ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年02月09日
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 註)ショーの内容について、ある程度踏み込んでおります。ネタバレを気にする方はご注意ください。ふだんこのような但し書きをしないのですが、長い日程の公演がまだはじまったばかりの時期なので。


 昨日(2月8日)は、そう、『赤西仁 Star Live 友&仁 You&Jin』を観に日生劇場へと向かったのだった。が、いやしかしこれが、良くも悪くも、赤西仁というカラーが如実に反映されたステージとなっていたように思う。

 昨年、KAT-TUNのコンサートで披露されたソロ・ナンバー「WONDER」(クリスタル・ケイとのコラボレイト)からうかがえたとおり、ひじょうに洋楽指向が強いというか、モダンなブラック・ミュージック、R&B、ヒップホップのスタイルを大幅に取り入れるていでセット・リスト、ステージのおおよそは構成されていたのである。今回のために用意された楽曲のほとんどが英語詞であったのも、無意味に気取っているわけではなく、おそらくは、どのような音楽性を実現するか、のモチベーションをダイレクトにしていたためだろう。

 個人的にはすっかり、「WONDER」の、そのセンス、低音の響き、ヴォーカルのかっこうよさに魅了されてしまったタイプだから、否が応にも興奮し、体を揺らさざるをえない部分が多かったのだけれども、ショーの全体を敷衍してみれば、もうすこし緊張感があふれかえっていてもよかった。わっと幕が開くのではなしに、ゆるゆる、じょじょに熱を入れてゆくオープニングはともかく、ファンの思い入れとはべつのレベルで、圧倒的なカリズマに驚異させられるぐらいの展開、ハイなヴォルテージが臨界を越えてゆくほどの演出はなかった。まあ、まだ公演二日目であるし、今後に調整される点が出てくるのかもしれないし、はりきりが必ずしも目に見えず、どこかリラックスしたムードを漂わせているところが、じつに赤西くんらしい、といえば、たしかにね、頷くよりほかないんだ。

 印象深かったのは、英語詞のオリジナル・ナンバーが連続してゆく前半である。これがKAT-TUN本体からは離れたソロ公演であることの醍醐味は、ほとんどそこに集約されていたとさえ感じられた。先ほど述べた「WONDER」が披露されたのも同じ流れのなかであって、KAT-TUNのシングル『Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜』に収録のソロ・ナンバー「A Page」や、同じく『DON'T U EVER STOP』に収録の「LOVEJUICE」もばっちり決まっており、正直、このままの調子で最後までいったらけっこう自慢になるぞ、と期待させられたのだった。

 ただし、いささか時代的な傾向を踏まえ過ぎたせいか、オートチューンを使用した楽曲ばかりであったのは、せっかくの生の舞台で歌声を堪能するには、功となっていない。ぶっちゃけ、はじめて耳にするナンバーが多い以上、オリジナルのヴァージョンがどのような音程であるのか知れないので、じっさいにヴォーカルをとっているのか、はたしてリップシンクでしかないのか、自分がいた客席からはほとんど判別がつかなかったからね。シンガーとしての赤西仁を高く買っているだけに、残念を覚えるものがあった。

 他方、バックをフォローする外国人メンバーに、しばしばコーラスを委ねたり、ラップを任せたりしていたことに関しては、決して悪い印象を持たない。それはつまり、前記したとおり、どのような音楽性を実現するか、意識の面に由来しているのだと解釈される。もちろん、オートチューンだってそうじゃん、といわれれば、そうなのだけれど、たんにバランスの問題にすぎないのであって、もっと剥き身の歌声を響かせるシーンがたくさんあって欲しかった。

 しかして「LOVEJUICE」のあと、趣向に変化が訪れる。「BANDAGE」によって、ダンサブルな路線を離れ、ロックのモードへと突入していくのだった。LANDSとしてはすでにラスト・ライヴが行われしまったため、『Olympos』の楽曲ってやったりするものかしら、という疑問があったのだが、やっぱり、やった。だが、今回のヴァージョンはLANDSではない。あくまでもバック・バンドにFiVeを伴ったヴァージョンとして聴かれるべきだろう。上里くんと牧野くんのリズム隊は相変わらずタイトであって、低音のグルーヴをよく通らせる。中江川くんのギターがソリッドに決まる。そして石垣くんのキーボードの入り方に、LANDSとは異なる音色が預けられていたように思う。

 続く「care」を経、第一部が終了、30分の休憩が設けられる。どのような事情でそれが必要とされているのかはわからないが、さすがに30分のインターヴァルは長すぎるよ、と言いたかった。第一部、第二部ともに、一時間弱のセット・リストでは、それほどのクール・ダウンを欲しがれない。

 ここで空いた間を、しかし埋めるのではなく、生かすかのごとく、第二部は落ち着いたテンションで、はじまる。外国人メンバー数人と赤西くんが、椅子に腰掛け、輪になって歌うのは、レナード・コーエンのカヴァー「Hallelujah」だ。ほら、こういうところにも洋楽指向が見て取れるわけなのだけれども、ジェフ・バックリィのヴァージョンを挙げるまでもなく、アーティストの資質が直接に問われるナンバーなので、小節ごとにヴォーカルのパートを分けるというアイディアは、たしかに気が回ってはいるものの、ここでこそ赤西くんの独唱が聴きたかった、というのが正直なところ。「Hallelujah」のあともカヴァーを披露、そもそもはウィノナ・ジャッドのナンバーで、エリック・クラプトンのヴァージョンで知られる「Change The World」である。これは赤西くんが穏やかさの混じったエモーションでしっかり歌いあげる。

 MCのコーナーがやってくるのは「Change The World」の余韻が静かに残るなか、地べたに座り込んだ赤西くんが、感謝の言葉などを述べ、観客をいじり、そして次からの楽曲が公演のタイトルにかけ、友人たちとの共作である旨を伝える。

 まずは映画『BANDAGE』で共演した金子ノブアキが作曲に関わった「Paparats」で、なるほど、フラットなインダストリアルの質感からラウド・ロックのダイナミズムに変化してゆくナンバーには、そのニュアンスが備わっている。次いで錦戸亮とのレコーディング風景がVTRで流れると、アップ・テンポで賑やかな「Hey Girl」がスタートする。明るい曲調に合わせ、ダンサーや着ぐるみがアメリカン・コミックふうの寸劇をバックで織り成すのが、とてもキュートだ。全体的にセクシーな場面が多いなか、ここが一番カラフルにはじけていた。

 そうして「Hey Girl」が止むと、しばらくのあいだ、ダンスのセッションが繰り広げられることとなる。さまざまなジャンルのダンスを、外国人のダンサーを左右にしながら、次々と移り渡ってゆくのだが、ステージ前方に張られた薄いスクリーンとライティングによって描かれるマジカルな光景が、目に楽しく。この演出は、続く「ha-ha」でも効果的に発揮されていた。そして「ha-ha」から「My MP3」へ、前半のようにダンサブルな路線にいったん戻すと、いよいよショーも終盤に差し掛かる。

 終わりのときが近づいているのだ。ステージの後方、巨大な球状のセットが組まれており、その上部に立ち、歌われるのは、せつなさをいっぱいに込めたバラードの「Eternal」である。ああ、ここにきてついに、赤西くんのヴォーカルが、感動的な叙情を孕む。そこはかとなく悲しんだメロディに、泣いてもいいし、胸を熱くしてもいい、そうやって誰かのことを想ってもいい、ささやかな報いが、許しが、しかし確実に満ちていくみたいであった。

 ラストを飾ったのは、序盤にも披露された「Keep it up」であり、ふたたびこのアッパーな楽曲が持ってこられたことで、大団円の箔がつく。バックのメンバーも総出、一人一人の笑顔が眩しく。やがて皆、ステージを去る。残念ながら、どれだけの拍手が再登場を求めようが、アンコールはなかった。

 いくらか注文をつけてしまったのは、期待値が高かったからで、それを抜きにすれば、総じて楽しいパフォーマンスだったと思う。じっさい盛り上がるべきところは最高潮に盛り上がったし、ファンとしては、こういう機会はあればあったで、とても嬉しい。しかしながら、ソロ公演において支配的な、個の強さ、を、まざまざ確認できたかというと、少々辛くならざるをえない。今の段階では、翻って、KAT-TUNの、ピースの、一つであるときのあの輝きが、尊くなる。

・その他LANDSに関する文章
 『Olympus』について→こちら
 「BANDAGE」について→こちら

・その他KAT-TUNに関する文章
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2010年02月08日
 週刊少年チャンピオン40th 創刊40周年記念特別編集

 巻頭に置かれた「ごあいさつ」に〈1969年7月、週刊少年チャンピオンは創刊されました(略)すでに通巻2000号を超える幸福な歩みを今日にいたるまで続けております。この記念の年、小誌では「伝説のキャラクターたちに再び会える!! 創刊40周年記念名作読み切りシリーズ」と銘打ち(略)あの名作を、あの素晴らしいキャラクターたちを、特別に描き下ろしていただく企画を1年に渡って続けてまいりました。ここにその珠玉の作品たちを一冊の短編集にまとめ、お届けいたします〉とある。自分が『週刊少年チャンピオン』を購読するようになったのは、80年代の後半ぐらいだったから、この『週刊少年チャンピオン40th 創刊40周年記念特別編集』に入っているもののうち、半数近くはリアルタイムで連載を読んでいたことになる。読者になったばかりの頃、一番の目当ては菊池秀行(原作)と細馬信一(漫画)の『魔界都市ハンター』であった。もちろん、その新作もここには収められているが、しかし本当に好きだった。同コンビの次に手がけた『魔界学園』にも夢中になった。やがて米原秀幸の『箕輪道伝説』がはじまり、通常のヤンキー・マンガとは一線を画すスタイリッシュなヴァイオレンスにはまった。そして曽田正人の『シャカリキ!』や、みさき速の『特攻天女』、緋采俊樹の『ゲッチューまごころ便』と、愛すべき作品に次々と出会う。『箕輪道伝説』と『シャカリキ!』の新作は、残念ながらないのだけれども、『特攻天女』や『ゲッチューまごころ便』の新作が、かつての面影いっぱいに描かれているのはとても嬉しく。まあ、あれやこれやの新作もぜひぜひ読みたかったという気持ちは捨てきれないものの、他誌の創刊○○周年特別企画などと比べても、たいへん豪華で好感の持てるアイディアだと思う。余談ではあるが、きくち正太や瀬口たかひろは昔のタッチのほうが好きである。山上たつひこの『がきデカ』だったり、石井ひさみの『750ライダー』だったりよりも、そちらのほうが気になってしまうのは、世代だろう。もちろん『がきデカ』も『750ライダー』も後追いで読んではいる。立原あゆみの『本気!』は続編になって掲載誌が変わってからもずっと読んでいた。そういう、個人的な思い入れの観点でこれを高く買ってしまう一方、ボーナス・トラック的な要素の(といったら失礼か)宮崎克(原作)と吉本浩二(漫画)による『ブラックジャック創作秘話』も、伝記的なマンガ家マンガとして、じつに読ませる。このような取材と証言でまとめられた内容のマンガ家マンガは、これだけマンガ家マンガが流行っているにもかかわらず、あんがい珍しい。さすが我が道をゆく『週刊少年チャンピオン』といったところ。誰かに壁村耐三レジェンドも描いて欲しい。それにしても、いつになったら伊藤清順の『ぶかつどう』を単行本化してくれますか、細川雅巳の『星のブンガ』の2巻は出ますか、水穂しゅうしの『LOOK UP!』は、と、最後に、そこそこの連載作が必ずしもコミックスにならない(秋田書店の)独特な方針に注文をつけて、終わる。いや、だいたい『ブラックジャック創作秘話』ってもう一話あるよね。

 樋田和彦『京四郎』描き下ろし新作について→こちら
 みさき速『特攻天女』描き下ろし新作について→こちら
 立原あゆみ『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
2010年02月07日
 文学界 2010年 03月号 [雑誌]

 『文學界』3月号掲載。同じく村上龍による『群像』の連載『歌うクジラ』が、今月、ひと足先に完結されたが、こちら『心はあなたのもとに “I’ll always be with you, always”』のほうも、そろそろ終局を迎えつつあるようである。つまりそれは、第一回の段階ですでに予告されていたとおり、ヒロインである香奈子の死に、語り手の西崎が、否応なく面せねばならぬことを意味しているのであって、この第三十四回のラスト、作中の時制はようやく、小説全体の冒頭に追いつかんとしている。ところで、先ほど挙げた『歌うクジラ』の内容を、たとえば、他の誰かに働きかける主体の顕在化、と仮定するのが可能だとすれば、『心はあなたのもとに』は、他の誰かから働きかけられる主体の顕在化、であると仮定することが可能であるように思う。『心はあなたのもとに』の主人公、西崎は当初、他の誰かに働きかけられる自分を拠り所としていたのであったが、それが香奈子との出会いや、彼女の闘病生活との関わりを通じ、あきらかに変容してゆく。前回(第三十三回、2月号掲載)における西崎のこういう所見、〈香奈子が不安や悲しみで泣き出してもいつか泣き声は止んだ。痛みや吐き気があってもいつか収まり、救急車で入院してもいつか必ず退院するときが来た。繰り返されるうちに、そういったことがいつの間にか特別なことではなくなった〉のは、体に怪我をしたときに痛みがあるのと一緒で〈痛みがないと人間は傷に注意を払わないからそうなっている、ただずっと痛かったら辛いので、しばらく時間が経つと痛みが中和される仕組みになってい〉て、そのさい〈身体の中でものすごい数の化学変化が起こっている〉ように〈精神にも、似たような変化が起こるのではないだろうか〉、すなわち〈香奈子が怒ったときには、どうやって謝ろうかとそればかりを考えて仕事が手につかなった。会うのが憂うつに思われるときがあって、ひどい罪悪感を覚えた。そういったことが起こり、収束するたびに、少しずつ何かが変わっていった〉わけで、〈わたしたちは何にでも慣れてしまう。痛みも不安も罪悪感も憂うつも、繰り返されるたび、気づかないほど少しずつだが薄くなっていく。いいことなのかどうか、わからない。しかし、香奈子が入院するたびに不安に駆られていたら神経が保たないかもしれない〉というのは、一般論である以上に、他の誰かからの働きかけによって成立しうる何某かの実感が曖昧になりかけていることの、自分自身に対するエクスキューズにもとれるだろう。じじつ、それがおためごかしにすぎないかのごとく、今回のくだりで、香奈子とまったく連絡がつかなくなってしまった西崎は、とたんに〈いやな予感が湧き上がった。棚にあった花瓶がいつの間にかなくなっているとか、見慣れた建物が取り壊されて空き地になっているとか、毎朝庭にやってきた小鳥が来なくなるとか、それまでずっと同じ場所にあった馴染み深いものがなくなっているのに気づく、そんな感じだった〉と、あまりにも漠然としていながら、しかし確実な不安を抱えることになるのである。そしておそらくは、そうした不安のありようこそが、他の誰かに働きかける主体を潜在化、他の誰かから働きかけられる主体の顕在化、を担う。かつて村上龍は、『音楽の海岸』という作品で、病床のとある人物にこう言わせた。「誰が何と言っても生きていく希望っていうのは、他の誰かへの働きかけと、その誰かからの反応だからね。他の誰かからの自分への働きかけと、自分の反応じゃ希望にならないから、妄想が起きるわけでしょう?」。以前にも触れたけれど、完全な別人であるにもかかわらず、その『音楽の海岸』の主人公の名前は、『心はあなたのもとに』の主人公の名前と等しく、ケンジという。とある人物は病床から彼に「ケンジは何も気にする必要がない。生きていく希望がないってことは、他の人の希望も奪うことはできないってことだからね。わたしが言っているのは、誰かの子供を殺すとか、母親が死ぬとかそんなこの国のテレビドラマみたいなことじゃないのよ」と語りかける。さて、大切な人間がやがて病気で死ぬ、こうした『心はあなたのもとに』の大筋は、それこそ、この国のテレビ・ドラマ、メロドラマみたいであり、テレビ・ドラマや実写映画の原作になりそうなケータイ小説に近しくもある。もしもそのなかで展開されているのが、他の誰かから働きかけられる主体の顕在化、だとすれば、フィクションの形式とテーマを考えるうえで見出せるものがある、という気がしてくる。近未来SF的なモチーフもしくは想像力を持った『歌うクジラ』との、語り口、プロットの大きな相違を含めて。だが、いやもちろんこれは現時点での推測にほかならず、『心はあなたのもとに』の物語が完結したとき、すべては、他の誰かから働きかけられる主体の顕在化、それを認めたのちでの抵抗、あるいはふたたび他の誰かに働きかける主体の顕在化、へと逆転する場合も考えうる(ややこしいな。いずれもうすこし丁寧にまとめたい)。

 第三十一回について→こちら
 第二十七回について→こちら
 第十九回について→こちら
 第十七回について→こちら
 第十一回について→こちら
 第七回について→こちら

・その他村上龍に関する文章
 『半島を出よ』について→こちら
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2010年02月06日
 DEATH BY MISADVENTURE.jpg

 男気というのは、しばしばその不器用さによって評価を得られたりするものだが、同様の観点から、スウェーデン出身の4人組、PSYCHOPUNCHのサウンドも認められたい。要するに、おれたちにはこれしかねえもんな、ああ、おれたちがやりたいのはこれだけだからよお、と開き直らんばかりの図太さで、ひたすら、ばっさり、ギミックのうっちゃられたロックン・ロールを、やり続けているのだった。それはもちろん、この、昨年(09年)リリースされた8作目のフル・アルバム『DEATH BY MISADVENTURE』においても、いっさい変わりない。変わっているわけがねえのであって、そうした、ぶれ、のなさが、バンドに対する信頼の度合いへと通じているのである。いやたしかに、楽曲のヴァリエーションは必ずしも豊富ではなく、一本調子に思えるところがあるものの、持ち前のガッツをがしがし伝えてくる演奏、そしてメリハリのよくきいた構成、力強いコーラスにはフックがちゃんと備わっており、倦んでしまうことがない。ギターのメロディアスなフレーズには、きらきら、ときめくものがある。アップ・テンポとミドル・テンポの、ちょうど中間ぐらいのスピードに、低音の重みと勢いをたくわえてゆくスタイルは、もはや立派に確立された個性だろう。一時期ほどではないにしても、黄昏れ、哀愁を帯び、どこかウェットな音色の響き渡る局面もすくなくはない。が、しかし、90年代のポップ・パンクふうなリフに引っぱられてゆく4曲目「LOST HIGHWAY」の、キャッチーで明るいニュアンスなどは、もしかすれば新機軸といえるし、ある種のハイライトたりえている反面、ヴォーカルとギターとドラムがピッチのはやいアンサンブルをつくる8曲目「MAYBE I'LL STAY」の、メロウでいてソリッドに攻め入ってくるテンションときたら、PSYCHOPUNCHというカラーの際だち、マキシマムであるような魅力が、存分に引き出されている。ずばりその、芸の細かさをすべてエモーショナルな馬力の底上げに変えてしまう点が、最高に好きである。

 『MOONLIGHT CITY』について→こちら 
 『KAMIKAZE LOVE REDUCER』について→こちら
 『SMASHED ON ARRIVAL』について→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2010年02月04日
 べるぜバブ  4 (ジャンプコミックス)

 『週刊文春』に連載されている「マンガホニャララ」の1月14日号分で、ブルボン小林が、藤巻忠俊の『黒子のバスケ』と田村隆平の『べるぜバブ』を例に、『週刊少年ジャンプ』の主人公の、80年代と今日の傾向を比べ、〈八〇年代、ジャンプ漫画の主人公の多くには共通点があった。「女の子に甘く」「明るいお調子者」だが「やるときゃやる」〉のだったけれども〈『黒子のバスケ』の黒子は、影が薄いという以前に、かつての「主人公らしさ」が廃されている〉のは〈まず「女子に甘い」どころか、女子に興味がない(略)冷静で「お調子者」でもない(略)「やるときゃやる」だけは発揮されるが、「やるときゃ」という軽みはない〉からのなのであって、同様に〈『べるぜバブ』の喧嘩の強い主人公男鹿も女子に興味を示さない。子育てなんかしている〉のを〈これはあれだ、安直な見立てだが、草食系男子だ〉としながら、そのかわり〈どちらも脇役たちが等分に個性を発揮している〉のは〈少年漫画という枠組みは、とっくに屹立した一人の主人公を不要としていた〉からなのではないか、と書いている。さらにブルボンは、同連載の2月11日号分では、〈前々回紹介した『べるぜバブ』の「魔王」には、方便と、今日的な(つまり勤勉ではない)悪の両面がみられる〉のを、一つの特徴に挙げている。そこでいわれている〈方便としての悪〉とは、真の目的にプライオリティが発揮されるのではなくて、ギャグに転びうるもの、すなわち物語上で〈異物を日常世界に定住させるためと、価値観のズレで笑いを獲るために便利なやり方〉を指し、〈今日的な(つまり勤勉ではない)悪〉とは、かつての映画『007』シリーズや特撮『仮面ライダー』シリーズの敵役組織みたいに、モチベーションのレベルで〈真面目さと威勢のよさ〉を持っているのではなく、それこそ〈「エヴァンゲリオン」あたりの表現から、地球の滅亡を揺るがすのは「元気な悪役」から「人の内面」的なことになってきた〉のに等しく、『べるぜバブ』の場合、魔王が〈人類滅亡させんとする理由は「人間うざくね?」という高校生みたいな一言だけ〉なのである。

 と、じつはどちらの文章も『べるぜバブ』が話の中心に置かれているわけではないのだけれど、作品のユーモア、チャーミングさが、ときにシリアスな傾きとなって見えることの理由を、とてもわかりやすいかたちで示そうとしているように思う。したがって、それを参考にしながら、自分の意見を加えさせてもらうのであれば、『べるぜバブ』における主人公、男鹿のポジションには、一種の時代性がうかがえるような、要するに、確定的な所与ではなく、あくまでも暫定的でしかない条件に、少年として表象される主体は、いかにサーブすべきか、という問題が、おそらくは自然と含まされている。だいたい、この4巻で、石矢魔高校で最強と呼ばれる東条との対決を通じ、以前にも増して明確になっているのは、男鹿に所有されている特権(あるいは使命と言い換えてもよい)は、さしあたりのものにほかならず、必ずしも絶対的ではないことだろう。そしてそれは、大魔王の息子であるベル坊の、育ての親という名目をとり、つねに他人へと移譲されうる可能性となってあらわれているのだ。ましてや、男鹿自身、そうした特権を積極的な態度で望んではいない以上、彼を主人公たらしめている優位の、揺らぎは大きい。もちろん、マンガをもう一段階べつの位相から考えるとき、にもかかわらず男鹿のもとに主人公である資格の帰属し続けることが、いくつかの状況を動かし、物語のダイナミクスとなっているのは、まぎれもない事実なのだった、が。いずれにせよ、男鹿と東条とがやり合わなければならないのは、表向き、お互いのプライドを懸けざるをえない必然であるふうなのだけれど、じっさいは、当人たちが自分の欲望に素直であるというより、外的な要因に押されている部分がつよいところに、『べるぜバブ』の本質が、今どきこんな設定でありながらアクチュアルに読まれているゆえんが、見え隠れしている。

 1巻について→こちら
2010年02月02日
 ななじ眺の『コイバナ! 恋せよ花火』は、恋愛に特化した学園生活を描くという意味では、前作にあたる『パフェちっく!』と大きく様式を違えていない(すなわちラブコメである)ものの、その触感が著しく異なっているのは、もちろん恋愛を中心にしながら、しかしそれ以外の部分、も、射程に入っているような意識を作中人物たちが持たされているからであって、基本的に、小さな世界の狭いコミュニケーションを前提にしているにもかかわらず、物語の奥行きは必ずしも薄っぺらくないし、いや、たとえ薄っぺらかったとしても、その内実には十分な手応えが備わっている。ひじょうに単純化していえば、ヒロインの置かれた環境において、恋愛対象となる異性ばかりではなく、ワキの人びとの性格や言動、友情までもが、ストーリーの構成にしっかり貢献する作品づくりがなされているので、そう感じられるのだったが、テーマのレベルで見たとしても、ある特定の恋愛条件にのみ焦点を絞るのではなしに、そこからより広い範囲で豊かなヴァリエーション、グラデーションをなしてゆく恋愛の感情を汲むことに成功しているのである。たしかに主軸は花火と誓の接近だろう。それを中心にしておおよそは展開しているといってよい。だが、花火や誓の友人たち、厚美、美衣、しのっちょ、尾山、マサト、佐木の、すれ違い、片想い、両想いが、どうして恋愛は困難なのか、あるいは幸福をもたらしてくれるのか、人数の分だけ例証するかたちになっているのに加え、メインのパートへと効果的に連結させられているため、マンガ総体の説得力が深まっている。たとえば、この7巻では、しのっちょとマサトのカップルに訪れた危機が目立っており、まあ、あてられている切り口自体は類型的ではあるのだけれど、横恋慕や三角関係の深刻さに、周囲への影響力をからめて、誰にとっても必ずや他人事というわけではない、だからこそ共感しうるところにまで内容を持っていっている。そうして、しのっちょの内面を知った花火の〈ふと思った もしも世界に私と宇野誓しかいなかったら もっと楽でいられたのかな 単純でいるには 大切なものがちょっと多すぎる〉というモノローグは、小さな世界の狭いコミュニケーションにも、悩み、傷を負わされるだけの価値が認められることを、逆説的に、示す。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『パフェちっく!』
  22巻について→こちら
  19巻について→こちら
  14巻について→こちら
2010年02月01日
 チェリーなぼくら 2 (フラワーコミックス)

 まあたしかに〈あぁもう恋愛ってばめんどくさ〉いのであって、すべてが新鮮であればあるほど悩みは尽きぬし、いっそのこと、しないで済むならしないほうがよいのかもしれないのだったが、しかし、ときどき自分でも知らずのうちにしてしまっているのが恋愛なのであって、しないでいたらしないでいたでついついそれに憧れたりもしてしまうから、弱る、のだった。こうした心情を、八寿子の『チェリーなぼくら』は、少女マンガに類型的なシチュエーションを用い、とてもよく描いていたと思う。1巻の段階では、オムニバスの読み切りに近しい性格の内容だったけれども、この2巻では、一学年違いである千夏と新平のカップルに焦点をあて、二人の進展をじっくり掘り下げている。表向きは盛っているように見られながらも、じつは双方ともに高校デビュー型の初心なカップルが、どうしたら自分の気持ちと相手の気持ちに確信を持てるのか、これを、いずれセックス(性交)することを前提とした関係性のなかに、ユーモア交じり、ふっくら閉じ込めているのである。あるいはむしろ、作中人物の意識において、セックスへの関心をまったく抜きにしてしまったなら、もっとずっとピュアラブルに受け取られたはずのストーリーに、あえて処女や童貞であることの負い目、強調線を入れることで、両想いのはじめの、ほんとうに微妙な距離感を丁寧にすくいとっているところが、最大の魅力となっている。テーマや題材とは裏腹に、決してスキャンダラスな作品ではない。

 1巻について→こちら

・その他八寿子に関する文章
 『真夜中エクスプレス』について→こちら
2010年01月31日
 アルコ、やればできるじゃないか、アルコ。個人的には、大味なギャグでマンガをやられるより、こういうリリシズムの淡いストーリーに浸れるタッチのほうを、この作者には求めているので、連作仕立てとなる『終電車』にはひさびさ、そうそうこれ、これが読みたかったんだ、という感想を持つ。四つの編からなるオムニバスの作品集で、登場人物に多少の重なりが見られるのだが、あくまでも一話完結型の、その、ワン・エピソードから堪えきれずにあふれてくる情緒が、よい、好きなのである。

 たしかに、物語のつくりとして、特筆すべき点は少ないだろう。たとえば、1話目の内容は、周囲に流され、日常の惰性に倦んだ女子高生が、ふとしたきっかけを経、普段とは違う風景に足をおろす、というものであって、2話目は、かつての恋人を忘れられずにいる大学生の男が、追憶に苦しみ、悩み、ようやくそれを受け入れるまで、3話目は、決して恵まれてはいない容姿にコンプレックスを抱いたヒロインが、やがて諦めを乗り越え、片想いしている同級生に告白しよう、といったもの、4話目は、『ヤスコとケンジ』のスピンオフ的な設定で、上辺を取り繕い、何もかもうまくいけていると信じていた女性の編集者が、挫折、あらたな世界の認識を得、ほんとうの自分を見つめ直す、このようにいずれも各人に訪れる転機、分岐が、一日と一日と(すなわち、さっき、と、これから、と)を跨いで走り、時間的にも空間的にも遠くて近い場所に運んでくれる終電車の、そのイメージに喩えられているのだけれども、端的に述べるなら、どの篇も、ある程度に発達した自意識を題材化したフィクションにあって、ベーシックかつコンパクトな筋書きのヴァリエーションにとどまる。だがしかし、それがひたすらエモーショナルな余韻を連れてくるところに、アルコならではの叙情を見られたい。

 とくに作風、本質に相応しい面が顕著となっているのは、2話目と3話目である。2話目の、主人公の、いっけんストーカーの執着として仄めかされていた六年間の片想いが、じつはべつの理由によっていたという、こうした真相にピュアラブルな悲愴が預けられているのだが、はっきりといえば、その転調の仕方はかなり雑然としていて、ちょうど昔のカセット・テープが仕様上A面からB面に切り替わらなければならないのに似た荒っぽさがある。これはふつう汚点になりかねない。にもかかわらず、大きく割られたコマ、人物の身振りと素振りを前面にしたカット、振り当てられるセリフとモノローグが、印象のレベルで、寂しくひらいた心の空白をありありと述べる、かのようなテンポをつくり出しており、ラストのシーン、せつない希望を浮かび上がらせる。3話目に関しては、ほとんどギャグの作法で描かれているといってよい。ゴリラと罵られるほど、極度にデフォルメされた主人公の言動は、たいへん力強く、逞しい。要は、その、裏側、彼女にも十代らしいデリケートな内面のあることが本題になるのだけれども、展開は一本調子であって、凝ったドラマが用意されているわけではない。しかるに、無造作に概容を引っぱっていく手つきが、楽観とは異なるポジティヴなフィーリングを、苦慮の対極へと配置し、前者が後者を押しやり、後退させる励ましに、ささやかであることが最大限であるような詩情が託されていて、そこに、は、っとさせられる。

 たしかに、ストーリーやメッセージはありきたりではあるものの、思い切りのよいダイナミクスが、一篇一篇の好感触に通じている。

・その他アルコに関する文章
 『超立!! 桃の木高校』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら 
 『ヤスコとケンジ』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『Loveletter from…』について→こちら
 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
2010年01月29日
 作風、物語のかっこう、もちろん絵柄も含めて、これがあの『B.O.D.Y. 』と同じマンガ家の手によるものかよ、と、少々戸惑わされるところのあった美森青の『シーイズマイン』だが、しかし、それが良いほうに転がったまま、この2巻で完結を迎える最後の最後までずうっと、楽しんで読める内容となった。作者がここで果たしているのは、極端にいうのであれば、ピュアであるあまり無自覚に小悪魔の素振りを見せる少女の内面をいかにして肯定的に描くか、というトライであって、それが結果的に、いまだ初心でいる二人の少年を、友情のなかに他愛のない葛藤を生じさせながら、振り回しているのだと思う。いつだって奔放な美礼の態度を責めるハルと遼太郎に、遼太郎の姉が〈なんで美礼ちゃんは悩んでいないって決めつけてんの? あんた達からしたら的はずれな言動でも 美礼ちゃんなりに考えて 真剣に答えようとした結果かもしんないじゃん まぁ変わった子なのは事実だし いろいろ納得いかないことがあんのもわかるけど それを全部「いいかげん」とか「やりたい放題」で片付けたら 美礼ちゃんがかわいそうだよ〉といっている言葉が印象的である。しばしば恋愛は、利己的な満足のみを要請するのであり、他人にも自分と同じように、たとえそれが薄っぺらだとしても、内面と呼ぶに等しいものが備わっているのだということを忘れさせる。これに気づかされることが、もちろん作中人物たちが若く純心だからというのもあるだろう、前向き、背中を押す力となりえているので、さわやかな結末を実らせる。

 1巻について→こちら 

・その他美森青に関する文章
 『B.O.D.Y.』5巻について→こちら
2010年01月27日
 何はともあれ、前巻のときに応募した「キャラクターブック バカ本」が、つい先日、手元に届いたのが、うれしい。薄っぺらい小冊子だけれども、登場人物の紹介とオマケのマンガに、はちきれんばかりのギャグがいっぱいで、あはは、と笑う。結局のところ、これなんだよなあ、佐藤ざくりの『おバカちゃん、恋語りき』の良さは、と思う。当然、この4巻でも、そうした魅力、要するに、はちゃめちゃな連中の真剣さが空回りしながら喜劇を装ってしまうようなラヴ・ロマンスは、存分に堪能できるだろう。

 だいたいさあ、ヒロインの〈ちょりーす☆☆☆ みなたんのアイドル 園田音色♪でっす(笑) 16歳でお年頃なもんで 恋がしたいわ! ラブりたいわ! と熱い想いを胸に西日本から東日本へ上陸(転校)してきたわけなんですけど…… 一目惚れした王子には だまされーの 野生児には告られーの つきあいーの 再び王子に告られーの…………って あらあらあら? なんだかんだいってラブ街道まっしぐらでないの? ラブコメってんじゃないの?〉という頭の沸いたモノローグではじまったエピソードが、大阪の不良、ヤンキーとの死闘編に突入していくんだからな。というか、である。音色、西日本最強の女だとは聞いていたが、まさか広島の出身だったとはね。それが大阪のチームまでのしちゃって、武勇を轟かせていたんなら、まともな恋愛は望めまい。ふつうの女子高生に憧れて、東日本に上陸でも転校でもすらあ。

 そうして京都、大阪への修学旅行で訪れた先で、かつて自分が打倒した東大阪鬼瓦連合に見つけられ、音色いわく王子である相澤深をさらわれてしまい、音色いわく野生児の栄山トキオをともなって、敵方のアジトに乗り込んでゆくことになるのだった。以上が、この巻のくだりになるわけだが、もちろん、こうしたヤンキー・マンガのオマージュもしくはパロディであるようなプロットが、本質的に見られるべき点なのではない。その最中にあって、深やトキオとの三角関係における音色のポジションが、ありありとしてき、それに従って、気持ちの所在もはっきりしなければならない、と、彼女自身に要請されていることが、物語としての機能を果たしているのだ。が、そこで成立したエモーションが、照れ隠しというには度を過ぎ、どたばたのコメディに回収されながら、ふたたび行方不明となってしまうところに、『おバカちゃん、恋語りき』ならではの楽しさがある。

 と、ここでいささかまじな話になるのだけれども、素敵な恋愛を得るため、女らしくありたいと願っているのに反し、男勝りの鉄腕ぶりを発揮すればするほど、音色の個性が際立ち、他にはないチャーミングさを備えさせていることは、作品の、重要な指針となっている。これは要するに、その人のコアであるような部分をどう描き、さらにはそれに対する周囲の反応、評価をどう描くか、という技法上の問題にかかっているのであって、たくさんのギャグが溢れているにもかかわらず、たびたび、真剣な顔つきのやりとり、ラヴ・ロマンスのときめきに、はっとさせられるのは、そういう勘所の押さえられた表現が成功しているからにほかならない。

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 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『otona・pink』2巻について→こちら
2010年01月26日
 足利アナーキー 2 (ヤングチャンピオンコミックス)

 以前にも記したとおり、近年、ヤンキー・マンガ(より広くいうならば不良マンガ)の系は、その総数を伸ばし、以前にも増してジャンルに勢いをつけつつあるわけだが、2010年代のヤンキー・マンガについて、さしあたり目を凝らしておきたいのは、やはり、この『足利アナーキー』の吉沢潤一や『クローバー』の平川哲弘、『ランチキ』の奥嶋ひろまさ、『A-BOUT!』の市川マサといった若い世代の台頭になるだろう。彼らの大半が1980年以降の生まれであることはつまり、70年代、80年代当時に育まれていた不良文化の土壌を正しく共有していないことを意味する。言い換えるとしたら、ノスタルジックなリアリティ、文脈では必ずしも括れない。作風にしても一世代上との違いを見せはじめているだろう。このジャンルにおける70年代生まれの作家の多くが、高橋ヒロシやハロルド作石、井上雄彦などのタッチをベースに、そうした直接の影響元や参照先を隠しきれないのに対し、もうワン・クッションなりツー・クッションなりの要素がミックスされていて、一概には誰彼のフォロワーとは判じられないところにきていると思われるのだ。必然、そのことは作品を構成するロジックや物語に内包される倫理にも及んでいるといってよい。詳しくはべつの機会に譲るけれども、端的に見て、暴力の使い途一つとってもひじょうにカジュアルな感性によっており、刹那的なアトラクションが表現の優位に立っている印象を受ける。もちろん、それは作者の若さに負っているのかもしれないし、結果的に良いとか悪いの問題はさておき、たしかな変移(変異)が、わずかでしかないとしても、あらわれている点は気に留めておかれたい、というのも以前に記したことがあったな。

 何はともあれ、『足利アナーキー』の2巻だが、やはり、刹那的なアトラクションを満載にしながら、ローを知らないテンションでがんがん攻めているところが、このマンガの本領にほかならないよね。まじとギャグの境目に引っ張られたロープを、勢い任せ、ぎりぎりのステップで渡り、どちらに転がり落ちても損なわれてしまいそうな破天荒さ、無闇やたらにアップするヴォルテージにこそ、最大の魅力を覚えるのだった。たとえば、90年代に『谷仮面』というヤンキー・マンガのオルタナティヴであるような位置からキャリアをスタートさせた柴田ヨクサルの作品がそうであるように、だ(もしかしたら吉沢にとって柴田は参考例の一つなのかもしれない)。じっさい、作中で展開されているケンカや格闘技、社会に関する蘊蓄が、どれだけまじであろうがギャグであろうが、『足利アナーキー』の本質を違えることはないのであって、それこそ、ここで主人公と教師が交わしている説教やイズム語りにしたって、たいていの思いなしなんてこれぐらい益体のないものでしょう、程度のリアリティに捉まえておけばよいのだし、いやむしろ、〈オレはよォ…日本一のギャングになるのが…夢なんだ〉という宣誓は、いっそ清々しく、そうした夢を叶えるためにヴァイオレンスが必要不可欠である以上、暴力がふるわれなければならないというのは、理に適ってさえいる。すくなくとも、作品を構成するロジックや物語に内包される倫理に破綻をきたさない、だろう。当然、ストーリーが進んでいけば、テーマとして総括できる部分も浮き彫りになってくる違いない(例を挙げるなら、作中で高校卒業が十代のラストだと考えられていることはモラトリアムの定義に深く関わるポイントだ)。が、しかし、今はこれでいい、このレックレスなグルーヴが心地好い、と言わざるをえない。

 足利市の、不良のシーンでその名を知られた高校生たち、ハルキ、カザマサ、タカシ、ヒカルに、「シルバーラット」の元キングであるテルを加えた五人は、自覚的な若気の至りで、足利市のナンバー1ギャングに、ひいては栃木一のギャングに、ひいては日本一のギャングになるべく、「ファックジパング」を結成、他のギャング集団はもとより、筋金入りのヤクザすらも向こうに回し、頂点を目指そうとする。いったその自信はどこからくるのか。たんなる恥知らず。バカなのか。調子よく余裕をかます彼らは、現在、栃木県のトップに立つ「ギルティージャンク」に宣戦布告、でぶ三人兄弟のキング、そして潰し屋のジェットと事を構えることになるのだった。はたしてどうなることやら、という次第なのだが、いずれにせよ、名前もふざけた「ファックジパング」の猛追、猛追、猛追には、生き生き、旬として認められるだけのカタルシスが、十分、ある。

 1巻について→こちら
 1話目について→こちら

・その他吉沢潤一に関する文章
 「ボーイミーツガール」について→こちら
2010年01月24日
 女王暗殺 (講談社ノベルス)

「そういう世界と自己をダイレクトに接続するような小説を書けば売れる。読者はみな、自分は特別であるという幻想に飢えているから。でもあなたはそういう小説は書けない。確かなことは、あなたがそういう小説を書けない言い訳に、自分が特別ではないと主張しているということです。そうでしょ? 自分が特別であるという物語は容認出来ない、でも作者の自分は特別としか言いようがない。こんな矛盾はありません。売れる小説を書いたら、あなたはどんどん特別になってしまう。あなたはそれを怖れた。自分の溢れんばかりの才能を怖れたんです」(P318)

 これまでにもさんざん繰り返しいってきたことだが、やはり浦賀和宏だけは別格だな。おそらくはこの作家のみが、90年代や00年代というディケイドの区切りに関係なく、そして2010年代の現在から先も、自意識の地獄の向こうにいっさいの救済の拒まれた驚天動地の物語を容赦なく創造し続けることだろう。すくなくとも、いや、まいった。あまりのインパクトに、『女王暗殺』を読み終えた瞬間、どっと重たい息をつく。率直に感想を述べようとすれば、うあああああああ、であり、があああああああ、であり、ぐわああああああ、であって、ほんとうはもうそれ以上の言葉が見つからない。

 要約のひじょうに困難な小説である。作品の性格上、たった一つでもネタを漏らしてしまったなら、すべての意味を損なってしまう可能性があるためなのだけれども、あえて試みるとすれば、世間知らずで童貞の坊っちゃん二人が、それぞれ、奇怪な殺人事件に巻き込まれながら、謎めいた女性にたぶらかされながら、やがてニアミスしながら、与野党の政権争いに深く関与していき、日本の将来をその手に握らされてしまう、といった具合になるのだが、もちろん、ぜんぜんそんな筋ではない。いや、まったくの嘘を書いているつもりではないものの、むしろ、これを真に受けてしまっては困るほど、多重の仕掛けが満載されているのだった。

 作中人物の一人が「クリストファー・ボグラーの『神話の法則』という本に、こんなことが書いてあった。物語はすべからくオーディナリーワールドから、スペシャルワールドへの移行を描くものだと。映画でも漫画でもアニメでも小説でも、読者や観客がいる世界がオーディナリーワールドで、物語の中の世界がスペシャルワールドだ。それを象徴する映画にヒッチコックの『鳥』がある(略)『鳥』の構成は、観客と映画との関係性のメタファーになっている(略)」(P179)と述べているのに忠実なとおり、『女王暗殺』もまた、「オーディナリーワールド」から「インターミッション」を経て「スペシャルワールド」への移行を捉まえていくのだが、結果として〈読者や観客〉が誰も必ずや物語の主人公に相応しく特別ではないことを曝いてしまう。

 帯のコメントに評論家の千街晶之が〈浦賀が描き続けるのは世界のありようへの懐疑なのだ〉と寄せているが、じっさい、ラストのセンテンスに到達するまでミスリードにミスリードにミスリードの束で構成されているような物語は、この世界に信じるに値するものは何もない、という真理が果たして誤りなく真であるとき、その真理自体がすでに疑われなければならない、こうしたパラドックスを丸ごと飲み込んでいるのであって、あまりにも頼りない足場がついに、ぼろぼろと崩れ去ってゆくクライマックスの、なんて残酷きわまりないことかよ。しかし、読み手がいくらそれを拒否しようとも、作中人物たちは否応なしにそれを受け入れざるをえない運命にあるので、悲痛さは増すばかり。難を逃れ、かろうじて生き残った人間より、主観的な愛情や正義をひたすら良しとし、犬死にしていった人間のほうが、よっぽど幸福に思われるのだから、たまらない。

 ところで『女王暗殺』には、浦賀の初期作においてキーの役割をつとめた安藤直樹の名が見つけられる。これをもって「安藤直樹シリーズ」の最新作と位置づけられるのだけれども、それ以上に前作である『萩原重化学工業連続殺人事件』の続編として受け取りたい部分が大きい。じじつ、カヴァーの折り返しには「萩原重化学工業シリーズ」とある。たしかに、本作のインパクトは『萩原重化学工業連続殺人事件』に目を通していなくとも、決して薄まるものではないだろう。しかし、両者のリンクがじょじょに明かされていったさい、ここに展開されている世界像は、さらに壮絶な歪みを見せはじめる。全貌のようとして知れない現実の、底の底を軽くさらって出てきたかのような、歪み、を、である。

・その他浦賀和宏に関する文章
 『萩原重化学工業連続殺人事件』について→こちら
 『生まれ来る子供たちのために』について→こちら
 『地球人類最後の事件』について→こちら
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら
 「三大欲求」について→こちら
 「リゲル」について→こちら
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