ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2017年08月03日
 Mourning, Resistance, Celebration [Analog]

 FARのフロントマンであるジョナ・マトランガと元JAWBOXにしてプロデューサーとしても知られるJ.ロビンスの合流は、90年代の(EMOと呼ばれるような)ポスト・ハードコアのファンにとって、おお、と興味を引かれるものであろう。CAMORRAが、それだ。が、ファーストEP『MOURNING, RESISTANCE, CELEBRATION』に特徴的なスタイルをもたらしているのは、J.ロビンスと同じく元JAWBOXであり、ドラムで参加しているザック・バロカスの変拍子を交えたあの独特なリズム感なのではないかと思う。どちらかといえば、ではあるけれど、J.ロビンスのキャリアで見るより、ジョナ・マトランガのONELINEDRAWINGに近いアンビエントな作風となっており、JAWBOXやBURNING AIRLINES、 CHANNELS、FARやNEW END ORIGINAL等々にあったロック・バンド的なダイナミズムは極力抑えられている。ギターの主張も控えめであって、メインのヴォーカルをジョナに任せたJ.ロビンスの役割は、おそらく、キーボードの響きが楽曲の方向性をガイドしていくかのようなサウンドのコーディネイトなのかもしれない。そのキーボードのリフとザック・バロカスによるドラムのマッチングには、プログレッシヴ・ロックの構築美を彷彿とさせるものがある。もちろん、魂からこぼれる血や涙をイメージさせるジョナ・マトランガのナイーヴな歌声は健在だし、希望を手探りするなかに生じうるエモーションを如実にしているのだけれど、それでもやはり、特筆したくなるのは、ドラムのパートなのだった。CAMORRAならではの色合いに、どれだけザック・バロカスが不可欠であるのかは、1曲目「BETWEEN THE WORLD AND ME」の導入から、はっきりと窺える。ア・カペラではじまり、女性のコーラスとドラムのみを加えた3曲目「PARTING FRIENDS」には(小品なのに)胸を衝かれる。加速を得ていくドラムに合わせ、ジョナ・マトランガのヴォーカルが衝動のはち切れた叫びへと達する4曲目「BLACK WHITE GIRL BOY」のクライマックスは、圧巻である。

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2017年07月24日
 薔薇王の葬列(8)(プリンセス・コミックス)

 実際のところ、菅野文がセクシュアリティの難題にどれほど関心が高いのかは知らない(ストーリーを運ぶための手段として用いられているにすぎないのではないかと思われる場面も少なくはない)のだが、代表作である『オトメン(乙男)』で喜劇的に否定された性差の障壁は、この『薔薇王の葬列』において極めて悲劇的な筋書きを描き出していく。そもそもがウィリアム・シェイクスピアの『ヘンリー六世』と『リチャード三世』を原案に抱き、大胆な解釈を試みたマンガである。歴史の悲劇的なサイドに対する目配りは、過去にも『北走新選組』等のシリーズで見られたものだ。それがここでは中世イングランドの薔薇戦争を題材とし、凄惨さの夥しい、暗澹たる愛憎劇を織り成すに至っている。

 作品は、両性具有に生まれたことに苦しむリチャード(のちのリチャード三世)と純粋であるあまり狂気をも内包したヘンリー六世のラヴ・ロマンスに思われるかのような出会いを主軸にしている。もちろん、史実としてはありえないであろう二人の関係ではあるのだけれど、本来なら憎しみ、殺し合わなければならなかった彼らに、しかし、お互いに救いを求め、愛し合っていたかもしれない可能性を与えることで、正しく愛憎の入り混じった悲劇が繰り広げられる結果となっているのだ。この8巻で、本格的に『ヘンリー六世』の物語は終着を迎え、いよいよ『リチャード三世』にあたる物語が幕を開く。つまりは新展開が訪れたといえよう。それでもなお、ランカスター家の長、ヘンリー六世とヨーク家の三男、リチャードの共鳴と拒絶と葛藤とが『薔薇王の葬列』の真髄であり続けていることは明らかである。

 死ぬことが呪いであるなら、生きることもまた呪いである。こうした逃れようのない呪いのその循環を『薔薇王の葬列』の登場人物たちは皆、知らずのうちに引き受けてしまっている。運命の歯車の一つとして重要な役割を担っていくが、同時に欠けることも許された歯車の一つとして安易に姿を消していく。だが、歯車の一つの欠けた影響が残った歯車の動きに次々と歪みをもたらしていくのでもあった。それが史実だとはいえ、エドワードが命を落としたのは結構ショックだった。ヘンリー六世の息子でありながら、敵対するリチャードに惹かれ、率直に想いを遂げようとした青年の姿には、この影ばかりが濃い作品にあって比較的に明るいものを見出せたからだ。しかし、エドワードも例外ではなく、呪いに囚われた人間としての役割を果たさざるをえない。そして、エドワードの死がリチャードに新たな呪いを注ぎ込んだことを予感させ、時間は飛ぶ。『ヘンリー六世』の終わりのときから『リチャード三世』のはじまりのときへ。

 ああ、栄華を得たはずのヨーク家だったが、退廃に溺れた長兄のエドワードと次兄のジョージの軋轢が増し、壊れた家族像のなかにリチャードは再び地獄巡りの悪夢を重ねるようになるのである。兄弟の子供や若い世代が物語の舞台に昇ってくるけれど、それはあたかも死んでいった人間たちに代わり、呪いを循環させるためなのかもしれない。成長し、以前よりも狡猾さの似合ったふうであるバッキンガムは、いかなる岐路をリチャードに指し示すのか。いずれにせよ、これまでのドラマが十分に残酷であったのと等しく、ここからのドラマが残酷であるのだろうと身構えるしかない。ジェイムズ・ティレルと呼ばれ、手を血に染めた男のまさかの相貌は、これがリチャードとヘンリー六世のあいだに横たわる絶望や愛憎を醍醐味とした悲劇であったことをまざまざと思い出させる。
2017年07月15日
 冥銭のドラグーン(3) (講談社コミックス月刊マガジン)

 日本史のIF(もしも)を描くことは、『山賊王』や『遮那王義経』を通じ、沢田ひろふみのお家芸になりつつある。『冥銭のドラグーン』では、もしも大阪夏の陣(1915年)で真田幸村が徳川家康を討ち取っていたのだとしたら、引き続き徳川方と豊臣方に分かれたままの争乱は、いかなる道筋を辿るのであろうかが創作されている。主人公は、真田大助幸昌(真田幸村の嫡男)の幼馴染みということになっている鏡風太である。風太の非凡な閃きが真田家に奇跡的な戦略と勝利とをもたらしていくのであった。1巻の冒頭に意図されているとおり、『冥銭のドラグーン』は、日本史の大幅な改変を厭わない。あくまでもファンタジー、ファンタジーとしての日本史と換言できるものであって、風太の存在は、これがファンタジーであることの象徴にほかならない。3巻では、真田家の四女、アグリに他人の考えを見透かせるかのような特殊な能力の備わっていることが示唆される。こうしたファンタジーの力学が、本来なら大阪夏の陣を境に敗者の側へと回されてしまう真田家を史実とは異なった運命に導くのだ。が、着目されたいのは、ファンタジーであるがゆえの設定を発展させることで(実際の年齢で数えてみてもまだ若い)風太や大助の姿に少年マンガならではの逞しさや純粋さを与えている点だと思う。それは一癖も二癖もある大人たちの仕掛ける策謀を風太と大助がなんとか跳ね返し、なんとか跳ね返したことの結果が彼らを次のステージにアップさせ、現実とは別個の日本史を屹立させるという物語の構成に明らかとなっている。題名にある『冥銭のドラグーン』とは、おそらく、六文銭(冥銭)を家紋とした真田家の騎兵たちに量産した八連発の鉄砲を持たせるという風太の着想に由来している。それは2巻で〈今まで誰も見た事のない最強の銃騎兵軍〉だとされ、プロト・タイプとすべき成果が3巻において〈炎を噴く龍が現れた如くに〉と形容される。もちろん、当時としては未曾有の戦力が誕生しうるかもしれない可能性もまた、日本史のIF(もしも)であることの産物だろう。
2017年06月25日
 Two Parts Viper

 ベースレスのディオという編成は、ロック・バンドのスタイルとしては今や広く認められたものに違いない。元NROMA JEAN、元THE CHARIOTのヴォーカル、ジョシュ・スコギンの'68も、彼自身がギターを兼ね、ドラムとの2人組となっている。これまでのキャリアからするとハードコアの資質がおおもとにあるのだろうが、サウンドの方向性は90年代のアメリカン・オルタナティヴ、インディ・ロックをイメージさせる。しいて喩えるなら、NIRVANAとTHE JON SUPENCER BLUES EXPOSIONのミックスを思わせるところがある。まあ、NIRVANAにせよTHE JON SUPENCER BLUES EXPOSIONにせよハードコアの文脈とかけ離れているわけではないのだけれど、NROMA JEANにあったメタリックな響きやTHE CHARIOTにおけるカオティックなアプローチとはいくらか距離をとったサウンドを'68は抱いているのだ。ロー・ファイの濁りを残すことでギターとドラムの簡素なダイナミズムに鋭さが加わり、演奏時のテンションがそのまま楽曲の価値を底上げしているかのような印象である。ジョシュのヴォーカルは相変わらずいきり立っているし、本当にジョン・スペンサーみたいなシャウトを聴かせることもある。ただし、研ぎ澄まされたまでのインパクトに欠け、ちょっとばかり物足りなさを覚えるのも確か。この手の出力が勝負なサウンドにとってインパクトはすごく大事よ、であろう。それは2014年のファースト・アルバム『IN HUMOR AND SADNESS』にも感じたことで、残念ながらセカンド・アルバムの『TWO PARTS VIPER』でも払拭されてはいない。たぶん、ライヴだとスタジオ音源を遥かに上回った破壊力が発揮されるのだろうな、と思う。そう思えてしまうことが歯痒い。

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2017年06月22日
 聖闘士星矢EPISODE.Gアサシン 10 (チャンピオンREDコミックス)

 やっぱり、岡田芽武の『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』は、最高だな。誰がなんと言おうと、最高なんだぞ。大好きである。どうして最高なのか。原作である車田正美の『聖闘士星矢』のあらゆる登場人物を格好良く描きたいという欲望をフル回転させているとしか思われない勢いの筆致が、実際に『聖闘士星矢』のあらゆる登場人物を格好良く描き出しているというアレンジの見事さに尽きる。以前にも述べたように、蟹座のデスマスク史上最高に格好良いデスマスクは『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』のデスマスクだと信じてやまない。

 そもそも『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』は、オリジナルにあたる『聖闘士星矢』の前日譚であった『聖闘士星矢EPISODE.G』の外伝的な性格が強いマンガだったはずなのだけれど、巻が進むにつれ、本編が終結したあとの直接の時間を、つまりは後日譚とされるような展開を見せはじめているのであった。もちろん、正統な続編としては車田正美本人による『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』が存在し、現在進行形で連載されている以上、広義での二次創作になるのであろう。しかし、たとえば永井豪以外のマンガ家が永井豪の作品の続編を作ったり、アニメなどのメディア・ミックスで永井豪の作品の続編が作られたりしていることを考えると、決して類例のないケースではないし、マンガが原作でなければ『機動戦士ガンダム』や『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』のシリーズ等も様々なヴァリエーションが公式に展開されている。海外に目を向けるならマーベル・コミックやDCコミックスのヒーローたちがいくつものパラレル・ワールドを行き来することは、もはや一般的ですらある。こうした受容のなかに『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』も置かれるべきだと考えられる。

 そして『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』が圧倒的に正しいのは、最初に述べたとおり、『聖闘士星矢』のあらゆる登場人物が格好良く描き出されているからにほかならないし、大胆なカットとポエジーとで登場人物の格好良さを引き立てることが車田正美のイズムに関わるものであるなら、岡田芽武ならではのタッチを殺すことなく、それを見事に取り込んでいるからだ。さらに付け加えると、フルカラーのド派手なスペクタクルがスマートフォンなどのゲーム・アプリにおける演出に近接していることは過去にもいってきた。

 ふおおお。辰巳きたああ。って、声をあげる読者がどれだけいるかは知らないが、自分は辰巳のファンなので、この10巻で辰巳が出てきた途端、鼻息が荒くなりましたね、なのである。執事に萌える方々も辰巳の出番に歓喜なのではないか。いや、それはないな、とか言ってはいけない。確かに原作の辰巳にファンは少ないかもしれないが、岡田版では小憎らしさを残したまま、ヴィジュアルと言動の面に城戸家の支えに相応しい厳つさが増している。これはこれで格好良いのではないか。ただまあ、ちょっと年寄りにしすぎているのでは、と思う。辰巳の話題を長々と引っ張っても仕方ないのだけれど、『聖闘士星矢』のあらゆる登場人物が格好良く描き出されていることの一例にほかならないのであった。無論、辰巳ばかりではない。ついにあの聖闘士やあの聖闘士が、という強烈なサプライズが次々ともたらされており、聖矢世代から上の世代までオールスター揃い踏みの感がより強まってきている。平凡な少女に思われた吉乃が聖闘士(セイント)や剣闘士(グラディエーター)にとって、いかなる意味を持っているのかが明かされ、ストーリーにも進展が表れているが、吉乃の父母として顔を見せるのが、ここでお前らかよ、と驚かされるものであって、気を抜けない。

 7巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『聖闘士星矢 EPISODE.G』
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 17巻について→こちら
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2017年06月19日
 アヴァルト(5) (シリウスコミックス)

 メタ・ファンタジーものといおうか。MMORPG的なリアリティ(現代ならではの知識や感性)で(本来ならば前近代であるような)剣と魔法の世界を再構成するというタイプのフィクションは近年のトレンドだけれど、群を抜いているのではないかと思われるのが、光永康則の『アヴァルト』である。ファンタジーやSFなどを通じ、よく「わかっている」はずの設定が駆使されているにもかかわらず、先のまったく「わからない」展開が次々と現れてくるのだ。

 ああ、そこは既に発狂した世界であった。宇宙航海の途中で1万年の長き冷凍睡眠(コールドスリープ)から目覚めたロイド・コスギは、いつの間にか自分たちの船が地球の圏内に戻っていることを知った。どうしてか自分以外の乗務員が皆いなくなっていることを知った。地上の人類と文明のほとんどが失われてしまったことを知った。しかし、最も驚愕させられたのは、わずかに残った人類が、とあるMMORPGのNPCに支配され、NPCである彼らを神(アヴァルト)として崇めていることなのだった。一体何が起こったというのか。手がかりを求め、その(自分もプレイヤーのアカウントを持ち、かつて遊び尽くした)MMORPGにログインしたロイドは、まさか実際の地球にアバターの姿を借りて降り立てるとは思ってもみなかった。

 作品そのものに仕掛けられた謎を、ロイドを含めた登場人物たちが解き明かしていく過程のなかに素晴らしいダイナミズムがあるため、物語を詳しく説明するのは難しい。が、神と同じ銀の髪色のせいで母親を殺された少年、タギやタギを庇ったおかげで神の立場を追われた美女、シノアと行きがかり奇妙なパーティを組むことになったロイドは、徐々にではあるけれど、なぜMMORPGのNPCが神となり、地球に君臨しているのかという真相へと近づいていくのである。

 ロイドとは、登場人物の1人であることはもちろんなのだが、作品の枠組みをメタ・レベルから認識しうる視線にほかならない。そして、それは作品そのものを外部から覗き見ている読者の認識を肩代わりしてもいる。世界はいかに発狂しているのか。ロイドの得た想定がショッキングであればあるほど、物語の求心力が倍加される。さらにいうなら、神の正体に気づいている人間はロイドだけではない。要するにメタ・レベルの認識を有した別のパーティが存在していることは、これまでに描かれており、5巻にきて、そのうちの1人であるヒルダがロイドたちのパーティに合流してくる。もっと大きな局面も訪れる。ロイドの居場所は2巻の終盤からほとんど動いていないのに、物語は着実に進んでいるという印象がある。あらかじめ打たれていた布石が、こう繋がるのだと感心する。てきめんな効果をあげているためであろう。

 ところで、剣と魔法の世界において不思議なことが起きたりするのは、どういったわけなのか。異能の力が働いたりするのは、それが剣と魔法の世界だから式のトートロジーで説得されるよりほかない作品が、ままある。しかし、『アヴァルト』では、ファンタジーでしかありえない現象がありえてしまう疑問に対し、科学での証明が果たされるのだ。つまり、メタ・ファンタジーものであると同時にSFでもある。あるいは、SFのロジックによって可能になったメタ・ファンタジーものだといえる。作品そのものに仕掛けられた謎を解き明かしていく過程のなかに素晴らしいダイナミズムがあると述べたのは、このような意味である。タギの成長にちなんだジュヴナイルな一面を持ってはいるけれど、タギの役割が増すにつれ、不穏な問いを確かめざるをえなくなる。なにゆえにタギは神と同じ銀の髪色をしているのか。

 本来なら凄絶な地獄が舞台となっているわりに、全体のテンションは悲惨にならず、登場人物の死がエモーショナルに傾きすぎていないあたり、『怪物王女』の作者だな、と思わされる。

 他方、ロイドやヒルダのパートナーであるコウサに共通した倫理が備わっている点を看過してはならない。それは1巻におけるロイドの言葉を借りるなら〈俺は旧文明の生き残りとして こうなってしまった責任を少しは感じる だからこの時代の人間たちに神を斃す方法の道筋ぐらいはつけてやりたい〉ということであって、4巻におけるコウサの言葉を借りすなら〈‥‥俺たちはさ かつての人類を知っている 知っているんだよ 俺は旧世代の人類として俺達の持っている火を 運んで 誰かに渡さなきゃいけないんだよ〉ということである。この毅然とした決意が、取り返しがつかない災厄の満ち満ちた『アヴァルト』の世界に一縷の望みを与えていることは間違いない。

 繰り返しになるが、ロイドの視線は読者の認識を肩代わりしている。もしもそうであるとしたら、人類がはからずも未来に残してしまった負の遺産について無責任を決め込まない彼の態度は、ファンタジーだから、SFだから、では済まされない今日的なテーマを内包してもいるのであった。
2017年05月29日
 チカーノKEI〜米国極悪刑務所を生き抜いた日本人〜 1 (ヤングチャンピオン・コミックス)

 1980年代、ハワイのホノルルで逮捕され、〈受刑者2千人超 終身刑や危険で凶悪な囚人が行き着く―― アメリカで最高危険ランク「レベル5」のランパーク刑務所に収監された〉ヤクザの日本人、ケイが、そこで一大勢力を築いているメキシコ系のギャング、チカーノの諍いに巻き込まれることで次第に頭角を現していく。マサシの『チカーノKEI ~米国極悪刑務所を生き抜いた日本人~』は、原作者であるKEIの自伝的なフィクションとして描かれている。が、少なくともこのマンガの場合、描かれていることがどこまで真実に沿っているのか、どこまでリアリティがあるのかは、さして問題ではない。不良の自慢話の大抵が内容を盛っているのと同様、それは信用したり、重要視すべきものではないのである。しかし、それでも『チカーノKEI』の1巻が魅力的になっているのは、他の二つの理由による。一つは、アメリカという多人種の文化圏に渡った一人の日本人が、その社会とは異なった価値観を手に奮闘しながら、周囲に一目置かれるほどの活躍を果たす式の筋書きにある。こういった筋書きは、たとえば西部劇の世界に登場した侍が、すぐれた剣技や体術、そして、日本人ならではの倫理を通じ、たくさんの人間のピンチを救ったり、幾多の困難をくぐり抜けたり等、フィクションによくあるパターンのヴァリエーションにほかならない。つまり、様式的であるがために魅力的でもある面を備えているのだ。もう一つの理由は、手段と空間の限定された特殊な状況におけるサヴァイヴァルになっている点であろう。刑務所を舞台にした囚人の権力抗争もまたフィクションによくあるパターンのヴァリエーションだけれど、それが『チカーノKEI』ではアメリカの巨大で凶悪な刑務所を題材にすることで、人種間の差別や対立、殺人すら厭わぬ暴力が露骨になっており、殴り合いがすなわち死に直結するようなバトル、ヴァイオレンスを通じ、明快な展開が生まれているのであった。ここでさらに見ておきたいのは、タフであることと日本人であることとが主人公であるケイの立場をレアにしているのだが、前者の特性は、あくまでも後者の特性に属していることである。ケイは、作品内で唯一のマイノリティであるにもかかわらず、体格にハンデがあるにもかかわらず、なぜ過酷なプリズンを生き延び、頭角を現していくのか。ケンカの場面には、精神論や根性論が作用しているとしか思われないところが多い。とはいえ、その精神論や根性論を抜きにしてしまったなら、アメリカの刑務所に異物として放り込まれた主人公の役割は消え失せてしまう。反面、精神論や根性論が突破口となればなるほど、海を渡った日本人のテーマにわかりやすさが増す。このことは(現時点では)『チカーノKEI』の強みでもあり、弱みでもある。
2017年04月28日
 EVIL〜光と影のタペストリー〜 1巻 EVIL〜光と影のタペストリー〜 2巻 EVIL〜光と影のタペストリー〜 3巻

 控えめにいって、上作である。作品のデザインやショックのレベルで見るなら、いくらか古くさく感じられるところもある。が、新しいや古いの基準で判断されるべきマンガではないだろうとも思う。塀内夏子のキャリアにおいては『勝利の朝』や『イカロスの山』『明日のない空』等、サスペンスの色が付いているものが少なくはないけれど、この『EVIL〜光と影のタペストリー〜』では、それが全面に出、非常に血みどろのドラマを作るに至っている。血みどろとは、つまり、生き死にの凄惨さが直接描かれているということであって、その生きることと死ぬことの熾烈な対立のなかに心揺さぶられるものが宿されているのだ。

 三人の若者の友情の物語だといえる。あるいは一組の兄弟の愛情の物語だといえる。一方で、とある母子の憎悪の物語だともいえる。内海アツトと長谷みずきは、M高校の三年生、二人しかいない美術部の部員であり、M高校のアトリエを借りにきたK高校の九條エイジと出会い、じょじょに親交を深めていくこととなる。アツトは才能を高く評価されていたが、それ以上にエイジはすぐれたデッサンの持ち主であった。エイジがM高校のアトリエへ通い出したのと前後し、猟奇的な連続殺人が耳目を引きはじめていた。殺害した人間の首を切断するというのだ。事件に興味を抱き、警察が公開した防犯カメラの画像を見たみずきは、犯人の輪郭がエイジのものに似ていると気づく。そして、エイジは、十四年ぶりに再会した兄のレイジこそが犯人なのではないかと思うのだった。犯人探しのミステリが主題ではないので、実際に兄弟が事件と関係しているのかどうかは早い段階で割れるのだけれど、重要なのは、エイジとレイジに容疑がかけられる過程で、二人の驚くべき幼少期が明かされる点であろう。

 良心を一切持たない若い母親から兄弟は虐待を受けていた。ネグレクトを通じ、いかなる影が彼らにもたらされたのか。その影の大きさが次第に浮かび上がってくる。母親譲りの美形がエイジとレイジの特徴の一つとなっているのと同様、幼少期の過酷な体験が二人の精神に周囲には伺え知れない歪みを植え付けていたのだ。兄弟と母親の姿に反映されているのは、生まれと育ち(遺伝と環境)の呪いにほかならない。『EVIL〜光と影のタペストリー〜』において、呪いに敗北していった者は不幸な最期と一致せざるをえない。加山という同名の(ルックスも近い)女性カウンセラーが登場することもあって、『EVIL〜光と影のタペストリー〜』には『明日のない空』の引き写しに思えるような部分がある。ただし、『明日のない空』は、死に飛び込んでしまいかねない人間を引き戻そうとする力の強さが物語に明るさを灯していたけれど、『EVIL〜光と影のタペストリー〜』には、死に飛び込んでしまいかねない人間の凄みが支配的であり、それに引きずられ、物語の色合いに暗さが増している。

 後半、事件の真相を掘り下げるにあたり、作中人物の「語り」によって占められる割合が多くなってしまうが、前半における美術部としての活動を中心にしながら「絵」の持ちえる可能性が直に描かれた箇所には、作者の技巧的なスタンスがよく現れていると感じられる。アツト、みずき、エイジの三人の関係と青春とが、共同制作の形を通じ、輝かしい印象を放つ。美しい場面でもある。しかして、それは悲痛なトーンの作品に喜びと似た装飾を加えるものとなっている。ラスト・シーンに注意されたい。残酷な出来事を経ようとも、アツトとエイジが「絵」を捨てずにいたことが感動的なのではない。かつて「絵」を通じて見た希望を忘れずにいたことが感動的なのである。

 どうして凶悪な犯罪が起こったのか。作中人物たちの口を借り、動機や理由の答え合わせが行われていく。だが、必ずしも真相を言い当ててはいないかもしれない。深奥に置かれた謎は、謎のまま、すなわち、一体何が人間を善と悪とに隔てるのかという問いは解消されず、読者に共有されるためのテーマとして残される。

・その他塀内夏子に関する文章
 『明日のない空』
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 『イカロスの山』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『雲の上のドラゴン なつこの漫画入門』について→こちら
2017年04月20日
 ACMA:GAME(22) (週刊少年マガジンコミックス)

 00年代の中盤から2010年代の初頭まで連載された『未来日記』(えすのサカエ)をリアル・タイムで読みながら、いよいよフィクションにおけるデス・ゲームのムーヴメントも頭打ちかな、と予感させられたのは、理不尽なゲームに強制参加させられてもゲーム・マスター=神になってしまえば全部ひっくり返せるじゃん式の作劇に、さすがに度を越えているのでは、と思ったためであった。が、そうした作劇の方が時代にフィットしていたようで、2010年代もゲーム・マスター指向型のものが次々描かれてきた。近年の少年誌を見ても、『神さまの言うとおり』シリーズ(金城宗幸・藤村緋二)や『DEATH NOTE』のコンビによる『プラチナエンド』(大場つぐみ・小畑健)などが、おそらくはゲーム・マスター指向型に入れられる。個人的に、ゲーム・マスター指向型の作劇に対し、あまり好意を持たない。もちろん、理不尽なゲームに絶望せず、いかにサヴァイヴァルするか、単なる残酷ショーとサスペンスに終わって欲しくはないのだけれど、超異常事態に抵抗すること、あるいは人間が無力ではないことの証明を念頭に置いた際、疑問を抱かざるをえないケースが少なくはないからである。

 超異常事態に巻き込まれた人間たちのコン・ゲームであり、デス・ゲームのヴァリエーションともいえるであろう『ACMA:GAME』(メーブ・恵広史)が、22巻で完結した。正直な話、はっとさせられるまでのインパクトを備えてはいなかったかもしれないが、最後まで目が離せなかった作品の一つである。悪魔と呼ばれる存在が具体的に描かれ、人類を超越したファンタジーの領域が明示的、つまりは作中で何が起こっても不思議ではなかったため、当初は、これもゲーム・マスター指向型なのかな、と見ていたのだけれど、違った。むしろ、ゲーム・マスター=神の立場になろうとする者があることを拒否し、あくまでもプレイヤー=人間の立場にとどまろうとすることのなかに、希望を覗かせていたような気がする。主人公である織田照朝と最初のライヴァルであるマルコ・ベルモンドの対決を含めた1巻の段階で、父子の関係が重要な柱となっていることは明らかであった。それが最後の対決に大きな意味合いと物語の展開に一貫性とを与えている。父親の果たせなかった偉業を主人公が代理し、果たしてきたことが独善とは異なった種類の幸福と勝利とに繋がったのだ。

 まあ、高校生にして大財閥の会長、容姿端麗で頭脳も優秀という主人公のスペックは、トゥー・マッチだよね、ではある。しかし、思春期特有の正義感と理想主義とが様々な局面で生きてきたことを忘れてはならない。理知的で一癖も二癖もある登場人物が揃っていた点は、マンガの魅力を考える上で大きい。と同時に、主人公の正義感と理想主義とが彼らにもたらした影響のはっきりとした痕跡こそが、『ACMA:GAME』の核であろう。ギャングのマルコにはじまり、ついには悪魔のガドまでも落としてしまった照朝の人たらしの才能は、そのオーヴァーなスペックであるよりも、その強固な意志の発揮された結果として理解されるべきだと思う。
2017年04月13日
 Perish

 ギター・レスやベース・レスの2人組で活動しているバンドも珍しくはない昨今である。分厚い音響を重視したドゥームやスラッジの系統であってさえ、ぱっと思いつくかぎり、OMやBLACK COBRA、JUCIFER、BELL WITCH等々が挙げられる。それらのバンドが証明しているとおり、ドラムに1本のギターあるいは1本のベースだけ、という組み合わせであろうと、充分にヘヴィなサウンドを成立させることは可能なのだった。そして、同様の毛並みを、このノルウェーはオスロ出身のディオ、HYMNも持っている。少なくともファースト・フル・アルバムである『PERISH』においては、ギターとドラムのコンビネーションを通じ、ドゥームやスラッジの流れを汲んできたヘヴィなサウンドが成立させられているのだ。鈍重のリズムによってもたらされるドス黒いアトモスフィアとグルーヴのうねりに絶叫じみたヴォーカルが噛み合う。スタジオ音源である以上、実際にベースが入っていないのか断言できないものの、低音の主張は申し分ないし、トリオの編成とはまた異なったフレキシビリティが、インプロヴィゼーションにも似たスリルをダイナミズムのなかに引き込んでいる。いや、もちろん、方法論としては既に真新しくはない。が、厳選されたブレンドのような確かさがスタイルそのものの強度へと転化させられているのである。密室的な息苦しさや呪術的なまどろみよりもパワフルやエネルギッシュと喩えられる部分の大きなバンドかもしれない。3曲目の「SERPENT」で、細かく刻まれるギターのリフは、TOOLやNEUROSISのアプローチを彷彿させながら、ダイレクトであるほど研ぎ澄まされたカタルシスに結びついていく。

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2017年03月26日
 Bonehead

 括るとするなら、ヴィンテージなハード・ロックに近いというニュアンスでのストーナーになるだろうね。フィンランド出身のトリオ、RUCKWATERのEP『BONEHEAD』で聴かれるサウンドは、である。1曲目の「ONCE MORE WITH FEELING」など、縦ノリと修辞できるようなリズムとギターのリフとでぐいぐい押してくるナンバーには、アメリカのKYUSSやFU MANCHU、イギリスのORANGE GOBLIN、スウェーデンで活動しているスパイス(元SPIRITUAL BEGGARS)のキャリア、THE MUSHROOM RIVER BANDやBAND OF SPICEを引き合いに出せるものがある。が、しかし、それらに比べ、パンキッシュと見なせる疾走感がバンドの印象に強く付加してもいる。ワンツーワンツースリーフォーのカウントで幕を開ける4曲目の「SUPER FRUSTRATION」における勢いは、まるでガレージ・ロックかハードコアじゃないか。他方、6曲目の「FLAME DOESN'T CAST A SHADOW」では、まさかシューゲイザーからの影響でもあるのかよ。後期のRIDEを思わせるアーシーなアプローチと初期のRIDEを思わせる轟音のアプローチとが奇妙な同居を果たしており、その意外な展開に少しぎょっとさせられる。全6曲の内容からうかがえるのは、ああしたい、こうしたい、の衝動を自然体で出したことによる一種の多様性であろう。それがラフでありながらもタフにまとまったフォームを生み出しているのだ。もちろん、まとまりがあるのは、EPのサイズだからなのかもしれない。調べるかぎり、これまで数枚のEPをリリースしているが、フル・アルバムは存在しないみたいで、これがフル・アルバムのサイズになると、どうくるか。ライヴも良さそうだし、気になっている。

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2017年01月22日
 龍帥の翼 史記・留侯世家異伝(3) (講談社コミックス月刊マガジン)

 川原正敏といえば、『修羅の門』が有名だけれど、『修羅の刻』や『海皇紀』等、実は歴史ものや戦記ものの作者としてのキャリアが長い。その川原が『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』で扱っているのは、副題にある『史記』のなかでも「項羽と劉邦」の物語によって知られる箇所である。「項羽と劉邦」は、横山光輝や本宮ひろ志といったビッグ・ネームをはじめ、多くのマンガ家に描かれてきたが、『龍帥の翼』の場合、漢の劉邦に使えた軍師、張良を主人公とし、彼の復讐と立身出世とに重きを置くことで、独自性を導き出そうとしているのではないかと思う。もちろん、舞台は紀元前の中国だ。秦が中国を統一する際、祖国である韓を滅ぼされた張良は、仇である始皇帝の打倒を誓う。それが天命なのか。多勢に無勢で秦に挑み、敗走を繰り返しながらも生き延び、不思議な出会いを経、劉邦の軍に合流するのであった。独自性は、張良や劉邦が(膨大な人口においては、これぐらいの才能はまれではないであろうという意味で)平凡なカリスマとして描かれているあたりにも見られる。作中のレベルはもとより、読者のレベルから判断しても期待値の低い登場人物となっているのである。注意されたいのは、その平凡なカリスマの一人であるような張良が自分の来歴を捏造していくことで、歴史や物語のレベルでの役割を大きくしている点だ。要は、はったりや法螺の類が張良の知性をアピールする手段となっている。通俗的な張良のイメージは、張良自身に創作されたものであって、そこに作者の想像力の入り込む余地が生まれているという仕掛けでもある。はったりや法螺の類であろうと口コミなどの情報を操作し、自分を過大広告することは、インターネットが主流の社会でも頭が良いとされる人たちがやっていたりするので、まあ、現代に通じるところがありますね、といえる。正直な話、張良が現代にいてもおかしくはない平凡なカリスマみたいに描かれているため、彼の活躍からくる盛り上がりは弱い。これを補っているのは、黄石や窮奇といったファンタジーの世界からやってきたかのような登場人物の存在感であろう。本来なら張良の師として伝えられている人間を正体不明の少女にアレンジした黄石と鬼神じみた戦闘力の窮奇とを張良の強力な仲間に据えていることもまた『龍帥の翼』の独自性に挙げられる。いや、むしろ、黄石や窮奇の存在感こそが作品にとっての重要なフックになりえているのだけれど、しかし、主人公の位置を占めているのは、あくまでも張良にほかならない。黄石や窮奇の助けを得た張良が次第に頭角を現していく。やはり、これを抜きにしては成り立たないマンガになっているし、この3巻では、張良を軍師に加えた劉邦にも平凡なカリスマ以上の輝きが備わりはじめているのであった。