ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年11月30日
 キミとだけは恋に堕ちない 3 (りぼんマスコットコミックス)

 大昔だったら、フィクションで兄妹(姉弟)間の恋愛が禁断として描かれているのを見ると、ああ、これは本当は血が繋がっていないパターンでしょう、と考えをめぐらすことができたのだけれど、近年では、実際に血が繋がっていようと結ばれてしまうパターンが珍しくはないので、もうそのへんを疑ってみても単にだらしがないだけなのだから深く読み取ったって仕方がねえよな、と思わざるをえないのだった。が、しかし。以下、酒井まゆの『キミとだけは恋に堕ちない』の3巻について、ネタを割った内容となる。

 成績と外見が優秀な二人の兄、透と航とに厳しくも大切にされてきたヒロイン、星崎すばるは、高校に入り、吉田新という同級生で、お調子者の男子と関わり合うようになっていく。同じ高校の上の学年にいる真面目な兄たちに比べ、クラスメイトの新は、ふざけてばかりで信用のならないところが多い―― はずだったのに、どうしてか心が引かれていくのであった。おそらく、こうした1巻からの話の流れで題名の『キミとだけは恋に堕ちない』に示唆されている「キミ」とは、すばるにとっての新のこと、さらには新にとってのすばるのことだ、と読者の少なからずが信じ込まされたのではないか。あるいは、すばると新が相思相愛で付き合うことになった2巻を経、なるほど、これは『キミとだけは恋に堕ちない』つもりでいた二人の偶発的でチャーミングなロマンスに違いない、と作品の方向性を見て取ったのではないか。そうであるとするなら、すばるの二人の兄はロマンスが容易いものではないことを裏付けるための障害にほかならない。だが、3巻において、航とすばるに血の繋がりのないことが(読者と新に)バラされてしまうのである。

 すばると新の交際を渋々ながら容認し、新とも穏当な関係を築いていく航の姿は、良いお兄ちゃんじゃん、という印象を強くしている。それが航とすばるに血の繋がりのないことを(読者と新に)バラすことで、異なったニュアンスを帯びはじめる。すばると新の交際を渋々ながら容認するかのような航の態度は、必ずしも彼の寛容さによっているわけではなく、もしかしたら彼が抱えている抑圧の裏返しであるかもしれない可能性を導いてくるのである。血が繋がっていないとはいえ、すばるとは兄妹であるがために恋愛の感情を表にすることは許されない。そのような抑圧を念頭に置き、作品を見返すとき、『キミとだけは恋に墜ちない』という題名における「キミ」とは、航にとってのすばるを、さらにはすばるにとっての航を意図しているのではないか、と読み替えることもおかしくはなくなるのだ。「落ちる」ではなく「堕ちる」の字が当てられているのは、兄妹間の恋愛が禁断として描かれている以上、象徴的でもある。

 航とのあいだに血の繋がりがないことをすばるが承知しているかどうかは、現時点では曖昧にボカされている。が、重視されたいのは、これまで具体的ではなかった三角関係の構図が、航とすばるに血の繋がりがないという背景を得たことで、くっきりと浮かび上がったと同時に、すばるを中心にした新と航の綱引きへ、今までになかった緊張状態がもたらされている点であろう。この展開が連載の最初から用意されていたのか否かは知れないものの、明らかに物語が異なったフェイズに入ったことを、新と航の緊張状態は教えている。

・その他酒井まゆに関する文章
 『MOMO』
  7巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『クレマチカ靴店』1話目について→こちら
 『ロッキン★ヘブン』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら 
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2016年11月11日
 Re:ロード ( 1) (ニチブンコミックス)

 佐々木拓丸はフィジカルなアクションの描写に盛り上がるものがあると思う。しかし、物語を動かす際、登場人物が内面に何を抱えているかの描写に傾いていくきらいがある。前者に作家性がよく出ていると取るか。後者に作家性がよく出ていると取るか。無論、両者がきっちりと噛み合っているのであれば、それに越したことはないのだが、ヘヴィであったりスリリングに感じられるところが多いのは、おそらく、前者であろう。バンドマンを題材にした『Eから弾きな。』も、実はそうだった。では、新作にあたる『Re:ロード』は、どうか。

 1巻を読むかぎり、『Re:ロード』は、ハードなヴァイオレンスである。ヤクザに復讐を果たそうとする元刑事がヤクザに追われた少女を守るためにヤクザと激しい衝突を繰り広げていくのだ。『極道つぶし』や『SINfinity』の作者が、再びヴァイオレンスの世界に帰ってきたともいえる。魅了されるのは、やはり、銃撃戦や肉弾戦が躊躇いなく人を死なせていくというフィジカルなアクションの描写であって、それが熱量は高いのに殺伐としたテンションを作品に与えている。他方、元刑事である乾昌吉の内面や思考は、それが迷いを見せれば見せるほどに展開の速度を間延びさせてしまう。ただし、そうした迷いによって生じた間のゆるみが、『Re:ロード』のストーリーあるいはテーマにとっては重要なポイントになりえてもいる。

 乾昌吉は、明らかに欠落を抱えた男として現れている。妹をヤクザに殺された過去が現在の彼を表情の乏しい存在にしているのだ。その主人公が、ヤクザに義父母を殺されながらも逃亡を果たした少女、日高真を救うことになったのは偶然でしかない。そして、彼女を追うヤクザが、乾の妹の死に関与した冱們會であったこともまた偶然にすぎない。これらの偶然は、もちろん、話を運ぶ上での都合の良さを兼ねているのだけれど、注意されたいのは、そのような偶然の連なりに乾の欠落が間違いなく暗示されていることにほかならない。なぜ、乾が偶然出会っただけの少女を守らなければならないのか。乾に因縁のある冱們會が相手だという理由は、あとからやってきている。乾の抱えている欠落が、そうさせたのだと考えるべきなのである。

 乾は唯一の肉親である妹を失った。家族を失った。同様に身寄りをなくしてしまった真の姿が、彼の目にどう映っているのか。彼の欠落にいかなる働きかけをもたらすのか。確かに彼の内面が言葉や回想に描写されるとき、コマのスピードは落ちる。だが、それはヴァイオレントな世界そのものに対する抵抗のようにも思われる。乾と真の関係を、冱們會の刺客であるシンは〈現状この2人はお互いが今を生きる為の唯一の糧なんだ〉と、いち早く見抜いてみせるが、しかし、日高真とは、何者なのか。どうして冱們會に狙われているのか。1巻の段階ではっきりとしたのは、乾の正体であって、伏せられ続けている真の来歴は、今後、彼女が物語のなかでの影響力を大きくしていくことを予感させる。
2016年11月09日
 Change of Fortune

 一般的には90年代に一発当てたバンドということになるのかもしれないが、それ以前は米のインディ・シーンをライヴで叩きあげてきたバンドとして紹介されていたんだってことを思い出したね。まさかのSOUL ASYLUM、21年ぶりの来日公演(11月8日)を観ての感想である。

 さすがに21年前は大昔だよ、と述べるしかない。80年代からミネソタ州ミネアポリスで活動していたSOUL ASAYLUMである。アメリカン・オルタナティヴやグランジのムーヴメントに乗ってブレイクを果たしたけれど、次第に人気は陰っていき、ここ最近はかなり地味な存在になっていた。重要なメンバーの死去もあった。現在、オリジナル・メンバーと呼べるのは、フロントマンのデイヴ・パーナーのみだ。『THE SILVER LINING』(2006年)以降、日本盤のリリースがなくなってからもずっと好きなバンドだったが、正直なところ、期待値はちょっと低めで会場のTSUTAYA O-EASTに足を運んだのであった。

 しかし、裏切られたぞ。良い意味で裏切られた。全然ロートルじゃないじゃん。パフォーマンスもエネルギッシュだし、現役のオーラがビカビカしていた。観客の入りは寂しいものだったが、素晴らしい盛り上がりをもたらすまでのステージが繰り広げられていく。セット・リストは、ニュー・アルバムである『CHANGE OF FORTUNE』(2016年)を中心に組まれ、昔の名前で出ています、の懐メロ大会に陥っていなかったのも特筆すべき点であろう。『CHANGE OF FORTUNE』は、決して悪い作品ではない。デイヴ・パーナーの歌い回しは相変わらず特徴的なのだけれど、プロダクションやアレンジがあと少し練られていたなら、もう一段階か二段階ぐらいフックが強まったのでは、と物足りなさを覚えるものがあった。それがライヴ・ヴァージョンでは、スタジオ・ヴァージョン以上の厚みと勢いが演奏へと加わっているせいか、はじけるようなアピアランスを数倍増しにしていたのだ。

 パンキッシュなナンバーでは、挑発的にギターのリフが飛び交い、グルーヴを重視したナンバーでは、ヘヴィな面の出たリズムがのしかかる。『CHANGE OF FORTUNE』に収録された「DON'T BOTHER ME」は、軽やかなアコースティック・ギターを入れたナンバーだが、カラッとしたメロディがなぜかエモーショナルに響くというアメリカン・ロックの奥義を会得したものとして印象を濃くしていた。

 もちろん、過去の代表曲も披露された。実は自分は最大のヒット曲にあたる「RUNAWAY TRAIN」って、そんなにピンとこなかったタイプなので、『GRAVE DANCERS UNION』(1992年)からのナンバーでは、疾走するスピードに切なさの入り混じった「WITHOUT A TRACE」や「SOMEBODY TO SHOVE」に、おお、という興奮を抱く。楽曲のフォーマット自体はシンプルなために決して古びた印象はない。どころか、生き生きとした演奏が楽曲に内包されている普遍的な魅力を一層際立たせていた。メンバー4人のコンビネーションもばっちりで(もう1人、サポートでギターが加わる場面もあったが)ギター、ベース、ドラム、そして、ナイスなヴォーカル、これだけでいかなる魔法が作れるのかを見事に証明していたのである。

 個人的なハイライトは、『LET YOUR DIM LIGHT SHINE』(1995年)に収録された「MISERY」が演奏されたときだ。この日一番の合唱も「MISERY」で起こった。振り返れば、21年前の来日公演は『LET YOUR DIM LIGHT SHINE』のリリースにともなうものであった。確か当時『ロッキング・オン』の鈴木喜之が批判していたと記憶している(記憶違いだったら申し訳ない)が、絶望を歌うことでオーディエンスの共感を得てしまったアーティストが、その共感に追い詰められ、さらに絶望を深めていくという不幸を(たとえ皮肉であったとしても)モチーフとした楽曲に、オーディエンスが共感を寄せることは拭いがたい矛盾を含んではいる。だが、それは絶望が単なる行き止まりではなく、死への憧憬にとどまらないこと、とどまってはならないことをも同時に示していたはずである。グランジの時代が遠くなった現在もなおオーディエンスに投げかけてくるかのようなリアリティを「MISERY」は宿したままだった。

 長いキャリアのバンドである。初期の楽曲をほとんどやらなかったのは仕方がないとはいえ、あの曲やって欲しかった、この曲やって欲しかった、の気持ちは現れてしまう。しかし、不満ではないよ、と思う。非常に堪能させられたショーは、もっと、もっと、という欲求を呼び覚ます。優れていたことの裏返し。必然にほかならない。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2016年)
2016年11月02日
 Gold.

 勢いをくれ。面倒くさい何もかもを全部振り切るほどの勢いを。クラッシュした途端、ぐしゃぐしゃになって死んでしまうような勢いを。そして、死すらも忘れさせてくれるような勢い。それを掴めるかどうかは難しいが、しかし、手を届かそうとしていることの確かなサウンドが、米ジョージア州アトランタ出身のトリオ、 WHORES.のファースト・アルバム『GOLD』には備わっている。

 これまで『RUINER』(2011年)に『CLEAN』(2013年)と2枚のEPをリリースしてきたバンドが、ようやくフル・サイズの作品にまで進んだわけだけれど、初期のHELMETやUNSANE(その他、かつてアンフェタミン・レプタイル・レーベルに所属していたアーティスト)等々をロール・モデルにしていると覚しきジャンクなスタイルのヘヴィ・ロックは、基本的に変わらず。だが、EPの頃に比べ、ヒネリのきいたリズムやゴツゴツした手触りが、いくらか抑えられている。かわりに、スピード感がストレートに出、ダイナミズムの通りが良くなった。雑然とした部分が少なくなった点は、評価の分かれるところであろう。

 以前はスラッジ・メタルに近かったニュアンスが、ストーナー・ロックに近いニュアンスへと切り替えられている風でもある。ともあれ、ひずまされたノイズと低音の強調されたグルーヴ、シャープなギターのリフとに魅力の多くがあり、ヤワになったという印象を受けない。攻撃性をペンにしながら、設計図を引いていったその線の太さ、硬さ、鋭さが、細やかなレイアウトのレベルにも影響を及ぼしているイメージである。

 パンキッシュに演奏とヴォーカルとを爆発させる1曲目の「PLAYING POOR」や6曲目の「CHARLIE CHAPLIN ROUTINE」8曲目の「I SEE YOU ALSO WEARING A BLACK SHIRT」ばかりではなく、ハンマーの鈍い一撃に喩えられる圧のずっしりかかった2曲目の「BABY TEETH」や3曲目の「PARTICIPATION TROPHY」10曲目の「I HAVE A PREPARED STATEMENT」にも、ぐしゃぐしゃにクラッシュすることを怖れないかのような勢いが加わっていることに留意されたい。ギター、ベース、ドラムの猛烈なアンサンブルに『GOLD』の醍醐味は示されている気がするのだ。

 イントロから緊張の素晴らしく張り詰めた5曲目の「GHOST TRASH」は、稲光を思わせる。アタックの鮮明な激しさに鬱陶しい何もかもを全部ぶち抜きたい衝動が喚起させられる。
 
 バンドのオフィシャルFacebook→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2016年)
2016年10月28日
 WHILE THEY WERE SLEEPI

 ぬおお、あのCANDIRIAが帰ってきたぞおおお、という快哉を叫ぶには、いくらか物足りなさを含むものになってしまったかな、正直なところ、である。米ニューヨーク州ブルックリン出身のCANDIRIAといえば、やはり、日本デビューを飾り、初来日公演とも重なった通算4作目のフル・アルバム『300 PERCENT DENSITY』(2001年)におけるあのインパクトであろう。ハードコア、ヒップホップ、ジャズ、プログレ等々、あらゆるイディオムを1曲のなかに横溢させたサウンドには、まるでBODY COUNTとKING KRIMSONとが正面衝突したかのようなスリルがあった。黒人のヴォーカルによるストロング・スタイルなラップやスクリームも特徴的だったが、変拍子の目まぐるしいリズムをアグレッシヴに叩きつけてくる楽器隊の技量も非常に際立っていた。続く『WHAT DOESN'T KILL YOU... 』(2004年)では、広い意味でのラップ・メタルに近づき、『KISS THE LIE』(2009年)については、メロディとアンビエンスをかなり増し、つまりは次第にアヴァンギャルドなアプローチは低まっていった。その『KISS THE LIE』以来、約7年ぶりの作品となるのが『WHILE THEY WERE SLEEPING』なのだ。しかし、これが良くも悪くも、現代版のヘヴィ・ロックを高水準でどうぞ、といった印象になっている。2曲目の「MEREYA」や3曲目の「WANDERING LIGHT」の中盤、ジャジーなヒップホップが飛び出してくるあたりに、ああ、CANDIRIAだな、と思わされるのだけれど、楽曲それ自体の方向性は、スクリームとクリーン・ヴォイスのコンビネーションに支配されており、凝ったリズムを重ね、うねりを出していくアンサンブルは、確かに見事な反面、ジェント(Djent)と呼ばれるような複雑な演奏のスタイルが定着した今日、目を引くほどの異色は薄まっている。エクストリームであるか否かの観点で判断するなら、どうしたって物足りなさが含まれるのである。だが、現代版のヘヴィ・ロックのマナーにジャストフィットした作品として見るとき、極めて高水準であることは既に述べたとおり。アルバム全体に何らかのコンセプトが課せられているらしいが、総じてカオティック・ハードコアの過激さであるよりもプログレ・メタルの機能美をうかがわせる。『300 PERCENT DENSITY』を経、『WHAT DOESN'T KILL YOU... 』にもたらされた変化は、2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件や2002年9月のツアー中に起こった自動車事故に関連があるとされている。バンドのキャリアをある段階で区切るとするのであれば、おそらく、それ以前と以後とになるのかもしれない。繰り返しになるが、『WHILE THEY WERE SLEEPING』に、あの『300 PERCENT DENSITY』やサード・アルバム『THE PROCESS OF SELF DEVELOPMENT』(1999年)のインパクトを求めることは難しい。とはいえ、そこから離れていった先のキャリアを総括するのに相応しい完成度のアルバムとなった。

 バンドのオフィシャルFacebook→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2016年)
2016年10月18日
 Sea of Clouds

 約8年ぶりという。かつてはスウェディッシュ・エモの至宝として知られたLAST DAYS OF APRILの来日公演(10月17日、渋谷club乙-kinoto-)を観たのであった。何はともあれ、初期の名曲であり、あの胸ときめくほどの「ASPIRINS AND ALCOHOL」をやってくれたのが最高に嬉しい、と感じ入ってしまう。基本的には、最新作にあたる『SEA OF CLOUDS』(2015年)のリリースに伴うツアーであるため、『SEA OF CLOUDS』の楽曲を中心にしたセット・リストである、というより、『SEA OF CLOUDS』に見られた現在のモードで約20年に及ぶキャリアの代表曲を再構築していた、という印象を大きくしているように思う。

 若気の至りを思わせるパンキッシュなテンションを多く含んだファースト・アルバムの『LAST DAYS OF APRIL』(1997年)はともかく、アメリカのエモーショナル・ハードコアのシーンとリンクしながら、北欧ならでは、と認識されるような哀感を溢れさせていたサード・アルバムの『ANGEL YOUTH』(2000年)と続く『ASCEND TO THE STARS』(2002年)を経、初来日公演に繋がった5作目の『IF YOU LOSE IT』(2003年)以降、フロントマン、カール・ラーソンのソロ・プロジェクト的に(カール自身のソロ・アルバムも存在するが)美しいメロディはそのまま、広義のギター・ポップに近いスタイルを展開してきたLAST DAYS OF APRILである。『SEA OF CLOUDS』に見られた現在のモードとは、つまり、その延長線であり、カントリーやフォークをも射程に入れたトラディショナルでシンプルなバンド・サウンドのことでもある。

 単純に、枯れた、と喩えられるのかもしれない。が、実際にライヴで確認すると、ちょっとニュアンスは違っている。キーボードなどの装飾は除かれ、あくまでもトリオの演奏でのヴァージョンにアレンジされた過去のナンバーに、それは顕著であった。確かに、強弱のゆるやかなコントロールのみで楽曲の表情に変化を付けていく姿は、いくらか地味ではある。サポートを務めた日本勢のエネルギッシュなパフォーマンスに比べると、なおのこと控えめでもある。しかし、意図された音数の少なさが、センシティヴな面で評価されがちな原曲には乏しい骨の太さのようなものを明らかに浮かび上がらせていたのである。

 おそらく、カール・ラーソンのミュージシャンとしての成熟が、楽曲それ自体を表面上のイメージでは括りきれないレベルへと成熟させていたのである。先に挙げた「ASPIRINS AND ALCOHOL」も同様であろう。スタジオのヴァージョンにおけるキラキラとした青春の色彩とは異なる。絵は一緒であろうと、まるでセピアのカラーに滲ませるかのような筆遣いのアレンジに注意を引かれる。そこに失われたものを見ることもできる。だが、ああ、これが現在のLAST DAYS OF APRILなんだな、と納得させられるだけの魅力が同時にある。さらに気づかされたのは、カール・ラーソンのヴォーカルや美しいメロディばかりではなく、彼が弾くギターのフレーズにもLAST DAYS OF APRILという記名性が意外にハッキリと出ている点であった。エレクトリックでもアコースティックでも、デリケートな(デリケートであるがゆえに、ときには刺々しくなったりもする)心の揺らぎをよく掴まえていたのだ。

 1時間強のステージだったろうか。決して広い会場ではなかったけれど、ほぼ満員の数の観客が集まっていたことを最後に言い添えておきたい。皆、待ち望んでいたんだね。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2016年)
2016年10月15日
 CROWN FERAL

 ああ、これ自体が嵐の夜をイメージさせるし、吹き荒ぶ雨風も先の見えない暗闇も厭わずに駆け抜ける馬車のごとくでもある。米国のマサチューセッツ州ボストンやワシントン州シアトルを中心に活動を続ける4人組、TRAP THEMの通算5作目となるフル・アルバム『CROWN FERAL』には、今にも壊れそうなほどに軋みをあげていく車輪のスピードが宿されているのだ。もちろん、それはファースト・アルバム『SLEEPWELL DECONSTRUCTOR』(2007年)の頃より不変のものだが、マンネリズムがスリルを損なってしまうのとは異なったレベルで、一貫したフォームやスタイルの凄みを引き出しているところに圧倒される。

 幾度かのメンバー・チェンジを経てきたバンドだけれど、前作の『BLISSFUCKER』(2014年)と同様のラインナップで『CROWN FERAL』はレコーディングされている。それもあってか、今まで以上に整合性の出た印象だ。整合性とは、この手のエクストリームでアグレッシヴなアーティストの場合、勢いを削ぐマイナスになりかねない。しかし、そうではない。楽曲の構成と演奏とに、一丸と喩えるのが相応しい厚みをさらに得たことで、ファストなパート、スローなパート、ミディアムなパートのギャップが少なくなり、ダークで殺伐としたテンションをそのままにしながら、アッパーなロックン・ロールとも似たノリのよさを増しているのである。

 抑えめのリズムに不穏なノイズが反復させられるなか、強烈なスクリームがこだまする1曲目の「KINDRED DIRT」こそ、異様な儀式を思わせるが、2曲目の「HELLIONAIRES」から先における展開は、怒濤というほかない。デス・メタルもカオティック・ハードコアもクラストもスラッジも一飲みにし、変則的なギターのリフとバックのリズムとが、前のめりに高速であることとヘヴィであることを同時に求めていくサウンドは、先に述べたように猛り狂った嵐の夜をイメージさせる。7曲目の「TWITCHING IN THE AURAS」やラスト・ナンバーである10曲目の「PHANTOM AIR」など、地を這うタイプのグルーヴに負のオーラが凝縮しているのも、TRAP THEMの特色であろう。

 録音とミックスには、従来通り、CONVERGEのカート・バルーとゴッド・シティ・スタジオが関わっており、ともすれば、いつもと一緒、のパターンに着地してしまっても不思議ではない。実際、そうした評価をくだす向きがあってもおかしくはない。ただし、手抜きのアイディアを手癖で仕上げたかのような楽曲は一個も見受けられない。隙がない密度のアンサンブルには、すぐれた緊張感が張り詰めている。それらとキャッチーなバランスとが同居した5曲目の「Malengines Here, Where They Should Be」は、『CROWN FERAL』のハイライトだといえる。破滅的、破壊的なベクトルをキープしたまま、絶望とはかけ離れたヴァイヴレーションを、握り拳のガッツを、嵐の夜をものともしない高揚感を成立させている。

 バンドのオフィシャルFacebook→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2016年)
2016年10月11日
 マル勇九ノ島さん 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 木佐貫卓の『マル勇 九ノ島さん』は、ロール・プレイング・ゲーム、さらにはMORPGの発想が一般的になった現代ならではのマンガである。中世を模した剣と魔法のファンタジーでありながら、近代以降の認識が著しく強調されているという意味では、ライトノベルやアニメーションにおいて『ソードアート・オンライン』や『まおゆう魔王勇者』の先行例がある。文脈的には、それらに近いと感じられる。勇者(光)と魔王(影)の対照がミッションとして複数化された世界をまたぎ、メタのレベルから勇者をサポートするかのような職業を題材としているのだ。

 ユグドラシルの大樹として定義された宇宙では、さまざまに世界は枝分かれしており、それぞれに独立している。しかし、魔王が世界を滅ぼそうとし、勇者が世界を救おうとしている点は、どの世界も共通している。一つの世界で魔王が勝利すれば、ユグドラシルの腐敗は進んでいき、一つの世界で勇者が勝利をすれば、ユグドラシルは新たな枝を伸ばしていくのである。「H・S・C(ヒーロー・サポート・カンパニー)」の仕事は、ユグドラシルの腐敗を防ぐべく、勇者の活躍をワキから助けることであった。なかでも勇者と直接関わる営業部は「マル勇」と呼ばれる。「H・S・C」の華であって、それに憧れる新入社員のフォアは、入社式の日、最低な印象の上司、営業3課の課長である九ノ島竜一に出会う。

 営業3課に配属されたヒロインのフォアが、最初に取りかかるケースに明らかな通り、勇者の挫折と再起とが大まかなテーマであろう。九ノ島は、精悍なイメージとは違った勇者と出会い、困惑するフォアに〈勇者は聖人君子じゃない / 一人の 人間だ / 人は考え迷い / 間違うんだ〉と言うのである。これはもちろん、伝説や神話として確立されているはずの英雄を、今日の視線を通じ、堕しているにすぎない。人間的であるがゆえに敗北もありえるという矮小化によって勇者が描かれているのだ。もっというなら、世界を救うという重大事を背負うにはあまりにも人間的すぎる勇者の卑近さが、「H・S・C」や「マル勇」を介在させているのである。

 フォアと同様、営業3課に配属された新入社員のフレイヤが、魔王との戦いで多くのものを失い、消沈してしまった勇者を見、〈たとえ大切な人を亡くしても / 魔王討伐という大義を蔑ろにしていいはずがない〉と述べるのに対し、九ノ島に〈フレイヤお前は正しすぎてダメだ〉と忠告させている。おそらく、フレイヤの主張は正論である。なぜ、それが否定されなければならないのか。繰り返しになるが、中世を模した剣と魔法のファンタジーだからこその価値観が、近代から現代へと至るなかで生成された認識に上書きされていることを意味しているのだと思う。少なくとも、それがドラマのレベルで作品を支えるものとなっている。

 1巻を読むかぎり、会社員のマンガや女性誌のマンガとも並べることができるような文法が入ってきている。それがちょっとおもしろいし、独自性として十分に生きていたら、と惜しまれるところがある。
2016年10月06日
 All Through the Night

 いやはや、前作の『HONK MACHINE』(2015年)が発表されて以来、それをIMPERIAL STATE ELECTRICにとっての最高傑作に挙げていたのだったが、申し訳ない。このフィフス・アルバムにあたる『ALL THROUGH THE NIGHT』こそ、彼らにとっての最高傑作だと改めたい気持ちで一杯である。生粋のライヴ・バンドとして名を馳せているスウェーデンの4人組だけれど、スタジオ・ワークにおいても極めて高い水準の作品を次々発表し、常に期待値を上回っていくのだから、恐れ入るよな、であろう。

 あくまでもロックン・ロールらしいロックン・ロールを奏でるサウンドに革新性は見あたらない。皆無だといえる。しかし、数々の古典を参照もしくは引用しながら、てらいなく紡がれるビートの心地良さに、体の芯から惹かれるものが現れているのであった。

 時代になびかないことが、エヴァーグリーンな魅力を引き出し、質と格のレベルに他との差異が生じさせられている。参照されるポイントは『HONK MACHINE』の頃よりさらに掘り下げられていると思われる。カントリー・ミュージックやソウル・ミュージックにまで遡ったかのような手触りが深まっているのである。ただし、一概にスローになったのでもなければ、落ち着きが出たとの単純化もできない。むしろ、ギターは以前にも増して踊っており、リズムの躍動感は強くなった。そのヴァリエーションの広がりに、ロックン・ロールのフィジカルな魅力が包み込まれているのだ。

 全体の構成は、これまでと同様、レコード(所謂ヴァイナル)LPのA面B面を意識したものとなっている。キック・オフを告げる1曲目の「EMPIRE OF FIRE」には、切れ味の鋭いギターのリフと色気のあるグルーヴとがたっぷり。ストリングスが入った2曲目の「All THROUGH THE NIGHT」や女性のコーラスを加えた4曲目の「BREAK IT DOWN」など、センティメンタルなナンバーが並ぶ一方、2曲目の「REMOVE YOUR DOUBT」や5曲目の「OVER AND OVER AGAIN」など、軽快に跳ねていくタイプのナンバーも充実している。

 メンバーのほとんどがメインでヴォーカルを取れるし、そうして重ねられたヴォーカルのハーモニーはフックの強いフレーズに結び付けられている。古典的なブギーとシャウトの引用であるような8曲目の「GET OFF THE BOO HOO TRAIN」を経、鍵盤の駆け抜けるスピードが印象的な9曲目の「WOULD YOU LIE」は、後半のハイライトだ。(日本盤のボーナス・トラックを除き)ラストを飾る10曲目の「NO SLEEPING」は、THE BEATLESあるいはジョージ・ハリスンのバラードを彷彿とさせる。

 『HONK MACHINE』について→こちら
 『POP WAR』について→こちら

バンドのオフィシャルFacebook→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2016年)
2016年09月27日
 Shape You Took Before the Ache

 確かに、セカンド・アルバムの『PALE LIGHT』(2014年)にも耽美的なメロディが屹立し、はっとさせられるような場面はあった。が、それはあくまでもアクセントのレベルに止まっていたように思う。しかし、どうだ。カオティックでもあり、エネルギッシュでもあり、ゴリゴリとしたハードコアを横溢させていたファースト・アルバムの『BREACH FALSE MINDS』(2012年)をバンドの素としてイメージしていると、一気にDEFTONES化が進んだな、といった驚きを受けてしまう。カナダはオンタリオ州キッチナー出身の4人組、EXALTのサード・アルバムが『THE SHAPE YOU TOOK BEFORE THE ACHE』(2016年)である。

 DEFTONES化と述べたけれど、それは耽美的なメロディやアンビエンスが強く出てきたということであって、アグレッシヴなアプローチのみによって指示されるのとは異なったエモーションが色濃くなったということでもある。ストロング・スタイルの演奏をキープしたまま、新しい文法を得、以前にも増してサウンドに奥行きが生まれている。再び他のバンドを引き合いに出すなら、CONVERGEとNEUROSISとDEFTONESをトライアングルにし、それらを中心から参照していったかのような奥行きである。これを是とはしない向きもあろう。だが、EXALTは明らかに次の段階に達した。飛躍を感じられる。

 不穏なノイズとヘヴィなグルーヴとが息苦しい1曲目の「SACRIFICE TO PURIFY」やリズムにスラッジを思わせる圧がかかった6曲目の「LEAVE THEM ALL BEHIND」、どうしたってDEFTONES風と喩えたくなるギターやコーラスが聴こえる7曲目の「WORSHIP」などに顕著な通り、ミドルやスローのテンポに、アルバムのカラーは左右されている。他方、SLAYERの「RAINING BLOOD」を彷彿とさせるフレーズが唐突に飛び出てくる2曲目の「UNDERTOW」や続く3曲目の「MARTYR ALONE」などの疾走するナンバーにおいては、アングリーであるようなテンションがパワフルに放たれていく。

 アコースティックな小品である5曲目の「ACHE」やレクイエムにも似た9曲目の「SHAPE」におけるパセティックな響きは、もちろん、楽曲のタイトルとアルバムのタイトルとが符合しているように『THE SHAPE YOU TOOK BEFORE THE ACHE』へとコンセプチュアルな印象を与えるものである。そして、ラスト・ナンバーにあたる11曲目の「I DOVE INTO THE SUN」には、アルバムの全景が集約されているみたいだ。アップとダウンとが激しいダイナミズムのなか、ヴォーカルは、ときに叫び、ときに囁き、情念を経由することでしか見られない世界をたゆたう。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2016年)
2016年09月17日
 Uxo

 もはやアメリカン・アンダーグラウンドの重鎮といって差し支えがないだろうね、であるUNSANEのクリス・スペンサーとTODAY IS THE DAYのスティーヴ・オースティンによって結成されたUXOは、つまり、そうした意味でスーパー・グループと呼べるわけなのだけれど、実際、セルフ・タイトルのデビュー作は、彼らのネーム・ヴァリューに見合ったものになっていると思う。いや、正直、近年のTODAY IS THE DAYをUNSANEに寄せていったかのようなスタイルは、足し算である以上に強烈なインパクトではないかもしれない。が、しかし、ダイナミズムをじりじりと抑制し、ぎりぎりまで研ぎ澄まされた演奏や、喉を振り絞り、悲痛な叫びをツインで入れてくるヴォーカルとが、ヘヴィなブルーズにも聴こえてくるサウンドは、意外性とは異なったレベルで十分に魅了される質を備えているのだ。ミドルからスローのテンポを中心にした楽曲は、うねりにたっぷりの息苦しさを湛えながら、それでいて窒息を寸前で免れるのに似たカタルシスを含んでいる。5曲目の「EVERYTHING'S A MISTAKE」が代表的であろう。ポスト・ロックの文脈を射程圏内にした構築性に幽玄さが現れている一方、いかにもジャンク・ロックを経由した荒削りのノイズにぴりぴりとした緊張と焦燥とが加わっていく。アングリーでいて、ペシミスティック、無愛想でいて、儚い、美しい、というアンビバレントなイメージに飲み込まれてしまう。

 バンドのオフィシャルFacebook→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2016年)
2016年09月13日
 Poisonous Legacy [Analog]

 巷ではネオクラストやブラッケンド・ハードコアとされるような系統に分類できるであろう。ギリシアはアテネ出身の5人組、SARABANTEのセカンド・アルバム『POISONOUS LEGACY』である。2011年の前作『REMNANTS』と同様、GOATSNAKEやSUNN O)))での活動で知られるグレッグ・アンダーソンのレーベル、SOUTHERN LORDからのタイトルとなった。ドスの効いた声で吠えるヴォーカル、鋭いリフに扇情的なフレーズを織り込んでいくギター、スピードを出しながらも図太いグルーヴをキープし続けるベースとドラムのリズム、所謂Dビートの勢いとが一体となり、フラストレーションを直接かち割るほどの轟きを召還している。1曲目の「ALL THAT REMAINED」からして、モッシュ・ピットの磁界に相応しいサウンドだ。が、他方で特筆すべきは、インタールード風に置かれた8曲目の「FORWARNED EPILOGUE」を経、アルバムの終盤部を飾っているナンバーではないかと思う。ミドル・テンポよりも少し上の速度を中盤で疾走の域へとアップさせる9曲目の「MNEME'S AMAUROSIS」をはじめ、展開のレベルにおいて、強くドラマティックだと感じ取れる楽曲が並んでいるのである。エモさが増しているといっても良い。今日のセンスで見るなら、エモい、という印象は、チャラい、という印象に置き換え可能な場合がある。しかし、ここではあくまでも叙情の「叙」を担う。エモーションの発露を意味しているのだと考えられたい。ひたすらヴァイオレントなイメージを生じさせているにもかかわらず、それがデリケートな資質と背中合わせでもあるかのように響いているのであった。

 バンドのオフィシャルFacebook→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2016年)