ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年11月09日
 文学界 2009年 12月号 [雑誌]

 『文學界』12月号掲載。村上龍の『心はあなたのもとに “I'll always be with you, always”』は、作者がこれまで手がけてきたヤザキケンあるいはケンジ・ワークスの総集編とでもすべきアイディアの流用を、今ふうの難病恋愛ものというかケータイ小説的というか、あらかじめ恋人の死が定められているような物語に落とし込んだ内容であって、正直なところ、持って回った筋書きに怠さの誘われる部分はすくなくない、というのは以前にも述べたけれど、連載も三十回を越えて、ようやく佳境に入ってきた感がある。主人公である中年男性によって手厚く養われている愛人の病状が悪化し、両者のあいだに色濃く横たわっていた死の気配が、具体的なモーメントへと変わりはじめている。ひさびさの逢瀬、しかし約束の時間に現れない香奈子に連絡をとろうとするが繋がらず、ケンジは〈これまでも直前のキャンセルがなかったわけではない。しかし、そういうときは必ず連絡があった。こんなことは、はじめてだった〉と悪い予感を抱き、心配の言葉をメールにして送るというのが、この第三十一回の引きである。が、クライマックスの生じる前段階において、かねてより香奈子が喪失されるかもしれないことに持っていたケンジの不安が、少年時代の記憶と家族との関わりのなかで、強烈さと曖昧さを増しながら先延ばしにされている、それが今回の要所だろう。てっきり、主人公の妻子は背景に引っ込んだまま、ずっと話は進んでいくのかと思っていたのだけれども、ここにきて、断片的に、彼女たちの存在が浮かび上がる。そしてそのイメージは、スノッブな印象も含め、村上龍の過去の小説にしばしば見られていたものと共通する。たとえば一つ例を挙げるなら、家族間の無関心と奇妙に戯れる短編「ウォーク・オン・ザ・ワイルドサイド」を思い出させる。必ずしもシリアスに向き合う必要のない関係性は、しばしば主体をリラックスさせる。こうした認識のありようが『心はあなたのもとに』の第三十一回では、あたかも〈家族との時間は、わたしを受身にする(略)わたしには基本的に居場所がない。まるで透明人間になったかのようで(略)それが心地よかった〉と再確認されている。他方、幼い日の出来事が、ふと主人公の頭をよぎるくだり、ヨシムラという少年の存在もまた、『はじめての夜 二度目の夜 最後の夜』など、作者の過去作に見つけることができるし、虚弱体質の同級生のエピソードは、他の作品にも拡散している。ヨシムラは〈でも、ぼくは、映画を観ているときだけ、少し痛みを忘れるんだよ〉と言う。もちろんこの、映画、という響きが持っている意味合いもやはり、村上龍にお馴染みのものだといえる。

 第二十七回について→こちら
 第十九回について→こちら
 第十七回について→こちら
 第十一回について→こちら
 第七回について→こちら

・その他村上龍に関する文章
 『半島を出よ』について→こちら
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2009年11月08日
 たとえば、バツとテリー(大島やすいち『バツ&テリー』の)や、トオルとヒロシ(きうちかずひろ『ビー・バップ・ハイスクール』のね)、三橋と伊藤(西森博之『今日から俺は!!』のさ)、亜輝と直巳(米原秀幸の『ウダウダやってるヒマはねェ!』のだ)等々、例を挙げればきりがないくらい、主人公をダブルにし、男同士のフィフティ・フィフティな関係性を描いた作品は、不良少年を題材化したマンガ史において一つの系譜を為してさえいるだろう。もちろん、それはそのジャンルに必ずしも特殊な形式ではないし、旧いフィクションにいくらでもルーツは遡ってゆける。二人一組の物語、いわゆるバディもの、のレパートリーにほかならない。が、さしあたり押さえておくべきなのは、個々の作品が持っている特徴をべつとすれば、すべて、ヤンキーというこの国の現代に固有な心性を前提条件にしたさい、ホモ・ソーシャルな連帯はいかなる価値を持つのか、をダイレクトに問うかっこうになっていることである。

 不良少年である主人公たちの関係性は、正しく野郎ならではの不器用な友情を描いているのだ、と素朴に美化することができる。しかし、その判断はあくまでもヤンキイッシュなライフ・スタイルのなかでくだされる。こうしたテーマのニュー・ヴァージョンとして見るべきなのが、奥嶋ひろまさの『ランチキ』だろう。鹿野乱吉と金田哲雄の二人は、周辺から「勉強の翠山」と呼ばれている中学校の生徒で、卒業まであと三ヶ月、とくに成し遂げたこともなく、悔いを残し、退屈を持て余していたはずの彼らが、ある光景を前に衝撃を受け、影響され、ケンカの勝利に自分たちの青春をかけるべく、チーム「しかばね(鹿金)」を結成、不良校である示現中学と事を構えながら、じょじょに名をあげてゆく。1巻に示されたあらましを述べるとこうなる。

 時代がくだっているがゆえに、ヤンキー・マンガ的なテーマのニュー・ヴァージョンと見なせるが、ストーリーの段取り自体は、ひじょうに古めかしいといえる。小さな世界の成り上がりを夢想することによって、主人公たちのモチベーションは担保されているのである。学園生活にかぎられた小さな世界は、もっと大きな社会の枠を考慮したとき、たちまち空虚なものになりかねない。そのような認識からの必死な逃亡、モラトリアム下の抵抗こそが、作中で、衝動と呼ばれ、自己表現と指され、青春と意図されているものの正体だと思う。ただし、やはり着目せざるをえないのは、それが二人一組のペアになって成立させられている点だ。小賢しく、卑怯な手も辞さない乱吉と、根はまっすぐで、高潔な哲雄のコンビネーションは、お互いがお互いの分身であると批評されるものとは、おそらく異なっている。

 それこそ、『今日から俺は!!』の三橋にとって、分身的な存在がいるとすれば、それは相棒の伊藤よりもむしろ、中野であったり、あるいは相良であったりするように、たとえば『ウダウダやってるヒマはねェ!』の亜輝に、もしも分身的な存在がいるとすれば、それは相棒の直巳よりもむしろ、アマギンのほうが相応しかったりするように、性質を等しくするが、相似性を別個とするほどに非対称な関係性が、この手の作品を根っこから支えているのである。『ランチキ』の場合もやはり、主人公たちは、環境をともにするなかで、認識を共有し、意見と行動を一致させてはいるが、きわめて非対称な関係性を保っている。要するに、決して同一化されえないポジションをキープしている。たぶん、彼らのあいだの明確な差異が、コミュニケーションという文脈を物語に発生させているのだ。そして、そのコミュニケーションは、すでにいったとおり、ヤンキイッシュでホモ・ソーシャルな価値観に拠っている。問題は、それが基礎である以上、今後の展開を経て、どこまで話を拡げていけるか、突っ込んだ提起が為されるか、になってくる。

 絵柄は、ときおり(じっさい作者と交流があるらしい)柳内大樹を思い出させたりするけれども、猿渡哲也のアシスタント出身だけあって、アクションのシーンには、なかなかの迫力がある。同じ『月刊少年チャンピオン』に連載されている『ドロップ』(品川ヒロシ・鈴木大)は、それが実話をベースにしているという以外、高校生ではなく、あえて中学生にした設定をぜんぜんうまく生かせていないが、さて後発であるぶん、そのへんをどう扱っていくのかも興味のわくところ。
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2009年11月06日
 少年マンガなのだろう雑誌にまるっきりの少女マンガを発表するという取り組みは、結果的に作品の内容をライトにしてしまった、というわけではなかろうが(いや多少はあるのかもしれないが)、この4巻で完結させられた神尾葉子の『まつりスペシャル』は、前作の『キャットストリート』が背景に重たいものを用意していたのと比べ、ひじょうにまっすぐなラヴ・コメディとしての色合いをつよくしている。女子高生プロレスラーとして家業を手伝うヒロインが、クラスメイトや憧れの男子に正体を知られまいとし、奮闘、事情を汲んだボーイフレンドとの信頼を深めてゆくのである。ここから先は結末を書いてしまうことになるけれども、主人公のまつりが片想いを抱くイケメンさん、諸角が、おそらくは大方が予想していたとおり、噛ませ犬以上の役割を与えられなかったのは、すこし物足りない気がしてしまうものの、そうした展開自体がある意味、プロレス的だというふうにいえる。要するに、少女マンガにおける様式美の世界をまっとうしたのだと見て取ってもよいような。もちろん、まつりが最終的に採った選択、すなわち、王子様の燦然とした虚像に近づいてみせることではなく、身近で二度は得難いパートナーシップに自らを委ねたことは、これまで少女マンガの文脈でさんざん試されてきたテーマのいちヴァリエーションであって、そういう、コミュニケーションの繰り返しが関係性をつくる、式の小さな物語が、自然と大きなうねりのエモーションを有していることに、かの領域ならではの特性を意識させられたりもするのだが、話を戻せば、諸角の扱いも含め、プロットはいささか単純化されすぎのきらいがあり、結果、ライトだという感想を持つに至った。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他神尾葉子に関する文章
 『花より男子』37巻について→こちら
 『キャットストリート』
  8巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1、2巻について→こちら
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2009年11月05日
 ガキホス 1 (ヤングキングコミックス)

 今やホストを題材にしたマンガは青年誌やヤング誌を中心にまったく珍しいものではないだろう。しかしそのほとんどが、いやホストにかぎらず水商売をテーマにしたものの多くが、といえるかもしれないが、ダウナーな展開のなかに夜の世界の闇とでもすべき不幸を盛り込むことでしかドラマをつくれないのは、ジャンルのイディオムにおけるある種の限界をうかがわせる。結局のところ読み手は、堅気の商売じゃないから仕方ないね、という思想によって、それを了解しているにすぎないのである。もちろん、そうした職業差別になりかねない意識を誘発する仕組みは、表面上、隠蔽されており、作中人物の心理を(まるでヤクザのように)特殊化すると同時に(まるでサラリーマンのように)一般化可能なエモーションへと拡大するというアクロバットを行うことで、作品の体裁は整えられているわけだけれど、それは結果的に、創作のレベルにおける倫理がいくらか不自然にゆがめられてしまっているのではないかとの疑問を、ときおり生じさせる。このことは水商売を描いたフィクションの前進に関し、すでに大きな壁となってあらわれてさえいる。さて。本題は、きたがわ翔の『ガキホス』の1巻なのだが、このマンガの特徴を挙げるとすれば、やはりホストに題材をとりながらも、きわめてアッパーなストーリーが繰り広げられている点だと思う。テレビにも取材されるほどの大家族で育った白斗は、二十歳になって、独立し、自分の信念を叶えるべく、歌舞伎町のホスト・クラブ「マゼンタハーレム」のキャストに応募する。憧れの存在であるマンガ「ホスプリ」の主人公、如月輝に一歩でも近づくためであった。〈……オレも彼のように生きられたら……だからオレは信じてるんだ 人を愛する気持ちさえ忘れなければ すべての人を幸せに出来るって――…〉と誓う白斗は、ラブという源氏名を戴き、新米ホストの日々を励んでゆく。たしかにこの手の系にありがちな、裏切り、刃傷沙汰、心の病、生まれや育ちの不運、等々をモチーフの一部に使ってはいるが、作品の魅力は、白斗=ラブの天真爛漫な言動が、夜の世界を縁取っているような暗さに、明るく幸せな光をあてていることにほかならない。極度にアッパーな展開は、綺麗事の積み重ねにも思えるところがあるにはある。けれども、その手法は、まあ物語が膨らんでいけばどうなるかは不明だとしても現時点では、水商売を、堅気以外の何か、に脚色してしまうことへの抵抗となっている。ところで、きたがわ翔、並行して進めている『BENGO!』も、マンガに影響された青年がヒーローを目指す出だしであったが、『ガキホス』も、職種こそ違えど、そうだ。両者の徹底具合からするに、サブ・カルチャーが生き方のロール・モデルに値するという出発点は、たんにネタが被っているのではなく、この国の現在の精神性を反映していると考えてよいのかもしれない。

・その他きたがわ翔に関する文章
 『デス・スウィーパー』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『刑事が一匹』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
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2009年11月03日
 本気! 9 (秋田文庫 57-9)

 たとえば、本宮ひろ志のヤクザ・マンガ、具体的にいうと『男樹』のシリーズでは、刑務所ですらもやはり、闘争の場となっている。それというのはおそらく、どれだけの罪を着ようが、後悔を背負おうが、決して動じないことが、主人公に対し、要請されているためだと考えられる。他方、立原あゆみの『本気!』の場合、刑務所での暮らしは、まさしく主人公に反省をもたらそうとする。もちろん、こうした違いを作家性と呼んでも構わないだろう。が、どちらの主人公たちも結局は、いったん入ったヤクザの道からおりることはできず、さらに多くの屍を乗り越えていかなければならなくなる。そしてそこに垣間見られるのは、現実の世界のありようをフィクションに落とし込んださい、まるで真理としてあらわれるような、不幸であり悲劇にほかならない。このとき、立原の諸作品に通底する、すべてのヤクザの夢はヤクザをやめることでなければならない、というテーマは、それを叶えられないで儚く散っていった者たちに向けられるべき、ある種のレクイエムとして響き渡るのだった。

 さて、『本気!』の文庫版も9巻である。集優会の会長殺しは冤罪であったにもかかわらず、自らに殺意があったこと自体を罪だと認める本気は、裁判の末、懲役1年6ヶ月の判決を受け入れ、青森の刑務所に送られることとなる。そこでの生活を中心にして、しばらく物語は進んでゆくわけが、いやはや、当時の『週刊少年チャンピオン』は、この、少年マンガ的なダイナミズムとはかけ離れた展開をよく載せたものだと思うし、じっさいそれを十分に読み応えがあり、ぜんぜん退屈をしないふうに引きをつくりながら描いてみせた作者もたいしたもの。また、シリーズ全体からすればこれも大きなヤマ場の一部となっており、見逃せない。まあ、服役囚同士の上下関係や悪徳な看守からのいびり等々、たしかにアイディアはありふれているが(俗にいう「ベタ」ってやつかい)、そのような外在するプレッシャーに加え、主人公本人が自分自身に抑圧を倍掛けすることで、ブッダやキリストの神話にすら匹敵するほどの聖人性とカリズマに磨きのかけられていることが、何よりも重要だ。しかし、ストーリーのずいぶんあとを先取りしてしまえば、神がかった本気の精神でさえ、極道に一度足を踏み込んだ輪廻からは抜け出すことができない。この巻、同室のヤクザが、本気の真価を見抜くがゆえに〈本気 あんた足洗いてえと本気で思っているのか〉という言葉は、じつに象徴的である。

 同室の、一匹狼の極道、向田が〈本気(マジ) / いや本気さん あんたが義理のうなって木工の職人として食えるとしてカタギになるわな / 他の野郎はセコセコ稼いだ銭じゃやっていけなくなる / いい女も抱きてえ いい思いもしてえってな 知っちまってるわけよ〉と述べるのに対して、本気は〈オレは別に〉と答える。だがそれは本気という個人の資質に限った話であり、ヤクザの大多数は違う。したがって〈だから あんたはそうだ でも静かに暮らさしちゃくれねえ…察じゃとりしまれねえザルの穴みてえな情がよ / 一肌脱いでくれって泣きつくわけよ / オレはかたぎだから知らんと言えるか…知らんぷりできるか〉と向田は言葉を続けるのだ。たしかに困り果てた人間を前にすれば、本気は、その清潔さゆえに、手を差し伸べずにはいられないだろう。じじつ、ここでの喩えは、あたかも予言であったかのごとく、のちに堅気になれる可能性を得た本気を、ふたたび極道の世界へとカムバックさせることになる。

 そして、本気が刑務所に入ってしまい、半年が経とうとする頃、表の世界では、ついに久美子の持病が悪化する。現在は離ればなれになっている二人のラヴ・ストーリーは、やがて、いわゆる難病もののカタルシスを孕んでゆくのだけれども、久美子があやういと知った本気が、無力さのなか、吐くセリフがせつない。〈オレの命 全部やる! 全部あげます どうか無事に……どうか〉この祈りはしかし、次巻以降、さらなる試練となってあらわれる。

 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1・2巻について→こちら

 
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『恋愛』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『仁義S』
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2009年11月02日
 少し前の話、小説家の長嶋有(いやブルボン小林だったっけ)が、文芸誌のアンケートで他の作家に、マンガ『キャプテン』の歴代キャプテンでは誰派か、みたいなことを尋ねていたけれど、当の長嶋はいったい誰派だったのか。もしかしたらどこかに書いていたりするのかもしれないが、目にした記憶がなく、ずっと気になっているのは、自分の場合は断然、丸井派だからである。そして経験上、丸井派の人間にはあまり出会ったときがないのを残念に思っているためだ。いや、たぶん近藤派には負けていないような気もするが、やはり多数は谷口派であり、次いでイガラシ派という感じではないだろうか(個人的に長嶋は近藤派なんじゃないかとにらんでいる)。たしかに、ストーリーがもっともドラマティックなのは谷口がキャプテンの編だし、試合内容の濃さでいうならイガラシがキャプテンの編を選ぶ。もちろん、近藤がキャプテンの編も、ついに名門校となってしまったがゆえの困難を描き、なかなかに魅せるのだった。が、シリーズ全体を通して、最重要人物というべきは、間違いなく丸井なのであって、奴ほどがんばり屋さんで、墨谷二中の野球部に身を捧げた人間はほかにいまいよ。

 現在、ちばあきおの『キャプテン』が、完全版と銘打って刊行されている。すでにワイド版も愛蔵版も所有しているので、べつにいいかな、と思っていたのだが、ついつい誘惑に勝てず、また1セット揃えはじめてしまう。今回の目玉は、何といっても、連載当時の扉絵とカラー原稿がそのまま収められていることである。巻末に〈原稿の紛失等により当時の印刷物を使用しているページがございます。作中に見苦しく読みにくい箇所もありますが〉云々とあるとおり、やたらインクが潰れていたり掠れていたりするところもあるけれど、それを差し引いても、ファンには嬉しいもので、とくに扉絵は、すごい、いくつかの惹句に時代を感じさせる。いずれにせよ、もう何度目かはわからないが、この野球マンガの傑作をあらためて体験しているのだった。

 今月出た二冊のうち、4巻でストーリーは、待ってました、丸井がキャプテンの編に入ってゆく。3巻の青葉学院との二度目の対決は、練習風景も込みで、そりゃあ泣けてきてしまうぐらいすばらしい。しかし丸井が3年にあがり、キャプテンになり、近藤が1年に加わってきてからも、最高に充実している。とにかく、当初はキャプテンに適切ではないと周囲に見られてしまう丸井が、持ち前のガッツで評価を翻していくさまに、惚れ惚れとしてしまう。ここでいったん、谷口がキャプテンになったばかりの頃、完全版の1巻を読み返されたい。104ページ、丸井が谷口の努力に驚き〈あれなんだな まえのキャプテンが谷口さんを選んだ理由は〉と言う。これは同じく318ページ、谷口の努力を知ったイガラシによって〈これなんだなあ…キャプテンがみんなを引っぱる力は…〉と反復される。もともとは実力の備わっていなかった谷口がどうしてキャプテンになれたのか、さらには墨谷二中の面々からなぜ絶大な支持を得るに至ったのか。そのことの説得が、繰り返し、繰り返し、物語を、前へ、前へ、進めているのである。

 ただし注意しておきたいのは、谷口はあくまでも集中力の人であったということだ。それが無茶無謀ともいえるチャレンジを可能にし、まわりの人間もほとんど仕方なく巻き込まれていき、結果となってあらわれたにすぎない。一般的に、谷口の姿に平凡な少年のがんばりズムを受け取る向きはすくなくないのではないか。だが、集中力のすさまじさを評価するなら、あれはあれでイガラシや近藤とは異なるタイプの天才だったのである。丸井の場合はちょっと違う。じつは丸井こそが平凡な少年のがんばりズムをもっともよく体現している。完全版の4巻、115ページを見られたい。まだどこの馬の骨ともわからぬ近藤に対して怒りをぶつける丸井に、イガラシは〈どうして前キャプテンの谷口さんは丸井さんをえらんだんだろう…?〉と心のなかで疑問を呈す。1年近くの付き合いがあるはずなのにそりゃないぜ、という気がしないでもないが、この問い、すなわち谷口だけが見抜き、ほかの誰もが理解していなかった丸井の類い希なる資質については、春の選抜大会で墨谷二中が予想外の敗北を喫したさい、いよいよあきらかとなる。未読の方のため、くわしくネタは割らないけれども、疑わしい目を持たれていたにもかかわらず、結局のところ〈やっぱりキャプテンは丸井さんしかいないのかな……〉とメンバー全員の意見を一致させてしまうような、ひたむきな反省と勝利への執念から生まれるその行動力が、丸井をひとかどの者にしているのである。

 『校舎うらのイレブン (シリーズ昭和の名作マンガ)』について→こちら
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2009年11月01日
 ところで『蒼太の包丁』(末田雄一郎・本庄 敬)の22巻と、この『味いちもんめ〜独立編〜』(倉田よしみ・あべ善太・福田幸江)の3巻には、和食を題材にした料理マンガという括り以外にも、一つ共通点がある。それは、社会的責任において上に立っている人間は下の人間に厳しく接しなければならない場面があるのではないか、こうしたテーマを持っているかのようなエピソードが収められていることだ。どちらもおそらくは、団塊ジュニアもしくはポスト団塊ジュニア以降の世代が、加齢するにつれ、どうすれば他人を管理する側に相応しくなれるのかを、若い主人公が自立しようとする姿に描いているのである。料理人である主人公たちが置かれているのは、ひとまず特殊な環境だと設定されているが、しかし彼らがサラリーマンの営みをワキに見、参照し、上司と部下の関係性を改めて認識するというシーンを置くことで、繰り広げられている内容が一般化されていたり、先行する世代との態度の違いを通じ、彼らが抱えている甘さが相対化されるという構図を持っているのも、じつは両作品のあいだで等しい。団塊ジュニアあるいはポスト団塊ジュニア以降の若者にとって成熟とは何か、このことを社会的な立場を交えながら表現しているマンガがほかにどれだけあるかは寡聞にして知らないけれども、00年代も終わろうとする同じ時期に出た二冊の料理マンガが、はからずもそれを意識させるエピソードを収めているのは、意外と興味深い。かつての仲間、ナベや早瀬が助っ人に来てくれたこともあって、伊橋が板長をつとめる「楽庵」もそれなり回るようになってきた。だが、ほんらいの従業員で、いまだ修行中の身である啓介は、周囲の働きをすっかり頼るようになってしまい、ナベや早瀬は自分たちが抜けたときのことを考えると、気が気ではない。その心配は伊橋にも伝わってき、じっさい上に立つ者として、どうすれば啓介の成長を助けられるか、うまく育てられるか、新たな課題を得ざるをえなくなるのだった。まあ旧くからのファンにしてみれば、おいおい、伊橋よお、すっかり丸くなりやがって、と思う部分もあるにはあるが、あの、頼りなかったナベや早瀬がいつの間にか立派な職人になっているのと同じく、彼もまた、世間知らずで甘ったれた青年時代を終わりなく引きずっているわけにはいかない。自分探しを卒業、独立し、ようやく社会的な責任を生きはじめた伊橋の、未知を経験するなかでのたゆまぬ奮闘が、『味いちもんめ〜独立編〜』の主要だろう。現時点では店の構えがどうのというより、スタッフ間のコミュニケーションに、ストーリーは大きく割かれているけれど、じょじょに地盤は固まっている。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『新・味いちもんめ』
  21巻について→こちら
  20巻について→こちら
  19巻について→こちら
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2009年10月31日
 スワンソング【完全初回限定盤】 スワンソング

 KinKi Kidsのニュー・シングルとなる「スワンソング」は、「硝子の少年」をはじめ初期の代表曲にいくつも関わってきた松本隆が詞を提供しており、絢爛なストリングスと打ち込みのリズムがバックのトラックを盛り上げていくのに反して、歌われるメロディはせつなく、綱引きが幻想的に響くなか、今にも壊れそうな関係性をイメージさせる。じつにこのユニットらしいナイーヴさのよく出たナンバーとなっている。が、それにしても「スワンソング」のみならず、今回のリリースのために揃えられた楽曲の数々からは、まるで少年時代に別れを告げているかのような儚さを感じてしまう。あるいは、三十歳代に入り、かつての幼さとは異なるベクトルを持ちはじめた堂本光一と堂本剛の表現力が、そのように受け取らせるのかもしれない。初回盤と通常盤の双方に収められた2曲目の「サマルェカダス 〜another oasis〜」は、しっとり、落ち着いた抑揚とアレンジが、クラシックな歌謡曲を彷彿させる。二人のヴォーカルが何よりも前にき、光一くんの力み、剛くんの伸び、いま現在におけるKinki Kidsというコントラストが、コーラスの箇所に〈幼い僕なら裸足で行けた・憧れと喜びがあふれだす世界〉とあるとおり、過去からはセパレートされた場所と心情を描く。正直、自分の好みでいえば「スワンソング」よりもぐっとくる。作曲も手がけているマシコタツロウの詞は、ひじょうにまっすぐな悲哀を孕んでいて、〈僕が生まれたその日から季節は巡り・地図も持たずにここまで歩いた・絵具が足りなくなるほど描いた夢なら・額に飾ってばかりじゃ意味がない〉と書きつけられた出だし、そこをソロでとっている剛くんの、さすがに上手い、艶っぽさもあり、とたんに引き込まれる。初回盤、3曲目の「深紅の花」も、アップ・テンポでダンサブルなナンバーだが、基調はやはり、物悲しい。ところで初回盤に並んでいる3曲はどれも、詞に盛り込まれたフレーズはもとより、林部直樹のギターがそうさせるのか、どこか異国めいた情緒を共通して持っている。まあ、アイドルのポップスによくあらわれる抽象性にすぎないのだけれども、それがある種の距離感をつよく表象するふうになっていることが、じつは重要だ。むろん、一つにはラヴ・ソングのニュアンスで主体と相手のあいだの隔たりを意味しているわけだが、もう一つ、自分自身をかえりみた主体の過去と現在とに区切られてしまった感傷を肩代わりしているのだろう。すこしずつ遠ざかる景色がうつくしく見えるのは、もしかすれば二度とは戻れない予感を含んでいるためであって、おそらくは「スワンソング」の収録曲に聴こえる印象、少年時代に別れを告げているかのような儚さも、そうしたあたりに起因している。通常盤の3曲目である「面影」は、タイトルからしてもう、パセティックなバラードで、「サマルェカダス」と同じく、アレンジはクラシックな歌謡曲を思わせる。光一くんと剛くんとが、前半と後半のハーモニーで主旋律を入れ替わる、はっきりとわかれてゆく両者の個性が、しみじみ、余韻に繋がる。

 『Secret Code』について→こちら

・その他堂本剛に関する文章
 『RAIN』について→こちら
 コンサート『ENDLICHERI☆ENDLICHERI CHERI 4 U』(09年8月19日・国立代々木競技場第一体育館)について→こちら
 『空 〜 美しい我の空』『美 我 空 - ビ ガ ク 〜 my beautiful sky』について→こちら
 『I AND 愛』について→こちら
 『Coward』について→こちら
 「ソメイヨシノ」について→こちら
 [si:]について→こちら
 『僕の靴音』について→こちら
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2009年10月30日
 蒼太の包丁 22 (マンサンコミックス)

 ああ、〈…「頑張ってる」ことで自分を許してたら未来はないで!〉という花ノ井の言葉には、どこかこう、考えさせられるものがあるな。主人公である蒼太が父親を亡くしてからの『蒼太の包丁』は、ストーリー上、彼の自立を描くような色合いを濃くしている。もちろんそれは初期の頃よりすでに顕在していたテーマではあったが、ここ数巻、さらにつよまってきていると感じられる。そして、いつまでも半人前のままで止まっているわけにはいかず、決意と躊躇いのなかを奔走する蒼太の姿は、必ずしも料理マンガというジャンルにのみ、あらわれるものではないだろう。いや、和食の世界を一つの手がかりとし、もっとずっと普遍的な営みが描かれているので、気づけば彼の、思い悩み、戸惑う表情を応援したくなるのだ。22巻も今までどおり、エピソードの単位では盛りだくさんの内容となっているけれども、基本的には、いかに蒼太が成長を遂げ、しかしそれでもいまだ自らの志には届けないでいるか、丁寧に汲み取ってゆく。頭に引いたのは、先に自分の店を持つことになった元同僚の花ノ井が、彼の立場からすれば、才能はあるのにぐずぐずして見える蒼太に向かい、告げた言葉である。これに対し、蒼太は〈でも僕には頑張って行くことが自分の支えなんだけれど〉と心に思う。おそらく、花ノ井の考えも、蒼太の意識にしても、どちらか一方が間違っているということはない。そもそも両者は出会ったときより、弁証し合う関係にある。だが、結果を求める段階にあっては、蒼太のスタンスでは足踏みに感じられてしまうことが、いわば物語の引きをつくっている。ところでまあ、今や立派になった須貝も登場したばかりの頃は、とんだ坊ちゃんだったけれど、この巻で「富み久」に新しく入ってくる垣内もまた、なかなか手強い。社会を知らない彼とのやりとりを通じて、蒼太は目上としての自覚を得なければならないというのが、あくまでも本筋に関わっている点で、結局のところ垣内はその役割を終えたらいなくなってしまうのだが、可愛らしいような憎たらしいような顔つきに、いやいやこいつは怒ってやらなきゃだめだろう。わざとそういうふうに表現してあるのはわかっているものの、ついつい。度量がせめえのかな。

 20巻について→こちら
 18巻について→こちら
 17巻について→こちら
 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
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2009年10月29日
 Axe to Fall

 とにかく、アタマの4曲が強烈だ。最高潮に燃える。血気が盛んとはまさしくこのことかよ。初期の頃のイメージからすると、ぐしゃぐしゃに歪んだカオスのごとき想念は鳴りを潜め、かわりにヘヴィ・メタリックな構築性が増し、ひじょうに聴きやすくなった、ともとれるので、おや、と思わされるところもあるにはあるが、そこを含め、結局はその、音塊をぶんぶんと振り回すような勢い、アグレッシヴなアプローチに圧倒されてしまうのである。ねえおまえさん、おまえさんがねえ、しょげたり、愚図ったり、うんざり、膝を折りそうになって、いっそのこと粉砕の衝撃に何もかもを忘れてしまいたくなるとき、まあこれを耳にしたまえよ。と、CONVERGE(コンヴァージ)の通算8作目となるニュー・アルバム『AXE TO FALL(アックス・トゥ・フォール)』は、そうしたオーダーにちょうど答えているみたいだった。すでに述べたとおり、アタマの4曲によって、ほとんど作品のインパクトは決定されている。ハイ・スピード、高速で繰り出される重低音、矢継ぎ早な展開、のっけから扇情性をフル出力する「DARK HORSE」、ぎりぎりの緊張でスリルをつよめる「REAP WHAT YOU SOU」、激しいモッシュ・ピットを想像させる「AXE TO FALL」、瞬くギターのノイズが鮮明な「EFFIGY」、テンションというか、集中力を一点に張ったナンバーが連続するのだけれど、どれも同じパターンには陥っておらず、細やかなヴァリエーションのなかで、個々の存在感をアップさせながら、途切れることもなしに急襲をかけてくるのだから、たまらない。息つく間も与えてはくれないほど。アドレナリンの値をがんがんあげる。そして特筆すべきは、ベン・コラーのドラムだろう。たとえばそれは、SLAYERの傑作においてデイヴ・ロンバードの叩きっぷりが象徴的な印象を持っているのに似て、各曲のヴァリューを高めている。すばらしくパワフルな打撃が、躊躇いもなく、修羅の道に立ち塞がるぜんぶを薙ぎ倒してゆくのである。しかし過剰なクライマックスの連続は、ドゥームを装ったスローで摺り足の「WORMS WILL FEAD / RATS WILL FEAST」を5曲目に迎え、いったん食い止められる。これ以降、スピードとエネルギーをたんなる加算式に積み重ねるばかりではなく、度々、意識の暗がりを深く掘り下げるかのようなセクションを設けながら、アルバムは構成される。そうした局面が一種のバランスとなって、作品の全体像には、今までになかったぐらいのまとまりがある。まとまりがあるというのが、CONVERGEにとって褒め言葉になるかどうかはわからない。が、アタマの4曲は、やはり刺激的、舌を巻かざるをえない。もちろん、6曲目の「WISHING WELL」を筆頭とし、後半にもハイパー・アグレッシヴなナンバーが揃えられている。しかし、このバンドならではのすさまじさが、まぎれもなく実感されるのは、冒頭だ。幕を開けたとたん、いっさいを灰燼に帰してしまうつもりか、轟々と灼熱があふれ出す。あたかも絶望に達しそうなフラストレーションが凝縮され、翻り、うなっているんだ。と思いながら、身を乗り出す。

 『NO HEROES』について→こちら
 『YOU FAIL ME』について→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2009年10月28日
 姫剣 1巻 (ヤングキングコミックス)

 (かつて『0リー打越くん!!』や『TO-mA』のファンだった人たちに向かって)おーいおまえら、おまえらの好きだった桑原真也がちょびっとだけ帰ってきたぞ。いや、学園をベースにした活劇性を求めるならば『ラセンバナ』のほうがそれに近しかったかもしれないが、いかにもオタク・センスなエロティック・ファンタジーとしてはこちらの『姫剣(ヒメハバキ)』のほうに分がある。そう、つまり桑原という作家は必ずしもヤンキー・マンガの人ではなかったことを思い出させる。古代の日本、奴隷の立場を脱しようとしていた竹流は、巨大な剣を携えた謎の少女、サラと出会い、成り行きから旅路を共にすることとなる。はたしてサラの望みとは、特別な目印を持った7人の仲間を探し出し、巨大な奴隷都市を築き上げた温琉の国を打倒することであった。次々とあらわれる強敵を前に、彼女の剣さばきが鮮烈に光る。正直、1巻の段階ではどうということのないストーリーが繰り広げられているけれども、コメディの描写を入れながら、やたら女性の裸や下着が出てくる一方、作中人物たちの運命がかなり過酷に設定されているあたり、『R-16』以前のカラーを彷彿とさせる。とすれば、もしかしたら『0リー打越くん!!』や『TO-mA』のように後々押し寄せてくる怒濤もありうるのかな。さあどうだい。

・その他桑原真也に関する文章
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
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2009年10月27日
 りぼんファンタジー増刊号 2009年 11月号 [雑誌]

 編集者は違うのだろうが、同じ集英社から出てきたアイディアなのだから、もうすこしひねりを加えて欲しかった。あるいはこういう作品が少女マンガの文脈に置かれることに意味があるのか。『りぼんファンタジー増刊号』に掲載された牧野あおいの『HAL-ハル-』は、端的にいって、かの『デスノート』を簡略化したヴァリエーション以外の何ものでもない。主人公は、他人を見くだしているだけの凡庸な女子中学生に置き換えられ、何かしらのアイテムを媒介するのではなく、死神が直接に願い事を叶えてしまう。こうしたプロットにおいては、ミステリの要素や頭脳戦のスリルは省かれ、子供じみた他愛のない欲望だけが、教訓めいた結末を与えられることで、処置されてしまう。決して悪いお話ではないのだが、扉絵のデザインや作中の構図からうかがえるとおり、『デスノート』を下敷きにしていることはあきらか、大勢の目に止まったら叩かれそうなリスクを冒してまで発表するほどの内容になっているのかは、疑わしい。最初に述べたことの繰り返しになるが、せめてもうすこしのプラスαがあればと思う。
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