ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2017年04月28日
 EVIL〜光と影のタペストリー〜 1巻 EVIL〜光と影のタペストリー〜 2巻 EVIL〜光と影のタペストリー〜 3巻

 控えめにいって、上作である。作品のデザインやショックのレベルで見るなら、いくらか古くさく感じられるところもある。が、新しいや古いの基準で判断されるべきマンガではないだろうとも思う。塀内夏子のキャリアにおいては『勝利の朝』や『イカロスの山』『明日のない空』等、サスペンスの色が付いているものが少なくはないけれど、この『EVIL〜光と影のタペストリー〜』では、それが全面に出、非常に血みどろのドラマを作るに至っている。血みどろとは、つまり、生き死にの凄惨さが直接描かれているということであって、その生きることと死ぬことの熾烈な対立のなかに心揺さぶられるものが宿されているのだ。

 三人の若者の友情の物語だといえる。あるいは一組の兄弟の愛情の物語だといえる。一方で、とある母子の憎悪の物語だともいえる。内海アツトと長谷みずきは、M高校の三年生、二人しかいない美術部の部員であり、M高校のアトリエを借りにきたK高校の九條エイジと出会い、じょじょに親交を深めていくこととなる。アツトは才能を高く評価されていたが、それ以上にエイジはすぐれたデッサンの持ち主であった。エイジがM高校のアトリエへ通い出したのと前後し、猟奇的な連続殺人が耳目を引きはじめていた。殺害した人間の首を切断するというのだ。事件に興味を抱き、警察が公開した防犯カメラの画像を見たみずきは、犯人の輪郭がエイジのものに似ていると気づく。そして、エイジは、十四年ぶりに再会した兄のレイジこそが犯人なのではないかと思うのだった。犯人探しのミステリが主題ではないので、実際に兄弟が事件と関係しているのかどうかは早い段階で割れるのだけれど、重要なのは、エイジとレイジに容疑がかけられる過程で、二人の驚くべき幼少期が明かされる点であろう。

 良心を一切持たない若い母親から兄弟は虐待を受けていた。ネグレクトを通じ、いかなる影が彼らにもたらされたのか。その影の大きさが次第に浮かび上がってくる。母親譲りの美形がエイジとレイジの特徴の一つとなっているのと同様、幼少期の過酷な体験が二人の精神に周囲には伺え知れない歪みを植え付けていたのだ。兄弟と母親の姿に反映されているのは、生まれと育ち(遺伝と環境)の呪いにほかならない。『EVIL〜光と影のタペストリー〜』において、呪いに敗北していった者は不幸な最期と一致せざるをえない。加山という同名の(ルックスも近い)女性カウンセラーが登場することもあって、『EVIL〜光と影のタペストリー〜』には『明日のない空』の引き写しに思えるような部分がある。ただし、『明日のない空』は、死に飛び込んでしまいかねない人間を引き戻そうとする力の強さが物語に明るさを灯していたけれど、『EVIL〜光と影のタペストリー〜』には、死に飛び込んでしまいかねない人間の凄みが支配的であり、それに引きずられ、物語の色合いに暗さが増している。

 後半、事件の真相を掘り下げるにあたり、作中人物の「語り」によって占められる割合が多くなってしまうが、前半における美術部としての活動を中心にしながら「絵」の持ちえる可能性が直に描かれた箇所には、作者の技巧的なスタンスがよく現れていると感じられる。アツト、みずき、エイジの三人の関係と青春とが、共同制作の形を通じ、輝かしい印象を放つ。美しい場面でもある。しかして、それは悲痛なトーンの作品に喜びと似た装飾を加えるものとなっている。ラスト・シーンに注意されたい。残酷な出来事を経ようとも、アツトとエイジが「絵」を捨てずにいたことが感動的なのではない。かつて「絵」を通じて見た希望を忘れずにいたことが感動的なのである。

 どうして凶悪な犯罪が起こったのか。作中人物たちの口を借り、動機や理由の答え合わせが行われていく。だが、必ずしも真相を言い当ててはいないかもしれない。深奥に置かれた謎は、謎のまま、すなわち、一体何が人間を善と悪とに隔てるのかという問いは解消されず、読者に共有されるためのテーマとして残される。

・その他塀内夏子に関する文章
 『明日のない空』
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 『イカロスの山』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『雲の上のドラゴン なつこの漫画入門』について→こちら
2017年04月20日
 ACMA:GAME(22) (週刊少年マガジンコミックス)

 00年代の中盤から2010年代の初頭まで連載された『未来日記』(えすのサカエ)をリアル・タイムで読みながら、いよいよフィクションにおけるデス・ゲームのムーヴメントも頭打ちかな、と予感させられたのは、理不尽なゲームに強制参加させられてもゲーム・マスター=神になってしまえば全部ひっくり返せるじゃん式の作劇に、さすがに度を越えているのでは、と思ったためであった。が、そうした作劇の方が時代にフィットしていたようで、2010年代もゲーム・マスター指向型のものが次々描かれてきた。近年の少年誌を見ても、『神さまの言うとおり』シリーズ(金城宗幸・藤村緋二)や『DEATH NOTE』のコンビによる『プラチナエンド』(大場つぐみ・小畑健)などが、おそらくはゲーム・マスター指向型に入れられる。個人的に、ゲーム・マスター指向型の作劇に対し、あまり好意を持たない。もちろん、理不尽なゲームに絶望せず、いかにサヴァイヴァルするか、単なる残酷ショーとサスペンスに終わって欲しくはないのだけれど、超異常事態に抵抗すること、あるいは人間が無力ではないことの証明を念頭に置いた際、疑問を抱かざるをえないケースが少なくはないからである。

 超異常事態に巻き込まれた人間たちのコン・ゲームであり、デス・ゲームのヴァリエーションともいえるであろう『ACMA:GAME』(メーブ・恵広史)が、22巻で完結した。正直な話、はっとさせられるまでのインパクトを備えてはいなかったかもしれないが、最後まで目が離せなかった作品の一つである。悪魔と呼ばれる存在が具体的に描かれ、人類を超越したファンタジーの領域が明示的、つまりは作中で何が起こっても不思議ではなかったため、当初は、これもゲーム・マスター指向型なのかな、と見ていたのだけれど、違った。むしろ、ゲーム・マスター=神の立場になろうとする者があることを拒否し、あくまでもプレイヤー=人間の立場にとどまろうとすることのなかに、希望を覗かせていたような気がする。主人公である織田照朝と最初のライヴァルであるマルコ・ベルモンドの対決を含めた1巻の段階で、父子の関係が重要な柱となっていることは明らかであった。それが最後の対決に大きな意味合いと物語の展開に一貫性とを与えている。父親の果たせなかった偉業を主人公が代理し、果たしてきたことが独善とは異なった種類の幸福と勝利とに繋がったのだ。

 まあ、高校生にして大財閥の会長、容姿端麗で頭脳も優秀という主人公のスペックは、トゥー・マッチだよね、ではある。しかし、思春期特有の正義感と理想主義とが様々な局面で生きてきたことを忘れてはならない。理知的で一癖も二癖もある登場人物が揃っていた点は、マンガの魅力を考える上で大きい。と同時に、主人公の正義感と理想主義とが彼らにもたらした影響のはっきりとした痕跡こそが、『ACMA:GAME』の核であろう。ギャングのマルコにはじまり、ついには悪魔のガドまでも落としてしまった照朝の人たらしの才能は、そのオーヴァーなスペックであるよりも、その強固な意志の発揮された結果として理解されるべきだと思う。
2017年04月13日
 Perish

 ギター・レスやベース・レスの2人組で活動しているバンドも珍しくはない昨今である。分厚い音響を重視したドゥームやスラッジの系統であってさえ、ぱっと思いつくかぎり、OMやBLACK COBRA、JUCIFER、BELL WITCH等々が挙げられる。それらのバンドが証明しているとおり、ドラムに1本のギターあるいは1本のベースだけ、という組み合わせであろうと、充分にヘヴィなサウンドを成立させることは可能なのだった。そして、同様の毛並みを、このノルウェーはオスロ出身のディオ、HYMNも持っている。少なくともファースト・フル・アルバムである『PERISH』においては、ギターとドラムのコンビネーションを通じ、ドゥームやスラッジの流れを汲んできたヘヴィなサウンドが成立させられているのだ。鈍重のリズムによってもたらされるドス黒いアトモスフィアとグルーヴのうねりに絶叫じみたヴォーカルが噛み合う。スタジオ音源である以上、実際にベースが入っていないのか断言できないものの、低音の主張は申し分ないし、トリオの編成とはまた異なったフレキシビリティが、インプロヴィゼーションにも似たスリルをダイナミズムのなかに引き込んでいる。いや、もちろん、方法論としては既に真新しくはない。が、厳選されたブレンドのような確かさがスタイルそのものの強度へと転化させられているのである。密室的な息苦しさや呪術的なまどろみよりもパワフルやエネルギッシュと喩えられる部分の大きなバンドかもしれない。3曲目の「SERPENT」で、細かく刻まれるギターのリフは、TOOLやNEUROSISのアプローチを彷彿させながら、ダイレクトであるほど研ぎ澄まされたカタルシスに結びついていく。

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2017年03月26日
 Bonehead

 括るとするなら、ヴィンテージなハード・ロックに近いというニュアンスでのストーナーになるだろうね。フィンランド出身のトリオ、RUCKWATERのEP『BONEHEAD』で聴かれるサウンドは、である。1曲目の「ONCE MORE WITH FEELING」など、縦ノリと修辞できるようなリズムとギターのリフとでぐいぐい押してくるナンバーには、アメリカのKYUSSやFU MANCHU、イギリスのORANGE GOBLIN、スウェーデンで活動しているスパイス(元SPIRITUAL BEGGARS)のキャリア、THE MUSHROOM RIVER BANDやBAND OF SPICEを引き合いに出せるものがある。が、しかし、それらに比べ、パンキッシュと見なせる疾走感がバンドの印象に強く付加してもいる。ワンツーワンツースリーフォーのカウントで幕を開ける4曲目の「SUPER FRUSTRATION」における勢いは、まるでガレージ・ロックかハードコアじゃないか。他方、6曲目の「FLAME DOESN'T CAST A SHADOW」では、まさかシューゲイザーからの影響でもあるのかよ。後期のRIDEを思わせるアーシーなアプローチと初期のRIDEを思わせる轟音のアプローチとが奇妙な同居を果たしており、その意外な展開に少しぎょっとさせられる。全6曲の内容からうかがえるのは、ああしたい、こうしたい、の衝動を自然体で出したことによる一種の多様性であろう。それがラフでありながらもタフにまとまったフォームを生み出しているのだ。もちろん、まとまりがあるのは、EPのサイズだからなのかもしれない。調べるかぎり、これまで数枚のEPをリリースしているが、フル・アルバムは存在しないみたいで、これがフル・アルバムのサイズになると、どうくるか。ライヴも良さそうだし、気になっている。

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2017年01月22日
 龍帥の翼 史記・留侯世家異伝(3) (講談社コミックス月刊マガジン)

 川原正敏といえば、『修羅の門』が有名だけれど、『修羅の刻』や『海皇紀』等、実は歴史ものや戦記ものの作者としてのキャリアが長い。その川原が『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』で扱っているのは、副題にある『史記』のなかでも「項羽と劉邦」の物語によって知られる箇所である。「項羽と劉邦」は、横山光輝や本宮ひろ志といったビッグ・ネームをはじめ、多くのマンガ家に描かれてきたが、『龍帥の翼』の場合、漢の劉邦に使えた軍師、張良を主人公とし、彼の復讐と立身出世とに重きを置くことで、独自性を導き出そうとしているのではないかと思う。もちろん、舞台は紀元前の中国だ。秦が中国を統一する際、祖国である韓を滅ぼされた張良は、仇である始皇帝の打倒を誓う。それが天命なのか。多勢に無勢で秦に挑み、敗走を繰り返しながらも生き延び、不思議な出会いを経、劉邦の軍に合流するのであった。独自性は、張良や劉邦が(膨大な人口においては、これぐらいの才能はまれではないであろうという意味で)平凡なカリスマとして描かれているあたりにも見られる。作中のレベルはもとより、読者のレベルから判断しても期待値の低い登場人物となっているのである。注意されたいのは、その平凡なカリスマの一人であるような張良が自分の来歴を捏造していくことで、歴史や物語のレベルでの役割を大きくしている点だ。要は、はったりや法螺の類が張良の知性をアピールする手段となっている。通俗的な張良のイメージは、張良自身に創作されたものであって、そこに作者の想像力の入り込む余地が生まれているという仕掛けでもある。はったりや法螺の類であろうと口コミなどの情報を操作し、自分を過大広告することは、インターネットが主流の社会でも頭が良いとされる人たちがやっていたりするので、まあ、現代に通じるところがありますね、といえる。正直な話、張良が現代にいてもおかしくはない平凡なカリスマみたいに描かれているため、彼の活躍からくる盛り上がりは弱い。これを補っているのは、黄石や窮奇といったファンタジーの世界からやってきたかのような登場人物の存在感であろう。本来なら張良の師として伝えられている人間を正体不明の少女にアレンジした黄石と鬼神じみた戦闘力の窮奇とを張良の強力な仲間に据えていることもまた『龍帥の翼』の独自性に挙げられる。いや、むしろ、黄石や窮奇の存在感こそが作品にとっての重要なフックになりえているのだけれど、しかし、主人公の位置を占めているのは、あくまでも張良にほかならない。黄石や窮奇の助けを得た張良が次第に頭角を現していく。やはり、これを抜きにしては成り立たないマンガになっているし、この3巻では、張良を軍師に加えた劉邦にも平凡なカリスマ以上の輝きが備わりはじめているのであった。
2017年01月05日
 Apex III

 年間ベストの類は単純に面倒がくさいから選んだりはしないのだけれど、フランスはボルドー出身のトリオ、MARS RED SKYのサード・アルバム『APEX III (PRAISE FOR THE BURNING SOUL) 』は、2016年によく聴いたものの一つである。実は『APEX III (PRAISE FOR THE BURNING SOUL) 』から遡って過去の音源も手に入れたのだが、ドゥーム・メタルのジャンルに分類されうるスローでヘヴィ、長尺の演奏を軸にしながら、シド・バレットやTHE BEATLESにも通じるようなポップさ、サイケデリックな要素の強く出ているところに、サウンドのおもしろさがあると思う。その音楽性は作品を追うごとに洗練されていき、『APEX III (PRAISE FOR THE BURNING SOUL) 』では、ひずんだ低音が特徴的である以上に、とろけそうなヴォーカルのメロディが一層魅力的になっているのであった。演奏のスタイルは異なれど、ベースが大きな役割を果たし、そこにポップであり、サイケデリックでもあるフィーリングが乗ってくるあたり、レス・クレイプールとショーン・レノンのTHE CLAYPOOL LENNON DELIRIUMを同じ棚に並べることも可能であろう。

 場合によったら、アメリカのDEAD MEADOWを引き合いに出せるかもしれないが、あそこまで籠もった音質でなければ、よりメロディアスな方向に開かれている。無論、エフェクターのたっぷりと効いた低音のうねり、ずっしりとしたリズムの重みを抜きにしては語れない。濃厚なグルーヴに足を取られ、あやしいその魔力にずぶずぶと引きずり込まれてしまうのである。『APEX III (PRAISE FOR THE BURNING SOUL) 』について述べていきたい。ヘヴィな演奏とは距離を置きつつ、同一のフレーズを繰り返すことで神秘的なムードを醸し出した1曲目の「(ALIEN GROUNDS)」からシームレスでタイトル・トラックとなる2曲目の「APEX 3」に突入し、サウンドがぐにゃりとゆがんだ瞬間(それは決して派手な展開ではないのに)異様な盛り上がりがある。低音を寄せては返す波のように持続させるベースの果たしている役割は大きい。そして、コーラスに差しかかり、いななくギター、とろけそうなヴォーカルのメロディ、これらを束ねる構成の見事さがMARS RED SKYならではの独特なイメージを織り上げているのだ。緊張感に溢れ、重たく軋んでいるのに、甘い。甘美というよりほかない。不可思議な陶酔に満たされる。

 ふおお。終盤のパートでドラムの連打にキャッチーなコーラスを重ねた3曲目の「THE WHINERY」が最高に好きである。6曲目の「FRIENDLY FIRE」におけるヴォーカルのメロディ、ギターとベースのコンビネーションには平伏させられる。ボーナス・トラックにあたる8曲目の「SHOT IN PROVIDENCE」までを含め、個々の楽曲の完成度は、非常に高い。さらには個々の楽曲からアルバムの全体像が、あるいはアルバムの全体像から個々の楽曲が設計されていったかのような統一性があり、スペーシーでいて、ドリーミーでいて、ポップ・ソングを思わせる一面を持ちながら、アシッドなロックのダイナミクスが漏れなく宿らされているのであった。ヘヴィという観点に絞るなら、ファースト・アルバムの『MARS RED SKY』(2011年)やセカンド・アルバムの『STRANDED IN ARCADIA』(2014年)にあった激しさが『APEX III (PRAISE FOR THE BURNING SOUL) 』には乏しいかもしれない。だが、洗練を経、マニアックなレベルにとどまらないアプローチとスケールとを手に入れていることは明白だ。

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2016年12月28日
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 この何年かでブラッケンドと修辞されるような(あるいは自らが修辞するような)ブラック・メタルを参照項の1つに置いているのかもしれないダークで木目の細かいサウンドのハードコア・バンドが多く出てきているが、フランスのリール出身、LOVE SEX MACHINEが標榜しているのは、ブラッケンド・ドゥーム、ブラッケンド・スラッジということである。音の触感は、メタリックであり、モダンであって、スローなテンポを基本にしているけれど、真性のドゥーム・メタルやスラッジ・メタルに比べ、攻撃的なダイナミズムが前に出ているあたりが特徴といえるだろう。少なくともファースト・アルバムの『LOVE SEX MACHINE』(2012年)は、ドゥーム・メタルやスラッジ・メタルへの変形が進んだハードコアと判断できなくはないものであった。そうした方向性を汲みつつ、ドローン(持続低音)とノイズとを更に強調していった作品が、セカンド・アルバムの『ASEXUAL ANGER』となっている。ヒステリックな叫びにも似たヴォーカルは強烈だし、アタックの強いリズムには即効性のインパクトがある。しかし、それらと同一のリフを繰り返しながらヘヴィに歪まされていくギターやベースとが、泥沼みたいにずっしり、濃度の高いサウンドを作り出しているのだ。2曲目のタイトルである「DRONE SYNDROME」は、ある種の所信表明にも思われる。うっすらとしたメロディが轟音のなかに浮かび上がる3曲目の「BLACK MOUNTAIN」や4曲目の「AUJESZKY」などには、シューゲイザー(正確にはシューゲイザー・スタイルのブラック・メタルかもしれない)からの影響が現れているのではないか。ラスト・ナンバーにあたる8曲目の「SILENT DUCK」が、最もドゥーム・メタルのマナーに忠実な印象である。実際には様々なアイディアが引っ張られてきている作品だが、なるほど、これがブラッケンド・ドゥームかあ、ブラッケンド・スラッジなんだな、と頷かされるレベルで焦点は定まっている。

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2016年12月22日
 リクドウ 10 (ヤングジャンプコミックス)

 以前、どうして格闘マンガは父殺しのテーマから逃れられないのか、と書いた。その一方で、どうしてボクシング・マンガは父なし子のテーマから逃れられないのか、と考えさせられるときがある。もちろん、すべてのボクシング・マンガが父なし子の背景を持っているとはいえないかもしれない。が、ボクシング・マンガを代表するような作品の多くが父なし子の背景を持っているといえるのである。『がんばれ元気』『リングにかけろ(リングにかけろ2)』『チャンプ』『エイジ』『神様はサウスポー』『はじめの一歩』『Monacoの空へ』『シュガー(RIN)』etc。もしかしたら、これらの源流には『あしたのジョー』の存在があり、ほとんどのボクシング・マンガが『あしたのジョー』のヴァリエーションだとの解釈もできなくはない。それは、ある場合には孤児の姿として現れ、ある場合にはボクサーとセコンドの立場に擬似的な父子の関係をもたらしていく。こうした傾向に、松原利光の『リクドウ』は、意外なほど忠実だ。主人公である芥生リクの殺伐とした境遇は、確かに現代的ではある。現代的であると同時に行き過ぎた不幸が、作品のムードをダウナーに引っ張ってはいる。反面、一種の様式からくるようなカタルシスがあり、決してつらいだけの物語にはなっていない。古典的に見える部分が翻ってエンターテイメントにかかるバランスの面を支えているのだと思う。

 持たざる者の戦いをいかに描くか。これがおそらくは様式の一端を担っている。持たざる者の欲望をハングリー精神と喩えるのであれば、それが闘争を呼び、闘争を通じ、欠落を埋めるための報酬を得ていくことに、カタルシスは由来しているのだ。呪われ、戦い、勝った、のプロットであり、カタルシスであろう。凄惨な幼少時代を過ごし、スタンダードな感情に乏しくなってしまった芥生リクの振る舞いは、今風にいうなら、壊れていると形容されるものである。しかし、異常である以前に持たざる者としての資質が、彼をボクシングのリングに上がらせている点こそ、看過してはならないと思う。むしろ、持たざる者としての資質は、物語が進むにつれ、より明確となっていき、この10巻では、異常であるような眼光の登場人物やライヴァルたちが次々と出てきたことで、リクの欠落と欲望とが実は正常に近いのではないかと判断されるほどになっている。注意されたいのは、リクとリクをめぐる他の登場人物との関係であった。高校を卒業し、施設を離れることになったリクは、幼馴染みである苗代ユキとの二人暮らしをはじめる。異性に禁忌を覚えるリクにとって、ユキは恋人というよりも母親の代替なのではないかと暗示されるシーンがある。リクが所属している馬場拳闘ジムの会長は、高校を卒業したリクを本格的に育て上げるべく、人手を集めようとする。そこで強調されているのは、チームとしての役割なのだが、リクに対するユキの働きかけも会長の働きかけも、家族という概念でリクのイメージを包括するかのような趣向を伴っている。『リクドウ』が家族の不在に寄り添った物語であると読者に理解(もしくは誤解)させうる効果にほかならない。

 しかし、リクの欠落と欲望とが必ずしも家族という概念に包括されないことは、リクをボクシングへと導いた元ボクサーのヤクザ、所沢京介とリクの関係が、他の登場人物とリクの関係に比べ、数段特別に扱われている点で明白だ。自分を救ってくれた京介に対するリクの憧憬には、もしも理想の父親というものがあるのだとすれば、それを求めるのに近い視線が含まれている。こう推定したところで、あながち的外れではないだろう。当然、父親の存在は、家族の枠組みに結びついていくのだけれど、母親の存在とは完全に別個の回路を持っているのである。リクは自分も京介のようになりたいと願う。そのためにボクサーになったのだった。京介のようになりたいとは、赤の他人であるはずの京介を慕い、追いかけ、いずれは追い抜き、京介だけが持っていた何かしらの輝きを手に入れることを意味しているのであって、ここに父殺しのテーマや父なし子のテーマを見つけ出すことができる。

 8巻について→こちら
2016年12月20日
 Draugr

 おや、こんな感じだったっけ。おおもとのデザインはそのままに着こなし方が異なるという印象を持たされた。PORCUPINE TREEのベーシスト、コリン・エドウィンを含む多国籍バンド、OBAKEのサード・アルバム『DRAUGR』のことである。イギリスのPORCUPINE TREEといえば、現代的なプログレッシヴ・ロックの代表格に数えられる。中心人物ではないとはいえ、早い段階からそこに関わってきたコリン・エドウィンだが、OBAKEのサウンドは、PORCUPINE TREEとは結構距離を置いたところにある。スラッジ・メタルやドゥーム・メタルの文脈に近い。ヘヴィな低音を前面に押し出したものだ。咆哮型のヴォーカルがいかつい一方、リズムのパターンには複雑さがあり、アンビエントの要素も入ってきている点に、たとえばNEUROSISやISISを引き合いに出すこともできる。この意味では、確かにプログレッシヴ・ロックであるような一面を有してもいる。しかし、あるいはやはり、ギターとベースの低音が無愛想なほどに徹底され、分厚いリフを粘り強く刻み続けることに、2011年のファースト・アルバム『OBAKE』や2014年のセカンド・アルバム『MUTATIONS』の特徴はあったと思う。だが、『DRAUGR』では、楽曲の展開とメロディのレベルに取っつきやすさが出た。もちろん、ヘヴィなことはヘヴィなのだけれど、クリーンなヴォーカルが大きくフィーチャーされ、以前にはなかった叙情性が支配的となっているのである。場合によっては、インダストリアル・メタルから引っ張ってきたかのようなノイズとクリーンなヴォーカルのメロディとがドラマティックにコントラストを作り出していく。バンドの名前に喩えて述べると、前作までが妖怪変化の類の禍々しさをイメージさせるOBAKEであったなら、今作は朦朧とした幽霊の姿をイメージさせるOBAKEぐらいの違いがある。

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2016年12月14日
 Red Robes

 日本のCHURCH OF MISERYにギターとして参加していたトム・サットンを中心にスウェーデンで結成された4人組、THE ORDER OF ISRAFELのセカンド・アルバム『RED ROBES』である。2014年のファースト・アルバム『WISDOM』と同様、スローやヘヴィであるというよりは、ヴィンテージなハード・ロックに近いタイプのドゥーム・メタルをやっているのだが、演奏の一体感が増し、ソング・ライティングのレベルでも個々の楽曲のまとまりがよくなった。前作以上の内容だといえるだろう。ギターとヴォーカルを兼ねるトム・サットンの歌唱にも、堂々としたところが加わり、いやまあ、依然として抑揚に乏しいことは乏しいのだけれど、BLACK SABBATHのオジー・オズボーンがそうであるように、こうした音楽性にとっては必ずしも不備とはならないし、オカルティックな雰囲気を高めることに十分寄与している。ある種の様式をなぞらえているという点では、個性を見出しにくいサウンドではあるものの、アコースティック・ギターが随所に取り入れられ、そこに物悲しい叙情がもたらされていることを一個の特徴としておきたい。それこそ、アコースティック・ギターの弾き語り、バラードであるような6曲目「FALLEN CHILDREN」を経、7曲目「A SHADOW IN THE HILLS」で、映画音楽的なSEの後、エレクトリック・ギターによるザクザクとしたリフが刻みはじめるくだりは、後半のハイライトに挙げられるのではないか。テンポを落としながらも、リフを基本にしたグルーヴとダイナミックな展開の楽曲がおおよそを占めるなか、意外にも訴求力を担っているは、ヴォーカルとギターのメロディだ。メロディの立ち方それ自体が強いフックとなっているのである。同時代のアーティストを並べるのであれば、アメリカのELDERやKHEMMISらと一緒のカテゴリーにタグ付けをすることが可能なアルバムだと思う。

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2016年12月10日
 熱風・虹丸組 8巻 (ヤングキングコミックス)

 男の子とは、こうでなくちゃいけねえ、と思わされる。それがDNAに刷り込まれたものか、文化的なコードによっているのか、何らかの原体験からやってきているのかは知らないが、オールドスクールな少年マンガのバトルには、どうしたって熱くなる。燃えてしまうのである。リアリズムをかけ離れ、作中の論理が滅茶苦茶に破綻していようと、お構いなしなのは、つまり、不可能が可能に変えられることを描いているためなのだとしておきたい。正確にはヤング誌の掲載だが、今日最もオールドスクールな少年マンガのバトルを全開にしているのが、桑原真也の『熱風・虹丸組』だと散々述べてきたし、これからも述べていくつもりだ。

 ぬおおお。新展開の8巻である。激闘の末、羽黒翔丸が荒吐三郎をくだし、三代目ノスフェラトゥを斥けたナラシナ・オールスターズだったが、めでたしめでたしというわけにはいかない。虹丸組のリーダー、虹川潤は、眼に深刻なダメージを負っており、治療のために九州へと旅立たなければならないのだ。ナラシナ市を離れる潤から虹丸組と十文字誠の遺産を託された翔丸は、しかし、それを引き受けるべきかどうなのか決心がつかないままでいた。このとき、彼らはまだ知らない。翔丸を抹殺すべく、三郎の送った刺客が、すぐそばにまでやってきていた。

 流動明、朱雀優里という新たなる脅威が、物語に招き入れられるわけだけれど、その登場が非常に凶悪なプレゼンテーションを成功させているので、ぬおおお、となる。敵サイドの登場人物の格が、堰を切ったかのようにエスカレートしていくのは、オールドスクールな少年マンガのバトルにおけるパターンであろう。エスカレートを重ねながら、まだまだ魅力的な登場人物が出せてきていることに恐れ入る。明と優里には、主人公である潤や翔丸の存在感を食ってしまいかねないほどのインパクトがある。いやはや、最高にトチ狂っているのである。『熱風・虹丸組』は、おおよそのところ、不良少年や暴走族の抗争劇となっている。三代目ノスフェラトゥや荒吐三郎の登場は、大人レベルの権力と不良少年の対決を思わせたが、明と優里の場合、大人レベルの権力をも悉く壊し尽くすぐらいに圧倒的な殺意と暴力とを横溢させている。

 何せ、暴力団をロケットランチャーで壊滅させ、少年院に入れられ、少年院を出ても日本刀でケンカの相手をぶった斬ったり、ビルを爆破していったりするのだ。要するに、テロリストのイメージに近い。それが新聞紙に載る規模でナラシナ市に混乱をもたらすのだから、やり過ぎだよ、であろう。しかし、こうした難敵を前に一歩も引かないんだ、潤と翔丸はよお、という点に熱くなるのだし、燃えるのである。潤と翔丸がそうであるように『熱風・虹丸組』は、ペアやコンビの関係をテーマの一つにしており、過去、ライヴァルたちの背景にも、三代目ノスフェラトゥや荒吐家の因縁にも、それは見え隠れしていた。明と優里も、やはり、二人一組のペアとして描かれている。ここまでの物語で、おそらくは一番凶悪なペアだぞ。

 明と優里が、いかなる理由で結びついているのか。現段階では、はっきりと明かされていない。とはいえ、絆と喩えるのに相応しい厚い信頼の介在していることはうかがえる。それが二人の並んだ姿に箔を与えている。他方、潤と翔丸の他には代え難い繋がりは、男の子ならではの生き様を、無骨なドラマとエモーションとを紛れもなく象徴したものだ。もちろん、不器用な友情の表現は、オールドスクールな少年マンガのロマンでもある。十文字誠の遺産であるジャケットを受け取ろうとはしない翔丸に向かって投げかける潤の言葉を聞け。〈虹丸組と無限のジャケット… コイツはオレの命だ……… !! この世でオメェの他に誰に任せられんだよ…… !! 翔丸!!〉

 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『疾風・虹丸組』第1巻について→こちら
 『姫剣』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
2016年11月30日
 キミとだけは恋に堕ちない 3 (りぼんマスコットコミックス)

 大昔だったら、フィクションで兄妹(姉弟)間の恋愛が禁断として描かれているのを見ると、ああ、これは本当は血が繋がっていないパターンでしょう、と考えをめぐらすことができたのだけれど、近年では、実際に血が繋がっていようと結ばれてしまうパターンが珍しくはないので、もうそのへんを疑ってみても単にだらしがないだけなのだから深く読み取ったって仕方がねえよな、と思わざるをえないのだった。が、しかし。以下、酒井まゆの『キミとだけは恋に堕ちない』の3巻について、ネタを割った内容となる。

 成績と外見が優秀な二人の兄、透と航とに厳しくも大切にされてきたヒロイン、星崎すばるは、高校に入り、吉田新という同級生で、お調子者の男子と関わり合うようになっていく。同じ高校の上の学年にいる真面目な兄たちに比べ、クラスメイトの新は、ふざけてばかりで信用のならないところが多い―― はずだったのに、どうしてか心が引かれていくのであった。おそらく、こうした1巻からの話の流れで題名の『キミとだけは恋に堕ちない』に示唆されている「キミ」とは、すばるにとっての新のこと、さらには新にとってのすばるのことだ、と読者の少なからずが信じ込まされたのではないか。あるいは、すばると新が相思相愛で付き合うことになった2巻を経、なるほど、これは『キミとだけは恋に堕ちない』つもりでいた二人の偶発的でチャーミングなロマンスに違いない、と作品の方向性を見て取ったのではないか。そうであるとするなら、すばるの二人の兄はロマンスが容易いものではないことを裏付けるための障害にほかならない。だが、3巻において、航とすばるに血の繋がりのないことが(読者と新に)バラされてしまうのである。

 すばると新の交際を渋々ながら容認し、新とも穏当な関係を築いていく航の姿は、良いお兄ちゃんじゃん、という印象を強くしている。それが航とすばるに血の繋がりのないことを(読者と新に)バラすことで、異なったニュアンスを帯びはじめる。すばると新の交際を渋々ながら容認するかのような航の態度は、必ずしも彼の寛容さによっているわけではなく、もしかしたら彼が抱えている抑圧の裏返しであるかもしれない可能性を導いてくるのである。血が繋がっていないとはいえ、すばるとは兄妹であるがために恋愛の感情を表にすることは許されない。そのような抑圧を念頭に置き、作品を見返すとき、『キミとだけは恋に墜ちない』という題名における「キミ」とは、航にとってのすばるを、さらにはすばるにとっての航を意図しているのではないか、と読み替えることもおかしくはなくなるのだ。「落ちる」ではなく「堕ちる」の字が当てられているのは、兄妹間の恋愛が禁断として描かれている以上、象徴的でもある。

 航とのあいだに血の繋がりがないことをすばるが承知しているかどうかは、現時点では曖昧にボカされている。が、重視されたいのは、これまで具体的ではなかった三角関係の構図が、航とすばるに血の繋がりがないという背景を得たことで、くっきりと浮かび上がったと同時に、すばるを中心にした新と航の綱引きへ、今までになかった緊張状態がもたらされている点であろう。この展開が連載の最初から用意されていたのか否かは知れないものの、明らかに物語が異なったフェイズに入ったことを、新と航の緊張状態は教えている。

・その他酒井まゆに関する文章
 『MOMO』
  7巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『クレマチカ靴店』1話目について→こちら
 『ロッキン★ヘブン』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら 
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら