ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2017年01月22日
 龍帥の翼 史記・留侯世家異伝(3) (講談社コミックス月刊マガジン)

 川原正敏といえば、『修羅の門』が有名だけれど、『修羅の刻』や『海皇紀』等、実は歴史ものや戦記ものの作者としてのキャリアが長い。その川原が『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』で扱っているのは、副題にある『史記』のなかでも「項羽と劉邦」の物語によって知られる箇所である。「項羽と劉邦」は、横山光輝や本宮ひろ志といったビッグ・ネームをはじめ、多くのマンガ家に描かれてきたが、『龍帥の翼』の場合、漢の劉邦に使えた軍師、張良を主人公とし、彼の復讐と立身出世とに重きを置くことで、独自性を導き出そうとしているのではないかと思う。もちろん、舞台は紀元前の中国だ。秦が中国を統一する際、祖国である韓を滅ぼされた張良は、仇である始皇帝の打倒を誓う。それが天命なのか。多勢に無勢で秦に挑み、敗走を繰り返しながらも生き延び、不思議な出会いを経、劉邦の軍に合流するのであった。独自性は、張良や劉邦が(膨大な人口においては、これぐらいの才能はまれではないであろうという意味で)平凡なカリスマとして描かれているあたりにも見られる。作中のレベルはもとより、読者のレベルから判断しても期待値の低い登場人物となっているのである。注意されたいのは、その平凡なカリスマの一人であるような張良が自分の来歴を捏造していくことで、歴史や物語のレベルでの役割を大きくしている点だ。要は、はったりや法螺の類が張良の知性をアピールする手段となっている。通俗的な張良のイメージは、張良自身に創作されたものであって、そこに作者の想像力の入り込む余地が生まれているという仕掛けでもある。はったりや法螺の類であろうと口コミなどの情報を操作し、自分を過大広告することは、インターネットが主流の社会でも頭が良いとされる人たちがやっていたりするので、まあ、現代に通じるところがありますね、といえる。正直な話、張良が現代にいてもおかしくはない平凡なカリスマみたいに描かれているため、彼の活躍からくる盛り上がりは弱い。これを補っているのは、黄石や窮奇といったファンタジーの世界からやってきたかのような登場人物の存在感であろう。本来なら張良の師として伝えられている人間を正体不明の少女にアレンジした黄石と鬼神じみた戦闘力の窮奇とを張良の強力な仲間に据えていることもまた『龍帥の翼』の独自性に挙げられる。いや、むしろ、黄石や窮奇の存在感こそが作品にとっての重要なフックになりえているのだけれど、しかし、主人公の位置を占めているのは、あくまでも張良にほかならない。黄石や窮奇の助けを得た張良が次第に頭角を現していく。やはり、これを抜きにしては成り立たないマンガになっているし、この3巻では、張良を軍師に加えた劉邦にも平凡なカリスマ以上の輝きが備わりはじめているのであった。
2017年01月05日
 Apex III

 年間ベストの類は単純に面倒がくさいから選んだりはしないのだけれど、フランスはボルドー出身のトリオ、MARS RED SKYのサード・アルバム『APEX III (PRAISE FOR THE BURNING SOUL) 』は、2016年によく聴いたものの一つである。実は『APEX III (PRAISE FOR THE BURNING SOUL) 』から遡って過去の音源も手に入れたのだが、ドゥーム・メタルのジャンルに分類されうるスローでヘヴィ、長尺の演奏を軸にしながら、シド・バレットやTHE BEATLESにも通じるようなポップさ、サイケデリックな要素の強く出ているところに、サウンドのおもしろさがあると思う。その音楽性は作品を追うごとに洗練されていき、『APEX III (PRAISE FOR THE BURNING SOUL) 』では、ひずんだ低音が特徴的である以上に、とろけそうなヴォーカルのメロディが一層魅力的になっているのであった。演奏のスタイルは異なれど、ベースが大きな役割を果たし、そこにポップであり、サイケデリックでもあるフィーリングが乗ってくるあたり、レス・クレイプールとショーン・レノンのTHE CLAYPOOL LENNON DELIRIUMを同じ棚に並べることも可能であろう。

 場合によったら、アメリカのDEAD MEADOWを引き合いに出せるかもしれないが、あそこまで籠もった音質でなければ、よりメロディアスな方向に開かれている。無論、エフェクターのたっぷりと効いた低音のうねり、ずっしりとしたリズムの重みを抜きにしては語れない。濃厚なグルーヴに足を取られ、あやしいその魔力にずぶずぶと引きずり込まれてしまうのである。『APEX III (PRAISE FOR THE BURNING SOUL) 』について述べていきたい。ヘヴィな演奏とは距離を置きつつ、同一のフレーズを繰り返すことで神秘的なムードを醸し出した1曲目の「(ALIEN GROUNDS)」からシームレスでタイトル・トラックとなる2曲目の「APEX 3」に突入し、サウンドがぐにゃりとゆがんだ瞬間(それは決して派手な展開ではないのに)異様な盛り上がりがある。低音を寄せては返す波のように持続させるベースの果たしている役割は大きい。そして、コーラスに差しかかり、いななくギター、とろけそうなヴォーカルのメロディ、これらを束ねる構成の見事さがMARS RED SKYならではの独特なイメージを織り上げているのだ。緊張感に溢れ、重たく軋んでいるのに、甘い。甘美というよりほかない。不可思議な陶酔に満たされる。

 ふおお。終盤のパートでドラムの連打にキャッチーなコーラスを重ねた3曲目の「THE WHINERY」が最高に好きである。6曲目の「FRIENDLY FIRE」におけるヴォーカルのメロディ、ギターとベースのコンビネーションには平伏させられる。ボーナス・トラックにあたる8曲目の「SHOT IN PROVIDENCE」までを含め、個々の楽曲の完成度は、非常に高い。さらには個々の楽曲からアルバムの全体像が、あるいはアルバムの全体像から個々の楽曲が設計されていったかのような統一性があり、スペーシーでいて、ドリーミーでいて、ポップ・ソングを思わせる一面を持ちながら、アシッドなロックのダイナミクスが漏れなく宿らされているのであった。ヘヴィという観点に絞るなら、ファースト・アルバムの『MARS RED SKY』(2011年)やセカンド・アルバムの『STRANDED IN ARCADIA』(2014年)にあった激しさが『APEX III (PRAISE FOR THE BURNING SOUL) 』には乏しいかもしれない。だが、洗練を経、マニアックなレベルにとどまらないアプローチとスケールとを手に入れていることは明白だ。

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2016年12月28日
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 この何年かでブラッケンドと修辞されるような(あるいは自らが修辞するような)ブラック・メタルを参照項の1つに置いているのかもしれないダークで木目の細かいサウンドのハードコア・バンドが多く出てきているが、フランスのリール出身、LOVE SEX MACHINEが標榜しているのは、ブラッケンド・ドゥーム、ブラッケンド・スラッジということである。音の触感は、メタリックであり、モダンであって、スローなテンポを基本にしているけれど、真性のドゥーム・メタルやスラッジ・メタルに比べ、攻撃的なダイナミズムが前に出ているあたりが特徴といえるだろう。少なくともファースト・アルバムの『LOVE SEX MACHINE』(2012年)は、ドゥーム・メタルやスラッジ・メタルへの変形が進んだハードコアと判断できなくはないものであった。そうした方向性を汲みつつ、ドローン(持続低音)とノイズとを更に強調していった作品が、セカンド・アルバムの『ASEXUAL ANGER』となっている。ヒステリックな叫びにも似たヴォーカルは強烈だし、アタックの強いリズムには即効性のインパクトがある。しかし、それらと同一のリフを繰り返しながらヘヴィに歪まされていくギターやベースとが、泥沼みたいにずっしり、濃度の高いサウンドを作り出しているのだ。2曲目のタイトルである「DRONE SYNDROME」は、ある種の所信表明にも思われる。うっすらとしたメロディが轟音のなかに浮かび上がる3曲目の「BLACK MOUNTAIN」や4曲目の「AUJESZKY」などには、シューゲイザー(正確にはシューゲイザー・スタイルのブラック・メタルかもしれない)からの影響が現れているのではないか。ラスト・ナンバーにあたる8曲目の「SILENT DUCK」が、最もドゥーム・メタルのマナーに忠実な印象である。実際には様々なアイディアが引っ張られてきている作品だが、なるほど、これがブラッケンド・ドゥームかあ、ブラッケンド・スラッジなんだな、と頷かされるレベルで焦点は定まっている。

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2016年12月22日
 リクドウ 10 (ヤングジャンプコミックス)

 以前、どうして格闘マンガは父殺しのテーマから逃れられないのか、と書いた。その一方で、どうしてボクシング・マンガは父なし子のテーマから逃れられないのか、と考えさせられるときがある。もちろん、すべてのボクシング・マンガが父なし子の背景を持っているとはいえないかもしれない。が、ボクシング・マンガを代表するような作品の多くが父なし子の背景を持っているといえるのである。『がんばれ元気』『リングにかけろ(リングにかけろ2)』『チャンプ』『エイジ』『神様はサウスポー』『はじめの一歩』『Monacoの空へ』『シュガー(RIN)』etc。もしかしたら、これらの源流には『あしたのジョー』の存在があり、ほとんどのボクシング・マンガが『あしたのジョー』のヴァリエーションだとの解釈もできなくはない。それは、ある場合には孤児の姿として現れ、ある場合にはボクサーとセコンドの立場に擬似的な父子の関係をもたらしていく。こうした傾向に、松原利光の『リクドウ』は、意外なほど忠実だ。主人公である芥生リクの殺伐とした境遇は、確かに現代的ではある。現代的であると同時に行き過ぎた不幸が、作品のムードをダウナーに引っ張ってはいる。反面、一種の様式からくるようなカタルシスがあり、決してつらいだけの物語にはなっていない。古典的に見える部分が翻ってエンターテイメントにかかるバランスの面を支えているのだと思う。

 持たざる者の戦いをいかに描くか。これがおそらくは様式の一端を担っている。持たざる者の欲望をハングリー精神と喩えるのであれば、それが闘争を呼び、闘争を通じ、欠落を埋めるための報酬を得ていくことに、カタルシスは由来しているのだ。呪われ、戦い、勝った、のプロットであり、カタルシスであろう。凄惨な幼少時代を過ごし、スタンダードな感情に乏しくなってしまった芥生リクの振る舞いは、今風にいうなら、壊れていると形容されるものである。しかし、異常である以前に持たざる者としての資質が、彼をボクシングのリングに上がらせている点こそ、看過してはならないと思う。むしろ、持たざる者としての資質は、物語が進むにつれ、より明確となっていき、この10巻では、異常であるような眼光の登場人物やライヴァルたちが次々と出てきたことで、リクの欠落と欲望とが実は正常に近いのではないかと判断されるほどになっている。注意されたいのは、リクとリクをめぐる他の登場人物との関係であった。高校を卒業し、施設を離れることになったリクは、幼馴染みである苗代ユキとの二人暮らしをはじめる。異性に禁忌を覚えるリクにとって、ユキは恋人というよりも母親の代替なのではないかと暗示されるシーンがある。リクが所属している馬場拳闘ジムの会長は、高校を卒業したリクを本格的に育て上げるべく、人手を集めようとする。そこで強調されているのは、チームとしての役割なのだが、リクに対するユキの働きかけも会長の働きかけも、家族という概念でリクのイメージを包括するかのような趣向を伴っている。『リクドウ』が家族の不在に寄り添った物語であると読者に理解(もしくは誤解)させうる効果にほかならない。

 しかし、リクの欠落と欲望とが必ずしも家族という概念に包括されないことは、リクをボクシングへと導いた元ボクサーのヤクザ、所沢京介とリクの関係が、他の登場人物とリクの関係に比べ、数段特別に扱われている点で明白だ。自分を救ってくれた京介に対するリクの憧憬には、もしも理想の父親というものがあるのだとすれば、それを求めるのに近い視線が含まれている。こう推定したところで、あながち的外れではないだろう。当然、父親の存在は、家族の枠組みに結びついていくのだけれど、母親の存在とは完全に別個の回路を持っているのである。リクは自分も京介のようになりたいと願う。そのためにボクサーになったのだった。京介のようになりたいとは、赤の他人であるはずの京介を慕い、追いかけ、いずれは追い抜き、京介だけが持っていた何かしらの輝きを手に入れることを意味しているのであって、ここに父殺しのテーマや父なし子のテーマを見つけ出すことができる。

 8巻について→こちら
2016年12月20日
 Draugr

 おや、こんな感じだったっけ。おおもとのデザインはそのままに着こなし方が異なるという印象を持たされた。PORCUPINE TREEのベーシスト、コリン・エドウィンを含む多国籍バンド、OBAKEのサード・アルバム『DRAUGR』のことである。イギリスのPORCUPINE TREEといえば、現代的なプログレッシヴ・ロックの代表格に数えられる。中心人物ではないとはいえ、早い段階からそこに関わってきたコリン・エドウィンだが、OBAKEのサウンドは、PORCUPINE TREEとは結構距離を置いたところにある。スラッジ・メタルやドゥーム・メタルの文脈に近い。ヘヴィな低音を前面に押し出したものだ。咆哮型のヴォーカルがいかつい一方、リズムのパターンには複雑さがあり、アンビエントの要素も入ってきている点に、たとえばNEUROSISやISISを引き合いに出すこともできる。この意味では、確かにプログレッシヴ・ロックであるような一面を有してもいる。しかし、あるいはやはり、ギターとベースの低音が無愛想なほどに徹底され、分厚いリフを粘り強く刻み続けることに、2011年のファースト・アルバム『OBAKE』や2014年のセカンド・アルバム『MUTATIONS』の特徴はあったと思う。だが、『DRAUGR』では、楽曲の展開とメロディのレベルに取っつきやすさが出た。もちろん、ヘヴィなことはヘヴィなのだけれど、クリーンなヴォーカルが大きくフィーチャーされ、以前にはなかった叙情性が支配的となっているのである。場合によっては、インダストリアル・メタルから引っ張ってきたかのようなノイズとクリーンなヴォーカルのメロディとがドラマティックにコントラストを作り出していく。バンドの名前に喩えて述べると、前作までが妖怪変化の類の禍々しさをイメージさせるOBAKEであったなら、今作は朦朧とした幽霊の姿をイメージさせるOBAKEぐらいの違いがある。

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2016年12月14日
 Red Robes

 日本のCHURCH OF MISERYにギターとして参加していたトム・サットンを中心にスウェーデンで結成された4人組、THE ORDER OF ISRAFELのセカンド・アルバム『RED ROBES』である。2014年のファースト・アルバム『WISDOM』と同様、スローやヘヴィであるというよりは、ヴィンテージなハード・ロックに近いタイプのドゥーム・メタルをやっているのだが、演奏の一体感が増し、ソング・ライティングのレベルでも個々の楽曲のまとまりがよくなった。前作以上の内容だといえるだろう。ギターとヴォーカルを兼ねるトム・サットンの歌唱にも、堂々としたところが加わり、いやまあ、依然として抑揚に乏しいことは乏しいのだけれど、BLACK SABBATHのオジー・オズボーンがそうであるように、こうした音楽性にとっては必ずしも不備とはならないし、オカルティックな雰囲気を高めることに十分寄与している。ある種の様式をなぞらえているという点では、個性を見出しにくいサウンドではあるものの、アコースティック・ギターが随所に取り入れられ、そこに物悲しい叙情がもたらされていることを一個の特徴としておきたい。それこそ、アコースティック・ギターの弾き語り、バラードであるような6曲目「FALLEN CHILDREN」を経、7曲目「A SHADOW IN THE HILLS」で、映画音楽的なSEの後、エレクトリック・ギターによるザクザクとしたリフが刻みはじめるくだりは、後半のハイライトに挙げられるのではないか。テンポを落としながらも、リフを基本にしたグルーヴとダイナミックな展開の楽曲がおおよそを占めるなか、意外にも訴求力を担っているは、ヴォーカルとギターのメロディだ。メロディの立ち方それ自体が強いフックとなっているのである。同時代のアーティストを並べるのであれば、アメリカのELDERやKHEMMISらと一緒のカテゴリーにタグ付けをすることが可能なアルバムだと思う。

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2016年12月10日
 熱風・虹丸組 8巻 (ヤングキングコミックス)

 男の子とは、こうでなくちゃいけねえ、と思わされる。それがDNAに刷り込まれたものか、文化的なコードによっているのか、何らかの原体験からやってきているのかは知らないが、オールドスクールな少年マンガのバトルには、どうしたって熱くなる。燃えてしまうのである。リアリズムをかけ離れ、作中の論理が滅茶苦茶に破綻していようと、お構いなしなのは、つまり、不可能が可能に変えられることを描いているためなのだとしておきたい。正確にはヤング誌の掲載だが、今日最もオールドスクールな少年マンガのバトルを全開にしているのが、桑原真也の『熱風・虹丸組』だと散々述べてきたし、これからも述べていくつもりだ。

 ぬおおお。新展開の8巻である。激闘の末、羽黒翔丸が荒吐三郎をくだし、三代目ノスフェラトゥを斥けたナラシナ・オールスターズだったが、めでたしめでたしというわけにはいかない。虹丸組のリーダー、虹川潤は、眼に深刻なダメージを負っており、治療のために九州へと旅立たなければならないのだ。ナラシナ市を離れる潤から虹丸組と十文字誠の遺産を託された翔丸は、しかし、それを引き受けるべきかどうなのか決心がつかないままでいた。このとき、彼らはまだ知らない。翔丸を抹殺すべく、三郎の送った刺客が、すぐそばにまでやってきていた。

 流動明、朱雀優里という新たなる脅威が、物語に招き入れられるわけだけれど、その登場が非常に凶悪なプレゼンテーションを成功させているので、ぬおおお、となる。敵サイドの登場人物の格が、堰を切ったかのようにエスカレートしていくのは、オールドスクールな少年マンガのバトルにおけるパターンであろう。エスカレートを重ねながら、まだまだ魅力的な登場人物が出せてきていることに恐れ入る。明と優里には、主人公である潤や翔丸の存在感を食ってしまいかねないほどのインパクトがある。いやはや、最高にトチ狂っているのである。『熱風・虹丸組』は、おおよそのところ、不良少年や暴走族の抗争劇となっている。三代目ノスフェラトゥや荒吐三郎の登場は、大人レベルの権力と不良少年の対決を思わせたが、明と優里の場合、大人レベルの権力をも悉く壊し尽くすぐらいに圧倒的な殺意と暴力とを横溢させている。

 何せ、暴力団をロケットランチャーで壊滅させ、少年院に入れられ、少年院を出ても日本刀でケンカの相手をぶった斬ったり、ビルを爆破していったりするのだ。要するに、テロリストのイメージに近い。それが新聞紙に載る規模でナラシナ市に混乱をもたらすのだから、やり過ぎだよ、であろう。しかし、こうした難敵を前に一歩も引かないんだ、潤と翔丸はよお、という点に熱くなるのだし、燃えるのである。潤と翔丸がそうであるように『熱風・虹丸組』は、ペアやコンビの関係をテーマの一つにしており、過去、ライヴァルたちの背景にも、三代目ノスフェラトゥや荒吐家の因縁にも、それは見え隠れしていた。明と優里も、やはり、二人一組のペアとして描かれている。ここまでの物語で、おそらくは一番凶悪なペアだぞ。

 明と優里が、いかなる理由で結びついているのか。現段階では、はっきりと明かされていない。とはいえ、絆と喩えるのに相応しい厚い信頼の介在していることはうかがえる。それが二人の並んだ姿に箔を与えている。他方、潤と翔丸の他には代え難い繋がりは、男の子ならではの生き様を、無骨なドラマとエモーションとを紛れもなく象徴したものだ。もちろん、不器用な友情の表現は、オールドスクールな少年マンガのロマンでもある。十文字誠の遺産であるジャケットを受け取ろうとはしない翔丸に向かって投げかける潤の言葉を聞け。〈虹丸組と無限のジャケット… コイツはオレの命だ……… !! この世でオメェの他に誰に任せられんだよ…… !! 翔丸!!〉

 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『疾風・虹丸組』第1巻について→こちら
 『姫剣』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
2016年11月30日
 キミとだけは恋に堕ちない 3 (りぼんマスコットコミックス)

 大昔だったら、フィクションで兄妹(姉弟)間の恋愛が禁断として描かれているのを見ると、ああ、これは本当は血が繋がっていないパターンでしょう、と考えをめぐらすことができたのだけれど、近年では、実際に血が繋がっていようと結ばれてしまうパターンが珍しくはないので、もうそのへんを疑ってみても単にだらしがないだけなのだから深く読み取ったって仕方がねえよな、と思わざるをえないのだった。が、しかし。以下、酒井まゆの『キミとだけは恋に堕ちない』の3巻について、ネタを割った内容となる。

 成績と外見が優秀な二人の兄、透と航とに厳しくも大切にされてきたヒロイン、星崎すばるは、高校に入り、吉田新という同級生で、お調子者の男子と関わり合うようになっていく。同じ高校の上の学年にいる真面目な兄たちに比べ、クラスメイトの新は、ふざけてばかりで信用のならないところが多い―― はずだったのに、どうしてか心が引かれていくのであった。おそらく、こうした1巻からの話の流れで題名の『キミとだけは恋に堕ちない』に示唆されている「キミ」とは、すばるにとっての新のこと、さらには新にとってのすばるのことだ、と読者の少なからずが信じ込まされたのではないか。あるいは、すばると新が相思相愛で付き合うことになった2巻を経、なるほど、これは『キミとだけは恋に堕ちない』つもりでいた二人の偶発的でチャーミングなロマンスに違いない、と作品の方向性を見て取ったのではないか。そうであるとするなら、すばるの二人の兄はロマンスが容易いものではないことを裏付けるための障害にほかならない。だが、3巻において、航とすばるに血の繋がりのないことが(読者と新に)バラされてしまうのである。

 すばると新の交際を渋々ながら容認し、新とも穏当な関係を築いていく航の姿は、良いお兄ちゃんじゃん、という印象を強くしている。それが航とすばるに血の繋がりのないことを(読者と新に)バラすことで、異なったニュアンスを帯びはじめる。すばると新の交際を渋々ながら容認するかのような航の態度は、必ずしも彼の寛容さによっているわけではなく、もしかしたら彼が抱えている抑圧の裏返しであるかもしれない可能性を導いてくるのである。血が繋がっていないとはいえ、すばるとは兄妹であるがために恋愛の感情を表にすることは許されない。そのような抑圧を念頭に置き、作品を見返すとき、『キミとだけは恋に墜ちない』という題名における「キミ」とは、航にとってのすばるを、さらにはすばるにとっての航を意図しているのではないか、と読み替えることもおかしくはなくなるのだ。「落ちる」ではなく「堕ちる」の字が当てられているのは、兄妹間の恋愛が禁断として描かれている以上、象徴的でもある。

 航とのあいだに血の繋がりがないことをすばるが承知しているかどうかは、現時点では曖昧にボカされている。が、重視されたいのは、これまで具体的ではなかった三角関係の構図が、航とすばるに血の繋がりがないという背景を得たことで、くっきりと浮かび上がったと同時に、すばるを中心にした新と航の綱引きへ、今までになかった緊張状態がもたらされている点であろう。この展開が連載の最初から用意されていたのか否かは知れないものの、明らかに物語が異なったフェイズに入ったことを、新と航の緊張状態は教えている。

・その他酒井まゆに関する文章
 『MOMO』
  7巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『クレマチカ靴店』1話目について→こちら
 『ロッキン★ヘブン』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら 
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2016年11月11日
 Re:ロード ( 1) (ニチブンコミックス)

 佐々木拓丸はフィジカルなアクションの描写に盛り上がるものがあると思う。しかし、物語を動かす際、登場人物が内面に何を抱えているかの描写に傾いていくきらいがある。前者に作家性がよく出ていると取るか。後者に作家性がよく出ていると取るか。無論、両者がきっちりと噛み合っているのであれば、それに越したことはないのだが、ヘヴィであったりスリリングに感じられるところが多いのは、おそらく、前者であろう。バンドマンを題材にした『Eから弾きな。』も、実はそうだった。では、新作にあたる『Re:ロード』は、どうか。

 1巻を読むかぎり、『Re:ロード』は、ハードなヴァイオレンスである。ヤクザに復讐を果たそうとする元刑事がヤクザに追われた少女を守るためにヤクザと激しい衝突を繰り広げていくのだ。『極道つぶし』や『SINfinity』の作者が、再びヴァイオレンスの世界に帰ってきたともいえる。魅了されるのは、やはり、銃撃戦や肉弾戦が躊躇いなく人を死なせていくというフィジカルなアクションの描写であって、それが熱量は高いのに殺伐としたテンションを作品に与えている。他方、元刑事である乾昌吉の内面や思考は、それが迷いを見せれば見せるほどに展開の速度を間延びさせてしまう。ただし、そうした迷いによって生じた間のゆるみが、『Re:ロード』のストーリーあるいはテーマにとっては重要なポイントになりえてもいる。

 乾昌吉は、明らかに欠落を抱えた男として現れている。妹をヤクザに殺された過去が現在の彼を表情の乏しい存在にしているのだ。その主人公が、ヤクザに義父母を殺されながらも逃亡を果たした少女、日高真を救うことになったのは偶然でしかない。そして、彼女を追うヤクザが、乾の妹の死に関与した冱們會であったこともまた偶然にすぎない。これらの偶然は、もちろん、話を運ぶ上での都合の良さを兼ねているのだけれど、注意されたいのは、そのような偶然の連なりに乾の欠落が間違いなく暗示されていることにほかならない。なぜ、乾が偶然出会っただけの少女を守らなければならないのか。乾に因縁のある冱們會が相手だという理由は、あとからやってきている。乾の抱えている欠落が、そうさせたのだと考えるべきなのである。

 乾は唯一の肉親である妹を失った。家族を失った。同様に身寄りをなくしてしまった真の姿が、彼の目にどう映っているのか。彼の欠落にいかなる働きかけをもたらすのか。確かに彼の内面が言葉や回想に描写されるとき、コマのスピードは落ちる。だが、それはヴァイオレントな世界そのものに対する抵抗のようにも思われる。乾と真の関係を、冱們會の刺客であるシンは〈現状この2人はお互いが今を生きる為の唯一の糧なんだ〉と、いち早く見抜いてみせるが、しかし、日高真とは、何者なのか。どうして冱們會に狙われているのか。1巻の段階ではっきりとしたのは、乾の正体であって、伏せられ続けている真の来歴は、今後、彼女が物語のなかでの影響力を大きくしていくことを予感させる。
2016年11月09日
 Change of Fortune

 一般的には90年代に一発当てたバンドということになるのかもしれないが、それ以前は米のインディ・シーンをライヴで叩きあげてきたバンドとして紹介されていたんだってことを思い出したね。まさかのSOUL ASYLUM、21年ぶりの来日公演(11月8日)を観ての感想である。

 さすがに21年前は大昔だよ、と述べるしかない。80年代からミネソタ州ミネアポリスで活動していたSOUL ASAYLUMである。アメリカン・オルタナティヴやグランジのムーヴメントに乗ってブレイクを果たしたけれど、次第に人気は陰っていき、ここ最近はかなり地味な存在になっていた。重要なメンバーの死去もあった。現在、オリジナル・メンバーと呼べるのは、フロントマンのデイヴ・パーナーのみだ。『THE SILVER LINING』(2006年)以降、日本盤のリリースがなくなってからもずっと好きなバンドだったが、正直なところ、期待値はちょっと低めで会場のTSUTAYA O-EASTに足を運んだのであった。

 しかし、裏切られたぞ。良い意味で裏切られた。全然ロートルじゃないじゃん。パフォーマンスもエネルギッシュだし、現役のオーラがビカビカしていた。観客の入りは寂しいものだったが、素晴らしい盛り上がりをもたらすまでのステージが繰り広げられていく。セット・リストは、ニュー・アルバムである『CHANGE OF FORTUNE』(2016年)を中心に組まれ、昔の名前で出ています、の懐メロ大会に陥っていなかったのも特筆すべき点であろう。『CHANGE OF FORTUNE』は、決して悪い作品ではない。デイヴ・パーナーの歌い回しは相変わらず特徴的なのだけれど、プロダクションやアレンジがあと少し練られていたなら、もう一段階か二段階ぐらいフックが強まったのでは、と物足りなさを覚えるものがあった。それがライヴ・ヴァージョンでは、スタジオ・ヴァージョン以上の厚みと勢いが演奏へと加わっているせいか、はじけるようなアピアランスを数倍増しにしていたのだ。

 パンキッシュなナンバーでは、挑発的にギターのリフが飛び交い、グルーヴを重視したナンバーでは、ヘヴィな面の出たリズムがのしかかる。『CHANGE OF FORTUNE』に収録された「DON'T BOTHER ME」は、軽やかなアコースティック・ギターを入れたナンバーだが、カラッとしたメロディがなぜかエモーショナルに響くというアメリカン・ロックの奥義を会得したものとして印象を濃くしていた。

 もちろん、過去の代表曲も披露された。実は自分は最大のヒット曲にあたる「RUNAWAY TRAIN」って、そんなにピンとこなかったタイプなので、『GRAVE DANCERS UNION』(1992年)からのナンバーでは、疾走するスピードに切なさの入り混じった「WITHOUT A TRACE」や「SOMEBODY TO SHOVE」に、おお、という興奮を抱く。楽曲のフォーマット自体はシンプルなために決して古びた印象はない。どころか、生き生きとした演奏が楽曲に内包されている普遍的な魅力を一層際立たせていた。メンバー4人のコンビネーションもばっちりで(もう1人、サポートでギターが加わる場面もあったが)ギター、ベース、ドラム、そして、ナイスなヴォーカル、これだけでいかなる魔法が作れるのかを見事に証明していたのである。

 個人的なハイライトは、『LET YOUR DIM LIGHT SHINE』(1995年)に収録された「MISERY」が演奏されたときだ。この日一番の合唱も「MISERY」で起こった。振り返れば、21年前の来日公演は『LET YOUR DIM LIGHT SHINE』のリリースにともなうものであった。確か当時『ロッキング・オン』の鈴木喜之が批判していたと記憶している(記憶違いだったら申し訳ない)が、絶望を歌うことでオーディエンスの共感を得てしまったアーティストが、その共感に追い詰められ、さらに絶望を深めていくという不幸を(たとえ皮肉であったとしても)モチーフとした楽曲に、オーディエンスが共感を寄せることは拭いがたい矛盾を含んではいる。だが、それは絶望が単なる行き止まりではなく、死への憧憬にとどまらないこと、とどまってはならないことをも同時に示していたはずである。グランジの時代が遠くなった現在もなおオーディエンスに投げかけてくるかのようなリアリティを「MISERY」は宿したままだった。

 長いキャリアのバンドである。初期の楽曲をほとんどやらなかったのは仕方がないとはいえ、あの曲やって欲しかった、この曲やって欲しかった、の気持ちは現れてしまう。しかし、不満ではないよ、と思う。非常に堪能させられたショーは、もっと、もっと、という欲求を呼び覚ます。優れていたことの裏返し。必然にほかならない。

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2016年11月02日
 Gold.

 勢いをくれ。面倒くさい何もかもを全部振り切るほどの勢いを。クラッシュした途端、ぐしゃぐしゃになって死んでしまうような勢いを。そして、死すらも忘れさせてくれるような勢い。それを掴めるかどうかは難しいが、しかし、手を届かそうとしていることの確かなサウンドが、米ジョージア州アトランタ出身のトリオ、 WHORES.のファースト・アルバム『GOLD』には備わっている。

 これまで『RUINER』(2011年)に『CLEAN』(2013年)と2枚のEPをリリースしてきたバンドが、ようやくフル・サイズの作品にまで進んだわけだけれど、初期のHELMETやUNSANE(その他、かつてアンフェタミン・レプタイル・レーベルに所属していたアーティスト)等々をロール・モデルにしていると覚しきジャンクなスタイルのヘヴィ・ロックは、基本的に変わらず。だが、EPの頃に比べ、ヒネリのきいたリズムやゴツゴツした手触りが、いくらか抑えられている。かわりに、スピード感がストレートに出、ダイナミズムの通りが良くなった。雑然とした部分が少なくなった点は、評価の分かれるところであろう。

 以前はスラッジ・メタルに近かったニュアンスが、ストーナー・ロックに近いニュアンスへと切り替えられている風でもある。ともあれ、ひずまされたノイズと低音の強調されたグルーヴ、シャープなギターのリフとに魅力の多くがあり、ヤワになったという印象を受けない。攻撃性をペンにしながら、設計図を引いていったその線の太さ、硬さ、鋭さが、細やかなレイアウトのレベルにも影響を及ぼしているイメージである。

 パンキッシュに演奏とヴォーカルとを爆発させる1曲目の「PLAYING POOR」や6曲目の「CHARLIE CHAPLIN ROUTINE」8曲目の「I SEE YOU ALSO WEARING A BLACK SHIRT」ばかりではなく、ハンマーの鈍い一撃に喩えられる圧のずっしりかかった2曲目の「BABY TEETH」や3曲目の「PARTICIPATION TROPHY」10曲目の「I HAVE A PREPARED STATEMENT」にも、ぐしゃぐしゃにクラッシュすることを怖れないかのような勢いが加わっていることに留意されたい。ギター、ベース、ドラムの猛烈なアンサンブルに『GOLD』の醍醐味は示されている気がするのだ。

 イントロから緊張の素晴らしく張り詰めた5曲目の「GHOST TRASH」は、稲光を思わせる。アタックの鮮明な激しさに鬱陶しい何もかもを全部ぶち抜きたい衝動が喚起させられる。
 
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2016年10月28日
 WHILE THEY WERE SLEEPI

 ぬおお、あのCANDIRIAが帰ってきたぞおおお、という快哉を叫ぶには、いくらか物足りなさを含むものになってしまったかな、正直なところ、である。米ニューヨーク州ブルックリン出身のCANDIRIAといえば、やはり、日本デビューを飾り、初来日公演とも重なった通算4作目のフル・アルバム『300 PERCENT DENSITY』(2001年)におけるあのインパクトであろう。ハードコア、ヒップホップ、ジャズ、プログレ等々、あらゆるイディオムを1曲のなかに横溢させたサウンドには、まるでBODY COUNTとKING KRIMSONとが正面衝突したかのようなスリルがあった。黒人のヴォーカルによるストロング・スタイルなラップやスクリームも特徴的だったが、変拍子の目まぐるしいリズムをアグレッシヴに叩きつけてくる楽器隊の技量も非常に際立っていた。続く『WHAT DOESN'T KILL YOU... 』(2004年)では、広い意味でのラップ・メタルに近づき、『KISS THE LIE』(2009年)については、メロディとアンビエンスをかなり増し、つまりは次第にアヴァンギャルドなアプローチは低まっていった。その『KISS THE LIE』以来、約7年ぶりの作品となるのが『WHILE THEY WERE SLEEPING』なのだ。しかし、これが良くも悪くも、現代版のヘヴィ・ロックを高水準でどうぞ、といった印象になっている。2曲目の「MEREYA」や3曲目の「WANDERING LIGHT」の中盤、ジャジーなヒップホップが飛び出してくるあたりに、ああ、CANDIRIAだな、と思わされるのだけれど、楽曲それ自体の方向性は、スクリームとクリーン・ヴォイスのコンビネーションに支配されており、凝ったリズムを重ね、うねりを出していくアンサンブルは、確かに見事な反面、ジェント(Djent)と呼ばれるような複雑な演奏のスタイルが定着した今日、目を引くほどの異色は薄まっている。エクストリームであるか否かの観点で判断するなら、どうしたって物足りなさが含まれるのである。だが、現代版のヘヴィ・ロックのマナーにジャストフィットした作品として見るとき、極めて高水準であることは既に述べたとおり。アルバム全体に何らかのコンセプトが課せられているらしいが、総じてカオティック・ハードコアの過激さであるよりもプログレ・メタルの機能美をうかがわせる。『300 PERCENT DENSITY』を経、『WHAT DOESN'T KILL YOU... 』にもたらされた変化は、2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件や2002年9月のツアー中に起こった自動車事故に関連があるとされている。バンドのキャリアをある段階で区切るとするのであれば、おそらく、それ以前と以後とになるのかもしれない。繰り返しになるが、『WHILE THEY WERE SLEEPING』に、あの『300 PERCENT DENSITY』やサード・アルバム『THE PROCESS OF SELF DEVELOPMENT』(1999年)のインパクトを求めることは難しい。とはいえ、そこから離れていった先のキャリアを総括するのに相応しい完成度のアルバムとなった。

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