車田正美の『聖闘士星矢』のあらゆる登場人物を格好良く描きたいという欲望をフル回転させているとしか思われない勢いの筆致が、実際に『聖闘士星矢』のあらゆる登場人物を格好良く描き出しているというアレンジの見事さに尽きる。以前にも述べたように、蟹座のデスマスク史上最高に格好良いデスマスクは『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』のデスマスクだと信じてやまない。

 そもそも『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』は、オリジナルにあたる『聖闘士星矢』の前日譚であった『聖闘士星矢EPISODE.G』の外伝的な性格が強いマンガだったはずなのだけれど、巻が進むにつれ、本編が終結したあとの直接の時間を、つまりは後日譚とされるような展開を見せはじめているのであった。もちろん、正統な続編としては車田正美本人による『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』が存在し、現在進行形で連載されている以上、広義での二次創作になるのであろう。しかし、たとえば永井豪以外のマンガ家が永井豪の作品の続編を作ったり、アニメなどのメディア・ミックスで永井豪の作品の続編が作られたりしていることを考えると、決して類例のないケースではないし、マンガが原作でなければ『機動戦士ガンダム』や『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』のシリーズ等も様々なヴァリエーションが公式に展開されている。海外に目を向けるならマーベル・コミックやDCコミックスのヒーローたちがいくつものパラレル・ワールドを行き来することは、もはや一般的ですらある。こうした受容のなかに『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』も置かれるべきだと考えられる。

 そして『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』が圧倒的に正しいのは、最初に述べたとおり、『聖闘士星矢』のあらゆる登場人物が格好良く描き出されているからにほかならないし、大胆なカットとポエジーとで登場人物の格好良さを引き立てることが車田正美のイズムに関わるものであるなら、岡田芽武ならではのタッチを殺すことなく、それを見事に取り込んでいるからだ。さらに付け加えると、フルカラーのド派手なスペクタクルがスマートフォンなどのゲーム・アプリにおける演出に近接していることは過去にもいってきた。

 ふおおお。辰巳きたああ。って、声をあげる読者がどれだけいるかは知らないが、自分は辰巳のファンなので、この10巻で辰巳が出てきた途端、鼻息が荒くなりましたね、なのである。執事に萌える方々も辰巳の出番に歓喜なのではないか。いや、それはないな、とか言ってはいけない。確かに原作の辰巳にファンは少ないかもしれないが、岡田版では小憎らしさを残したまま、ヴィジュアルと言動の面に城戸家の支えに相応しい厳つさが増している。これはこれで格好良いのではないか。ただまあ、ちょっと年寄りにしすぎているのでは、と思う。辰巳の話題を長々と引っ張っても仕方ないのだけれど、『聖闘士星矢』のあらゆる登場人物が格好良く描き出されていることの一例にほかならないのであった。無論、辰巳ばかりではない。ついにあの聖闘士やあの聖闘士が、という強烈なサプライズが次々ともたらされており、聖矢世代から上の世代までオールスター揃い踏みの感がより強まってきている。平凡な少女に思われた吉乃が聖闘士(セイント)や剣闘士(グラディエーター)にとって、いかなる意味を持っているのかが明かされ、ストーリーにも進展が表れているが、吉乃の父母として顔を見せるのが、ここでお前らかよ、と驚かされるものであって、気を抜けない。

 7巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『聖闘士星矢 EPISODE.G』
  20巻について→こちら
 17巻について→こちら
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  0巻について→こちら 
  14巻について→こちら
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