たとえば、安西信行や真島ヒロが、真っ向からヤンキー・マンガを描いてくれない、というニーズに対して、田村隆平の『べるぜバブ』は応えているふうにも思われる。あくまでも学園を舞台にしながら、周囲からは荒くれと見なされる主人公が、本質的には立派な硬派であったため、不良ヴァイオレンスと少年ラブコメの展開を通じ、男をあげてゆくことになるのだが、しかし、ファンタジーの浮力を用い、現実離れしている(換言するなら、社会的な責任を逃れているかわり、世界規模の危機を持たされている)ところに、きわめて現代的な必然をうかがえる。
石矢魔高校の一年、男鹿辰巳は、圧倒的な腕力を誇り、県下でも不良の生徒ばかりが通う校内においてさえ、注目を集める。ひじょうにシンプルな性格のせいか、ケンカを売られれば二つ返事で買う毎日であったが、奇妙な成り行きで拾ってきてしまった赤ん坊が、人類を滅亡させるべく魔界より寄越された悪魔の、魔王の息子であったことから、ただですらトラブル続きの学園生活に、さらなるハプニングが、しかも非日常なテンションで、重なってくる羽目になってしまうのである。
男鹿になつく魔王の子、カイゼル・デ・エンペラーナ・ベルゼバブ4世は、外見も中身もまったくの赤ん坊であるけれど、彼の従者であるヒルダやアランドロンが〈まだ幼すぎる坊ちゃまが人間界で魔力を発揮するには 触媒となる人間の助けが必要となるのです / どれ程 巨大な電力があっても それを通す丈夫な電線がなければ意味がないでしょう…それと同じです〉と述べるとおり、その育ての親に選ばれた人間の存在次第では、おそろしい脅威となりうる。それこそ、男鹿の親友、古市貴之が〈もしかして人類の未来って…お前の肩にかかってる?〉と冗談混じりに言っていることは、あながち的外れではなく、作品の、基本の動力を教えている。要は、いち個人のピュアな感覚に世界の命運が預けられてしまうわけだが、こうしたプロット自体は、とりたてて目新しいものではないだろう。古くからよくある。また今日でも、酒井まゆの『MOMO』などは少女マンガのジャンルでありながら、これに近しいパターンを採っている。
男鹿と赤ん坊の関係は、ある種の子育てを装っているが、じっさい(すくなくともこの1巻の段階では)そうではない。単純に、親代わりをする主体に父性とでもいうべき感覚が導入されていないのもあるし、結局のところ、『幽☆遊☆白書』の初期における霊界獣のミッションのような、強制的な依頼を受けているにすぎないので、男鹿はその役割を他の誰かに回してしまいたい。子は親を映し出す鏡、という言葉があるが、赤ん坊が主人公に見ているのは、決して父としての人格ではない。あくまでも、少年性の健康と不健全にほかならないのであり、そしてそれは、学園という身近な規範を目の前にすることで、明解に、いや爽快に際立たされる。
ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年07月05日
2009年07月03日

俗に、エモ、と呼ばれるサウンドは今や、一時のムーヴメントというより、一種のスタンダードになっており、歴史の縦線で見ても、ジャンルの横線で見ても、これだけ広い範囲に伝播、普及し、リアルタイムのかっこうを維持したまま、廃れていない音楽性は、そうあるもんじゃない、と思うのであったが、しかし同時に、インパクトや新鮮さの面で考えるなら、とくに驚くものは聴かれなくなってしまっている。共感のメロディを軸足にしながら展開してみせるかのような基本線は、ある意味、保守的ですらあるだろう。こうした事情を、TAKING BACK SUNDAYの、通算4作目となるフル・アルバム『NEW AGAIN』も違えていないのだけれど、その、青くさいエモーションのドライヴ、男のロマンティシズムをにおわせたドラマの高まりには、随一の輝きがあって、やはり魅せられる。今回から元FACING NEW YORKのマット・ファジーが、サイドのヴォーカルとギターでバンドに加わっているため、彼のインプット次第ではもしかしたら、プログレッシヴ・ロックふうのアプローチなど、多少のモデル・チェンジはあるかな、と事前に踏んでいたのだが、じっさいには従来のイメージを覆すほどの変化はない。なかった。ただし、ギターのリフを含め、リズム全体の表情が豊かになり、02年のファースト・アルバム『TELL ALL YOUR FRIENDS』とはまた異なった激しさをもって、ダイナミズムが盛り返してきている。一方で、だ。繊細なタッチの多くなっていることが、メランコリックな翳りを、より深く主張的にしているというか、サウンドの総和からは、以前にも増して、こく、が出てきているような印象を受ける。
『LOUDER NOW』について→こちら
『WHERE YOU WANT TO BE』について→こちら
バンドのオフィシャル・サイト→こちら
2009年07月02日

今日においては、いかに病的であろうとも、悪人や犯罪者の類をまったくの異常とはせず、彼らにも立派な内面があるとし、それを物語のなかに落とし込むさい、生まれや育ちの問題に還元するというのが、あたかもマナーであるかのようになっている。これが良い傾向なのかそうではいのか、一概には判断をくだせないけれども、サブ・カルチャーの表現を見るとき、すこし注意が必要だと思われるのは、そこからとくに新しいテーマを引っ張り出しているわけではないことが、たいていだからである。要するに、わざわざ、といった程度のリアリティを装っているにすぎないケースが多い。夢がないよね。山本康人の『忍者パパ』は、この7巻で第一部完、いったんのピリオドがつけられているが、クライマックス、家族を守ろうとする主人公と、彼を付け狙う敵役との対決には、もしかすれば遺伝や環境が狂気を生み出す、こうした問題を正しく乗り越えてゆけるだけの力強さを感じられることができ、それが頼もしい。忍者として生まれたばかりに、非情を貫き通さねばならなかった祭のぶ夫は、しかし、現在の妻である綾と出会い、里を抜け、俗世間での平凡な暮らしを選ぶ。やがて、のぶ夫と綾のあいだには二人の兄妹が生まれ、金銭には余裕がないながらも、幸福な家庭を築く。だがもちろん、掟を破ったのぶ夫を、里のトップは許すはずもなかった。家族には自分の過去を隠したまま、差し向けられた刺客を次々打ち破るのぶ夫であったが、かつてライヴァルであった鬼丸の異様な執念の前に、ついに綾と子供たちの身を危険にさらしてしまう。のぶ夫、鬼丸、さらにはのぶ夫に許婚を破棄されたムサシ、三者の思惑が入り乱れての決戦が暗示しているのは、やはり、生まれや育ちによって定められた暗い運命を人は変えられるか、このようなテーマに近しいものだろう。〈わたしは七狗留忍流の里に生まれ……常にエースだった / わたしは鬼丸を返り打ちにして……里を捨てた / 綾との出会いがわたしの人生を一変させた / わたしは幸せを手に入れた… / …ただ…わたしの苦しみは…家族に…血にまみれた過去を明かせないことだった…… 〉とのぶ夫が述べるのに対し、〈11年前…俺はおまえとの闘いに敗れ おちぶれた…みじめだったよ 俺は……絶望の毎日を過ごすだけだった…ただ…生きる糧は…おまえへの恨みの……黒い炎を燃やし続けることだった…〉と言う鬼丸、彼らの分岐はたぶん、運命は一つではないことを教えている。しかして、ムサシが鬼丸に突きつける〈所詮… 貴様は他人を基準(はかり)にしか自分の人生を前に進められない奴よ…〉という言葉は、とても熾烈である。そして、その熾烈さは一方で、のぶ夫とムサシの分岐をも、指しているに違いない。のぶ夫の、血で血を洗うなかでしか生きられなかったはずの運命を変えてしまったものがあるとすれば、綾との出会いであり、家族への愛情にほかならない。さいわいにして彼は、思い遣りのある妻を得ることができた。当然、これは万人にひらかれた可能性を意味しない。とはいえ、それを不可能だと完全に判じた場所で、ただ運命を呪うよりは、希望のニュアンスをたしかに含んでいることが、『忍者パパ』における倫理のたくましさをつくり出している。
2巻について→こちら
1巻について→こちら
2009年07月01日

スズキユカの『おうちでごはん』は、とても和やかな料理マンガである。それはこの3巻も変わらない。しかしどうして、登場人物の言動はみな、忙しなく、わりと落ち着きがないのに、こんなにも穏やかな触感になるのか。極端にいうなら、クレッシェンドのごときドラマ性をうしろへ引っ込めているためだろう。いちおうのストーリーはある。一人暮らしを営む大学生の主人公が、料理の腕前を通じ、アパートの隣人たちと交流を深めてゆくのだが、肝要なのは、あえてそこに過剰な出来事を付け足さないことで、すべてのコミュニケーションが日常の一部に帰する、そのなかから引き出された各人の個性を、作品の和音としているのだ。たしかに、主人公である鴨川耕太のおっとりとした性格に、癒しの効果を見ることもできる(まあ、ね)。だがそれによってのみ、アップとダウンの運動で波打つエモーションが、調停されているわけではない。ここに収められているものでは、餃子の回に、『おうちでごはん』の特徴がよく出ていると思う。単純に、知り合いが集まって、手作り餃子のパーティを開く、というだけの内容なのだけれども、わいわいがやがや、騒がしいはずのやりとりが、ほんとうに羨ましくなるぐらい、ゆったり、チャーミングなスペースをつくる。
1巻について→こちら
2009年06月30日
芦原妃名子の『Piece』は、『砂時計』もそうだったが、一片一片は、わりと見え透いたアイディアであるのに、その織り成しが達者であると、受け取ったとき、こうも胸に響くものになるかあ、という感想を持てる。高校時代の同級生、折口はるかが亡くなった。とくに仲がよかったわけではないけれども、はるかの母親から、彼女が親しくしていた男性を探し当てて欲しい、と依頼された須賀水帆は、過去に所縁のあった人びとと再会し、それぞれの諸事情に関わるうち、現在の自分のありかを掴まえ直してゆく。この2巻では、かつて学校中のアイドルとされていた瀬戸内円や、志望の大学に入れずに浪人生を続けている菅原勇、当時の体育教師であった宮本との接触を通じ、またもやはるかの知られざる一面が明かされる。だがまだ、真相には届かない。はたして彼女は、いったい誰を愛し、身籠もり、堕胎したのか。あえて指摘するまでもなく、はるかの存在もしくは不在は、『Piece』という物語の、中核に置かれた謎として機能しており、まさしくピース(断片)のように散らばった彼女の本質は、探偵の役を買って出たヒロイン、水帆の視点によって総合される。これがすなわちアウトラインとなっているわけだが、そのさい、提供される数々のヒントを、水帆は、ある種の鏡としてのぞき込んでしまう。たとえば、円の恋愛観も、菅原の挫折も、宮本の親子像も、どれもフィクションのケースにおいては、ありふれたエピソードだろう。しかし、ありふれていることが同時に、そうもなりえたという可能性と、そうはなりえなかったという断念の、じつに卑近なエモーションを描き出す。大勢との交渉がはるかの実像を浮かび上がらせるのにつれ、水帆が〈もっともっと丁寧に今周りにいる人たちを大切にしよう〉と思うのは、そして〈…最近 私の中で「はるかさん」が少しずつ“色”を持ち始めてて…〉と思うのは、接し合う人びとに対しての、もはや接し合えない人に対しての、少なからぬ共感のなかに、自分の姿を見ているためである。もちろん、誰もがべつべつの性格を持っている以上、他の誰かを丸ごと理解することはできない。せいぜいがコミュニケーションの一端からイメージされる同調をあてにしているにすぎない。それを、深い隔たり、浅い繋がりととるか、つよい繋がりをもたらせるだけの糸口ととるかは、心の持ちようだといえる。ページをめくって最初のほう、信用、という言葉が、時と場合を違え、いくども繰り返される。言わずもがな、信用することと信用されることは、お互いに一方通行なのかもしれない。だが、そうした一方通行を、とりあえずは前に進もうとする微かな足音が、どこからか響いてくる。
1巻について→こちら
・その他芦原妃名子に関する文章
『月と湖』について→こちら
『砂時計』
10巻について→こちら
8巻について→こちら
1巻について→こちら
・その他芦原妃名子に関する文章
『月と湖』について→こちら
『砂時計』
10巻について→こちら
8巻について→こちら
2009年06月27日

いやはや、天才っているところにはいるもんだな。あまりにもブリリアントなのに驚き、思わず、おいおい、これ、ほんとうに新人さんの作品かよ、と疑ってしまったのであったが、本格的なデビューの前にも第1回「ドラゴンカップ」(講談社『少年マガジンドラゴン』)等にエントリーされていたり、もしかしたら熱心なマンガ・ファンや一部の編集者からはすでに注目を集めていた可能性が高い。結果としては、集英社の第1回『金のティアラ大賞』の大賞を得ることによって登場してきたわけだが、受賞者に与えられる2年間の専属契約という項がなければ、他の出版社からのデビューだって十分にありえただろう。いずれにせよ、破格の新人とは、こういう作家のことをいう。片山あやかの『Star man(スターマン)』、1巻である。
ユキコ(雪野由紀子)17歳、ユキオ(由紀夫)15歳。両親が共働き、出張も多く、留守になりがちな家で暮らす姉弟のもとへ、ある日、突然、小型の宇宙船が突っ込んでくる。惑星「ビーンズ」のマメオ(マ・メオ)と名乗る男は、宇宙船が直るまでのあいだ、自分を雪野家に置いて欲しいと言うが、当然、しっかり者のユキコは眉間に皺を寄せる。しかし、脳天気でお調子者のユキオは、とくに躊躇う様子もなく、マメオの提案を受け入れてしまうのであった。
こうして幕を開ける奇妙な共同生活の風景を、『Star man』は、どたばたとしたコメディのなかに、ほんのすこしのリリシズムを加えながら、描いているのだけれども、あらかじめ述べたとおり、これがまたひじょうに冴え渡っている。なんて言えばいいのだろう。その作風は、きわめてオーセンティックであることと、どこかずれてユニークであること、そしてたいへん現代的であることの、トライアングルの、ちょうどど真ん中を、猛スピードでストライクしてゆく感じ、しいて喩えるなら、矢沢あいが楳図かずおと鈴木志保と東村アキコを参照しながら『ちびまる子ちゃん』を描いたつもりが『コジコジ』になってしまったふうとでもいおうか、とにかく、規格内で遊びつつ規定外のことをやっているような羽根ののばし方をしている。
宇宙人のマメオって、要するに、デヴィッド・ボウイをモチーフにした伊達男だ。ラヴのニュアンスも多少はあるけど、ロマンティック・コメディの、あくまでもコメディとしての自由奔放さ、絵のセンスも構図もテンポもよく、ジャンルに偏らない楽しさを満たしているので、おそらくは今後、より大勢の支持者を掴まえていくことになるだろうね。とても好き。
2009年06月26日

正直、V6についてはあまり熱心じゃないのだけれど、知り合いのshooter(Vinylism)くんが、7月にリリースされるComing Century(言うまでもなく、V6の年少チームによるグループ)のアルバムに楽曲を提供しているアーティストの顔ぶれがけっこう興味深いよ、と言っていたので気になっていたところ、このV6名義のシングル『スピリット』の、初回限定(MUSIC盤)に付属しているボーナスCDが、20th Century(言うまでもなく、V6の年長チームによるグループ)とComing Centuryにわかれ、2曲ずつを収録しているのだが、それらのナンバーもまた、へえ、と思わされるようなアーティストたちによってソング・ライティングされているのを知り、さっそくチェックしてみた次第である。しかし予想以上に、手応えがあった。とくにComing Centuryの2曲が、好ましい。そのうちの1曲「Desert Eagle」は、Spontaniaが手がけたラップ・ソングになっており、岡田くんと森田くんが、まあ用意された詞を指示のとおりやっているだけなのかもしれないが、あんがい器用に韻をおさえている。また、陰湿ないじめの風景を、急な速度、低いトーンでなぞらえる森田くんのパートから、三宅くんの、高い声でメロディアス、ゆったりとした調子のパートに入っていくところのコントラストは、けっこう、あざやか。アコースティック・ギターのループがリズムを刻み、いったんフェード・アウトし、ふたたびフェード・インする終盤、三人のリレーもなかなかで、最後の最後を、森田くんが、ばっちり、かっこうよく決めているじゃない。もう1曲の「Are you ready tonight?」は、スケボーキングのShigeoの手による。スケボーキングといえば、嵐の「a Day in Our Life」が思い出されるけれど、同じミクスチャーの路線でも、「Are you ready tonight?」の場合、もっとずっとエレクトロでダンサブルなテイストに仕上がっている。曲調も相まって、近年のスケボーキングに、かなり近しい。というか、岡田くんはともかく、森田くんと三宅くんが、ハイ・キー、ハイ・テンションで、イエー、と盛り上げるあたりは、そのままスケボーキングみたいであって、逆にもうちょい工夫が欲しかった気もするが、ポップな楽しさに溢れている。

今や立派な評価を得ているマンガなので、いちいち確認するまでもないのだが、それでもやはり杉本亜未の『ファンタジウム』には、感心させられることが多い。この4巻では、類い希なるスター性を買われた長見良少年が、大手芸能プロダクションと契約を結び、派手なプロモーションのなか、これまでになかったぐらいの大舞台を踏まんとする過程が描かれているのだけれども、おそらくは「ESCAPE ARTIST」と題された(次巻へと続く)エピソードのクライマックスにあたるのだろう、驚愕に相応しい脱出マジックの実現に向かって、一連なりのドラマが成立してゆく、物語の動いてゆく、そうした様子の脈々としたところに、ふっ、と掴まれ、引き込まれてしまう。鳥井金庫店の挿話や、もう一人の主人公とでもいうべき北條英明の勤務先であるソシオセキュリティのコネクションや、数々のタイミングが、まるで良のマジシャンとしての欲望に呼応するかのよう、一種の運命的な偶然をつくり出すあたりに、フィクションならではの心地好さが溢れている。一方、そのなりゆきが、うんうん、と頷けるだけの魅力を持っているのは、作中人物の言葉を借りるわけではないが、どんなすぐれたフィクションだって人間先にありき、という理が使えるのであれば、人間の面倒くさい関わりを、適度にデフォルメしながら、しかしピントのぼやけていない精確さで、射貫いているためであって、あんがい北條もそうだし、教師の山村やクロスプロのマネージャーである岩田徹子など、作中の人びとが、まったくの善人でもなければまったくの悪人でもないのはちょうど、良という光をさらに輝かすかのようなプリズムの、多面体の役割を思わせる。そしていくらかの波瀾万丈はまるで、周囲の尽力によって良に集まってくる注目が、はたして彼の一面を見ているにすぎないのかどうかを、試している。
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2009年06月24日
ごく私的な意見を述べるなら、安西信行の『MIXIM☆11』には、超常バトルに満ちた展開ではなく、学園ドラマふうの賑々しさを望む気持ちがおおきい。それは決して、自分が超常バトルよりも学園ドラマのほうを好む、というのではない。むしろ単純に、マンガの趣味をいうのであれば、超常バトルのほうに惹かれることが多いのであって、要は、作者次第、つまりこの場合、安西の適正は学園ドラマに向いているのではないか、と思うのである。そのようなことは過去にも書いた気がするし、じっさいじょじょに超常バトルのモードが増してきている『MIXIM☆11』に関しても、この4巻までを読むかぎり、異性との関係性や同性との関係性のなかに、男の子の、らしさ、を描く、こうしたテーマの、とくに熱く、一方でコミカルな部分は、序盤における学校規模の舞台でこそ、ひじょうに明確であったと感じられる。もちろん、その基本線は現在も変わってはおらず、強大な敵を登場させ、壱松、小梅、竹蔵たち、メインを担う登場人物と対決させることで、勇敢な男の子の像をあらわそうとしているのだろうけれど、いかにもなアイディアのスペクタクルが、芯のつよさを、すこしばかり、曖昧にしてしまう。できることなら女の子を泣かせたくない、傷つけたくない、守りたい。友人との結びつきはとても尊く、いつだって助けられるのと同じく、どんなときも助けになりたい。もしかしたら、このようなモチベーション以外の、プラス・アルファを盛り込みたいせいなのかもしれないが、しかしそれは必ずしも、最大のチャーム・ポイントを生かしていない。
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2009年06月23日
鹿賀ミツルの『ギャンブルッ!』は、この11巻で完結した。連載当初はてっきり、あらゆるギャンブルのまったく合法化された世界という設定を生かし、ロジカルでゲーム性の高いエンターテイメントをやっていくのかな、と予想されたのだけれども、結局、アンダーグラウンドの人間が生死を賭けて騙し合うような、こうしたジャンルの性質上とくに目新しさのない内容となってしまったのを、すこし残念に思う。まあ、基本的には少年マンガの作品だから、ある程度のわかりやすいダイナミズムが必要だったのかもしれず、各人の人間性を掘り下げたり、ドラマを盛り上げていくための、テコ入れに近しい措置であった可能性も考えられるが、決してうまくいってはいなかったかなあ。陰謀たくましいヤクザやマフィア、ギャング、殺し屋たちの、代理戦争としてギャンブルを存在させてしまうのは、むしろ、ステレオタイプ性を高めるだけであっただろう。物語の最後は、法律や倫理の上位で機能するギャンブルが、国家間の戦争すらも代替しうる可能性を示唆し、スケールをひろげるだけひろげて、終わっている。個人的には、こういう『少年サンデー』の系にしばしば見られる素朴な政治観が、すこし苦手である。わざわざ入れなければいいのに。そのことも含め、どうして設定自体を特殊にしておきながら、平凡な個人(もちろん、能力的には天才であってもいい)の単位で、ギャンブルを、そしてマンガを成立させられなかったのか、やはり、この一点が作品の限界と重なってしまっているふうに感じられもする。
4巻について→こちら
1巻と2巻について→こちら
4巻について→こちら
1巻と2巻について→こちら
〈オレらは群れなしてねえと何もできねえって世間からは言われるが…まったくその通りでな / 自分一人のチカラなんざ タカが知れてるって思ってるのさ / オレらにとってマシンやコブシは自分を表す言葉で…決して武器じゃあねえんだぜ! 武器はよ 仲間なんだ!!〉
燃えるし、いいこと言ってんだけどな。そのセリフの熱さほどストーリーには熱くなれないというか。どうしてもつい、吉田聡の魅力はこんなもんじゃねえだろう、という気がしてしまう。
一般的にヤンキー・マンガもしくは不良マンガと見なされるものの多くは、軍記物の現代版だと解釈することができるのだけれど、吉田のマンガの長所はむしろ、そういった潮流とは一線を画すところにあったと思う。しごく簡単に述べるなら、国盗り合戦の下位に青春が描かれているのではなくて、青春の像のなかにときおり国盗り合戦があらわれているのであって、構造上、必ずしも血で血を洗うような抗争劇を必要としていない。すなわちそれが、吉田の作品における、軽さ、あかるさとなっていた。
だが、しかし、この『荒くれKNIGHT 黒い残響完結編』には、真っ正面から軍記物の結構に挑んでいるふうな気配を感じられる。もしかすれば、高橋ヒロシなどの後発が、軍記物のヴァリエーションでしかないことによって成功していることの逆影響なのかもしれないが、あきらかに『荒くれKNIGHT』の本編や『黒い残響編』とは、異なったテイストを発してる。血で血を洗うような抗争劇をベースに、きわめてシリアスなメッセージが組まれているのである。
とはいえ、決して成功しているとは言い難い、というのが個人的な感想で、一つには、軍記物にとって必要不可欠な武将の、とくにそのカリズマが乏しいためで、もちろん、じつはそのことが『黒い残響完結編』のテーマなのであり、『荒くれKNIGHT』の本編を、ある種の歴史における表としたならば、この『黒い残響完結編』は、裏を、すなわち歴史の影にまわされてしまった人物たちの姿を拾い、彼らもまた一人一人が重要な役割を担っていた、と証言するかたちになっているのだけれども、そのとき、作中を生きる面々の個性と作品を成り立たせている軍記物のスタイルとが、うまくはまっていない、との印象を持たされてしまうのだ。
『黒い残響完結編』が、軍記物の現代的なヴァリエーションであることは、あくまでも語り部の口を通じ、先達の武勲が後世に伝えられるという形式からもあきらかだろう。
そう、この3巻で、ふいに挿入されているとおり、湘南のトップを走る輪蛇ではなく、あえて二番手に近い位置の虎武羅を選んだ若い世代、すなわち四代目リーダー候補と目される井脇が、先々代のリーダーであり、現在のチームの基盤をつくった大鳥大悟のレジェンドを、先代の一人、稲垣によって教えられる、そのような追想と継承の形式をとっているのである。まあそれがヤンキーの昔語り、おおげさな口承とどこがどう違うの、といった疑問を、とりあえずストーリーの読み応えはまだ、乗り越えられていっていない。
1巻について→こちら
1話目について→こちら
『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
11巻について→こちら
最終回について→こちら
10巻について→こちら
9巻について→こちら
8巻について→こちら
・その他吉田聡に関する文章
『ジナス』
4巻について→こちら
2巻について→こちら
1巻について→こちら
『湘南グラフィティ』について→こちら
燃えるし、いいこと言ってんだけどな。そのセリフの熱さほどストーリーには熱くなれないというか。どうしてもつい、吉田聡の魅力はこんなもんじゃねえだろう、という気がしてしまう。
一般的にヤンキー・マンガもしくは不良マンガと見なされるものの多くは、軍記物の現代版だと解釈することができるのだけれど、吉田のマンガの長所はむしろ、そういった潮流とは一線を画すところにあったと思う。しごく簡単に述べるなら、国盗り合戦の下位に青春が描かれているのではなくて、青春の像のなかにときおり国盗り合戦があらわれているのであって、構造上、必ずしも血で血を洗うような抗争劇を必要としていない。すなわちそれが、吉田の作品における、軽さ、あかるさとなっていた。
だが、しかし、この『荒くれKNIGHT 黒い残響完結編』には、真っ正面から軍記物の結構に挑んでいるふうな気配を感じられる。もしかすれば、高橋ヒロシなどの後発が、軍記物のヴァリエーションでしかないことによって成功していることの逆影響なのかもしれないが、あきらかに『荒くれKNIGHT』の本編や『黒い残響編』とは、異なったテイストを発してる。血で血を洗うような抗争劇をベースに、きわめてシリアスなメッセージが組まれているのである。
とはいえ、決して成功しているとは言い難い、というのが個人的な感想で、一つには、軍記物にとって必要不可欠な武将の、とくにそのカリズマが乏しいためで、もちろん、じつはそのことが『黒い残響完結編』のテーマなのであり、『荒くれKNIGHT』の本編を、ある種の歴史における表としたならば、この『黒い残響完結編』は、裏を、すなわち歴史の影にまわされてしまった人物たちの姿を拾い、彼らもまた一人一人が重要な役割を担っていた、と証言するかたちになっているのだけれども、そのとき、作中を生きる面々の個性と作品を成り立たせている軍記物のスタイルとが、うまくはまっていない、との印象を持たされてしまうのだ。
『黒い残響完結編』が、軍記物の現代的なヴァリエーションであることは、あくまでも語り部の口を通じ、先達の武勲が後世に伝えられるという形式からもあきらかだろう。
そう、この3巻で、ふいに挿入されているとおり、湘南のトップを走る輪蛇ではなく、あえて二番手に近い位置の虎武羅を選んだ若い世代、すなわち四代目リーダー候補と目される井脇が、先々代のリーダーであり、現在のチームの基盤をつくった大鳥大悟のレジェンドを、先代の一人、稲垣によって教えられる、そのような追想と継承の形式をとっているのである。まあそれがヤンキーの昔語り、おおげさな口承とどこがどう違うの、といった疑問を、とりあえずストーリーの読み応えはまだ、乗り越えられていっていない。
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『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
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・その他吉田聡に関する文章
『ジナス』
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2009年06月22日

自分の運命が自分にしか変えられないっていうんなら自分で変えるしかねえんだ。当初の目的からすれば(雑誌連載型のマンガであるかぎり、それは必ずしも最終的な目的にはならない可能性もあるのだが)、とうとう佳境に入ってきた感のある『聖闘士星矢 EPISODE.G』だけれど、このところすこし、岡田芽武の絵柄が、柴田ヨクサルふうとでもいおうか、微妙なセンスを発揮しているのは気にかかるが、大げさなはったりによって描かれるメッセージは一貫している。つまり、神という観念の前には誰しも無力にならざるをえない、そう定められていることが絶望であるような場所からでも、人は可能性をひらいてゆけるし、希望をともしてゆける、という意欲のパフォーマンス化だ。たいていのスペクタクルがそうであると同様、根拠の厳密さよりも、傾けられたエネルギーの量が、作品の価値をなしているのであって、だからこそ主人公のアイオリアは、他の黄金聖闘士たちに比べ、思慮が浅く、独善的でなければならない。とりもなおさず、感情のままに突っ走るさまが、燃えるよね。激闘の果て、アイオリアの拳がついにヒュペリオンを砕く。互いを認め合いながらも、どちらかがどちらかを倒すよりなかった。アイオリアの胸中を悲しみが満たす。そのとき、まるで彼らの戦いを嘲笑うかのごとき不敵さで、海洋神のポントスは姿を現した。こうして17巻のストーリーは幕を開けるわけだが、ヒュペリオンの敗北すらも、計画通りにすぎないと宣うポントスに対し、〈二人の運命の間に入って邪魔をすンな!!!〉と怒りをぶつけるアイオリアの叫びが、やはり、『聖闘士星矢 EPISODE.G』の本領だろう。しかし、邪悪とはいえ、神は神、ポントスの存在は強大すぎる。そして、ああ、〈我は星座にも神話にも残されぬ神ではあるが / その身の奥に燃えるたった一つの小宇宙(コスモ)に――お前と戦えた事を誇りとして刻み――この炎を永久に灯すと誓おう〉という覚悟を、アイオリアに伝え、今まさに散らんとするヒュペリオンが、せつない。だがそれもまた、あらかじめ仕組まれたものでしかないのか。ヒュペリオンとの約束を守り、クロノスを保護したアイオリアの目の前で、カタストロフィの幕が開く。
15巻について→こちら
0巻について→こちら
14巻について→こちら
11巻について→こちら
10巻について→こちら
9巻について→こちら
8巻について→こちら
6巻について→こちら
5巻について→こちら
