ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2018年02月18日
 雄飛 ゆうひ 13 (ビッグコミックス)

 あまりいわれていないのでいっておくと、ここ最近、ヤクザ・マンガってすげえ充実しているんじゃないですか、と思う。長期連載で世評が定まっているものはともかく、小山ゆう『雄飛』たーし『ドンケツ』大武政夫『ヒナまつり』馬田イスケ『紺田照の合法レシピ』薩美佑『侠飯(福澤徹三による同名小説のコミカライズ)』小西明日翔『来世は他人がいい』等々、ヤクザをモチーフにしつつ、掲載誌はバラバラ、傾向もバラバラ、おそらく読者層もバラバラに違いない作品が目白押しなのだ。

 当初は、小山ゆうにとって久々のボクシング・マンガということでは注目を集めていた『雄飛』だが、物語が進むにつれ、主人公である雄飛が、大垣組の親分であった養父のあとを継ぎ、実の家族を奪った極道、峻堂に復讐を果たそうとするまでを主な筋立てとしてきている。11巻、12巻に描かれた烈(いさお)の生涯は悲しかった。ボロボロ泣くね。しかし、この世界に居場所のなかった人間がようやく得た微かなぬくもり、それさえ呆気なく断ち切られてしまうのを見、ああ、さすが『あずみ』の作者だな、と感じ入る。勝太郎とともにボクサー崩れのコンビで雄飛の頼れる仲間となっていくパターンのストーリーを期待させる部分もあったのに、この非情さよ。いつどの登場人物が不幸になろうとおかしくはない、という小山ならではの切り口が、裏社会を駆使することで、よく発揮されているところがある。

 確かに『雄飛』を、ヤクザの血生臭いドラマが繰り広げられている、の一面に押し込めるのは控えたい。戦後の日本を舞台にした長尺のラヴ・ロマンスであるかもしれないし、とある家族にまつわる悲劇であるのかもしれない。システムとしてはまだ整理されていないショー・ビジネスの世界を題材にしているともいえるし、無論、ボクシングでしのぎを削るライヴァルたちの物語だともいえる。成功があり、無念がある。成功は青春を眩しい瞬間として輝かせ、無念は青春を暗い色調の逃れられない筆先で彩る。序盤、主人公である雄飛とヒロインである青葉の複数の視点と複数の時系列とが並行して描かれるトリッキーな構成は、満州から引きあげてきた少年と少女がいかなるサスペンスに巻き込まれるのかを簡単に判断させないものであった。それが女優として売れはじめた青葉に北原慎一というボクサーの恋人ができたあたりで、雄飛をめぐる因縁に視座が落ち着いてきた印象である。

 雄飛がボクサーのキャリアを勝ちあがる一方、養父である大垣を含め、親しい人々が次々と死んでいってしまう。殺されていってしまう。峻堂への復讐の根は深くなるばかりである。それでも雄飛は、周囲の人々の愛情に支えられ、悪鬼に身を落としかねない場面を幾度となく乗り越えていく。容姿にすぐれ、頭脳も明晰であり、身体の能力も達者、さらには気配りも兼ね揃えている雄飛は、ある種の理想像である。男性の登場人物の多くが、戦後の貧しさのなかで雄飛にはなれなかった存在として現れていることは明らかだ。あるいは紙一重で雄飛も彼らの立場になっていたかもしれない可能性として現れている。何が違ったのか。それを運命の一言に集約するのは容易い。が、たとえば、作中では、大垣組のような侠客と峻堂が率いる旭翔会のようなヤクザは(対外的には同種とされながら)本質的に異なる式の倫理を通じ、必ずしも強いられた結果ではないことの線引きが試みられている。

 また、幼い頃の雄飛を保護していたまち子と岡田の影響は、血よりも濃い繋がりによって結び直される運命があることを教えている。もちろん、斥けられない運命もある。まち子が危惧するとおり、真っ当な将来に進むことのできた雄飛が、大垣組の中心に立ち、峻堂への復讐を貫かなければならないことが、それであろう。ボクサーとして日の目を見たにもかかわらず、旭翔会との決着のため、雄飛はボクシングと訣別しなくてはならない。13巻では、その覚悟が、慎一との試合となって描かれており、慎一も、やはり、雄飛の合わせ絵といえるようなプロフィールを持っている。
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2018年02月16日
 魔入りました!入間くん 4 (少年チャンピオン・コミックス)

 それ自体の良し悪しはさておき、ギャグのようだったマンガがシリアスなモードに変調する際のダイナミズムを、この西修の『魔入りました!入間くん』の4巻は持っている。不幸な環境で育ったため、どんなにひどい災難にも慣れてしまった少年、鈴木入間だったが、まさか身勝手な両親が悪魔に自分を売り飛ばしてしまうだなんて思わなかった。悪魔とは、比喩でも何でもなく、あのおそろしい魔界の住人のことである。魔界でも屈指の悪魔、サリバンに買い取られた入間は、しかし、サリバンの孫として大切にされ、彼が理事長をしている悪魔学校(バビルス)に通うこととなるのであった。

 ともすれば『小公子』のヴァリエーションであるような設定を借り、ファンタジーの世界に入っていった主人公が、人間であるという正体を隠しつつ、気が置けない異能の存在たちと騒がしい学園生活を繰り広げていく。と、ひとまずは概要を述べられるであろう。持ち前のおおらかさで価値観のまったく異なった魔界での暮らしに順応しつつ、ある場合には人の良さで魔界のルールを掻き乱してしまう。そのトリックスターぶりが、エリートのアスモデウスや周囲から疎まれていたクララ等々、愉快な仲間を引き付けるのである。

 3巻、4巻と描かれているのは、通常の学園ものにおけるクラブ活動編といえる。新入生としてクラブ活動に相応する師団(バトラ)に従事しなければならなくなった入間は、魔力が乏しい上級生のキリヲに共感し、彼が1人で所属している「魔具研究師団」に入団するのだった。もちろん、アスモデウスとクララも勝手に付いてくるわけだ。が、一見気が弱そうな印象だったキリヲが、実は悪魔学校全体を巻き込むほどの後ろ暗い目論みを果たそうとしており、その目論み、そして、その目論みを阻止すべく奮闘する主人公の姿にシリアスなモードへの変調が現れている。

 このとき、参照されたいのは、悪魔学校の生徒会長であるアメリが、かつて入間に投げかけた問い、入間にとっての「野望」とは何なのか、だろう。「野望」は、自分が成し遂げなければならない「夢」の言い換えでもある。入間の「夢」それは具体的に示されているものではない。けれど、キリヲの「野望」との対決を通じ、わずかにも確かにも垣間見られるものとなっている。そう、他人に絶望を強いようとするキリヲに入間が向けた〈僕は絶望しない(略)全部拾いたい 僕は全部を諦めない〉という断言が、ひたすら頼もしいのはどうしてなのかを軽視してはならない。

 非情であるはずの悪魔と人間とが和気藹々できる程度には、ゆるいマンガである。そのゆるさは、どんな悲惨な目に遭おうとぐれることがない主人公、入間の資質を抜きにしては成り立たない。とにかく、めげない。ポジティヴと判断される資質は、シリアスなモードに変調したところで損なわれることはない。『魔入りました!入間くん』の一貫性にほかならないのだし、それこそが人間としては本来間違っている両親によって突き落とされた困難をくぐり抜けることと悪魔としては本来正しい周囲の存在に何らかの感化をもたらしていくこととを並列にしているのだ。
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2018年02月01日
 ブラザーフッド(3) (サイコミ)

 ふむ、やっぱり、1巻にあった「いいか ヤマト・ムサシ」「オレはお前ら2人をクソ大事に思ってんよ… 血ィつながってねーとか関係ねーから!」「オレはお前ら2人を兄弟だと思ってんよ 兄弟(ブラザー)を大事にしろよ 心にメモっとけ!」というタイトルに直結するかのような言葉が、このマンガの柱なんだなあ、と思わされる。村上よしゆき『ブラザーフッド』の3巻である。

 ヤンキーの実情を知らない新しい世代が、古いヤンキーのイメージに憧れ、不良少年ならではの学園生活をがんがん送っていくことになる。と、こうした筋立ての作品だが、目下の魅力は、不良少年の屈託や荒んだ光景ではなく、若いスタンスの内側から自然と溢れ出てくる軽さや明るさを、何よりの基調としている点にある。ポジティヴな意味で、実に騒がしい内容だといえる。

 軽く、明るい。だが、チャラく、浮ついてはいない。どこかにしっかりと重心が備わっていると感じられる。その重心とは、最初に持ってきた言葉のとおり、血縁でなかろうと兄弟(ブラザー)と喩えることが可能な関係、繋がりを結び付ける力学と密接なものであろう。主人公であるヤマト(山中大和)とムサシ(山中武蔵)を見るかぎり、ヤンキー・マンガの常道であるバディの形式をとってはいるけれど、彼らが血の繋がりがない同い年の兄弟であることに、それははっきりとしているし、彼らを取り巻く状況にまで敷衍されている。

 先に引用した1巻の言葉は、幼い頃のヤマトが憧れていた年上の存在、信兄ちゃんによるものだ。同様の意義は、この3巻で、別の登場人物と別の登場人物のあいだに交わされた会話として、以下のように反復される。〈でもまあ お前 気に入ったぜ〉〈オレの舎弟になれよ…〉〈子分… つーか 手下っつーか… 弟子?〉〈じゃあ兄弟(ブラザー)だ…〉〈舎弟… 血のつながってねー仲間(ブラザー)だ… ブラザーフッドだ〉

 ヤンキーへの憧れが高じ、不良少年が多く通っている黒浜高校に転校してきたヤマトとムサシは、一年でありながら学校の頂上に立つため、番長格である三年の赤城に挑もうとするのだが、もちろん、コトは簡単に進んでいかないのだった。赤城や赤城の亡くなった親友、ガガ、そして、ガガの後輩であり、赤城に敵意を向ける二年の木曽川、彼らをめぐる因縁に決着がつくなかで、兄弟(ブラザー)という言葉は反復されている。反復されることで、マンガの柱となるような強度を増しているのだ。

 軽く、明るい、と述べた。それはコメディのパートが充実しているためでもある。コメディのおかしさは、登場人物と登場人物のあいだの認識のズレ及び登場人物と世間の認識とのズレからやってきている。ヤマトが飛び抜けて馬鹿に見えるのは、ズレの大きさが最も顕著となっているがゆえに、だろう。ヤンキーという過去の文化をリスペクトし、邁進していく勢いが、現代的な当然とのズレを際立たせているのである。
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2018年01月20日
 白星のギャロップ 3 (裏少年サンデーコミックス)

 西連助の『白星のギャロップ』だが、ええっ、これからというところなのに3巻で終了かよ。驚かされたものの、タイトルを変え、再開される旨の予告を見、一安心する。おもしろいもんな。さては鳴海聖二郎の『栄光のギャロップ』とタイトルがバッティングしていることが鑑みられたのかしら、と思う。『白星のギャロップ』(小学館)も『栄光のギャロップ』(講談社)も、競馬の騎手を父親に持った主人公を描いているけれど、父親に向けられる感情が正反対なのは興味深い。そう、『栄光のギャロップ』が父親への憧憬に端を発しているのに対し、『白星のギャロップ』は父親への憎悪に端を発しているのである。

 過労が祟ったのか。女手一つで自分を育ててくれた母親が半ばノイローゼになり、亡くなった。病んだ母親が競馬のテレビ中継にしか反応を示さなくなってしまった末期は悲しかった。しかし、それには理由があった。母親の死後、祖父から自分の父親が実は有名な騎手、藤宮将二であることを教えられた少年、森颯太は、いずれ競馬の騎手となって、こんな目に遭わせたそいつを引きずり落してやろうと誓うのだった。ここまでの3巻に渡って繰り広げられていたのは、颯太を含め、プロの騎手になるべく、競馬学校に入った6人の若者の奮闘である。河合克敏の『モンキーターン』における研修所のパートを競馬のヴァージョンにした感じといったら、イメージしやすいかもしれない。気が置けない同窓たちとの切磋琢磨、友情や反発、一般の学生とは異なった色合いの悲喜こもごもが、少しばかりヘヴィでいて、総体的には軽快なストーリーの上に導かれているのだ。

 登場人物の個性をきっちり押さえ、ちょっとしたプライドやディス・コミュニケーションによってもたらされた葛藤を、過剰に演出するのではなく、滑らかに転がし、苦い後味を残しても丸く収まるようなドラマへと運んでいく手際に優れている。ある意味、主人公の肉親に対する不理解からはじまった物語である。そして、颯太のみならず、他人に対する不理解は『白星のギャロップ』の随所に見かけられるテーマでもある。不理解は、生徒たちの前に、ちょうど障害を飛越する訓練のように立ち塞がる。彼らは皆、自分とは違う他人との共存のなかで、どうしてだろう、という問いに思い悩み、自分とは違う他人との共存のなかに、どうしてなのか、という当たりをつけようとするのであった。必ずしも潔癖には生きられないので、どこかひねくれてしまってはいるが、それでも目標だけは誤るまい。くじけることのない若者のひたむきさが、晴れやかな青春像を造形しているのだと思う。

 いかにして不理解を斥けるのか。これはやがて、颯太と父親の関係にまで適用されることになるのだろう。そこに至る道筋があるのだとしても、物語はまだ、とば口に立ったばかり。厩舎に所属し、ようやく、競馬学校を卒業しようというところで『白星のギャロップ』の幕は下りている。プロの騎手になった颯太の活躍は、予告された続編に期待したい。
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2018年01月19日
 昭和ファンファーレ(2) (BE・LOVEコミックス)

『明治緋色綺譚』及び『明治メランコリア』で、明治の時代を背景に少女の成長を波瀾万丈なラブコメへと落とし込んだリカチだったが、『昭和ファンファーレ』では、昭和の初期を舞台にし、正しくビルドゥングス・ロマンとなるような筋書きのなかに少女の自立を描き出している。

 大人にしてみれば何の役にも立たない少女にとって、たった一つの武器は、その歌声のみであった。幼少編といえる1巻と2巻では、ヒロインである水瀬小夜子がトーキー映画に出会い、歌声で世に出ることを夢見、スタァ(スター)を目指すまでが描かれる。並行して紐解かれるのは、どうして寿司屋の娘にすぎない小夜子に類い希なる才能が備わっているのかという謎だ。現在の環境が母親の再婚によるものであること、本当の父親が別にいることは、物語の一番最初に明かされているのだけれど、実はそれ以上の運命を背負っていたことが、彼女と映画の世界とをより近づけていくのだ。

 先立つ明治のシリーズがそうであったように『昭和ファンファーレ』でも階級や格差の表現はわりとはっきり出ている。スタァを目指す小夜子の動機に金銭への憧れがあることは隠されていない。しかし、あくまでも寿司屋の娘として育てられている小夜子に課せられたイメージは、中流家庭ぐらいのものにとどまるであろう。貧困から逃れようとする決死の姿は、いや、むしろ、小夜子のライヴァルにあたる小鳥遊月子に具体的である。とはいえ、小夜子も月子も、孤児であるような立場に置かれている点に違いはない。そして、それは紛れもなく裕福な者と裕福ではない者との段差から生じているのである。

 しかし、目を引くのは、不幸に浸るよりも幸福を手に入れようとする小夜子と月子の力強さだ。二人の力強さが、いくらでも暗くなりそうな作品に明るい光を当てている。悲劇に陥りかねない局面において前向きな展開を切り開いていくだけの希望となりえている。
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2018年01月17日
 悪童-ワルガキ- 1 (近代麻雀コミックス)

 ギリギリの窮地で勝利できなかろうと一矢報いること、を描かせたら、さすがの志名坂高次である。それは『悪童 -ワルガキ-』の1巻でも見事に冴え渡っている。柿沢鉄男が中年でありながら「ワルガキ」と呼ばれているのは、ケンカ早く、ヤクザを怖れぬほどに肝は太いが、子供には優しい性分のためであった。飲む、打つ、買う、を地でいく男でもある。今日も今日とて、ヤクザと揉めたり、麻雀に興じていたりする。しかし、ああ、まさか。ひょんなことから運命が一変してしまう。いじめられ、自殺しようとした小学生、カイト(片平海人)と入れ替わり、カイトの代わりにその人生を引き受けなければならなくなったのだ。見た目は子供でも中身は大人、の立ち位置に目新しさは少ないかもしれない。けれど、作者ならではのえげつなさが『悪童』というマンガを特徴的にしている。物語の柱は、大きく二つある。一つは、小学生の姿を借りた主人公が、カイトの人生に対し、リヴェンジを果たすことであって、もう一つは、このような目に遭ってしまった主人公が、自分自身の人生、つまりは柿沢鉄男の人生に対し、リヴェンジを果たすことだ。さしあたり、無力でしかない少年が、リヴェンジを進める上で、いかなる優位性を得ていくのか。元手の乏しさを補うための工夫が、麻雀などのギャンブルとして展開されるのだったが、まあ、チョロくはないよね、であろう。むちゃくちゃな条件下、いとも容易く吊り上がっていくリスクが、作品そのもののスリルを倍増ししているのである。

・その他志名坂高次に関する文章
 『バクト』3巻について→こちら
 『凍牌 〜人柱篇〜』3巻について→こちら
 『牌王伝説 ライオン』1巻について→こちら
 『凍牌』10巻について→こちら
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2018年01月13日
 ストーナーやドゥームのファンだったなら、誰もが一度は抱く夢であろう。SLEEPのライヴというのは。しかし、それがまさか叶うとはな。震撼のSLEEP、初来日公演を観るため、1月12日、恵比寿リキッドルームにて行われたLEAVE THEM ALL BEHIND 2018へと足を運んだのだけれど、ぬおお、これが、これこそがストーナー・キャラバンの実体か。脳みそを攪拌されるかのような高濃度の演奏に諸手を挙げるしかねえ。とてつもないステージを体験したのであった。

 ヘッドライナーのSLEEPに敬意を表したのか。目下の新作である『DEAR』のモードを踏襲しているのか。オープニングのBORISも徹底したドローン仕様で、体が震えるほどの低音を唸らせていった。が、ある意味で折り目の正しいBORISのそれとはまた位相の異なったSLEEPのグルーヴに圧倒されてしまう。90年代に3枚のアルバムを残し(さらにはラスト・アルバムとなった『JERUSALEM』の完全版にあたる『DOPESMOKER』が後にリリースされ)伝説と化したSLEEPである。近年、ライヴでの活動を中心に再結成されたわけだけれど、これほどのものとは思わなかった。想像を遥かに超えている。そのすさまじさは正しく奇跡に値した。

 1曲目から仰け反る。「DOPESMOKER」だ。本来であれば、1時間もの長さを持ったナンバーだが、その前半のパートがステージに姿を現した3人によって体現されていく。マット・パイクのギターは、淡々としながらも意外なほどに躍っていて、重たさと鋭さの同居した1音1音に耳をつんざかれる。アル・シスネロスのベースは、ひずんだ低音を怒濤のごとく轟かせると、難なく抑制し、ストーナー・キャラバンのイメージを、より立体的にしてみせるのだった。オリジナル・メンバーではないものの、NEUROSISでも辣腕を振るうジェイソン・ローダーのドラムは、後ろに引いているようでいて、痛快無比な迫力を手加減なしに加えてくるのである。

 他のメンバーに何かを要求したりせず、各人が自分のフォームを貫いているふうにしか見えないのに、それが互いに息を吐くそばから息を吸うかのようなアンサンブルを作り上げていたことに舌を巻く。「DOPESMOKER」のショート・ヴァージョン(とはいえ、20分ぐらいはある)からの流れを途切れさせないまま、セカンド・アルバムの『HOLY MOUNTAIN』を中心にしたセット・リストへと移行するのだったが、気の抜ける場面が一個もない。上半身裸で腹のでっぷりと出たおっさんにすぎないマット・パイクがどうしてすげえ格好良く感じられてしまうのか。音楽そのもののマジックでなければ説明がつかない。美醜の判断を蕩けさせるかのような恍惚を高濃度の演奏は呼び込むのであって、生のそれはスタジオ音源の何倍も強烈だった。

 ともすれば眠たいと錯覚されるスローのテンポを基本としているのもあり、スタジオの音源においてはテンションの高低とサウンドの質とがどれだけ密接なのかわからないところがあった。しかし、実際にライヴを体験してみると、一心不乱のテンションがサウンドの質を支配していることがわかる。派手さはまったくないにもかかわらず、ダウナーというよりアッパーだと叫びたくなる展開が繰り広げられていく。

 ライヴの終盤、再び「DOPESMOKER」が召還される。このとき『HOLY MOUNTAIN』を『DOPESMOKER』がサンドイッチした構成であることが明らかとなった。個々の楽曲はもちろん、紛れもなく独立しているのだけれど、全編に通底したグルーヴがある。リフの厚みがある。ふんだんにある。それが全体を1つの巨大なヴィジョンとして総括している。油断したら丸呑みにされそうな激流のヴィジョンである。およそ90分の内容に、SLEEPのすさまじさを思い知る。
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2018年01月09日
 KING GOLF(31) (少年サンデーコミックス)

 ちょっとこれ、異様な作品になりつつあるな、と思わされる。佐々木健の『KING GOLF』(技術指導・監修、谷将貴)である。少なくとも、18巻の後半からこの31巻にかけての読み心地は、非常に説明のしがたいものとなっている。基本的に、ゴルフを題材としたスポーツ・マンガにほかならない。不良少年である主人公、優木蒼甫が、同じ高校のゴルフ部で名を馳せている霞見ひかると出会い、その不敵な眼差しに導かれ、ゴルフの世界に足を踏み入れていくというプロットをスタート・ラインにしており、彼ら2人のライヴァル関係のなかに異端(トリックスター)VS天才(スーパースター)の対比、それ自体はスポーツ・マンガにおいて決して特殊ではない構図が描き出されているのであった。18巻の前半までは、ひかるとの対決を望み、一度敗北し、再戦での勝利を目標とした蒼甫のディシプリン(訓練と成長)が、ほぼ直線状に表されていた。キャディ編がいくらか変化球じみた試みであったとしても、蒼甫の向こう見ずなスタンスと著しい飛躍とが少年マンガ式のカタルシスをまっすぐ示していたことに違いはない。しかし、19巻のアメリカ修行編を経、帰国後のSSSカップ編を舞台にした20巻以降、作品の様相が異なってき、それは次第に大きくなっているのだ。

 アマチュアでありながらプロのトーナメントであるSSS(トリプルエス)カップへ出場することとなった蒼甫は、試合中、快調に飛ばしていたはずだったが、そこで新たな試練にぶち当たってしまう。同じくSSSカップの予選ラウンドに挑んだひかるも、人生の岐路をまざまざと見せつけられるかのような苦境に立たされていた。21巻から31巻に渡って繰り広げられているのは、4日間に及ぶ大会の2日間に起こったことだ。たった2日の出来事が、およそ10巻分の長さを持っているのである。たとえば『風の大地』や『あした天気になあれ』等、1試合が長くなりがちなゴルフ・マンガのなかにあっても、予選のみでこれは突出しているのではないか。けれど、注意されたいのは、その長さなのではない。その長さが、いかに描かれているかという点なのである。それこそが近年の『KING GOLF』を前に、異様な作品になりつつあるな、と思わされるゆえんとなっている。

 SSSカップの予選2日間では、蒼甫を加えた予選7組の3人とひかるを加えた予選6組の3人の2つの試合が主に描かれていく。だが、それは回想を含んだ上での時系列をときにシャッフルし、複数の登場人物の視点や思惑をときにスイッチし、1個の展開を進めるだけのあいだに様々な迂回を挟み込むかたちで構成されているのである。単に内面の描写によって占められる割合が増えたとえいるし、以前から下敷きにされてきたゴルフはメンタルのスポーツだというガイドラインに沿ってフィジカルの動きよりもメンタルの動きに軸足を置いたストーリーが紡がれているとはいえる。結果、少年マンガ式のカタルシスが後退したのは疑いようがない。爽快さ、わかりやすさが減じてしまったので、登場人物にかかる重たさ、つらさ、苦さばかりが目立つ格好をとっている。正直なところ、ここで怠くなったとそっぽを向く人間もいるだろうね、と思う。だが、それで本当に作品の魅力が引き下げられているのかどうか。個人的には引き下げられてはいないと評価したい。

 蒼甫が入った予選7組の試合内容は、大変タガの外れたものであった。悪意と足の引っ張り合い、プライドを地に落とされた2人のプロの選手がトップを走るアマチュア、蒼甫を陥れようとする。しかし、さすがは我らが主人公、どんどんとエスカレートしていく妨害工作ですらも蒼甫は簡単にかわしてしまう。が、それとは違ったレベルの障害を通じ、蒼甫の快進撃にストップがかかるのだった。自分の積んできた経験が、もう1つの人格を持ち、まるでドッペルゲンガーのように立ち塞がり、重要な1打を次々とぶち壊しにするのだ。他方、予選6組でひかるが一緒にホールを回るのは、なんと彼の2人の兄、霞見家の長男、天司と次男、瞬である。天司、瞬ともにエリートとして知られるプロの選手であって、世間では高く買われているひかるだけれど、兄の立場からすると霞見家の落ちこぼれにすぎないことが明かされる。とりわけ、ひかるが瞬に抱いているコンプレックスやプレッシャーは想像を絶するものであった。弟を忌み嫌う瞬は、狡猾にもひかるの無意識にトラップを仕掛ける。それにはまったひかるは、まともにゴルフをやらせてもらえず、ほとんど自滅しかかっていた。要するに、蒼甫という異端(トリックスター)並びに、ひかるという天才(スーパースター)の避けがたい躓きを、SSSカップの予選2日間は、浮き彫りにしている。果たして、彼らは躓きを乗り越えられるのか。

 蒼甫とひかるが躓きを乗り越えられるのかどうか。あらかじめ述べた通り、それは徹底的に先送りされる。先送りにされながら、積み重ねられていくのは、むしろ、敗北するのかもしれない可能性の方だといえる。いや、ただでさえ、アッパーなノリは抑えられているのに、時系列を入れ替えて回想は挟まれるし、視点や場面の変転が多く、アレゴリカルといおうか、シンボリックといおうか、比喩としての描写や抽象度の高いカットが頻出するので、話を飲む込む際、ものすごいストレスがある。盛り上がらないのはもちろん、すかっとしない。もやもやする。しかし、そうした紆余曲折に目を凝らしたとき、はたと気づかされるのは、ああ、そうか。これはストレスそのものを描こうとしているのだ。はずみから苦境にさらされ、踏ん張るたびに無力さを味わい、もがこうとすればするほど絶望に足を掴まれるかのような極限状態のストレスが、登場人物の姿を借り、具現されているがため、それを見ている側にも相応のストレスを強いるのであろう。いかんせん、およそ10巻分の長さでもって、である。たまったもんじゃない。が、ここまでのしつこさでなければ描けなかった説得力が備わっているのも確かなのであった。

 作品の色合いを違えてしまいかねないストレスは、蒼甫やひかるだけではなく、予選7組と予選6組の全員、そして、予選6組の試合を観戦している霞見家の父親へと波及している。たった2日の短さが、非常に長い時間に引き伸ばされているのも、こうした拡大による。おびただしいストレスのなかで、何度も確認されるのは、他の誰かの背中にこの眼差しを向けること、この背中に他の誰かからの眼差しを受けること、であって、それは物語の当初から一切違えていない作品の意義を同時に主張している。SSSカップが幕を開ける間近、ひかるに告げた蒼甫の〈おい 霞見!! 間違っても横を見て オレの背中を見んじゃねえぞっ!! てめェがオレの背中を拝む時は、このオレにぶっ飛ばされた時だ!!〉という言葉は、2人がはじめて出会った段階で既に発されていた因縁の再演であり、先を進む者と遅れをとった者のゆるまざる緊張は、2人と周囲の関係にまで敷衍される。『KING GOLF』の全体像に与えられた線の太い輪郭にほかならない。自分を踏まえた皆が他の誰かに認められべく戦いを続けている。他の誰かは自分を踏まえた皆に認められるべく戦いを続けている。そのようなテーマを絶えず研ぎ澄ませていった先に、異様な質感と読み心地が生じているのである。
posted by もりた | Comment(0) | マンガ(2018年)
2017年12月07日
 HiGH&LOW THE FAN BOOK~俺たちはみんな、HIROさんに夢見させてもらっていた

 現在発売中の『HiGH&LOW THE FAN BOOK 俺たちはみんな、HIROさんに夢見させてもらっていた』で、シリーズを経るにつれ、作品に生じていった変化を、ヤンキー・マンガに照らし合わせながら書いています。字数の関係で詳しく述べられなかったのですが、最終的に『HiGH&LOW』は車田正美の描く神話に近いものとなったのではないか。とするのであれば、誰が主人公なのかを断定することにほとんど意味はないのであって、琥珀とは『聖闘士星矢』におけるフェニックスの一輝のようなワイルドカードに相応するのではないかというのが自分の見立てであります。
posted by もりた | その他。
2017年11月17日
 DARK BLACK

 11月15日、MUTATIONのライヴを渋谷 TSUTAYA O-NESTへ観に行ったのだった。現在、再結成後のTHE WILDHEARTSを含め、ジンジャー(ワイルドハート)が関わっているいくつかのプロジェクトのうち、最も激しいサウンドを出しているのがMUTATIONであって、それを興味深く見ている自分がいたからである。しかし、ここまでアングリーなムードと緊張感のピリピリと張り詰めたショーを目の当たりにするのは、いやあ、実に久しぶりのことであったよ、と思う。

 バンドの編成は、ジンジャーがギターとヴォーカル、EXIT INTERNATIONALのスコット・リー・アンドリュースがベースとヴォーカル、YOUNG LEGIONNAIREのデンゼル・ピアソンがドラム、というトリオである。ライヴを行うにあたって、サード・アルバムの『DARK BLACK』(2017年)を共作したジンジャーとスコットの2人に、デンゼルが加わった形だ。が、正直、この日のパフォーマンスの中核を担っていたのは、デンゼルの猛烈なドラムだったのではないか。ドラムのキットがステージの前方に出、スコットやジンジャーと横並びになったちょうどその真ん中から叩き出されるリズムには、主役に近い貫禄さえ備わっていた。

 反面、体調の不備と機材のトラブルとで悪い方向にアピールが転がってしまったのは、スコットであった。その危うさがジンジャーやデンゼルにピリピリと張り詰めたアングリーなムードと緊張感とをもたらし、それは次第にショーの全体へと及んでいく。メンバー間のコミュニケーションが明らかにギスギスとし、一触即発に思われる場面もあった。まったくフレンドリーとは呼ばれぬ状態のまま演奏は進められた。けれど、それは必ずしもMUTATIONの音楽性を損なうものではなかった、というのが個人的な感想である。

 MUTATIONの音楽性には、ノイズ・ミュージックやインダストリアル・メタルからインスピレーションが多く含まれている。『DARK BLACK』の「DEVOLUTION」では、かねてよりジンジャーと交流のあるデヴィン・タウンゼントがフィーチャリングされているが、STRAPPING YOUNG LADからの影響をパンク・ロックやグラインドコアの方面に寄せていったらこうなる、との解釈も可能であろう。ジンジャーのキャリアに則せば、THE WILDHEARTSの『ENDLESS NAMELESS』(97年)を引き合いに出せなくはない。基本の路線は、スコットがパートナーとなる以前の『THE FRANKENSTEIN EFFECT』(2013年)や『ERROR 500』(2013年)で既に当たりがつけられていたものだとはいえ、EXIT INTERNATIONALとの共通項をふんだんにしている。

 MUTATIONが指向しているのは、要するにマッシヴであるような音塊を足場に築き上げられたバンド・スタイルのサウンドなのである。メロディアスなパートはあるが、ポップであることやキャッチーであることよりもラウドであることやヘヴィであることを重視している。その無愛想な楽曲の質と、この日の殺伐としたテンションには、どこか類似したものがある。

 もちろん、スコットのモチベーションが途中から散漫であった点は、マイナスととらえられるべきであろう。もうちょっとベースの低音が強力であったなら、インパクトは一段階も二段階も上になっていたのかもしれない。しかし、何せ、初の来日公演だ。万全なコンディションの演奏がどのようなものかは知らない。だが、荒ぶっている風ですらある轟音に直情的なカタルシスが宿っていたのは確かだといえる。ジンジャーが不出来を謝罪した言葉ぐらいしかMCはなく、怒濤のごとく突っ走る。およそ1時間弱のパフォーマンスは、整合性や完成度だけでは計れない。破綻を寸前のところで免れるのにも似たスリルを持っていた。
posted by もりた | Comment(0) | 音楽(2017年)
2017年09月11日
 鬼門街 7巻 (ヤングキングコミックス)

 岩明均の『寄生獣』は名作として残るだろうと思う。が、時代的な背景か、学生が主人公だからか、不良少年や非行少女のモチーフが作品へと流れ込んでいたことを忘れてはいけない。『寄生獣』の影響を受けたと覚しきマンガは少なくはないけれど、それらのほとんどから抜け落ちているのも、その点である。永田晃一の『鬼門街』は、おそらく『寄生獣』の流れを汲んでいる。『寄生獣』の流れを汲んでいる作品群のなかにあって、不良少年のモチーフを顕著にしているところに、独自性を見つけられる内容でもある。主人公は、しかし、不良少年ではない。

 そこが鬼門街と呼ばれるのは、古来より凶悪犯罪が多発するためであった。どうしてなのかが不明なので、鬼の仕業という言い伝えが広まったのだ。主人公の川嶋マサトは、両親とともに鬼門街で暮らしている高校生である。長距離トラックの運転手である父親は家にいないことが多く、口うるさい母親を煩わしく思っている。学校での存在感は薄く、ラーメンの食べ歩きぐらいしか趣味がない。好きな女の子に声がかけられるわけがない。目立っていないかわり、いじめに遭っていないことが救いである程度の平凡な日常に倦んでもいた。だが、その日常は、マサトが眠っているあいだ、自宅に侵入した何者かが母親を殺したことで、いとも容易く壊れてしまうのだった。

 なぜ母親が死ななければならなかったのか。誰が母親を殺したのか。母親の死から三ヶ月経っても犯人は見つからず、世のなかが理不尽であることを肌で感じていたときだ。マサト自身、通りすがりの男たちに暴行され、いま正に命を落とそうとしている。それは死の間際の夢なのか。いや、鬼門街には、本当に鬼が住んでいた。生きたい一心で「豪鬼」と名乗る鬼に魂を売り渡したマサトは、今まで知ることのなかった鬼門街の暗部に深く足を踏み入れることとなるのであった。マサトとマサトに取り憑いた豪鬼の奇妙な二人組(バディ)が、同じく鬼に取り憑かれた人間と次々対峙していく。これが作品の基本的なフォルムだといえる。

 マサトと豪鬼の関係、そして、母親を失ったマサトと父親の関係に『寄生獣』との類似性が見受けられる。強力な異能を手にした少年が、「俺TUEEE」式のフル・スウィングや人類規模の闘争に淫するのであれば、今どきだろう。だが、そうはなっておらず、あくまでもマサトは、日常の生活に踏みとどまろうとし、超常現象のさなかに人間性を手放さないでいようとする。この小さく孤独な戦いの激しさに『寄生獣』の新一に重なり合うものがあるのである。肝要なのは、母親の死に対する責任がマサトの胸中においては非常に大きな割合を占めていることだ。思春期だからこその無関心や、それによって起きてしまった過失を、いかに乗り越えるのか。マサトの等身大の苦悩が『鬼門街』に普遍的で生々しいエモーションを与えているのだと思う。

 5巻と6巻で描かれた出来事は、さらなる苦悩をマサトにもたらした。豪鬼に魂を売り渡したことで人間離れした身体となったマサトが、内面に著しい傷を追わなければならないというのは、アイロニーだろう。どれだけ後悔を繰り返したところで後悔しか生まれないのか。自分にできることは少なく、人間の存在そのものが悪であるかのような悲劇が続くことに、マサトは疲弊し、追い詰められていくのである。追い詰められていくのは、マサトばかりではない。家族の復讐を果たそうとするマサトの父親やマサトの先輩である不良少年の広瀬智也もまた、見舞われた不幸に抗った結果、日常の外側へと進み入ってしまうのだ。とりわけ智也は、この7巻において、もう一人の主人公に近い立場にまであがっている。ケンカに滅法強く無敵に思われた智也だったが、ある種の転落を経、鬼門街の鬼を目の当たりにするのであった。そこで智也に内蔵されたのも、やはり、過失と後悔のテーマであろう。

 先に散々『寄生獣』の流れを汲んでいると述べた。それは決して悪い意味ではない。名高い先行例を下敷きにし、作者ならではの視線を盛り込み、独自性を編み出そうとしているところに『鬼門街』の魅力が生じているからだ。社会からこぼれてしまった犯罪者や不良少年にフォーカスを絞ることで、血生臭いバトルが展開されるに至っていると同時に、暴力を否定するための物語が極めて直接に現れているのである。学校に居場所がなかった少年の憂鬱は『Hey! リキ』の序盤にも描かれていた光景であって、それは鬼や犯罪者と関わり合ううちに変化や成長を遂げるマサトの姿へと受け継がれている。

・その他永田晃一に関する文章
 『Hey!リキ』
  17巻について→こちら
  14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
 『スマイル』(柳内大樹との合作)について→こちら
 『ランディーズ 完全版』について→こちら
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2017年08月21日
 プレイボール2 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

 故ちばあきおの『キャプテン』及び『プレイボール』は、自分にとって正典(カノン)のような作品である。したがって、ちばの家族の後押しがあったとはいえ、その続編を別のマンガ家が描くことには抵抗がある。いや、正直に述べると、コージィ城倉による『プレイボール2』に対し、反対派ですらある。城倉の野球マンガについては(森高夕次名義の原作を含め)決して嫌いではないのだったが、やはり、それとこれとは話が別なのであって、本当にすげえ複雑な気分なんですよ、と思うし、違和感の方が大きい。実際、ちばの絵柄やレイアウトに驚くほど寄せていっているだけに、時折顔を覗かせる城倉らしい語り口に戸惑ってしまうのだ。もしも作者が城倉だと明かされていなかったとしたらどうだったろうか、と想像すると楽しいのだけれど、たとえば、この1巻の58ページ目を見られたい。登場人物のデザインやコマ割り、構図など、城倉の(もしも城倉以外のマンガ家だったとしたら、と仮定するなら、城倉に影響を受けた誰かの)色合いが支配的になっている。こうしたところに難しさを覚えるのであった。しかし、作品の成り行き自体、退屈か否かで判断すると、なかなかに引き込まれるものがあるので、一概には貶せない。そこが弱った点でもある。

 続編を考える際、大まかに前作を知らなくとも入りやすいものと前作を知らないと入りにくいものとの二つに分けられる。『プレイボール2』は、おそらく後者であろう。『キャプテン』で墨谷二中を日本一に導いた谷口が、墨谷高校に進学し、一年生ながらも持ち前のガッツで弱小のチームを引っ張っていくというのが『プレイボール』の概要であって、終盤、谷口は三年生になり、墨谷二中のチーム・メイトだった後輩の丸井やイガラシが墨谷高校の野球部に加わってくると、ようやく『キャプテン』の頃から親しみのある登場人物が揃い、甲子園出場への芽が出はじめたところで『プレイボール』の本編は、終了している。そして、そうした展開のすぐあとを『プレイボール2』は、描いているのである。だが、さしあたり『プレイボール2』では、一年生である井口に対する肩入れが強いような印象を受ける。確かに井口は、『プレイボール』の終盤に出てき、今後の活躍が期待されてはいたものの、活躍それ自体は描かれることはなかった。ファンには周知のとおり、中学校入学以前のイガラシの元チーム・メイトであり、『キャプテン』の序盤、谷口がキャプテンとなって初の試合、イガラシが墨谷二中で一目置かれるきっかけともなった江戸川中のあの井口だ。

 井口は、タイプでいうと『キャプテン』の近藤に近い。高いポテンシャルに比例した自信家であり、傍若無人な態度とトラブルメーカーの資質を兼ね揃えている。問題を起こしかねない井口を危惧した丸井が、まるで教育係を買って出たかのように口うるさく接するのは、『キャプテン』における近藤との関係の反復だといえるし、『プレイボール』の段階で既に墨谷高校のキーになるであろうことを匂わせていたものでもある。城倉は、それを糸口にしながら『プレイボール2』の物語を広げていっている。たぶん、この采配は正しい。他方、生意気なスタンスの井口をめぐるコミュニケーションは、『プレイボール』の引用である以上に、城倉の野球マンガによくある1シーンを彷彿とさせる。先に挙げた58ページ目なども、その一例だといえよう。そこでは『プレイボール』本来の魅力と城倉本人の魅力とが衝突しているのではないか。これが自分の感想になる。もちろん、両者の魅力が合致することで、新しい魅力が生まれているとの感想があっても構わない。あくまでも比喩として述べるのだけれど、谷口と墨谷高校のセオリーに反発的な井口の姿は、『プレイボール』の価値観に向き合う城倉自身なのかもしれない。とするのであれば、両者の融和が本当に現れるのは、まだ先のことであろう。

 いずれにせよ、試合(公式戦)がはじまってみないとわからないところがある。それまでモチベーションのレベルで対立していた野球部の面々が、強敵を前にくんずほぐれつ、試行錯誤することで一丸となっていく姿に『キャプテン』や『プレイボール』のカタルシスはあったという気がする。少なくとも今の時点で、それは現れていない。『プレイボール』は、世評の定まった作品だが、『プレイボール2』の真価が問われるのは、これからの話にほかならないのであった。
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