ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年08月30日
 カノジョは嘘を愛しすぎてる 20 (Cheeseフラワーコミックス)
 
 持つ者と持たざる者とが自然と共存させられるこの世界の枠組みのなかに結果として生じるエモーションを、青木琴美の『カノジョは嘘を愛しすぎてる』は、20巻に入ってもなお掴み続けている。もちろん、持つ者と持たざる者の対照は、必然的に不平等を含まざるをえないのだったが、決して悲劇を弄ぶかのような展開に終始せず、ときには優しく微笑まされるかのようなドラマをも内蔵しているところ、明と暗とがどぎつい線引きに冷たさを際立たせているというより、調和がとれたコントラストのあたたかさを描き出しているところに、胸を衝かれるのである。持つ者と持たざる者とが自然と共存させられるこの世界の枠組みとは、それが絶え間のない日常でもあることを含意している。ロック・バンドや芸能界の過剰なアピアランスをモチーフにしたマンガではあるけれど、むしろ、我々がよく知る日常の秀逸な戯画となっている点に、魅力の多くが同居しているのだと思う。

 ここ数巻、おそらくは16巻からフロントマンである坂口瞬の家庭の事情のために活動休止が決定したCRUDE PLAYをめぐり、ストーリーは大きく動いてきた。が、やはり、主軸は、持つ者と持たざる者の対照(才能に恵まれた人間と恵まれなかった人間、機会を与えられた人間と与えられなかった人間、努力が実った人間と報われなかった人間etc.の対照)にあったといえる。なかでも、CRUDE PLAYのオリジナル・メンバーである小笠原秋と彼の代わりにCRUDE PLAYへ入った篠原心也の心理的な綱引きは、連載の当初より看過できないものではあったけれど、さらに緊張の度合いを増すこととなっていった。ソング・ライターとしては秋に敗北しながらもベース・プレイヤーとしての腕を高く買われている心也、そして、ベース・プレイヤーとしては心也に劣りながらもソング・ライターとしての非凡さを有している秋の二人は、お互いに相手が自分には果たせない価値を持っていることを知っている。がゆえに、相手の立場と自分の立場とが交換不可能であることを痛感せざるをえない。しかし、注意を払いたいのは、それが同時に欠落を抱えた存在同士がお互いの欠落を埋め合うかのような認識を二人のあいだにもたらしている点であろう。持つ者と持たざる者の対照は、確実な優劣となって現れる。一方で、自分にとって特別な存在があるとしたら何がそうなのかの証明を兼ねているのである。

 秋と心也の心理的な綱引きは、ヒロインである小枝理子を真ん中に置いたとき、恋愛の三角関係と近いイメージに結びついていく。もちろん、『カノジョは嘘を愛しすぎてる』とは、理子という少女のラヴ・ロマンスであり、彼女の成長物語でもある。幼馴染みの少年たちとバンドを組み、まだ高校生でありながらもヴォーカリストしてのキャリアをスタートさせた理子が、様々な出会いを経、自分の価値を新しく得る姿がストーリーに起伏を与えている。プロフェッショナルなアーティスト、ミュージシャンの秋や心也に比べ、デビューしたばかりで実績がない理子に対する世間の評価は、ワン・オブ・ゼムを見るそれにすぎない。では、どうして秋や心也が彼女に惹かれるのか。単に若くてキュートだからだろうか。それとも才能の片鱗と可能性とをうかがわせるからだろうか。いや、もう少し奥まった箇所に理由を求めても良い。たぶん、理子だけが作中で唯一、欠落を抱えてはいない存在であるかのように描かれているのだ。この欠落を免れているかのように見えることが、秋と心也を含めた他の登場人物の目に眩しさを導き出しているのではないか。

 本来なら極めて立場が弱いはずの理子が他の登場人物の目にとっては眩しい。ここにも持つ者と持たざる者の対照を指摘することができるであろう。理子をスカウトしたプロデューサー、高樹総一郎の過去の挫折が語られるのも20巻である。高樹が手掛けているCRUDE PLAY、そして、理子のMUSH&Co.は、かつて彼が在籍し、解散に追い詰められてしまったWANDER LINEの成り立ちを、ある面では踏襲している。理子の幼馴染みであり、MUSH&Co.のメンバーとなった君嶋祐一と山崎蒼太の不遇は、CRUDE PLAYにおける大野薫と矢崎哲平のコンプレックスを反復している。理子の眩しさに自分の欠落を突きつけられようが、MUSH&Co.で踏ん張り続ける祐一と蒼太の姿は、上の世代の敗北を下の世代が乗り越えていくというストーリーに読み替えられるものだ。

 1、2巻について→こちら
2016年08月24日
 てのひらの熱を(3)<完> (講談社コミックス)

 動作のスピード感、テンポの良さが好きである。『週刊少年マガジン』からインターネットなどの別の媒体へと異動し、人気を盛り返すケースも偶にはあるけれど、どうやら北野詠一の『てのひらの熱を』は、残念ながら、ということになったみたいだ。この3巻で幕を下ろしてしまった。たぶん、作者はもっと描きたいことがあったのだろうな、と思われるし、実際、作中の少年たちの成長をもっと見てみたかったぞ、と思いもする。空手を題材にしたマンガだが、作中の少年たち、とりわけ中学校に上がったばかりの主人公、木野下慎也と彼の親友、柳屋匠の(子供の世界における子供の視点の)生き生きとしていていたところに大きな魅力があった。反面、彼らの視点と対になるような大人の視点がうまく配置できておらず、教室であれ、部活動であれ、少年たちが成長していくために必要であったはずの舞台そのもののバランスを危うくしている。物語のなかで、コーチや教師の役割を機能させられなかったのも一因であろう。また、ドラマが暑苦しく、息苦しくなるのをクール・ダウンさせようとしてか、あちこちにギャグを挟み込むのは確かに有効ではあるのだけれど、不要じゃないかしらという場面にもギャグが突っ込んであるので、ちょっと白けてしまう箇所があった。はぐらかしたり、茶化したりすることより、少年たちのまっすぐな熱をもっと信じさせて欲しかったのだ。
2016年08月21日
 Death Thy Lover

 もちろん、ベースであるレイフ・エドリングが主体のバンドなのだから、彼がその気になりさえすれば、いくらでも蘇るさ、というのは道理であろう。2012年の『PSALMS FOR THE DEAD』がラスト・アルバム(ライヴでのみの活動)となるはずだったが、この4曲入りのEP『DEATH THY LOVER』をもって復活した。LOUD PARK 16で待望の初来日公演を果たす予定のCANDLEMASSである。

 2007年の『KING OF THE GREY ISLANDS』以来、ヴォーカルを担ってきたデヴィッド・ロウが抜け、代わりに迎え入れられたのは、かつてレイフの別プロジェクトであるABSTRAKT ALGEBRAでも活動を共にしていたマッツ・レヴィンだ。マッツ・レヴィンといえば、元SWEDISH EROTICAであり、元TREATであり、イングヴェイ・マルムスティーンからTHERIONまで、スウェーデンの様々なアーティストとセッションをこなしてきた人物である。しかして、そのメロディアスであることに優れた対応のできる熱っぽいヴォーカルは、エピック・ドゥーム・メタルの雄として知られるCANDLEMASSのスタイルにもしっかりはまっている。

 BLACK SABBATHをルーツとするかのようなスロー・パートのうねりを基調としながらもドラマティックでスケールの大きな展開を繰り広げるというCANDLEMASSのスタイルは、『DEATH THY LOVER』でも貫徹されている。ロバート・ロウのヴォーカルは美声と呼んで差し支えがなかったけれど、マッツの実力だって大したものだと思う。伸びがあり、骨太なところもある。それがエピック(叙事詩)であることとドゥーム(邪悪)であることとを構築的にした楽曲の緩急の鮮やかさを、さらに際立たせているのだ。レイフのソング・ライティングも円熟味を増しており、様式のごとく完成されたサウンドに乱れはない。

 確かに、メサイア・マーコリンのヴォーカルこそがCANDLEMASSにとっての最適解だという向きもあるだろう。しかし、ここまでの安定感で唯一無二と喩えるのに相応しいレベルのサウンドを提出していることの否定には決して繋がらないのである。そして、レイフと並んでCANDLEMASSを支え続けてきたラーズ・ヨハンソンとマッツ・ビョークマンのギターが、またマジカルな輝きを失ってはいない。このギターのリフが、このギターのソロが、と特筆したくなるような場面の数々には、勇壮と悲哀に満ちたロマンを掻き立てられる。

 ドラムのヤン・リンドーを含め、要するにヴォーカル以外は80年代の黄金期のメンバー(00年代に再結成して以降のメンバー)が揃っているわけだが、もしかしたらBLACK SABBATHが、元RAINBOWを加えようと、元DEEP PURPLEを加えようと、誰がヴォーカルを取ろうと、BLACK SABBATHでありえたのに近い領域へとCANDLEMASSは入りつつあるのかもしれない。

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2016年08月16日
 百足-ムカデ- 3 (少年チャンピオン・コミックス)

 全3巻。この長さは、少年マンガの連載作品における通常の規格からすると、打ち切りに遭ったかのような印象を抱いてしまう。が、フクイタクミの『百足‐ムカデ‐』に限っては、この長さこそが作者の狙いであり、適正であったことは確かだ。その意味で、少年マンガの連載作品においては規格外になったといえる。そう、サブ・エピソードの列挙による(キャラクター・ビジネスに都合のいい)冗長さを抜きに放たれた。必殺の少年マンガなのだ。

 以前にも述べた通り、話の筋は至ってシンプルだ。強烈な拳の使い手、馬頭丸が、自分を救ってくれた娘とその家族が住む村を守るため、100人からなる悪党の集団、百足と一昼夜に渡り、死闘を繰り広げるのである。それ以上でもそれ以下でもない。しかし、それ以上でもそれ以下でもない、と焦点を絞りきっていることが、全編にフル・スウィングの勢いをもたらしている。

 大風呂敷を広げることに淫するのではなく、まるで広げた大風呂敷を畳んでいく際の瞬発力、ダイナミズムのみを捻り出したかのような作品であって、やはり、そこに惹かれるものがある。1巻と2巻を通じ、大多数の百足を蹴散らしてきた馬頭丸だったが、自身の消耗もかなり激しい。1対100、そして、残る百足は38人、いよいよ決着のときが差し迫っていた。3巻で描かれるのは、正しくその決着のときであり、本当に最後のバトルにほかならない。

 悪人にも苦悩はあるんだよ式のエクスキューズや善人にも陰があるんだよ式のおためごかしを挟み込まない潔さが、さらなる佳境を盛り上げていく。なぜ、馬頭丸と百足が戦い合わなくてはならないのか。それは強い立場であるという一致があろうと、あくまでも百足が弱き者をくじく側にい、馬頭丸が弱き者を助ける側にいるからだ。満身創痍となりながらも決して揺らぐことのない馬頭丸の決意に耳を傾けられたい。

 ああ、〈誰だか知らん奴を助けるのはマヌケか? 『まぬけ』か…? 俺は そうは学ばなかった そうは思わなかったよ 誰かをかばって背負って痛い目見てもな… まぬけと呼ぶ奴がいてもな 俺は『しまった』とか『やめときゃよかった』とか 言わねえさ〉

 ただし、馬頭丸にも乗り越えなければならない欠落があった。幼少期の自分に道を指し示してくれた師匠の喪失である。百手無双流という無敵の技を授かったはいいが、それを役立てる前に師匠が亡くなってしまったことは、馬頭丸にとって寄る辺がないのに近い心境をもたらしてしまう。馬頭丸がどれほどの使い手であろうが、百手無双流の正しい使い方だけは譲り受けられなかったので、その正しい使い方を文字通りの徒手空拳で探し当てなければいけないのだ。

 換言するなら、『百足‐ムカデ‐』とは、あるいは百足との死闘とは、馬頭丸が自分の生き様を確立するための戦いでもあったのである。窮地をくぐり抜け、探し当てた答えにいかなる価値があるのか。馬頭丸の勝利が幸福や安息のイメージと固く結びついていることに明らかであろう。

 1巻について→こちら
2016年08月11日
 ゾンビの星 (ヤングチャンピオンコミックス)

 ギャグ一筋でありながら、息の長いマンガ家だ。浜岡賢次は。しかも、その長いキャリアを通じ、ある種のふてぶてしさを失ってはいないことに恐れ入る。もちろん、『浦安鉄筋家族』のシリーズは、初期の方が愉快だったという向きもあろう。自分にしても『4年1組起立!』こそが最高だと思っているのだから、そうした気持ちもわからなくはないが(お約束を繰り広げるような)安定感と(あの漫☆画太郎でさえもパロディに使ってしまうような)尖った部分とが混在する現在のスタンスを決して否定するものではないのである。

 さて、久々に『浦安鉄筋家族』のシリーズ以外の作品となるのが、この『ゾンビの星』である。近年、エンターテイメントの世界でゾンビはブームではあるけれど、流行に乗じたというより、かねてからあったアイディアを出すタイミングが今まさに回ってきた、という感じなのではないか。作者にゾンビものを含めた映画の影響が大きいことは、過去の作品における登場人物やギャグの数々に顕著であるし、本コミックスの浜岡自身による解説にも明らかである。また、確かにゾンビを題材にしてはいるものの、ホラーの要素はまったくなく、徹頭徹尾ギャグを凝らしているのも実に「らしい」と思わせる。

 20XX年、動きはじめた死体=ゾンビに地球は覆われた。ゾンビに噛まれた者もまたゾンビとなるのであった。生き残ったのは、ただ一人。ひきこもりだったため、部屋から一歩も外に出ることのなかった星はるかだけである。かくしてヒロイン、はるかのサヴァイヴァルが幕を開けるのだけれど、しかし、なぜここまでサスペンスがないか。あくまでもシチュエーションは引用であり、それに対する作者の解釈がいかにコメディとして機能するのかが『ゾンビの星』の根底だからであろう。チャップリンの頃を思わせるサイレントの手法を用いたエピソードは、他の作品にもあったものだが、『ゾンビの星』にも見受けられる。

 換言するなら、借りてきた形式に、浜岡ならではの色合い、アレンジを加えることが転じ、ギャグとなっているのである。浜岡の描くドタバタ劇の要領は、時限爆弾みたいなトラブル・メーカーをどう対処するかにある。それが『ゾンビの星』では、ヒロインであるはるかに一任されているので、マッチ・ポンプに陥らざるをえない。そこに作者の苦心が現れてしまっている。
2016年08月06日
 YGG HUUR (イグ・フアー)

 近年、にわかにオーヴァーグラウンドのリスナーからも注目を集めはじめているアメリカン・ブラック・メタルのシーンで、その盛り上がりの一角を担うニューヨーク出身のKRALLICE、初の来日公演である。が、いや、これはすさまじかったんじゃねえでしょうか、と思う。サポートを務めたおやすみホログラムやVMOの実にアクティヴなパフォーマンスに比べるなら、ステージに立ったKRALLICEの4人の佇まいは地味といわざるをえない。Tシャツ姿のラフなルックスは、インディの世界によくいそうな兄ちゃんたちでしかなかった。しかし、演奏がスタートした途端、とにかく、すさまじい演奏と音像とに全部を持っていかれる。

 派手なアクションとは無縁な立ち姿から繰り出される超絶技巧及びマッシヴであるようなサウンドの厚みがスタジオ音源で聴かれる以上のインパクトを次々に現出させてくれたのだ。先ほどブラック・メタルのジャンルに並べたけれど、それよりも爆音のプログレッシヴ・メタルと呼びたくなる。確かに、2015年にリリースされた最新作『YGG HUUR』において、北欧の真性のブラック・メタルと親和性が高かった初期のスタイルを大きく逸脱してはいた。ドラムのビートにブラック・メタルのエッセンスを残しつつも、おそらくはブラック・メタルに由来していたのだろうギターのトレモロは後退し、テクニカルかつカオティックなパートを矢継ぎ早に繰り出す。構成の目まぐるしさを主体にしていたのだ。

 カオティックあるいはプログレッシヴな『YGG HUUR』のモードをさらに延長した先の領域を今回のライヴは思わせる。もちろん、セット・リストに新しい楽曲が多く含まれていたのもあるが、過去のアルバムからのナンバーでさえ、印象を真新しくしている。アレンジが変えられているのではなく、スタジオ音源では見えにくかった本質がビルド・アップされているのかもしれない。ああ、フロントに立った6弦のベース(レフティなのが、またかっこよかった)その左右で一糸乱れずに複雑なフレーズを高速で弾きこなしていく2本のギター、そして、並のプレイヤーなら崩れてしまいそうな奇々怪々のリズムを強烈に叩き出してみせるドラムとが、ある種の極限のなかにのみ存在しうる美しさをイメージさせる。

 本当にもう、これはすさまじかったんじゃねえでしょうか、と思うし、圧倒されたぞ、と声を大きくしたい。KRALLICE、初の来日公演は、こちらの期待を遥かに上回るものであったことだけは確かである。

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2016年07月20日
 境界のRINNE 31 (少年サンデーコミックス)

 現在、メジャーなマンガ誌のなかで最もカッティング・エッジな連載を述べるとするならば、もしかしたら高橋留美子の『境界のRINNE』なのではないかと思うようになってきた。いや、かつてほどに個性的な美少女を描けなくなってしまった絵柄を指し、作者の衰えを見る向きもあろう。だが、同時に吾妻ひでお化しつつある絵柄がそうさせるのか。『犬夜叉』以前には顕著であった不条理ギャグのテイストが戻ってき、なおかつ、一切の情緒を信じてはいないかのような悪意が全体に張り巡らされている。これがベテランの今のヒット作として認知されていることに驚かされるのだ。

 テレビ・アニメにもなっている作品なので、大勢の人間が概要を知っているには違いないが、基本的には、この世に未練を残しているために成仏できないでいる亡霊を、死神の資格を持った少年と霊視の能力を持った少女とが協力し、あの世へと送り出すというプロットを、一話完結もしくは数話完結のミニ・エピソードとして羅列している。普通、図らずも命を落としてしまった死者の無念と生者がいかに向き合うかを主題としているのだとすれば、ある種のエモさは免れない。死者が残していった悔いを残された生者がどうイメージするかは(宗教のレベルで突き詰めていったらはともかく)極めて感情的な問題だからである。

 しかし、既に述べたように『境界のRINNE』には、情緒を信じているような素振りが一切ない。たとえば、死者にも悲しみや憎しみ喜びが存在しうるとしたところで、生者のそれと同様、しょっぱいものでしかない。まるで、そう突き放した認識すら、うかがえるのである。留意されたいのは、死者ばかりか生者のエモーションまでをもシビアに扱っていながら『境界のRINNE』が、まったくシリアスな作品ではない点であろう。むしろ、いくらでもシリアスに組み立てられそうなプロットやテーマを茶化してみせることで、ナイーヴなリアクションやダウナーなテンションとは掛け離れた人生の明暗を導き出しているのであった。

 率直な話、『境界のRINNE』では、生きているあいだに報われなかった人間が死んだからといって報われるわけがないということが、決して少なくはないエピソードにおいて共通している。持たざる人間は生きようと死のうと持たざる人間のままだということが、繰り返し描かれているのである。この強烈ともとれる人間観、死生観、価値観こそ、『境界のRINNE』の本質なのだと思われる。

 生きているあいだに願いが叶わなかった。あるいは評価を求めた人間からは評価をもらえなかった人間が亡霊となり、この世に関与してしまうタイプのエピソードは、31巻だけでも数個確認できる。なかでも親友の結婚式に何かしらかの理由があり、後ろ髪を引かれてしまった女性を題材とした「ブーケが欲しい」の回は、どうであろう。あくまでもコメディとして展開しつつ、徐々に明かされるのは、登場人物のおおよそがろくでなし、の事実だけだ。善意も祝福も憐憫もない。エモさの欠片もないはずのハプニングに一切の情緒を付け足さない冷めた視点(それはオカルトを信じている人間のあの熱っぽい語り口とは対極にあるもの)が、恨み節になりかねないどろどろとしたお話に不思議な歯切れの良さをもたらしている。
2016年07月11日
 HiGH&LOW~THE STORY OF S.W.O.R.D.~ 1 (少年チャンピオン・コミックスエクストラ) HiGH&LOW~THE STORY OF S.W.O.R.D.~ 2 (少年チャンピオン・コミックスエクストラ)

 二度のテレビ・ドラマ版を経、劇場版の公開も迫り、様々な雑誌で特集が組まれ続けている『HiGH&LOW〜THE STORY OF S.W.O.R.D.〜』だが、いまだに全貌は掴めないでいる。といっても、深遠なテーマや複雑な謎を含んでいるのではない。そうではなくて、巨大なプロジェクトのわりに設定は入り組んでおらず、話の筋は一本道であるため、ここまでのスケールをかけた企画そのものが何を求め、どこに向かっているのか、よくわからねえぜ、なのである。ただし、スペクタクルを基準として燃えるか燃えないかの判断をするなら、燃えるところもある。ともあれ、ここではコミカライズ、細川雅巳の手掛けているマンガ版について言及しておきたい。

 現在、ヤンキー・マンガの主流は、芸能人等の自伝をベースにしたものや往年のヒット作の続編によって占められている。が、そこにもう一つの流れを加えることもできる。架空の都市を舞台とし、リアリズムを度外視したアトラクションを繰り広げるタイプの作品であって、『熱風・虹丸組』(桑原真也)や『蟻の王』(塚脇永久・伊藤龍)、そして、この『HiGH & LOW』などが例に挙げられる。『セブン★スター』(柳内大樹)や『元ヤン』(山本隆一郎)もこれに近いけれど、あくまでもフィクションであるはずの世界が実在の都市やリアリズムを根拠にしながら作られている点で、やや方向性が異なる。おそらく、それらに共通しているのは、必ずしも不良少年と呼ぶべきティーンエイジャーの存在に主題があるわけではないことであろう。反面、裏社会やヤクザを直接的に描いてみせるアウトローものとも違う。学生もいれば、学生ではない者もいる。未成年もいれば、成人した者もいる。それらが本業はあたかもモラトリアムであるという主張を暴力や抗争に変換していくかのような現れ方をしている。半グレやギャングである以上にエクストリームなヤンキーのイメージを踏襲しているのだ。

 伝説のチーム、ムゲンの解散後、五つの組織が割拠したそこは、各々の組織の頭文字から取って「SWORD AREA」と呼ばれた。山王連合会(S)White Rascals(W)鬼邪高校(O)RUDE BOYS(R)達磨一家(D)のSWORDである。各々の組織に属し、「G-SWORD」と名付けられたギャングたちは、互いを牽制しつつ、派手な争乱に発展しないだけの均衡を保っていた。しかし、それは何かがあったなら、たちまち壊れてしまう。非常にあやういバランスの上に成り立つ均衡でもあった。果たして次から次へと起こっていくトラブルの数々は、「SWORD AREA」での平穏が常に暴力と隣り合わせであることを「G-SWORD」の面々に実感させざるをえない。

 おおよそのところは、テレビ・ドラマ版に忠実なコミカライズとなっており、山王連合会のトップであるコブラと親友のヤマトを中心にストーリーは進められている。ことによったら、戦国武将を現代の若者に置き換えた軍記もののヴァリエーションとして見ることは可能であろう。だが、「G-SWORD」の対立には、数世代に渡るような因縁もなく、いざ決戦だの場面には、裏をかくような工夫もない。結局は、仲間を敵には売れない式のプロットであったり、ドラッグを売りさばく汚い連中をやっつけろ式のプロットが羅列されるにとどまっている。とりあえず、この1巻と2巻では、山王連合会、White Rascals、鬼邪高校、RUDE BOYSの四つの組織と「SWORD AREA」を傘下に収めんとするヤクザの家村会がイントロデュースされているにすぎず、達磨一家を含めた作品の世界像に本格的な変動が生じるのは、これからなのかな、と思わせる。

・その他細川雅巳に関する文章
 『シュガーレス』
  18巻について→こちら
  1巻について→こちら
2016年06月29日
 頂き!成り上がり飯(1)【特典ペーパー付き】 (RYU COMICS)

 近年、グルメ・マンガのジャンルは大きなムーヴメントだが、物語と呼ぶのに相応しい時間の縦軸をきちんと機能させている作品は少なく、結局のところ、「クックパッド」的なレシピや「ぐるなび」的なガイド、登場人物のリアクションとを土台にした安易な作りのものがほとんどであって、テレビの情報番組やヴァラエティ番組と一緒じゃん、という感想を脱していない点で、方法論としては頭打ちなところがある。他方、ヤンキー・マンガの現状を見てみるなら、著名人の自伝をベースにした作品や往年のヒット作の続編が大部分を占めるようになってしまっており、こちらも方法論としては頭打ちなところである。

 さて、さしあたり、そのグルメ・マンガとヤンキー・マンガの二つの領域をミックスしてみたのが、奥嶋ひろまさの『頂き!成り上がり飯』であろう。料理を題材にしているけれど、「クックパッド」的なレシピや「ぐるなび」的なガイドと隣接しておらず、芸能人のレポーターさながら登場人物のリアクションが重視されている。安易な作りといえば、その通りではある。しかし、不良少年の学園生活をいかに描くか、を目的とした作品のなかで、それがあくまでも主人公の持ち味を際立たせるための手段となっていることが、『頂き!成り上がり飯』の特徴を担っているのである。

 奥嶋のキャリアを振り返るとき、その作品のおおよそは、元々特別なオンリー・ワンではない人間が、ナンバーワンを目指し、それでもナンバー・ワンにはなれないでいるジレンマを、トラジック・コメディに近い手つきで描き出していることがわかる。『頂き!成り上がり飯』も同様であろう。地域の不良が集まっていることで知られる玉森高校に入学した主人公(ケニー)が、モブやエキストラのように学園生活を過ごしたくないと思い、ケンカでトップに立とうとするのだが、実際には三年生のボス(メリケン)に敵わず、地面に這いつくばるしかないのであった。ここから主人公が、どう這い上がっていくのか。過程の意味で「どう」にあたる部分が、つまりは物語を兼ね、手段の意味で「どう」にあたる部分に、つまりはグルメ・マンガのイディオムを借用しているのだ。

 料理に自信のある主人公は、三年生のボスに弁当を褒められたことから、料理の腕前で全校生徒に認められようとするのである。グルメ・マンガのイディオムを借用していることが、殴り合いの多いマンガなのに肩の力の抜けた作風へと繋がってもいる。プロットのレベルでは、以前の作品である『アキラNo.2』に似ているものがある。おそらくは(先に述べたように)元々特別なオンリー・ワンではない人間が、ナンバーワンを目指し、それでもナンバー・ワンにはなれないでいるジレンマを、テーマの一つとして踏襲していることに起因している。

・その他奥嶋ひろまさに関する文章
 『ばぶれもん』1巻について→こちら
 『ランチキ』
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2016年06月23日
 リクドウ 8 (ヤングジャンプコミックス)

 どうして格闘マンガは父殺しのテーマを免れないのか、と思うときがある。たとえば、90年代以降を代表する二つの巨大な作品、板垣恵介の『刃牙』シリーズや猿渡哲也の『タフ』シリーズは、父の脅威は決して越えられないという帰着を得ると同時に物語そのものの方向性に曖昧さが出てしまったし、川原正敏の『修羅の門』シリーズでさえ、最終的には父殺しのテーマに辿り着いていったのである。あらかじめ父殺しを果たしていたのは、たなか亜希夫の『軍鶏』だが、物語の途中で空中分解を見せたのみならず、結局のところ、父の束縛に苦しむ少女の闘争を主人公が代行するといった展開から破滅と似たエンディングへ向かうこととなったのであった。近年でも遠藤浩輝の『オールラウンダー廻』や太田モアレの『鉄風』など、必ずしも父殺しのテーマを逃れていない作品を挙げられる。後者においては、引きこもりとなった兄の存在が家父長の役割を兼ねているといえるだろう。

 狭義ではボクシング・マンガになるのだけれど、広義では格闘マンガに入れられる松原利光の『リクドウ』も、やはり、父殺しのテーマと無縁ではないことは、1巻の段階で明らかだった。なにせ、父親の自殺、そして、母親の恋人(要するに義父のポジションに近い人物)の殺害を、物語の出発点にしているのである。もちろん、ボクシング・マンガの歴史を振り返るなら、ちばてつやの『あしたのジョー』以来の孤児の系譜を反復しているわけでもある。『あしたのジョー』と『リクドウ』の年月の開きのあいだに、同じく父の不在を師匠にあたるトレーナーが肩代わりしているタイプの作品である森川ジョージの『はじめの一歩』を置いてみるとき、両者の相違あるいは類似は、よりはっきりとするであろう。なぜ父が失われているのか。60年代から70年代にかけて描かれた『あしたのジョー』と90年代を舞台に描かれ続けている『はじめの一歩』と2010年代に描かれ出した『リクドウ』とでは、背景がまったく異なっている。これを各々の時代性の反映と換言しても良い。反面、『リクドウ』における血と汗とをない交ぜにした青春の暗さには『はじめの一歩』よりも『あしたのジョー』と共通するところがあるのだ。

 自分を認めてくれない者といかに向き合うか。父殺しのテーマに通じていくような抑圧のイメージは、『リクドウ』の主人公、芥生リクにとって序盤の最大のライヴァル、兵動楓のモチベーションを支配するものでもあった。それがリクとリクをボクシングへと導いた所沢京介の関係では、自分を認めてくれた者といかに向き合うか、の図式に反転させられている。さらに付言するのであれば、自分を認めてくれない者といかに向き合うか、もしくは自分を認めてくれた者といかに向き合うか、という問いかけは、自覚していようと無自覚であろうと『リクドウ』の登場人物のおおよそに内蔵されている。この意味で物語の支柱にほかならない。7巻と8巻に渡り、繰り広げられてきたエドガルド・ガーベラとの対戦を通じ、ヒロインである苗代ユキとリクの関係に確かな変化が生じた。かつてリクが預けられていた施設の職員がそうであったように、女性の存在が登場人物たちに何かしらの影をもたらしていることも『リクドウ』の特徴の一つなのである。
2016年06月12日
 聖闘士星矢EPISODE.Gアサシン 7 (チャンピオンREDコミックス)

 多分、『聖闘士星矢』のデスマスクのせいで蟹座のイメージを悪くしてしまった人間は少なくはないのではないか。その汚名を返上するときがきた。もちろん、『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話』(手代木史織)のマニゴルドによって、その地位は随分と回復したには違いない。しかし、決してデスマスク自身の失墜をどうこうするものではなかった。それがまさか、デスマスク自身が本人と蟹座の名誉を挽回するような活躍を見せてくれる。『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』(岡田芽武)の7巻だ。

 当初は、円卓の騎士の伝説と『聖闘士星矢』の神話とをミックスすることで怒濤のスペクタクルを起こしていたマンガである。が、ここ数巻では、後者の要素が前者の要素を上回っていくなかに驚愕の展開を生じさせていた。本編の引用がふんだんになることは、外伝の在り方としては確かに正しい。と同時に、やり過ぎだよ、と思わされるところに、もっというなら、原作に対するリスペクトをキープしつつ、スピンアウトもしくは二次創作ならではのセンセーションが過剰となっているところに、間違いなく『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』のアピールが存在していることは、そう、前巻(6巻)における星矢の復活によって明らかであろう。

 再起不能に陥ったはずの本来の主人公、星矢の復活は、車田正美が手掛けている正統な続編の『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』でもいまだ果たされていない以上、ある種のタブーに近い。なぜなら『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』の聖闘士たちは、生きているとも死んでいるともつかない状態の聖矢を救うべく、新たなる聖戦を繰り広げている最中なのである。作品そのものや時代の設定が違うとはいえ、それを本家よりも先にやられては読んでいる方が困ってしまう。結局のところ、聖矢の不在とは、本編完結後の作中の時間軸における最も重要なキーであって、この点は『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』も『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』も同様なのだ。

 しかして『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』は、物語の舞台を時空の狂った世界、それこそ円卓の騎士が現代へと蘇ってくるほどに時空の狂った世界であることの必然として星矢の復活を可能にしている。なぜなのかの具体的な説明がないまま、先代の黄金聖闘士と黄金聖闘士になった紫龍たちの世代とが時間を越えて共闘しうる世界であるならば、何が起きても不思議ではあるまい、という成り立ちをしているのだ。たとえば、ソーシャル・ゲームでは、伝説の英雄や歴史上の偉人がガチャのユニットとして肩を並べることに違和感がない。以前にも述べた通り、そうしたソーシャル・ゲームのシステムと親和であるような発想が『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』の説得力を支えているのだと思う。

 何が起こっても不思議ではあるまい。しかし、ここにきて、またサプライズな登場人物がどんどんと出てくるかよ。一応はサプライズなので、新規に参入してきた他の登場人物の名前は伏せておくけれど、そのうちの一人が、先に挙げたデスマスクにほかならない。

 ああ、残酷なる蟹座の黄金聖闘士よ。その本質にアレンジは加えていないながら、新しい角度から矜持とでもすべき部分を掘り出すことで、デスマスクのイメージをアップデートするに至っている。いや、前身にあたる『EPISODE.G』の段階で既にデスマスクは存在していたが、ここでは悪質な彼をよく知る氷河との対峙を通じ、単なるヒールのそれにとどまらない表情を覗かせているのだ。そんなのデスマスクじゃねえよ、という否定ではなく、こんなデスマスクを見てみたかった、と頷かされるものがあるのは、つまり「もしも」の可能性を十分に再現しているためであろう。「もしも」の可能性を十分に再現することが、すぐれたスピンアウトあるいは二次創作にとって必要不可欠な条件だとしたら、それを満たしているのである。

 その「もしも」の可能性を十分に再現するような手つきは、デスマスクのみならず、あの黄金聖闘士にも本編とは一線を画した表情をもたらしていく。シュラをして〈あれは… 俺が… 討てなければ成っていた男だ〉と「もしも」の可能性を示唆された対立教皇、そして、混沌女神(カオスアテナ)の降臨は、以前にも増して驚愕の展開を予感させる。

 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『聖闘士星矢 EPISODE.G』
  20巻について→こちら
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2016年05月31日
 ハニーレモンソーダ 1 (りぼんマスコットコミックス)

 1巻の段階で既にボロボロ泣いてしまっている。村田真優の『ハニーレモンソーダ』である。これは自分には安達哲の『ホワイトアルバム』や『キラキラ!』といった作品をはじめて読んだときのことを思い出させてくれる。安達の初期の作品には、80年代の少女マンガ、たとえば紡木たく等のカラーを少年マンガのジャンルに転移させたところがある。そこにあった痛々しくも淡い青春のイメージが、数周して少女マンガに帰ってきたような感覚が『ハニーレモンソーダ』には備わっているのであった。

 ああ、〈何のために変わりたいの? 学校で居場所を見つけるため? それもあるけど1番は 少しでも君に近づけるため〉だという大変小さいながらも切実な少女の願いに寄り添った物語の幕があがる。

 ヒロインの石森羽花は、成績が優秀で本来なら難関校である真聖学園へと進学するはずだった。が、夜の街でとある少年からかけられた言葉に心を動かされ、派手な生徒が多いことで知られる八美津高校に入学するのであった。それは羽花にとっての大きな冒険でもあった。なぜなら、中学の頃はいじめられ、周囲に「石」と呼ばれるほど感情と表情とを固くさせなければ、クラスに身を置けないような毎日を送っていたためだ。しかし、八美津高校への入学を期に自分を変えよう。あの少年、八美津高校に進学するのだと言っていたレモン色の髪の毛の少年との再会を信じようと願う。果たして羽花の高校生活は、あの憧れたレモン色の髪の毛の少年、三浦界とクラスメイトになったことからはじまったのである。

 地味な少女と不良っぽい少年のボーイ・ミーツ・ガールが基本にある点は、ラヴ・ストーリーや学園もののスタートとして類型的であるし、古典的でもある。反面、内気な性格のせいで同級生たちなどに省かれることを「ぼっち」と名指しうる立場のクローズ・アップは、確かにコンテンポラリーではあるけれど、現代における類型的な見方を免れてはいない。もちろん、作者は作者なりに時代の空気を取り込もうとしているのだろうが、それは必ずしも目新しさに直結するものではない。類型的であるにもかかわらず、それを普遍的だと言い換えられるようなシチュエーションや話運びのなか、登場人物の微かでも確かな足音が響き渡っていく。その響きを通じ、等身大の孤独を描き出すことに成功しているのだ。

 羽花の内面、つまりはモノローグに示されている言葉の成り立ちは、ほとんどポエムである。しかし、ポエムであること自体に彼女の切実さが宿っているわけではない。ポエムがどこからやってきているのか。他の登場人物との関わり、とりわけ界との関わりによってもたらされた少女の内面の変化が、カットの一つ一つやそれらを結び付けるコマ割りを含め、つぶさに把握できるぐらいに表されているので、その切実さに胸を衝かれることとなる。

 少女の内面に変化を生じさせるきっかけが不良っぽい少年であり、彼が「リア充」と称されている点に批判的な向きもいるかもしれない。ただし、それは表面上のデザインの問題にすぎない。注意されたいのは、ヒロインである少女、石森羽花の目に、この世界はいかなるものとして映っているか、なのである。そう考えるとき、三浦界とは、これまでに羽花が目にしたことのない可能性を、あるいは否応なしに自分の欠落を突きつけられるインパクトを代替しており、羽化が界に憧れを抱くのは、彼が単に「リア充」と目されるような人間だからなのではないとわかる。結局のところ、誰の憧れも踏み越えなければならないラインの向こう側に存在している。

 かつて「石」と呼ばれていた羽花にとって界の言葉が魔法と似た励ましを持っているのも、以上の理由によっているのだ。〈確かに あの時 オレが声をかけた でも そんなのは ただのきっかけで あそこから飛び出した力は石森のものだ 今までの自分に引きずられなくていい 石でも おまえは宝石なんだよ〉

・その他村田真優に関する文章
 『またあした』2巻について→こちら
 『イン ザ チョコレート』について→こちら
 『妄想シンデレラ』について→こちら
 『ドクロ×ハート』について→こちら